帰ってきたdogmanXの小説 このページをアンテナに追加

2011-03-01 りふれいん-67-

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三田さん、あんたたちの知りたかったのはこういうことだろう」

風向きが変わったのか、三田の燻らせるタバコの煙がわたしの鼻腔を刺激した。若い時期の一時、タバコを愛飲したこともあったがもう長いこと遠ざかっていた。わたしは不快感を露にするように激しく咳き込んだ。三田

「失礼」

と言い、身体の向きを変えてみせたがわたしの元に煙が届くのは変わらなかった。

「それで、」

元刑事たちのうちの一人が、堪らず、といった調子で口を開いた。

「犯人は君だったということか」

溜息にも似たその口振りにわたしは言いようの無い不満が湧き上がった。その元刑事は小布施駅に着いた際にわたしに突っ掛かって来た男だ。

「そうさ。わたしが殺した。父親の醜い行為を見て我慢なら無かったんだ」

わたしの言葉に男は皮肉に満ちた笑みを湛え

「ありそうな話だ」

と呟いた。

「ありそうな話でいけないのか?殺人事件なんて、みんなありそうな話で出来てるだろ?それともひとつひとつが小説のように意外なものばかりだというのか?」

わたしは男の言い方に腹が立ち、つい喧嘩腰で言い返してしまった。それを遮るように

「そんな話をしてる訳じゃない」

三田が言った。

「君が犯人かどうかなんて、もうどうでもいいことなんだ」

三田は根元まで吸ったタバコを足元に落とし、踏み付けて消した。それからポケットから吸殻入れを取り出すと地面にしゃがみ込み、今消えたばかりの吸殻とさっき踏み付けた吸殻を拾い上げた。

「もうあれから30年だ。とっくに時効だよ」

拾った吸殻を吸殻入れに放り込むことに夢中になっているとでもいうように、三田はわたしの顔を見ようとしなかった。足元の地面を舐めるように見回し、別の吸殻が無いか探しているようだった。

「見付からないな。見付からない」

三田は立ち上がるとわたしに視線を向けながら何度か呟いた。

「無い、のかもしれないな」

「なにが?吸殻?」

「まるでない」

「そりゃそうでしょう。さっきあなた二本拾ったじゃないですか。あれで全部ですよ。今日、あなたは二本しか吸ってないし、他の方々も吸ってないでしょう」

「そっか、そうだったか」

「そうですよ。最初から無い」

「最初っから無いものは、探してみても無いわな」

三田は意味ありげな言い方をした。

「ナイフはさ、なんど鑑識で調べてみても健介以外の指紋は出てこなかったんだわ」

まるでわたしの嘘を暴こうとしているかのようだった。

自殺以外ありえない」

三田はそう断定した。それからまるで何かを思い出すように真っ暗な空に目をやると

「そんな当たり前のことがなあ、自分たちが当事者になってる時は分からねえもんなんだよ」

三田はポケットからタバコの箱を取り出して、しかし考え直したように元に戻した。

「つまりさ、北原さん。あんたはまだすべてを思い出しては無いってことだ」

「すべてを?」

「そう、すべてだ」

ふいに暗がりの中で男たちが動き始めた。正確に言うと、わたしから離れ始めた。今にもわたしを捕縛するかのごとく、わたしを取り囲んでいた彼らがその包囲を解いたのだ。

 明らかに彼らはこの場を立ち去ろうとしているのが分かった。彼らは、彼ら元・刑事たちはわたしを追い詰め、遠い過去の罪を贖罪させる為に集まったのではなかったのか?

「ちょっと待てよ!どこへ行く気だ?」

「私ら、今日はこれで帰ります。お時間を取らせて申し訳なかった」

わたしに背を向けながら三田がそう言った。既に歩き始めていた。途端にわたしは腹が立ってきた。

「待ってくれ!なんなんだこれはいったい。人を罠に嵌めるようなことをして、こんなところまで引っ張り出しておいて!勝手に帰るなよ」

「だから済まなかったと言っている」

「済まなかったで済むかよ!いったいこれは何なんだ?捜査なのか?おい、三田さん。あんたもうとっくに定年だろう。それどころか、もうとっくにあの事件は時効だろう。さっき自分達でそう言ってたじゃないか!だったらこれは何なんだ!わたしをどうしようとしてるんだ?」

「あんたをどうしようなんて、考えてないさ。さっきも言ったでしょう。もうとっくに時効だって」

「だったら何の為にわたしをここまで誘い出した?それに」

そう言って月明かりに照らし出された男たちの顔をひとりひとり見た。だが、どの顔もわたしの疑問に答えてくれようとはしてくれないようだった。

「すべてを思い出してないとはどういうことだ?」

三田が立ち止まった。そして何かを諦めたように首だけわたしに向き直った。

「あなたのお父上が自殺したところまでは分かっている。その後、起きた火事がお父上が放火したのか、それとも君らのどちらか、或いは二人でそうしたのかは分からず仕舞いだが。報告書では父上の放火ということになった」

それから三田くるりと全身で振り返った。黒い上下を着ているせいか、月明かりに照らし出された生首が闇の中に浮いているように見えた。

「まあ、そんなことはどうでもいい。それより私らが知りたいのは、そこから先の記憶なんだ。そこから先のあんたの記憶を知りたかったんだ」

「知りたかった?」

わたしの問いには答えず三田は背を向けた。彼の声だけが闇の中を密やかに伝わって来た。

「或る意味、私らとあんたは共犯のようなもんだから、あんたとともに真実を確認したいと思ったまでのことだったんだが・・・」

共犯?わたしが首を傾げる間に三田は続けた。

「いや、これは我々の身勝手な希望的観測だったのかもしれない。身勝手な思い込みというべきか」

三田の言葉に、男たちから溜息が洩れた。

「それにしても長い長い思い込みだったな。”そうあってくれればいい”などと、刑事が考えるべきではなかったのだ。二十年以上も君を騙して悪かった」

「二十年以上も騙して?」

「ああ、探偵なんて真っ赤な嘘だ。向かいのビルに事務所があるっていうのもね。我々は誰かが東京へ出張に行くたびに、交代で君の様子を窺っていただけだ」

探偵社が嘘だった?しかし、やはり三田はわたしに質問の時間など与えてくれなかった。

「もう、いい。もう、やめにしよう。我々が間違っていたらしい。なんとなくそれが分かっただけでいいのだ」

それから三田は思い出したように言った。

「ああ、そうそう。さっきも誰かが言ったが、もう一度よく思い出してみた方がいい。細かいところで記憶の間違いがあるようだ。まだ思い出したばかりだからね。長い時間の封印が解けて、ようやく蘇った記憶だ。慌てずに、もう一度思い出してみるがいい」

三田と仲間の男たちは闇の中に消えて行った。消える際、こんな言葉が聞こえた。

「あの事件が無ければ、君の少年時代はそう悪いものではなかった」

 彼らは

『そこから先』

と言った。だが、わたしには本当にそこから先の記憶は無かった。

 というより、その時のことも本当のところよく憶えていなかった。ただあの日、由紀を追ってここへ来て、二人の行為を見たのだ。その場面だけは映画のワンシーンのように鮮明に思い出された。だがそこから先、父がどう死んだのかに関してはまるで記憶がない。三田たちにわたしが犯人だという作り話を話したのは、どうせもう時効なのだ、という計算もあった。だが、他の誰かに累が及ぶのが嫌だという考えが一瞬浮かんだからでもあった。他の誰か、と言っても由紀以外の誰も思い浮かばなかった。

 わたしたちの少年時代は、酷いものだったのだ。由紀がああして精神病院にいるのも、こんな過去が原因しているに違いない。もしかしたら父が死んだ直後から、由紀は入院していたのかもしれない。

 なぜ父は由紀にあんなことをしたのだろう?と考えた時、安っぽいストーリーが頭に浮かんだ。会社が倒産し、路頭に迷った家族、母が働きに出て、過労で死んだ、それから何かの縁があったのだろう、父は再婚した、しかし再婚相手の女はあろうことか父の弟と不倫を繰り返す、次第にそれは度を越し、父の弱さに付け込んで、一目を憚ろうともしなくなった、だが父はそれに抗うこともできなかったんだ。結果、父はその鬱憤を由紀に向けたのかもしれない。それは由紀が、不倫を繰り返す妻の連れ子だったからかもしれない。それが父のささやかな復讐だったのかもしれない。

 だが、生贄となった由紀はどうなるのだ?由紀には何の罪も無かったのに。

 突然、耳元で

キキィッ

と嫌な高音が響いた気がした。あの頭痛が蘇ったのだ。次第に収まっていた筈なのに。わたしはそれを記憶が蘇るとともに収束したと解釈していた。それがここに来て、一番酷かった時と同じだけの痛みが訪れたのだ。わたしはその場にしゃがみ込んだ。同時に、父の言葉が一斉に頭の中に流れ込んできた。それは、30年という時間を飛び越えて来たように思えた。

「なあ、たくみ。人間ってのはさ、ひどい生き物だよな」

父はなぜか穏やかに微笑んでいた。こんな醜い場面に似つかわしく無い、爽やかな微笑だった。

「お父さんがさ、大学時代からずーっと研究してたんだよ。アメリカに留学してさ。ゼファックス社っていう大きな会社の展示館で見付けたんだよ、それを。既に骨董品として扱われてた。まだ、何にも使ってないのにだ。どうやら開発した研究者にも、この会社にも使い道が分からなかったらしい。でも父さんには一目で分かった。その技術が何を意味して、どう使えば良いか、いや未来にどう使われるのか、それらのすべてが一気に頭の中に浮かんできたんだ。それは鮮明なSF映画みたいだったけど、父さんにとって確かな未来だった」

ボクには、父が何をいってるのかさっぱり分からなかった。

「会社に入っても、その研究の継続を申し出たんだ。その時、二つ返事でOKだったんだ、あれは嬉しかったなあ。それで、お礼に会社がすぐに儲けられる方法を考えたんだ。そう、子供が使える何か、を考えたんだ」

父は自慢げに微笑んだ。それから右手の人差し指を宙に向け、くるくると回し始めた。

「幸せだったなあ。あの頃、憶えてるか?母さんと海行っただろ。海の中にテトラポットを積んだ小島があって、お前はまだ幼かったのにそこまで泳いで行きたいって言い出したんだ。砂浜から100メートルはあるっていうのにさ。お前を浮き輪に入れて、なんとか泳いでそこまで辿り着いた。小島に上がったお前はテトラポットの隙間を行ったり来たりして、父さんが危ないというのも聞かずトンネルのような隙間を底の方まで降りて行ったんだ。そして古い箱を拾ってきたな。憶えてるか?外国製のそれは、宝箱のような形をしてた。幾ら開こうとしても、鍵が掛かってて開かなくて、家まで持って帰って器具でこじ開けようという話になった。ところが二人で浮き輪を取りに言ってる間に盗まれちまった。盗んだのは近くで遊んでいた子供らのグループに違いない。お前よりずっと大きな、そう小学校高学年くらいかな。大人を見かけなかったから、きっと地元の子供らだろう。奴らは盗んだ宝箱をどこかに隠したんだ。お前が浮き輪に乗り、父さんと二人で小島を離れるまでじっとこちらを見詰めていたから間違いない。なぜそんな話をするのかって?なんでだろうな?突然、そんなことを思い出したんだ。ああ、父さんもさ、同じことをされた経験があるんだよ。父さんにしてみれば宝箱だった。アメリカで見付けた時、それは形が無かったんだ。父さんが宝箱にした。でも、突然テレビで大騒ぎが始まった。アメリカ大統領の顔が一日中、テレビに映ってた。その日から、あっという間だったな。順調だった筈なのに、それを約束してくれたから会社を辞めて、自分で会社を作ったのに、会社はまるで父さんの会社のことなんか知らないとでもいうようだった。わたしの独立を後押ししてくれたかつての上司も、電話を掛けても出なかった、FAXを送っても答えてくれなかった、信越線で4時間も揺られて東京の本社まで行っても秘書から『出張でいません』『いつ帰るか分かりません』という答えばかりだった。そんなある日、会社の電話が鳴った。てっきりその上司が連絡をくれたのかと思った。それで慌てて出たんだ。ところが電話の主は銀行の担当者だった。返済のスケジュールを変更したい、ということだった。『変更?どういう意味でしょう?』という父さんの問いに担当者は『とにかく明日伺います』ということだった。翌日、支店長と担当者が二人で訪れた。彼らの話に父さんは愕然とした。だってさ、長期の約束で借りてた融資を来月返せって言うんだ。『なぜ?いくらなんでも突然すぎますよ』『本社の方針なんです』『そんな、約束が違う』『われわれに言われてもですね、例外は認められないんです』『ですが、来月返せって、そんなことしたら倒産してしまう』『今ね、どこの会社も厳しいんですよ、おたくだけじゃないんです』『もう三ヶ月も親会社から発注がないんです』支店長と融資担当者は顔を見合わせてこう言ったんだ『じゃ、どっちにしろ倒産ですね。そういうことに巻き込まれたくないから回収してるんです』ってな。翌月、父さんは全てを失った。事務所も工場も。でも、それだけじゃ銀行が要求する金額に足りなかったんだ。銀行が送ってきた書類には、びっくりするくらい沢山の0が並んでてさ、数える気にもならなかったんだ。そんな時さ。かつての上司が電話してきたのは。『北原君、大変なことになっちゃったなあ』拍子抜けするほど素っ気無い口振りだった。父さんは連絡が取れなかったことを恨みがましく言ってみたが、まるで無意味だった。『海外へさ、長期で出張に行かされたんだよ』って、軽くいなされてしまった。父さんは返す言葉も見付からず、ただ受話器を握り締めたまま、悔しさをどう表現していいのか分からずただ身体を震わせていた。『なあ北原君、まだ大分借金が残ってるらしいじゃないか』余計なお世話だと思う反面、助けてくれるのだろうか?という浅ましい気持ちが湧いた。でも、それが悪魔の誘いだと気付いた時には手遅れだった」

 父はボクの顔を真正面から見ると、手の甲を二三度こちらに振った。「行け」という合図だったように見えた。小屋の中は炎が天井まで達していた。燃え始めた大鋸屑が、真っ白な煙を発していた。ボクは由紀を抱きかかえた。由紀は意識を失っているのだ。まだ少年のボクが一人で抱えるには、由紀の身体は成長し過ぎていた。小屋を覆う炎から逃げ出すには、今すぐにも引き摺り出すしかなかった。でも、まだ父の話は終わっていなかった。

 父は必死でボクに何かを伝えようとしていた。普段、寡黙な父が始めて自分のことを話し始めたのだ。

「さあ、逃げろ、たくみ。いいんだ、父さんの話なんか聞かなくなって。どうせもう死んでしまうんだからな。ただな、お前が逃げ出す間、勝手に喋らせてくれ。そう勝手に喋ってるから、早く逃げろ。そうだ、それでいい。ああ、たくみ。人間という奴はなんでだろうな?なんで自分より弱い人間を虐めなければ生きていけないんだ?分かってるんだ。父さんには分かってる。正直言うと、あの時は分からなかったけれど、今ははっきり分かってる。あの時、会社はな、父さんが元いた大きな会社のことだ、その会社がな、苦しかったんだよ。倒産しそうだったんだ。それくらい酷い不景気だった。あの頃、大きな会社が沢山、倒産した。あの会社も危機的状況だったんだ。それでさ、考えたんだろう。危機を乗り切る可能性を。結果、父さんの開発した技術に目が留まった。あの頃はまだよちよち歩きの技術だったが、その可能性は専門家なら誰でも分かる。その可能性を売りにして、投資を集めることを考えたんだ。つまりさ、あの巨大な会社が、倒産の技術を再生の切り札だって考えたんだよ。父さんの技術はそれほど高く評価されたんだ。だが、そのためには父さんが不要だった。何しろ知的所有権の重要な部分を全て父さんが持っていたからね。だから父さんを罠に嵌めることにしたんだ。父さんの元上司を使ってね。ああ、銀行だってグルだったに違いない。それで父さんは会社から独立して作った自分の会社が行き詰まった時、元上司から『知的所有権の全てを買いたい』っていう提案をされたんだ。普通の状態ならもちろん考える余地も無い、お断りだ。だが、父さんは取引先や銀行から返済に迫られていたんだ。その額は、父さんが一生かけても払える金額じゃあ無かった。何しろあの技術には無限の可能性があると信じてて、独立する時、会社も全面的なバックアップを約束してれてたんだ。だから父さんは、自分の器を遥かに越える借金をしてしまった。銀行の取立てに苦しみ、いよいよ父さんのすべてを寄越せと銀行から迫られた時、元上司が提案してきた金額は、借金額と一円まで同じだった。でも不思議だったよ。父さんは悔しい気持ちとともに、なんだかホッとしたんだ。これで借金から解放されると思ったら、なんだから気が楽になった。それですぐに捺印してしまった。でもな、たくみ。父さんは馬鹿だった。借金はそれだけじゃなかったんだ。母さんがな、父さんの知らないところでお金を借りていたんだ。それもその筈さ。だって父さんの収入が無かったんだからな。三人で生活していくためのお金なんて無かったんだ。母さんは、美和は責任を感じて働き詰めに働いて、疲れ果てるまで働いてな。なあ、たくみ。人間ってさ疲れ果てると死んでしまうんだよ。美和はな、お前の母さんは、疲れ果てて死んでしまった。お金のために死んでしまったんだ」

既に父の姿は大鋸屑が燻された煙の中に消えかかっていた。ただ炎に照らし出されて真っ黒な人型の影だけが浮かんで見えた。だが、影だけになっても父は語り続けるのをやめなかった。まるで現世への憎しみを、わたしの心に刻んでいこうとでもするように。

「会社は、巨大な組織は父さんから取り上げた技術を使ってな新しい商品を開発した。お前も知ってるだろう。あのゲーム機がそうだ。お前たちが遊んでいるあのゲーム機だ。あれはな、父さんが考案したものなんだ。お前が小学校に上がる前にだ。まだ、あの頃は製品化が出来なかった。まだまだ周辺機器の開発が遅れていたんだ。それがさ、借金の方に取り上げられてから6年も経ったある日、父さんの前に氷川が現れたんだ。氷川って?元・上司の名前さ。もう呼び捨てしてもいいだろ。氷川は言った『君の考案したものが遂に形になった』と。父さんはな、なんだか嬉しかった。あの日、借金の代わりに取り上げられた技術が父さんの元に帰って来た気がした。大企業に捨てられたって思っていたけど、なんのことはない、父さんの技術を元に、父さんが考案した製品を開発していたんだ。そして、いよいよ商品化した今、父さんの元にそれは帰って来たのだって、そう思ったんだよ。だって氷川部長はこう言ったんだ。『ありがとう。君のお陰で我が社は再生した』ってな。あの切れ者の部長が、父さんに向って頭を下げたんだよ。そうして持ってきた試作品を見せてくれた。『まったくもって君の発想は凄い。恐れ入ったよ。社の役員も感心しきりだ』それは父さんがイメージしたものそのものだったんだ。父さんは、再び元の仕事に戻れることを確信した。だって父さんの技術は、巨大企業を再生させたんだからな。だが、次に氷川部長の口から発せられた言葉に、父さんは首を傾げた。意味が分からなかったんだ。氷川部長はこう言った。『実は会社から言われて確認に着たんだ』父さんは『何を?』と問い返した。『あの日、契約書を交わしたのを憶えているだろう?』『契約書?』『そうだ。君の技術に関する契約書だ。それには考案された製品イメージも含まれている』『それが何か?』『それをもう一度、確認したいんだが、いいかね?』『え?ええ、どうぞ』『うん、ここにだな、コピーがある。これをよく見てくれないか』『どこでしょう?』『ここだ、ここ。「今後、当該技術に関するに権利の一切は日電通社に帰属する」というところと』父さんは、ごくりと大きな唾を飲み込んだ。『「北原健介は技術と製品に関する一切の権利その他を放棄し、この開発に関わった事実も喪失する」といったところ』父さんは氷川部長の顔を穴が開くほど見詰めた。彼が次に言い出す言葉が信じられなかったのだ。『何かわたしの顔に付いているかね?』父さんの視線にさすがの氷川部長も驚いたらしい。部長は一つ咳払いしてからこう続けた。『日本も法治国家として先進国の仲間入りをした。こうして法律に則って交わした契約書は遵守しなければならないのだよ』氷川部長の視線が突然、冷たく輝いたようにが見えた。『つまりだ。この商品に関しては君は一切、関わりが無いということなんだ』そしてあろうことか、こんなことを言いだしたんだ。『ただ、それじゃああんまりだと思う。そこで第一号を記念に持ってきた。君に進呈するよ』当然のことながら、父さんはそれを拒否した。はっきり『いらない』とね。『だったら、そう。ええっと。君の友人がいたな。なんて言ったけな。あの不動産屋。彼はなかなか見込みのある男だ。これからの時代、彼のような男は伸びる。これも彼に渡しておく。その後は君らの好きにするがいい』そう言い残して氷川部長は去って行った。それから少ししてだ。たくみ、お前が市村の家に入り浸っているという」

 小屋の中は煙と炎で一杯だった。そこかしこで大鋸屑に火が移り、熱せられた大鋸屑は線香花火のように火花を放って燃え出した。まるで火の付いたマッチ箱の中にいるようだと思った。気を失ったままの由紀を抱えたままここにいるのももう限界だった。父の姿は既に炎と煙の中に消え失せ、生きているのかさえ分からなかった。けれど、ボクの耳には間違いなく父の言葉が聞こえていた。

「淳司君の家に入り浸っていると聞いた。ゲーム機に夢中だと。それは氷川部長が市村に渡したものだ。何の為にそんなことをしたのか?少なからず父さんに罪悪感を感じてのことか?それとも父さんへのあてつけか?それはよく分からなかったが、父さんはひどく動揺してしまった。だからどう出来るというものじゃあない。だが、知らず知らず、学校帰りのお前の後を尾けていた。ゲーム機のことが気になって仕方なかったのだ。なんどかお前に声を掛けて、見せてもらおうと思ったこともあったが、それが何の意味も持たないことも理解していた。だが、父さんはいつまでも市村の家から出てこないお前をずっと外で待っていたんだ。そんなある日『お義父さん?』と呼ぶ声がした。振り返ると由紀だったんだ。由紀は父さんが何度もお前の後を尾けていたことを知っていた。『誰にも言わないよ』と由紀は言ったが、その言葉は逆に父さんの心に不安の種を植え付けてしまった」

 父の声は炎が上げる悲鳴のような音に掻き消され、途切れ途切れとなった。父の命も、何度も終わりを向え、それでもボクにその話を聞かせたい一心でなんとか繋ぎとめているだけに過ぎないのだろう。炎と煙で姿の見えぬ父は、ボクの想像の中で、既に顔は焼け落ち、肉は溶け出していた。しかしボクの耳に聞こえる父の声はひどくはっきりとしていた。

「そう、あの日のことだ。たくみ、お前が市村の、淳司君の家に行ってあのゲーム機に夢中になって、由紀の存在すら忘れていた頃、父さんの不安はいよいよ頂点に達していたんだ。お前の後を尾けていたことを、由紀に見られたから?違う。わたしがなぜたくみの後を尾けていたかの理由など、由紀には想像も出来なかっただろう。父さんの不安とは、そのゲーム機が成功を収めるのではないか?ということだ。不当な手段であの会社は父さんから奪い取った技術を元にあの機械を作ったんだ。ドルショックを発端とするあの不景気の中では、会社から独立したばかりの中小企業など一たまりも無かった。そんな父さんの小さな会社を助けようとするどころか、父さんが研究してきた技術を掠め取ったんだ。あの技術は、父さんの全てといって良かった。父さんが会社から独立して小さな会社を作ったのも、あの技術を一日も早く実用化したからだったんだ。たしかに、あんなひどい不景気の中じゃ自分が生き残るのが精一杯で、他人を助ける余裕なんて無い、という理屈は分かる。だが、父さんには、会社が、銀行や、その他もろもろの取引先に裏で手を回し、父さんからあの技術を取り上げたんじゃないかと、そう思ってしまうんだ。そのために母さんが、美和が死んでしまったんじゃないかって。そう思えば思うほど、お前があのゲーム機に夢中になるのが疎ましく思えた。お前が夢中になるほどに、あのゲーム機の成功が近づいてい行くような気がしたんだ。あのゲーム機の成功は、本当は父さんのものだというのに、それを指を咥えて見ていろというのか!?父さんは、何度もお前に市村の家にもう行かないよう言おうと思った。だが、そのたびに躊躇した。お前に『なぜか?』と問われたくなかったからだ。だが、画面は限界を超え、父さんは市村の家から帰ってくる道の途中でお前を待った。砂山の影で、しかし日が暮れてもお前は帰ってこなかった。父さんは、夢中でゲーム機に没頭するお前を想像すると怒りが込み上げてきた。突然、砂が落ちて来た。ふと見上げると砂山の中腹に子猫がいた。子猫は上に登ろうとしているらしいが、足元の砂が崩れて登れない。それでも必死でもがいていた。『助けてあげよう』父さんの心の中で誰かが呟いた。それが父さんの最後の良心だったのかもしれない。しかしそんなことには気付かず父さんは砂山を登っていった。砂山といっても三階建てくらいの高さしかないのだ。すぐさま子猫の場所まで辿り着いた。子猫は振り向きざま父さんの姿を見ると、更に激しくもがき始めた。せっかく助けに来たというのに、まるで父さんから逃げようとしているように見えた。実際、逃げようとしていたのだろう。それが本能なのか?親から教えられたことなのか?それとも短い生の間に人間の怖さを知っていたのかは分からない。ただ言えるのは、父さんはひどく不愉快な気持ちになったということだ。せっかく助けに登ってきたのに、この態度はなんだ?父さんが自分の足を見ると、靴は砂に埋もれ靴下の中まで砂でいっぱいだった。いっそ、この猫も砂まみれにしてやろうか?などという残酷な感情が沸き起こるのを感じた。それを敏感に感じ取ったのか、子猫は横方向へ移動した。明らかに父さんから逃げようというのだ。小さな身体を機械仕掛けの玩具のように小刻みに動かしていた。よく見ると恐怖からか、激しく震えていた。残酷な感情というものは、そうした事象の積み重ねにより、より増幅するらしい。父さんの中にはこの小さな命を慈しむ心より、それを切り刻む爽快感の方により魅力を感じ始めていたのだ。そう認識するや、まるで血に飢えた捕食者のごとく、命を奪うことの喜びが身体中に沸き起こった。『やめて!』振り向くと砂山の下に由紀が立っていた。暗闇の中、砂山を照らす街灯の輝きが、由紀の表情をいやにはっきり映し出していた。『そんなことしたら死んじゃう!』初めてだった。由紀が父さんの娘になってから、初めて父さんに反抗したのだ。『早く助けて上げて!』由紀の声にわたしは我に返った。手元を見ると子猫が砂に埋まっていた。どうやら砂を大量に吸い込んだらしい。苦しそうにむせ返っていた。だが、やがて呼吸は小さくなり、砂を吐き出す力も弱くなっていった。そして眠るように大人しくなると、そのまま砂の上に横たわった。子猫は死んだのだ。『なんで?義父さん。なんでそんなことしたの!?』由紀の叫び声が間近で聞こえた。いつの間にか由紀は砂山を登ってきていたのだ。由紀はぐったりと横たわった子猫を抱き上げ、父さんを睨み付けてきた」

嗚咽にも似た唸り声が聞こえた。獣の咆哮にも聞こえたそれは、父の悔悟の呻きであることがボクには理解できた。

「これまで見たことも無いような敵意に満ちた目をしていたんだ。由紀は、たくみ、お前も知っているとおり明るくて、よく笑って、父さんのことも、本当の父さんのように慕ってくれていたじゃないか。だがその時の由紀は、まるでそれらが全て嘘だったとでも言うように、憎しみに満ちた目を父さんを見詰めていたんだ。父さんは、父さんの知らない由紀を見た気がした。そして父さんは、由紀が問うているように思えた。猫に対する残虐さの訳を。会社に対する怨み、憤り、騙された自分の愚かさへの悔悟、取り返しの付かない妻・美和の死、それらもろもろの父さんの失態のすべてをさらけ出せと由紀が問うているように思えたんだ。『違うんだ、由紀』と振り絞った言葉は、父さんにも意味不明だった。なぜそんな言葉が出たのか、父さんにも分からない。ただ、父さんはこれ以上、由紀の責めに耐えられなかったんだ。『違う、違う』と父さんの口は勝手に喋り続け、両手は暗闇の中をまさぐり続けた。街灯に照らし出されていた筈の砂山は、いつしか光を失い真っ暗闇になっていた。気付くと、砂山の裏手にある、小屋の中にいた。父さんはズボンが降りているのに気付いた。同時に、由紀を穢したことにも。由紀はまるで叱られた少女がぬいぐるみを抱くように、子猫の屍を胸に抱いていた」

それから父は、なんどとなく由紀を呼び出し、陵辱したのだろう。そうすることで、ゲーム機に夢中になるボクを忘れることが出来たに違いない。それとともに、抵抗する力も無く、巨大企業という腕力に奪われた、自分の人生を忘れることが出来たに違いない。

 やがてボクの目の前で、小屋が崩れ始めた。父の声は燃え盛る炎に掻き消され、生きているのか死んでいるのかすら分からなかった。だが、いずれ数秒後には父は燃え尽きてしまうのだ。ボクは父の影が見えなくなったのを確認すると、由紀を抱え小屋を出た。小屋の外も煙が巻いていた。煙が目に沁みた。ボクは目を瞑ったまま煙から逃れようと由紀を抱えたまま必死で歩いた。誰かが助けに来てくれている筈だという期待は、外れたらしい。人の気配は無かった。どうやら、既に夜の闇が辺りを支配し、きのこ工場で働いていた人々はとっくに帰ってしまったらしい。人家から離れたここで起きた火事に、まだ誰も気付いていないようだった。

がらがら

と大きな音がして、小屋が崩れた。同時に中で燃え盛っていた炎が屋外に吹き出た。真っ暗な夜の闇を切り裂くように、真紅の炎が立ち昇った。

 どこかで

「おーい!火事だぞー!」

と叫ぶ声が聞こえた。どうやらようやく火事に気付いてくれたらしい。ボクらも、ようやく煙から逃れた。由紀を地面に寝かせ、ボクは膝を付いた。小学生のボクにとって、炎の中から由紀を抱えてここまで逃げてくるのは簡単なことではなかった。身体が軋むような気がした。煙のせいか、息が上がっていた。心臓がドキドキして呼吸が苦しかった。そのまま仰向けに寝た。目を開くと星空が見えるだろうと思ったのに、目の前には何かが立っていた。門だった。どうやら工場団地の入り口まで、由紀を抱えて走ってきたらしい。それにしても大きな門だと関心しながら眺めているうち、ふと由紀の嘘を思い出した。由紀は、髭おじさんという架空の人物から、満月の夜くぐると願いが叶うという門の話を聞き、それを見に行くのだなどとボクに嘘を付いたんだ。それはボクと離れ離れに下校して、父の待つここへ来るために付いた嘘だった。だが、目を少し横に向けると満月が見えた。由紀の話が嘘でも構わない。ボクは由紀に騙されて、この門に向って願いを掛けることにした。くぐってはいないが、ちょうど門の真下にいるのだ。

 さて、何をお願いしようかと考えて、ボクは戸惑った。昨日までなら「ゲーム機が欲しい」と願っていただろう。だが、父のあんな話を聞かされたら、そんなことはお願いできない。というより、ボクはこれから父のいない子供として生きていかなければならないのだ。そして、警察は父が由紀に犯した罪も暴くかもしれない。そうなればボクには恥ずべき人生しか待っていないのじゃないか?

 いろいろ悩んだ挙句、ボクが願ったのは、今日起きた全てのことを忘れてしまいますように、ということだった。願い終わった時、遠くから人の声が聞こえた。何人もの声と、半鐘を鳴らす音。火事の消火に来たのだ。ボクはなんだがホッとして目を瞑った。そのまま意識が薄れていった。薄れる意識の中で、煙を沢山吸い込んだからか、ひどい頭痛を感じた。この頭痛を感じる度に嫌な思い出を思い出さなければいいが、と少し心配になったものだった。

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「知ってトクする保険の知識」連載中

2011-01-13 りふれいん-66-

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「その時、父と由紀は裸で抱き合っていた。それがどういう意味か、裕二や淳司らから聞いていたから頭では分かっていた。それがいけなかったのだ」

三田はもう、わたしに質問などして来なかった。

「その時のわたしは、きっと由紀のことも奇異な目で見ていたに違いない。由紀が怒り狂ったように叫ぶ声を今でも憶えている」

三田も、他の男たちも後ずさりするように、闇に紛れた。

「父が一方的に由紀を抱いていたのかもしれないが、その時のわたしには抱き合っているように見えたんだ」

わたしは、その時の光景を思い出した。20年、いや30年以上、忘れていた光景だった。正確に言えば、忘れ去ろうとした光景に違いない。わたしの思いを察してか、三田が闇の中から語り掛けてきた。

「そんなことがあったんだな。当時の捜査では分からなかった」

まるで殺意の原因をようやく突き止めたというような口振りだった。

三田さん、逆に聞きたいがなぜそんなこと分からなかったんだ?」

わたしの問いに三田は戸惑いを見せたが、何かを諦めたように言った。

「うん、そうだな、それは、君がわたしらの前から姿を消したから、と言えば良いのかな?」

「わたしが姿を消した?」

「ああ、どうやら憶えてないようだが」

三田が点けたライターの火が、刑事たちの顔を映し出した。やがて火は、三田が咥えたタバコに移った。タバコの先が赤々と燃え上がると、その光がわたしの表情を映し出したような気がして、慌てて顔を背けた。

 わたしはひどく後悔していたのだ。自分の判断の誤りにひどく後悔をした。当然のことだが、それを話すかどうかでわたしは悩んだのだ。短い時間だったが、とても悩んだ。由紀を傷付ける事実だからだ。義父とはいえ、自分の父に犯された過去など今更、掘り起こされたくないというものだ。わたしも出来ればそこは避けて通りたかった。だが、恐らく彼らは、この元・刑事たちは当然のこととして知っているものだと思っていた。そして、それ以上にその部分が無ければ話の辻褄を合わせるのが直一層難しくなると思ったのだ。

 しかし刑事たちは知らなかった。あるいは、かつては知っていたのかもしれない。しかし長い時を経た今、そんな事実はすっかり忘れ去られてしまったらしい。彼らはまったく違うことに関心があるようだった。


 その時の光景をボクは死ぬまで忘れられないだろう、と思った。実際にはそれからすぐにすべてを忘れ去ってしまうらしいのだが。

 とにかく、なぜ二人がそんな格好で抱き合っていたのかについては、裕二から聞いていた大人の男女の行為だったように思う。そして裕二が言うように、それは子供には見せたくないもので、だから父はボクに必死で否定したんだ。でも同い歳の由紀が、それをしていたことがボクにはひどく気に掛かった。ボクの知らぬ間に由紀は大人の仲間入りをしていたのだろうか?

 それに、とボクは思ったんだ。裕二から聞いたところによれば、それは子供を作る為に行うのだという。でも父に義母がいる筈で、子供が欲しいのであれば義母とすれば良いのに、と思った。もっとも義母は既にマサ兄の子供を産むつもりで、もう父の相手はしてくれないのかもしれない。だからといって由紀を相手にするのは、子供のボクが考えてもおかしなことだった。

 でも裕二はこうも言っていた。それはなぜか気持ち良くなるので、子供が出来ないようにして、ただ気持ちよくなるためだけにする大人も多いという。それで父と由紀は気持ち良くなるためにしていたのだろうか?

 ボクはそんなことを考えながらも、父と由紀がしていたことを自分なりに理解しようと努めていた。だが、ボクは父と由紀に対する嫌悪の念が湧き上がるのを抑えられなかった。

「たくみ、違うんだよ!」

父が大きな声で叫んだ。でも、ボクにはそんな声は聞こえなかった。ただ父が口をパクパクさせているのと、由紀が脱ぎ捨てられた服を抱き締めているのが見えた。

 ボクはまだとても子供だったが、何も分からないほど子供じゃなかったんだ。もう少し、ボクが無知であれば、何ごとも起こらなかったに違いない。でもボクは壁際に設置された棚の上の容器を一つ手に取った。中には大鋸屑がいっぱいに入っていた。エノキの菌を打ってある筈だった。ボクはそれを二人に投げ付けた。一つだけでは何も起こらなかった。またボクのコントロールが悪過ぎて、二人の足元にも届かなかったのだ。だからもう一つ、いや左手にももう一つ、合わせて二つ持って、交互に投げ付けた。右手で投げたものは父と由紀の間をすり抜けて向こうの壁に当った。だが、左手で投げたものは見当違いの方向へ飛んで行ったように見えたが、天井に当たり父と由紀の頭上へ降り掛かった。

 ボクは繰り返し繰り返し投げ付けた。壁にあるもの全てを投げ終わるまでそれは終わらないだろう、とボクの中の醒めた誰かが言っているのが聞こえた。でもその前にボクは辞めたんだ。なぜなら由紀の叫び声を聞いたから。初め

「やめて!」

と言ったように聞こえたが、よく思い出してみるとそれは単に「きゃー!」と叫んだだけだったかもしれない。それとも「ぎゃー!」という悲鳴だったような気もする。いずれにせよ由紀のそれはボクの行為を止めるに十分だった。それはボクがこれまで聞いたことがなかった声だった。

 ふと目の前を見ると男の死体が横たわっていた。男が床に寝ているの、と思っても良いのに、何故かボクはそれが死体だと知っていた。由紀が泣き声が聞こえた。それがボクのすぐ目の前なのは分かっていたが、暗くて由紀の泣く姿は見えなかった。由紀は、ちょうど電灯の陰に隠れていたのだ。小屋の中を暖めるための電灯は黄色い光を発し、明るさは無いくせに酷く眩しかったのだ。

「父ちゃん?」

ボクは誰に訊ねたんだろう?誰も答えてくれる人はいないということは分かっていたが、ついそれを口に出してしまった。お陰で由紀が尚更大きな声で泣き始め、ボクに対する恨み言さえ並べ始めた。

「だから付いて来ないで、って言ったのに!なんで分からないの!この馬鹿!馬鹿たく!」

ボクには反論の余地は無かった。たしかに由紀はボクに言った。

満月の日にね、お月様の影が鳥居の下を通る時、そこにいると願いが叶うんだって』

だから一人で神社に行くのだ、と。でもボクに言わせれば神社なんてどこにないんだ。あるのは切通しと、その向こうにあるキノコ工場だけだった。

 だが、切通しの間を通る線路の、その両脇に立つ鉄柱。地面から生えたように足元は草むらに覆われていたそれは、パンタグラフに電機を伝えるための電線を吊るためのものだ。そのため線路の両脇に立った二本の鉄柱は、空中で二本の鉄の梁によってつながれていた。それは鉄製の鳥居に見えなくも無かった。切通しのこちらの世界と、向こうの世界を遮る鳥居の役目を果たしているようにも見えた。その日ボクは、由紀の行き先を目指して一人鉄の鳥居をくぐったのだ。夕陽を背に受け鳥居の影はどこまでも長く伸びていた。伸びた先にはひと際巨大な工場が見えた。一番新しく、一番大きいそれの板金製の屋根は全面に受けた夕陽を神々しく跳ね返していた。

 小屋は、つまり板金製の神社の脇にぽつんと立っていたのだ。裏手と言ってもいい。実際、位置的には一番巨大な工場の東北側にあったから、夕陽を遮られそこだけ既に夜のように暗かった。操業時間を過ぎた工場群からは既に人気が失せていたから、ボクは気味の悪い静けさの中を、由紀の気配のするその小屋へ近付いていった。

 実際、小屋から由紀の気配がした訳じゃなかった。ただ以前、こんな時間にそこに父がいたのを憶えていたのだ。ボクはなんらかの予感を抱えていたのかもしれない。小屋が近付くにほどボクの足取りは慎重になり、恐る恐る近付いていった。そうして小屋の入り口に近付くと、引き戸に手を掛けた。思ったとおり南京錠は開かれていた。それは開かれた閂の片側にぶら下がったまま、ボクの侵入を拒もうとはしなかった。ボクは小屋の中に静かに足を踏み入れたんだ。

 あの日、最後に虫取りに来た日、裕二が指差したりんご箱。それは農家の誰かが放置したものだった。中には腐ったりんごが入っていた。鼻を吐く腐臭、その腐臭に釣られて集まってきた何匹もの虫たちが絡み合い、腐って酸を発した蜜に溺れ、おぞましい欲望が充満していた。ボクの目の前にあるのはそれだ。カブトムシクワガタが互いの肉を貪り合っているのだ。

 ボクは慌てて手を伸ばし、偶然掴んだ容器をカブトムシに投げ付けた。しかし容器は軽過ぎて天井に向って飛んでしまい、中に入った大鋸屑を散乱させるだけだった。それでもボクは、もう一度手を伸ばし掴んだ容器を投げ付けた。さっきより下に飛んだが、逆にムシたちに掛かる大鋸屑の料は少なかった。更にもう一度、今度はクワガタを目指して飛んだ。だがクワガタに当る前に、身体を投げ出したカブトムシの脇腹に当った。脇腹が潰れ、体液が漏れ出すかと思ったが、そうそう柔な身体では無いようだった。次に伸ばして手が掴んだのは、随分と重量があった。手に持って見るとそれはナイフだった。厚目のナイフ。それは普段、荷造り用の荒縄を切ったりするのに使っているごついやつだ。ムシたちもそれと気付いたのか、投げる前から悲鳴を上げた。身の危険を感じたのだろう。まるで許しを請うように、両手を拡げて泣き叫んでいる。でもボクにはそれが、外骨格の関節が軋む音にしか聞こえなかった。

 ボクがそれを投げた時、

グシャッ

というりんごが潰れたような音がして、一方のムシが崩れ落ちた。腹から体液が流れ出ていた。随分と濃い体液だと思ったら、内蔵だった。醜い内臓を撒き散らしながら、ムシは床に崩れ落ちた。

 次にボクが目にした時、小屋は燃え上がっていた。どうやって出たのかボクには分からない。ただ、隣りで由紀が泣いていた。

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2011-01-12 りふれいん-65-

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第10章 ◇混沌◇

「ちょっと待てよ」

暗がりからわたしに声を掛ける男がいた。その声にわたしは吾に返った。まるでタイムマシンに乗って、過去の世界行き、突然舞い戻ってきたような気分だった。顔を上げると街灯の下に男が進み出た。その男の姿を見てわたしはギョっとした。新幹線の中でわたしに古い日付のスポーツ新聞を渡した男だった。

「やはりあんたも一味だったのか」

わたしが言うと三田が「一味とは心外だな」と小さく笑った。

「わたしの説明に何か問題でも?」

男に対し、わたしは問い掛けた。今やわたしは、わたしの記憶になんら疑いは無いと思っていたのだ。

「あんたの説明だと、義母の芳子と叔父の正夫が男女の関係になったのは、大分以前という印象だ」

「うん、そう。たしかそうだった筈だ」

「うーん、その辺が微妙に違うんじゃないかな。われわれが当時、捜査したところでは、芳子と正夫の関係は事件のおおよそ半年前からだった筈だ」

「半年前?馬鹿な」

「いいや、その筈だ」

「だって、ボクらは、いやわたしと由紀は、マサ兄の訪問を恐れて毎日のように町を徘徊して歩いたんだ」

「それもどうだろう?そもそも君ら家族は、芳子と君は、継母と連れ子だというのに実の母子のように仲が良いと評判だったらしい」

「ええ?!」

わたしと芳子が実の母子のようだった?わたしは、また記憶が堂々巡りを始める予感がした。

「芳子は、健介が以前経営していた会社の社員だった筈だ」

 突然、

コホンッ

と咳払いするのが聞こえた。まるでわたしと男の会話を遮るようだった。

 三田だった。

「やあ、だいぶ寒くなってきたな」

コートのボタンを閉め直しながら

「この寒さじゃ風邪をひいてしまう。早めに帰ろうや」

と続けた。

「細かいことは、もういいじゃないか」

まるで、”ボクが思い出そうとしていること”を遮るように言った。

 三田は溜息をつくように深く息を吐くと

「それで君は」

と言い、三田は小さく咳払いした。

「いや、君たちは父親を殺した訳かね?」

抑揚の無い声だった。

「ちょっと不躾だったかな?」

三田が禿げ上がった頭を掻いた。それからコートの襟を立て

「おお寒い」

小刻みに震えて見せた。

どうなんだね?、という三田の問いを聞きながら、わたしはふと疑問に思った。それを口に出すか少し迷ってから、やはり訊ねてみることにした。

「みなさんは、なぜボクらを疑ったのです?」

三田と、暗がりでわたしを取り囲むように立ち並ぶ男たちを見渡した。

「いや、否認しようという訳ではないのです。そうではなく、ちょっと不思議に思ったのです。だってそうでなければボクと由紀を疑う理由が無い」

三田は一度、真っ暗な天を仰ぐとこう言った。

「うん。その辺がよく分からないんだ。何しろ当時、君らから何も聞けなかったから」

「そう、でしたね」

「ああ、ただ少し想像していることはある」

『どうして来たの?!』

わたしの耳の中で由紀の叫ぶ声が聞こえた。

『もう6年生でしょ!いつまでもままごとしてるんじゃないわ!』

結局、三田の配慮も空しく、ボクはそのことを思い出し始めていた。

 ボクは由紀の行き先が分かった気がした。あまり良い予感はしなかったのだければ、雁田山の山裾に沿って走る農道をどんどん北に歩けば、行き先に行き当たるのだ。

 問題は、由紀がその先どこへ行く気かということだが、ボクにはある予感がしていたんだ。

 半年くらい、いや一年くらい前からだろうか?ボクの家は壊れ始めていた。義母の芳子が父にひどく冷淡な態度を取るようになったのだ。マサ兄が逢引に来るのを隠そうともしなかっただけじゃない。芳子は父の食事をまともに作ろうとしなくなった。そして、父が家にいる間中、監視するように睨み付けていたんだ。父もそれに気付いたから、徐々に家に寄り付かなくなった。

 そんなことが続いて、ボクらがおばあちゃんの部屋にいるところへ父が現れたんだ。ボクはきっと家に帰り辛いから、おばあちゃんの部屋へ逃げ込んできたんだろうと思ったのだけれど、どうやらそうでは無かったらしい。

 由紀が、父にひどく怯えていた。父は、ボクと由紀の間に座ったんだ。その瞬間、由紀の身体は震え始めた。

 由紀は由紀なりにそれを抑えようと努力していた。でも、止めようと思えば思うほど、由紀の身体はどんどん震え始め、やがて全身が痙攣したように激しく動き始めたんだ。

『どうしたんだ由紀、大丈夫か?』

父が、いつもの気弱そうな笑みを浮かべながら、由紀の身体に触れようとした。次の瞬間、由紀の身体は弾けるように壁際へ飛び退いた。

『いや!』

由紀が大きく叫ぶと、驚いたおばあちゃんが由紀に近付いた。おばあちゃんは由紀の頭を抱き、抱かれたまま由紀は、泣き出してしまった。

 由紀とおばあちゃんは抱き合ったまま、離れようとしなかった。おばあちゃんの腕の中に埋もれて由紀の表情は見えなかったが、ボクにはおばあちゃんが一切、こちらを見なかったのが印象に残った。まるでこちらに見てはいけないものがあるとでも言うように、おばあちゃんは由紀を抱き締めたまま壁を見詰めていた。

『健介さん。今日はもう帰ってもらえるかしら』

優しいおばあちゃんが、珍しく冷淡な言い方をした。父は

『ああ』

と苦笑いを浮かべながら頭を掻くと立ち上がった。引き戸と開け、外に出た。

『おいたくみ、由紀、遅くなる前に帰って来いよ』

ボクは父に向って大きく頷いた。だが、由紀の方を見ると、由紀とおばあちゃんは更に強く抱き締めあっていたんだ。

 そんなことを思い出しながら、ボクは農道を北へ向って歩き続ける由紀の影を追った。やがて切通しが見えてきた。平地の上に半島が浮かぶように横たわる山の斜面の先に切通しはあった。正確には切通しの残骸だ。しかしボクは由紀の向う先が、切通しなどでは無いことを知っていた。

 昨日、由紀はボクに言った。

『切通しの向こう側、桜沢の山手に山門があって、そこを登ると神社があって、そこに大きな鳥居があるの』

と。今日、そこに行くのだと言った。

満月の日にね、お月様の影が鳥居の下を通る時、そこにいると願いが叶うんだって』

何を願うつもりなのだろう?と思ったが、その前に、

神社なんてどこにないのじゃないか?』

そう由紀に問い掛けたかった。山門も、もちろん無い。そしてボクの夢に出てきた『髭おじ』もいないのだろう。

『髭おじさん、雁田にいるでしょ?』

居もしない人物を、由紀はなぜ咄嗟に思い浮かんだんだろう?それは誰か別の人物を、そう変えて言っていたに違いない。そのままボクに伝えたくない人物だったのだ。

 それからボクは山沿いの農道を歩くのをやめにした。ずっと遠回りにはなるが、田んぼの畦道を歩くことにしたんだ。延徳田んぼと呼ばれるそこは、かつて延徳沼と呼ばれる湖ほどもある湿地帯を開拓して作られた。ほとんど底なし沼のような、ひどい沼地だったから、今もところどころ畦が崩れたりする。子供が一人で歩くにはとても歩き難い場所だった。

 でも、由紀に気付かれないよう由紀の先回りをするにはそこを歩くしかなかった。ボクはもう由紀の跡を尾け気は無かった。ただ、自分の中の嫌な予感をはっきりさせたいと思っただけだった。

 しかし沼地と思っていた田んぼは、知らぬうちにひどく乾燥していた。収穫の時期が終わりすっかり水がひけた田んぼはそこかしこにひび割れが入っていた。田んぼの中ですらそれほど乾燥しているのだから、畦道などまるでコンクリートで固めた道と変わりなかった。ボクはやすやすと走って行けた。いつもは斜面側の道路から左手に見ていた切通しを右手に見ながらボクは走った。

 やがて中野市に入ると電信柱に桜沢という表示が見えるようになった。ボクの目指す場所はすぐそこにあった。工場群が競うように大きな屋根を重ね合う、その場所にボクは来た。入り口に、鳥居があった。たしか、古い祠があった場所を切り開いて工業団地にしたのだ。鳥居はその名残だと聞いたことがあった。ボクは鳥居の下を潜ると、一番ボロの小屋を探した。新しい板金屋根の工場が軒を連ねる中に、ぽつんと一つだけ、古い木造の小屋があった。そこは父の仕事場だった。地元のエノキ農家から父が預かっている栽培用の倉庫だ。

 ボクは音を立てぬよう引き戸を引いた。大鋸屑(おがくず)の異臭が鼻を突いた。それもその筈だった。倉庫の中はエノキ栽培用の大鋸屑でいっぱいだったからだ。それを燻す煙で、前がよく見えなかった。突然、

ガチャンッ

と音がした。入り口で南京錠が地面に落ちたらしい。その音はボクに不安な気持ちを湧き上がらせた。それでもボクは奥へ進んだ。奥に行くほど大鋸屑を燻蒸する煙が濃くなっていった。でも、ボクはその煙の先で動く白いものを見付けた。

