「おくりびと」滝田洋二郎

おくりびと [DVD]

おくりびと [DVD]

「メメント・モリ」(死を想え)
このラテン語を知ったのは藤原新也さんの写真集だった。

ガンジス川のほとりで息絶えた巡礼の死体を喰らう犬
「ニンゲンは犬に喰われるほど自由だ」
とキャプションがついていた。

カメラを見つめる痩せ犬の瞳がうちで飼っていた犬の翔によく似ていて、高校生だった私は藤原さんに「私も死んだら翔に喰べてもらいたい」と手紙を送った。
翔が私の四肢をひきさいて、内臓をひっぱりだして、口と鼻を血まみれにして、喰らう。
その光景を想像し、私は時々恍惚となった。
死者への冒涜なんてコトバは犬に喰わせてしまえばいい。
翔は私より先に逝ってしまったから、その夢はもうかなわないのだけれど。


「おくりびと」はそんな死のエロスを納棺という一つの「型」でとらえた映画だった。
「納棺師」という仕事、1954年の青函連絡船洞爺丸の沈没事故で函館の海岸に多くの被災遺体が流れ着いた際、葬儀業者が商業化して始まったらしい。
葬式前に遺体を清め、時には修復し、着物を着せ替え、美しく化粧をして、棺におさめる。
納棺師がおこなう一つ一つの動作は日本舞踊や茶道の型のように完成されていて、かといって儀式のための儀式にありがちな白々さがなく、とてもリアルで荘厳で、しかも不思議にあたたかい。
様式美の結晶のような納棺を見ていると、「死が生から遠ざけられた現代社会」などという手垢のついた文化論が薄っぺらくみえる。


美しく悲しい「おくり」と同時進行で描かれるのが生を象徴する食と性。
たとえば、死後2週間経過した老婆の遺体を納棺した夜、主人公(本木雅弘)がつぶした鶏を見て嘔吐く。
台所の流しに残った嘔吐物もそのままに、心配して駆け寄った妻(広末涼子)の服を脱がせて抱くのだ。
しわくちゃの鶏の頭と老婆の足の裏。
胃袋から精巣へ移動した食欲。
これはその後に出てくる納棺会社の社長(山崎努)が焼き白子をすすり込むように喰らうシーンと対をなしている。
今死ぬのでないのなら喰い続ける。
そして、他者の命は「困ったことに」(by山崎努)美味いのだ。
生と死は浮世絵のように幾層にも重なり合って存在する。


さらに主人公が元チェロ奏者であること。
高価なチェロを売り故郷に帰って昔使っていた子供用のチェロを持ち出すシーンは、一度おくった過去(遺体)を楽器ケース(棺)から取り出すという象徴の遊びだろう。
女体を模してデザインされたとされるチェロを「抱いて」、主人公は鎮魂の曲を奏でる。


悲しくもエロティックなチェロの調べはこう語りかけているように聞こえた。
「いったい死を想わずに生を愛することなどできようか?」