 五時を知らせるサイレンが聞こえた。戦争もののテレビ番組で聞いた空襲警報みたいだった。警報の行方を追ってから、もう一度、煙の中を見付めた。しかしさっき白いものが見えたと思った場所に、それらしいものは無かった。代わりに、突然小屋の中に小さな風が流れ込んだ。小さな風は燻蒸の濃い煙を流し去った。その先に薄っすらと人影が見えた。ボクはギクッとした。人影はボクの方を見ていたのだ。

「たくみ、なにしに来たんだ?」

父さんだった。ボクは返答のしようもなくその場に立ち竦んだ。由紀の大きな泣き声が聞こえたが、ボクは由紀を見ることが出来なかった。

「なあ、たくみ。違うんだ、これは」

困惑する父を置いてボクは後ずさりを始めた。そこで気付いたのだ。由紀を一緒に連れ出さなきゃいけないと。でもボクは腰が抜けたようになってそれが出来なかった。

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2011-01-10 りふれいん-64-

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 いつの間にか朽ち果てた切通しの前で、ボクは大きな橡の木を見上げていた。

 まだほんの二年ほど前、たしか小学校三年生の頃まで、真夏の最中、早朝に自転車を走らせてここまで来た。ボクの乗る自転車は、近所の爺さんが乗っていたものだったから酷く大きくて重かった。爺さんはその荷台に大きな籠を載せて、毎日農作物を運んでいたんだ。いつの間にか爺さんだけいなくなり、自転車が残った。爺さんが死んだという話もあったし、どこかへ引っ越した、頭が呆けて入院した、という話も聞いた。でもボクにとってはそんなのどうでも良かった。ボクにとっては、その自転車が誰のものでも無くなった、ということが一番重要だった。

 真人や健太はテレビでコマーシャルしてる自転車に乗っていた。アニメの絵柄が描かれているものだ。淳司は、なんだか地味な色合いの自転車に乗っていたが、とてつもなく高価なものだと誰かが言っていた。裕二のは兄のお下がりのオンボロだった。だが、自転車を持っているだけ羨ましかった。ボクはなんでもいいから自転車が欲しかったのだ。

 そんな時、毎日、自転車で野良仕事に行っていた爺さんが、自転車を残して姿を消した。翌日からその自転車はボクのものになった。誰が良いと言った訳ではないが、誰もいけないと咎めないのだから、それで良かった。早速、夜明けとともにボクは自転車を駆って、切通しまで走ったのだ。

 でも、爺さんが乗っていた自転車は重いばかりでスピードが出なかった。お陰でボクは切通しに付くのがビリッケツになってしまった。それだけでなく、ボクはもうへとへとだった。走ってきた方がずっと楽だったのだ。

「おせえなあ!もうこんなに採っちゃったぞ」

裕二の虫篭を見るとカブトムシが三匹と、クワガタが一匹。四匹は、押し競饅頭でもするようにひしめき合っていた。

「おれはさ、箱背負い(はこしょい)専門」

真人の虫篭には、ミヤマクワガタだけが四匹入っていた。

 ミヤマクワガタのことを子供は「箱背負い」と呼んでいた、四角い頭部が、まるで箱を背負っているように見えるからだ。箱背負いは、短い体毛に覆われ、緑っぽい色をしており、他のクワガタより明らかに高貴に見えたから、ボクらに取っては宝物のようなものだった。ボクは思わず

「わあ、いいなあ」

と叫んでいた。

「もうこの木にはいないよ」

淳司が一番大きな橡の木を見上げて言った。

「切通しの斜面を登ってみれば、いるかもよ」

言われてボクは、斜面を登り始めた。みんなもボクの後に付いて登ってきた。

 少し上がると、橡林が綺麗に刈られていた。斜面から山に連なる辺りがすっかり丸坊主になっていたのだ。

「なんだこりゃ?」

「なんか造るのかな?」

ボクと淳司が首を傾げていると

「おーい、こっちこっち。いっぱいいるぞ!」

裕二の叫び声が聞こえた。ボクらは裕二が立っている場所へ走った。

「どこにいるんだ?木が無いよ」

ボクらの問いに、裕二が小さく顔を横に振ったのが見えた。

「なんだよ裕二。もったい付けないで教えろよ」

「ここ」

「え?どこ?」

「ここだよ」

裕二が指し示したのは放置された木箱だった。林檎や桃など収穫した果樹を入れて農協に出荷するために使われている。「都住農協」と刻印された、この辺の農家ならどの家にもあるものだった。

 しかし、その木箱にはなぜかベニアで蓋がされていた。普通、果樹を入れる場合、蓋なんかしない。ボクらはなんだか嫌な予感がした。

「めっくてみな」

そう裕二に言われボクは恐る恐るベニア板に手を掛けた。それを捲り上げるとなにかとんでもないものが出てきそうな気がした。見ている淳司や真人、健太、武男も「ごくり」と唾を呑み込んで見守っていた。

「なあ、裕二。まさか蛇が飛び出してくるとかないよなあ」

真人が不安気な声を出した。

「切通しは蛇が多から気を付けろって母ちゃんに言われたんだよう」

泣きそうな声になっていた。

「もし蛇が出たらやばいから、ベニアを取ったらすぐ逃げよう」

淳司が言った。ボクらは全員、頷いた。

 いよいよボクがベニア板を剥ぎ取ることとなった。

「さあ、行くぞ!」

ボクはみんなにそう声を掛けると一気にベニアを引っ張り、遠くへ放り投げた。

「わあー!」

その瞬間、蜘蛛の子を散らすように、みんな八方へ逃げ出した。当然、ベニアを投げたボクが一番、逃げ遅れた形だったので、恐る恐る中を覗いてみた。

「ひ!」

ボクは思わず悲鳴を上げてしまった。みんなはそれを聞いて余計に遠ざかった。

「ははは、馬鹿だな。よく見てみろよ」

一人だけ逃げなかった裕二が大声で笑った。言われてボクは、もう一度中を覗いてみた。木箱の中は黒い何かでいっぱいだった。

「うわ!」

ボクはまた声を上げてしまった。裕二が蔑むように笑いながら言った。

「気ぃちっちぇえなあ、よっく見てみろよ」

もう一度、覗いてみると、黒いのは腐った桃だった。

「うわあ、汚ねえ!」

箱の中は腐った桃でいっぱいだった。出来損ないの桃を木箱に入れておいたのだろう。腐って来たので隠す為にベニアで蓋をしたらしい。ボクはその気持ち悪さに目を背けた。集まってきた淳司や真人、健太、武男も口々に

「げげっ!」

とか

「おえ!」

なんて呻き声を上げた。

「お前ら、もっとよく見ろよ」

裕二が呆れた、という声で言った。仕方なくボクはもう一度、腐った桃でいっぱいの木箱の中を覗いてみた。腐乱し切った部分は真っ黒に、まだ途中の部分は白かったり桃色だったり、そのコントラストがまた気味悪かった。だがボクはもっと気色の悪い光景を見た。

「おわ!」

またボクは大声を上げてしまった。その叫び声にみんなも驚いて飛び退いた。

「どうした!たくみ」

健太が恐る恐る訊いてきた。

「やっぱ蛇?蛇がいるんでしょ?」

ボクは大きく横に首を振った。

「いや、違う。でも、気持ち悪い」

「え?じゃなんだよう」

真人がまた心細そうな声を出した。淳司も真人も健太も武男も、一度は覗き込んだのに、飛び退いたまま戻って来ない。

「大丈夫だよ、そんなに怖がらなくても。蛇なんかいないし。ただ・・・」

「ただ?」

「うん、汚いなあ、このクワガタ

カブトムシもいた。虫たちは腐った桃を漁っていたのだ。淳司も真人も健太も武男も、木箱の前に戻ってきた。

「うわあ、汚ねえ!」

口々に言いながらも、今度は代わる代わるのぞき込んだ。

「これじゃ、捕まえたくないなあ」

「ほんと、汚過ぎる」

「それに臭いよ。桃が腐った臭いがする」

みんなが文句を言ってる目の前に、ヌッと手が伸びてきた。伸びた手は、腐乱した桃の中で蠢く虫たちのうち、一番大きな一匹を捕らえた。木箱から取り上げ、日に当てられたそれは、見たこともないくらい巨大なミヤマクワガタだった。

「お前らがさ、いらないって言うなら、全部おれがいただくよ」

裕二が巨大なそれを虫籠に入れながら言った。まるでボクらを見下しているようだった。


 ボクは橡の木の前に立って、そんなことを思い出していた。

 当時、『蛇がいるから切通しにはいくな』とは、どの子供も言われたことだ。でも、もともとこのあたりは蛇が多いから、特に切通しだけだ危険ということはない。第一、子供にしても蛇には慣れていたから不用意に噛まれたりはしない。

 結局、切通しへ行かせたくなかったための方便だったのだろう。切通しは、長野電鉄線の線路を造る為に山の斜面を刳り貫いたものだ。天井の無いトンネルと言っていい。つまり切通で虫取りをするということは、線路の上で虫取りをするということで、それに夢中になった子供が危うく電車に撥ねられそうになったという話もあった。真実かは分からないが、そういう噂には子供より親の方が敏感なものだ。

 でも、ボクらが切通へ虫取りに行ったのはその年、小学校三年生の夏が最後だった。工事が始まったのだ。その年の秋、切通しから山へ連なる斜面が丸坊主になった。それから大きなシャベルカーが現れ、木の根っ子を地面ごとひっくり返し始めた。気付いた時には斜面そのものがひっくり返されていた。斜面は、大きく削り取られ切通しの何倍も大きな穴が掘られた。雪の降る季節になると工事は一時中断されたが、翌年、雪解けの始まった春先にはまた大きな重機が何台も集まってきた。ダンプカーが砂や砂利を運んできた。帰りには斜面を切り取った土砂を運んで行った。

 そんなことを毎日、毎日繰り返していた。ボクと由紀は、毎日、近くまで来ては夕方まで眺めていた。そのうち、斜面だった場所はすっかり平らになった。道路が開けたのだ。

 道が開けた日、ボクらがそこへ来てみると、重機から立ち揚がる湯気の向こうに隣町が姿を現した。桜沢という集落だ。桜沢には見たことも無い銀色の建物が連なるように建っていた。真新しいそれらの建物に見入っていたボクらに、工事の休憩に入った作業員の一人が教えてくれた。

『ありゃ、きのこの工場だ。エノキ作ってる』

人の良さそうなそのおじさんは、胸のポケットからくしゃくしゃのタバコを取り出すとマッチで火を点けた。しばらくボクらの横で煙をくゆらすと

『景気が良くなってきたもんだから、きのこがえれえ売れるらしい。あすこの工場やってる百姓らは、昔の長者並に稼いでるそうだ』

そう言って、工場群のある平地から集落のある斜面に視線を移した。ボクらも同じように斜面を見た。

『どうだい、立派な家ばっかじゃねえか。キノコ御殿って呼ばれてるんだぜ』

ボクは桜沢の家並みから、切通しの残骸に目を移した。切通は、何故か残されていた。線路の両側の部分だけ、まるでトンネルの名残のように土が盛り上がっていた。そこだけ残すことにどんな意味があるのだろう、とボクは首を傾げた。

『なぜここだけ残してあるかって?そんなもの、道路を造るお役所にとっちゃあ、関係ねえからさ。すぐ隣とはいえ、その切通は私鉄のものだからな』

一番大きかった橡の木も残されていた。他の木は全て伐採されたというのにだ。それでも一本だけ残ったことを喜ぶべきなのか?でもボクは、それらを見ている何故かうち心が痛くなった。それらが取り残されたもののように見えたからだった。第一、一本だけ立った橡の木に虫が集まるとは思えなかった。

 

 道路が出来てから、ボクらはあまり切通しには来なくなった。ボクが今ここに来たのも、淳司や裕二たちと最後の虫取りをした小学校三年生の夏が過ぎ、冬間近になって由紀と二人で工事現場のおじさんの話を聞いて以来だった。少なくとも、ボクはそうだった。

 小学校の玄関で由紀を見失ったボクは、校門の向こうへ消える影を見たんだ。それが由紀かどうかは分からなかったけれど、ボクは一か八か追いかけてみることにした。影は確かに実体を持ってボクの前を歩いていた。校門を南に出た影は郵便局に突き当たると東に折れた。山の方へ向かったのだ。そこからの道は一直線だったのに、ボクがどんなに一生懸命走っても、どうにも追い付けなかったのだ。

 気付くとボクは、影に誘われるように切通しの残骸のある町境に来ていたんだ。町境から見える光景は、トタン屋根が波のように続く工場群。そこから右手、山の斜面にかけて大きくて新しい”キノコ御殿”ばかりが立ち並んでいた。あれから二年とちょっと過ぎたが、キノコ御殿の数は増えはしたも減ることはなかったらしい。

 ドルショックに端を発した不況の嵐は、中小企業の多くを呑み込み、倒産、大量の失業者という混乱を招いた。ボクが小学校に上がる直前の話しだ。それから五年も過ぎると、世の中は復興してしまうらしい。そして、世の中が復興に向っても、依然荒廃から脱することが出来ぬ者もいるらしい。ボクの父がそうだったのだ。

 1971年の冬、ボクら家族は忘れられぬ寒さを経験した。父の経営していた会社が倒産したのだ。新しい技術を大手メーカーに提供していた父の会社は、たしかに時代の寵児だった筈だった。でも、そんなたしかさは、大きな社会の中ではゴミ屑ほどの価値も無かったんだ。呆気なく、あっさりと倒産した父には何一つ残らなかった。そして何より辛かったのは、まだ幼いボクを抱えた夫婦にとって、日々の生活の糧が失われたことだ。倒産後も借金の清算に追われる父に代わり、母が働きに出た。しかし、育ちの良い、また結婚してからは家事以外したことのない母にとって、生活を支えることは許容範囲を大きく超えていたに違いない。たちまちに体調を崩した彼女は、あっという間に言葉も利けぬほどに痩せ衰え、病院のベッドで朽ち果てるように死んだ。

 それから5年、キノコ工場を見る限り、世の中はたしかに復興したらしい。しかし父はまだ、借金の返済に汲々としていたのだ。返すメドすら立たない膨大な借金。だが、後妻に入った芳子は、そんなことを気に留める様子も無かった。それどころか父の弟を家に引き込み、不貞の関係を隠そうともしなかった。それらは、間違いなく父の精神を蝕んでいった。

 思えば、父はなぜ芳子と再婚したのだろう?ボクの実母の美和が死んで、寂しかったのかもしれない。大人の事情などボクには分からなかった。

 でも、芳子なんかと結婚したから、父はあんなことをしたんだと思う。ボクは、父も許せなかったが、父をそこまで追い込んだ義母も、芳子も許せなかった。お陰でボクらの家族はバラバラになったんだ。そしてボクと由紀もまったく別の人生を歩むことになってしまった。

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2011-01-08 りふれいん-63-

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◇◇

「ん?父ちゃん、どうしたんだ?」

ボクは父に声を掛けようとした。だが、すかさず由紀が

「なんでもないよ」

とそれを制したんだ。ボクが見るに、父はショウウインドウのガラスがたわむほど頭を押し付けていた。それほど何かに見入っていたのだ。

「ガラス割れちゃうよ」

「だから大丈夫だって!」

由紀は「行こう!」と言ってボクの腕を掴むと、反対側へどんどん歩き出した。それは西の方角だった。小学校から見て商店街は東にあったから、また小学校の方へ戻る格好だ。

「あれー。今日は雁田の方へ行くんじゃなかったの?」

「ふん、急に川が見たくなったのよ」

由紀は強引にボクの腕を引っ張った。ボクはといえば、なぜか父のことが気になって仕方がなかったから、何度も振り返ったものだ。しかし由紀はボクの腕を決して離さなかった。ボクらは退屈な畑の道をどんどんと歩いて、歩き疲れた頃、大きな土手が目の前に立ち塞がっていた。まるでピラミッドの一面を見ているようだった。誰の侵入も拒んでいるように見えた。けれどボクらは道路から裏に抜けるトンネルがあることを知っていた。ガーデンが通るための隧道だ。河川敷内に畑があって、農家がそこへ野良仕事に行くための道だった。

 ボクらはその道を抜け、河川敷の畑を抜け、川原に辿り着いた。

「釣りしてる」

対岸を見てボクは叫んだ。木製パイルに横木を張り、ジャングルジムのように組んだ上に三人ばかりの大人が座り、のんびりと釣り糸を垂れていた。しかし、すぐさま由紀が

「釣れてそうにないわ」

と言った。ボクらは川原で、腰掛けるのに良さそうな大きさの石を探して腰掛けた。何をする訳でも無かったが、座る以外することもなかったのだ。

「ねえ、あれ本当かなあ?」

ボクの問いを由紀は無視した。でもボクは諦めずにもう一度訊いた。

「ねえ由紀はどう思う?」

由紀は相変わらず顔を上げない。上げないまま

「”あれ”ってなによ?」

と空と呆けてる、と思った。

「あれはあれさ」

「だから何よ」

「裕二が言ってた奴」

「裕二?知らないわ」

由紀が外方を向いた。向いた方向には水鳥がいた。由紀は薄っぺらな石を選んで、水面に向けて投げた。薄い石ほど上手く水切りしてくれるのだ。だが、由紀の投げた石は、水面を一度も撥ねずに呆気なく水没してしまった。由紀は

「ちぇっ」

と舌を鳴らした。広い川の中ほどに水鳥はいたから、由紀の力では届かないに決まっていた。それでも水鳥を脅かすには十分だった。水鳥はその大きな羽をゆったりと拡げると、宙に向って羽ばたいていった。

 ボクは意外な気がした。由紀が生き物に向って石を投げるなんて初めて見たからだ。そういえば由紀を探し回った日の夜、由紀がいた砂山で、由紀は首まで埋まった猫を見捨てたと告白した。ボクは首を傾げるばかりで、由紀の中で何かが変化し始めていることに、まったく気が付かなかったんだ。

「ねえ、由紀。その、裕二がさ、言ってた話だけど。あのさ、」

ボクがそこまで言ったところで由紀は不機嫌そうに

「なに?」

とボクを睨み付けた。

「だからさ、あの、父ちゃんの話だけど、本当なのかな?」

「だからなによそれ?」

「あのゲーム機、父ちゃんが創ったっていう話」

由紀はまた新しい石を探し出した。今度はさっきより少し小ぶりだった。アンダースローの姿勢で川に向って投げた。水面の上で石は大きく一度撥ねた。

「お!」

とボクはその見事さに声を上げてしまった。でも、次に着水したところでまた水没してしまった。由紀が

「あーあ」

と溜息を付いた。

 ボクは再び父の話を切り出すことが出来なかった。


「あれ?由紀がいない」

六時限目の授業が終わり、ランドセルに教科書を詰め終わったボクは、由紀の姿が無いことに気付いた。

 ボクと由紀の生活は元通りに戻っていた、少なくともボクはそう思っていた。ボクらは毎日、六時限目の授業が終わると玄関で合流し、そのまま散策に出た。もう五年以上続けて来たことだ。それがたまたま二ヶ月ほど前、淳司がゲーム機を買った。ボクはそれに夢中になり、そしてボクの友だちもみんなそれに夢中になって、塾に行く時間ぎりぎりまで淳司の家でゲーム機を弄り回した。普段は皆、学校から真っ直ぐ家に帰り、おやつを食べてから塾に向う、という生活をしていたのに、ゲーム機のお陰でボクも彼らも一緒に遊ぶ時間が出来たのだ。

 ボクはゲーム機と、友だちと遊ぶことに夢中になり、由紀を置き去りにしてしまった。その間、由紀は何をしていたのだろう?何をして過ごして、何をして時間を潰していたのだろう。無限に続くような孤独な時間。ボクらには、ボクら以外、時間を共有できる誰もいなかったのだ。本当のところ、塾になど通っていない友だちだって沢山いた。裕二なんて週に一度、そろばん塾に通っているだけだった。それでもボクらは、ボクと由紀は放課後、いつも二人きりだった。それは、ボクらの家の事情も大きく影響していた気がする。ボクらの家の特別な事情から、彼らの親がボクらと遊ぶことに抵抗を持っていたんだと思う。

 特別な事情とは、マサ兄と義母の芳子のことだ。二人の不貞の関係は、町の大人は知らぬ者が無かったらしい。人口一万人に満たぬ小さい町だから当たり前のことだったろう。それでも二人は、これ見よがしに不貞を続けた。マサ兄は、町役場に勤めていたが、町中では有名な遊び人で、その派手な風貌は公務員とは掛け離れヤクザ者にしか見えなかった。だから役場でも厄介者扱いされ、庁内に置いておくとトラブルの種になり兼ねない、ということで「水道の修理係」という仕事を与えられていた。水道メーターの壊れた家に行き、修理する仕事だ。体の良い厄介払いだろう。しかし上司の眼の届かぬ仕事のため、毎日のように芳子の元へ通って来るようになったのだ。いっそ芳子が父と離婚して、マサ兄と一緒になれば良いと思うのだが、彼らはそうしなかった。また父も、特に離婚を切り出さなかったらしい。いずれの理由も子供のボクらにはよく分からなかった。つまり、そんな家庭の子供と親しく遊ばせることを躊躇う親が多かった、ということだ。唯一、淳司の母親だけは、ボクらに優しかった。それは彼女がボクの本当の母親と友人だったためらしい。

「どこ行ったんだろう?」

ボクは廊下を早足で歩き、玄関に着くと辺りを見回した。でも、どこにも由紀の姿は無かった。靴を履き、エントランスに走り出た。校庭を見たボクの眼に、校門から消え去る影がチラと見えた。

「あ!」

それが由紀かどうかと言われると、正直分からなかった。ただ黒い影が動いたように見えただけだったのだ。でもボクは、なんとなくそれが由紀だったような気がして、すぐにも追い掛けたい衝動に駆られた。でもそれは間違いで、もしかしたらまだ由紀は校舎の中にいるのかもしれなかった。ボクは玄関を振り返った。でも由紀らしい姿は現れなかった。ボクは意を決し、校門に向って走った。さっきの黒い影を追い掛けることにしたのだ。校庭はまだ誰もいなかったから、ボクは全力で走った。

 校門から出て、広い道路を見渡した。影は右の方に向って消えた筈だった。でも、どこにもそれらしい人の姿は見当たらなかった。やっぱり人違いだったか、と思った。けれど広い道を右に直進すると二百メートルほどでT字路に突き当たる。そこをどちらかに曲がったのかもしれない、とも思った。ボクはまた小学校の玄関に戻ろうか、それともT字路まで行ってみようか悩んだ挙句、行くことにした。ボクはまた全力で走り、すぐにT字路まで辿り着いた。そこで左右を見渡したが、どちらを見ても由紀らしい影は見えなかった。

 いや、待てよ、とボクは思った。左手に、それは千曲川とは逆方向、つまり山手の方だ。そちらの方向をよく見ると、ずっと向こうに小さな点が見えた。点は上下に揺れながら、少しずつ進んでいるように見えた。ボクにはそれが由紀に見えた。


 あの日わたしは由紀の影を追って歩いたと思う。影は、町の真ん中を南北に貫く県道を横切り、千曲川とは反対側、雁田山の方へ向っていた。わたしは影に追い付こうと全力で駆けたように思うのだが、走っても走っても追いつけなかった。むしろ影との距離は拡がってしまっているように感じた。しかしどんどん離れて見えなくなったと思いきや、結局同じくらいの距離にいたりした。わたしとその影は付かず離れずの距離を保ったまま進んだのだ。

 やがて山に突き当たり、その後は山沿いの道を北に向って歩いた。途中、長野電鉄線と合流し、切通しがあった。わたしは知らぬ間に男の発する光に導かれ、ここまで来ていた。あの日、由紀らしき影を追って駆けて来た道だった。もう少し行って踏み切りを渡れば山門がある。そしてそれをくぐり、参道を登れば神社だった。

 だが、目の前の景色の中に、山門などどこにも無かった。

 切通しの向こうには、工場群が広がっていた。そこかしこに「ガット・ウルグアイラウンド」という表記が、夜間灯の光に浮かび上がって見えた。国の補助金を使って建てられたきのこの工場群だった。踏み切りを渡り、工場群を背に山の斜面に向うと、夜目にも立派な家並みが見えた。豪華な家が放つ特有の光を発していたと言っていい。えのきの栽培で成功した農家達の家が立ち並んでいるのだ。

 あの日、ここにあったのは茸の冷蔵倉庫だ。あの頃はまだ、えのき栽培が盛んになり始めたばかりだった。今のように巨大な工場ではなく、農家ごとに一軒家くらいの冷蔵倉庫を保有し、その中でえのき茸の栽培をしていた。それでもちらほら成功した農家が現れ、彼らはこぞってえのき御殿と呼ばれる豪奢な家を建てた。それを見てまた、多くの農家がこぞってえのき栽培を始めたのだ。

 その一つの農家で父はきのこ栽培の作業を手伝っていた。

 あの日、由紀らしき影を追ったわたしは、ここで父が手伝うえのき農家の冷蔵倉庫を見た。そしてわたしは、由紀の影を見失ってしまった。

「本当に見失ったのかい?」

ふいに心の底辺から、誰かに問い掛けられた気がした。しかし顔を上げたわたしの目の前に、三田所長が立っていた。暗がりの中、街灯の光のしたで三田はこちらを見詰めていた。会社の向かいのビルで見たかつての彼とは少し違う印象に見えた。

 三田は、わたしが新入社員となった頃に知り合いになった。たまたま飲みに行った居酒屋で意気投合したのだ。しかしその後二十年ばかり、彼はわたしの人生から消えていた。姿を見なくなったのだ。しかし奇妙なのは、わたしが会社から荷物を引き揚げたその日から、再びわたしの人生に割り込んできたように思う。割り込んできた、というほど強引なものでも無いが、何故か彼の影が見え隠れすることが多くなった。柴崎常務の通夜に向う電車の中に、三田はいた。そして新幹線の中や小布施駅で降りた際に現れた男たちに、わたしは三田の影を感じていたのだ。

「ここで、由紀ちゃんを見失った?」

三田は同じ質問を繰り返してきた。

 わたしは答えず、辺りに眼を走らせた。真っ暗な中に幾つもの眼が光って見えた。わたしはその中に男たちが紛れている予感がした。そんなわたしの予感を察したようにそのうちの一人が前に進み出た。

「彼が、君をここまで連れてきた」

三田が指差すと、男は街灯の下に躍り出た。わたしは「あっ!」と声を上げた。長屋で見た泥棒だった。

「済まなかったな。泥棒などではないんだ。君をここまで連れて来るにはああするより仕方なかった」

「ああする?」

「ああ、あの日、君たちが通った道を歩かせる為にはね」

「あの日、通った道?」

三田は「そうだ」と大きく頷くと、

神社なんてどこにも無い」

と両手を拡げておどけて見せた。それをきっかけに「神社」という言葉がわたしの頭の中の何かに触れた。神社、そう、あの日わたしは由紀は神社に行く由紀を尾けていたのだ。

 前の夜、由紀は神社に行くのだ、と言った。

『鳥居をくぐるの』

それは、由紀が突然

『明日は一緒に遊べないわ』

と言い出したから、わたしが

『なんで?』

と理由を問うた答えだった。

『この前もさ、由紀ったらどっか行ってたじゃん』

『この前って?』

『あのさ、砂山にいた時だよ。猫が埋まってたって言ってたじゃん』

『ああ、あの時』

『あの日だってどこ行ってたんだよ』

わたしの問いに由紀は答えあぐねているようだった。その時のわたしはまだ由紀の心中を察してやることなど出来なかった。想像すら出来なかったのだ。

 むしろ由紀の方が、そんなわたしの未熟さに気を遣ってくれたらしい。

『鳥居をくぐりに行ったの』

と答えた。

『鳥居?そんなのどこにあんの?』

『えー、っと。北の外れの切通しの向こう』

『切通しの?じゃ桜沢?』

『う、うん。そう。その山手に山門があって、そこを登ると神社があって、そこに大きな鳥居があるの』

『へえ?あったっけ、そんなの。それでなんでそんなのくぐりに行ったの?』

『え?うん、えっとね、願いが叶うのよ』

『願い?なにそれ?』

満月の日にね、お月様の影が鳥居の下を通る時、そこにいると願いが叶うんだって』

『ええ?でも、なんか本当っぽいね』

『本当よ』

『でも何で由紀はそんなこと知ってるの?』

『え?ええ、うん、聞いたのよ』

『誰から?』

『ええーっと、おじさん』

『おじさん?』

『髭生えてるおじさんよ』

『髭生えてるおじさん?誰それ?』

『いるのよ。髭おじさん。雁田にいるじゃない。知らないの?』

わたしは頭の中を巡らせてみたが、さっぱり思い付かなかった。だが由紀が

『私が一人で散歩してると、鉢に水を注していた』

とか

『突然、声掛けられて気味悪かったけど、話してみたら良さそうな人だった』

とか

『年の頃はマサ兄と同じくらいで同級生かもしれない』

などと言われているうち、なんとなくそれらしい姿を思い浮かべてしまったのだ。

『ボクも行ってみたいな』

とわたしが言い出した時、由紀は見たこともない表情を見せた。笑みでもなく驚きでもなく拒絶でもなく、小学校六年生にしてはあんまり複雑な表情で、あの頃のわたしには理解出来なかったのだ。由紀はひどく戸惑っていたのだ。

『ねえ、ボクも連れてって』

『うーん、でも駄目』

『なんでえ?』

『実はね、天狗が出るのよ。怖ーい天狗。子供を連れ去って食べちゃうんだって』

『ええ!?何それ』

『でしょ。だから危ないの』

『だったら由紀だってヤバイじゃん』

『ええ?!』

こちらが驚いてしまうほど、由紀は驚いた顔をした。

 それから由紀は何かを思案していたように思う。それから

『わたしは大丈夫なの』

と答えた。

『なんで由紀だけ大丈夫なんだよー』

『うーん、それは秘密』

『ずるいよー』

それきり由紀はその話題には触れなかった。わたしが何度話を向けても無視していた。

「思い出したかね?」

三田が、はっきりとした声で言った。暗闇の沈黙の中、それほど大きな声を出した訳ではないのに三田の声はよく響いた。

 あの日と違うな、とわたしは思った。あの日、風の強かったあの日は、三田の声は風に掻き消され、よく聞こえなかった。

『誰がやったんだー!』

三田は何度も叫んでいた。だが、それが誰に対して発せられた言葉なのかわたしたちには分からなかった。

 わたしと三田の周りに立つ男たちの姿は、あの日のままだった。そうか、そうだったのか、三田と男たちはあの日の再現をしたいと考えたのだ。

三田さん、まだわたしたちを疑っていたんだね?」

わたしの問いに三田は小さく頷いた。

「ああ、そうなんだ。それで本当のところだうだったのか教えて欲しいんだが」

「それでもし、わたしが犯人だったとしたら、わたしは逮捕されるのだろうか?」

「いや、それはないよ。もうとっくに時効だ。公訴時効が廃止されたが、既に時効が完成している罪については適用されない」

「それじゃあ何故、今ごろこんなことをする?それもこんな手の込んだことを」

三田は激しく苦笑した。それから

「個人的な趣味だ、としたらおかしいかね?」

と笑った。

「個人的な趣味にしては、お仲間が多いような気がするが」

「そうさな。まあ、賛同者といったところかな」

「あの日、捜査に関わった全員が賛同者?」

わたしの問いに三田は片目を瞑り

「まあね」

と頷いた。

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2011-01-06 りふれいん-62-

[]◇

 少し錆び付いているのか、鉄製のドアはキキイと不快な高音を発っした。軋むようにゆっくりと開いたそこには、子供たちの靴箱が書棚のようにならんでいた。ここでわたしは、いつも由紀を待っていたのだ。友だちは皆、塾に行ってしまう。わたしたい兄妹は取り残されたように、二人だけの時間を過ごした。家にも帰れなかった。家には、いつの頃からか正夫という父の弟、わたしからすれば血の繋がった叔父が出入りするようになっていた。それも父の不在を狙った昼間に来るのだ。

 つまり、正夫と義母の芳子は姦通していたのだ。正夫は役場に勤めていて、仕事は水道の修理だったから、一度外に出てしまえばある程度の時間は自由になったのだろう。その自由になる時間が大抵、午後だったらしい。わたしたちが下校する時間と重なったのだ。

 もっともそれは、すぐに大人たちの知れるところとなったらしい。隣室に住むわたしの祖母は、小学校から下校したわたしや由紀を、わたしたちの部屋には近づけなかった。また、父もすぐに知ったようだ。わたしたちが寝静まった夜、父と義母が交わす口論で眼を覚ましてしまったのだ。先に眼を覚ました由紀は人差し指を唇に当て、声を上げそうになるわたしを制した。そんな夜が何日が続き、そのうち何ごともなかったかのような静かな夜になった。しかし相変わらず、正夫は義母の元へ通い続けてきた。

 週に何日か夜勤のある父は、夜勤明けの日など昼間家で休んでいた筈だった。それがいつの間にか、朝、帰宅して風呂に入るとどこかへ出掛けるようになったらしい。まるでマサ兄の来訪から逃げているようだった。子供心に父は負けたのだと思った。マサ兄い負けて自分の居所を失ったのだと。父は夜勤の前日、早番で午後の早い時間に帰宅する日があった。ちょうどわたしたちと同じ時間に帰ってきた。当然、わたしたちは家に入れず、おばあちゃんの部屋にいた。すると、それを見付けた父も、おばあちゃんの家に入ってきた。父は少し気まずそうだったが、おばあちゃんは何も言わず茶と茶菓子を出した。父は軽く頭を下げ、ありがたそうに茶を啜っていた。

 今、思えば、父はどんな心境でおばあちゃんの部屋にいたのだろう?当時のわたしに大人の世界のことなど知る由もなかったが、明らかに父は妻を弟に奪われたのだ。にも関わらず、素知らぬ顔をしていた。自らその場所に立ち入ろうともせず、逃れるように今は亡き前妻の、その母親の部屋に逃げ込んでいたのだ。そして何ごとも無いかのように、差し出された茶を飲み、菓子を食べ、時にわたしたちと一緒に笑ったりした。正夫という叔父が、毎日のようにわたしたちの家へ家族の絆を蹂躙しに来るというのに、義母がわたしたちを裏切り続けていたというのに、父は何もしようとしなかった。もっとも、それはわたしも同じだったかもしれない。父を責めることも、まして義母やマサ兄に抗議することも出来なかった。そして由紀と、そのことについて触れることすらしなかったのだ。

 しかしそのお陰でわたしたちはその後数年間、家族でいられたのだ。

 真っ暗な玄関を見回すと、あの頃の喧騒が蘇るようだった。誰もが幸福だったように思えた。実際は子供といえどそれぞれに事情を抱えていたに違いない。それでも、あの頃のわたしですら幸福を感じて生きていたのだ。暗闇の中に少年達の姿が蘇った。淳司、真人、健太、裕二、今はもう見間違えることはない、はっきりと思い出した。あの日々を。

「この子見てご覧よ!勃起させてるよ!」

芳子に笑われながら、ボクはパンツの中が気になって仕方がなかった。ねばねばした液体でいっぱいになっていた。それは自分の性器から噴出したものだった。ボクはあの日の裕二を思い出した。きっと裕二も同じ目にあったに違いない。毛が生えたとか、ちんぼが大きくなったと自慢しているうち、こういう液体が噴出してしまったに違いない。

 悪いことに次第に、臭いが立ち昇ってきた。それは生臭い、吐き気を催すような臭いだった。ボクは由紀の方にもこの臭いが漂ってしまったら、どうしようと心配になった。

「他人のセックスを見て夢精するなんて、お前は父親と同じ変態だ!」

急に芳子が真顔になり、吐き捨てるように言った。

「汚らしい!早く出て行け!」

それがボクの精通だった。

 ボクはパンツを押さえたままおばあちゃんの部屋に行った。表から入ろうとしたが、鍵が閉まっていた。どこかへ出かけているらしい。

「こっち」

振り返ると由紀がいた。由紀が指し示したのは長屋の裏側だった。ボクは頷くと由紀に続いて長屋の向こうに回った。

 そこは勝手口だった。明けると台所と、その手前に風呂場があった。おばあちゃんはいつも表の鍵は締めるが、こちらは開け放しにしていた。ボクも由紀もそれを知っていた。ボクが風呂場に入ると由紀も入ってきた。ボクは洗い場でズボンと、汚れたパンツを脱いだ。由紀が天井から下がったホースの栓を開けた。ホースは屋根の上に設置された温水器に繋がっていた。太陽の光を使って、タダで湯を沸かすというものだった。

「出てきたよ!」

由紀が持つホースの先から、暖かい湯が溢れ出した。

「ちょっと熱い」

今日は朝から天気が良かったのだ。天気が良いと湯もそれだけ熱くなった。

 ボクはまず、自分の腹から股、ちんぼや睾丸のまわりに付いたべたべたを洗い流した。それから今度はパンツに付いたそれも洗い流した。横で由紀が石鹸を泡立てていた。ボクがパンツを洗う間に、洗い流したボクの身体の部分を泡で洗い始めた。

「くすぐったいよ」

ボクらは笑いながら洗った。今度はボクが石鹸を取り、汚れたパンツに泡を立てた。

 ボクらは汚れをすっかり洗い流した。汚れとともに苦い気持ちも流れ去って行った。

 すっかり綺麗になったところで、ボクは泡を洗い流した。由紀が取ってくれたタオルで身体を拭いて、外へ出た。パンツは穿けなかったから、そのままズボンを穿いた。濡れたパンツは物干しに使っている紐に掛けた。

「ふー、やっと落ち着いた」

見上げると青い空が広がっていた。小さな雲が一つ浮かんでいるだけだった。

「これならすぐ乾くね」

ボクらは顔を見合わせて笑った。

 わたしたちは、いつも明るく振舞っていた。というより、本当に明るい気持ちでいた。マサ兄の無頼な行為にも義母、由紀にとっては実母だが、その芳子の罵声にも、わたしと由紀はすぐに立ち直って、それを笑いに変えた。何者も、わたしたちを不幸に落とすことなど出来ないようにさえ感じていた。苦痛、恐怖、落胆、屈辱、わたしと由紀の日常には、そんなものがゴロゴロ転がっていたが、それらに打ちひしがれることなど無かったのだ。

 ところが、そんな由紀の顔が曇ってしまったことをわたしは憶えている。

 ボクらが、風呂場から出てしばらくするとおばあちゃんが帰って来た。ボクらはいつもの生活に戻った気がした。おばあちゃんは

「今、中村さん家でお焼きを貰ってきたよ」

と新聞紙の包みを卓袱台に出した。丸ナスと餡子のお焼きだった。餡子は小豆と白豆の2種類があった。ボクは白豆の餡子が好きだった。すぐさま手を伸ばすと一つ取り上げ、大きな口で齧り付いた。由紀はいつも丸ナスから食べた。丸ナスが好きなのか?と聞いたことがある。その時、由紀は「丸ナスは大人が食べるから、それを食べれば早く大人になれると思って」と答えたものだ。その頃のボクにはまだ、早く大人になりたい、と考える子供の気持ちがまるで分からなかった。

「お茶でも出すかね」

おばあちゃんが台所に立った。ボクらは二人、お焼きを頬張りテレビを観ていた。ちょうど午後のバラエティ番組が終わり、短いニュースが流れていた。中国の話題だった。アナウンサーは随分、興奮しながら話していて、画面には政治家とは違う雰囲気の脂ぎった中年のおじさんが高笑いしているのが映っていた。

「景気、良くなってるんだって」

「けーき?」

ボクの返答に由紀は呆れたように黒目だけ天井を向け黙り込んだ。

 やがてテレビ画面の一面に、巨大な道路を造っている様が映し出された。こうそくどうろ、と呼ばれる道路が全国に走るなんて子供が考えても夢のような話だった。

「ぎゃ!」

台所からおばあちゃんの悲鳴が聞こえた。ボクらは口々に「おばあちゃん?大丈夫?」と叫びながら立ち上がった。しかし、すぐにおばあちゃんの安堵した声が聞こえた。

「なんだ、健介さんか」

おばあちゃんは、脅かさないで、と言って小さく笑った。ボクも、思わず笑った。由紀の顔を見ると、由紀は笑っていなかった。

 小学校の玄関に眼を走らせたが、長屋のわたしたちの家を荒らした犯人の姿は無かった。玄関から校舎の中に侵入したのかもしれない。だが、それは無いだろうと思った。なぜなら、この玄関も、廊下も、酷く音が反射するのだ。コンクリート製の校舎は、まるでコンクリートで作られた洞窟のように音を反射した。反射した音は木霊のように、どこまでも子供たちを追い回したものだ。犯人がここにいれば、校舎のどこに逃げようと、わたしの耳に入ってくる筈だった。しかし、コンクリートの洞窟を覆う闇にふいに非常灯の光が描き出した不気味な模様のどこにも、音らしい音は見付からなかった。聞こえてくるのは無機質な機械音だけだった。

 わたしは、ふいに振り返った。何かが眼の隅で動いた気がしたのだ。ガラス張りの玄関の隅々を眼で追った。しかし、ガラスが真っ暗な夜を背景に鏡張りのように玄関内の様子を反射しているだけだった。だが、また動いた。鏡の向こう側に、別の光を発見したの。その光をわたしは見逃さなかったのだが、むしろ光の方がわたし見付けられようとしていた、と言った方が正しいのかもしれない。それは、まるでわたしに合図するかのように、わたしの目の前で移動し始めた。

 光はガラスの外、そのずっと向こう側で輝いていた。校門の辺りらしい。わたしは玄関を飛び出した。中二階のエントランス、コンクリートで築かれた巨大な堰堤のようなエントランスの上で、光の探した。光は校門の出口で一度大きく輝くと、すっとその外へ消え去った。消え去る間際、光の中に浮かんだ姿が見えた気がした。遠い過去の世界を見止めたような思えた。それは少年の頃のわたしだったような気がした。

 わたしは慌てて駆け出した。少年時代の自分に誘われた気がしたのだ。抗えない衝動が身体中を駆け巡った。わたしは中二階のエントランスからコンクリート製の幅広な階段を駆け下りると、校庭を全力で走った。ひどく息が切れた。この何十年もまともな運動をしたことが無いのだ。そんな反省をしながらそれでも走った。しかし、校門に立つ少年の姿が近付くにつれ、それが少年などではなく、わたしたちの家に侵入していた男であることに気付いた。男は逃げるでもなくわたしを待っていた。少年時代のわたしとは似ても似付かぬ男の風体。わたしはがっかりして走る速度を緩めた。しかしすぐに思い直して走った。男を捕らえねばならぬ、と思ったのだ。

 しかしようやく校門に辿り着いた時、男はくるりと踵を返すと、校門の外へ走り出た。わたしは思わず

『待て!』

と叫んだが、男はまるで聞こえないとでもいうように、校門の向こうへ姿を消した。わたしも男を追って校門の外へ走り出た。そこは比較的広い公道だったが、人通りが少ない為、街灯の数が驚くほど少ない。街灯というよりも街の灯そのものが少ないのかもしれない。わたしは暗闇の中を四方八方に視線を送った。すると南へ向った先に、男が携帯する光が見えた。どうやら男は逃げる気が無いらしい。しかし、わたしに捕まる気でもなく、まるでわたしを翻弄するように止まっては逃げ、止まっては逃げしているのだ。わたしが道を走り出すと、はやり、というか案の定、男はするすると闇の先を進んだ。

 男がわたしをどこかへ誘っているのではないか、ということに気付くのに、随分時間が掛かった。息切れが酷くなり走れなくなるほど走った後だった。

 そもそも、泥棒の件にしてからが筋が通らない話だ、と思った。あんな長屋に泥棒に入る理由が無いのだ。盗みの対象になるものなど無い筈だった。あの部屋にあるのは何十年も前にわたしたち親子が使っていた布団や棚、タンスなど日用品の類だけだ。そして、もしそれらが欲しいならこの30年、いつでも盗めただろう。それが今になって突然盗もうなどタイミングが悪いにもほどがある。それ以外にあるといえばわたしが数日前に持ち込んだ荷物。しかしその中にあるものと言えば着替えの下着と、歯ブラシ、タオル、出張のサラリーマンが携帯しているものに毛が生えた程度のものだ。

 男が泥棒をするような価値のあるものは何も無かった。少し前、会社に勤めていた頃なら、数社の下請から徴集した見積書をカバンに入れていたこともあった。それらを家に持ち帰り、内容を精査していたこともある。下請業者であれば、是非とも欲しい資料に違いない。この厳しい受注競争の最中であれば、不当な手段を使っても落札したいところなのだ。特に、出版に関わる業界は、どの会社も困窮を極めていた。だがもうすでに、わたしはそのステージにいない。二十数年にわたるそうしたキャリアの全てを自ら放棄したのだ。

 所詮、世の中など肩書きでしか人を見ないのだ、と若い頃よく年長者に言われたが、今つくづくそれを実感できた。今のわたしは、盗まれるものすらないのだ。そして例えば今、犯罪に巻き込まれたなら、新聞はわたしを『住所不定無職』と書くだろう。読んだ人間はわたしを怪しげな人物と決め付けるに違いない。

 そんなことを考えながらも、なんとか男を追跡した。男は相変わらず時、わたしが歩き始めると立ち止まり、わたしの様子を窺ってわたしが近付いてきたところでまた走りだした。明らかに逃げるつもりではないらしい。しかし捕まる気も無いらしい。つまり、わたしをどこかへ連れて行こうとしているに違いない。

「おい!」

と声を掛けてみたが、道路の暗闇がそれを掻き消してしまった。

 ふと気付くと商店街に入った。簡素な商店街で、どの店もシャッターが閉まっていた。廃業している訳ではなく、早い時間に店仕舞いしてしまうのだろう。むしろ、今時こんな小さな店たちが営業していけることが不思議なくらいだった。

『カシショー、やまさ、魚ふさ・・・』

いずれも記憶にある。子供の頃、よく見た看板だった。そんな幾つかの店の看板を見ている間に、男の姿を見失ったように思った。しかし男がわたしを置き去りにする筈が無いのだ。案の定だった、男はまるでそれが目印とでもいうように光を照らしながら店の立ち並んだ先に立っていた。あるいは男の持つ光は、本当にわたしへの目印なのかもしれない、と思った。

「今、行くよ」

と大声で呟くと、わたしは小走りに進んだ。それを見届けた男はくるりと背を向けると店と店の間に消えてしまった。どうやら細い路地に入ったらしい。

 店と店の間を走る細い路地は、コンクリートブロックの塀で両側を塞がれていた。そこに衣服を擦ってしまいそうなくらい細い路地だ。こう暗くては走るのもままならなかった。息が切れていたわたしはちょうど都合が良いとばかりに歩き始めた。真っ暗な路地の何十メートルか先に、男が放つ光があったが再び走り出すほど体力が回復しなかった。光の方も、わたしの追跡する速度が落ちたのを確認したのか、こちらに合わせるようにゆっくりと進み始めた。

 コンクリート塀に触れながら、わたしは進んだ。暗いのでそうするより仕方無かったのだ。もっとも少し先に小さな街灯があって、そこだけくっきりと光の輪が出来ていた。まるで別世界のようなそれは、わたしに何かを照らし出しているように思えた。

 街灯の光の只中まで辿り着いたわたしは、顔を上げ男が放つ光がすぐ先にあるのを確認した。どうやら五十メートル間隔で、わたしに追わせているらしい。泥棒にしては小癪な真似だが、既にわたしはその男を泥棒とは思っていなかった。まあ、そんなことはどうでもいい、むしろ目の前で街灯が照らし出す何かを探す方がわたしには興味があった。そもそも何かを照らし出しているかどうかなんて分からなかったが、そんな予感がしたのだ。わたしの予感などまるで宛にならないことは、ここ数日の出来事でよく分かっていたが、それでも人間という奴は内から湧き上がる予感を信じずにはいられないらしい。

 しかし、予感はどうやら当ったらしい。わたしは小さな落書きを見付けたのだ。それは、風化してブロック塀の模様と化していた。しかし間違いなくクレヨンで描かれた模様だった。古びた緑色のクレヨンの跡は一見、苔でも生したように見えたが、それは街灯の光を受け鈍い色彩を放った。街灯の光がなければ気付くことさえ無かっただろう。

 それは、わたしが描いたものだった。

『そんなとこに落書きしたら叱られるよ』

あの日の由紀の声が蘇る思いがした。わたしが

『だいじょうぶ、だいじょうぶ』

と言いながら緑色のクレヨンで、怪獣の絵を描いた。わたしは人並みの絵は描けたから、一通り描き終えてから全体を見渡すとそれらしい姿が浮かび上がった。大きく口を開いた怪獣は、緑色の火を吐いていた。その先には逃げ惑う人。だがクレヨンで人など細かく描くことは出来ないから、人間など見ようによっては「大」という字にしか見えなかった。

 由紀はもう咎めもせず、わたしの横で絵を眺めていた。

『みんな死んじゃうね』

『そりゃそうさ!怪獣の口から出る火は5万度の熱ささ。それに放射能も含まれてるんだ』

まるで自分の自慢でもするように意気揚々と答えるわたしを見もせず、由紀は

『この人たちの家族はどうなっちゃうんだろう?』

と妙なことを言った。答えに窮したわたしが

『家族、なんて出てこないよ』

と答えると由紀は真顔でこう反論した。

『それはテレビに出て来ないだけで、実際は家族がいるでしょ?』

『実際は、って。実際はこんな人たちいないもん』

『実際はいないかもしれないけど、実際いたら家族はいるでしょ?』

『でも、いなんだもん!怪獣だっていないだろお。だからこの人たちだっていないんだよ!』

わたしは次第に腹が立ってきたのを憶えている。

 その絵にそっと指で触れてみて、それから顔を上げ歩き出した。男が光の中でおいでおいでをしているように思えたのだ。懐かしい思い出の落書きを後にわたしは歩き始めた。そうか、そうだった。わたしは由紀と歩いたのだった。毎日毎日、この路地を歩き、街の中を彷徨った。友だちはみんな塾に行き、家にも帰れず、おばあちゃんの部屋に行くのも義母に気を遣い躊躇う状況だった。そんなわたしたちは、まるで迷子のように街のあちこちを歩き回った。わたしは、あちこちに落書きをし、時間を潰した。日が暮れて、マサ兄が帰るまでの時間をだ。いつの間にかそれが日課になっていたのだ。

 男は、相変わらずわたしが歩を速めれば、自分の早く歩き、わたしが止まれば止まる、を繰り返した。また時折、わたしが駆け出せば、同じように走り出すのだ。ただ一つ

わたしが気付いたのは、男が誘う途はわたしがかつて由紀と歩いた道、ということだ。男がなぜそれを知っているのかは分からない。単なる偶然かもしれない。だがそれを質そうにも、男はわたしとの距離を一定に保ったまま、わたしを近づけようとしないのだった。

 暗がりから突然、現れた光と轟音。それは長野電鉄という地元の私鉄だ。都会と違い田舎の私鉄は静まり返った雑木林の間を平然とすり抜けていく。それが去った後、りんご畑が続いた。街灯も無い畑の間の道は、前を歩く男の光無しには進めないほどだった。退屈な無い道、いつもわたしと由紀はそう思いながらここを歩いた気がする。突然、目の前に真っ黒な壁が聳え立った。いつか映画で見た牢獄の壁のようだった。しかし、それは千曲川の土手だった。巨大な推量を持つ千曲川は、ビルくらいの高さの土手が無いと水害になってしまう、と遠足の際に社会科の教師から聞いた気がした。

 男は土手の中をぐるりと回ると、再び真っ暗な畑の中へ進んだ。わたしは男の放つ光を見失わないよう、足早に追った。墨を塗りたくったような暗黒の上に青みがかった天が乗っている、そんな感じだった。空は夜でも青いのだと、わたしは思い出した。由紀と何度も見た光景だった。明るい光が交錯する都会では、夜空の青さを感じることは出来ないのかもしれなかった。それで忘れていたのか、それとも夜空を仰ぎ見ることすら忘れて生きてきたのだろうか?それだけ幸福だっということだ、と思った。夜空すら忘れて、つまり、自分だけを見て生きてこられたこの二十年ほどの時間、わたしはひどく幸せだったのだ。

 自分の幸福に悔悟の念が湧き上がるのを感じながら、わたしはふと、元の商店街に戻ってきたことに気付いた。目の前にはさっき通り過ぎた「やまさ」があった。

『あのゲーム機、ヤマサに売ってたで』

という裕二の声が蘇った。もう、男のことなどどうでもよくなった。わたしはやまさの、既に電灯の消されたショウウインドウを見詰めた。いつしたショウウインドウの前に、裾を綺麗に刈り上げた華奢な頭をした男が立っているのが見えた。夜の闇の中で、不思議なことにそこだけが昼間だった。浮かび上がるような昼間の光景は、あの日のものだった。学校帰り、この道を通ったわたしと由紀は、そこに父が立っているのを見た。ショウウインドウの一点を見詰め、何ごとが呟いていた。

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2011-01-04 りふれいん-61-

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第9章 ◇悪夢◇

 

「あのゲーム機、ヤマサに売ってたで」

裕二は大変な発見をした、というような口振りだった。そりゃそうだろう、と思った。淳司が買ったゲーム機は、まだ発売されてないものだと言われて買ったのだ。もっとも、近いうちに発売する、とも言っていた。でも一台3万円もするゲーム機なんてこの町じゃ淳司の家くらいしか買えないだろうから、発売しても意味が無いんじゃないかと思っていたのだ。

「早速、五年の小島が買って貰ったらしいで」

「ええ?!ほんとか?」

真人が大きな声を上げた。一瞬、クラスのみんなが驚いて、ボクたちに視線が集まった。二時間目が終わった休憩時間だった。昼休みの次に長い休憩時間なので、みんな仲良し同士がそれぞれ集まって雑談をしていたのだ。

「しーっ」

裕二が人差し指を唇の前に立てるとボクらはみんな肩をすぼめて身を寄せ合った。裕二が小声で話始めた。

「それだけじゃない。中学校じゃ、十人ばかりが買ったらしいで」

「ええ!?3万もするのにかあ?」

今度は健太が大声を上げそうになって、慌てて両手で口を押さえた。すると、さっきまで少し離れたところで話を聞いていた武男が、

「実は俺も買って貰ったんだ・・・」

とばつが悪そうに言った。

「ええー!?」

裕二、真人、健太も、もちろんボクも驚いた。

「武男んち、そんな金持ちだったかあ?」

「金持ちなんかじゃないよ。だってうちの親、公務員だもん」

「でも、お前んち、共稼ぎだよな」

「ん?うん、お母さんも働いてる。別の役所だけど」

「あー、そっかー」

急に裕二が頭を抱えるようにして頷いた。

「うちの両親が話してたで。最近の若い夫婦は共稼ぎが多いって。共稼ぎすりゃあ、二倍儲かるから、知らねえ間に金持ちになるってさ」

「金持ちなんかじゃねえって」

「いいや、それにこうも言ってた。公務員はいいって。ろくに働きもしねえくせに、給料だけはちゃんと入ってくるって。今みたいな不況の時は公務員が一番オトクは商売だってさ」

「オトクなんかじゃねえよ!」

武男は裕二に掴み掛かりそうになった。それをボクと真人がなんとか止めた。

「別に金持ちでいいじゃねえか。悪いことして稼いでる訳じゃねえし」

健太はそう言ってから、はっとした。淳司が頭を掻いていたのだ。

「いや、まあ、おれたち子供には関係ないっつーかさあ・・・」

「いいよ、健太。どうせうちは”強盗”だからな」

淳司が言うと健太は苦笑いを浮かべながら

「そういう意味じゃないってえー」

と言い訳したが、淳司は笑いながら

「いいよいいよ」

と顔の前で手を振った。

「そんなことよりさ。なんか怪しくねえかあ?」

「怪しい、って?」

「まだ発売してない、って話だったろ。それが何で淳司の家にだけ売ったんだ?」

「試作品だからだろ」

ボクらは腕組みをして頭を捻った。そもそも試作品なら東京で試してみればいいのに、なんでこんな田舎に持って来たんだろう?と思ったのだ。

「日電通で作り始めたらしいよ」

小林君という同級生が言った。彼の両親は日電通の工場で働いていた。

「先月、急に話があって、急ごしらえでラインを造ったって話してた」

「ははーん。それでこんな田舎に持って来たって訳か」

「それにしてもさ、試作品を売り付けるなんておかしくね?」

「そうだよ。普通、試作品なんてタダだよな」

「淳司んちがいっくら金持ちだっつったって、試作品が有料っておかしいで」

「なあ、淳司も変だと思うだろ?」

淳司はあまり興味が無い、という表情だった。だが、何も答えないと、余計に煩いことになりかねないと思ったらしい。

「あれはさ、父さんが貰ってきたんだよ」

「え!?」

「だからタダさ」

「タダ!?」

「そ、ほんとはタダで貰ったんだ」

なーんだ、とみんな手品の種明かしをされたような気分になった。

「でもさ、淳司の父ちゃん誰からタダで貰ったんだ?」

「金持ちだから日電通の偉い人と知り合いなんだろ」

「ふーん、やっぱ金持ちはトクだなあ」

淳司は不満げに溜息を吐き、

「うちはさ、みんなも知ってるとおり悪徳不動産屋だから、日電通なんて大手の会社と取引なんか無いさ」

と苦々しい顔をした。みんな淳司の顔を見て押し黙った。明らかに淳司は怒っていた。自分の家を金持ちと言われることを淳司は嫌がっていたのだ。

 その時、ふいに小林君が口を開いた。

「おれ、変な噂、聞いたんだ」

「変な噂?」

「うん。父ちゃんと母ちゃんが噂してたんだけど、あれさ、本当はたくみの父ちゃんが発明したって言うんだ」

「たくみの父ちゃんが?」

みんなが急にボクの顔を見た。突然のことにボクは、答える言葉が思い浮かばなかった。

「ちょ、ちょっと待ってよ。なんで急にうちの父ちゃんなんだよ」

「うちの父ちゃんと母ちゃんがそう言ってたんだ」

「でもうちの父ちゃんなんて、警備員や工事現場の仕事をしてるだけだよ。なんでゲーム機なんて開発できるんだよ」

ボクはゲーム機の話が突然、父さんの話に移ってしまったので、困ってしまった。それにボクの知る父さんは、大人しくて、無口で、ただ毎日、真っ黒になりながら黙々と仕事をする人だった。

「いや、考えられるで」

また裕二が、年寄りのような口調になった。

「おれは聞いたことがあるぞ。たくみの父ちゃんは昔、社長さんだったって。東京のでっかい会社の研究所から独立して、えらい進んだ機械を作る会社をやってたって。淳司の父ちゃんより金持ちだったとも言ってた」

「え?オレ聞いたことないよ。そんなこと」

「いやでもおれも、それ聞いたことある」

追い討ちを掛けるように真人が言った。

「父さんが話してた。あの人は優秀な人だったって」

みんなの視線がボクに集まった。答えに窮したボクは、何も言えずただ戸惑うばかりだった。

「おーい、授業だぞー!三時間目が始まるぞー。みんなー席に着いてー」

先生の大きな声が、ボクらの会話を遮った。途端にチャイムの音が鳴り響いた。お陰でボクはみんなの追及から逃れることが出来たのだ。

 それから放課後まで、ゲーム機の話題は出なかった。次の短い休憩時間はともかく、昼休みにはみんなに問い詰められるんじゃないかって少し不安だったけど、誰もその話題には触れなかった。思い出さなかった、と言った方が正しいのかもしれない。子供の興味なんてそんなものだ。そして、下校時間が近付くにつれ、ボク自身もその話題を忘れてしまった。

 そんなことよりボクは、由紀の姿を探した。昨日はあっという間に先に帰られてしまったけれど、今日は一緒に帰ろうと思ったんだ。それで、この一ヶ月ちょっとの間ゲーム機に夢中になっていたことを謝ろうとも思った。きっと由紀はそれを怒っているに違いない。昨夜だってその件については

『勝手なものね』

と呆れたような口振りだったじゃないか。

 ボクは六時限目の授業が終わるや、一目散に玄関に向かった。淳司や真人、健太に挨拶もせずにだ。これなら由紀を待ち構えることは容易だと思った。背の高い靴箱の陰に隠れて由紀を待った。わざわざ隠れる必用など無いような気もしたが、クラスの誰かに見付かりたくなかったのだ。しかし結構な時間待ったが、由紀は一向に来ない。他の生徒がポツリポツリと少しずつだが玄関を出て行った。

『今日は用事がないのかあ?』

ボクは昨日、由紀が足早に帰ったり、暗くなるまで家に帰らなかったりしたのは、誰かの家に遊びに行っていたのではなく何か特別な用事があったのではないかと考えていた。

「たっくちゃん」

背中から誰かが抱き付いて来た。振り返ると裕二だった。こいつはいつも馴れ馴れしい。ボクと特に仲が良い訳ではないのに馴れ馴れしい。そうやって馴れ馴れしいから、ボクはこいつを好きになれなかった。

「たくちゃん、こんなとこで何してんの?」

意味ありげな言い方をした。ニヤニヤ笑っていた。そして裕二の向こうには淳司、真人、健太が同じように含み笑いを浮かべていた。

 裕二が「ねええ」と、わざとオカマ言葉で答えを催促してきた。

「なんでも無いよ!」

とボクが無視しようとすると

「あれ!来たよ?」

と裕二が素っ頓狂な声を上げた。それに合わせて淳司、真人、健太が

「来た来た」

ふふふ、とひそやかに笑った。ボクは靴箱の陰に隠れていたので、ボクの位置からだと由紀の姿は見えないのだ。それが分かっていて、ボクをからかっているのだった。

 ボクは、彼らのお陰で由紀に逃げられてしまうんじゃないかと思うと気が気じゃなかった。だから下駄箱の陰から由紀の姿を確認したかったけれど、悪友4人が邪魔で出来なかったのだ。

 やがて誰かが靴箱の前で立ち止まる気配がした。そして靴箱から靴を取り出す音、コンクリート製の床に置く音がして、靴を履くと、何のためらいも無く、玄関に向かって足早に歩き始めた。ボクは慌てて追い掛けようとした。また昨日のように逃げられてしまうかもしれないのだ。しかし、出口に向ったボクの視線の先を横切ったのは美奈子だった。

 悪友たちが「来た来た」と言ったのは美奈子だった。ボクをひっかけてからかったのだ。でも、ボクは文句を言えなかった。言ったら彼らの思う壺、

『やっぱりたくちゃん、由紀が好きなのね』

なんて裕二にオカマ言葉で笑い者にされてしまうに違いないのだ。

「残念だったねー、たくちゃん。由紀ちゃんはまだですよ」

裕二が意味ありげな言い方をした。

 ボクと由紀が兄妹であることは、当然みんな知っている。でも同時に、ボクと由紀が血のつながりの無い兄妹だということも知らない者は無いのだ。昨年までは、つまり五年生までは、そんなこと誰も気にしなかった筈なのだ。少なくともボクにはそう思えた。でも、裕二のちんぼがある日突然、びっくりするくらい大きくなったり、髭が生えたりするようになってから、みんな少しずつ色んなことにそわそわし始めたんだ。運動会の練習でするフォークダンスで、男子が女子の肩に手を回すのに、顔を真っ赤にしたり、手付きがぎこちなくなったりする奴らが増えていった。それは伝染病のように少しずつ、でもたちまちに学年中に蔓延し、今や男女が二人でいるだけで、他の児童からのからかいの的になってしまった。

 そして綺麗な子や可愛い子は特にその対象になってしまった。彼女たちの一挙手一投足に皆の関心が集まったと言って良い。結果、彼女たちと親しげに話したりする男子はまるで痴漢でもしたかのように蔑まれた。困ったことに、由紀は学年でも一番の美人と見られていた。勉強が出来、スポーツも万能というところが、彼女の価値を更に高めていたと言っても良い。欠点といえば少し無口なだけで、それすら神秘的な魅力に見られる方が多い。ボクにすればいつまで経っても真っ黒な男の子のような妹に過ぎないのだけれど、周囲がそれを受け入れる時期は過ぎてしまったらしい。

 結果、血の繋がらないボクらが、一つ屋根の下で暮らしているという事実が、みんなの妄想を書きたてた。女子の中には勝手なロマンスを妄想する者もいた。ボクら兄妹は、好奇の目で見られるハメになったのだ。

「たく、なにやってんの?」

振り返ると由紀がいた。靴箱の最上段から靴を取り出していた。

「またみんなでゲーム?」

「違うよ。もう帰るんだ」

「ふうん。じゃ、一緒に帰る?」

ボクが「うん」と答えると、裕二が

「由紀ちゃん、たくみはずっとあなたを待ってたんですよ」

と芝居染みた口振りで言った。しかし由紀はまった動じなかった。

「へえ、そりゃ兄妹だからね。帰る方も一緒だしね」

と軽く返した。往なされた思いをしたのか、裕二は白けたように黙り込んだ。

 その時、ボクは聞いたんだ。由紀が

「たく、帰るよ」

と言った言葉が、コンクリートの壁や天井、床でまるで洞窟のように響き渡ったのを。なぜそんな風に聞こえたのかはよく分からない。ただ、少しの間、由紀の言葉は玄関に木霊していた。

 ボクと由紀が校門を出ると、玄関から出たすぐの中二階の位置にあるエントランスから悪友たちが恨めしそうな顔をこちらを見ていた。

「熱いよお二人さん!」

と叫んだのは相変わらず裕二だった。他の三人、真人、健太、淳司は白けている感じだった。当たり前だ。ボクにしてみれば、例え血のつながりが無いとはいえ、由紀は妹以外の何者でも無かった。第一、同級生には黙っているが、ボクと由紀はいまだに一緒に風呂に入っているのだ。背中を流し合ってもいた。二人で湯船に入り、潜水ごっこや手の平で作った水鉄砲で湯を掛け合ったりしていたんだ。だから誰がなんて言おうとボクらは兄妹で、・・・しかしそれにしては由紀の方が大人び過ぎているのは否めない。背も学年で一番高いし、勉強ができるせいかどこか大人びていた。それに比べてボクは、まだまだ大人になるには時間が掛かるらしい。裕二など、大人と変わらないくらい毛が生えていたりするんだ。

 由紀が姉で、ボクが弟だったらちょうど良いのかもしれなかった。ボクは二人で歩くたび、いつもそう思うんだ。行き先を決めるのも、先を歩くのも、立ち止まって辺りを見回すのも由紀だった。ボクは由紀の後を付回しているに過ぎない。

 ところで今日の由紀は様子が変だった。いつもは遠回りして帰るくせに、今日に限って真っ直ぐ長屋に向った。何か特別な用があるのだろうか?と思ったが、そうでもないらしい。ボクの問いに由紀は

「ん?別に」

と簡単に答えたんだ。その割りに由紀は時間を気にしているようだった。窓の外から柱時計が見える家の前で立ち止まっては、今の時間を確認しているようだった。

「やっぱり何かあるの?急いでる?」

ボクが訊ねると由紀は突然、不機嫌そうに横を向いた。それから

「うるさいわねえ!黙って歩いて」

と怒鳴ってから俯いた。自分自身が一番驚いたように見えた。

 りんご畑の向こうに屋根が小さく一つ見えた。最近、建った関口さんという家だ。元は長屋の向かいの部屋に住んでいたが、貯めたお金で建てたという。父親は郵便局員で、公務員らしい四角い建物だとボクは思っていた。

 その家を越えるともう長屋の壁がすぐそこに見えた。北側の壁は、長屋の背中に当る。壁伝いに表に回った。コの字型に作られた長屋の中庭に出た。ボクと由紀は慎重に家の様子を窺った。マサ兄が来ていないか確認したのだ。マサ兄が居る所へ帰ってしまうと義母に酷く叱られる。奥の部屋から声だけしか聞こえないのだが、まるで仇に向っているかのような激しい口調なのだ。きっと顔も鬼のように恐ろしいものになっているに違いない、とボクは密かに思っていた。

 マサ兄がいるのかいないのか、家の外からは分からなかった。ボクは不安になって由紀の袖を引いた。

「ねえ、いつもみたいにどこか行こうよう。こんな早く帰ったらまた叱られるよ」

でも由紀は動かなかった。

「由紀い、松川行こうよ。それとも滑り山の方がいい?」

由紀は首を左右に振った。

「じゃ!遠いところで切通しの向こうの小山は?神社の境内で鬼ごっこして遊ぼうよ」

「嫌!絶対に嫌!」

今日の由紀はどうかしてる、とボクは思った。普段なら由紀の方からボクを誘うのに。

 意を決したように由紀は、ボクらの家の引き戸を開け始めた。少しずつ、音を立てずに隙間を開け始め、やがてボクらが一人ずつなら出入り出来る程度の空間が出来た。まず由紀が、滑り込むように入った。続いてボクが侵入すると、今度は静かに引き戸を閉めた。締め切る時、一瞬だがピシャッという木と木が弾ける音がした。

 ボクらが侵入した部屋は、静まり返っていた。急に静まり返ったような気もするし、ずっと静かだった気もする。由紀が耳に手を当て、部屋の中の音を探った。だが何の音もしない。人の気配も感じられなかったから、ボクは

「マサ兄来てないね」

と声を上げてしまった。すぐさま由紀に手の平で口を封じられた。耳元で由紀が激しく叱責した。もちろん、音にならない声だ。

『馬鹿ね!隠れてたらどうするの』

ボクも同じ声で答えた。

『誰もいないよ。義母さんだっていない。きっと今日は来ない日なんだよ』

由紀はう〜ん、と唸るような仕草をしてから、目の前を指差した。奥の部屋を覗いてみようというのだ。そこはボクらにとって謎の部屋だった。マサ兄が来ると決まって義母と二人でその部屋に篭りっきりになるのだ。義母が怒る声も、決まってその部屋から聞こえて来るのだ。

『えー?もしもマサ兄がいたら大目玉だよ』

『だから、しー、静かに』

ボクらは鼠のように四つん這いになった姿勢で、奥の部屋に近付いた。家の中は相変わらず静まり返っていた。それはマサ兄と、そして義母の不在を示していた。

 ボクは、そういえば?と初めて疑問に思った。マサ兄が来ると何故、二人は奥の部屋に行ってしまうのだろう?話をするなら居間でいい筈だし、居間にはテレビもあるし、卓袱台だって居間にあるんだ。

『ばか!』

小さな声で、由紀がボクを罵倒した。まるでボクの頭の中を見透かしているようだった。あるいはボクは、頭の中で思ったことを口に出して言っていたのだろうか?ボクの目の前で由紀が奥の部屋の前に辿り着いた。襖で仕切られた向こう側が奥の部屋だ。夜は布団を敷いて寝床に使っている。

『開けてみる?』

ボクの問いに由紀は首を左右に振った。そして顔を横に向け、耳をゆっくりと襖に押し当てた。中の音を聞いていた。ボクも由紀の真似をした。静かに耳を近付けると、洞窟の中にでもいるような、低い風の音がした。それ以外、何の音もしない、そう思った時、ボクらの耳に大人の話し声が聞こえてきた。

 それはかすかな音だったが、ボクらは聞き逃さなかった。普段聞きなれている義母とマサ兄の声だったから。声は、意図して小声としていることがすぐに分かった。でもボクらの耳は、そんな微かな会話の内容も聞き逃さなかった。

『やっぱりさ、念のため見てこようか?』

という言葉が聞こえた。義母の声だった。すぐにマサ兄の声がそれを否定した。

『いらねえよ』

『でもさ、もしあの人だったら』

『いいじゃねえか今更よう』

『そりゃそうだけど』

『もうとっくく了解済みの話じゃねえか』

まさ兄が小さく『くっくっくっ』と笑うのが聞こえた。

『今更見られてもなんのこたあねえさ。文句言う度胸もねえんだからな』

『そりゃそうだけど、気味悪いじゃないか』

『そっかな?俺は気になんねえ。むしろ見せ付けてやるのも面白えな』

『やだ!悪趣味だねえ』

二人の低い唸り声が響いた。顔を見合わせて笑っているらしい。

 それで会話は途絶えた。ついで、布団が捲くれる音がした。布が擦れ合う音がして、襖が揺れ始めた。すると由紀が襖から顔を上げた。しばらく襖を凝視した後、顔を左右に向けて何かを探し始めた。ボクが

『どうしたの?』

と訊いてもそれには答えず、襖の隅から隅に目を凝らした。でもすぐに一番壁際に何かを見付けたらしい。鼠のような格好のまま、四つん這いの忍び足で壁際まで移動した。

 由紀は壁に頭をくっ付けると、そのまま顔を前にずらし襖の端に押し当てた。どうやら襖の端を覗き込んでいるらしい。

『何してるの?』

と訊いてみたが、ボクはまるで由紀に無視されてしまった。そこでボクは由紀の隣りに行き、由紀の頭の上から同じように襖の端を覗き込んだ。そこには隙間があった。1センチほどの隙間。子供が部屋の中を覗きこむには十分な隙間だった。

 隙間の向こうに広がる部屋には、布団が拡がっていた。といってもボクらが寝る時とは違い、一つしか敷かれていない。また掛け布団が足元に丸まって山を作っていた。その足元が、ちょうどボクらが覗き込む襖の方だった。だからボクらは布団の作った山が邪魔でその向こうが良く見えなかった。だが突然、足が一つ山の向こうから落ちて来て山を潰した。その為に向こう側の様子が見えた。二人が裸でいた。それはマサ兄と義母だった。

 義母の上にマサ兄の乗っていた。二人は懸命に身体をぶつけ合っているように見えた。やがて掛け布団が形作っていた山がすっかり崩れ、全体が見え始めた時ボクはマサ兄の動きに合わせるように見え隠れするマサ兄のちんぼに目を奪われた。

 それは、

『ほーれ、どうだ!』

と裕二が校舎の裏で見せてくれたちんぼと同じだった。

『おめらはまだ毛も生えてねんだろ?』

と裕二は自慢げだった。

でもボクは、いやボクや淳司や真人や健太は、毛よりも裕二のちんぼの大きさに驚いていた。夏にプールの着替え室で見た裕二のそれは、ボクらのとさして違いは無かった。例えるなら小指程度のものだったのだ。それが、目の前の裕二のそれはまるで鰻のように見えた。

『ははは、これか。こりゃ毛が生えてきたら急にでかくなったんだ』

裕二はこれ見よがしに手の平で掴んで見せた。

『弄ってるともっとでかくなって固くなんだぜ』

言いながら裕二は自慢げに手の平で擦った。するとたちまち棒そっくりになった。お寺の和尚が木魚を叩く撥(ばい)という棒にそっくりだった。

『いけね!これやってると気持ち良くなっちゃって』

おお!という声を上げて突然、裕二は蹲った。顔が真っ赤だ。

『どうしたんだ?裕二』

心配そうに淳司が声を掛けたが裕二は答えなかった。

『腹痛いのか?』

真人の問いに裕二はしぶしぶ頷いた。

『ばっかだなあ。ちんぼなんか出してるからだよ。保健室に行け!おいみんなで連れてってやろうぜ』

真人が裕二の腕を取ろうとしたが裕二は首を左右にふり嫌々をした。

『おい!いいのかよ。大丈夫なのか?』

『一人で行く』

『だって裕二、立てるのか?』

『立てるさ。でもおめえらが居たら立てねえ』

『なんでだ?』

『なんでもなんだよ』

みんな裕二の言う意味が分からなくて、裕二の言うようにこのまま一人残して教室へ帰ってしまって良いやら、思案したまま立ち尽くしていた。その時、突然健太が

『なんか臭え!』

と叫んだ。

『そうか?』

『臭えよ!なんか変な臭いがする』

言われて見ると今まで嗅いだ事が無いような臭いがした。

『なんだこりゃ?』

『なんの臭いだ?』

皆が口々に騒ぎ始めた。でも、すぐに収まった。裕二が叫んだのだ。

『おめえら帰れ!帰ってくれよお、』

裕二は『おっおっおっ』と泣き始めた。ボクらは泣き続ける裕二にただ驚き、裕二に何の言葉も掛けられぬままその場を去ったんだ。

 マサ兄と義母は裸で抱き合ったまま、必死に動いていた。肌には汗が浮き湯気が立ち昇っているようにさえ見えた。ボクは

『ね、何してるんだろう?』

と由紀に訊ねようとしてやめた。由紀がそれを拒んでいるように見えたからだ。でもボクは、どこかで見たことがあるな、と思った。一生懸命思い出してみると、社会見学の時に見たあれだ、と思い出した。

 あれは螺子工場だった。コンプレッサーが熱い蒸気を発しながら力強く鉄板を突くのだ。コンベアの上の鉄板が、少しずつ移動するのに合わせて

とーんとーんとーん

リズミカルな音を立てながら何度も何度も繰り返し聞こえた。

 その、繰り返される音は人間が発するものとは明らかに異質だった。プログラミングされた機械特有の動きだ。

 マサ兄と義母はまだ同じ動きを繰り返していた。コンプレッサーの奏でる音、規則正しい音が聞こえてくるようだった。それは人間では叶わぬ音の筈だった。心を持たない機械だけが発する音。吹き出る汗だけが、コンプレッサーが発する唯一の悲鳴に感じられた。永久に繰り返されると思われた正確な動きも、いつかは終わりが来ることを暗示していた。

 二人の身体から噴出す汗、立ち昇る湯気が濃さを増したように思えた。壊れる寸前の機械がブレーキを失ったように暴走し始めたように見えた。ボクは思わず

『ねえ由紀』

と由紀に助けを求めた。しかし由紀は襖の隙間に険しい視線を向けたまま、ボクを振り返ってはくれなかった。

 その時、ボクは自分の身体に変化が現れているのを感じだ。ボクらは襖の隅に身を寄せ合い、折り重なるようにして狭い隙間から覗いていた。そしてボクはボクの身体にぴったりとくっ付いた由紀の身体が、これまでと別のもののように感じたんだ。淳司や真人や健太の身体とは異なる別の生き物の身体のように思えてきた。突然、そんな思いが湧きあがったボクは慌てて由紀の身体から離れた。でも、由紀の身体の感触が、ボクの血液を逆流させる方が先だった。

 突然、

ドクンッ

という大きな音が聞こえた。それは由紀には聞こえなかっただろうと思う。なぜならボクの耳の中でした音だからだ。その音の震源地はボクの心臓だった。大きく脈打った心臓から大量の血が流れ出した。それは次第に激流となっていったらしい。激流はあっという間に身体を巡った。次の瞬間、体内のあちこちで波打った血流はひっぽんの波にまとまり一つの方向を目指して突進した。大量の血が一気に流れ込んだの場所は逃げ道の無い袋小路だった。

 恐る恐る手に触れたそれは、何ものかが分からなかった。ボクはパンツの中に手を入れたまま由紀を見た。由紀の様子を窺おうと思ったんだ。しかし、由紀は襖の隙間から眼を外し、ボクを見詰めていた。

『裕二のちんぼがある』

ボクはなんだかひどく卑怯な言い方をしてしまった気がして、後悔した。後悔は、パンツの中を汚した白濁した液体をより醜いものに見せた。ボクは由紀に嫌われたかどうかがひどく気に掛かった。

「あんたたち!なにやってるの!」

ばしゃん、という乱暴に襖が開かれる音とともに罵声が聞こえた。義母が全裸のまま立っていた。全身の汗は既に引いていた。むしろ真っ青な顔が、部屋中の空気を凍り付かせた。

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◇◇

 真っ暗な小学校の玄関は、外からの様々な光を受け入れ、天井や壁に奇妙な模様を描いていた。ボクはなぜここにいるのだろう?まるで記憶喪失になったように、そんなことを考えていた。でもボクはそれを知っていたんだ。ボクがここにいる理由は、ボク自身がここを選んだからだ。

 ほんの十五分ほど前まで、ボクは由紀の後を尾けていた。少し前には考えられないことだった。ボクらはいつも一緒で隠し事も無かった筈なのに。大人になるということは、こういうことを指すのだろうか?とボクは少し寂しくなった。

 ずっと前から、たしか小学校に上がった時からボクと由紀は毎日、一緒に下校していたんだ。それはボクらが血の繋がらないとはいえ、兄妹だったから、そして他のみんなは塾に通っていたが、ボクらの家は貧しかったから塾に通うことが出来なかったから、ボクらはずっと二人でいるしか無かったんだ。幸いだったのは、ボクらは互いにお互いの存在を疎ましく思うことが無かった。ボクはお互いを空気のように思っていた。煩わしさを感じるほどの存在感もなく、しかしいないと息苦しさを感じた。

 そんなボクらだからお互いのすべてを知っていた。朝起きてから学校に一緒に行き、下校する。狭い家だから勉強する時も近くだ。おばあちゃんの家に行く時も一緒。風呂に入る時も、寝る時も一緒だった。

 ところが数日前から由紀の様子がおかしくなったのだ。数日前と思うが、実際はもっと前だったのかもしれない。ここ一、二ヶ月というもの、ボクは父さんの古い友達が持ってきたゲーム機に夢中になっていた。その友達が開発したのだという。タダで貰える訳ではなかったので、ボクらの家ではとても買えなかったから、金持ちの淳司の家を紹介した。淳司の家は父親が不動産取引で大儲けしたから、ゲーム機など簡単に買ってくれた。ボクは授業が終わると真人、健太と毎日のように淳司の家に入り浸った。だから、一緒に帰る習慣を最初に破ったのはボクだったんだ。でも、ゲーム機に夢中だったボクはそれがそんなに大変なことだったとは、まったく気付かなかった。

 しばらくしてゲーム機に飽きが来た頃、ボクはまた元の生活に戻ろうとした。いつものように由紀と一緒に帰ると思ったのだ。ところが由紀は、ボクを待たずにさっさと校門から出て行ってしまった。

「おい、待てよう由紀ぃ」

と声を掛けても、素知らぬ振りをしてエントランスから階段の向こうへ消えて行った。ボクが靴を履いて、階段まで出た時には校門の向こうへ姿を消した後だった。よほどの早歩きで出て行ったに違いない。仕方無しにボクは一人で家まで歩いた。

 ゲーム機に飽きた友人達は、淳司の家に集まることもやめた。まっすぐ自分達の家に戻って塾へ行く支度をするのだ。だから放課後のボクは由紀がいなければ一人切りだった。一人で街並みを横切り、りんご畑を通り過ぎながら、なんで由紀はボクを置いて帰るんだろう?と考えてみたが思い付かない。ボクが、もうゲーム機に飽きてしまったことを知らないのかもしれない、とも考えたが、随分と早く歩くのが引っ掛かった。由紀とボクは、いつもゆっくりゆっくり道草をしながら帰ったのだ。なるべく時間を掛けて、遅い時間に家に着くように歩いた。あまり早く家に帰るとマサ兄がいることがあった。夜も来るくせにご苦労なことだ。町役場に勤めているくせに、昼間から義母のところへ来ることが何度もあった。水道課の修理係だから、どこかへ修理に出ると嘘を吐いて義母に会いにくるのだと、町の大人たちが噂していた。

 大人たちの噂は単なる噂に過ぎないが、ボクも由紀も早い時間に家に帰り義母に追い出されたことが何度かあった。それに懲りたボクらは、なるべく五時近辺まで家に帰らないようにした。どうやらマサ兄は、その時間に一度、役場に戻らなければならないらしいのだ。そこでボクらは、町の西外れの千曲川まで歩いて行ったり、東に壁のように立つ雁田山の縁沿いを散策したりした。そして切通しの向こうの、踏切を渡った先にある小山にも登った。上り口に門があって、自然石を使った石段が連なっていた。そこを登ると広場を、その奥に社が立っていた。ボクらは社の周りで鬼ごっこをしたものだった。そして夏には、虫取りをした。

 本来、クワガタカブトムシは朝方でないと捕まらないが、こういう人のいない場所には間抜けな奴らがいるらしい。まだ明るい日差しの中で警戒もぜず木の汁を舐めているのだ。ボクらはそれを眺め、時に袋の中へ入れて持って帰った。もっとも義母は虫嫌いだったから、長屋の近くまで来たところで、逃がしてやるのだが。それから秋には茸を採った。もっとも毒茸と食用の区別がつかないので、適当に採っては社の階段に置いておいた。採ることに楽しみを感じていたのだ。冬は、麻袋を持ってきて雪の坂道を滑った。春には裏庭一面を黄色に染める菜の花を飽きもせず見詰めていた。

 マサ兄が家にいる、という不幸のお陰でボクらはよく遊んだ。毎日遊んでも飽きなかったものだ。

 ところが、まるでそんなことなど遠い昔の出来事だとても言うように、由紀はボクを無視するように一人で帰ってしまった。ボクがゲーム機に夢中になって、淳司の家に入り浸りになっていたことを怒っているのだろうか?家に着いたら謝ってみようと思いながらボクは足早に、次第に駆け出して、結局、途中から全力疾走で家に向った。

 長屋の中庭に着くと、恐る恐る家の引き戸に手を掛けた。耳を澄ませて中の様子を窺った。すると突然、誰かがボクの頭を抑えた。振り返るとおばあちゃんだった。

「たく、お帰り」

おばあちゃんは満面の笑みを浮かべていた。

「お菓子あるよ。おいで」

ボクの肩を抱くと半ば強引に、自分の部屋に向った。子供心にボクはマサ兄が着ていることを悟った。だから、おばあちゃんに逆らわなかった。

 でも、ボクは先に帰った由紀のことが気に掛かった。

「ねえ、由紀は?」

しかし、おばあちゃんは首を傾げながら

「由紀ちゃん?はて、見てないよ」

と答えた。

「そんな筈無いよ。だって、ボクより先に帰ったんだ」

「ん?一緒じゃ無かったのかい?」

「うん。ボクは一緒に帰ろうと思ったんだけど、由紀が早歩きで行っちゃったんだ」

おばあちゃんは首を傾げ、何かが得ている様子だったが、すぐにまた笑顔を浮かべ

「きっと、お友だちのとこへ寄ってるんだよ」

とボクの背を押し

「ほら、お上がり。お菓子食べて行きな」

とか

コーヒー牛乳もあるよ」

と言った。

 でもボクは由紀のことが気になって、お菓子どころではなかった。友だちはみんな塾に行っている時間だったから、由紀が誰かの家に寄っているということは考え難かったのだ。

「ボク、由紀のこと探してくるね」

おばあちゃんが台所からコーヒー牛乳の瓶を盆に乗せて来た。それを振り切るようにボクは駆け出した。

 けれど、幾ら町の中を走り回っても由紀は見付からなかった。よく遊びに行くとすれば西の外れの千曲川か、東の外れにある雁田山だった。

 千曲川は北の外れの篠井川との合流地点から、上流の松川との合流地点まで走ってみたけど、由紀らしい姿は見付けられなかった。そのまま松川を東に歩き、雁田山に突き当たったところから、麓に沿って走る農道をずっと下った。よく遊んだ滑り山には誰の姿も無かった。そのまま北に歩くと長野電鉄線見えてきた。切通しの向こう、踏切がある辺りでちょっとした小山に登った。入り口に古い門があり、登り切ると簡単な社があるのだ。もうそこまで行くと隣りの中野市だったが、ボクらは時々そこへも遊びにいったのだ。

 でも、由紀はいなかった。

 夕陽が西の空を赤々を染めていた。この辺りはひどくカラスが多くて、夕方になると童謡さながらに啼き喚くのだ。本当に帰れ、帰れと促しているように聞こえた。仕方なしにボクは帰路に着いた。不思議なもので、帰りはとてつもなく長く感じた。行きは、町の縁にそってぐるりと一周回ったから大変な走ったことになる。でも夢中で走ったせいか、あまり疲れなかった。でもその何分の一かの距離だというのに、帰り道は長い。疲れがどっと肩に乗ってきて、思い荷物を背負っているような感じだった。ボクは歩き疲れて道端の大きな石に腰を降ろした。もうだいぶ歩いたから、長屋まではもう少しというところだったが、足が棒のようになっていたのだ。

 石は、畑の間を通る農道の脇に転がっていたものだ。畑を耕した時に出てきて、野良仕事に邪魔にならぬよう避けられたものだろう。この畑を横切れば長屋まではすぐだった。少し前はそうしたものだが、一昨年くらいから巨峰という葡萄の畑に転作されて、どこも針金製の網が掛けられていた。だから道なりに、すこし遠回りして帰らなければならないのだ。

 疲れていると、ほんの少しの遠回りも億劫になるものだ。ボクは誰に当るべきかも分からない不満をブツブツ言ってみたが、誰も聞いてくれる筈も無かった。仕方なく顔を上げてみると、辺りはすっかり暗くなっているのに空だけはまだ赤かった。星が幾つか見え始めたと思ったら、最近、畑を潰して造られた団地の光だった。その時、突然、車の走る音が近付いてきた。暗闇の向こうでライトが瞬いた。ライトはすぐにボクの目の前を通過した。軽トラックだった。見覚えがあるような気がしたが、農家の多いこの辺りでは、軽トラックなんてほとんどの家にあるのだ。

 軽トラックはボクの前を通り過ぎると、百メートルくらい行ったところで急に停まった。

 ドアが開くと小声で二、三会話が交わされ、それからまたドアに閉まると軽トラック発進した。誰かを降ろしたようにも思えたが、それらしき人影は見えなかった。

 でもボクはそれをきっかけに石から腰を上げた。そして帰り道を歩き始めた。葡萄畑が終わりりんご畑がちょっとあって、すぐに砂山が見えた。時々、ダンプカーが砂を積み下ろしに来る場所だ。地元の大きな建設会社が所有する敷地らしい。ここまで来れば長屋から歩いて五分ちょっとの場所だった。小学校2、3年の頃、よくこの砂山で由紀と遊んだ。ダンプカーはたまにしか来ないので、ボクらは大きな砂場代わりに使っていた。二階建ての家の屋根ほどもある大きな砂山だったから、一番上まで登って、そのまま砂が崩れるのに任せて滑り降りてくるのは楽しかった。だが、大人に見付かると、とても怒られた。そのせいでいつの間にか遊ぶのをやめた場所だった。

 ボクは辺りを見回した。当然、こんな時間だから誰もいなかった。もう真っ暗なのだ。にも関わらず、砂が崩れる音がした。それは

ザザーッ、ザザーッ

と波が打つような音がした。ダンプカーが来て積み下ろしの作業をしているにしては、音が小さ過ぎる。普段は、エンジン音や機械の音で耳が劈けそうになるのだ。でも今聞こえる音は、耳を澄まさなければ聞こえないほどのかすかなものだった。ボクはもう少し砂山に近付いてみた。近付くほどに音は鮮明になった。それにつれボクはその音に聞き覚えがあることに気付いた。それはボクらが砂場で遊んでいた時によく聞いた音だ。砂山の頂上から砂が崩れるのに任せて滑り降りる音だった。でもこんな真っ暗な中、遊んでいるなんで、どこの子供だろう?不思議に思ったボクは立ち止まった。

 音の出所を探してボクは砂山の周りをグルリと回ってみた。どうやらボクが立つ場所の反対側から音が出ているらしいのだ。やがて砂山影から人の姿が現れた。真っ暗な闇の中、そこだけ電灯に照らし出されていた。砂泥棒なんて居ないだろうけど、夜間の警備用の電灯だった。その光の中には由紀がいた。

「由紀!どうしたの?」

何してるの?と言うボクの顔を見て、由紀は驚いたようだ。目を丸くしてボクを見詰めていた。それから

「なんでいるの?」

と問い返してきた。

「え?なんでって、心配だから探しに行ったんだよ。だって一人で帰っちゃうし」

「一人で?」

「うん、いつもみたいに一緒に帰ろうと思ったのに」

「いつもみたいにって、毎日、淳司の家に行ってたじゃない」

「うーん、でももう飽きて来ちゃったから」

「飽きたからまた私と遊ぶって訳?」

「いや、そういう意味じゃないけど。みんなも毎日、塾に遅刻して怒られてたし」

「ふーん」

由紀は大きな溜息を吐くと

「勝手なものね」

と言いながら、また砂山の頂上に向って登り始めた。ボクは慌てて

「もう真っ暗だよ」

と声を掛けたが、由紀は知らん振りしたまま登って行った。

「だから何よ?」

「こんな時間になんで遊んでんだよ?」

「遊んで?」

ああ、と何かに合点がいったというように由紀は頷いた。それから

「ははは、たしかにね。いつの間にか昔みたいに遊んでた」

言いながらまた

ザザーッ、ザザーッ

と波が打つような音を立てながら滑り降りてきた。

「猫がいたのよ」

長屋の明かりを見詰めながら、ボクらは歩いていた。もうすぐ家に着く。

「猫?」とボクが問うと、由紀は大きく頷いた。

「うん、子猫

「どこに?」

「今日じゃない。昨日いたの」

「なんだ、もう誰かに拾われたんじゃないか」

由紀は、そうかなあ、と言いながら砂山を振り返った。それから

「助けて上げるべきだったな」

と呟いた。

「助けるって?」

「埋まってたのよ」

「埋まって?どういうこと?」

「知らない。昨日の同じ時間、あそこを通り掛ったら声がしたの。それで探したら砂山の天辺に埋められてたわ」

「え?生きたまま?」

「そう」

「え?もしかして由紀、それを助けなかったの?」

「そう」

「なんで?死んじゃうかもしれないじゃん。昼間、ダンプが来て砂を積む時、気が付かなかったかもしれないよ」

「そう」

「え、ちょっと」

由紀ひどいよ、と言ってからボクははっとした。由紀は泣いていたんだ。

「ひどいよね。なんであんなひどいことしたんだろ。助けないなんて、わたしも埋めた人と同じ。ひどいことしちゃった」

由紀は涙を拭いもせず、真っ直ぐに前を見たまま歩き続けた。ボクはそんな由紀に何も言えぬまま、長屋に着いてしまった。

 「ただいま」と言ってから、義母の不愉快そうな顔をチラリを見て、貧しい食事を口にし、食器を片付けると外へ出た。すぐに手招きしているおばあちゃんを見付けると、吸い込まれるようにおばあちゃんの部屋に入った。少しして、由紀も着た。相変わらず由紀はおかずを半分、紙で包んで持ってきた。

「由紀ちゃん、もういいよ持って来なくって。こっちで食べるものはおばあちゃんが作るからね」

毎晩のようにおばあちゃんはそう言うが、由紀は毎日毎日、持って来るのだった。なぜそうするのかはボクには分からなかったけど、おばあちゃんはそれ以上、何も言わなかった。

 いつもと変わらぬ日常がそこにあった。でも、ほんのちょっとした綻びに気付かなかったのはボクだけだったのかもしれない。

「由紀ちゃん、どうしたんい?」

おばあちゃんが厳しい顔で由紀を見詰めた。由紀は身を固くして首を左右に振っていた。ボクはおばあちゃんのこんなに怖い顔を初めて見た。

 おばあちゃんは由紀の前に膝を進めると、由紀の手を取った。由紀は、それを拒否するように首を横に向けた。でも、おばあちゃんは許さなかった。ボクには、おばあちゃんが由紀を苛めようとしているように見えたんだ。

「ねえ、どうしたの?」

知らぬ間にボクの声が震えていた。ボクらの身の回りで、唯一優しいと思っていたおばあちゃんが突然、怖くなったことがボクにはショックだったのだ。

「やめてよ、おばあちゃん」

由紀を苛めないで、と言おうとするボクを遮るようにおばあちゃんは大きな溜息を吐いた。

「もう片方の手も見せてご覧」

由紀は横を向いたまま、首を左右に振った。するとおばあちゃんは、大きな声でもう一度言った。

「見せなさい!」

ボクは怖くてもう、何も言えなかったんだ。由紀が泣いていた。悪戯を見付かった子供みたいに泣いていた。その時のボクにはそのようにしか見えなかった。

 おばあちゃんは由紀の両手をしっかりと握ると、左右を見比べると

「何があったんだい?」

囁くように由紀に訊いた。やさしい口調に戻っていた。でも由紀はいやいやをするように小さく首を左右に振るだけだった。おばあちゃんはそれ以上、聞こうとはしなかった。その代わり片手で由紀の両手を握り締め、もう一方の手で長いこと手首の部分を摩っていた。ボクが覗き込むとおばあちゃんはそれを遮るように両手で由紀の手全体を包み込んだ。

 二人はずっとそのままの姿勢でいた。ボクの知らないところで、握り締めた手と握られた手を通して二人は何かの会話をしているようにも見えた。でも何を話しているのかボクには検討も付かなかったんだ。

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2010-12-31 りふれいん-59-

[]◇

 わたしの記憶の中でさしたる地位を占めていなかった角の婆さんが、わたしの母方の祖母だったらしい。そしてそれは多分、正しいのだろう。心の中でガチャリッと大きな音が響いた。何かの鍵が開いた気がした。そして、押し込められていた記憶の数々が、頭の中で巡った。

 淳司の家を出て、わたしは淳司の母が言った公営団地、わたしたちが住んでいた長屋に急でいた。そこは、わたしの今のねぐらでもある。だが、今は早くそれ確かめたい気持ちがわたしの足を急かしていた。

 ふいに頭痛の予感がした。しかしあっという間に去っていった。きっとこうして頭痛は止んで行くのだろうと思った。頭痛は心の中で過去の記憶に掛けられた鍵を開けるための苦しみだったに違いない。

 長屋の屋根が見え始めた。それが近付くにつれ、押し込められていた記憶が鮮明に蘇り始めた。

『おばあちゃん』

そうわたしは呼んでいた。引っ込み思案だったわたしは、なかなか継母に馴染めなかった。芳江という継母の方も、それを感じていたのだろう。わたしはあまり良くはして貰えなかった。

 小学校から家に帰ると、時々芳江の機嫌が悪い日があった。そういう日は、まともな夕食が貰えなかった。夜遅くまで働いている父が、夕食時にはいなかったこともある。芳江はこれ見よがしに、実子である由紀とボクの食事に差を付けた。それは小学生にとって辛いほど大きな差だった。

 そんな時、ボクはコの字型に建つ長屋の真ん中に設置されたブランコで時間を過ごした。ボクの分は一口で済んでしまうから、継母や由紀が食べているのを見ているのが辛かった。そして、そんなボクを見ながら食事をするのが由紀には辛いようだったから。

 それからもう一つ、そうやってブランコに乗っていると、必ずおばちゃんが声を掛けてくれたんだ。

「たくみや、こっちおいで。おばあちゃんのとこへな」

ボクは継母が見ていないのを確認すると足早におばあちゃんの部屋に入った。前妻の母親が隣りに住んでいることを継母は激しく嫌がっていたから、ボクは継母の前ではおばあちゃんと仲良くしなかった。

「ほらたくみ、コロッケ揚げたよ」

おばあちゃんの料理といえば、決まってコロッケカレーだった。

「今日は挽き肉が安かったからね。いつもより沢山入れたよ」

おばあちゃんの作ってくれるコロッケは、いつも暖かくて優しい味がした。きっと母も同じコロッケを作ってくれたに違いない。ボクはそれを食べるたび、亡くなった母のことを思い出してしまうのだ。でもボクは涙が出そうになるのを堪えるのが上手だったから、

「とってもおいしい!」

って笑顔をおばあちゃんに向けた。おばあちゃんも嬉しそうに「そうかそうか、沢山お食べ」と笑っていた。

「あれ、由紀ちゃんだよ」

窓から外を覗きながらおばあちゃんが言った。夕食を終えたらしい由紀が、ブランコの周りできょろきょろしていた。それからこっちへ向って歩いてきた。おばあちゃんは窓から由紀に向って「おいで、おいで」と手を振った。それに気付いて由紀は継母が、いや由紀にとっては実の母親が、見ていないのを確認すると由紀もおばあちゃんの部屋に入って来るのだ。

「たくみに、これ」

いつも由紀は母に見付からぬよう、自分のおかずを残しては広告紙に包んで持って来てくれた。芳江はそもそも料理があまり好きでなかったらしい。だから由紀の分ですら、十分な量だとは言い難かったのだ。それでも由紀は、ボクのためにこっそり残してくれていた。

「由紀ちゃんの分も揚げてあるよ。そうだ、二人ともご飯も食べなさい。今、よそって来て上げるからね」

おばあちゃんは小さな台所に立つと、盆にコロッケとご飯を盛った茶碗を二つ持って来てくれた。こうしておばあちゃんの部屋で、三人で夕食を取るのが日課のようになっていた。

 そんな幸せな時間をぶち壊すように

ガラッ、ガチャン

という乱暴に戸を開ける大きな音が聞こえた。マサ兄が来たのだ。

 そうやって毎夕のように、マサ兄がやって来るようになってから、3年あるいは4年くらい経つだろうか?ボクらは、マサ兄が家のドアノブを乱暴に扱う音を聞く度に彼が来るようになった頃のことを思い出した。

 ボクらはマサ兄が来るたび、継母に真っ暗な夜の闇の中へ追い出された。まだ二年生だったボクらに暗闇の中で何をすれば良いのか思い付かなかった。初め長屋の中庭にあるブランコに乗ったが、すぐに飽きてしまった。何しろマサ兄が来ると三時間は帰らないのだ。由紀は勉強道具を持って出たこともあったが、暗い街灯の下では子供の目でも字が読めなかった。薄暗い長屋の中庭で、ボクらは二人、ブランコに座ったマサ兄が帰るのを待ち続けた。

 帰る時、マサ兄は決まって酒に酔っていた。呂律が回らないくらい酔って、ブランコに佇むボクらを見付けるとニヤニヤしながら近寄ってきた。

「はは!揃いも揃って親に似てらあ!」

吐き捨てるような口振りだった。

「おい!たく。おめえは本当に気の小さそうなツラしてやがんなあ。兄貴と、おめえの親父とソックリだぜ」

ははははは!!と高笑いしてから、

「親父と一緒でつまんねえ人生が待ってんだろうなあ」

言いながらわたしの頬を小さく平手で叩いた。

「ユキはいい女になりそうだな」

子供心にマサ兄に吐き気を催した。由紀は、マサ兄を必死に睨み付けていた。

「ふん!なんて目で見やがる。大人になりゃ、どうせ母ちゃんと一緒さ。何人も男を咥え込むような女になるに違いねえや」

由紀は震えた。まるで雪の日でもあるかのように。しかし寒さから震えたのでは無かった。恐怖と怒りに震えていたのだ。

 マサ兄の来訪は毎夜のように続いた。そして、マサ兄が帰り際、ボクらを捕まえてはさんざんに口汚く罵っていくのだ。ボクらは辟易として、彼が帰る時間には暗闇に隠れるようになった。それでもマサ兄はボクらを執拗に探した。

「やい、どこにいる!糞ガキども!どうせロクな大人にならねえんだ。オレが折檻してやるよ!」

しかし物置や土管の影に小さな身を竦めて隠れるボクらを見付けるのは容易なことではなかった。

「け!勝手にしろ!」

マサ兄は諦めて帰るのだ。

 ボクらは二人、手を握り合っていつも小さくなって隠れていた。そうしてマサ叔父さんが帰るのをじっと待っていたのだ。ところが、そんな日々が続いたある日、ボクは

「たくみ」

と呼びかけられた。振り向くとおばあちゃんだった。

 おばあちゃんとは三年ぶりだっただった。母さんが死んでから、会わせて貰えなかったんだ。継母がそれを嫌がった。

「久しぶりだね、たく。大きくなったねえ」

おばあちゃんは母さんにそっくりな目をしてボクに微笑んだ。

 それからボクらはマサ兄が来ても外の暗がりで何時間も待つ必用は無くなった。継母に与えられる貧しい夕食はそこそこに、中庭の暗がりの中へ身を潜めると、おばあちゃんがボクを呼んでくれた。それから少し遅れて由紀が来た。そのまま毎晩、マサ兄が帰るまでおばあちゃんの部屋で過ごした。由紀は、継母に知られぬようこっそりと勉強道具を持ち出し、おばあちゃんの部屋に持ってきていたりした。

 ここならマサ兄に見付かる心配も無かった。そして何より、おばあちゃんはボクらにお腹いっぱいご飯を食べさせてくれた。芳江の作る貧しい食卓に比べると、おばあちゃんの作るコロッケカレーはボクらにとってご馳走だった。ボクらはおばあちゃんに育ててもらったようなものだ。

 今にして思えば、おばあちゃんはボクを救う為に引っ越してきたのかもしれない。もともとおばあちゃんは、亡くなったおじいちゃんと暮らした家に住んでいた。そうした色んなものを捨てておばあちゃんはボクの傍に越して来てくれたに違いない。

 そんな大切なおばあちゃんのことを、わたしはなぜ忘れていたんだろう。わたしの記憶の中で、彼女は単なる隣人だった。隣りの部屋に住む気味の悪い老婆だった。だからつい三日前に長屋を訪れた時の彼女の歓待を、わたしは奇異に思ったものだ。もっと言えば、彼女がなぜ、まだあの長屋に住んでいるのかが理解出来なかった。しかし今、その理由が分かった気がした。おばあちゃんはわたしを待っていてくれたのだ。

 長屋のトタン屋根が見えてきた。太陽熱温水器の残骸も見えた。役場の斡旋でおばあちゃんが設置したものだ。そこから風呂場にホースが伸びていて、夏場には熱湯とまではいかないが、熱い湯が流れ出たものだ。わたしと由紀は、風呂場でホースから溢れる湯を「熱い熱い」とはしゃぎながら浴びた。それを見ておばあちゃんも笑っていた。

 おばあちゃんとの思い出が止め処なく溢れ出た。わたしの頭の中は溢れ出たそれらでいっぱいになった。パノラマのように次々に景色を替えるそれらで、目の前も見えぬほどだった。記憶は時間を遡っているらしい。おばあちゃんが長屋に現れた数年前、彼女の娘であるわたしの母がまだ生きている時代の風景で、それは停止した。当時としてはモダンな家の中に、父と母と祖父、祖母がいた。四人は豊かさを現すようなソファに座っていた。そこへ幼い少年が駆けて来た。途端に、その空間に幸せが満ち溢れた。

 わたしが忘れ去っていた幸福な時間がそこにあった。そしてその幸福が、予期せぬタイミングで瓦解したのだ。そしてわたしは思いも寄らぬ苦難の中に放り込まれた。

 そこまで考えた時、目の前に引き戸があった。いつの間にかおばあちゃんの部屋の前まで来ていたのだ。わたしは取っ手に手を掛け、引き戸を開いた。そこには少年の頃と変わらず、おばあちゃんが座ってテレビを観ている筈だった。ところが部屋の中に彼女の姿は無かった。

 買い物にでも出ているのだろうか?そう思った。特別な予感など微塵も沸かなかったのだ。それより「ようやく思い出したよ」と告白した時、彼女がどんな顔をするだろうということばかりを想像した。取り合えずわたしは自分の部屋、わたしたちが以前住んでいた部屋で待つことにした。若干の荷物もあるし、三日目に来た時、置いていった荷物の確認もしなければ、と思ったのだ。

 しかし、部屋に入ったわたしは唖然とした。部屋の中は泥棒が掻き回したとでもいうように、滅茶苦茶にされていたのだ。引き出しを全て開けられ、タンスは倒されていた。わたしが置いていった大き目のカバンはファスナーを開けられ、中のものが畳の上に散乱していた。幸いだったのは、部屋の中に大したものが無かったということだ。他には布団くらいしかなかった。もっとも布団も投げ捨てられたとでもいうように、部屋の隅でまるまっていた。

 誰の仕業か?なんのためにこんなことをしたのか?考えてみたが、何も思い当たらなかった。それもその筈、わたしがこの町に帰ってきたのは二十年ぶり、いやそれ以上なのだ。帰って来たと言っても、まだおばあちゃん、淳司の母親、淳司の三人くらいとしか交わりが無かった。その三人がこんなことをするとは想像出来なかった。そしてそれ以外の人間など名前すら思い出せなかった。

 なんの予兆も無く、こういうことが起きるのだ、と自分を納得させた。恐らくくだらない物盗りだろう、と思った。わたしが出入りするのをどこかで見ていたのだろう。それで、しばらく姿が見えない間に侵入したに違いない。だが、残念なことに盗るべき何も無かった。

 わたしは仕方なく、散らかった部屋を片付け始めた。細かいものはほとんどわたしの荷物だ。会社から預かった社会保険関係の書類や、証明書の束が散乱していた。ところがその時、奥の台所から見知らぬ男が姿を現した。男はサングラスを掛け、毛糸の帽子を被っていた。暗い色のジャンバーにジーンズと、明らかに自分の正体が知られないための服装だった。

「誰だ?」

わたしの問いに答えず、男は台所の向こう側にある勝手口へ向って走った。閉まっている筈のドアを軽く蹴った。すると、思いのほか簡単に開き、男はやすやすと逃げ出した。わたしも勝手口から外へ躍り出て、男の姿を追った。夕闇が辺りの景色を覆い隠していた。しかし、男の姿は街灯に照らし出されはっきりと見えた。男はやすやすと逃げ出した割りにそう遠くへ行っていなかった。更に、逃げやすいからだろうか、道路の真ん中を走っていくので、その姿は等間隔で立つ街灯の明かりが照らされ続けた。

 お陰でわたしはやすやすと追跡できた。しかし、こちらが全力で走ると男もスピードを上げるのでなかなか距離が縮まらない。かといってこちらが疲れて歩くと、男も歩くといった具合で、逃げられてしまうということは無かった。男とわたしは等間隔を保ちながら家並みから少し外れたりんご畑の間を抜け、観光客用の栗菓子屋が数件群れる辺りを通り過ぎた。宿泊施設の無い町なので、夜が早いのだ。ついさっき暗くなったばかりというのに町はもう眠ったように静かだった。そうして昼間は繁華な街並みを抜けると駅へ向う広い道へ出た。広い道だが、既にこの時間は誰も通っていなかった。

 わたしはふと男はこのまま駅に向うつもりだろうか、と思った。だが、地方の小駅は夕刻過ぎでは三十分に一本くらいの感覚なのだ。到底、泥棒が逃げる足には使えなかった。 そこで突然、男は90度向きを変えた。クルリと身を翻し、道から逸れたのだ。そこは小学校だった。懐かしい校門が目の前に広がっていた。ここへ来るのはおおよそ三十年ぶりといったところか。しばらく校舎の佇まいに目を奪われた。多少の手直しは施されているが、わたしが小学生の頃とさほど変わっていない。その間に男の姿を見失ってしまった。だが、中二階にあるガラス張りの玄関の向こうで何かが光るのが見えた。

 男に違いない。そう確信しわたしはコンクリートの階段を上がった。屋外の横に広い階段は、同時に何百人という生徒の昇降りを容易く受け止めるだろう。それはそのまま玄関前のエントランスに繋がっていた。登り切ると、背の高い厚いガラスのドアが幾つも並んでいた。わたしが通っていた当時と変わらない。あるいは、厚ガラスを入れ替えたのかもしれないが、素人目には分からなかった。

 ドアの取っ手の一つに手を掛けてみた。開かない。鍵が掛けられているのだ。当然だ。既に下校時間はとうに過ぎ、宿直の教師が残っているのみだろう。今時の学校は夜間の管理を警備会社に委託しているので宿直すらいないかもしれない。それでもわたしは隣の取っ手も引っ張ってみた。やはり開かなかった。

 わたしは、さきほどの情景を思い出してみた。たしか一番奥、それより少し手前で光が見えたのだ。わたしはエントランスの一番奥まで進むと、奥から順に取っ手を引いてみた。一つ目、開かない。二つ目、も開かない。三つ目、やはり開かなかった。やや諦めの気持ちとともに、先ほどの光が男とは無関係な別のものであろう、という考えが浮かんで来た。それでももう一つ、取っ手を引くと、まるでわたしを誘うように軽くそれは開いた。何かを予感させるのに十分な感触。だが、あまり良い予感では無いような気がした。

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2010-12-30 りふれいん-58-

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◇真実◇

 長い廊下を大きな足音が向かってくるのが聞こえた。くぐもった音ではあったが、それが男の足音であることは容易に分かった。

「あら!淳司かしら?」

時計を見るとまだ五時前だった。淳司の母はドアを開け、その向こうを覗き込んだ。ドアに半身が隠れた格好で、近付いてくる誰かに声を掛けようとしていた。

「早かったのね。びっくりするわよ、たくみちゃんが来てるの」

彼女の声の狭間から、見知らぬ中年の男が顔を出した。痩せて、白髪交じりの男だった。「ほらね、ほんとにたくみちゃんでしょ?」という母の言葉が聞こえていないのか、淳司はわたしの顔を長い間見詰めていた。

 記憶の中と、目の前の姿の折り合いを付けるのに時間が掛かったのはわたしの方だった。子供時代の淳司は太ってはいなかったが丸顔で童顔だった。何ごとにも鷹揚な性格が顔に表れていたと言っていい。簡単に言えば、いかにも豊な家庭の子供という感じだったのだ。ところが目の前の淳司は貧相とまではいかないまでも、ひどく痩せて神経質に見えた。

「俺にはおやじのような商才は無かったからな。親父が財産として建てたアパートの経営で暮らしているんだよ」

不労所得さ、と自虐気味に言った。父の経営していたIT会社は、実質的に社員達が運営し、淳司は単なる大株主だという。

「ま、他人から見れば金と時間があり余ってるように思えるかもしれないが、これがどうして大変なんだ。財産って奴は増やす以上に、減らさないのには手間が掛かる」

それが彼の自慢らしい。急に昔と変わらぬ屈託の無い表情になったように見えた。

「お前も、苦労したな。随分、痩せた」

しかしわたしがそう声を掛けると、ふいに淳司は怪訝そうな表情をして見せた。

「それより由紀ちゃんには会ったのか?」

突然、由紀の名を出され、わたしはどう反応して良いのか戸惑った。由紀がああいう病院に入っていることを淳司は知っているのだろうか?わたしには見当もつかなかったからだ。しかしそんなわたしの戸惑いなど無意味だったらしい。

「病院に行ってみたのか?」

と言って淳司はわたしを見た。それはわたしの表情を覗き込もうとしているように見えた。淳司はすべてを知っているようだ。そしてどうやら何も知らないのはわたしだけらしかった。

 この町の誰もが由紀のことを知っているようだった。

「なあ、淳司。由紀はなんであんな病院に入ってるんだ?」

思い切ってわたしは訊ねてみた。

「20年ぶりだから何もかもが知らないことだらけなんだ。まず父さんに会いに来たのに、入院してる筈の病院に行ったら『そんな人はいない』なんて言われたんだ」

淳司の顔が微妙に歪むのが見えた。

「で、驚いたことに同じ病院に由紀がいた。それも精神病棟だ。びっくりしたよ」

淳司は黙ったままわたしを睨み付けていた。

「まるで子供の頃のままなんだ。聞いたら二十歳より少し前に入院したらしいんだが、当時担当した医者が引退してしまったらしい。だからなんで由紀があんな風になってしまったのか、病院としては分からないっていうんだ」

淳司が「コホンッ」と一つ咳払いをした。

「お前、噂は本当だったのか?」

「噂?」

「お前が記憶を失ってしまったという噂だ」

「オレが?記憶を?なぜ?」

「いや、あれだけの事件に巻き込まれたんだ。俺がお前の立場だってまともじゃいられない。それどころか、単にお前の友達だっていうだけで、俺たちは――俺も、真人も、健太も、裕二も、みんな一時はおかしくなりそうだったよ」

淳司は、壁に貼られた思い出の写真を見詰めていた。

「もっとも俺たち子供に知らされたことと言えば、お前と由紀が転校するってことだけだ。それ以外のことは噂で耳にした。でもクラスのみんながひどく興奮していた。今にして思えば子供らしからぬ興奮だった。黒い興奮と言えばいいのかな、嫌な感じだったな」

わたしには淳司の言わんとすることが何ひとつ分からなかった。淳司はそれと察したらしい。

「そうか、お前まだ記憶が戻ってないんだな。何があったか知らないが、それで戻ってきたんだな。でなければ、俺なら一生ここには戻ってこないよ」

心の中に黒いものが渦巻くのを感じた。粘性のあるそれは、わたしの心の扉を引き剥がし始めた。見たことも無い光景が、頭の中に幾つも瞬いて、混乱を極めた。しかしそれらは”見たことも無い光景”などではなく、忘れ去った光景らしかった。

「なあ、淳司」

わたしの問い掛けに淳司はこちらを見た。まるで奇異なものを見るような淳司の視線に苦痛を感じた。

「なんていうか・・・ちょっと戸惑っているんだ。会社を辞めた途端、妻に離婚を切り出されて、それからおかしなことばかりなんだ・・・どうなってるのか自分でも良く分からない。それで偶然、お前のお袋さんと遭って、この家に来れば何か分かるかもしれないと思ったんだが、そうしたらまたお前まで変なことを言いだすから・・・」

「変なこと?」

「ああ、そうだ。例えばだ。さっきも言ったように退社と離婚を済ませたオレは、久しぶりに親父の見舞いをしようかと思って20年ぶりに長野へ帰って来た。前にまだ小さかった娘を連れて見舞いに来て以来だからな。しかし入院先の栗木病院に行ってみたら、親父は入院していないと言われた」

「ちょっと待て」

「ん?何が?」

「たくみ、何言ってるんだ?」

「何って?」

「たくみの言ってること、辻褄が合わないんじゃないか?」

「辻褄?」

わたしは自分の言葉を反芻してみたが、特に不自然さは感じなかった。

「どこが?」

「どこがって。娘は幾つになるんだ?もう成人してるのか?」

「とんでもない。まだ小学校5年生だ」

「というと10歳?」

「そう、10歳になったばかりだ」

「その娘を連れて見舞いに来たのはいつだ?」

「いつだったかな?娘がまだ小学校に入る前だったと思う」

「ほう、じゃ5歳くらいか」

「あ、ああ。そうかな」

「で、その時はどこへ見舞いに来たんだ?」

「どこへ?」

まるで淳司の口調は警察の取調官のようだった。こちらの意図を汲みもせず、ずけずけと機械的に質問を畳み掛けてくる。わたしは次第に腹が立って来た。

「なんなんだ?淳司?まるでオレを犯罪者扱いじゃないか?オレはただ、こっちに帰ってきてからおかしなことばかりだ、ってお前に相談してるだけだぞ!」

わたしは自分でも驚くほど激しい口調になっていた。自分が思う以上に興奮してしまったらしい。

 しかし淳司は、至って冷静にわたしの言葉を聞いていた。そしてわたしが一通り叫び終わると、わたしから視線を逸らし何か独り言を言った。わたしには「・・ざいしゃか・・」というあたりしか聞こえなかった。

 淳司はわたしから視線を外したまま呟いた。

「なあ、たくみ。また怒るかも知れんが、教えてくれ。その見舞いに行ったのはどこなんだ?」

「まだそんなこと言ってるのか?!」

「ああ、済まんな。ちょっと聞きたくなったんだ」

「ふん!馬鹿馬鹿しい。栗木病院に決まってるじゃないか。ほかにどこがあるんだ」

「くりき、びょういん、か。それは長野の栗木病院だな」

「おい!いい加減にしてくれ。オレをからかってるのか?」

わたしは激昂していた。そんなわたしに、わたし自身が一番驚いていた。なぜ、淳司のその程度の質問に、わたしをこれほど腹を立てるというのだ?

 淳司は、大きく溜息を吐いた。そしてしばらく考え込むように黙っていたが、再び顔を上げると意を決したように言った。しかし、何を決意したのはわたしにはまったく分からなかった。

「なあたくみ。自分の言葉をもう一度思い出してみないか?」

「言葉?」

「娘を連れて栗木病院へ見舞いに来たのはいつだ?」

「そうだな。今10歳で、その頃5歳だったとすれば5年前か。もっとも1、2年の誤差はあるかもしれないが」

「1、2年なんて関係ないさ。それで今回、お前が長野に帰ったのは何年ぶりなんだ?」

「何言ってるんだ。さっきから言ってるように20年、いや、20年とちょっとかな。高校出て以来だから」

ほう高校ね、と含み笑いを浮かべながら淳司は顔を上げた。

「何かおかしいか?」

「ははは、弱ったな。帰省したのは20年ぶりだという。しかし5年前に見舞ったのだという」

淳司は、犯罪者の嘘を見破った刑事のごとき視線でわたしを見詰めていた。

 わたしはすぐさま言い返そうとした。しかし、言い返す言葉を失っていた。

「たくみ、この話はもう良しとしようぜ」

淳司に言われ、わたしは自分が懸命に拳を握っていることに気付いた。お陰で全身が汗まみれだ。淳司の、安っぽい謎解きのような指摘に、また同級生のくせにすべてを見抜いているとでもいうような高邁な口調が腹立たしかった。そしてそれ以上に、反論が思い浮かばない、自分に憤りを感じたのだ。

 それにしても、なぜ自分はこれほど苛付いているのだろう?と不思議に思った。淳司の指摘は、的を射ているじゃないか、とも思った。見事に的を射られただけに、腹立たしかったのか?実のところ、そうとも思えない。わたしは心のどこかでこういう場面を期待したいたように思えた。予期していたと言っても良いのかも知れない。

 期待に近付いてきたことで、単に興奮しただけかも知れなかった。それに、とわたしは思った。こうやって誰かにわたしの中の誤りを、ひとつひとつ訂正してもらうことでしか、知るべきことを知る方法が無いだろう、と。

「ところでたくみ、さっき俺のことを変な風に言ってたな」

「淳司のことを?変な風に?」

「ああ、『痩せた』とか」

「痩せたじゃないか?」

淳司は「ふうん」と表情も変えず相槌を打ってから

「じゃ、昔の俺はどうだったんだ?」

と問うてきた。

「もっと丸顔だったか?」

「そうだな。どちらかと言えば丸顔だった。金持ちの坊ちゃんにありがちな顔と言ったらいいのかな?」

「ははは、金持ちの坊ちゃんな」

納得したように笑いながら、しかし淳司は小さな反論をした。

「金持ちではあったが坊ちゃんとは言えないな。俺の親父は評判悪かったからな」

「え?そうかあ?若くしてIT企業を立ち上げたインテリってイメージだったぜ」

「そうだな、たしかにさっきお前は『おやじさんのIT企業』って言ったな。それを今は従業員達に渡して俺は悠々自適なオーナー生活だと」

「悠々自適とまでは言ってない。お前もそれなりに苦労して来たんだろ。それは顔を見れば分かるよ」

弁解するようにわたしは両手を上げた。しかし淳司にとって、そんな話はどうでも良かったらしい。

 淳司は、まるで別のことを考えているようだった。

「ところでたくみ。『IT企業』なんて当時あったのか?」

言われて見ればそのとおりだった。ITなどという言葉はここ10年の間に普及したものだ。しかし、たしかにわたしの記憶の中では、淳司の父親はコンピュータの仕事をしていた筈だったのだ。しかし淳司は、そんなわたしの記憶など簡単に否定した。

「俺の親父は不動産屋だ。それも地元では誰もが知ってる悪徳業者だったな。うちの苗字が『後藤』だから『強盗』なんて言われたものさ」

「なんだって?」

「子供の頃から痩せっぽち俺には、悪徳不動産屋なんて柄じゃあない。だから親父が死んだところで”それらしい”社員達にくれてやったんだ。もっとも未だに筆頭株主ではあるが。そのせいか連中、毎月律儀に俺の給料払い込んできやがる」

やくざもの特有の義理と人情って奴かな?と言って淳司は笑った。

「親父さんの会社、コンピュータ関係じゃなかったのか?なぜ、そんな風に思ってたんだろ?」

わたしは淳司の説明を聞いても、釈然としなかった。そんなわたしを見詰めていた淳司は、わたしに意外なことを言った。しかしそれはわたし以外の人間にとって、当時のことを知っているこの町の人々にとって、さして意外なことではなかったらしい。誰もが当然のこととして知ってることだった。

コンピュータ会社を経営してたのは、お前の親父さんだろ。正確に言えばプリント基板というのかな?」

淳司が何を話しているのか、わたしには全く理解できなかった。記憶のどこを探しても、そんな出来事は見付からなかったのだ。

須坂市に大手の電子メーカーが大工場を作った。たくみの親父さんの会社はその下請工場だったが、もともと東京の研究所から独立したんだ。だから特殊な技術を提供する工場だったって聞いてる」

「済まんが、なんの話か分からない」

「そうか。ただ、それが事実だ。親父さんは優秀な技術者だった。大手の電子メーカーが須坂市に巨大な工場を造ったのも、親父さんの会社がここにあったからだって言う人もいたくらいだ」

「オレの親父は、駄目人間を画に描いたような男だった・・・定職に着けず、年がら年中、職を変えていた・・・それも、夜中専門の警備員ばかり・・・朝方、家に帰ってくれば昼間から酒を飲んで義母さんに暴力ばかり奮っていた。あんなだから義母さんにも由紀にも逃げられたんだ」

「逃げられた?」

淳司は腕組みし、じっとわたしを睨み付けた。しかし、ふいに何かを諦めたようにフッと肩の力を抜いた。

倒産したんだ。ドルショックって知ってるだろ?」

もちろん、と思った。が同時に、最近どこかでその名を見かけた気がした。それもごく最近の話だ。思い出そうとしてみたが、なかなか思い出せなかった。

「あの時の不況で、輸出に頼っていた初期の電子産業は大打撃を受けた。たくみの親父さんの会社もそれで倒れたと聞いている」

馬鹿な、と思った。そもそもあの人が会社を経営してたなんて、まして優秀な技術者だったなんて・・・。わたしは歯ぎしりしていた。父に対するわたしのイメージとは掛け離れていたからだ。

「それと”酒”だが・・・たくみの親父さんは下戸だった筈だ。何回か家に遊びに行ったが、酒を飲んでるとこなんて見たこと無いよ」

わたしは淳司を睨み付けた。まるで記憶を否定されたようだった。誰か別の人の話を聞いているようだと思った。父は、夜勤明けの朝から酒を煽り、母に暴力を奮うような男だった。ところが今、淳司は父を下戸だったという。

 しかし、とわたしは思った。淳司が父を下戸だという理由は、何度かわたしたちの家に遊びに来た際、父が酒を飲んでいるところなど見たことが無い、ということだ。さすがに小学生だったわたしたちの前で酒を飲むことも無かっただけだろう。淳司が気付かなかっただけに違いない、とわたしは思った。

「しかし、お前の叔父さんは酷かったな。子供ながらに眉を顰めたよ」

「叔父さんだと?」

誰のことだろう、と考えてみたが思い当たらなかった。そもそもわたしにとって叔父といえばマサ兄しかいなかったのだ。

「たくみの親父さんはいつも、たしなめていた方だったぞ」

わたしは左右に首を振った。

「何のことか分からない」と淳司に言った。

「なあ、淳司。お前は何の話をしてるんだ?さっぱり分からない。父を下戸だとか、オレに叔父さんがいるとか。オレには叔父といえばマサ兄という男しかいないんだ」

自分でも驚くほど声が上ずっていた。金切り声に近い、聞きようによっては悲鳴に聞こえたかもしれない。わたしはそんな自分に驚愕しながら、なお自分の記憶の正当性を確かめたいと思っていた。

「なあ、淳司。お前どうかしてるんじゃないか?」

わたしの問いに淳司は呆然とした。半ば開いた口は、言葉を失ったように動かなかった。しかしそれもそう長い時間は続かなかった。淳司はすぐ気を取り直し溜息をともに呟いた。

「そうだ、正夫さんだ。彼が全ての元凶だったって大人たちは言ってたな」

「元凶?」

淳司は「ああ」と相槌を打ちながら立ち上がった。そして

「だが俺はそうは思わない。仕方が無かったのかもしれない、とも思うんだ」

とまた謎掛けのような言葉を吐くと、壁に近付いた。

「淳司。いい加減にしてくれ。もっとはっきりものを言ってくれないか?そう奥歯に物の挟まったような言い方をされても、何が言いたいのかさっぱり分からない」

わたしの言葉にまた淳司は「ああ」と気の無い返事をしながら、壁に貼られた古い写真を覗き込んでいた。

「なあ、たくみ」

写真を覗き込んだまま、ふいに淳司は言葉を発した。だから初め、わたしに対しての言葉と気付かなかった。わたしはそんな淳司の態度も気に障った。自分だけが真実を知っている、という態度。それならわたしに教えてくれれば良いのに、まるでからかうように小出しにしているように思えたからだ。

 わたしは憤りを感じながらも

「なんだ?」

となるべく声を荒げずに聞き返した。

「たくみ。さっき、親父さんが義母さんに暴力を振るったって言ってたな」

「ああ、そのとおりだ」

「それは無いぞ。親父さんはそんな人ではなかった」

抑え切れぬほどの憤りが湧き上がってきた。自分でも抑え切れぬほどのものであると同時に、心のどこかでここまで興奮する自分が怖くなっていた。

 しかし、わたしの口は勝手に興奮し、淳司を罵倒するような暴力的な口調になっていた。

「そんな家庭内のことを、なぜお前が分かるんだ!お前のような他人が遊びに来ている時は大人しくしてたんだよ!いくらあの悪辣な親父でも、他人様に見せたくないものはあるさ!」

「悪辣な親父?だと」

淳司とわたしはしばらく睨み合った。先に視線を離したのは淳司だった。淳司はまた壁に飾られた写真に目をやった。

「話は変わるが、たくみ。これを見ろ」

壁に貼られた写真の一枚を指差した。

「これは誰だ?」

淳司の問いにわたしは写真を覗き込んだ。深緑に囲まれた小公園といった場所。小学生が二人、並んでカメラに向ってポーズしていた。二人ともリュックサックを背負っているところを見ると、遠足の時の写真だ。

 遠目では細かいところまで見えないが、淳司と誰か、そう、わたしか真人、健太、裕二の誰かだろう。しかし先ほどから淳司が発する質問はことごとくわたしの足元を掬うようなものばかりなのだ。わたしの些細な記憶違いを指摘しては愉しんでいるように思えた。

 わたしには淳司の質問の意図が分からなかった。今度は何を指摘しようというのだろう?そしてまた追い詰められるような気分を味わうと思うとわたしは容易には答えられなくなっていた。

「近くで見ていいか?」

というわたしの要望に、淳司は無表情のまま「ああ」と承諾してくれた。まるで犯人を訊問する検察官のような態度に思えた。

 しかし壁に近付き、淳司が指し示す写真を間近に見たわたしは「これは・」と口走ったまま、それ以上の言葉が見付からなかった。淳司の『これは誰だ?』という質問を奇妙に思ったが、奇妙なのは写真の方だった。

「誰だ?これは」

そこに写っていたのは見たことも無い二人の少年だった。痩せた貧相な少年と、もう一人は・・・もう一人はどこかで見たことがあるような気もしたが、思い出せない。隣りのクラスの生徒だったかもしれない?だが、淳司の家の壁に、淳司以外の少年達が写った写真が飾ってある、というのも妙だった。

「誰なんだ?」

わたしの質問に、淳司は静かに

「俺たちだよ」

と答えた。

「俺とたくみ、お前さ」

そう言われてもう一度、写真を見た。だが、わたしの記憶の中にある淳司の顔はそこには無かった。少年達は、育ちの良いお坊ちゃん顔とは程遠い、痩せた顔をしていた。

「右側がたくみだ。ははは、貧乏を画に描いたような顔してやがるな」

その頃はもう、親父さんの会社は潰れていたんだ、と淳司は言った。

「左側が俺だ」

より痩せた少年、少しひねた顔付きをした少年だ淳司だという。

「俺に”スネオ”なんて格好悪い渾名付けたのは、たしかたくみ、お前だったぞ」

淳司は口の端をひしゃげた。それは笑っているようにも見えたが、ひどく皮肉っぽくも見えた。

「たくみ、お前さっき俺を見て『痩せたな』って言ったろ。俺は昔から痩せてる。だから子供の頃、お前ら悪友達は俺をそういう渾名で呼んでたんだろう」

 淳司は、わたしの記憶をことごとく否定してみせた。それがいったい、どんな意味があるのかわたしにはまるで分からなかった。実感が湧かなかったと言った方が良いのかもしれない。だからわたしは、何十年ぶりかで再会したというのに、このような非礼を働く淳司の真意が理解出来なかった。

「なあ、淳司。教えてくれないか?」

「なんだ?」

「久しぶりに会ったというのに、なぜこんな話ばかりするんだい?」

「こんな?話ばかり?」

「そうさ、たしかにオレの記憶違いはあろうさ。だって30年ぶりなんだからな。その間に記憶なんて幾らでも変化する。お前はずっとこの町にいたからさして変わってないのかもしれんが、高校を卒業した以来ずっと別の土地で暮らしてきたオレにしてみれば、ここは異郷の地に等しい。また、子供の頃の記憶なんて、実のところこれまであまり思い出したことがなかったんだ」

「思い出したことがなかった、か」

「そうさ、ずっと思い出さなかった。毎日が慌しくてね。思い出してる暇なんて無かったさ。東京サラリーマンなんて多分、みんな似たようなものだろう」

淳司は「そうかもな」と呟いてから

「ところで『高校を卒業してから』と言ったが・・・・」

と、わたしの顔を見詰めた。だが次の瞬間

「いや、やめておこう」

そう言って俯いた。

 わたしたちは淳司の母が運んできてくれた茶を、一口ずつ啜った。互いの啜る音に耳をそばだてるようにして、相手が次に発する言葉を待った。だか淳司は黙ったまま、溜息とも取れぬ深い呼吸を繰り返していた。そんな淳司を見詰めながら、わたしは先ほど淳司が発した言葉を思い出していた。

 淳司は

『お前が記憶を失ってしまったという噂だ』

と言った。それから

『あれだけの事件に巻き込まれたんだ』

とも。そしてこうも言った。

『俺たちに知らされたことと言えば、お前と由紀が転校するってことだけだ』

 わたしは胸騒ぎを感じた。わたしが何か、とてつもない事件に巻き込まれたような気がしてきたのだ。とてつもない、という言い方は適切では無いかも知れない。むしろ淳司の言った『黒い興奮と言えばいいのかな、嫌な感じだ』という言葉が当て嵌まる気がした。

「淳司。さっきお前が言った”事件”についてだが」

ふいに淳司は顔を上げた。喉元がゴクリと動くのが見えた。ずっと冷静だった筈の淳司が、緊張し始めたのだ。

「ストレートに教えてくれ。その”事件”とは何だ?」

「ああ、それか。それもそうだな。たくみは忘れてしまったんだろうな」

「そうなんだ。ずっと東京に居たから、忘れてしまったらしい」

わたしは、ははは、と声を上げて笑って見せた。しかし淳司はますます緊張し、蒼褪めていった。

「そう硬くならないで、簡単に教えてくれればいい。そうすればオレも思い出すかもしれん」

な、淳司、と促すわたしに淳司は大きく首を左右に振った。そしてわたしにとってまた、意味不明なことを言い出した。

「いいや、俺が話したところできっと思い出さないだろう。それで良いのかも知れない。だからたくみは普通に暮らして来れたのかもしれない」

「頼む、淳司。そう訳の分からんことを言わないでくれ。単純に何があったか?どんな事件があったのか?そしてオレがそれにどう関わっていたのか?それを教えてくれればいいんだ」

淳司は大きく頷いた。そしてわたしに向き直ると、わたしの目をジッと見詰め

「たくみ」

とわたしの名を呼んだ。

「なあ、たくみ。これが本当のことかどうか、実のところ大人たちにも分からないんだ。結局、警察にも分からなかったんだからな。ただ、みんながそう思っている」

「ああ、分かった分かった。そう回りくどいこと言わないで、早く教えてくれ」

「あの日、たくみと由紀ちゃんのどちらかが、親父さんを殺した」

淳司の言葉が飲み込めなかった。

 淳司は、まるでわたしを記憶喪失者のような物言いをしてきた。そして彼の話に取り込まれ、わたし自身がわたしの記憶に疑問を感じてしまっていた。しかし今わたしの中は淳司には悪意があるのではないか?という疑問が湧き上がってきた。それは怒りを伴っていた。

「おい淳司!ふざけるなよ!」

わたしの怒りに淳司は気圧されたらしい。

「だから言ったろ。大人たちから聞いた話だって!」

まるで言い訳するように反論した。

「俺だって信じたくは無かった。だが、大人たちがみんなそう噂してたんだ」

「いい加減な話だな」

わたしは吐き捨てるように言った。淳司の話を根底から否定したつもりだった。

「まったく他人なんていい加減なものだ。面白おかしく伝わる間にどんどん出鱈目になっていくものさ!」

「それはそうだが・・・」

「第一、親父は生きている。長野市の栗木病院という所に入院してるんだ」

そこで淳司は押し黙った。黙ったまま、機会を窺っているように見えた。それはまたわたしの細かい記憶違いを指摘するためだろう。

「今度は何だ?淳司。オレと由紀を人殺し、それも親殺しに仕立て上げるだけじゃ、気が済まんのか?」

「いや、そうじゃなくて」

また淳司は黙り込んだ。言うべきか否かを悩んでいるように見えた。しかし一度目を瞑ると決意したように言った。

「親父さんは死んでいる」

わたしは、込み上げてくる怒りに震えながら淳司を睨み付けた。しかし淳司は決然としてわたしを見詰めていた。

「役場に行って調べてみたらどうだ。亡くなったのは俺たちが小学校6年の時だ」

「何言ってるんだ?だって毎月のように親父から手紙が来ていたんだぞ!」

手紙?そんなものは知らん、と淳司は首を振った。

「家に沢山ある、山のようにな。見たければ見せてやる!そうだ、今度上京した時、持って帰って来るよ。それを見ればお前だって信用する筈だ」

淳司は首を左右に振った。

「何故だ?何故信用しない?親父が死んでる筈無いだろ。だって、何度も見舞いに来たんだぞ!」

「たくみ、お前は『長野は30年ぶりだ』と言ったな。その一方で『娘を連れて見舞いに来て以来だ』とも。辻褄が合わないよ」

「またその話か!もう屁理屈はやめてくれ」

「しかしその病院に親父さんはいない」

わたしは最初に栗木病院を訪れた時のことを思い出していた。受付嬢の事務的な応対、困惑した表情、彼女は父の入所を否定した。

『そのような方はいません』

冷たい表情が思い出された。

「ようし」

知らぬ間にわたしはそう口にしていた。それから携帯電話を取り出すと、

「妻に電話する。そして、家に親父から送られてきた手紙があることを証明してもらう」

山ほどあるんだ、と呟きながらアドレス帳を捲る自分が意識のどこかで、異常者のように思えてきた。目の端に俯いたまま嫌々をするように首を振る淳司が見えた。さっきから淳司はずっと首を左右に振っているような気がした。久しぶりの再会というのに、なぜ淳司はこうもわたしを不愉快な思いにするのだろう?溜息が湧き上がって来たが、それを付こうと思うと同時に、電話が繋がった。

「パパ?」

有希だった。

「パパ、久しぶり。といっても一昨日話したばっかりよね」

「ああ、元気にしてたか?」

「ぜんぜん元気よ。パパこそ元気?あれ?走ったの?なんだかゼイゼイ言ってるよ」

「あ?ああなんでもない」

言いながらわたしは息を止め、呼吸を整えた。

「ところでママはいるかい?」

「ううん。パート」

「え?まだパートしてるの?」

「うん。なんか正社員になれそうだって言ってた」

「なに?なんだそれ」

妻は、金持ちの男の愛人になった筈だ。

「え?なんか変?」

という有希の声が聞こえた。慌ててわたしは気を取り直した。

「いいや。そうか、じゃあその携帯は?」

「今日、忘れてったって。さっきそう電話があったわ」

「そうか」

妻が居ないのでは手紙のことが分からない。仕方なく諦めかけていると

「何の御用?」

という有希の声がした。わたしは試しに、有希に聞いてみようと思った。

「なあ有希、手紙入れって分かるか?」

「てがみいれ?」

「そう。手紙が沢山刺してあるんだ。封筒とか葉書とかだ」

「さあ、分からない」

やはり、子供には無理だったらしい。しかし有希が思いがけない事を言った。

「でもお手紙なら分かるよ」

「お手紙?」

「うん、いっぱいあるの」

「いっぱい?」

「そう、みんな封筒に入ってるお手紙」

わたしにはそれが父からの手紙だとピンと来た。封筒に入ってる手紙など、それ以外に考えられなかった。

「それはどこにある?」

「ママの部屋。机の上に置いてある」

「机の上?ママの?」

なぜ妻が父からわたしに届いた手紙を机の上に置いているのかまったく思い当たらなかった。もっとも、それはわたしの荷物だから、そのうち小包にでもして送って寄越すつもりかもしれない。

「毎晩、ママはそのお手紙を読んでるの」

「え?」

どうやら、送って寄越すつもりではないらしい。

「有希、今すぐママの部屋に言ってくれないか?」

「うん、いいよ」

電話の向こうで、有希が移動する音がした。

「あったよ」

「ありがとう。それは何の手紙だい?」

「うーん、漢字ばっかりでよく分からないよ」

「誰から来た手紙かな?封筒の裏に書いてある筈だ」

「あるよ」

「なんて書いてある?北原・・・」

「うん、うちと同じ苗字だ。きたはら」

「健介だね?」

わたしは確信を得た。やはり父は生きているのだ。淳司はどういうつもりで嘘を付いているのだろう?

「ううん違うよ」

「なに?」

「違う。そんな名前じゃないよ」

「え?有希、そうか漢字が読めないんだな。どんな字かな?まず、健康の健だよね」

「違う」

「そんなことないだろ、にんべんを書いて・・・」

「違うよ。女の人の名前だよ」

女?そう言われてわたしは誰の名も思い当たらなかった。

「ええーっと。ユウ・・・なんだっけ?」

「ユウ?」

「そう。その下の字が何だっけ・・・読めない」

わたしは『ユウ』とつく女性の名前を思い浮かべてみたが、見付からなかった。

「ところで有希、手紙は何通くらいあるんだ?」

「沢山。机の上いっぱい」

「それがみんなその『ユウ』とかいう女性からなのか?」

「そう」

そんな馬鹿な、と呟きながら

「北原健介と書いてある手紙はないか?」

「ちょっと待ってね」

電話の向こうでがさごそと紙が擦れる音がした。

「うーん、無いよ。みんな同じ女の人」

「そうか、おかしいな」

わたしは頭を掻いた。妙に熱くなって来たのだ。顔にも熱があるようだった。汗が額から零れ落ち、まるで運動でもした後のようになった。

「ところで、その『ユウ』下の字は読めんのか?」

「今、辞書調べるね」

電話の向こうで何かを操る音がした。電子辞書で調べているらしい。

 わたしは今か今かと待ちわびながら、目の前の淳司を見た。淳司は壁に背を預けたまま放心したように、目を見開いていた。わたしの電話の結果など、まるで気にならないようだった。

「なあ、たくみ」

見開いた目はあらぬ方向を見詰めたまま、ふいに淳司はわたしに話し掛けてきた。

「ごめんな、たくみ。傷付けるつもりは無かったんだ」

まるで淳司は人形のように無表情のまま、動かなかった。ただ声だけが静かな居間の中に、ひどく明確に響いた。

「頼まれたんだ。あの時の刑事に。たしか、刑事だったと思う。お前に、こういう話をしてくれって」

「誰だ?あの時の刑事って?」

「あの時の刑事さ・・・ああ、そうかたくみは憶えてないんだな。まあいいさ、忘れたままの方がいい。さっき俺が言った全てのことを忘れてくれ。今のお前には必要の無いことだ。いや、不要な、害悪にしかならない記憶だ。今すぐ忘れろ。忘れて、これまで思い込んでいたことを思い出せ」

随分、勝手な言い草だ、と思った。人の記憶をさんざん引っ掻き回しておいて、今更忘れろと言う。

『オレはもはや、何が真実で、何が虚構か分からなくなったんだ!』

と叫びたかった。だが、人形のごとく感情を失った淳司にそんなことを言っても仕方がない、そう思った。そんなことより今は、父の手紙だ。父の生存を証明する父が栗木病院から送ってくれた何通もの手紙。それがなければ、わたしの記憶はすべて否定されたも同然だ。

 記憶の齟齬は、父を見舞いに行った栗木病院から始まった。あの日、わたしは父の入所する病院内の高齢者施設を訪問したつもりだった。しかし父の入所は否定された。だが、手紙は来ていた筈だ。ならば父は栗木病院の介護棟で生きている筈だった。それを証明するための手紙。しかし有希もまた、差出人は女だという。

「分かったよ・・・あれ?わたしと同じ名前だね」

「同じ?」

「そう、ユキさん」

「ユキ?」

字は違う、自由の『由』に紀元前『紀』よ、と有希がしてくれた説明をわたしは黙って聞いていた。

「なあ有希、差出人の由紀さんの住所はなんて書いてある?」

住所?と電話の向こうで有希が小首を傾げたのが感じられた。それからまたごそごそと手紙を弄る音が聞こえた。

長野市栗木大字東だって」

れは病院の住所に違いない。

 また、電話する、といい電話を切った。有希が名残惜しそうにしてくれたのが、せめてもの救いに思えた。

 どうやら淳司の言うように父は死んでいるらしい。わたしが父の手紙と思っていた病院からの手紙の数々は、宛名が由紀になっているという。妻の悪戯だろうか?とも思ったが、離婚する夫婦の間にそのような余裕は無い。また、由紀が父に代わって代筆してくれたものかもしれない、とも考えてみた。しかし、昨日病院で遭った由紀は、

『たくみに手紙書いてるんだよ』

と言っていた。

「淳司の勝ちだ。親父は死んでるらしい。信じられないことだが、親父からの手紙なんて存在しないらしい」

父からの手紙は別の場所にあるかも知れない、という考えが一瞬浮かんだ。だが、そんな悪足掻きをしたところであっさり否定されてしまう気がした。その否定は、わたしが生きてきたこの30年、いや40年余りの記憶を完全否定するものだった。首の皮一枚繋がった状態で、手探りで記憶を手繰りたいと思った。そうしなければわたしは、自分の過去をすべて失ってしまうように思えたのだ。

「勝ち負けの問題じゃない」と淳司が言った。

「そんなことより、あの刑事、いや元刑事は知りたがっているんだ。たくみが殺したのか、由紀が殺したのかを」

淳司の言葉に、頭の中が混乱した。父を殺したのはわたしか由紀?もしその通りだとすれば、それはいつのことなんだ?淳司はさっき『あの日』としか言わなかった。あの日とはいつを指しているのだろう?わたしはこの30年の日々を思い出そうとした。しかし、東京での日々、会社で過ごした平凡な日々以外、思い出すことは出来なかった。そして父がわたしの思い出に現れることは無かった。それはまた淳司の言葉の正当性を証明した。何ども父を見舞った、と思っていたのに、その思い出は記憶のどこにも存在しないのだ。

「おかしなことばっかりだ。義母さんの見舞いに行った。そしたらさ、ネームプレートに記された名は『芳子』だってさ。オレの義母さんは『美和』だった筈だ」

「たくみ、残念だが美和さんは、お前の実の母親の名だ。おふくろが仲が良かったらしい。今でも時々、思い出話をするんだ。決まって、蟹を貰ったっていう話さ。親子三人で鯨波に海水浴に行った帰りに、お土産として買ってきてくれたんだそうだ。『あの家は、あの頃が一番幸せだったのよ』って途中から必ず涙を流すんだ」

もう四十年以上前の話なのにな、と淳司は言いながら自身も涙を拭った。

「それから、俺たちが小学校に上がった頃、美和さんが死んだそうだ。親父さんの会社が倒産して一年くらい経ってのことらしい。すべてを失った家族のために美和さんは必死に働いたそうだ。昼は工場に勤め、夜は工事現場で旗振りをして、とにかく一日中働き詰めだったって。死んだのは過労だそうだ。そこから先は・・・憶えてないか?たくみ。それからの六年間を本当に忘れてしまったのか?」

「昨日、いや一昨日だったか、夢を見たんだ。嫌な夢だ。義母さんが、ひどく冷たい女だった。オレが初めて夢精した日、布団の中で汚れた下半身に呆然とするオレを、酷い口調で罵っていた。現実は、義母さんは、美和は、とても優しい女性だった。オレの憧れの人だったんだ。真っ黒な顔をした、男の子のように勝気な由紀の母親とは思えなかった。そんな義母さんを、酷い女のように夢に見てしまうなんて、オレはどうかしてるよな」

だから美和さんは実のお母さんの方なんだ!、と淳司が叫ぶのが聞こえた。しかし淳司はすぐに押し黙った。それから

「それでいいのかも知れないな。あんな日々を思い出すのは、何の意味も無い」

「しかしオレの過去の記憶は間違っているんだろ?」

わたしの問いに淳司は少し躊躇するように押し黙ってから、再び顔を上げた。それから

「仕方ないよ。あんなことがあれば、誰も思い出したくなくなる」

と言った。

「『あんなこと』とはオレと由紀が親父を殺したって話か?」

「それは分からない。刑事がそう言ってただけだ。いや『かもしれない』とな。だが、お前たちの二人の目の前で殺されたのは間違いない。それも全身を刺されて、遺体は見られたもんじゃ無かったらしい」

「それはいつのことだ?」

「俺たちが小学校6年の、そう夏の終わり、運動会の後だ」

「運動会の・・・」

壁に貼られた修学旅行の写真を確認した。運動会の翌月、修学旅行が行われたのだ。もう一度、そこに写った子供らの表情を確認すると、笑みを浮かべてはいるがどこか悲し気に見えた。

「しかし小学生のオレや由紀に殺人なんて出来ただろうか?」

「俺もそう思うんだ。何しろ死体は身体の一部が切り取られたという」

「死体の一部?」

聞きながらわたしは吐き気が催してきた。

「きっと、当時も刑事たちが変な噂を流したんだろう。もっともそのつもりじゃなくても、聞き込みをする過程で噂は一人歩きしてしまう」

淳司が言い終えた時、ガチャリと大きな音を立ててドアが開いた。淳司の母親だった。

「そうよ、そのとおり。誰もあなたたちがお父さんを殺したなんて思ってやしなかったわ。だってあなたと由紀ちゃんは、本当に可愛い子供だったんだもの・・」

淳司の母は、言葉を詰まらせた。右手で目尻を拭いながら小さく呟いた。それはたしかに「可哀想なくらい」と聞こえた。

 彼女は涙を飲み込むとこう言った。

「知ってるかどうか分からないけど、あなたが居なくなってから叔父さまが逮捕されたの。でも証拠が無くてすぐに釈放された。それからしばらくしてからよ。誰が言い出したのか知らないけど、あなたたちのどちらかがお父さんを殺したらしいって噂が流れた」

「叔父?」

わたしは、誰のことか分からなかった。それに気付いたらしい、淳司が補足してくれた。

「たくみたちが『マサ兄』と呼んでいた人のことだよ」

さっき『正夫さんが全ての元凶だったって大人たちは言ってた』と言っていたことを思い出した。

「彼が、あの家庭を滅茶苦茶にしたようなものだわ。私は今でも彼が殺したと思ってる」

「マサ兄が?」

「ええ、もっとも本人が死んでしまってるから、今となっては分からないけど」

死んだ?マサ兄が。父も死に、マサ兄も死んでいるという。頭の中に、廃墟となっていた父の実家が浮かんだ。それはほんの二時間ほど前、淳司の母と遭った場所だ。

 わたしがそれを考えていることに気付いたのか、廃墟となった理由を教えてくれた。

「お父さまが亡くなって二年後に、あの家に住んでいたお祖父さまとお祖母さまも亡くなったわ。それから正夫さんが後を継ぐってことで、芳子さんと由紀ちゃんを連れて帰って来て三人で暮らしてたのよ・・・」

突然、言葉に詰まった。込み上げてくる何かを必死で堪えているように見えた。

「何年か、そう由紀ちゃんが中学から高校を卒業する間際まで三人で住んでた。その間、由紀ちゃんに辛いことが・・・」

堪えかねたらしく、吐き出すように嗚咽を漏らした。

「辛い、本当に辛いことがあったって・・・」

「母さん!余計な話をするなよ!」

淳司が言葉を遮った。淳司の母が、小さな手を力いっぱい握るのが見えた。嗚咽を呑み込む為に違いない。

「ごめんなさいね。それで、由紀ちゃんが高校三年生の時、突然、火事になったの。芳子さんは出掛けてたらしい。正夫さんは逃げ遅れたの」

ふいにわたしは「由紀は?」と訊いていた。由紀がいないのはおかしい、と思ったからだ。

「由紀ちゃんは、分からない。ただ・・・」

淳司が、余計なことを言うなって言っただろ!、と話を遮るように叫ぶのが聞こえた。

「おばさん、由紀が辛い目に遭ったって、どんなことです?」

淳司と母親は顔を見合わせた。答えたのは母親ではなく淳司の方だった。

「たくみ、あまり気にしないでくれ。母さんも久しぶりにお前にあったもんだから、ちょっと感情が昂ぶってしまった。根拠の無い噂話をあったことのように話してしまっただけだ」

「その根拠の無い噂話というのが、聞きたいんだ。オレは何ひとつ自分のことを、自分の家族のことを知らない。父親は今でも生きていると本気で思ってた。それが小学校の時に殺されていた?その犯人がオレか由紀だと?」

「だからたくみ、それは根も葉もない噂だ。刑事たちが勝手に広めたんだろ?」

「マサ兄が、元凶だという。そして火事で逃げ遅れて死んだ、というのは分かった。でもそれまでの何年間か、マサ兄と母を一緒に住んでいた由紀が辛い思いをしたという」

淳司は大きく首を振り、その母は両手で顔を覆った。彼らはもう何一つ答えたくない、というように身を固くしていた。

「ところで、オレはどうなったんですか?」

淳司と、母親は顔を見合わせた。

「父が死んだ後、オレはどうなったんですか?さっきから聞いていると、オレだけがどこかへ消えたというような言い方ですが」

淳司が「それも憶えてないのか?」と驚いた表情で言った。

「ああ、ずっと高校を卒業するまでこの町に住んでたと思っていた。義母と由紀は離婚して出て行ったから父と二人でね。しかし、幾ら思い出してみても中学生の記憶も、高校生の記憶もまったく無い」

わたしは記憶の断片を幾つも捲ってみた。

「いや、わずかに校舎の記憶がある。だが、コンクリートに遮られた都会の校舎だ」

「そうさ。たくみは事件の直後に消えた。俺たちの前からいなくなったんだ」

淳司が答えるのを補足するように、母親が説明してくれた。

「お父さまが殺されて、あなたは酷いショックを受けてたの。由紀ちゃんもそう。まともな精神状態じゃなかったって聞いてる。二人とも蝋人形のようになって、目を開いたまま死んでるんじゃないかって思うくらいだったそうよ。すぐ病院に入院して、落ち着いたところで由紀ちゃんはお母さんも元へ返されたわ。でも、あなたは、芳江さんの元へは返せなかった。酷い虐待が確認されてたから。それで美和さんのお母さまが、あなたを遠くの施設に送ったの」

「美和?実の母方の?」

「そうお祖母さま。私はその方から聞きました」

まるで記憶に無い。わたしの記憶の中で母方の祖母など登場したことは無かった。

「今でも生きてるわ。ずーっとあなたを待ってた。いつか帰ってくるに違いないって。その時、あなたに全てを話すまで死ねないって」

「どこにいるんです?」

「どこ?って、あなたたちが住んでた公営団地よ。あの頃と変わらない、角の部屋よ」

『角の部屋』という言葉が心に響いた。心の中で何かが溶け始めるのを感じた。

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2010-12-28 りふれいん-57-

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『どうして来たのよ?』

由紀は問い詰めるような口調だった。

『ねえ!どうして!?』

口調は次第に激し、何かを堪えるように唇を噛むのが分かった。

『どうしてよ。たくには絶対分からないように、毎日巻いてきたのに。どうして来ちゃったの?』

由紀が一緒に帰ってくれないから、と言うと

『馬鹿!もう6年生でしょ!来年はもう中学生なんだよ!いつまでもままごとしてるんじゃないわよ!』

と由紀は叫んだ。うなだれて由紀の足元を見ると由紀は靴下を履いていなかった。藁の中に沈んでいたのだ。そんなボクの視線がなぜか由紀の神経を逆撫でしたんだ。由紀は逆上してボクの襟を掴むと、息が止まるほどに捻り上げた。

『もう!二度と付回さないで!あなたとなんか、好き好んで兄妹になった訳じゃない。ノロマで、馬鹿で、無神経なあんたなんかと一緒にされるのが嫌なのよ!もう兄妹なんて思われたくないの!だからもう、近寄らないで!』

由紀は力いっぱいボクの身体を押した。ボクはしたたかに板戸に叩き付けられた。

『もう、顔も見たくない』

由紀が叫んだ。ボクはズボンに付いた土埃を払いながら上目遣いに由紀の顔を見た。由紀は怒りに震えながら、涙を堪えていた。ボクは一人で帰ることを由紀に告げ、納屋の出口に向った。

 その時、ボクは変なものを見た。街の中古ゲームショップのビニール袋だった。ビニール袋からはボクが欲しがったゲームソフトのパッケージが顔を覗かせていた。ゲーム機も無いくせにそんなもの欲しがってどうするんだ、と母に何度も叱られた。見かねた父が、こっそりボクに買ってくれることを約束してくれたのだ。

 そんなことを考えながらボクはそのビニール袋を見詰めていた。由紀はそれと気付くと慌てて作業代の上のそれを取り上げ、自分の身体の影に隠した。

『誰が忘れてったんだろうね。近所の馬鹿な子供だね、きっと。後で届けてあげなきゃ』

「おぶせー、おぶせー、どちらさまもお忘れ物ございませんようお気を付けて・・・・」

 駅舎を出たところでわたしは立ち止まった。良く知った顔がそこにあったからだ。

「あんたか」

わたしの目の前に立ち塞がるように佇む男は、三田だった。わたしが勤務していた会社の目の前のビルに居を構える興信所の所長。なぜここに?と考えてわたしは思いなおした。わたしには予感があった。彼がここにいる予感だ。かつて知り合ったばかりの頃、それは酒の席だったが、彼がわたしの出身地をしきりに聞きたがったのを思い出した。わたしが「信州小布施という小さな町だ」と言うと「奇遇だな?自分もそこの出身だ」とわざとらしい驚きの表情を作って見せ「世間は狭いものだね」とおどけて見せた。

 それらは全てが嘘だったのだろう。

「何か分かったかね?」

その声は、都会の片隅で浮気調査に精を出すいかがわしい興信所の所長とは別人だった。巨大な権力、愚直なまでに正義と信じる権力を背に抱えた重々しい響きがあった。わたしは

新幹線の中で新聞をくれた男はあんたの仲間か?」

と問うてみた。三田はあっさりと頷いた。

「昨日、この駅に着いた時、わたしの後を付けて来た男もあんたの仲間だろう?」

先刻と同じように三田はコクリと頷いた。

「なぜ付回す?二十年も」

というわたしの質問に、三田は首を大きく左右に振った。

「そんなもんじゃない。もう三十二年だ。いい加減、疲れた」

三田の言いたいことが全て真実に違いない。しかし、何をいいたいのか理解できなかった。わたしは

「まだ、駄目なんだ」

と答えた。首を傾げる三田

「まだ、何も分からない。全てが夢の出来事のようにも思えるし、そうでないようにも思える」

と問い掛けるように言った。三田が何かを教えてくれるような気がしたからだ。

「自分の知らないことばかりなんだ。義母が入所しているという施設に行った。義母らしき女性のベッドまでは分かったんだ。でも名前が芳江という。芳江とは誰だ?わたしの義母は美和という名の筈なのに。それに、本当の母親はわたしが幼い頃にどうやら死んでしまったらしい。ずっと、わたしと父を捨てた母がどこかで生きているのだと思っていたのに。それから、これはついさっき由紀から聞いたことなんだが、義母は由紀にわたしと会うことを禁じていたらしい。禁じるといっても、あの親子の方から家を出て行ったんじゃないか。わたしはその後、彼女達がどこに住んでいたのか知らない。だから、逢いたくても会うことなんて出来なかったじゃないか?」

三田は、何かを憐れむような表情でわたしを見詰めていた。それから大きな溜息を付いた。

「もうとっくに時効は成立してるんだ。それにわれわれもすっかり歳を取ってしまった。これ以上、長い道のりは耐えられん。だから早く、真実を明らかにしてくれ・・・」

それはこちらの台詞だ、という言葉をわたしは下を向いて噛み締めた。そのまま顔を上げず、三田を見ないまま街の中へ歩を進めた。

 駅の正面から街中へ真っ直ぐ伸びた道は、途中右に大きくカーブしていた。その先に繁華街があるのだ。わたしはカーブの手前まで歩いたところで駅の方へ振り返った。そこに三田の姿は無かった。しかし、案の定だ、とわたしは思った。わたしの中で、別の過去の記憶が蘇っては消えた。柴崎さんの葬儀を前後して現れた現実離れした夢の数々が、幾つかの点となって繋がり始めていた。それはわたしが長年持ち続けていた記憶より鮮烈で、生々しいものに思えたのだ。

『義母さんにさえ会えれば、全てがはっきりする筈だ』

それは明らかだったが、義母は明日まで面会できない。しかし今のわたしには、明日まで座して待つほどの忍耐力もまた失われていた。マサ兄を訪ねてみようか、と思った。義母と由紀を連れて出て行ったのは、紛れもなくマサ兄の筈だった。しかし、不思議なことに義母の入所する施設にも、由紀のいた病院にもマサ兄のにおいはまったく感じられなかった。

 もっとも大人の話だから、義母とマサ兄はその後分かれたのかもしれない。

 ふと、父の実家に行ってみようと思った。そこには父の両親、わたしの祖父、祖母が住んでいる筈だ。マサ兄もそこに居るかも知れないと思った。東町と呼ばれる区域で、わたしたちが子どもの頃に住んでいた長屋立ての町営住宅と同じ自治区だった。駅から歩けば長屋までの道程の途中ということになるから都合が良かった。

 十分ほどで、父の実家のある地籍に着いた。入り口が隣家の大きな土蔵の影になり見えないが、典型的な農家の奥に敷地が広い家だった。マサ兄は農業を継いでいるのだろうか?それともまだ役場に勤めているのだろうか?

 土蔵を表に回りこんで、入り口の正面に立った。そこには、倒壊した古い家屋の残骸があった。わたしは予想外の光景に、息が詰まった。道路から、冬というのに雑草が張り付いた庭に足を踏み入れた。手入れなどしたことの無いような地面を恐る恐る歩き、残骸に近付いてみた。残骸は、もう大分時間を経たものだった。残骸となってより何年、いや何十年という歳月を経たに違いない。中途半端に骨組みを残した柱や梁が真っ黒に焦げた様を見せていることで、家事による倒壊だと推察できた。祖父たちの家で、そのような事故があったなどわたしは全く知らなかった。記憶の隅々まで探ってみたが、それに関連するものは何も見付からなかった。わたしはこの事故を知らない。なぜ誰も教えてくれなかったのだろう?祖父や祖母、マサ兄はこの事故の後、どうなったのだろう?

「たくみ、ちゃん?」

誰かがわたしの名を呼んだ。振り返ると今しがた歩いてきた道路に、誰かが自転車を止めたままこちらを見ている。既に地平線に向って傾いた冬の西日は尾が長く、その”誰か”の姿を光の影に隠していた。

「やっぱりたくみちゃんよね。驚いたわ。いつ帰って来たの?」

それは初老の女性の声だった。わたしは残骸に心を残しながらも声の主に向って歩いた。大切な何かを思い出しそうな気がしたのだ。

「たくみちゃん、よね」

「ご無沙汰しています」

声の主は淳司の母親だった。老いた今も昔と変わらず品があった。夫は、つまり淳司の父だが、当時流行り始めたゲームソフトの開発で成功し、若くして大きな富を得た人だ。金持ちの妻だから品があるというもの一理あるが、もともと夫の会社の元請会社の役員令嬢だったという。

 わたしは子供の頃、彼女を見るたび心に浮かんだ感情を思い出した。生まれ付き幸運な人は一生幸運なのだ、ということだ。豊かさに恵まれ、恵まれた人はまた不思議なほど美しかった。人間は恵まれた人を美しいと感じるのだろうか?とさえ考えたこともあった。

 そんな彼女は昔と変わらぬ穏やかさを湛えていた。幸福な人間しか持ち得ない穏やかさに、あの頃どれだけ憧れただろう。しかし今のわたしにとっては、かつてと同じように羨ましい。彼女は穏やかさを湛えながら自転車に両手を掛け、夕陽の中に立っていた。背筋のピンと伸びた姿勢が美しかった。何ひとつ満たされぬものが無い者は、立ち姿さえ満たされているように思えた。

「ご無沙汰も何も、もう何十年ぶりじゃない」

「ええ、高校を出てから一度も帰省しなかったもので」

高校?と彼女は少し意外な顔をしてみせてから

「まあ、でも随分貫禄が付いたわねえ」

とおどけるように言った。

「ただ歳を取っただけです」

「まあ、歳だなんて。私はどうなるの?もう七十よ」

「でもおばさんはいつまで経っても奇麗です」

「まあ、上手になったわねえ」

ほほほと右手を口に当てて笑った。昔と変わらぬ上品な笑い声。そういえば近所の主婦達は彼女を奥さんとは呼ばず「夫人」と呼んでいたのを思い出した。勿論、本人の前ではなかったが。

「ところでたくみちゃん。ここへ戻ってたんならうちへも連絡くれれば良かったのに・・・」

言いかけて彼女は、口をつぐんだ。それから

「時々ね、淳司を二人で話すのよ。たくみちゃんはあれからどうしたんだろうって・・・」

と何かを思い出している風だった。

「でも良かった。元気で。ご家族は?」

「ええ、妻と娘が」

「まあ!それは幸せねえ」

つい数日前、離婚したばかりです、と言い掛けてやめた。話を面倒にしても仕方が無いと思ったのだ。それに、彼女なら知っているだろう、とわたしは思った。この残骸の意味をだ。ずっとこの町に住み続けた者なら、この有様を誰もが説明できる筈だ。

「ところでおばさん、ちょっと伺ってもいいですか?」

「なにかしら?」

「この廃墟なんですが、これはどういうことですか?」

彼女の顔が一瞬引き攣ったように見えた。しかし、すぐさま話を変えた。

「たくみちゃん、久しぶりにうちへ遊びに来ない?忙しいなら仕方ないけど・・・」

話を変えられたわたしは釈然としない気持ちで彼女を見詰めた。彼女は、きっとわたしの問いに答えたく無いのだろう、と思ったのだ。つまり、この廃墟は、父の家があまり良い最後では無かったことを示しているのに違いない。

「奥さんと娘さんが待ってるのかしら?」

「いいえ、ボク一人で来たんです」

彼女は「まあ!」と小さく声を上げてから

「ならうちでお夕飯を食べてって。ね」

とわたしの腕を軽く掴むと左右に揺すった。

「たくみちゃんの元気な顔を見れば、淳司も喜ぶわ」

何故、喜ぶんだ?ふいにそんな疑問が頭を横切った。頭痛の予感がしたが、それは一瞬の小さな痛みで済んだ。しかし痛みの中に数多くの写真がパノラマのように現れた気がする。その中の一枚が、僅かに動きを停止した。ロープの向こう側で、淳司が手を伸ばしていた。こちらに向って、何かを掴むように。しかし淳司の前には何も無い。むしろ淳司の後ろに夥しい数の大人たちが犇いていた。それを交通整理しているのはヘルメットを被った警備員だろうか?

「ね、いいでしょ?」

「え、ええ」

淳司の家に行けば、何かが分かるかもしれない、と思った。少なくともわたしがこの町を離れて以降のことを淳司も、淳司の母も知っているのだ。それらの話を聞くだけでも、この頭の中でもやもやと湧き上がる記憶の断片たちの正体が見極められるかもしれない、と思った。

 わたしは淳司の母と連れ立って、淳司の家に向った。ほんの数百メートル先に建つ、資産家らしい豪奢な家は棟が二つに増えていた。淳司家族が同じ敷地内に建てたのだろう。二棟を廊下が繋いでいた。

「もう三十分もすれば淳司が帰ってくるわ。それまでお茶でも飲んでてね。甘精堂の羊羹があるわ。たくみちゃん大好きだったものね」

長く、甘いものなど口にしたことが無かった。しかし彼女の言葉を聞いた瞬間、羊羹の懐かしい甘みが蘇った。そうだったわたしは甘い菓子が好きだったのだ。

 居間の通され「そちらへどうぞ」と指されるままソファに腰を降ろすと、淳司の母は家の奥へ消えた。奥で小さな話し声が聞こえた。家の防音性能が高いのだろう。声はくぐもって何を話してるのかまでは聞こえなかった。

 やがて盆を持った淳司の母が現れた。

「もう30分もすれば帰ってくるそうよ」

淳司の母は急須で茶を注ぎながらそう言った。どうやら先ほど聞こえた話し声の相手は淳司の妻らしい。

 わたしは勧められるまま茶に口を付けた。それから部屋を見回した。少年の頃、何ども遊んだ部屋だった。しかし模様替えしているらしく、記憶にある部屋とは大分様子が違った。同じとすれば壁に貼られた淳司の写真だ。当時から、この居間には淳司の写真が多く飾られていたものだがそれは今も変わらない。

 淳司は一人っ子だった。両親にしてみれば彼の成長がこの家の歴史なのに違いない。

「これは運動会の時ですね。六年生だ」

そこには淳司を真ん中にわたしと真人の三人で並んでいた。白い運動着に赤い帽子。六年生の運動会では赤組だった。どうやら壁の左から右へ向って時代が流れているらしい。運動会の写真を左に追って行くと、すぐ隣りは音楽会の写真だ。五年生の終わりのものだろう。淳司、真人、わたしのほか健太や裕二もいた。それからまた運動会があって、登山の写真があった。五年生の頃、米子大滝まで歩いて上がったものだ。滝を背にクラスのみんなでVサインをしていた。そこには由紀の姿もあった。

 ふと右へ視線を移すと六年生の運動会の隣りは修学旅行の写真だった。淳司、真人、健太、裕二、瞳、武男、涼子、のぞみ・・・わたしが、いないな?と思った。無意識に由紀の姿も探したがやはりいない。もっとも淳司の写真すべてにわたしが写っている訳は無いのだ。もう一度、左側へ視線を送ってみた。四年生の頃、三年生の頃の写真があった。それらは淳司一人のものや、健太と二人で写っているものもあった。なんだかわたしはほっとした。

 突然、視線に気付いて振り返った。わたしはギョッとした。いつも明るい淳司の母が暗い目でわたしを見詰めていたからだ。彼女はわたしの顔を見て、慌てふためいたように表情を変えた。いつもの明るい顔がそこにあった。

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2010-12-26 りふれいん-56-

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 以前は藪に覆われた荒地だったのに、いつの間にか住宅が立ち並ぶ団地となり、しかしそれらの住宅もはや色褪せ始めていた。家々の庭には古ぼけたエクステリアが朽ち果て、親子の関係が次の世代に引き継がれようとしているのを現しているようだった。わたしがこの街を去った後生まれた少年たちは既に大人になり、もうこの庭で遊ぶことは永遠に無い。この地は、わたしの知らぬ間に、少なくとも二つの時代が過ぎ去ったらしい。

 婆さんに茶をもらってから、少し躊躇し、出来もしない想定をして、家を出た。わたしたちの家、婆さんたちの家と屋根を一にするその長屋から「おぶせ荘」までは歩いて五分といったところだ。30余年を経て再会するには五分の距離は短過ぎた。わたしはまるで初恋の人に会いに行くような気持でいた。切れ長で大きな二重なのに、いつも眠たげな目をしていた。鼻はしっかりと大きいのに一向に威圧感が無かった。何よりいつでも少し開いた口にわたしはどぎまぎしたものだ。

 義母さんも、既に70だ。だから当時の面影をどれだけ見ることが出来るかは、あまり期待してはいけないというものだろう。しかし、義母さんに限って歳を取る筈が無いような気がした。

 ふいに由紀を思い出した。病院で見た由紀。石田医師が案内してくれた病室の、ベッドに寝ていた。目を覚まさない由紀は若い頃、恐らくは彼女が一番美しかった頃、と変わらなかった。石田医師もそう言っていた。こういう場合、眠ったままの由紀は「眠り姫」と表現するのだろうが、わたしは別の印象を持った。まるで蝋人形のようだと。彼女が生きていた、というわたしの記憶はまったくの間違いで初めから生きた人間では無かったのではないか?彼女の作り物のような美しさからそんな印象を受けたのだ。だがかつて彼女は間違いなくぼくの目の前で生きていて、今とは違う真っ黒な顔があの頃のボクの生活の大半に関与していたんだ。

 そんなことを考えているうち、団地の中を通り過ぎてしまった。目の前には新生病院の駐車場が広がり、その向こうに五階建ての病院が見えた。その建物の向こう側におぶせ荘はあるという。わたしはあっという間に駐車場を通り過ぎ、病院の敷地に入り、五階建ての建物を越えた。平屋の建物が見えた。年季の入ったコンクリート造りだった。ガラス製の幅の広い自動ドアの脇に「おぶせ荘」と書かれていた。病院もそうだが入り口が北側にあるのだ。これは敷地の南側が松川という大きな河川が流れており、道路が北側に位置することと、もう一つは南側に広い中庭があり、療養の為の散歩の場となっているためだ。

 自動ドアから中に入ったが、受付のようなものは無かった。施設を何らかの関係を持つ者以外の来訪がほとんど無いためだろう。仕方なくわたしは

「ごめん下さーい」

そう大きな声を出し、建物の奥に呼び掛けてみた。しかし奥からは沢山のざわめきが聞こえてくるだけで、誰も応対に出てくる気配は無かった。そのざわめきに掻き消されているのかもしれない、と思い、空いているスリッパを穿き廊下を奥に向って歩いた。

「どちらへご用でしょう?」

突然、女性の声に呼び止められた。50代前半の看護士用の白衣を着た女性だった。

「失礼ですが、どちら様ですか?」

「あ、はい。あの、母の見舞いに来たのです」

「お母様の?どちらの?」

「はあ、ちょっと苗字が分からないのですが・・・」

看護士は怪訝そうな顔をして「お母様なんですよね?なんで苗字が分からないのですか?」という予想通りの質問をしてきた。だが「子どもの頃に父と母が離婚して、それ以来なのだ」と話すと納得してくれた。

「でも苗字が分からないとちょっと、入所者数が結構多いですからねえ」

そう言われてから由紀の苗字が変わっていなかったことを思い出した。

「ええっと『北原』という方はいらっしゃいますか?どうでしょう?」

「ああ、北原さん。それならいらっしゃいますよ」

やはり苗字は変わってなかった。看護士も、同じ事を言いながらわたしを手招きした。

「こちらへどうぞ」

看護士に通されたのは広い食堂だった。食事時でもないのに沢山の老人がいた。きっと孤独にならぬよう、日中はここに集まっているに違いない。

「あれ?」

看護士は食堂を見回しながら首を傾げた。どうやら見当たらないらしい。

「北原さん、どこ行った?」

食堂にいた仲間の看護士を捉まえて訊ねていた。

 二人の看護士の会話の中で「息子さん」という言葉が何ども出てきた。どうやら言葉のニュアンスからすると義母に家族がいたことに驚いているらしい。話が一段落すると食堂にいた方の看護士がわたしに近寄ってきた。

「北原さんの息子さんですね。離婚後、お父様に引き取られた?」

「そうです。もっとも血は繋がっていません。父と母は再婚同士で、わたしは父の連れ子でした。それでまた父と母は離婚した訳です」

説明すると看護士は、一度目を丸くしてから同情するような表情をしてみせた。

「分かりました。事情は飲み込めました。でも済みません。北原さん、今日はここに居ないのです。定期的に病院の方で検査をしているんですが、今日はその日なんです」

「その検査は何時頃終わりますか?待っていようかと思いますが」

「そうですねえ、いつもだいたい朝から始めて夕方過ぎまで帰ってきません」

「そんなに時間が掛かるんですか?」

「もうお歳ですからゆっくり検査してるんだと思います。それに・・・」

「それに?」

看護士はそう訊ねるわたしの顔をしばらく覗き込むように見詰めた後、

「いえ、ですから待って頂くのはちょっと・・・」

わたしは諦めようとも思ったが、懐かしい義母の様子を少しでも知りたいと思い看護士に提案した。

「母の部屋を見せてもらえませんか?」

看護士は虚を突かれたというように、驚いた表情でわたしを見た。

「すぐ帰ります。お時間は取らせませんから」

続けてそう懇願するように言うと看護士は少し考えてから、

「そうですね、どうぞ」

とわたしを食堂の更に奥へと案内してくれた。

 病院の大部屋のように、六つのベッドが整然と並んでいた。誰もいなかった。皆、先ほどの食堂にいるらしい。あるいは、今日は天気が良いので中庭で散歩している者もいるのかもしれない。

「ここです」

看護士が指し示したのは、入り口のすぐ右手のベッドだった。

「特に何も無いんですよ」

看護士は申し訳無さそうにした。言うようにベッド脇の小さな棚に、タオルや手ぬぐいの他、薬物を飲んだり吸引したりする為の道具と思われるものが置かれているだけだった。わたしは、確かめるように訊ねた。

「母はもう、長いんですよね?」

「え?」

「ここはかなり前からいるんですよね?」

「ああ、はい・・・」

「お見舞いに来られる方もいらっしゃらなくて。娘さんも、ずっと長野で入院されてるって・・・」

由紀のことを言っているのだろう。わたしはそれを知っていることを示すように頷いた。

「明日なら朝からいると思いますが・・・」

早く帰るように促されているように思えた。看護士はまだわたしを信じ切ってはいないらしい。そもそも息子がいることなど知らなかった様子だ。もっともこれ以上、ここにいても意味が無かった。看護士に従うようにわたしは帰ることにした。

「ではまた明日来ます」

そう言うと看護士を残し部屋を出た。出たところで壁に貼り付けられた名簿を確認した。よく病室にあるように、名札を差し込むプラスチック製のパネルが貼られていた。ベッド配置と差し込む場所が一致しているのだ。入り口の右手だから、一番右下に義母の名札がある筈だった。そこには「北原」と書かれていた。しかし続いて表記されていたのは「芳江」だった。

「どうかしましたか?」

帰ると言ったわたしがまだ廊下にいるので、不審に思ったらしい。名札を見詰めているわたしの隣に来て、一緒に覗き込んだ。

「名札がなにか?」

「いえ、この名前」

「名前?」

「ええ、これは誰の名前ですか?」

看護士はますますわたしに不信感を募らせたらしい。大きく溜息を付くとわたしの肩を押した。

「済みませんが、短時間だというのでお連れしたんです。基本的にご家族の方以外、こちらに入れませんので」

咄嗟に、幾つかいい訳を考えたがどれも看護士を納得させられるものでは無さそうだった。それより義母の名前が違っていることをどう理解すべきか、それを考えるので精一杯だった。

 すぐにここを出よう、でて婆さんに確認してみよう、と思った。看護士に背を押されるままにおぶせ荘を後にすると、さっき来た道を早足に歩いた。団地の中ほどまで来ると急く気を押させられず走った。そう遠くはないから、すぐに長屋が見えた。わたしは婆さんの部屋の前に立つと、引き戸を勢い良く開けた。引き戸を開けたそこはいきなり居間である。しかしそこに老婆の姿は無かった。肩から力が抜け落ち、畳の端に膝を着いた。

 答えがなかなか見付からない、この数日、そんな思いを何ども繰り返してきた気がした。これまでは、サラリーマンだった頃、家族の一員だった頃は、答えはすぐに帰って来たのに。だが良く考えると、少し違うかもしれない。ここ数日、繰り返してきたのは幾つもの疑問に気付いたことだ。それ以上のことは何もしていない。そう考えると、答えを見付けようとしたのは今が初めてだった。

 幾つもの疑問が蘇ってきた。その一つ一つが全て繋がっているように思えてきた。

 ふと、誰かが後ろに立っている気がした。振り返ってみたが既に誰もいなかった。しかし気配だけは漂っていた。そしてそれは婆さんのものではない。長野電鉄小布施駅で降りた時、わたしを付けるように降りてきた乗客のことを思い出した。そして新幹線で向き合いの席になった男。わたしに一年近く前のスポーツ新聞を譲ってくれた後、軽井沢で降りた男だ。それから、なぜか所長を思い出した。会社の向かいのビルに事務所を構える探偵事務所の三田所長。彼もたしかこの街の出身だった。なぜ三人の男たちのことを同時に思い出したのか?理由は分からない。ただわたしの中では、同じにおいのようなものがしたのだ。

 婆さんがどこへ行ったのか分からない。単に近所へ用が出来て出かけただけかもしれない。しかし婆さんを探している気持の余裕が無かった。由紀に会いに行こうと思ったのだ。由紀に会えば、わたしが感じている疑問を解いてくれる気がした。立ち上がり、駅に向って歩き始めた。次第に足早になるのを抑えながら、それでもこの寒い時期に汗が沸くほど早く歩いた。小さな街は、すぐに目的地が現れた。小布施駅が目の前にあった。

「今日は朝から調子が良いようですよ」

面会を求めたところ前回と同様、石田医師の診察室に通されたのだ。

「そういえば」

と医師は言った。

「由紀さんに電話か何かされましたか?」

「電話?いいえ」

「そうですか。おかしいな」

「なにか?」

「ええ、前回、お兄さんが来られたことを知っているらしいのです。私も看護士たちも、それを伝えて無いのですがね」

医師は、にこやかな表情をわたしに向けた。

「いや、お気になさらぬよう。ああいう患者様は感受性が鋭いので、ちょっとしたことから私たちが感じないようなことを感じる能力があったりするんです」

そして席を立つと

「こちらへ」

とわたしを促した。前回と同様わたしは医師の後ろに付いて由紀の病室に向った。

「そういえばもう一つ」

医師は歩きながら振り返った。

「女性が訪ねて来たのですがご存知ですか?」

「女性?」

「ええ、年の頃は、そう、四十代前半といったところでしょうか?」

「誰でしょう?」

「それが、私どもも分からなくて。ただ古い友人だと言われたのです」

「古い友人?」

「ただね、面会の後、由紀さんに訊ねてみたところ『知らない人だ』と言ってました。それに・・・」

「それに?」

「女性の方も、初めて由紀さんを見た時、随分戸惑っておられました」

「戸惑った?そりゃ、由紀が年齢の割りにひどく若く見えるからじゃないでしょうか?」

「それもあるでしょう。ただそれだけじゃないような・・・なんというか・・・予想外の相手と会ったとでも言うような感じでしょうか・・・」

「予想外の相手?つまり先生はその女性は由紀と初対面だった、とお考えなのですか?」

「え、ええ、まあ・・・推測の域を出ませんが、なんとなくそう感じたのです」

わたしは記憶を探ってみたが、皆目検討も付かなかった。わたしは三十年以上、由紀と音信普通だったのだ。その間、由紀がどのような人生を歩み、どのような人々と関わってきたのか全く知らないのだ。

「いつ頃、来たのです?その女性は。昨日?」

医師はわたしの質問に大きく被りを振った。とんでもない、と言わんばかりだった。

「あなたと同じ日です。ほとんど入れ違い、とったくらいでしょうか」

それでは余計に分かる筈が無かった。わたし自身、由紀がここに入院していることを知ったのはつい三日前のことなのだから。

「その女性はその後も来られるのですか?」

「いいえ、それ一回きりです」

また新たな謎を見付けた思いだったが、どうやらこれはわたしには関係の無いことらしい。

「ところで由紀は目覚めてますか?この前みたいに眠ってはいませんか?」

「まだ午前中ですから大丈夫だと思いますよ。通常は一日起きています。時々、体調が優れない時、昼寝をするくらいですから」

話が終わらぬ間に由紀の病室の前に着いた。

「むしろ先日のようなことは初めてだったのです。わたしも少々驚きました」

それから石田医師はげんこつを作ると壁を二度ほど叩いた。引き戸は開け放たれたままだったから、ノックの代わりだろう。すぐに

「はーい」

という明るい声が返って来た。

「やあ、今日は調子が良いみたいですね。ん?」

医師は部屋の奥に進みながら話し掛けた。話し掛けた相手は、窓際で円椅子に座ったまま上半身をうつ伏せていた。良く見ると、病院のベッドでよく見かける可動式のテーブル、食事の時などに使うアレだ、それを窓際に持ち出しそこに向ってうつ伏せていた。入り口に立つわたしからは背中しか見えなかった。

「また手紙だね?」

医師の言葉から、手紙を書くのに夢中になっていることが分かった。

 それにしても、子どもが字を書く時のような姿だ、と思った。字を書くにしても、大人になると自然と姿勢が上がるものだが子どもの頃は顔がテーブルに付きそうなくらい屈む子が多い。こちらに背中を向けた女性も、身体は大人だったが、子どもと同じ姿勢で手紙を書いていた。

「今日はお客さんを連れてきたよ。誰か分かるかな?」

医師の言葉に女性は、振り向いた。その仕草の幼さは、彼女の実年齢からは違和感を覚えるほどだった。

「さあ、誰でしょう?」

という医師に女性は首を傾げた。わたしが分からないのだろう、と思ったが、驚いたことに別の意味で首を傾げたのだった。

「何言ってんの先生?たくでしょ」

由紀は憮然とした表情で言うと、またわたしたちに背を向け手紙を書くのに没頭し始めた。医師はわたしの顔を見ると小声で

「たく?」

とわたしに確認した。わたしが無言で大きく頷くと石田医師は再び由紀に語り掛けた。

「やあ、良く分かったねえ。憶えてたんだ」

途端に由紀は

「え?」

と声を上げた。由紀は背を向けた姿勢のまま、状態を伸ばし小首を傾げた。

「変な先生。たくを忘れる筈無いでしょ。昨日だって一緒に遊んだんだから。裏山に上ってね・・・」

そこから先はぶつぶつと独り言のようになって聞こえなかったが、間違いなく懐かしい由紀の声だった。わたしは思わず

「由紀」

と大きな声で呼んだ。

 由紀はくるりとこちらを向き直った。驚いた顔をしていた。ちょっと怯えた表情にも見えた。

「なに?たく」

不安そうな声にわたしは答える言葉を失った。しかし尚も不思議そうな表情でわたしを見詰める由紀に

「ううん、なんでもないよ」

とだけ答えた。

「なーんだ。おかしなたく。先生がさっきから変なことばっかり言うからたくに伝染しちゃったんだよ」

由紀は石田医師を睨んだ。医師は両手を拡げながら大きな声で笑って見せた。

「そうだね。先生、ちょっとおかしなこと言っちゃったね」

「そうよ。まるでわたしがたくを知らないみたいに言ったりして」

「ごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど。そんな風に聞こえちゃったかな?」

「ますます変な先生!わたしをからかってるの?」

石田医師は「そうそう、冗談言っちゃってゴメンね」と更に大きなジェスチャーで由紀に謝った。

 それで由紀は安心したらしい。またテーブルに向って上半身を伏せた。なにやら熱心に手紙を書いているのだ。わたしは石田医師に視線で確認と取った。医師は微笑みながら了解してくれたので、由紀に話し掛けた。

「なに書いてるの?由紀」

由紀は手の動きを休め、大きく溜息を付いた。しかし何も答えなかった。仕方なく質問を繰り返した。

「ねえ、手紙?誰に書いてるの?」

「もう、なに言ってるの?さっきから変なことばっかり」

由紀は少し怒った調子で声を上げた。そして、こちらは振り返らずまたペンを走らせ始めた。

「たくに書いてるんだよ」

「え?」

「だってたくったら、どこかへお出掛けしたまんま、ぜんぜん帰って来ないの。だからたくとお話しするには手紙を出すしかないんだよ」

医師は首を左右に振り、唇の前で人差し指を立てた。わたしに、彼女の言葉に逆らってはいけない、と伝えようとしているらしい。

「ねえたくー、どこへ行っちゃったの?手紙読んでるんでしょ?なんで返事くれないの?」

「?手紙?出してくれたのかな?」

「またそんなこと言って。なんども出したじゃない。毎日のように書いてるわ。ただ、文がまとまらなくって、たくが読んでも意味が分からないと思うから、分かるようになんども書き直してるの。だから看護士さんに送ってもらうのは週に一度くらいかなあ」

「そうだったんだ。気付かなくてごめん」

「気付かなくて?何言ってるの?何度も返事をくれたじゃない」

「返事?」

「忘れちゃったの?頭大丈夫?」

突然、由紀はこちらを振り返ると立ち上がった。それからベッドの脇に立つ書棚まで早足で歩き、本の間から紙袋を取り出した。

「ほら、これみんなたくが送ってくれた手紙だよ。全部、取ってあるよ」

由紀はその一つを取り上げると、わたしに手渡した。封筒の表を見ると『北原由紀 様』と宛名が書かれている。住所はこの栗木病院内だ。裏返すと、そこにはわたしの名前が記されていた。わたしは石田医師の顔を見た。しかし医師は両手を拡げ小さく首を振るだけだった。小声で「患者のプライバシーには極力関知しないのです」と釈明するように囁いた。

 わたしはもう一度、自分の名前を見た。だが、よく見るとそれはわたしが書いたものでは無かった。わたしの筆跡に似せて書いてあるが、明らかに違う。では誰が書いたのか?病院が由紀のために贋の返事を書いた、と考えるのが普通だが、筆跡を似せてあるのはおかしい。病院がわたしの存在を知ったのはほんの三日前、わたしが由紀を訪ねて来た時なのだ。手に取ってみた手紙の消印の日付は3年以上前になっていた。

「えっと、一番最近のやつはこれだよ」

由紀が差し出した手紙の消印は、二ヶ月前だった。わたしは由紀を見詰めた。由紀は子どものように小首を傾げわたしが何か言うのを待っていた。

「開けていいかい?」

というわたしの言葉に大きく頷いた。

「当たり前じゃない。だってたくが書いたものだもの」

記憶に無い手紙、わたしに似せた筆跡、しかし石田医師は知らないという。出し主の手掛かりは手紙の内容にしかなかった。綺麗に縦に四つ折りにされた手紙を抜き出し、開いた。やはりわたしの筆跡を模して書かれた字の数々。しかし途中から飽きたのか、あるいは面倒臭くなったのか、いずれにせよ辛抱が切れたようにわたしのものとな似てもに付かぬ筆跡になっていた。

『久しぶりだね、ゆき。今日は少し辛い話を書かなきゃいけない』

そう始まっていた。わたしには皆目検討も付かない内容だった。

『しばらく手紙を送れなくなってしまうんだ。もしかしたら、ずっと送れなくなるかもしれない。ぼくの人生の曲がり角なんだよ。ぼくの人生はとても大きく変わってしまうんだ。だから今までみたいに自由に手紙を送ることも出来なくなってしまう』

わたしはもう一度、その手紙の入っていた封筒の消印を確認した。しかし何度見直しても三ヶ月前のものだ。

『ぼくは色んなものを失ってしまう』

会社を辞めるという話が出たのが二ヶ月前。妻から離婚の話を切り出されたのはその直後だ。にも関わらず、この手紙はわたしの未来を言い当てているように思えた。

『だからもう君とは会えないかもしれない』

会えない?この手紙の主は、由紀と何度か会っているのか?わたしは手紙を石田医師に見せた。しかし、その行(くだり)を見せても見当も付かないようだった。わたしに小声で

「さっき言った女性が来るまで、何十年も由紀さんに見舞い客は来ていないんです」

と耳打ちしてくれた。

「ねえ、どうしたの?」

由紀が怪訝そうな顔で立ち上がった。わたしの手の上の手紙を覗き込みながら

「変なこと書いてあったっけ?」

と首を傾げた。その仕草はあまりに幼かった。

「二人ともどうかしたの?さっきからこそこそお話したりして」

由紀はわたしと石田医師の顔を交互に見比べた。

「私の知らないお話しちゃあ嫌よ」

まるで少女のようなあどけなさで、由紀は目をいっぱいに開いていた。それは自分の知らない何かを探そうと懸命になっているように見えた。

「なんでもありませんよ」

石田医師が由紀の肩に手を掛け、座らせた。由紀は素直に座るとまた窓の方を向いて手紙を書き始めた。由紀が再び身体を伏し、夢中になり始めたのを確認するとわたしは石田医師に問い掛けた。

「どういうことなのでしょう?」

どれに対する質問なのか?という顔をされたが、わたし自身、分からなかった。それぞれでもあり全部でもあるとしか言いようが無かった。しかし石田医師はそれと理解したらしく全部に対する適格な答えを提示してくれた。

「彼女の記憶はすべて、ある時期で停止しているようです」

「それはいつですか?」

「分かりません。ここに連れて来られた時、もうこの状態だったそうです。それから二十年余りが経過しています」

「二十年・・・」

呟きながら年齢を遡ってみた。ちょうど二十歳の頃だ。その時期、彼女に何かあったのだろうか?

「分かりません。当時の担当医が催眠療法などで調べたようですが、結局分からずじまいだったそうです」

「当時の担当医の方は?」

「高齢でしたので、既に亡くなっています」

医師は首を左右に振ってから、言い訳するように付け加えた。

「何しろ一緒に住んでいた母親もまともでは無かったようです」

「まともではなかった?」

「ええ、病ではなかったようですが、心を閉ざしていた、というような記録があります」

「心を閉ざす?何も答えなかったということでしょうか?」

「私は記録を読んだだけなのでなんとも言えませんが。ただ興味深いのは催眠による診察の結果です」

「というと?」

「『何かを隠している』とあるのです。そして『記憶の一部に鍵が掛かっている』とも」

わたしは由紀を見た。一瞬、由紀の動きが止まったかに見えたのだ。

「なにか思い当たることはありませんか?」

「え?」

「いえね、お義兄さんなら何かご存知かなと思って。お話によれば小学校を卒業するまでは一緒に住んでおられたということですよね」

それはその通りだったが、わたしの知る由紀は快活で、優秀な少女だった。隠し事などしよう筈も無かった。

 そこまで考えた時、

『なんで来たの!?』

という由紀の怒声が蘇った。あれはいつだったか?なぜ、由紀はそんな風に怒ったのだったか?

『なんで来たのよう!?』

由紀の怒声はわたしの頭の中に何度も、繰り返し現れた。

「ねえ、なんで来たの?」

ふいに聞こえてきた現実の声にわたしは我に返った。

「ねえ、たく。今日は何で来たの?」

由紀はつい先ほどまで熱心に手紙を書いていた筈だった。わたしに送るための手紙。でも一度としてわたしの手元に届いたことの無い手紙。わたし以外の誰かが、可愛そうな由紀の為に返事を代筆してくれていた手紙。そんな手紙を書いていた由紀が、上半身を捻じ曲げるようにしてわたしの顔を凝視していた。

「何でって、由紀に会いに来たんだよ」

由紀は、少し考えるようにした。それからひそひそ声で言った。

「嘘仰い。もうわたしたちはずっと会っちゃダメ、って言われたでしょ」

「え?誰に?」

「誰にって?何言ってるの、たくったら」

「いや、本当に分からないんだ。誰だっけ?」

「しょうがないたくだなあもう。おかあさん」

「え?」

「おかあさんでしょ」

突然、肩を掴まれた。石田医師だった。医師の手は半ば強引にわたしを出口まで引き摺った。

「由紀ちゃん。また来るね」

医師は明るい調子で由紀に声を掛けた。

「たくも連れてっちゃうの?」

「あー、ああ、ちょっとお話があるんだ。また連れて来るよ」

「えー、いつ?」

「すぐだよ」

「ほんとにすぐ?」

「あー、すぐだ」

「絶対だよ。約束」

「ああ、約束だ」

「絶対、絶対だからね」

医師は由紀に手を振ると、わたしを部屋の外に押し出した。そのままわたしの背を押すように廊下を歩くと最初の角を曲がったところで大きな溜息を付いた。

「ありがちなんですよ。気を付けて」

「何を、です?」

「患者の家族がです。患者に話を合わせているうちに、患者の話に引き込まれてしまう。家族だから、真面目に聞いて上げたくなってしまうんですな」

「それがなにか?」

「いや、それはとても危険なことです」

「危険?」

「患者の世界に引き込まれてしまい、現実を見失ってしまうことがあります」

「わたしが?まさか」

わたしは石田医師の心配を一生に伏したつもりだった。しかし医師はわたしの顔を見詰めたまま視線を外さなかった。

「なんだって言うんです?わたしもおかしくなったとか?」

「そうはいいません。ただ、お義兄さん、何かを思い出しませんでしたか?」

医師の質問は的を射ていた。たしかにわたしは、なぜ来たのか?、とわたしに罵声を浴びせる少女の由紀を思い出したのだ。

「ご家族というのは、患者が普通であると願いたいものです。ですから何か鍵となる言葉を聞くと、それを現実の出来事と勝手に結び付けてしまう」

あまりの厳しい調子にわたしは驚いていた。それと気付いたのか石田医師は言葉を切ると、一度微笑んだ。

「まあ、面会も最初は短い時間からにしましょう。こういう病気は難しいところがあって、波長が合い過ぎるのも、勿論合わないのも上手くないのす」

由紀さんの様子を見ながら少しずつ面会時間を長くしていきましょう、という医師の言葉を他所に、ある言葉が頭の中に繰り返し現れた。『鍵』だ。由紀と会話した時、医師が耳打ちしたその言葉が、わたしの過去の記憶を呼び覚ました。しかし思い出したそれを、わたしは医師には言わなかった。言ったらまた、医師から根掘り葉掘り訊かれて面倒だと思ったのだ。

 それよりわたしは、由紀がその罵声を吐いた時のことを思い出そうとした。しかし、どんなに思い出そうとしても思い出せなかった。

「どうしたんですか?」

石田医師が心配そうな顔でわたしを覗き込んできた。久しぶりの頭痛が襲ってきたのだ。しかし既にわたしはそれをコントロールすることに成功していた。痛む頭を少しよこに振ってから、何ごとも無かったように医師に言った。

「今日はこれで帰ります。また来ます」

由紀をお願いします、と言って頭を下げた。身体を起こすと同時に医師に背を向けた。また新生病院の時のように入院させられては大変だと思ったのだ。それに、仮に入院しても新生病院で行った検査を繰り返すだけで、結果は火を見るより明らかなのだ。

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「知ってトクする保険の知識」連載中

2010-12-25 りふれいん-55-

[]

 内海と外海の境にはテトラポット群が”島”のように浮かんでいた。ボクはそこに沢山の蟹がいたり、貝がコンクリートの側面にへばり付いているのを知っていた。そこから泳いで戻ってきた小学生らの会話を聞いていたからだ。でも、まだ幼かったボクにはまで泳いで行けなかった。ボクは恨めしそうに父の顔を見詰めた。すると父はボクを浮き輪の真名に入れ、テトラポット群まで押しながら泳いだ。

 無数のテトラポットが積み上げられた”島”には、蟹や貝目当ての子どもらでいっぱいだった。とても食べられるものではないから、みんな観賞用に捕まえるのだ。ボクもその一人だった。でも蟹を捕まえるにはボクはまだ幼過ぎた。ようやく追い詰めた蟹に逆襲に遇い、指を思い切り挟まれた。父の笑い声がして、ボクは泣きべそを掻きながら再び浮き輪の真ん中に入り、父に押されて砂浜まで戻ったのだ。母が用意してくれた握り飯と麦茶を飲み、気付くと日傘の下で眠っていた。

 購入したてのサニーに乗り込み帰路に着いた頃、まだ陽は高かったけれど窓を開け放つと涼しい風が車内に吹き込んできた。海岸線を北上し、直江津の手前で長野方面へ曲がったところで魚市場に入った。そこは見覚えがあった。たしか昨年も海水浴の帰りにここへ寄ったと思う。もしかしたら一昨年も寄ったのかもしれないが、まだボクは幼過ぎて記憶に残っていないのだ。

 市場の中へ入ると、人でごった返していた。近所の魚屋や、最近ちらほらと建ち始めたスーパーマーケットで買うより新鮮で安い魚を買えるという事で海水浴客に人気らしい。ボクら家族もそんな客の一人だった。まだ幼いボクはやっと棚の上に顔が出るくらいだから、魚と同じ目線になってしまうのだ。棚に寝そべった魚たちは皆、ボクを恨めしそうに睨んでいた。魚たちは海水浴場の近海で獲れた奴らばかりらしくて、普段、母が焼いてくれる魚とは似ても似付かなかった。みんなグロテスクな姿をしてて、魚というより爬虫類と魚の中間のような奴らだった。そんな奴らの憎憎しげな視線に晒され、ボクはお化け屋敷にでも入った気分だった。

「これ美味そうだな」

父がそう言って棚から取り上げたのは既に切り身になったものだった。そうして白身と、白身に赤い色の入った切り身、鮮やかなオレンジ色の少し太った魚を母が手に提げた買い物籠に入れた。それから出口で蟹を

「三匹」

と注文した。注文された老女は

「おまけしとくね」

と言ってもう三匹入れてくれた。父はそれを手に取ると

「おまけが二匹だったらもう一匹買おうかと思ったけど、これでマサの分もあるな」

とボクと母にだけ聞こえる声で囁いた。

 夕食は祖父と祖母の家で食べた。父の弟、つまりボクの叔父も一緒だった。叔父といったもまだ高校生だ。ボクらは蟹を一人一匹ずつ、それから皿に盛った焼き魚と刺し身、祖母が畑から採って来たキュウリとトマトを食べた。ボクは蟹を食べるのがひどく下手糞で、顔中を蟹の汁と肉とにまみれさせていた。そのたび母は濡れタオルでボクの顔をぬぐってくれたんだ。


 新幹線長野駅に到着した。東京のそれと違い、地方都市の駅の照明はどこか薄暗い。

 眠っていたのか、考え事をしていたのか分からない気分だったが、とても疲れた気がする。新幹線が駅に滑り込み、薄暗い照明の中に入っても身体を動かす気になれなかった。それでも他の乗客が降り始めるのを見ると立ち上がらない訳にはいかない。わたしは心を奮い立たせて頭の上の荷物棚からバッグを降ろした。

 わたしは一つの間違いに気付いて愕然としていたのだ。何十年もそんな間違いを繰り返してきたことは、とても不思議なことだった。なぜそんなことになったのか良く分からない。もしかしたら幼かったわたしは、想像を超えた悲しみに耐えられず、事実を異なった記憶とすり替えてしまったのかもしれない。それ以外には理由が考えられなかった。海水浴はあれが最後だった。翌年は行く機会が無かった。なぜなら翌年の夏、母が死んだからだ。

 幸せだったわたしたち家族は、ある日を境に不幸な家族へと転落していった。

 わたしたち家族にはそれまで不幸の種など何一つ見当たらなかった筈だった。勤勉で実直な父母に不幸が訪れる隙間も無かった筈だ。にも関わらず不幸は一番、思いも寄らぬ形で訪れたのだ。それは貧困という形だった。当時、幼かったわたしのその理由は分からない。父は家族が生活に困らないだけの給料を貰っていたし、母は無駄遣いするようなことは無かった。何より二人は家族の将来、取り分けわたしの未来のことをいつも考えてくれていた、と思う。そんな二人には、貧困など訪れようも無い筈だった。

 その日いつもより早めに帰宅した父を見て蒼ざめる母の顔、母の視線の先で呆然と立ち竦む父の灰色の顔。それがわたしが憶えている全てのことだ。それから二人は台所で小さな声でずっと話し合っていた。子供心に答えの出ない難題に父母が苦しんでいるらしいことが分かった。寝付けなかったわたしは寝返りを打ち、溜息を吐いた。

「たく」

寝返りの音に気付いたのか、母が襖を開けて入ってきた。台所の明かりを背にした母はシルエットしか見えなかった。

「眠れないの?」

いつも穏やかな母だったが、この時は普段に増して静かな口調だった。それがわたしに何かを悟られぬための心配りに思えて、わたしは母の問いに答えられなかった。

「お熱でもあるのかな?」

母はわたしの額に額を押し当てて来た。その温もりがあまりに頼りなくて、わたしは泣き出してしまった。その時わたしはそう遠くない未来に母を失うことを予感したのかもしれない。わたしはなぜかこう叫んでいた。

「どこにも行かないでね」

と。それが聞こえたのか父も現れた。父はわたしを抱きすくめる母の上からわたしたちを抱き

「大丈夫だ。頑張るから大丈夫だから」

とわたしたちに言い聞かせるように言った。

 それから母が働きに出るようになった。わたしは毎日、一番最後まで保育園で母を待つようになった。母はいつも家に居るものだと思っていたわたしには、少なからずショックだったが、同じ学年にも二人ばかりそういう境遇の子どもがいた。一人は共稼ぎの子で、もう一人は父を亡くした子だった。わたしたち三人は毎夕、三人には広過ぎる遊戯室の隅で、静かに遊んでいた。が、三人とも心の中では毎日、呪文を唱えていたように思う。「今日は早く迎えに来ますように」と。しかしわたしの願いは通じなかったらしく、母の迎えは日を増して遅くなった。帰り際、母は園の職員に毎日、頭を下げて詫びるようになった。

 夏から秋を越え、冬に向うと母が迎えに来るのはあたりが真っ暗になってからだった。でも、凍えるような寒さの中で母のコートの中は暖かく、もうそれ以上余計な願いをする気が失せていた。慣れもあったと思う。また子どもだから飽きてしまったのかもしれない。いつの間にか呪文を唱えるのはやめていた。そうして冬を越え、春になってまた夏が来た頃、梅雨の雨が晴れ上がった日、祖母が保育園に迎えに来たのだ。まだ昼を過ぎたばかりなのに。わたしは首を傾げながら、不思議なことに心はある予感に満ちていた。幸福な家族の日々が完全に終わった、という予感に。そして残酷なくらい悪い予感は的中するものだった。

 祖母に連れられて行った場所は、薄汚れた診療所だった。一つしかない固いベッドの上で母は眠っていた。

「おかあさん」

わたしは期待などしていなかった。ただ確かめただけだった。予感が本当に当ったのか。母が確実に死んだのか、について。母は灰色の作業着を着たまま、目を閉じていた。わたしはもう一度、確かめた。

「おかあさん」

予感どおり母が答えることは無かった。

 わたしは母の死をずっと忘れていたんだ。

「終点ですよ、お客さん」

背後で声がした。駅員だった。わたしが酒でも飲んで”降り忘れている”と思ったらしい。わたしは手に持ったバッグを確認すると駅員に片手を挙げ、了解したという合図をした。

 新幹線のホームから階段を上がり、改札を出た。長野電鉄までは遠い。わたしは母の死を思い出したことで、すっかり気持が萎え歩く力も失っていた。それでも、改札から出て南北通路を善光寺口に向って歩いた。階段を降り、ローカル線の改札前を横切り、ぺデストリアンデッキに出ると、左右に地上へ降りる急な階段があった。長野電鉄の改札は右に降りるのだ。階段を一段一段降りるごとに動悸がしてくる気がした。特に心臓が悪い訳ではなかったが、わたしの中ではまるで今日、母が死んだような気分だったのだ。手摺りに掴まりながらやっとの思いで階段を降りた。そこからまだ50メートルは歩かなければならなかった。一度、休憩しようと思ったが、地方都市の夜は早く、それらしい店は既に閉まっていた。仕方なく足を引きずるように歩いて長野電鉄線のホーム入り口に向った。ようやく辿り着いたそこは、更に地下へ潜る階段を降りねばならなかった。

ばたんっ

という大きな音がしてドアが閉まった。気付くとわたしは座席に座っていた。なんとか電車に乗り込んだらしい。一息吐く間に電車はゆっくりと走り出した。急行に乗ったらしく席は対面式の四人掛けだった。しかし車内は空いていたからわたしの前には一人しか座っていなかった。壮年サラリーマンらしい。新聞を大きく拡げているので姿は良く分からなかった。

 わたしは窓の外をチラと見た。しかし善光寺下までは地下鉄なのだ。窓の外には何も見えなかった。わたしは目を閉じてもう一度、心を整理した。単に父と離婚したと思っていた母が、実は死んでいたのだ。それをわたしは知っていた筈なのにすっかり忘れていたのだ。

 あの日以来、何度同じことを繰り返せばいいのだろう?とわたしは溜息混じりに思った。心と記憶を何度整理すれば真実に落ち着くというのか?だが、そういう問題では無いような気がして来た。あの日、それは会社を辞め、妻と離婚した日だ。リストラや離婚なんて世間にはよくある話じゃないか。にも関わらず、それらはわたしの過去にも大きな影響を及ぼしたらしい。わたしの知っていたわたしの人生は、どうやら塗り替えられてしまったらしいのだ。

 誰がそんなことをしたのだろう、と思った。先ほどわたしに一年も日付の狂ったスポーツ新聞を渡した男がとても怪しい気がした。そもそも男は何の為に日付の狂った新聞を手にしていたのだろう。そして、そんなものを見ず知らずの他人のわたしになぜ渡したのか。

 たしか男はわたしに

「興味があるのか?」

と訊いて来た。そこには貴明のインタビュー記事が載っていたのだ。わたしは大きく頷いた。すると男は気前良く新聞を提供してくれたのだ。そのすべてが出来過ぎた芝居のように思えてきた。しかし、男は軽井沢駅で消えてしまった。だからそれを確認する術は無い。

 窓の外に、星のように小さな光が見え始めた。善光寺下駅を過ぎ、地上へ出たらしい。光は街の明かりだった。田舎の私鉄の車両は、とても古びていた。経費節減のため都会の鉄道会社から中古車両を譲り受けているらしい。そのせいか街中の路線にも関わらず少し揺れが大きかった。疲れも手伝って再び睡魔が襲ってきた。しかし首を左右に振ってそれに抗った。また、新たな夢を見てしまいそうな気がしたからだ。単なる夢というのに、わたしはすっかり混乱させられてしまった。わたしの過去は、どれが正しいのか分からなくなってしまった。

 突然、車両が大きな悲鳴を上げた。鉄橋を渡り始めたのだ。今では珍しいトラス橋だ。隣りに巨大な橋影が見えた。夥しい光に囲まれ輝いて見えた。工事中の新橋らしい。新橋が完成すればこの懐かしい鉄橋ともお別れだ。そうやって時代は移り変わり、この鉄橋の記憶も消え去っていくに違いない。最先端新橋が出来た時、この鉄橋は撤去される。どこかの博物館に展示された写真が鉄橋の記憶となるのだ。そしてその記憶は、新橋に勝るほどの美しい記憶として残る。時代遅れになったこの橋が、軋んだり歪んだりして悲鳴のような不快な音を発していたことなど、誰もが忘れてしまうのだ。

 過去など、そんなものかもしれない、と思った。誰もが自分の過去をきちんと憶えているような気がしているが、実際は単に現在の生活を投影しただけのものなのだ。現在の生活が幸福なら、幸福な過去が、不幸ならば不幸な過去が存在する。結局、会社や家族といった拠り所を失った今、その不安が過去の記憶を様々な形に変化させているだけなのだ。

 須坂駅を発車すると田園の風景が拡がってきた。夜目にもそれと分かるほど、車窓の外は人の気配が感じられない。電車が、わたしを乗せて過去の時代へと駆け戻っているように感じられた。もうすぐ、一昨日ひどい頭痛に襲われた小布施駅に到着する。また同じようなことになる予感がしたが、一方で頭痛は日を追って改善しているような、改善というより質が変わったような気がする。新幹線の中で感じた頭痛も、すぐに眠りに変わってしまった。それは”何かがほどけていく”時に感ずる苦痛のように思えた。

「おぶせー、おぶせー、お忘れ物の無いよう・・・」

場内アナウンスが聞こえた。わたしが座席を立とうとした瞬間、対面に座っていた男が拡げていた新聞を閉じた。目が合った。意味ありげな視線に思えたが、思い過ごしだろう。見たことも無い男だった。それにここで因縁を付けられるようなことは何も無い。

 座席を立ち上がると、男も立ち上がった。夜の小布施駅に降りたのは、どうやら私たち二人だけらしい。電車が北へ去った後、真っ黒なホームに、わたしたち二人だけが残された。

「なにか?」

とわたしは男に訊ねた。降車したというのに、男は改札へ向う様子が無かった。男は無言でわたしとは別の方向を見ていたが、わたしから離れようとする様子も無かった。それはまるでわたしを監視するような行動だった。

「わたしに御用でしょうか?」

もう一度、訊ねてみたが何も答えなかった。仕方なくわたしは彼を無視して改札に向って歩き出した。すると突然、男はわたしの背に語り掛けてきた。

「なにか思い出しましたか?」

慌ててわたしは振り返ったが、男はそ知らぬ顔をしていた。今の声は自分のものでは無いとでも言いたげだった。

「どういう意味でしょう?」

そうわたしが問い返しても、男は無反応だった。もう一度、

「”思い出した”とは、どういう意味でしょう?」

と言って男の顔を凝視してみたが、男はあらぬ方向を見詰めたまま素知らぬ顔をしていた。

 この男もまた、わたしを混乱させる為に現れたのか?そう思うと腹立たしくなってきた。記憶の混乱の後、今度は大勢の人間がわたしを弄ぼうとしているように感じられた。理由は分からないが、みんなわたしの過去の断片を少しずつ知っていて、それをわたしに突き付けてはからかっているように思えた。

「あんたは、軽井沢で降りた男と知り合いなのか?」

目の前の男は、わたしの問いには答えようとしなかった。

「わたしに日付が1年もずれた新聞を渡した男だよ。グルなのか?」

ふいに男はわたしの横をすり抜け、改札を出て行った。

「おい!待て。待てよ!」

男の背中に向って呼び掛けたが、夜の闇の中へ消えて行った。

「そろそろ閉めますが」

初老の駅員が迷惑そうな顔で言った。わたしが乗ってきた電車は最終で、それが発車してから既に何分も経過していたのだ。

「もう駅を閉めたいんですが」

「申し訳ない。すぐ出ます」

そんな会話を交わした後、駅舎を出ると右手にある筈のタクシー乗り場を眺めた。しかし待機しているタクシーは一台も無い。その向こう側にあるタクシー会社の平屋の社屋も灯かりが消えていた。仕方なくわたしは正面に伸びた道路を歩いた。狭い街だから歩いてもそう時間は掛かるまい、と思い歩き出した。

 考え事ばかりしていたせいか、あっという間に長屋に着いた。角の婆さんの部屋は電気が消えていた。眠ってしまったようだ。わたしはかつてのわたしたちの家の戸に手を掛けた。案の定、鍵は開いたままだ。そのまま中に侵入した。

 蛍光灯のスイッチを引っ張ると灯かりがともった。電源が長屋全体で一つなのだ。婆さんがいるお陰でこちらの部屋も電気が通じていた。テレビも点くかもしれないと思いスイッチを入れてみたがこちらはテレビが古過ぎるらしい。音一つ、光一つの反応も無かった。

 畳の部屋の隅に布団が畳まれていた。それを引っ張り出して敷いた。懐かしさが込み上げると思ったが、不思議なほど何の感慨も湧かなかった。疲れ果てているに違いない。布団の上にごろりと横になると、すぐに眠気が襲ってきた。抗う間もなく眠りに落ちていった。

 

 夢、は見なかった。見そうな予感はした。しかし見なかった、と思う。正面に見える天井の模様を見詰めながら、頭の片隅まで記憶を探ってみたが昨夜、夢を見ていた形跡が見当たらなかった。ここ数日、悩まされるほど見ていた夢が突然、現れなかった理由を考えてみたが、すぐにそれを考える無意味さを悟った。単に疲れていただけなのだ。

 天井板はあの頃と変わらない。わたしがまだこの家に住んでいた小学生の頃だ。朝、目覚めた時、いや夜寝る時の方が多かったか、こうして布団の上に身体を横たえたまま年輪を引き伸ばしたような天井板の模様を数えたものだ。

『何見てんの?』

由紀が毎日のように訊ねてきた。そのたび

『模様の数を数えてるだけだよ』

と答えるのに、翌日また同じように訊いてくるのだ。そして

『なーんだ、てっきり私の見えない世界を見てるのかと思ったよ』

なんて物語の主人公のような台詞を言った。そういえば由紀はなかなかの文学少女だったような気がする。授業が終わって帰るまでの一時間ほど、由紀はよく図書館にいた。活発で、勉強が出来て、スポーツ万能で、どこか大人びていた由紀は、いつも真っ黒に日焼けした男の子のような顔をしていたが、いつか美しい娘になるに違いないと思っていた気がする。そして誰からも羨まれる充実した人生を送るに違いないとも、思っていたんだ。しかし、どうやらその半分は実現し、半分は実現しなかったらしい。一昨日、病院で見た由紀は、美しい女性に成長していた。しかし彼女に、その後の人生は存在しなかったらしい。一番美しい姿に成長したままだった。そこから先の、人生の年輪とても言おうか、老いや崩れといったものが見受けられなかった。由紀はわたしと同じ歳だから、もう40を越えているというのに。

 ふと、窓の外に人影が見えた。屈んだように背の低い人影。玄関を開け、表に出てみると小柄な老女が掃き掃除をしていた。角の家の婆さんだ。

「朝飯でも喰うか?」

昨夜、わたしがここへ訪れたことを知っていた、とでもいうような物言いだった。

「ワカメの味噌汁しか無いが勘弁してくれ」

婆さんは卓袱台に味噌汁の入った椀を置きながら、今度は茶碗に飯を盛り付けた。

ババアの一人暮らしだからな。佃煮くらいしかねえんだ」

そう言いながら皿を差し出してきた。目玉焼きだった。わたしは「ありがとう」と言いながら受け取った。

「オレだってもうすっかり中年オヤジだからな。これだけあれば十分さ」

婆さんは「そっかい?」と首を傾けながら茶碗を差し出して来た。

「ところでさ、母さんの居場所、教えてくれないか?」

白米に佃煮を乗せて、それを口に運びながら横目で婆さんを見た。わたしの質問に婆さんは答えてくれなかったのだ。もう一度、

「母さんって今、どこに住んでるのかな?」

今度は婆さんの顔を真正面に見た。しかし婆さんは顔を背けた。それからまるでわたしの質問が聞こえなかったというように、リモコンを手に取りテレビのスイッチを入れた。

 既に8時を回っていた。番組は7時台のニュースが終了し、バラエティになっていた。よく見る文化人がコメンテーターとして登場し、司会者とともに好き勝手なことを言うというものだ。井戸端会議のようなもので、主婦層には受けるのかもしれない。

「はははは」

唐突に婆さんが笑い出した。明らかに間を外したタイミングだった。そもそも出演者のコメントは男のわたしには面白くもなんとも無いのだが、そこが笑いどころで無いことはよく分かった。

 それでも婆さんは笑い続けた。笑う間に飯を口に掻き込み、また笑う、そしてまた味噌汁を口に注ぎ込んだ。それはわたしとの会話を拒絶する意思表示のように思えた。

「なんだって言うんだ?」

わたしが、怒りに任せて大きな声を出すと婆さんは突然、黙り込んだ。

「オレは何か変なことを言ったかな?」

「ん?何か言ったかえ?」

「とぼけないでくれよ。さっき訊いただろ」

「はて?なんだったかの」

「お袋のことさ。今、どこに住んでるのか教えてくれって言ったんだ」

「お袋?」

「そうさ。オレのお袋だ」

「お前のお袋さんは、お前が小学校に上がる一年以上前に亡くなってしもうたよ」

「それは本当のお袋だろ。そんなことは知っている。知りたいのはオレが小学校に上がる時に来たお袋の方だ。由紀の母親だ」

婆さんは

「ああ」

と言ったまま、またテレビの方を向き直り「はははは」と笑って見せた。

「なぜだ?」

わたしは卓袱台に茶碗を置いた。古い卓袱台は、あの頃から使っているものだ。よく見ると色々な落書きがしてある。固いもの、例えばスプーンの柄などで傷付けるようにして描いてあった。当時、人気のあったアニメの主人公の名前が描いてあるところを見ると、それはわたしが彫ったものに違いない。

◇覚醒◇

「なあ、婆さん。知ってるんだろ?義母さんの居場所を」

婆さんはふいに黙り込み、卓袱台を見詰めた。その仕草は何かを探しているようにも見えた。しかし本当に探していたらしい。

「ああ、あった、あった」

とはしゃぎながらわたしの顔を見た。

「ほれ、懐かしいだろ」

婆さんが指し示したの卓袱台の上、婆さんの湯飲みが置かれた場所の近くだった。

「エリックがの、来日した時じゃあ」

「エリック?」

「あーあ、フリッツ・フォン・エリックじゃ。あいつはほんとに恐ろしい奴じゃったあ。ストマック・ホールドってな。肉の上から馬場の胃袋を掴み寄って、身体ごと持ち上げちまったあ」

「ああ、プロレスか」

「ほんとに残酷な奴だった。後にも先にもあんなに恐ろしい技を使う奴は見たこと無いわ」

「はは、プロレスなんて、ちゃんと筋書きがあるんだよ」

「分かった風を抜かすな。筋書きなんつーものは、あろうと無かろうと関係ない」

「いや、だから、恐ろしいとかなんとか・・・・」

とわたしが説明し始めると、婆さんは首を大きく左右に振った。そして

「お前は駄目な大人になったのー。これ見てみい」

と卓袱台の上を指した。婆さんの湯飲みの横には、何かを掴もうとする手と指が描かれていた。

「あの頃のお前は、ちゃーんと知っていた。何が嘘で何がほんとかな。それに比べ今のお前はなーんにも分かってねえわ」

「そんなことはどうでもいい。義母さんの居場所を知ってるんだろ。だったら教えてくれよ!」

わたしは、つい怒りに任せてしまった。婆さんにはぐらかされている気がして苛立ってしまったのだ。

「頼む。教えてくれ。いろいろ調べたいことがあるんだ」

卓袱台に手を付き、頭を下げた。婆さんは苦しそうな顔で、わたしを見た。

「実はわしもよく知らねんだ。どこかの施設に入ってるって話は聞くがな。それ以上は」

「施設?どこか身体でも悪いのかい?」

「いや、住む場所が無くってな。それに年だから働き口もねえわ。ま、あんなことがあってからずっとまともに働いたことはねかったがな」

「あんなこと?」

婆さんは突然、手早に動き始めると急須に湯を注いだ。それからしばらくテレビに向って黙りこくった。

「あんなことってなんだい?実はさ、三日、いや今日で四日目だ、ずっと変なことばかり続いてる。おかしな夢を見たり、それが初めはオレの小学生の頃の思い出だったんだが、それが一昨日くらいから変な夢ばかりで、事実と違うんだ。義母さんが悪い人になって出てきたり。あんなに荒れてた父さんが真面目だったり。事実と違うことばかり出てきて、夢だけじゃない。由紀だって。そうだ。婆さんに言われて一昨日、由紀に会ったんだ。それが由紀は寝てたんだが、おかしなことにまるで二十歳くらいの姿のままなんだ。それと、会社に寄ったんだが、帰りに昔馴染みの探偵事務所の所長を再会した。会社に入った頃、仲良くしてた人だから、何十年か振りだったんだ。ところが所長の奴、途中から変なことばっかり言い出して。気付くと電車の中まで追い掛けて来た。それで『本当は誰が殺した?』なんて言うんだ。おかしいだろ?病院へ行った方が良いんじゃないかな?」

「はい、お茶」

婆さんの声で我に返った。どうやらおかしいのはわたしの方かもしれない、と思った。だが、わたしは自分を止められなかった。

「昨日、変なことを思い出したんだ。ずっと昔のことだ。まだオレが小学校に上がる前、本当の母さんが生きてた頃、人並みに裕福だった。幼いオレは優しい父さんと母さんに囲まれ幸せだった」

ズズズっと婆さんが茶を啜る音がした。見ると婆さんは死人のような目をしていた。

「あれは本当なのかい?」

「本当って何が?」

「ずっと本当の母さんはオレを捨てて出て行ったものだと思い込んでたんだ。それどころか、オレの記憶の中では、本当の母さんは今でも生きていることになっている」

「そりゃそう思いたかったんだろ」

「でも、オレは本当の母さんを愛していないことになってるんだ。オレが愛してるのは美和という義母さんだと」

婆さんは湯飲みに口を付けたまま目を瞑った。

「『美和』さん、か。おまえ、お義母さんの居場所を知りてえって言ったな。会いに行くんか?」

「勿論、そのつもりだ」

「なら教えてやろう。すぐそこだ。三日ばかり前、ここに来る前に半日ばっか入院した病院があるだろう。新生病院って奴。あの敷地内におぶせ荘って老人ホームだ。いろいろあって歳の割りに呆けとるが、おまえの知りたいことにゃ十分答えてくれろう」

救われた思いがした。義母に会えばすべてが明確になるだろう。この数日間の違和感から開放されるに違いない。

「ところで義母さんの苗字は何だったかな?」

「苗字?」

「ああ、離婚したから苗字が変わっているだろ」

婆さんは少し考えて、また茶を啜った。さっきからわたしの顔を一度も見ようとしない。

「苗字は”北原”のまんまだわ。聞きたいことはいろいろあるじゃろ。だがぜーんぶ本人に聞いてみれや」

そう言うと、盆に茶碗や味噌汁の椀、残った漬物や目玉焼きが乗っていた皿などを手際良く乗せ始めた。まるでわたしに催促するように。催促の意味は勿論、義母に会いに行け、ということだろう。

 義母にさえ会えば、美和にさえ会えばすべてが解決する、そう思った。会社を辞めたこと、離婚したこと、そうした人生の大きな変化がわたしに様々な影響を及ぼしているのだと思った。ほんのわずかな記憶違いが、それらによって大きくクローズアップされているのだと。それらを義母がすべて明らかにしてくれるに違いない。もう一度、真実の記憶を確認させてくれる筈なのだ。

「エリックの写真じゃ」

ふいに婆さんは古いスクラップブックを開いて見せた。スクラップブックにはプロレスの記事の切り抜きがびっしりと貼ってあった。

「ほれ、これがそのストマッ・・・」

「ストマック・ホールド。『胃袋掴み』って技だな。それにしても凄い脚色の名前だな。本当にそんなことしたら死んじゃうよ」

「は!まだ分かっとらんの。東京人は夢が無くていかんわ」

わたしは笑いを口に含んだまま、懐かしいスクラップ記事の数々を眺めた。ページを捲ると時折、下手糞な平仮名でレスラーの名前が書いてあった。

「これはお前の字じゃ」

婆さんはおどけるように言ってから笑った。

「こっちは由紀じゃ」

大人びた文字は由紀の知性と早熟を表しているようだった。

「由紀はほんとに大人びてた。小学校6年の頃なんかは、背も高かったこともあって高校生くらいに見えたもんじゃ」

「そう、だったかな?」

わたしには、それほど大人びた由紀の記憶が無い。

「これは?」

ページの最後の方に、ミミズのような線が幾つか引かれていたのだ。婆さんは口を曲げて笑いながら

「お前の字じゃで」

と答えた。

「小学校に上がる前のの。お前の字じゃ」

たしかに、記事は一番古いらしい。活字が、一世代前のものに見えた。

 ふとプロレスの記事の縁に、隣りに掲載された記事の見出しが残っていた。切り取った際に残されたのだろう。『ドルショック、プロレス界にも衝撃!』などと当時では作成に苦労したであろう網掛けの派手な文字だった。当時は、過去に経験した事の無い国際的な経済破綻だったから、今では想像出来ないほどの衝撃だったのだろう。しかしその後も社会は幾度と無く同じことを繰り返すことになった。今、わたしがこんなところにいるのも、それがそう遠くない遠因であるのだ。

 自己嫌悪とも、アイロニーとも取れぬ笑いが込み上げてくるのが分かった。心が変に醒めて来たのを感じた。その時、婆さんがスクラップブックを覗き込み、同じ見出しを見ているのに気付いた。

「どうしようも無いわな。うん。こういうことはわしらにはどうしようも無いんじゃ」

婆さんの溜息を聞きながらわたしはスクラップブックを閉じた。

=おすすめブログ=

「知ってトクする保険の知識」連載中

2010-12-24 りふれいん-54-

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 偽りの夢を見た。葬儀の為に東京へ戻って以来、ずっとこんな夢を見る。事実とまるで反対の、嫌な夢だ。

 小学校時代の夢ばかりを見るのは、ボクが小学校時代の6年間が一番幸せだったからだろう。実母に捨てられた幼年期を経て、小学校に上がると、ボクの前に新しい母が現れた。新しい母はボクから実母の記憶を消し去ってくれた。それほど魅力的な母に、ボクは夢中になったのだ。ボクは毎日、幸福な気分で家に帰った。家にあの人がいると思うだけで幸せだったのだ。

 ところが夢に出てくる母は、まるで違う。事実とは正反対だ。偽りの母は、ボクを苦しめ、辛い思いにさせるようだ。つい今しがた見た夢の中で、精通を迎えたボクは母にひどく辱められていた。由紀に手を差し伸べて貰えなければ、ボクは不幸な少年そのものだったに違いない。少年にとって、性の問題で親から辱めを受けることくらい辛いことは無いからだ。

 幸いなことに、偽りの夢の中の出来事は、目覚める同時にボクの目の前から消え失せた。事実は、ボクを辱めたのは妹だった。由紀は、生意気な妹で、ボクと母の間を邪魔ばかりしていたんだ。ボクはいつも勝気な由紀の我侭に振り回され、友達とゲームをする時間を奪われていた。

 でも、一方で由紀は聡明で、活発で、いつも前向きで、弱気なボクを励ましてくれた。まるで二人の由紀がいるようでもあるし、どちらもあの頃の由紀だった気もする。もう30年も前のことだから、はっきりと思い出せないんだ。

 ボクは病院で見た由紀のことを思い出した。由紀は、あの真っ黒に日焼けして男の子のように見えた由紀が、美しい女性に成長していた。しかし不思議なことに、由紀は一番美しい姿に成長したまま、だった。医師は「そこから加齢が止まっている」と言っていた。

 新幹線には珍しく「ガタンッ!」という大きな音を立てて止まった。窓の外を見たが何も無かった。駅名を知りたくて、あちこち見回してみたが窓の開かぬ新幹線の車窓から覗ける範囲は限られていた。仕方なく背凭れに身体を預けた。同時に新幹線は動き出した。眩しい夕陽がホームの様子を照らし出していた。やがて駅名を表示した看板の前を通り過ぎた。「安中榛名駅」と書かれていた。

 葬儀が一通り終わったのが午後3時だった。そこから東京駅に出て、新幹線に乗ったからちょうど日が暮れようとしている時間なのだ。わたしは首を左右に捻った。次第に、意識がはっきりしてきた。どこまでが夢で、どこから目覚めていたのか良く分からなかった。ずっと夢を見ていたような気もするし、起きていたような気もする。この三日というもの、ずっと夢に振り回されているような気もした。

 しかし、考えてみるとまだ三日だった。会社を辞め、離婚してからようやく三日目が終わろうとしているだけなのだ。なのにもう何年も前からこんな状態だったような気がする。逆に、ほんの数日前まで毎日、繰り返していたサラリーマンの頃の生活が思い出せなかった。

 夕刻の車両はほぼ満席だった。東京駅で2シートの窓際の席を確保した時は、隣りは空席だったが、眠りから醒めてみると見知らぬ男が座っていた。中年のサラリーマン風の男は新聞を開いていた。駅の売店で買ったスポーツ新聞らしく、下世話な話題ばかりが並んでいた。しかし男が開いた1ページに、わたしは目を奪われた。それは中小企業経営者を直撃インタビューする、というコーナーだった。内容を読むまでもなく、提灯記事の臭いがぷんぷんしていて、恐らくはパブリシティ広告のようなもので、記事に載せる代償に掲載料を支払う、といった類に違いない。わたしが関心を持ったのは、今回インタビューされているのが貴明だったからだ。「第34回」と書いてあるところを見ると、掲載するのは34人目の経営者ということらしい。

 目立ちたがり屋の貴明らしい、と思った。でなければ法令印刷を主たる業務とする会社の社長が、このような下世話なメディアに登場する必要がないのだ。相変わらず呆れたものだ、と思いながらも、既に無関係となったという思いから目を背けた。

「あんた、この会社と何か関係あるの?」

男が突然、訊ねてきた。

「いやさ、さっきから俺が読んでる新聞をね、あんまり熱心に覗き込んでくるからさあ。気になちゃってさ」

「それは失礼しました」

「ああ、それでもしかしたら知ってる会社なのかな?って思った訳よ」

男の親切心に頭が下がる思いがした。それでつい、正直に事の成り行きを話してしまった。

「そっかあ。なるほどな。会社の為に頑張ったのにな。それが認められねえ。不条理な話だよ。同じサラリーマンとしちゃあ身に積まされるなあ」

そう言うと男は新聞を差し出してきた。

「読みな。俺は次の軽井沢で降りるから、進呈するよ」

わたしは男の親切に例を言い、新聞を受け取った。男と二、三雑談をするうち、軽井沢駅に到着する旨のアナウンスが響いた。男は立ち上がり、荷物を下ろしながら微笑みかけてきた。

「じゃあな。まあ、お互い元気でやろうや」

中年男の精一杯の爽やかな笑顔だった。ショルダーバックを担ぐと、男は出口に振り向いた。そこで何か思い付いた様にもう一度わたしを見ると顔を寄せてきた。

「こういうひどい不景気の時期ってなあ、やっぱり弱いものから切られてくんだよ。でも、それは自然の摂理だからしょうがねえんだ」

わたしは『リストラされたのでは無く、自分から辞めたのだ』と言い掛けたところで男が人差し指でそれを静止した。新幹線の速度がゆっくりを落ちていくのが分かった。もうすぐにも停車するのだろう。男は、もう何も言わず身を翻し出口に向った。わたしはその背中を凝視したが、わたしの期待に反して男は二度とこちらを振り返らなかった。その背が暗にわたしの主張を否定しているように思えて、わたしは奥歯を噛んだ。

 軽井沢駅を発った頃、夕陽は闇の中に埋没しようとしていた。佐久駅に着くまでには夜が訪れるに違いない。わたしは男から譲り受けた新聞を開いた。すぐさま貴明のインタビューが載るページを見付けた。スポーツ紙特有の提灯記事は、歯の浮くような煽(おだ)て文句で始まっていた。予想されたことだが、ここまで露骨だと不快に感じる。写真の貴明は満面の笑みを湛えるが、実際、ここまでお世辞で凝り固まった記事をどんな気持で読んだのだろう?しかし、どれほどあからさまに煽てられても、どこまでも好意的に受け入れてしまう才能が貴明にはあった。二代目特有の世間知らず、と取ってしまえばそれまでだが、今のわたしには羨ましい限りだ。

 意味の無い文面を読み進むと、写真に対して文の少なさに呆れ帰った。写真と見出しばかりで中身が何も無いのだ。もっとも娯楽紙だからもっともな事かも知れない。しかし、一番目立たぬ場所にあった文の一群にわたしの目が吸い寄せられた。

法令印刷市場の曲がり角」

とあった。会社の不調の理由を説明しているのだ。出版業、印刷業の構造的な不況とともにデジタル化の進展に伴って法令印刷という業が消えつつある、と書かれている。貴明にしてはまともなことを答えているじゃないか、と感心した。しかしすぐさまそれらが柴崎さんやわたしの受け売りだと気付いた。

「不況の中でどう生き残るか?そのためには血を流すことも必要です。昨年から今年に掛け、ベテランを含め数名の社員に辞めてもらいました。この雇用不安の時期に非常だと思われるかもしれないが、致し方ない。こういう時期に会社を守るということは、そういうことなのです」

もっともな話だ。だが、リストラされるべきは柴崎さんとわたしでは無かった筈だった。どこでどう間違ったのか、守るべき役割の者が会社を去ったのだ。そして、わたしたちは自ら去ったのだ。貴明が紙上で言うように「辞めさせられた」訳ではない。

「退社してもらった社員たちは気の毒だと思います。この不況の中、再就職は非常に厳しいでしょう。いずれもベテランですから年齢的にもハンデがある。でも致し方ない。会社とはそういうものだからです。常に古い皮を脱ぎ捨て新陳代謝していかなければ生き続けられない。そのためには犠牲も必要だということです」

犠牲か、とわたしは溜息を吐いた。『弱いものから切られてくんだよ』先ほどの男の声が蘇った。男はこの記事を読んだのかもしれない。記事を読んだ者なら誰もが、わたしに哀れみを感じるだろう。こんな娯楽紙でも、こうして公表されてしまえば、わたしは憐れなリストラ社員だ。

 しかし、とわたしは思った。昨日、会社を訪問した時の記憶が蘇ってきた。佐藤も、留美子も、木下も、山本も、みんなわたしを親の仇でも見るような目付きをしていた。わたしは背凭れに身体を預けたまま絶句した。自ら辞めた気になっていたが、本当のところ会社から捨てられたらしい。貴明から捨てられたのではなく、会社から捨てられたのだ。なんとなく、実感としてそう思えてきた。

 急に社会的な地位と収入を失ったことに気付いた気がした。不思議なもので、有希の顔を思い出した。少し前まで、休日には妻と三人で色々なところへ出掛けた。有希は無口な娘だったが、いつも笑みを浮かべていた。

「パパ、何がいい?」

有希の声が聞こえた気がしてわたしは振り返って辺りを探した。しかし、その声は現実のものでは無かったらしい。外で昼食を取る時、いつも有希はそうして訊いて来た。子供のくせに、自分の好みよりわたしの好みを優先させた。わたしはいつも有希に気を遣わせていたように思った。有希は子供心にわたしの危うさを予見していたのかもしれない。そうして子どもらしくない気を遣い続けてきた。思い出してみると、有希が子どもらしい我侭を言ったのをついぞ聞いたことが無かった。

 しかし、もはや有希がわがままを言ってくれる機会も無いだろう。聡明な有希は、わたしがわがままを受け入れられる器で無いことを承知しているに違いない。まだ小学生の子どもにそういう気を遣わせてしまう情けなさに胸が痛くなった。今や妻の愛人が経済的に豊だということが救いといえる。

 人間が堕ちるなど不思議なくらい簡単なことなのだ。そう思いながら車窓を見た。既にどこもかしこも暗がりに支配され、風景など見えない。代わりに、暗がりを背景にしたガラスに自分の顔が写っていた。少し老けたようにも見えた。皺が増えたのかもしれない。この三日間、日常とは異なることに振り回され疲れが出たのかも知れない。だが、もう日常に戻ることは無いのだろう。わたしは、職場も家族も失ってしまったのだ。良く考えれば、これから先どのように生きていけば良いのか、何を目的に生きていくのか皆目検討も付かなかった。その意味では父の方が幸せだったかもしれない。父は、あれほど自分勝手で、駄目な人生だったが、家族はいたのだ。

 そう思った時、目の前のガラスに写った顔が父のものであることに気付いた。子供心に情けなかった父と、いつしか瓜二つになっていたのだ。父のようにだけはなりたくないと思って来たのに、気付くとそっくりになってしまった。まるでわたしの人生の破綻が、最初から予定されていたように思え、胸が苦しくなった。

 少し気を紛らわせようと、新聞を捲った。面白おかしく描かれたスポーツ記事、経済紙株式欄のように整然と一覧にされた競馬競輪など公営ギャンブルの予想、性風俗の話題、いつもと変わらぬそれらは人間の低俗な欲求を満たす目的で、敢えて品の無い編集となっていた。

 最終面にいく途中、社会面があった。スポーツ紙の社会面だから社会、政治、経済がごちゃ混ぜに掲載されている。要するにスポーツ新聞らしい記事以外を載せていると考えた方がいい。差し障りの無い記事が、これまた面白おかしく描かれていた。最終の3ページほどを割いた芸能面も見る気にならず読むべき内容が見当たらなかったわたしは紙面を閉じようとした。次の瞬間、慌てて紙面を開き直した。社会面の下部にある囲み記事が目に入ったのだ。そこには「長野県○○○郡」と書かれていた。顔を近づけて確認してみると○○○の部分は「上高井郡」だった。わたしの故郷だった。

 記事は、犯罪史の連載物で過去に発生した特異な犯罪を検証する、というものだ。この紙面では昭和52年に長野県上高井郡で発生した未解決の殺人事件を取り上げていた。

『円高不況が深刻化し、企業倒産が相次ぐ昭和52年。日本赤軍による日航ハイジャックという戦後日本の象徴的な事件が発生する反面、東京高輪において青酸コーラ殺人という病める現代日本を示唆するような事件が起こった。』

 昭和52年というと、わたしがたしか小学校6年生の頃だ。つい最近のことのように思えたが、この記事の出だしを読むと、随分古い時代に思える。記事には同時代の主な出来事が表になっていた。

1977年の主な出来事:

日本赤軍による日航ハイジャック事件,ボンベイ−バンコック間で乗っ取られ,ダッカ空港に強制着陸

北海道有珠山爆発,32年ぶり7回目

東京高輪で青酸コーラ殺人事件

○円高不況が深刻化し,倒産相次ぐ

愛知医大不正入学事件

○日本も 200カイリ宣言

参議院選挙で、 自民党が過半数を占める

東京地裁で、ロッキード事件公判開かれる』

 あまりピンと来なかったが、その下に書かれた記述で心の中で手を打った。

『○王貞治巨人軍選手、対ヤクルト戦でホームラン世界記録 756号を達成し、国民栄誉賞を受ける』

 あの時、誰だったか、クラスの誰か、そう袈裟男だ。袈裟男が記念ボールだと言って学校にサイン入りボールを持ってきたんだ。今にして思えば本物だったかどうか怪しいものだが、当時は触れるだけで感動したものだ。そんなことを思い出しながら事件の内容を走り読みしてみた。

長野県上高井郡の山林内に設置された作業小屋において中年男性の死体が発見された。死体の腹部に包丁が刺さっていた為、警察は殺人事件と断定、捜査を進めた・・・・容疑者として男性の妻と弟が上がったが・・・・警察はなぜか男性の妻、弟ともに逮捕を見送った。当時の会見の記録によれば、執拗な記者の質問に対し捜査本部長は口を閉ざすのみだったという・・・・』

 子供というのはつくづく幸福に出来ているらしい。こんな殺人事件がすぐ身近で起きていたのに、当時のわたしはまるで気付かなかった。どうやら犯人は捕まっていないらしいから、そうなるとかなり長い間、地元では話題になっていたことだろう。にも関わらずわたしはまったく知らなかったのだ。何十年も経った今になって初めて知るというのも妙な気持だった。

 既に時効が成立している事件だろうから、今更、犯人探しもあるまいが、マスコミというものはつくづく粗探しが好きだ。なんの具体的な関与も無いという無責任な立場も手伝って、記事には小説さながらの文章が展開されているようだ。どうせ時間を持て余しているのだから、と思い、今度は一文字ずつ読み始めた。

『山林内は滅多に人が来ない小山の上にあった』

『被害者の男性は、妻から生活費をせがまれ困っていた』

『二人の子どもが悲惨な殺人現場にいた』

典型的な悲惨な家庭が、そこに描かれていた。記事によれば被害者の男性は、それより5年ほど前に勤務していた会社から解雇されたという。現在でいうリストラに遇ったらしい。記事には昭和46年のニクソン・ショックに端を発した円高不況という時代背景が描かれていた。この時、解雇され、長期にわたった不況のために再就職できなかったらしい。そして不況は事件のあった昭和52年にもまで続いていた。

 ふと、自分もこれから長きにわたって再就職など出来ないのだろうか?という不安が湧いてきた。40代も半ばの年齢で、法令出版社の企画部門にいた人間など必要としてくれる会社があるのだろうか?木田は、声を掛けてみる、と言ってくれたが既に一通り声を掛けてくれたのだ。その結果、どこも難しい状況だったというから、あまり期待してはいけないだろう。そうなると長い忍耐の時間が必要なのかもしれない。あるいはこのまま老いさらばえるまで、ずっと無職のままかもしれない。

 そんな暗い気分を忘れ去る為に、記事を読み進めた。しかし『妻が弟と密通していた、との噂もあった』など、ますます気が滅入るような内容だった。だが、その先まで読んだ時、一つの単語に心を囚われた。

『鍵』

という単語だ。

『小屋には鍵が掛かっていた。だがこの日、何者かによって鍵は開けられていた。被害者自身が開けたという情報もあるが、真実は定かではない・・・』

 鍵、という単語に、なぜ心が囚われたのかは分からない。ただ、なぜかわたしはその文字から目を離せなくなっていた。

 突然、息苦しさが襲ってきた。窓の外を見たが、暗黒に支配されたそこには、現在地を示すものは何も無かった。たしか新聞を持っていた男が降りたのが佐久駅だから、もう上田駅に着く頃かもしれない。息苦しさがどんどん悪化し、わたしは呼吸することさえ苦痛を伴うようになってきた。額から汗が噴出してきたのが分かった。取り合えず背凭れに身体を預け、新聞を閉じた。閉じた新聞を畳もうとして、初めて気付いた。新聞の一面は大相撲の話題だったが、なんと朝昇竜が名古屋場所で優勝した、という記事だ。既に引退に追い込まれた力士だ。新聞の日付を凝視すると、新聞は一昨年のものだった。

 わたしは辺りを見回した。しかし佐久駅で降りた筈の男が、この車両にいる筈が無かった。彼がなぜこんな古い新聞を持っていて、わたしに手渡したのか?一見、偶然に思えたその行為が、何らかの意図があったように思えてきたのだ。

 やがて心臓の動悸が、冷静さを奪うのが分かった。それでもわたしは目を閉じて苦痛に抗った。息苦しさを堪えていると、再び頭痛が襲ってきた。激しい痛みを堪えていると、ある瞬間、不思議なくらい簡単に痛みが遠のいた。代わりに意識が遠のいて行くのを感じた。遠のく意識の中で、わたしは海を見た。それはわたしの脳内の海だ。わたしの視線が海面に近付くと、一気に海中に潜った。凄い速度で海中をまっ逆さまに進んだ。やがて海中の奥底に砂地が見えた。砂地の中には木箱が埋まっていた。それは鍵が掛かっていた。箱は見る間に砂地から浮き上がった。それは枷となっていた砂地から解放されたようにも見えた。すっかり海中に浮き上がった木箱は、海面に向って浮上していった。やがて木箱は海面に顔を出すと、堅く閉ざされた鍵が自然に開いた。同時に蓋も勝手に開いた。

 幾つかの記憶の断片が、葉書大の写真として入っていた。そこにはきちんとスーツを着た父と幼いわたしがいた。場所はキッチンだ。見たことの無いキッチンだったが、間違いなく、わたしはその家を知っている。見たことが無いのではなく忘れてしまっているのだ。だからもう少し時間があれば、きっとわたしはその家のことを思い出すに違いない。そして台所には、顔の無い母がいた。それは美和ではなく、わたしの実母だ。

 それらのポートレートは、父がまだサラリーマンをしていた頃の日常だと、わたしは思い出した。そんな日常が存在していたことをわたしはすっかり忘れていたのだ。わたしの記憶の始まりといえば、美和が由紀を連れて来た時だ。しかしそれは小学校に上がる時の話で、人生はそれ以前に六年間もあったのだ。普通に考えて、物心付いてから3〜4年は経っている筈だった。なぜその頃の記憶を忘れていたのだろう?

 父と母とわたしの三人の家族は幸せだった。サラリーマンだった父は裕福では無かったが貧しくも無かった。いわゆる中流の家庭だ。一戸建ての家に住み、毎週土日、父の勤める会社は休日だった。平日、パートに出ている母と三人で、よくデパートに買い物に出かけた。ゴールデンウイークには、父の実家の田植えを手伝い、梅雨明けの週には鯨波海岸に海水浴に行った。


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「知ってトクする保険の知識」連載中

2010-12-22 りふれいん-53-

[]

 通夜を終え、柴崎さんの家を出た。

『どうせ明日、告別式やお斎(とき)の席に出て頂くのだから』

と、奥さんが家に泊まるように勧めてくれた。しかし遠慮した。一人になりたかったからだ。

 川崎駅近くの安普請なビジネスホテルは、平日の中日だというのに、ひどく空いていた。見るからに安っぽい作りから敬遠されるのかもしれない。もっともそのお陰で10時を回った時間だというのに、宿にあり付けたのだから感謝しなければいけない。

 部屋に入り取り合えずシャワーを浴びた。狭い浴槽は湯に浸かるには向かないがシャワーを浴びるだけならさほど気にならない。ただ濡れた身体を拭くのに、トイレと一緒の狭い部屋は窮屈だった。それでもなんとか身体を拭き終わり、タオルを腰に巻いたままベッドに腰を降ろした。リモコンでテレビのスイッチを入れながらコンビニの袋を探った。通夜からここまでの道程の途中、購入したのだ。缶ビールと干物を取り出すと一人で乾杯した。

 テレビは今日行われたスポーツの様子を流していていた。サラリーマン時代の出張を思い出す。会社の経費で宿泊できたから、ホテルはもう少しマシだった。が、就寝前の孤独は変わらない。ふと、有希に電話してみようかと思い、やめた。もう11時近い。妻が嫌な顔をするだろう。もっとも電話なら顔は見えないが。

 ふと携帯電話を見ると、小さく点滅していた。電話かメールの着信があったらしい。携帯を取り上げ、画面を見るとメールだった。誰だろう?単純にそう思った。今のわたしにメールを送ってくれる人間は、限られている。ほんの数日前まで、日に何十通と支持を仰ぐメールや、下請からの提案メールに追われていた。しかし3日前に会社を辞めてから、わたしが受けたメールは一通。妻が柴崎さんの死を知らせてくれたものだ。感情の無い箇条書きだった。それが現在のわたしだ。

 思えばこの三日間、携帯電話でわたしが受信したのは妻のメールと、関口からの電話だけだった。「だけ」とは失礼な話かもしれない。こんなわたしにコンタクト取ってくれたのだから二人に感謝すべきだ。わたしは自嘲気味に唇の端を上げてみた。だが残念ながら笑みにはつながらなかった。正面の壁にはちょうど鏡があって、そこに映ったわたしの顔はただ歪んでいるだけに見えた。

 メールを開いてみると、思いがけず

「ご連絡」

という意味不明な題名のメールだった。皆目検討も付かなかったから、間違いメールではないかと思った。しかしクリックしてみてその正体が分かった。送り主は木田だった。元は会社の同期だが、若いうちに辞め、今は人材派遣会社の営業部門にいる。しかし、その後も付き合いが続いていた。時々、電話で話したり、メールしたりといった付き合いだ。年に数回だが飲むこともあった。特に親しかった訳ではないが、親密でなかっただけに長い付き合いになったらしい。また、細かいことに拘らない彼の性格が付き合いやすかったのだ。

 会社を辞めようと決めた時、木田にメールを送ったのだ。次の仕事を紹介してもらいたい、という気持を書いた。相手はプロだから個人的に紹介しろというのも失礼な話だが、失礼を承知で送った。木田はいつものように気さくな返事をくれた。

『付き合いのある会社に相談してみると』

と。しかし、頼んだわたしの方が忘れていたのだから、本当に失礼な話だ。

 木田のメールはこうだった。

『このご時世でどの会社も新規採用を縮小している。経験者でないと難しいかもしれない。これまでの取り引き先でどこかないのか?』

予想された返答だった。むしろ誤魔化さずにメールを送ってきたところに彼の誠実さが現れている、と思った。

 わたしは時計を見た。まだ11時前だった。それを確認し、少し迷ってから通話ボタンを押した。5回ほど呼び出し音が鳴った後、木田が出た。

「遅くに悪いな」

とわたしは挨拶代わりに言った。

「今、柴崎さんの通夜から帰ったところなんだ」

我ながら少し、説明がましい気がした。

「メールを見た。心配してくれてありがとう」

「いや、まだ宵の口だ。ぜんぜんOKだよ」

「奥さんや息子さんに迷惑じゃなかったか?」

「大丈夫さ。息子はもう高校生だし、自分の部屋に篭りっきりだ。妻は風呂に入ってる。それに家に帰ると携帯はマナーモードにしてあるんだ。だから電話が来たのは俺にしか分からない」

木田は「ははは」と笑った。わたしに気を遣ってくれているようだった。

「ところでどうだ?フリーターになった気分は」

「ああ、あまり良いものじゃないな。ふわふわして足元が覚束ない感じだ。これまで会社に守られてたことに気付いたよ」

「ははは、気付くのが早過ぎるだろ。それに、考え過ぎだよ。会社の信用とは別にお前の信用というものもある」

言われてわたしは昼間、会社で受けた扱いを思い出した。口に出そうかと思ったが、これ以上、木田に心配掛けていけない。

再就職先だが、メールに書いたようにこれまでの取り引き先なんてどうなんだ?」

わたしは答えに窮した。今日、かつての部下達から受けた扱いは、すべてに通ずるものだろう。それをなんと木田に伝えればいいのか?しかし、木田はわたしの迷いを察したらしい。

「難しいか」

「ああ、難しい」

「よく聞くよな。難しいって」

「ああ、所詮、サラリーマンなんだろうな。会社を離れた途端に相手にされなくなる」

本当は、そうは思っていなかったのだ。部下達の態度にも憤りとともに驚きを感じた。だが、今となってはそれが現実と受け入れるしかない。部下達と同様、下請企業も対応は同じだろう。

「申し訳ないが・・・」

「ん?なんだ」

「継続して探してみてくれないかな」

「ん?ああ、分かった。ただ、条件は厳しいかもしれないぞ」

「分かってる。このご時世に何の目処も無く退社したんだ。同じ条件で転職しようなんて贅沢は考えない」

それからわたしは言おうか言うまいか少し迷ってから、しかし知らせておくことにした。

「実は退社と同時に離婚した」

「離婚?」

「正確に言うと妻が娘を連れて出て行くそうだ。もっとも家は売るそうだからオレが先に追い出されたんだが」

「驚いたな。しかし奥さんたちもこれからどうするんだ?」

「女は強いものさ。オレの知らぬ間に男がいたらしい」

電話の向こうで木田が絶句するのが分かった。

「オレも『どうやって生活していく気だ?』と問い詰めたら、白状したんだ。それもオレと違って甲斐性のある奴らしい。妻子持ちだが妻と娘を喰わせてくれるのだそうだ」

「にわかに信じられん話だが」

「しばらく前から様子が変だったんだ。ボーっとしていたり、掃除と称してオレの書棚を探ってみたり」

「長く夫婦をやっていれば、そういうことはよくあるだろう」

「だが結果的に、本人が認めたのだから仕方がない。それでオレは追い出され、立派な住所不定無職だ」

「おいおい、住居くらい早く決めてくれよ。就職するのに、それはまずいぞ」

わたしは「そうだな」とだけ答え、深夜に電話したことを詫び、改めて就職の世話を頼んだ。木田は「なんとか当ってみる」と答えてくれた。

 電話を切り、缶ビールを口に含むとベッドに寝た。天井を見詰めた。会社を辞めることになった経緯が次々に浮かんできた。しかしそうした細かい経緯が今はもう何の意味も持たないことを今のわたしは理解していた。

 不思議なくらい会社に対して執着心が湧かない一方で、部下達から拒絶にされたのはショックだった。貴明社長から退社を勧告された時は、ようやくこの軽蔑すべき男と決別できるのだという一種悦びに近いものもあったし、退社に追い込まれるまで自分の意見を通したなどと、どこか誇らしくさえ感じていたのだ。しかし今日、部下達から拒絶された時、初めて自分の居場所が無くなったことを実感した。あの会社にも、あの会社が関わる世界にも、もうわたしの居場所は無い。それどころか今の気分では、世界のどこにも居場所が無いように思えた。

 たしかに貴明の言うとおりかもしれない。サラリーマンなのだから、会社の代表者である社長の方針に反したところに筋など無いのだ。そんな子どもでも分かることを、わたしはなぜ忘れていたのだろう。長くサラリーマン生活を送っているうち、自分の力と会社の力を勘違いしてしまったのだ。居場所を失ったのは、単に自分の未熟さに過ぎない。

 もし、木田が再就職先を紹介してくれたなら、一からやり直そうと思う。そう考えているうち眠気が襲ってきた。だが、今日は夢を見そうな気がしなかった。わたしを惑わすおかしな夢。それは子どもの頃の記憶だが、東京に戻ってからというもの歪んで現れるようになった。事実と異なる内容なのだ。きっと周囲の人間のおかしな言動も影響しているのだろう。夢などその程度のあやふやなものだ。

 その時、わたしの頭に或る考えが浮かんだ。明日、柴崎さんの告別式が終わった後にもう一度、帰郷してみようと思ったのだ。木田からの紹介には時間が掛かりそうだから、数日は暇を持て余すことになる筈だ。その時間を利用して、帰郷する。そして母に会う。

 母とは勿論、美和のことだ。だから正確には義母、である。義母に逢えば、はっきりするだろう。何が?とわたしは自問した。まるで歪んだ夢や、周囲の人間の言動に惑わされているようではないか?人間の記憶なんてその後の人生で、大きく変わってしまうものだ。だからそれぞれが別の出来事として記憶しているのは致し方ないのかもしれない。それに、と思いわたしは苦笑した。角の婆さんにしても三田所長にしても既に歳が歳だから、呆けていても当然なのだ。

 そんなことより美和に遭いたい、と思った。わたしの少年時代を幸福な色に彩った母。彼女のことを思い出すだけで、今も穏やかな気持になれた。良く考えれば、三日前、なぜ父に会いに行こうと思ったのだろう?父は、わたしに辛い記憶しか残さなかったではないか。そんな父に20年勤めた会社を辞めることや、離婚することを報告して何になるというのだろう。ボクの辛い現実を癒してくれるのは、美和しかいないのだ。

 ボクは、柴崎さんの葬儀を終えると東京駅に向い、喪服を着替えもせず新幹線に飛び乗った。美和に遭えると思うと居ても立ってもいられなくなったのだ。

 しかし、新幹線東京駅を発ってしばらく走った時、あることに気が付いた。ボクは美和の居場所を知らなかったのだ。

 途方に暮れる、とはこうしたことを言うのだろう、とボクは天を仰いでいた。空は次第に光を失い、青々とした輝きや純白の雲は、灰色フィルタの向こうで色を失って行った。ボクは義母の姿を必死で探したけれど、彼女はボクらを置き去りしてどこかへ消え失せてしまった。彼女にしてみればあまり良い状況では無かった。恐らく、誰か知らない大人が見たら、真っ先に疑われるのは義母だったに違いない。

 ボクと由紀はただ二人で、累々と屍が積み重なる小屋の中に佇んでいた。累々と、というのは言葉が正確では無いけど、人の死体など目にしたことが無かったボクらには、二つの死体は十分過ぎる数だった。またそれらは大人だったから、その手からつま先の先までが、この狭い小屋をいっぱいに占拠していた。二つの身体が形作る波は、部屋の隅から隅へと累々と死の細胞を連ねているように見えたんだ。ついさっきまで、それらが二人の人間で、ボクらの目の前で動き回っていたのが嘘みたいだった。

 由紀、ボクらはこの先、この出来事をどんな風に憶えていればいいんだろうね?そうボクは心の中で由紀に問い掛けた。でも由紀はそれに答えず、ボクの目の前でずっと膝を付いていた。由紀は呼吸をしていないように動かなかったんだ。ボクは本当に由紀が死んでしまったのだろうか?と思った。だって由紀の努力が全部無駄になったんだから。ずっと長い間、由紀がしてきた努力、それはボクらが家族で居続ける為に行われてきたのに、由紀以外の誰もがそれに協力しなかったんだ。

 由紀の顔を覗き込んでみた。わずかに瞳が揺れるのを見て、ボクはホッとした。でもボクの不安はそれでは済まされなかった。ボクには由紀の心の中が分からなかったから。すべてを理解するにはボクは、ぜんぜん幼過ぎた。由紀に限らず、クラスのどの女の子も男子よりマセていた。だから男子のボクがすべてを理解できなくても仕方ないのかもしれない。ただ、ボクは由紀の気持を思う時、数週間前のある出来事を思い出した。それはボクにとっては思いがけないことで、でもクラスメートの中には既に経験している者もいたんだ。でも彼らにとって一種、喜ばしいこともボクにとっては辛い思い出だった。

 ある出来事とはこうだ。

 その日、ボクに或る事が訪れた。以前、身体の発育の早い裕二が誇らしげに見せてくれたのと同じだった。裕二は同じクラスのボクや真人を校舎の裏に集め、大人のそれと同じくらいの大きさになったそれを見せてくれた。ボクらは、理由も無く裕二に畏敬の念を抱いたんだ。その裕二と同じになっていた。それはまったく突然、いつもと同じように義母と由紀と一緒に狭い風呂場にいる時だった。

 風呂場は洗い場が半畳くらいしか無くって、幾らボクら二人が子供とはいえ、三人が身体を洗うには狭過ぎた。でもトタンで張った風呂はすぐに冷えてしまう。何ども薪を焚き直す手間を省く為に、いつもぎゅうぎゅう詰めで入るんだ。それもボクらの身体が大きくなるに従って、色んな面で無理を来たしていた。

「なんだいこれは?」

義母に睨み付けられ、ボクは竦み上がった。けれどボクの身体の一部は、まるで病気のように腫れ上がっていた。

「いつの間にこんなにマセたんだい?」

身体を洗う手を止めた義母にボクは許しを請うように、俯いた。俯きながら横目で由紀を見た。手際のいい由紀はいつものように一人先に湯船に浸かっていた。でも、こんな時、いつもボクを救ってくれる由紀が、今日に限っては目を伏せ、知らん顔をしていた。

「ああ、嫌だ。まったく何て子だろうね!血が繋がらないって言っても親兄妹だよ。それを見てこんなになるなんて、けだものと同じだね」

義母は、親が親なら子も子だね、と吐き捨てた。それから

「明日からは一人で入っておくれ!おお、恐ろしい」

と言いながらボクを肩で突き飛ばした。風呂場には戸が無かったから、ボクは風呂場の外まで転がってしまった。

「あたしたちが出るまで待ってな!」

再び風呂場に戻ろうとしたボクの目の前に、見えない楯が立ち塞がったように見えた。風呂場の外は土間になっていて、その外は風呂を沸かす為に薪をくべる場所だったから、辺りはいつも灰だらけだった。立ち上がって身体を見ると至る所が灰だらけになっていた。

 これ見よがしに身体を隠しながら母がボクの前を通り過ぎていった。その後を由紀が、いつもと同じように全裸で過ぎようとしていた。

「これで隠し!」

母が由紀にタオルを投げ付けた。由紀は俯いたままタオルを拾い上げ、何も言わずに戸の向こうに消えた。

 ボクは、誰も居なくなった風呂場で灰を洗い落とし、湯船に使った。一人で入るとウチの風呂も意外と広いもんだ、と感心した。だが一方で、これから家の中でどんな顔をして良いのか不安になった。ボクは身体の一部が変化したというだけのことで、家族の中で除け者にされてしまいそうな不安を感じた。母はボクが穢れた者のような物言いだった。裕二たちはあんなに誇らしげだったのに、ボクはなんだか自分が汚らしいものになったように気持だった。そしてそれ以上に、どんな顔をしていれば義母は満足してくれるのかが不安だった。ボクは湯船の中でいろいろと考えてみたが答えは出なかった。

 その原因となった身体の一部に触れてみた。しかしそれは義母の仕打ちに打ちひしがれたのか、縮み上がったのか、昨日までと同じ大きさだった。

 宿題を終えること、ボクはまたボクのそこがひどく腫れ上がっていることに気付いた。由紀は宿題が終わっても勉強を続けていた。上級生の誰かからもらった参考書を、繰り返し読み返してるらしい。上級生からもらった時は新品同様だったのに、今はもうぼろぼろになっていた。

 そんなだから由紀は、ボクの変化に気付いていなかった。

「今日はなんだか眠いなあ」

ボクはわざとらしく言うと襖を開けた。襖の向こうが寝る部屋で、風呂から上がるとすぐに布団を敷く、というのが我が家の習慣だった。だからもう布団は敷かれていた。ボクはそろそろと襖を閉めると布団の中に潜り込んだ。由紀はまるで気付いてないらしく、参考書に夢中だった。誰も居ない部屋で布団の中に潜り込んだボクは先ほどから抑えられなかった衝動を解放した。

 ボクはそこを強く握り締めた。身体の内から湧き上がる衝動が、そうせよ、と叫んでいたんだ。ボクは力の限り握り締め、でも握り締めるほどに身体に力が入らなくなった。ボクは必死で全身に力を込めた。その瞬間、何かが弾けて、ボクは、とりわけ腰から力が抜けていった。

「えらいことやらかすようになったねえ」

誰も居ない筈の部屋だったのに、突然、大きな声が響いたんだ。ボクは驚いて布団の中から顔を上げた。でもそれより一瞬早く蛍光灯が瞬いた。点灯する際の瞬きにボクは視力を奪われた。ようやく回復したボクの目の前に裸足があった。義母だった。義母はボクがしてることに気付いたらしい。

「あんた、そんなとこで何してんの!布団、汚れるでしょ!」

義母は力任せに掛け布団を剥いだ。そのためにボクの裸の下半身が露になった。

「ああ、ああ、こんなに汚して!」

「汚らしいねえ!」

「今夜は家の外で寝て欲しいよ。盛りの付いた雄犬と一緒じゃおちおち寝られない」

思いつき限りの辱めを口にした。

 ボクは義母に言われるままに掛け布団のシーツを剥ぎ、風呂場へ持って行った。盥に残り湯を汲むと、シーツの汚れた部分を浸した。なんどか擦ってみるがなかなか汚れは落ちない。石鹸を使い、ようやく汚れが落ち始めた。ボクは惨めな気持だった。裕二や、みんなも同じように惨めな気持になったのだろうか?

 石鹸で泡まみれになったシーツに湯船の残り湯を掛けた。裏返そうとしたが、濡れたシーツは重い。しかし、突然シーツの重みが半減した。するりと裏返ったのだ。由紀だった。由紀はボクの隣りに座り込んで、盥で残り湯を掛けながらシーツを揉み始めた。

「汚いよ」

と言いそうになってボクは言葉を飲み込んだ。ボクは少し前から薄々気付き始めていたんだ。気付き始めた、というより疑いを持ち始めていた。小学校から下校する時、少し前から由紀は、ボクを置いてけぼりにすることが多くなった。そして由紀はどこかへ消えてしまうのだ。もっともボクはそれを幸いに友達の家に遊びに行ってゲームをして遊んでいた。でも、二時間ほどすると友達が塾へ行く時間になる。そこでボクは家に帰ると、どこからか由紀が現れるんだ。そんな時に限って由紀は、まるで幽霊とでも会って来たみたいに真っ青な顔をしてたんだ。

 ある日、ボクは由紀の追跡に成功して全てを知った。ボクが義母から受けた惨めな思いと同種の屈辱を由紀は受け止めていた。ボクらは大人になることの醜さを初めに知ったんだ。ボクらの親達は、大人の醜い臭いをボクらの家に充満させていた。ボクと由紀は吐き気を催すような気分で毎日を過ごしていた。

「正夫が来とるからまだ帰っちゃいけね」

角の婆さんは、ボクらにそう言ったんだ。ボクと由紀は子どものくせに全てを承知したとても言うように知らぬ顔をして婆さんの家で安い菓子をもらって過ごした。マサ兄が帰るまで・・・

 累々と続く死んだ細胞が形作った人間の波をボクは見詰めていいたけれど、何度目を凝らしても死んでいるのは二人だった。由紀は、まるで幽霊に遇った様な顔をしていた。真っ青だったのだ。それもその筈だった。大人二人がボクらの目の前で死んでいるんだ。神社裏の小さな小屋の中は、大の大人二人が死ぬには、やや狭過ぎた。少なくともボクはそう圧迫感を感じていたんだ。そこへまた新たしい圧迫感が現れた。ボクら子どもを見ても、その男は大人に対するように敬語を使った。彼は刑事と名乗った。

「誰が殺したのかな?」

三田と名乗るその刑事は、ボクらの顔を交互に見ると微笑んだ。

「人間、正直が一番。一番ってのは一番幸せになれるってことだ」

説教がましくそういった。


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2010-12-20 りふれいん-52-

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 また妙な夢を見た。そう思った次の瞬間、わたしは慌てて車窓の外を確認した。京浜東北線は今、どこを走っているのだろう?どうやらぐっすり眠ってしまったらしい。川崎はとっくに過ぎてしまっただろうか?

「今、大森を出たところだ」

目の前で誰かがわたしに話し掛けた。この列車の中に知人がいた記憶は無い。誰かが偶然乗り合わせたのだろうか?

「ち、まだ寝惚けてやがな」

声の主はわたしに覆い被さるように顔を近付けて来た。近過ぎて、見えない距離だった。だが、鼻や唇といった顔のパーツを眺めているうち、それが誰かが分かった。

三田さんか!」

「ふふふ、やっと『所長』なんて呼ばなくなったな」

三田の指摘にわたしは戸惑い、混乱した。何故急にそう呼んだのだろうか?

「どうだ、思い出したか?」

追い討ちを掛けるように三田が意味不明な言葉を投げ掛けてきた。わたしは

「何を?」

と答えるのが精一杯だった。そんなわたしに三田はそっぽを向いたまま呟くように言った。

「俺達はあんたが子どもの頃からの付き合いじゃないか。ずーっとな。ずーっと一緒だった」

「何を言ってるんだ?今日、再会したのは20年ぶりじゃないか」

「30年間、わしはずーっとお前を見ていた。お前が思い出すのを待っていたんだ」

「だから何の話だ」

「あの日、殺したのは誰なんだ?」

◇混乱◇

 列車は蒲田駅に留まり、ドアが開いて何人かの乗客が降り、また何人かの乗客が乗って、再びドアが閉まると動き出した。その間、ボクらは黙りこくっていた。また『ボク』などと言っている自分がおかしかった。昨日、一昨日と故郷に帰って依頼、時として少年だった頃の口調が蘇る。

「あー、思い出したんかなあ・・・、どう?なんだろうねえ」

三田はいつの間にか隣りに座っていた。

「かれこれ30年になるもんなあ、ずーっとこうして君のね、横にいるのはさ」

「30、年?」

「ああ、そうだよ。だって君、まだ、な。全然子どもだったから」

子ども?」

まったく意味が分からないのだ。「30年」、「子ども」、キーワードらしいそれらの言葉を何度か口の中で繰り返してみたが、何も思い出せない。だが、不思議なのは、三田のそんな奇妙な話が出鱈目には思えないのだ。

「かわさきー、かわさきー、お忘れ物の無いよう・・・・」

アナウンスが聞こえた。

川崎に着いちゃったか」

三田はさも残念そうな口振りをしたが、その表情は淡々としたものだった。

「じゃ、俺はこのまま乗ってくから。あー、落ち着き先が決まったら、必ず連絡してくれよな」

「なぜ、わたしのことを知りたいのか?」

「ん?んー、もうなんだかんだで30年も経っちまったからな。ライフワークライフワーク。一生かかって一つの真実を探し当てるってのも乙なもんじゃあねえかい?」

「わたしには何を言われているのかさっぱり分からない」

「ああ、そっかいまだ駄目なんだなー。まあ、いいや。とにかくこれからもよろしく頼まあ」

三田は「ははははは」と声を上げて笑った。

 それを合図にしたようにドアが開いた。わたしは軽く会釈して席を立った。去り際三田

「落ち着き先は必ず連絡してくれよ」

と繰り返した。

「ええ、いいですよ。ただ、東京ではないかもしれない。郷里に戻ろうかと考えているんです」

三田の目が小さく輝いた気がした。しかし錯覚だったらしい。突然、三田はわたしの背を叩き

「早く降りろよ!ドアが閉まっちまう」

と叫んだ。

 わたしが降りると同時にドアが閉まった。ホームから三田の背が窓越しに見えた。しかし三田はこちらを見ようとはしなかった。意図的に無視している、というより何か考え事をしているようにも見えた。

 柴崎さんの家まで歩いて行くことにした。歩くと20分ほど掛かるが急ぐ必要はなかった。それにここ数日の様々な出来事を頭の中で整理したかったのだ。

 会社を辞め、妻に離婚されたわたしは父の見舞いに郷里に戻ったのだ。退社と離婚を報告するつもりは無かった。老いた父に、息子の心配をさせても仕方が無い。しかし入所している筈の介護施設では会うこ出来なかった。施設を運営する病院の窓口で

「そのような方は入所していない」

と告げられたのだ。不思議なのは、その同じ病院に由紀が入院していた。担当の医師が驚きを持って語るほど若いままの姿で。

 20分という時間は驚くくらい、短かった。車の通りが少ない道に入り、古いモルタル塀を右に曲がると提灯が目に入った。住宅街は駅前とは異なり夜の暗さに満ちていた。控えめな提灯だったが、その光が異様なくらい際立って見えた。あまり人の出入りは無い。来訪者は身内に限られる通夜だから、人間関係の希薄な都会ではこんなものだろう。

 昨日、

『ところで何回忌だ?』

と角の婆さんは言った。誰の?という問いに対し明らかに父を指した。

『三十三回忌じゃなかったか』

とも言った。婆さんはわたしに何を伝えたかったのだろう?それともわたしが勝手に父のことを言われている、と勘違いしただけで、本当は別の人間の死のことを話していたのだろうか?わたしはもう一度、婆さんの言葉の幾つかを思い出してみた。

『父ちゃんも、母ちゃんもみんな許してやれ』

何を許せというのだろうか?幸せだったボクらが二人の離婚で離れ離れになってしまったことだろうか?しかし婆さんは

『あんな死に方しちまった』

とも言った。誰がだ?誰も死んでない筈だが。

『あの日、殺したのは誰なんだ?』

三田も言った。誰が殺されたというのだ?ボクの知らないところで誰かが死んでいたとして、そんなことを今更訊かれても何も分からないじゃないか。

「北原さん、よく来て下さいました」

柴崎さんの奥さんが迎えに出てきた。少し会わなかった間に痩せたのか、随分と小さく見えた。まだ老け込む歳では無いだろうに老婆のように思えた。奥さんのそんな姿は柴崎さんの苦悩を表しているようで、胸が痛くなった。

 和室に通された。普段は夫妻の寝室に使っていたのかもしれない。入り口は客間には不向きな片開きの襖だった。居間では通夜の客を迎えるのに狭かったのだろう。また仏となった遺体を寝せるにも畳の間の方が好ましかったのだ。

 和室には柴崎さんや奥さんの親類縁者と思われる人々が十名ほど、テーブルを囲んで座り込み遠慮がちに夕食を摘んでいた。テーブルは一つでは足りないということで二つを繋げていた。高さが若干違うため、段差が出来ていた。

「主人の会社の方」

奥さんが声を掛けると皆がわたしを見た。軽く会釈を返しながら複雑な気持ちだった。

「部長さん?」

言ったのは一番、年長の男だった。顔が既に真っ赤で、ちょうど良く酔っているらしい。

「えっと、それとも課長さんかな?」

一面がピンク色に染まった剥げ頭を掻きながらわたしを見詰めてきた。そんな男を制するように、隣りの老女が小声で「失礼でしょ!いきなりそんなこと聞いちゃ」と言った。男の妻、か姉妹と言ったところか。「てっちゃんはずっと前に辞めてたんだから」とも。「てっちゃん」とは柴崎さんの呼び名だろう。

「わたしもね、辞めたんです。つい三日ほど前に」

わたしのちょっとした宣言に一同は静まり返った。こちらが驚いてしまうくらい視線が集まった。

「いや、思うところありましてね。今時はよくあることですから」

苦笑いして視線を逃れようとしたが、そうはいかなかったようだ。彼らの間では、死の原因は退社と考えているらしい。

てっちゃんもね、頑張ってたのよ。『俺も営業を40年もやってきた。その経験を生かした仕事に就きたい』なんて張り切ってたのにね。あの歳でしょ。とっても仕事なんて見付からなくて。でもやっちゃんやくにちゃんの学費だってあるでしょう。夜中にコンビニのバイトなんかまでやってたのだけど、とっても間に合わなくって・・・」

先ほどの老女の溜息を吐くように呟いた。

 柴崎夫妻には二人の息子がいた。遅くに出来た子で、まだ長男が大学生、次男が高校生だ。一番お金が掛かる年頃なのだ。父親としてはお金にだけは不自由させたくないというのが人情というものだ。しかしアルバイトの費用でそれを稼ぎ出すのは至難の業だったろう。

「時代が悪かったのね。てっちゃんみたいな真面目な人が働き口が無いなんて・・・」

たしかに今の時代、60間際の男が再就職する先など無かったのかもしれない。普通ならサラリーマン時代に取り引きのあった会社に移るものだが、下請も納品業者もリストラを進めている最中だから、発注元の役員を受け入れる余裕は無いのだ。

「これは内緒にしておこうと思ったんだけど」

と老女は前置きした。連れ合いと思われる年長の男が「おい、やめろ」と小さな声で叱ったが、老女は無視した。

「半年くらい前、てっちゃんが来たのよ。何の前触れも無く、ふらっと。でね、古い知り合いが保険会社に勤めてて、その方に連絡して大きい額の保険に入ったっていうの。ワタシが『何の為に』って訊いたら『勿論、俺に万が一の場合があっても息子達が無事学校を卒業出来るようにだ』って。『まあ、縁起でもないわね』って言ったら『うん、問題は自殺の場合は半年は駄目なんだそうだ。だから半年は死ぬ訳にはいかん』なんてね。今思えば・・・」

と老婆がそこまで話したところで年長の男が怒り出した。

「だから『やめろ』と言ってるだろう!」

場が白けた雰囲気になり、しかし誰もが嫌な疑いを抱いてしまった。一番若い女性――おそらく一番上の兄の娘だろう――などは「さてとっ」などと小さく呟くと空いた皿を3枚ばかり重ねると襖の向こうに消えてしまった。台所に立ったのだろう。

 だが、兄の息子と思われる若い男は、老女に先を聞きたがった。

「てつ叔父さんは、保険金目当ての自殺だったのかな?」

老女は年長の男の顔色を伺った。男は相変わらず酒で真っ赤になった顔を、苦々しい表情のまま伏せていた。

「金の為に死んだなんて嫌だな」

「それは分からないけど、何か期するものはあったみたいに感じたわ。『ハローワークに何ヶ月も通ってみたけど面接を受けさせてくれる会社すら無い』って悩んでたわ」

「自分の命以外、金になるものが無かったってことか」

今度は別の男が「ひろし!」と、小さく叫んだ。若い男の父親なのだろう。年の頃は柴崎さんの兄と思われる。言われて若い男は首を竦めた。

「ま、湿っぽい話はここまでにして、皆さん箸の方も進めて下さんし。冷めちまう」

柴崎さんの弟くらいの歳の男は、そう言いながらわたしに

「いや、同僚だった方も、一つどうぞ」

ビールを勧めてきた。わたしは差し出されたグラスで受けた。

「ところであなたも会社を辞めたそうだが、何をなさる?」

注ぎながら男は訊ねてきた。興味があって、というより社交辞令に近い質問に違いない。だから適当にあしらえば良いのだが、わたしは答えに窮してしまった。何も無いのだ。

「今時は後先も考えずに辞めるんだねえ」

と今まで黙っていた別の老女が呟くように言った。さきほど「ひろし」と呼ばれた若い男が

「辞めたくて辞めるんじゃねえよ。辞めさせられるんだ」

と答えた。またすぐさま「ひろし!」と叱る声が響いた。

 辞めたくて辞めた、とわたしは思っていた。ついさっきまで。しかし、辞めさせられた、というのが本当のところかもしれない。さきほど会社に寄った時のことを思い出した。既にわたしは厄介者だった。誰もわたしを惜しんではいなかった。辞めたくて辞めたのかもしれないが、結果として捨てられたのはわたしの方だったのだ。

 座の向こうに布団が敷かれていた。柴崎専務が寝ているのだ。なぜ今まで気付かなかったのか不思議なくらいだ。この部屋に入ったら最初に遺体に向かうのが礼儀というものだったろう。それだけわたしは自分を見失っているのかもしれない。

「ちょっと」

と皆に声を掛け、わたしは座から立ち上がった。柴崎さんの亡骸に挨拶するためだ。亡骸を寝かせた上に十名が入っては少し狭い部屋だったから、何人かの背中の間を通らねばならなかった。そうして布団の横に辿り着いた時、柴崎さんの姉と思われる女性が顔を覆った白布を捲り上げてくれた。

 まるで生きているような顔。しかし生きている顔としては美し過ぎる。化粧を施された蝋人形の顔だ。わたしはふと、柴崎さんの死因が飛び降りだったことを思い出した。落下して地面に叩き付けられ内臓が破裂したことが直接の死因だった。そんなわたしの心中を察したのか、女性は

「顔はね、大丈夫だったんですよ。まったく無傷で」

と説明してくれた。

「手とか足とかは骨が折れて反対側に曲がったりして・・・わたしたちが見た時はまだ直してなくて、蜘蛛みたいな身体になってて・・・」

女性は息を詰まらせた。夕食の箸が進まない理由がこういうところにあったらしい。

「でも顔だけは無事でほんと、良かった」

「良かったですね」

言葉を返すと、わたしは柴崎さんの顔をもう一度覗き込んだ。その様を見て女性は気を遣い、テーブルに戻った。わたしが柴崎さんの亡骸と二人きりになるのを望んでいることが分かったのだろう。

 わたしは、柴崎さんに語り掛けた。しかし何を語れば良いのか分からなかった。改めて『何故死んだのか?』なんて訊くのも野暮な話だ。まして彼は既に答えを語れないのだ。

『最近、変な夢を見ます』

そんな言葉が勝手に心の中に浮かんできた。

子どもの頃の記憶が夢になって現れるらしいのです。が、どうも内容が事実とは異なる』

こんなことを柴崎さんの亡骸に言っても仕方ないのに、何故か心の中に浮かび上がる。

『帰郷した時、行きの新幹線の中で見た夢は事実の通りだった。それが帰りの新幹線やさっき京浜東北線で見た夢は、ボクの記憶と違う』

また『ボク』か、とわたしは思った。

『もっとも夢だから、その時の気分によって幾らでも変質しますよね』

柴崎さんに別れの言葉を言わねばならない筈なのに、余計なことばかりが頭に浮かんで来るのだ。

『記憶と違う夢の中では、父は良い人だった。代わりに母が冷たい人だった』

自分でも可笑しくなり、わたしはひっそりと微笑んだ。

『父が事故で大怪我をして、その犯人がマサ兄。まったく夢というのは小説のように面白い』

突然、柴崎さんの瞼が開いたように見えた。元々眼光の鋭い人であったが、まるで怒りの表情のように一度天井を睨み付け、それからギョロリとわたしを横目で見た。

 呆気に取られたわたしは声を上げようとしたが、声が出なかった。しかしすぐに「シューッ」という音がすると瞼が閉じ、身体も沈み込んでいった。死体の中にガスが溜まっていたのかも知れない。しかし、たしかにわたしは聞いた、気がする。

『北原、調べろ』

という声が聞こえたのだ。

『真実を』

と。

『真実?』

『そう。心の底に封印した真実だ。認めたくない真実』

 わたしは柴崎さんの顔を凝視した。

「どうかしましたか?」

背中から老女に声を掛けられ、わたしは我に返った。

「大丈夫ですか?顔が汗びっしょり」

言われて指で額に触れるた。霧吹きで水を吹いたように水滴が付いていた。老女がタオルを持って来てくれた。

「これ、どうぞ。お加減でも悪いんじゃ?」

「いえ、大丈夫です」

わたしは額の汗を拭うと立ち上がった。

「少し外を散歩してきます」

そういい残し、襖を開けた。

 玄関を出る間際、台所から奥さんが歩み寄ってきた。

「北原さん、大丈夫?」

と心配そうに見詰めてきた。

「どこか具合が悪いのならすぐ近くに行き付けの病院があります」

「いえ、そんなんじゃありません。実は昨日、一昨日と郷里に帰ってまして、すこし疲れたみたいです」

「それならいいんだけど」

奥さんはわたしの顔を下から覗くように見上げてきた。

「二階が空いてますから、そこでお休みになります?」

「大丈夫。少し外の空気を吸ってきます」

そう答えてからふとあることを思い付いた。

「ところで奥さん、通夜の日にこんなことを伺うのは失礼かと思うのですが」

「何かしら?」

「柴崎専務はわたしについて何か言ってましたか?」

「北原さんについて?さあ、北原さんの話はよく話してましたけど、特別な話は無かったわねえ」

わたしは残念な気がした。先ほどの幻聴が、実は本当に柴崎さんの声だった、と思いたかったのだ。ここのところの不可解な夢や、幾つかの出来事について、少しでも答えが見付かればと思ったのだ。

「ああ、でも・・・」

「でも?」

「あ、いえ、最近の話では無いわ。ずっと昔の話だから関係ないわよね」

「なんです?」

「ずっと前に聞いた話だから」

「それでいいですから教えて頂けませんか?」

「でも、いいのかしら」

「お願いします」

奥さんは少し考え込んでから、意を決したように口を開いた。

「もう20年近く前のことだから、柴崎がまだ係長だったかしら。遅くに帰宅した柴崎が珍しく会社の話をしたの。ちょっと変わったことがあったって」

「それはわたしのことで?」

「そうね。柴崎はこう言いました。新入社員のことで夕方、刑事が来た。それで深夜まで粘られてしまった。てっきり、その新入社員が学生時代にやった悪さでも見付かったのかと思ったらそういう訳でも無いらしい。刑事はその新人の言動を事細かに聞いていただけで、でもそれがひどく細かくて、ほとほってしまった、って」

「その『新入社員』がわたしのことですね」

「たしかそうだったわ。それと、」

「それと?」

「こうも言ってました。でも変なんだ、って。帰りの電車の中で刑事の名刺を見直してみたら長野県警って書いてあるんだよ、って。そう言ってわたしに名刺を見せてくれましたから間違いありません」

「名刺、ですか」

わたしは一通り思いを巡らせてみたが何一つ分からないことばかりだった。ふと、奥さんを見ると何か言いたげだった。

「その刑事の名前、憶えてますか?」

「ええ、今思い出しました。『簡単な苗字なのに、地方によって変な読み方をするもんだなあ』って柴崎が言ってました」

「変な読み方?」

「ええ、みたと書いてさんたと読むんだそうです」

「さんた?」

「そう三に田です」

すぐさま所長の顔を浮かんだ。いや、間違いなく所長だ。たしか彼はわたしと同じ町の出で三田と書いて「サンタ」と読む。そして彼は元刑事だ。その彼が、わたしが会社に入った当時、わたしのことを調べに来ている。

 一瞬、稲妻のように彼に呼び止められた光景が脳裏に浮かび上がった。タバコを指に挟んだ手で、乱れた髪を押さえながらわたしに何か話しかけていた。反対の手はポケットの中に入っていた。薄汚れたコートのポケットだ。わたしはというと、まだ若々しく新調の、しかし身体にフィットしない背広を身に付けていた。

 恐らくは20年前のある日の記憶だろう。

 わたしは奥さんに「ありがとうございます」と頭を下げると玄関の戸を開いた。奥さんはまだ心配らしく、何か物言いたげだったが敢えて無視した。外に出てドアが閉まると静寂に包まれた。空気が冷たい。信州に比べると昼間は暖かいが、夜の寒さは変わらない。わたしはコートのポケットに手を入れ、歩き出した。しばらく歩いてから、先ほどの幻聴を思い出した。

 幻聴は『認めたくない真実』と言った。会社のことを言っているのかと思ったが、どこか違和感があったのだ。たった今、奥さんから聞いた話で、わたしはある予感を得た。柴崎さんはわたしの秘密を知っていたのではないか?ということだ。長い間、何かと気に掛けてくれていたのはそれが原因じゃないか?そして柴崎さんは、天国に登る前にわたしにそれを伝えようとしたのかもしれない。

 わたしはまた夢のことを思い出した。夢は変節している。昨日までの夢と、今日始まった夢は明らかに内容が合致しない。

『真実を調べろ』

と柴崎さんは言った。真実は一つだ。昨日まで見た夢が真実そのものだ。わたしの幸福な子ども時代と、その終焉。しかし、現実と合致しないのも事実だ。角の婆さんの話、父の不在、そして三田の登場、幾つもの事実が昨日までの夢に疑問符を付け始めていた。

 何をどう調べれば良いのか皆目検討が付かなかった。だが、わたしは再び郷里に向かうことを思い立った。


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「知ってトクする保険の知識」連載中

2010-12-07 りふれいん-51-

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 京浜急行は、帰宅ラッシュ前の一瞬の空白時間なのだろうか、空いていた。疲れ果てたわたしには、幸いだったといえる。柴崎さんの家がある川崎まで、座って行けるのだ。目を瞑るとつい先刻、告げられた言葉が浮かんできた。それは所長がわたしに言った。

 貴明に荷物の入ったダンボールを委ねたわたしは、会社のあるビルを出た。まっすぐに駅へ向かって歩いた。そんなわたしに声を掛ける者がいた。

「よう!久しぶりだなあ」

振り向いたわたしは目を疑った。蓮向かいのビルに居を構える探偵社の社長兼所長だった。変わらず看板が掛かっていることから、探偵社があるだろうことは推察できたがこの所長がまだいたというのは驚きだ。何しろわたしがまだ入社したての頃、既に初老だったから。

「生きてたか?」

相変わらず変わり者らしい挨拶だった。

「あんたまだ辞めてなかったんだなあ。あんな馬鹿息子の下で働いててもロクなこたあねえから、早く辞めなって忠告したろうと思ってたが、なかなか顔見えなくってなあ。いいそびれたまま今まで来ちまった」

いったい何年前からそう思っていたというのだ?わたしが最後に彼と話したのは、かれこれ20年も前のことだ。これだけ近くに居たというのに、人間の縁とは不思議なもので、縁の無い時にはすれ違いばかりなのだろう、まったく会うことが無い。それが今日、わたしがここへ来る最後の日、偶然わたしは屋上から探偵社の看板を見付け、所長との会話を思い出したのだ。そのちょうど同じ日に再会するとは。

「あんたあんな会社早く辞めちまった方がいいぞ。駄目な親分の下にいる子分は、どんなに頑張ったって駄目なものは駄目なんだ。親分子分ってのはそういうもんなんだ。だからな、早く・・・」

「辞めたんだよ」

所長の言葉を遮るように言った。所長はわたしの言葉に一瞬、あっけに取られたらしい。ぽかんと口を開けたまま、言葉を発しなかった。

「つい3日ばかり前に辞表を出してね。辞めました。所長とは20年ぶりだよね。ここへ来る最後の日に会えたというのも縁というものかな?」

わたしの言葉を聞いているのか、聞いていないのか、所長はわたしの顔をジロジロ見詰めていた。それから相変わらず真っ白な顎鬚に指を当てると

「辞めたってあんた、どうやって喰ってくつもりだ?」

わたしは、この所長の物言いに少々腹が立った。たった今、自分から「辞めた方がいい」と言っておきながら、「実は辞めたのだ」と答えた途端に逆のことを言い出した。それも20年ぶりだというのにずけずけと。

「喰う宛はあるのかい?」

「話が滅茶苦茶だな。たった今『あんな会社辞めちまえ』って言ったばかりじゃないか?」

「いや滅茶苦茶じゃない。辞めるという話と、これから喰っていくという話はまったく別ものだ」

「そりゃそうだが・・・まあいい。それより所長は変わらないな」

「ん?まあな。代わり映えせんことやっとるからな」

「そうは言ってもかれこれ20年は経ってる。その割りに老けてないよ」

たしかに老人は初老のまま、ただ年月だけを経ているように見えた。

「或る意味、若いよ。どうしたら若いままでいられるのかな?」

「ん?んんー、まあわしの場合、やるべきことがあるからなあ」

やるべきこと?探偵なんだから探偵の仕事がやるべきことだろうに、しかし今の言い方は別に何かある、というニュアンスを感じた。そんなわたしの疑問に答えるように彼は続けた。

「探偵なんて喰うためにやってるだけなんだ。警備会社でも良かったんだが・・・時間が自由にならなかったからな」

へえ、とわたしは思いを巡らせた。この老探偵が、自由な時間をどう過ごしているのか?その時間に「やるべきこと」とは何なのか?

「ところであんた、これからどこへ行く?」

「これから?ああ、今夜は川崎で通夜なんだ。会社時代の上司が死んだんだ。飛び降り自殺さ。そのビルの向こう側へ飛び降りた」

「それは知っている。パトカーや救急車で大変だったんだ。にしても、何が原因だったんだ?ノイローゼか?」

「ふん。会社に捨てられた途端に、世の中から必要無くなったんだろ。柴崎さんはそれに気付いただけだ」

「必要が無い」

「そうさ。サラリーマンなんてそんなもんだ。会社があっての自分。会社から追い出されれば何も残りはしない」

所長は突然、黙り込んでわたしの顔を覗き込んだ。

「な、なんだよ。どうかしたかい?顔に何か付いてるかな?」

「いいや。そんなことよりあんたはどう思うんだ?会社を辞めて、自分が社会から不要な人間になったと?」

「さあね、まだ分からない。わたしは柴崎専務と違って鈍感なんだ。正直、辞めた実感も湧かない。実を言うと妻に離婚された。それで家を追い出されたんだ。だが、それすらも実感が無い。本当は今夜だって寝床が無いんだ。これから探さなきゃいけない。なのに、なんだか実感が無いんだ」

「何故かな?」と所長が訊いてきた。

「何故かな?って、そんなことに興味があるの?」

「いや、ちょっと不思議に思って」

「不思議でもなんでもないよ。さっきも言ったように鈍感なんだ。それは若い頃からそうだった。すぐ忘れちゃうんだ。嫌なことはすぐ忘れる。ただ残念なことに良いことも忘れちゃうんだ。どうも記憶力が悪いらしい」

所長が苦虫を噛んだような顔をした。何か気に障ることがあったのだろうか?

「ということで、これから川崎までいかなきゃならない。いままで色々お世話になりました。といっても所長に世話になったのは20年も前だがな。それでもありがとう。もう会うことも無いかもしれないから、今礼を言っとくよ」

所長は困ったように顔を顰(しか)めた。それからしばらく何事か考え、不思議なことをわたしに言った。

「落ち着き先が決まったら教えてくれ。な、きっとだぞ」

何故か懇願するような調子だった。所長は名刺をくれたが、そこには携帯の電話番号とメールアドレスも記載されていた。

 所長と別れ、わたしは駅に向かった。

 歩きながら所長のことが頭に浮かんだ。

『落ち着き先が決まったら教えてくれ』

彼はそう言った。何の為に?社交辞令だろうか?とも思ったが、そんな余計な縁を作る社交辞令も今時無かろう、と思った。それに、とわたしはその時の所長の顔を思い出した。普段と少し異なる雰囲気を感じたのだ。

 もっとも「普段」などと言っても彼とはほぼ20年ぶりだから、その間に彼がどのように変節したかは知らない。だから今の彼にすればあれが普通だったのかもしれない。

 如何せんこの20年間、わたしの人生に何の関与もして来なかった人間が、人生の曲がり角にひょっこり顔を出すと言うのは気になるものだ。もしかするとこれからのわたしの人生に何らかの関係を持つのかもしれないな、などと考えると自然に苦笑いが込み上げてきた。

 どうやらここから先の人生に、わたしはひどく怯えているようだ。それも仕方がない。わたしは20年余を過ごした会社に捨てられた。社長の貴明に捨てられたのでは無かった。部下達に見捨てられたのだ。それに気付いたのはつい先ほどだ。自分の鈍感さに呆れながら、それ以上に途方に暮れたのだ。何しろわたしは三日前に妻と娘にも捨てられたのだから。わたしはこの20余年の人とのつながりを一気に失ってしまったのだ。今のわたしは行く宛が無い。今夜の宿さえ決まっていない。さっき会社から生活のための荷物を送ってもらうにも、20数年帰っていないどころか今や誰も住んでいない過去の実家を宛先としなければならなかった。それ以上に交わる人も無い、そういう状況がわたしを不安にしていたのだ。

 誰でも良いから交わる人間が欲しかったのかも知れない。だから、たまたま偶然に路で出会った古い知人に、親しみを憶えてしまったのだ。客観的に考えれば探偵事務所の所長などと、今後どんな親交を持って行くというのだ?

 目の前に有楽町駅の姿が現れた時、わたしは振り返った。無数の人の群れの中に何かを探した。所長の姿を見付けようとしているらしい。馬鹿馬鹿しい、と思いすぐさまやめた。彼に何を頼りたいというのだろう?貧乏探偵事務所の経営者などに頼れる何ものもある筈が無い。

 ふと、所長が同郷だったことを思い出した。若い頃、一緒に飲みに行った先で、酒飲み話にそんなことを聞いたことがあった。たしか所長の名は三田だった。三田と書いて「サンタ」と読む。これは信州でもわたしの暮らす地域だけの読み方だから間違い無い。

『退官してね、田舎じゃやることがないもんだから、いい歳して都会へ出てきたんだ』

と言っていた。退官、そうだった。彼は田舎では刑事をやっていた、と言っていた。それにしても定年後、都会に出てきて探偵をやろうなんて?わたしは首を傾げた。幾ら元刑事でも無謀な話じゃないのか?もっとも今のわたしの状況に比べれば、これ以上、無謀ということもあるまい。

『他人の心配をする前に自分をなんとかしろよ』

わたしは自分に言い聞かせ、改札を潜った。ホームへ向かう階段を上がった。階段の段数が妙に気になった。頭の中に数字が次々に現れたのだ。

 それが階段の数字では無いことに気付いたのは、京浜東北線のドアが閉まった時だった。走り出す列車の窓から、向かいに建つガラズ張りのビルが見えた。客が蟻のように無数に動いている。わたしはその中に三田が居るような気持ちになった。こちらを凝視しているのではないか?と思ったのだ。窓に顔を近付け、ビルの窓を見渡した。それらしい影は無かった。だがわたしは激しく胸の中で鼓動を打ち続ける心臓を押させることが出来なかった。どうやらわたしは計算を間違えていたらしい。三田所長が、もし定年後にあそこに出てきたのなら、既に80歳を超えている筈だった。しかし、さっき見た彼は到底80歳の老人には見えなかった。

 嫌な胸騒ぎがした。こんな気持ちは今回が初めてでは無かった。父の見舞いに行った病院で、不思議な気持ちが胸の中を通り抜けた。かつて住んだ家で、角の婆さんの話を聞きながら、胸の中が冷たい空気でいっぱいになった。病院で由紀の死体のような寝顔を見た時、胸が揺さぶられた。

 有楽町の駅ビルが見えなくなった時、わたしはふと車内で視線を感じた。視線の方をなんども見詰め直したが、心当たりのある顔は見付からなかった。黒衣を詰めたバッグを胸に抱くと、眠気が襲ってきた。川崎まではそう遠くは無い。ここで眠ってしまっては拙い、と思い必死で目を凝らしてみたが天井がいよいよ回り始めた。唇を噛んでみたが、もはやその程度の痛みでは抗えないらしい。薄れてゆく意識の中で、目の前に誰かの顔が現れたのを見た、ような気がする。しかし、次の瞬間には意識が跳んでいた。

 天井がぐるぐる回っていた。ボクは風邪を引いていた。熱があって、咳も出た。なのに、なんでこんなとこにいるんだ?そう由紀になんども問い質したのだけど、由紀はまったく取り合ってくれなかった。

 ボクは六時間目が終わると、そそくさと家路に向かった。もう具合が悪くて、すぐにも布団に潜り込みたかったからだ。そんなボクを由紀が呼び止めたんだ。

「たく、どこ行くの?」

「え?どこって、家だよ。決まってるじゃん」

「ちょっと、駄目!」

「なんで?」

「駄目ったら駄目!」

「えー、おれ風邪引いてんだよ。こんな日くらい家に帰らせてよ」

「とにかく駄目」

「なんでだよー、熱があって頭が痛んだよ」

「だったら保健室で寝てれば良かったのに」

「もう放課後だもの、一人で寝てる訳にいかないよ」

「そんなことないわ。6時くらいまでならいつも保健の先生いるわよ」

「でもさ、風邪引いたら早く家に帰るって当たり前でしょ?」

「もう、たくったらうるさい!とにかく家に帰っちゃ駄目なの」

なんでだよう、と不満を漏らす僕の腕を由紀はガッチリと掴んだ。

「さ、こっち来なさい!」

ボクはこの時、風邪で身体ふらふらして、ボクより身体が大きい由紀に到底逆らえる状態じゃなかった。

 由紀はボクの手を引き、家から遠い方へどんどん進んでいった。

「もう堪忍して、ふらふらで、死んじゃうよ」

そんなボクを無視して由紀はズンズン進んだ。街の外れを越え、線路沿いに走る道路を歩き、踏切を渡ると山門を潜った。そこから山の上に伸びる参道は、沢山の木々に囲まれていた。普段ならちょうど良い涼しさだろうが、この時のボクは突然訪れた寒気に身を震わせていた。

「由紀い、寒いよお」

「何、情け無い声出してんのよ!男でしょ、しっかりしなさい」

由紀はボクの体調なんてまるで無視して参道を登り始めた。普段ならなんでも無い坂道だろうけど、この時のボクにしてみれば苦行に近かった。なんども石に躓き、急な坂に息を切らしならが、しかし由紀から強引に腕を引かれ、上へ上へと登っていったんだ。

 この参道は、随分前のことだが、図工の時間に登った事のあった。境内で社や狛犬石仏を写生したのだ。その時はこの参道がこれほど長いとは思わなかった。でも多分、今だって本当はそんなに長くは無いのだろう。風邪からくる熱のせいでボクの身体があんまりふらふらしてるから、必要以上に長く感じるんだ。

 なんとか参道を上がりきったボクは小さな境内の入り口を縁取るように生えている草むらに腰を降ろした。

「ああ、もう駄目。目が回る」

実際、ボクの額からは湯気が立ち昇っていた。汗も沢山出ていた。

「なんだか寒いよう」

「もう、男の子なんだからしっかりしなさい!」

「男の子って言っても病気には勝てないよ」

「病気?ただの風邪でしょ?大袈裟ねえ」

「でも寒い、身体がだるい」

由紀は「ちょっと待ってて」というと少しの時間、姿を消した。戻ってくると、ボクの腕を掴み、また立たせようとした。

「待って!無理、これ以上歩けないよ」

「寒いんでしょ。これ以上熱が出ちゃいけない。だから、もうしばらく辛抱して」

由紀はボクを抱えるようにしてぼろぼろの鳥居をくぐると、境内の石畳の上を歩き出した。誰もいない境内は静まり返っていた。境内を覆い隠すようにして背の高い木々が立ち並んでいた。一番背の高い木々は杉。人が植えたのだろう。整列するように綺麗に立ち並んでいた。その周りに、雑然と枝を伸ばしているのだ橡だ。深い緑の葉の間から太陽の光が顔を覗かせていた。葉が時々揺れるとボクらを追い立てるように光が閃き、その度ボクらを脅かした。

 ボクらは途中から石畳を逸れ、境内の隅に向かった。由紀がそうボクを誘導したのだ。どうやら社の裏へ向かうらしい。ボクとしてはてっきり社のどこかで休むのかと思ったけど違うらしい。もっとも社って言っても、まさか中に入るのは拙いし、きっと埃だらけで汚いと思うから嫌だけど・・・でもとにかく早く座りたい、できれば横になりたかった。

 そんなボクの思いなんてお構い無しに由紀はずんずん進んで行った。進んだ先に見えてきたのは小さな小屋だった。ひどく安普請な小屋でそんなに古くないのに少し傾いていた。素人が建てたみたいだった。由紀はその小屋の入り口で立ち止まった。

「鍵が掛かってるよ」

ボクらの目の高さに、これ見よがしに大きな南京錠がぶら下がっていた。

「もう歩けないよ」

ボクはその場にへたり込んだ。地面が少し湿ってて冷たかった。そんなボクを他所に由紀は南京錠に手を掛けた。

「開きっこ無いよ。そんな大きな鍵」

「大丈夫よ」

由紀は南京錠を上げたり下げたりしていた。

「無理だよお」

とボクが言ったと同時に、ガチャリと鍵が開いた。ボクが呆気に取られている間に由紀は南京錠を取り去り、僕の上を掴んだ。

「すっげー」

「凄くないよ。初めから壊れてるんだもん」

「壊れてる?知ってたの?」

「まあね。それより早く。中に入りなさいよ」

「え、汚くない?」

由紀に押し込まれるように入ってみると、室内は藁でいっぱいだった。

「何これ?」

棚田のね、藁を入れとく倉庫」

「それでこんなになってるんだ」

藁の山が幾つも出来ていた。ボクはなんだか嬉しくなって、靴を脱ぐと藁の上に飛び乗った。転がりながら一番高い藁の山に登った。

「ああ、気持ちいい」

藁に顔を埋めると太陽の匂いがした気がする。秋に干され時、吸収した陽光をずっとその中に溜め込んでいるらしい。その匂いを吸い込んでいるだけで、ボクは風邪のバイ菌が死んでしまうように思えた。実際、先ほどまでの苦しさはどこかへ消えた。替わりに眠気が訪れた。このままこの匂いに包まれて眠ってしまえば、起きた時にはすっかり風邪も治り、元気になっている気がした。

「あの刑事、父ちゃんの怪我のこと訊きに来たのかな?」

ボクが眠りの世界に入る直前、由紀の声がした。ボクはたちどころに現実に引き戻された。

 由紀にしては珍しく、小さな声だった。不安を隠し切れないらしい。今週の月曜日の出来事を思い出しているらしく、由紀の大きな瞳は揺れ動いた。

 父ちゃんの怪我とは、今週の初め、父ちゃんは酔っ払って車に撥ねられた。そのまま救急車で病院に搬送された。ボクらは夜遅くに病院へ駆け付けた。

「ああ、由紀とたくか。心配掛けたな。お医者に聞いたら大丈夫だってさ」

「でも、それ」

由紀が不安そうに指差したのは、父ちゃんの首に巻かれたロボットみたいなコルセットだ。痩せぎすな父ちゃんの首には大き過ぎるように見えた。

 ボクがそれに触れようとすると由紀が

「駄目よ」

とボクを制した。

「ははは、大丈夫。全然痛くないから」

父ちゃんは笑いながらボクと由紀の手を取り、コルセットに触れさせた。

 その時、ガチャリと大きな音がして母ちゃんが入ってきた。母ちゃんはボクらの顔を見て少し驚いたみたいだったが、すぐ気を取り直して父に微笑み掛けた。

「あなた、大丈夫?心配したわ」

「あ、ああ、ありがとう」

父ちゃんはちょっと戸惑ったみたいだった。だって普段の母ちゃんは、あんまり父ちゃんに優しくしないから。

「お前が先に帰っちゃうもんだから、一緒に帰ればこんな目に遭わなかったかもしれなかったよな」

「だって、あなたご機嫌で飲んでたから」

「そうか?ちょっと飲み過ぎて苦しかったんだけどな。お陰で帰り道、足元が覚束なくってな。こんなことになっちまった」

「でも良かったわ。怪我くらいで済んで」

「ああでも、これじゃあ仕事にならないよ・・・」

父ちゃんは明日からの仕事を心配してるみたいだった。

 自宅に刑事が来たのは水曜日だった。ボクらが学校から帰ると玄関の擦りガラスの向こう側に黒い影が見えた。それは一つでは無かった。由紀と二人で恐る恐る近付くと、突然、引き戸が開いた。二人の男が現れた。二人ともボクらから見たら「おじさん」だった。

「じゃ奥さん、また来ますんで」

と二人のうち、年上と思われる男がぺこぺこ頭を下げていた。それに呼応するように家の中から母ちゃんの不機嫌そうな声が聞こえてきた。

「何しに来るんだよ!もう話すことなんて何にも無いって言ってるだろ」

男はまともに取り合わない、といった感じで

「まあ、これもわたし達の仕事なもんですから、ご容赦下さい」

と丁寧に頭を下げていた。それから二人の男は、ボクらの前を歩いて行った。と、ふいにもう一人の男が立ち止まった。さっき母ちゃんに挨拶した男じゃない方の奴だ。その男は立ち止まるとボクらの方を見た。正確に言うとボクの方ではない。由紀を見ていたんだ。ボクが由紀を見ると、由紀は怖い顔をして、ジッと男を睨み付けていた。ボクはまた男の顔を見た。すると男は恐ろしい顔を突然、ほころばせ、こちらに寄って来た。

「おまえー、恐っとしい目えするのお。うんー、ふふふ、あの母にしてこの娘か・・・」

男が呟いた。

「帰れ!早く!」

由紀がボクの隣りで叫んだ。男は「へへ」と短く笑うと

「くわばらくわばら」

とまた呟きながらボクらに背を向けた。そして二人の男は連れ立って、長屋の向こうへ去っていった。

 ボクらは誰に訊くとも無く、彼らが刑事だと気付いていた。

 そして昨日、ボクらに話し掛けてきた刑事が、学校帰りのボクらの目の前に電柱の影から突然現れたんだ。学校から住宅街を抜けたところ、もう使われていないトタンの倉庫や、締めっきりの店舗などが立ち並ぶ古い通り、あの時間は人が歩いてるのを見たことが無い場所だ。刑事はボクらを待ち伏せしていたように、タイミング良くボクらの行く手を阻んだ。

「兄妹揃って仲良しなんだね」

皮肉っぽい口振りがボクらに威圧感を与えた。ボクらは身体を固くして、じっと黙っていた。

「ふふふ、そんなに怖がらないでくれよ。別に取って喰やあしないからよ」

年の頃はボクらのとうちゃんやかあちゃんと同じ位だろうか?でも、とても同じなんて思えなかった。どうしてって、何か底知れない怖さを纏っていたんだ。でもそれは彼だけの問題じゃなかったのかもしれない。

「こんなこと子供に訊くことじゃないんだが、君ら血が繋がってねえんだろ?」

魔物のような笑みを浮かべながら、刑事はボクらに顔を寄せてきた。

「いや答えたくなきゃいいんだが」

「答える義務がありません」

「え?義務ときたか、ふふふ」

「わたしたち何か悪いことしましたか?」

「いいや、そういう訳じゃ無いんだが」

「じゃ、答える必要ないですよね」

由紀のそれは、明らかに敵意剥き出しだった。

「どいて貰えますか?帰るんで」

由紀はボクの手を握ったまま、露骨に刑事の身体を押し退けた。刑事は苦笑いしながら

「はいよ」

と道を明けた。

「おい、気の強いお姉ちゃんだな。あ、いや妹さんだったか。ははは」

ボクらは刑事の声を無視するように足早に歩き去った。どんどん離れていくボクらの背中に向かって刑事は次第に声を大きくした。

「気の強さは母ちゃん譲りか?はは、おい、余計なお節介だが、今は帰らねえ方が利口だぞ」

突然、由紀の足が止まった。由紀にしっかり手を握られていたボクも立ち止まった。

「ははは、なんだい、分かってんのか、おい?まずいよなあそれは」

僕の手を握る、由紀の力がどんどん強くなっていくのが分かった。由紀は怒っているらしい。みるみる顔が真っ赤になり、刑事をきつく睨み付けた目には涙が滲み始めた。

「い、痛いよ由紀」

爪がボクの手の平に喰い込んだのだった。由紀は慌ててボクの手を離した。

 ボクが自分の手の平を確かめてから顔を上げると、ずっと向こうに刑事の小さな後姿が見えた。

「何をしに来たんだろ?」

「知らない」

ボクらは少ない言葉を交わすと、歩き出した。少し歩くと由紀がボクの手を握り、家とは関係の無い方へ向かった。

「どこ行くんだよ」というボクの言葉を無視して由紀は歩き続けた。それからボクらは日の暮れて肌寒くなるまでずっと歩き続けていた。お陰でボクは風邪を引いてしまったらしい。

ボクは由紀に背を向け、藁に頬を埋めたまま由紀の話を聞いていた。

「あいつ、きっと父ちゃんの怪我を疑ってるんだよ」

「疑うって何を?」

「だから怪我のことよ。本当に交通事故だったのか、ってこと」

「ええ?だってあんなにひどい怪我をしてるじゃん」

「馬鹿ねえ、違うわよ」

違うと言われても、ボクには意味が分からなかった。

 父ちゃんはお酒を飲みに言った帰りに車に撥ねられて大怪我をしたんだ。ムチ打ちなったらしい、だからあんな大きなコルセットを首に巻いてたじゃないか。

「父ちゃん、普段はお酒飲まないじゃない」

「うん、まあね」

「あの日に限ってなんであんなに飲んだの?」

「それはー、母ちゃんが誘ってくれたから、つい飲み過ぎたんじゃない?」

「母ちゃんの方が先に帰って来ちゃったじゃない。自分から誘っといておかしくない?」

「うんー、それはそうだけど。でも母ちゃん言ってたじゃん。ボクたちが心配だったって」

「心配?何が?いつも放りっ放しじゃない」

「うん、まあ、そうだけどー」と言いながらボクは次の言葉を探したが、雪隠詰めに遭ったみたいににっちもさっちも行かなかった。ボクは「でもー、まー、なんて言うかー」なんて繰り返していただけだった。そんなボクに由紀は諭すように言った。

「父ちゃんを撥ねた車、見付かって無いんだよ」

ボクには由紀が言わんとする意味が分かったけれど、ボクはそれを考えないようにしていたんだ。考えないように、というより疑わないようにしてた。

 その時間、母ちゃんは家にいた。ボクらが一緒にいたんだから間違いない。「でも」そう考えた僕の先回りをするように由紀が言った。

「マサ兄は居なかった」

マサ兄はボクらと暮らしてる訳じゃ無いから、ボクらの家に居なくて当然なんだ。でも、ボクと由紀の頭には、マサ兄の姿が浮かんだんだ。

「ねえ由紀」

「ん?」

「ボク、眠いんだ。昨日、ずっと歩いてたでしょ。夕方になったら寒くってさ。風邪引いちゃったんだ。だから少し寝させて」

由紀は小さく「うん、いいよ」と囁いた。すぐにボクの隣りに柔らかい暖かさが拡がるのが分かった。由紀が添い寝してくれたらしい。横を向いたボクの背中を抱くように由紀は身体をくっ付けてくれていた。ボクは徐々に寒気が失せ、快い眠気に沈んでいくのを感じた。気付くと、由紀の寝息が聞こえた。ボクの寝息と相まって、静かな音楽が流れているように聞こえた。

 ボクらは小さな猫の兄妹のようだった。捨て猫の兄妹のように、久しぶりに見付けた快い寝床で睡眠を貪ったんだ。


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2010-12-06 りふれいん-50-

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「はっ!」

 息が止まったように思えたのだ。続けてわたしは、慌しく深呼吸した。ぜいぜい、と音を立てながらの呼吸に、一つ向こうの席の女性が嫌な顔をした。

 しばらく呼吸を整えると。ここが新幹線の中だと理解できた。上田までは、この三人掛けの椅子にはわたししか座っていなかったが、どこかの駅で女性が座ったらしい。一つ置いた向こう側、通路側の席に腰掛けていた。車窓の外を見ると広い平地が広がっていた。どうやら眠っている間に群馬を通り過ぎたらしい。景色からすると埼玉県に入っっていた。

 なんという夢だったのだろう?まったく夢と言うのは時に突拍子も無い妄想を作り出す。昨日、今日と続けて父と由紀を見舞いに行き、いずれも満足に会えなかった。そのせいだろう、由紀と父が不気味な形で夢に現れた。

「失礼」

 通路側に座る女性に声を掛け、わたしは席を立った。女性は露骨に顔を顰めてみせたが、致し方ない。昼の日中から新幹線の中で転寝するのは良いとして、魘(うな)されて目覚めるのはいただけない。わたしはなるべく女性に触れないよう気を付けながら通路に出た。

 取り合えず洗面台に行き、水で顔を洗った。上気しているのは暖房のせいばかりではない。酷い目に苦しめられた後だ。それもこれも環境の変化がもたらしたものだろう。何しろ、会社の解雇と家庭の解雇、離婚が同時に訪れたのだから。びしょ濡れになった顔が鏡に映っていた。

「なんて顔してるんだ」

濡れ鼠とはこういう顔をしてるのだろう、そう思えるくらい惨めな顔をしていた。

 これが、ほんの数日前まで会社を背負っているなどと思い込んで奔走していたというのだから、お笑い種だ。それも家庭も顧みずに。時代錯誤もいいことに、妻も娘も理解してくれていると信じていたのだ。その結果がこの様だ。会社からは解雇され、妻と娘からは見放された。

 わたしは鏡の中のわたしに向かって嘲笑を浮かべた。鏡の中の情け無い男の顔も歪んだ。それは笑いというより、蔑み。誰を?自分自身を蔑んでいるのだ。

 ほんの数日で、男の顔をいうものはこんなにも変わってしまうものなのか?まるで世を妬んで生きているクズのような男じゃないか。しかしこれがわたしの本当の顔なのだ。そう思うと勘違いも悪くはない。少なくとも数日前のわたしは生き生きとした顔をしていた。そもそも勘違い無しに生きている人間などどれだけいるというのか?皆、自分が作った幻想の中で、日々自分を正当化しながら生きているだけじゃないか?

 幻想を抱いたまま、老いて行くのが一番幸せなことかもしれない。わたしは事実に気付いた今、自分の身の置き所が分からなくなった。自分が何者でも無いことに気付いてしまった。会社はわたしを必要としてはおらず、また妻もわたしを必要としてはいなかった。

 鏡を見て、わたしは納得した。当然と言えば当然のことだ。こんな惨めな顔の男など、誰も必要としないに違いない。

 そしてサラリーマンの場合、そうした精神的な問題だけでは終わらないのだ。酷く物理的な問題、物理的といえば聞こえはいいが、要するに衣食住だ。わたしはこれからどこに住むのか?そして食べたり、服を買ったりするための金をどうするか?そんな問題を解決しないことには、これから先、生きていくことさえ出来ない。

「失礼」

再び、通路側に座る女性に声を掛けると、わたしは一番窓側の席に腰を降ろした。車窓を見るのが癖になってしまったらしい。洗面所に行っている間に随分と外は暗くなっていた。まだそれほど遅い時間ではないのに、冬の只中は夕闇の訪れが早い。窓ガラスが浅い夕闇を背に、うっすらとわたしの顔を映し出していた。わたしは目を背け、両手の平で顔を覆った。つい先ほど洗面所で十二分のその顔を拝んできたばかりなのだ。また同じように黒い気持ちを繰り返したくは無かった。

 手の平の中で目を瞑ると、何かが薄っすらと浮かび上がった。目を凝らしてみたが、それが何かは分からなかった。その時ふいに耳元で声がした。

『健介さん』

それは角の婆さんの声だった。耳から目へと注意を戻すと、そこに見えたのは父の顔だ。いや、先ほど嫌というほど見た顔だ。なんと瓜二つじゃないか。それはその筈だ。わたしはこの北原健介の息子なのだから。

『父と同じく、惨めな人生が待っているというのか?』

わたしは耳元に聞こえた婆さんの声に問うた。しかし婆さんは何も答えてはくれなかった。

ピピピピッ

という電子音が響いた。通路側の女性がまた嫌な顔をした。わたしはポケットから携帯電話を取り出した。メールだった。案の定、大森からの返信だった。

[あなたは誰でしょう?]

文面にはそれだけが書かれていた。意味が分からず、しかし怒りが込み上げてきた。退社した途端、こういう態度に出るのだろうか?

「失礼」

とまた通路側の女性に声を掛け、デッキに出た。女性は「また?」と今度は口に出して不快感を露にした。しかしわたしはそんなことに構う気にはなれなかった。

 携帯で総務課の直通番号を押した。すぐに

「もしもし」

という小島という女子社員の声がした。まだ入って一年目の社員だ。わたしは特に内容も告げず、大森を出すように言った。小島は

「分かりました」

とだけ言い、受話器を離した。受話器の向こうで大森を呼ぶ声が聞こえる。相手を待たせる時は保留ボタンを押すようにと、何度も言われている筈だが、どうしても覚えられないらしい。しばらく待たされた後、受話器に戻った彼女は

「大森はただ今、打ち合わせ中ですが」

と答えた。そう答えることは分かっていた。受話器の向こうで大森が「打ち合わせ中とでも言っといてくれ」と叫んでいるのが聞こえていた。怒りと落胆が同時に全身を包み、身体中が熱くなるのを抑えられなかった。

 数日前まで、大森はわたしを慕っていた筈だった。しかしそれはわたしの勝手な思い込みだったらしい。単なる上司に対するおべっかをそう思い込んでいたに過ぎない。わたしは大森に対し憤りを憶えた。

 しかし、そうとばかりも考えていられない。取り合えず今夜の通夜に行く準備が必要なのだ。

 わたしは気を取り直し、関口の携帯番号を押した。

「はい、もしもし」

くぐもった声が聞こえた。

「今、大丈夫かな?」

と訊ねると

「あ、ちょっと待って下さい」

と答えてから何かが擦れる音がした。移動してるらしい。

「済みません。お待たせしました。今、会議中だったもので」

わたしは関口にわたしの荷物のことを話した。妻から会社宛に送られているであろうこと、次の落ち着き先が決まるまで預かっていて欲しいこと、取り合えず今日は礼服だけを取りに行きたいこと、などだ。関口が電話の向こうで、その都度頷いているのが分かった。

「分かりました。今日は何時ごろ来られるのですか?」

「そうだな。3時半といえば良いんじゃないかな」

「了解しました」

関口は事務的な口調で電話を切った。 

「うえのー、うえのー、どちら様もお忘れ物の無いよう・・・・」

アナウンスの声でわたしは我に返った。慌てて頭の上の棚から荷物を引っ張り出すと、立ち上がった。

「失礼」

とまた、通路側に座る女性に声を掛けたが、女性は横を向いたままわたしと目を会わそうともしなかった。わたしは大き目のバッグを肩に担ぎ、コートを手に抱えてデッキに向かった。

 地下三階のホームは静まり返っていた。降りたのもわたしと他、数名だけだった。わたし以外の客は皆、上階へ向かうエスカレータに乗り込んだ。だが、わたしはこの地価ホームの高い天井を長い間見上げていた。

『間違えた・・・』

東京駅で降りる筈が、慌てていたらしい。寝起きで判断力が鈍っていたのかもしれない。もっとも東銀座にある会社までは、この上野駅からでも東京からでもそう変わらない。わたしは気を取り直しエスカレータに乗り込んだ。

 いつ出来たのだろう?と思った。随分と長く急な傾斜だった。一本目が終わり、また次のに乗り換えた。今度も長く傾斜がきつい。ここは地下三階と言っても、深度は相当なものに違いない。以前はこんな感じじゃあ無かった。1階のホームに乗り付け、降り口から真っ直ぐ歩くと中央改札口だった。

 三本目のエレベーターを降りると、壁際に売店の並ぶ通路を折り返すように歩いた。右斜めの方向に中央改札口が見えた。ふと、右手を見ると地上階のホームが並んでいた。

『そうそう、昔はここへ乗り付けたんだ。ここからだとほら、すぐ出口・・・』

そこは一般車両のホームだった。そこに乗り付けたとすれば、まだ長野新幹線が通る前で、信越線の時代だろう。となると高校を卒業し、大学に入るために上京した時だ。そして、夏や冬に帰省する際にも何度も乗った筈だ。

 しかし、わたしにはいつそれに乗ってきたのか?という記憶が無かった。まだ長野新幹線が出来て10年足らずだから、それまでは何度となく乗ったに違いなのに。呆然と、地上階のホームを見詰めた。

『頭が呆けたかな?』

40を過ぎると記憶力が途端に落ちる、と誰かが言っていた。きっとそのせいだろう。或いは、ここ数日続く頭痛のせいかもしれない。

 山手線有楽町に出て、そこから歩いた。少し距離はあるが一本道だ。だが、会社の前に着いて時計を見ると4時を少し回っていた。関口に約束したのは3時半だった。

 もっとも30分ばかりの遅刻だから、関口もそう困るまいと思いながらエレベータに乗った。ほんの数日前までわたしの席があった4階に向かったのだった。扉が開くと目の前にドアがあった。ドアには変わらず「企画部」の札が掛かっていた。

 わたしはドアを開けた。同時に

「よう、久しぶり。ははは、まだ三日ぶりか」

とおどけてみせた。20名ばかりの企画部の皆が、いつものように笑いを返してくれる。そう思ったのに、わたしの声を聞いている者は誰もいなかった。

 皆、電話に出たり、打合せをしたり、書類に目を通したりと、自分の業務から目を離す様子は無かった。正確に言うとわたしに感(かま)けている暇は誰にも無いようだった。

 それでもわたしは

「ああ!悪いが、関口はいるかな?」

と声を掛けた。だが誰も返事はしてくれない。

「おい、佐藤。関口はどこかな?」

佐藤はチラとわたしの顔を見るとすぐさま視線を机に落とし、無言で受話器を取った。内線を掛けているところを見るとどうやら社内にいる関口に連絡しているらしい。

佐藤は

「ああ、今来るそうです」

とわたしに視線を向けずに告げた。

 居所の無い空気がわたしの周りを支配していた。オフィスの誰もが、まるでわたしがいないかのように振舞っていた。かつて、この階の主であったわたしの言葉に、皆が注目してくれた。かつてといってもほんの数日前のことだ。冗談の好きなわたしが、それを言うと皆が笑ってくれたのだ。だが、それらがまるで嘘だったかのように思えてきた。

 なにより、わたしを無視して仕事を続けているのかと思いきや、彼ら同士で時に冗談を言い合ったりして笑っていた。目の前にわたしがいるというのに、その笑いはまるでわたしに聞こえないというように、無遠慮なものだった。

「ああ、北原さん」

関口が階段口から現れた。一つ上の階から降りてきたらしい。

「済みません。お待たせして」

「また会議か?」

わたしはたった今、関口が現れた階段口を顎で指し、顔を歪めて笑った。こういう笑いを嘲笑というのだろう、と自分ながらに思った。

 関口は一瞬、困ったように顔を強張らせると話を変えるように自分の席を指差した。

「荷物、届いてますよ」

「今、お持ちします」と言いながら自分の席に向かった。関口が進む先の数人が無言で関口に視線を送ったように見えた。そして関口は歩きながら小さく首を左右に振ったようにも見えた。

 わたしの目の前で関口は、自分の机の向こうにしゃがみ込み、それから立ち上がった。りんご箱大のダンボール箱を一つ、机の上に置いた。それから同じようにしゃがみ込み、もう一つ。どうやらわたしの荷物はその二つだけらしい。関口はそれを縦に積むと両手で持ち上げた。当然、段ボール箱に視界を遮られ進行方向がまともに見えない。だが段ボール箱の脇から覗き込むようにして関口はこちらへ進んできた。その間、何人もの背中を通り抜けて。関口に背中を向けた誰もがそれを手伝おうとしなかった。見て見ぬふりをしていると言って間違いなかった。そしてそれは関口に対してではなく、わたしに対する悪意と予想できた。

「お待たせしました」

関口の声はわたしには聞こえなかった。わたしは他の社員たちの仕打ちに身体中の血が頭に登っていたのだ。

 彼らが元々、わたしと敵対関係にあったというなら、わたしも腹を立てたりなどしない。しかし、ほんの数日前、わたしがここを去る前は、彼らはわたしを慕っていたのではなかった?それらは全て嘘だったというのか。

 わたしは目を瞑り、数日前の企画部の光景を思い出していた。朝、わたしが声を掛けると誰もが「おはようございます」と答えてくれた。士気を上げるために冗談を言うわたしに皆が笑って、、、資料を探していると「手伝いましょうか?」と声を掛けてくれて、、、貴明社長の不甲斐なさや無能さ、不真面目さを嘆いていると、誰もが同調してくれた、、、それらが嘘だったというのか?

 わたしの表情から関口はそれと気付いたらしい。

「あ、北原さん。下の階の応接で確認しましょう」

関口らしい心遣いだった。わたしは今にも企画部の彼らに対し怒鳴り散らしたい気分だったのだ。

「さ、北原さん」

という関口の言葉に頷きながらも、わたしは我慢ならなかった。振り向きざま、

「まったく冷たい連中だ・・・」

と、つい恨み言を口走った。隣りで関口が目を閉じたのが見えた。

 企画部の室内が異様に静まり返ったのが背中から伝わってきた。

「辞めた後まで会社に迷惑掛けんなよ!」

佐藤の声だ。関口が小さく「佐藤」と名を呼び制した。

「個人的な荷物だろ?なんで辞めた会社に送り付けてくるんだよ?」

「やめろ、佐藤!」

「いつまで会社に甘えてんだよ?」

「だからやめろって佐藤!」

関口が制したが佐藤は収まらなかった。まるで不良少年のような暴力的な視線をわたしに向けてきた。

「これ以上、迷惑掛けないで下さい」

突然、黄色い声がした。声の方を見ると留美子だった。留美子の視線は、嫌悪に満ちているように見えた。

わたしを歳の離れた兄のように慕ってくれていた筈だった。何度か、飲み会の後に腕にしがみ付いてきたことがある。恋人と長続きしない性質らしい。危うく男女の仲になりそうになったことさえあった。その彼女が今、汚物に対するように、吐き捨てた。

「部長のお陰で企画部は社長から目を付けられてるんです」

留美子の言葉に同調する者がいた。

「そうだ。まるで俺らまで社長の悪口言ってたみたいに思われてるよ」

「たまんねーよな!」という声が聞こえた。わたしはその声の主が誰であるか確認しようとは思わなかった。既に頭の中が混乱していた。

「あんたがさあ!一人で社長の悪口言ってたんだろ!『そう思うだろ!』なんて強要するから、仕方なく頷いただけだのによ!」

強要?意外な言葉だった。わたしはそんなことをしたつもりは無い。

「おい、お前!」

声の主は木下だった。

「お前、じゃあな。あの貴明の馬鹿が社長でこの会社がやっていけると思うってのか?」

関口が「北原さん!」と言ってわたしを制したが、わたしは収まらなかった。

「やっていけっこねえだろ!」

わたしの声に全員が言葉を失った。彼らはわたしの正論に反論できない、そう思ったのだ。しかし、後になって考えてみると、わたしは何も見えていなかったのだ。

 突然、わたしの思いも寄らぬ声が上がった。

「社長なんて関係ねえよ」

声の方を見ると山本だった。別の方から笑い声が聞こえた。高村だ。

「ほんっと。俺たち社長なんて話したこともねえもの。知らねえよな」

高村は細身の身体を伸ばし、わたしを見下ろすように続けた。

「馬鹿社長だかなんだか知らねえけど、俺たちはその人から給料もらってるんだからよ。あんたじゃねえんだよ。それにどんなに馬鹿だって、ほとんど会ったこともねえし、話したこともねえんだから関係ねえよ。俺たちは自分の仕事をするだけだって」

高村の言葉が終わる前に方々から声が上がった。

「そう、そう、あんた僕らに『今の社長じゃ会社が潰れる』って何度も言ったけど、僕らにどうしろって言うんですか?一緒になって社長の悪口言えば良かったんですか?そんなことしてる暇ありませんよ。僕らは会社に仕事をしに来て、それで給料を貰ってるんだ。人の悪口なんて言ってる暇無いんですよ」

「あたしたちがさ、会社変えられる訳?あたしたちが『社長を替えて欲しい』って言えば変わるの?」

「結局のところ部長、あなた社長を追い出して自分が社長になろうと思ってたとか?それで私たちを利用しようとしてたんじゃ無いですか?」

わたしにとっては信じがたい光景だった。数日前まで皆、わたしに同調してくれたのは、真っ赤な嘘だったというのだろうか。

 わたしは我慢できず、彼らに向かって叫んでいた。

「ちょっと待ってくれ」

今日初めて、彼らはわたしの顔を見てくれた。わたしは少し安堵した。ようやく話を聞いてもらえる気がした。

「わたしが自分の出世の為に君たちを利用するなんてことある訳ないだろう?」

皆それを分かってくれる筈だ、という確信があった。わたしは彼らのためにこそ貴明と戦って来たのだから。

「冷静に考えてくれ。君らだって会社がいずれ倒産してしまっては困るだろう。それには今の社長では、貴明では駄目なんだ」

沈黙が流れた。皆がわたしの言葉を咀嚼しているように見えた。受け止めてくれさえすれば分かってくれる筈だ、とわたしは思った。

 しかし、ふいに笑い声が聞こえた。それは小さい笑いだった。しかし、時とともに笑いは渦となってそこにいるほぼ全員が笑いに同調し始めた。

「この人ぜんぜん分かってねえよ」

誰かが言った。

「人の話聞いてんのかね?」

別の誰かが言った。

 再び留美子の声がした。振り向くと留美子は怒りの表情でわたしを睨み付けていた。

「みんな知ってるんですよ」

留美子の口調は驚くほど厳しかった。わたしは首を傾げた。正直、彼女の言っている意味が分からなかったのだ。

「私たちがみんな社長を嫌ってるって言ったんでしょ?常務や副社長にそうやって言ったんでしょ?取引先にまで行ってそう言ったんでしょ?それって卑怯じゃないですか?」

「え?卑怯?」

「そうでしょ?なんで私たちのせいにするんですか?社長を嫌いなのは部長でしょ?」

反論する言葉が無かった。

「へへへ、ネタは上がってるんだぜ」

「ああ、常務も『北原には困ったもんだ』って言ってた。ほんと困ったよ。社長がさ、企画部は全員解雇だ!って言ってきた時には」

「部長あんた責任も取れないくせしてデカイことばっかり言うもんじゃねえよ」

「結局、負けて出て行くんだから、これ以上、俺らを巻き込むなよな」

わたしは関口からダンボール箱を譲り受けるとエレベータの乗り口へ向かった。

「ったく、喧嘩して辞めた会社へ荷物送ってくるなんてどういう神経してんだよ!」

そういう罵声が浴びせられたが、今更反論する言葉も見付からなかった。もはやわたしはこの会社とは関係の無い人間になったのだから。

 エレベータが開き、中へ乗り込むと壁にダンボールを押し付けて片手を開け、ボタンに指を向けた。初め「1F」と押そうと思ったが、思い直して逆に「R」を押した。

 屋上でエレベータを降りると、そのまま正面に歩いた。行き止まりまで歩くとそこでダンボールを下ろし、手摺りに手を掛けた。そこには見慣れた光景が拡がっていた。

 正面には役所の古い建物があった。それはわたしが入社した時から変わらぬ姿で建っていた。もっとも10年ほど前に一度、外壁の塗り替えていた。しかしその効果も長続きはしなかったらしい。すっかり古びた建物に似合いの煤けた色になっていた。その右隣は金融機関のビルだ。1〜3階がビル名になっている損保会社の店舗となっており、そこから上は保証会社や不動産金融会社、ファイナンス会社など関連業種の事務所が入居していた。茶色で窓の少ない外観は、いつかテレビで観たサバンナにある蟻塚を思わせた。中で軍隊蟻が警戒してるんじゃないか?と思わせるくらい排他的な印象の建物だ。

 左斜め前は雑居ビルだ。年がら年中、テナントが変わっており、会社名を覚えきれない。だが唯一、5階に入居する探偵社はずっと以前から変わらなかった。

 若い頃、それはまだ結婚する前のことだ、帰宅途中に寄った焼き鳥屋でその探偵社の所長と名乗る男と一緒になったことがある。初老の男は白粉を塗ったように顔が白く、表情が読み取れないほど顔に肉が無かった。

「変装し過ぎて自分の顔を無くしちまったのさ」

と男は嘯(うそぶ)いた。

「顔が変われば、なんだか別の人間になったみたいでな。嫌なことも全部忘れる。それがいいんだよ」

「なんか嫌なことあるんですか?」

「ん?こんな仕事してりゃあ、毎日嫌なことだらけだ」

「面白いのかと思った。他人の秘密を覗き見する訳でしょ?」

「秘密?秘密といえば聞こえはいいが、まあ秘密なんて程度のいいもんじゃあねえなあ。人間のアラだ。人間のアラぁ探すのがオレらの仕事さね。アラって奴ぁそりゃあ醜いもんだ」

「へえ・・・それが嫌なんですか。所詮、他人事じゃないんですか?」

「他人事?そりゃそうだがな、醜いものは見たくねえ。それが人情ってもんじゃねえか?」

「うーん、分からないな。醜いものたって、探偵さんが扱うものは酒を飲んで吐いたゲロじゃあなくって、形の無いものでしょ?」

「そう!それだ。ゲロ。いやあ、いい表現だ。まさにゲロなんだ。それをな、忘れられるんだよ。別の人間に変装した瞬間に、前の仕事で見た人間たちのゲロを綺麗さっぱり忘れちまえるんだよなあ」

「所長さん!勘弁してくれよ。他のお客さんが気持ち悪いってよ!」と店主が遮ったところで所長との会話は終わったと記憶している。

 ふいに風が吹いた気がした。振り向いたが、無風の空が拡がっているだけだ。空の下にはビルの屋上が碁盤の目のように広がっていた。容積率の関係でどのビルも同じ高さになってしまうのだ。そして道路の区画に沿ってそれらは規則正しく建っていた。

 それにしてもどれも古びた屋上だ。わたしが社会人になって初めてこの屋上に上がった時と、ビルの数はさして変わらない。ただ、それらが埃にまみれ、雨露による水染みが広がり、日光に晒されて塗装が禿げ上がり、色褪せた壁がそれらを必死に支えていた。

 屋上が形作る碁盤の目を見ていると、そこを三段跳びのように飛び越えて行けるような気がしてきた。どこまでも飛び越えて、会社という理不尽なから空間から解放されるのではないか?と思えてきた。ふと、もしや柴崎専務も同じように考えたのではあるまいか?という思いが湧き上がってきた。そして柴崎さんは人生の大部分を捧げた会社から、あっけなく去っていった。だが、去った先には何も無かったのかもしれない。理不尽な空間すら無かったのかもしれない。それはわたしも同じだ。

 手摺りから、下を覗いてみた。古びたビル群の下を走る中途半端な幅員の道路は、飲み屋街のそれのように始終汚れていたが、ここから見るとまるでおもちゃの道路のように、汚れたものは何一つ見えなかった。時折通る車が、道路脇に立ち並ぶ電柱の避けて蛇行していた。普段は歩行の邪魔に思えるそれも、ここからは面白く見えた。

「二人続けてなんて勘弁してくれよな」

ふいに背後から声を掛けられ、わたしはひどく動揺した。声の主は貴明社長だった。

「まったく会社を辞めてまで、なんで迷惑を掛けるのかねえ?」

嫌味を含んだ言葉だった。彼はいつもそうだ。自己主張と他人の否定以外、頭の中に無いらしい。それにしても通夜の日に、死人を貶(けな)すとは見下げたものだ。

「ふん!そんなに恨みがましい顔で見るなって。一言言っておくが、俺が殺したんじゃねえからな。柴崎は自分で勝手に死んだんだ。それも会社を辞めてもう何ヶ月だ?てっきりどこかの会社に再就職したものと思ってたよ。それがおい、びっくりさせるなって言うんだよ」

相変わらず自分の都合しか考えない物言いだった。わたしは怒りより落胆の思いに胸の内が占められた。

「まったく柴崎といい、お前といい会社の中を掻き回すだけ掻き回しておいて、やっと辞めてくれたかと思ったら、思い出したように会社に現れる。挙句の果てに恨みがましく自殺までしてみせてくれる・・・まったくどういうつもりなんだか理解出来ねえよ」

貴様などに理解出来る訳が無い、とわたしは喉元まで湧き上がった言葉を呑み込んだ。こいつになど言っても仕方の無いことなのだ。歳こそ六十を越えているが何の苦労も知らずに社長になり、仕事らしい仕事をしたことが無い。それが不況になった途端に社員の中に戦犯を見付けさんざんに責め立てる。その筆頭に名指しされたのが柴崎さんだった。そしてわたしか。だが、最後まで会社を改革しようと考えていたわたしたちが戦犯であろう筈も無かった。結局、わたしたちは戦犯というより、貴明の思い通りにならぬ人材に過ぎなかったのだ。

「いい加減なあ、好きにさせてくれよ。お前らがなあ、何十年にも渡って俺を馬鹿にしてなあ、仕事をぜーんぶ取り上げちまったもんだから、俺は何にもして来れなかった。それをな、お前らまるで俺が仕事してねえかのように言ってきただろ?いくらなんでも酷くねえか?」

それはお前が無能だったからだ、会社を守るためには仕方無かった、そう思ったが口には出さなかった。

「でよ、お前らが辞めて、何か会社が変わったか?困ることあったかよ?悪いが、お前らの高い給料が無くなったお陰で会社は大助かりなんだよ」

わたしは身体の血が逆流し始めるのを感じた。

「若い連中にな、ボーナスも出せそうなんだよ。お前らの給料浮いた分でな」

「いくらなんでも失礼でしょう!わたしはともかく、柴崎さんは今夜、通夜なんだ。これ以上、侮辱するな」

「分かってらあ、そんなこと!だがな、お前らは何十年に渡ってそうやって俺を侮辱してきたんだ」

侮辱?侮辱してきたのは貴様の方だろ!この会社を守ってきたのは誰だと思っている?わたしたち社員じゃないか!

 心の中でそう叫んだ時、つい先ほどの光景が目の前に現れた。

『迷惑なんですよ』

わたしが信頼してきた部下達の言葉だ。

『社長を追い出して自分が社長になりたいだけでしょう?』

そんなつもりは毛頭無かった。

『俺たちを巻き込むなよ』

わたしはみんなの為には、貴明は正しくないと思ったからそうしてきたのに・・・・

「若い連中はみんな俺の言うことを聞いてくれる」

勝ち誇ったように貴明が言った。

「さっき、お前が企画部にいた時、俺は階段の影で聞いていた。ふふふ、いくら鈍感なお前だって分かっただろ。迷惑なんだよ。柴崎とお前が迷惑だったんだだよ、若い連中にとってはな」

青い空が揺らめいたように見えた。

「これから若い連中と一緒に会社を立て直すんだ。だから、な、北原よ、お前もう二度と顔を出さないでくれ」

貴明ではなく、わたしの部下たちが言っている聞こえた。正確には、わたしの元・部下たち。彼らが貴明の口を借りてわたしにそう宣告したのだ。

 わたしは重要なことに気付いた。わたしは貴明から追放されたのでは無かった。部下や、同僚、先輩社員らで形作っている会社という世界から捨てられたのだ。

 もしかしたら柴崎さんは、わたしより一足早くそれと気付いたのかもしれない。真面目で一本気な柴崎には絶えられなかったのかもしれない。わたしはと言えば・・・わたしはどうなのだ?自問してみたが答えは返って来なかった。

「おい、もういいだろ。そろそろ下に行って帰ってくれ」

貴明はそう言ってから、わたしが抱える2つのダンボール箱を睨み付けた。

「そんなもの持ってどこへ行く気なんだ」

と吐き捨てた。それから

「しょうがねえ、最後の親切だ」

と言うと内ポケットからメモ帳を出し

「ここへ送り先を書け。総務の人間に送らせてやる」

と言った。

 しばらく、わたしは考えあぐねた。送ってもらうといっても、送ってもらう場所が無いのだ。

「早くしてくれよ」

と貴明にせっつかれ、結果的にわたしが書いたのは実家の住所だった。誰もいないが、角の家の婆さんが受け取ってくれるだろう。

 それからわたしはマジックで「上着類」と書かれたダンボールを開け、礼服を引っ張りだした。封をする間もなく貴明がそれらを抱え上げた。

「もう顔を見せないでくれ」

それが貴明の最後の言葉だった。同時に、この会社の人間がわたしにくれた最後の言葉と言って良かった。


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「はっ!」

 息が止まったように思えたのだ。続けてわたしは、慌しく深呼吸した。ぜいぜい、と音を立てながらの呼吸に、一つ向こうの席の女性が嫌な顔をした。

 しばらく呼吸を整えると。ここが新幹線の中だと理解できた。上田までは、この三人掛けの椅子にはわたししか座っていなかったが、どこかの駅で女性が座ったらしい。一つ置いた向こう側、通路側の席に腰掛けていた。車窓の外を見ると広い平地が広がっていた。どうやら眠っている間に群馬を通り過ぎたらしい。景色からすると埼玉県に入っっていた。

 なんという夢だったのだろう?まったく夢と言うのは時に突拍子も無い妄想を作り出す。昨日、今日と続けて父と由紀を見舞いに行き、いずれも満足に会えなかった。そのせいだろう、由紀と父が不気味な形で夢に現れた。

「失礼」

 通路側に座る女性に声を掛け、わたしは席を立った。女性は露骨に顔を顰めてみせたが、致し方ない。昼の日中から新幹線の中で転寝するのは良いとして、魘(うな)されて目覚めるのはいただけない。わたしはなるべく女性に触れないよう気を付けながら通路に出た。

 取り合えず洗面台に行き、水で顔を洗った。上気しているのは暖房のせいばかりではない。酷い目に苦しめられた後だ。それもこれも環境の変化がもたらしたものだろう。何しろ、会社の解雇と家庭の解雇、離婚が同時に訪れたのだから。びしょ濡れになった顔が鏡に映っていた。

「なんて顔してるんだ」

濡れ鼠とはこういう顔をしてるのだろう、そう思えるくらい惨めな顔をしていた。

 これが、ほんの数日前まで会社を背負っているなどと思い込んで奔走していたというのだから、お笑い種だ。それも家庭も顧みずに。時代錯誤もいいことに、妻も娘も理解してくれていると信じていたのだ。その結果がこの様だ。会社からは解雇され、妻と娘からは見放された。

 わたしは鏡の中のわたしに向かって嘲笑を浮かべた。鏡の中の情け無い男の顔も歪んだ。それは笑いというより、蔑み。誰を?自分自身を蔑んでいるのだ。

 ほんの数日で、男の顔をいうものはこんなにも変わってしまうものなのか?まるで世を妬んで生きているクズのような男じゃないか。しかしこれがわたしの本当の顔なのだ。そう思うと勘違いも悪くはない。少なくとも数日前のわたしは生き生きとした顔をしていた。そもそも勘違い無しに生きている人間などどれだけいるというのか?皆、自分が作った幻想の中で、日々自分を正当化しながら生きているだけじゃないか?

 幻想を抱いたまま、老いて行くのが一番幸せなことかもしれない。わたしは事実に気付いた今、自分の身の置き所が分からなくなった。自分が何者でも無いことに気付いてしまった。会社はわたしを必要としてはおらず、また妻もわたしを必要としてはいなかった。

 鏡を見て、わたしは納得した。当然と言えば当然のことだ。こんな惨めな顔の男など、誰も必要としないに違いない。

 そしてサラリーマンの場合、そうした精神的な問題だけでは終わらないのだ。酷く物理的な問題、物理的といえば聞こえはいいが、要するに衣食住だ。わたしはこれからどこに住むのか?そして食べたり、服を買ったりするための金をどうするか?そんな問題を解決しないことには、これから先、生きていくことさえ出来ない。

「失礼」

再び、通路側に座る女性に声を掛けると、わたしは一番窓側の席に腰を降ろした。車窓を見るのが癖になってしまったらしい。洗面所に行っている間に随分と外は暗くなっていた。まだそれほど遅い時間ではないのに、冬の只中は夕闇の訪れが早い。窓ガラスが浅い夕闇を背に、うっすらとわたしの顔を映し出していた。わたしは目を背け、両手の平で顔を覆った。つい先ほど洗面所で十二分のその顔を拝んできたばかりなのだ。また同じように黒い気持ちを繰り返したくは無かった。

 手の平の中で目を瞑ると、何かが薄っすらと浮かび上がった。目を凝らしてみたが、それが何かは分からなかった。その時ふいに耳元で声がした。

『健介さん』

それは角の婆さんの声だった。耳から目へと注意を戻すと、そこに見えたのは父の顔だ。いや、先ほど嫌というほど見た顔だ。なんと瓜二つじゃないか。それはその筈だ。わたしはこの北原健介の息子なのだから。

『父と同じく、惨めな人生が待っているというのか?』

わたしは耳元に聞こえた婆さんの声に問うた。しかし婆さんは何も答えてはくれなかった。

ピピピピッ

という電子音が響いた。通路側の女性がまた嫌な顔をした。わたしはポケットから携帯電話を取り出した。メールだった。案の定、大森からの返信だった。

[あなたは誰でしょう?]

文面にはそれだけが書かれていた。意味が分からず、しかし怒りが込み上げてきた。退社した途端、こういう態度に出るのだろうか?

「失礼」

とまた通路側の女性に声を掛け、デッキに出た。女性は「また?」と今度は口に出して不快感を露にした。しかしわたしはそんなことに構う気にはなれなかった。

 携帯で総務課の直通番号を押した。すぐに

「もしもし」

という小島という女子社員の声がした。まだ入って一年目の社員だ。わたしは特に内容も告げず、大森を出すように言った。小島は

「分かりました」

とだけ言い、受話器を離した。受話器の向こうで大森を呼ぶ声が聞こえる。相手を待たせる時は保留ボタンを押すようにと、何度も言われている筈だが、どうしても覚えられないらしい。しばらく待たされた後、受話器に戻った彼女は

「大森はただ今、打ち合わせ中ですが」

と答えた。そう答えることは分かっていた。受話器の向こうで大森が「打ち合わせ中とでも言っといてくれ」と叫んでいるのが聞こえていた。怒りと落胆が同時に全身を包み、身体中が熱くなるのを抑えられなかった。

 数日前まで、大森はわたしを慕っていた筈だった。しかしそれはわたしの勝手な思い込みだったらしい。単なる上司に対するおべっかをそう思い込んでいたに過ぎない。わたしは大森に対し憤りを憶えた。

 しかし、そうとばかりも考えていられない。取り合えず今夜の通夜に行く準備が必要なのだ。

 わたしは気を取り直し、関口の携帯番号を押した。

「はい、もしもし」

くぐもった声が聞こえた。

「今、大丈夫かな?」

と訊ねると

「あ、ちょっと待って下さい」

と答えてから何かが擦れる音がした。移動してるらしい。

「済みません。お待たせしました。今、会議中だったもので」

わたしは関口にわたしの荷物のことを話した。妻から会社宛に送られているであろうこと、次の落ち着き先が決まるまで預かっていて欲しいこと、取り合えず今日は礼服だけを取りに行きたいこと、などだ。関口が電話の向こうで、その都度頷いているのが分かった。

「分かりました。今日は何時ごろ来られるのですか?」

「そうだな。3時半といえば良いんじゃないかな」

「了解しました」

関口は事務的な口調で電話を切った。 

「うえのー、うえのー、どちら様もお忘れ物の無いよう・・・・」

アナウンスの声でわたしは我に返った。慌てて頭の上の棚から荷物を引っ張り出すと、立ち上がった。

「失礼」

とまた、通路側に座る女性に声を掛けたが、女性は横を向いたままわたしと目を会わそうともしなかった。わたしは大き目のバッグを肩に担ぎ、コートを手に抱えてデッキに向かった。

 地下三階のホームは静まり返っていた。降りたのもわたしと他、数名だけだった。わたし以外の客は皆、上階へ向かうエスカレータに乗り込んだ。だが、わたしはこの地価ホームの高い天井を長い間見上げていた。

『間違えた・・・』

東京駅で降りる筈が、慌てていたらしい。寝起きで判断力が鈍っていたのかもしれない。もっとも東銀座にある会社までは、この上野駅からでも東京からでもそう変わらない。わたしは気を取り直しエスカレータに乗り込んだ。

 いつ出来たのだろう?と思った。随分と長く急な傾斜だった。一本目が終わり、また次のに乗り換えた。今度も長く傾斜がきつい。ここは地下三階と言っても、深度は相当なものに違いない。以前はこんな感じじゃあ無かった。1階のホームに乗り付け、降り口から真っ直ぐ歩くと中央改札口だった。

 三本目のエレベーターを降りると、壁際に売店の並ぶ通路を折り返すように歩いた。右斜めの方向に中央改札口が見えた。ふと、右手を見ると地上階のホームが並んでいた。

『そうそう、昔はここへ乗り付けたんだ。ここからだとほら、すぐ出口・・・』

そこは一般車両のホームだった。そこに乗り付けたとすれば、まだ長野新幹線が通る前で、信越線の時代だろう。となると高校を卒業し、大学に入るために上京した時だ。そして、夏や冬に帰省する際にも何度も乗った筈だ。

 しかし、わたしにはいつそれに乗ってきたのか?という記憶が無かった。まだ長野新幹線が出来て10年足らずだから、それまでは何度となく乗ったに違いなのに。呆然と、地上階のホームを見詰めた。

『頭が呆けたかな?』

40を過ぎると記憶力が途端に落ちる、と誰かが言っていた。きっとそのせいだろう。或いは、ここ数日続く頭痛のせいかもしれない。

 山手線有楽町に出て、そこから歩いた。少し距離はあるが一本道だ。だが、会社の前に着いて時計を見ると4時を少し回っていた。関口に約束したのは3時半だった。

 もっとも30分ばかりの遅刻だから、関口もそう困るまいと思いながらエレベータに乗った。ほんの数日前までわたしの席があった4階に向かったのだった。扉が開くと目の前にドアがあった。ドアには変わらず「企画部」の札が掛かっていた。

 わたしはドアを開けた。同時に

「よう、久しぶり。ははは、まだ三日ぶりか」

とおどけてみせた。20名ばかりの企画部の皆が、いつものように笑いを返してくれる。そう思ったのに、わたしの声を聞いている者は誰もいなかった。

 皆、電話に出たり、打合せをしたり、書類に目を通したりと、自分の業務から目を離す様子は無かった。正確に言うとわたしに感(かま)けている暇は誰にも無いようだった。

 それでもわたしは

「ああ!悪いが、関口はいるかな?」

と声を掛けた。だが誰も返事はしてくれない。

「おい、佐藤。関口はどこかな?」

佐藤はチラとわたしの顔を見るとすぐさま視線を机に落とし、無言で受話器を取った。内線を掛けているところを見るとどうやら社内にいる関口に連絡しているらしい。

佐藤は

「ああ、今来るそうです」

とわたしに視線を向けずに告げた。

 居所の無い空気がわたしの周りを支配していた。オフィスの誰もが、まるでわたしがいないかのように振舞っていた。かつて、この階の主であったわたしの言葉に、皆が注目してくれた。かつてといってもほんの数日前のことだ。冗談の好きなわたしが、それを言うと皆が笑ってくれたのだ。だが、それらがまるで嘘だったかのように思えてきた。

 なにより、わたしを無視して仕事を続けているのかと思いきや、彼ら同士で時に冗談を言い合ったりして笑っていた。目の前にわたしがいるというのに、その笑いはまるでわたしに聞こえないというように、無遠慮なものだった。

「ああ、北原さん」

関口が階段口から現れた。一つ上の階から降りてきたらしい。

「済みません。お待たせして」

「また会議か?」

わたしはたった今、関口が現れた階段口を顎で指し、顔を歪めて笑った。こういう笑いを嘲笑というのだろう、と自分ながらに思った。

 関口は一瞬、困ったように顔を強張らせると話を変えるように自分の席を指差した。

「荷物、届いてますよ」

「今、お持ちします」と言いながら自分の席に向かった。関口が進む先の数人が無言で関口に視線を送ったように見えた。そして関口は歩きながら小さく首を左右に振ったようにも見えた。

 わたしの目の前で関口は、自分の机の向こうにしゃがみ込み、それから立ち上がった。りんご箱大のダンボール箱を一つ、机の上に置いた。それから同じようにしゃがみ込み、もう一つ。どうやらわたしの荷物はその二つだけらしい。関口はそれを縦に積むと両手で持ち上げた。当然、段ボール箱に視界を遮られ進行方向がまともに見えない。だが段ボール箱の脇から覗き込むようにして関口はこちらへ進んできた。その間、何人もの背中を通り抜けて。関口に背中を向けた誰もがそれを手伝おうとしなかった。見て見ぬふりをしていると言って間違いなかった。そしてそれは関口に対してではなく、わたしに対する悪意と予想できた。

「お待たせしました」

関口の声はわたしには聞こえなかった。わたしは他の社員たちの仕打ちに身体中の血が頭に登っていたのだ。

 彼らが元々、わたしと敵対関係にあったというなら、わたしも腹を立てたりなどしない。しかし、ほんの数日前、わたしがここを去る前は、彼らはわたしを慕っていたのではなかった?それらは全て嘘だったというのか。

 わたしは目を瞑り、数日前の企画部の光景を思い出していた。朝、わたしが声を掛けると誰もが「おはようございます」と答えてくれた。士気を上げるために冗談を言うわたしに皆が笑って、、、資料を探していると「手伝いましょうか?」と声を掛けてくれて、、、貴明社長の不甲斐なさや無能さ、不真面目さを嘆いていると、誰もが同調してくれた、、、それらが嘘だったというのか?

 わたしの表情から関口はそれと気付いたらしい。

「あ、北原さん。下の階の応接で確認しましょう」

関口らしい心遣いだった。わたしは今にも企画部の彼らに対し怒鳴り散らしたい気分だったのだ。

「さ、北原さん」

という関口の言葉に頷きながらも、わたしは我慢ならなかった。振り向きざま、

「まったく冷たい連中だ・・・」

と、つい恨み言を口走った。隣りで関口が目を閉じたのが見えた。

 企画部の室内が異様に静まり返ったのが背中から伝わってきた。

「辞めた後まで会社に迷惑掛けんなよ!」

佐藤の声だ。関口が小さく「佐藤」と名を呼び制した。

「個人的な荷物だろ?なんで辞めた会社に送り付けてくるんだよ?」

「やめろ、佐藤!」

「いつまで会社に甘えてんだよ?」

「だからやめろって佐藤!」

関口が制したが佐藤は収まらなかった。まるで不良少年のような暴力的な視線をわたしに向けてきた。

「これ以上、迷惑掛けないで下さい」

突然、黄色い声がした。声の方を見ると留美子だった。留美子の視線は、嫌悪に満ちているように見えた。

わたしを歳の離れた兄のように慕ってくれていた筈だった。何度か、飲み会の後に腕にしがみ付いてきたことがある。恋人と長続きしない性質らしい。危うく男女の仲になりそうになったことさえあった。その彼女が今、汚物に対するように、吐き捨てた。

「部長のお陰で企画部は社長から目を付けられてるんです」

留美子の言葉に同調する者がいた。

「そうだ。まるで俺らまで社長の悪口言ってたみたいに思われてるよ」

「たまんねーよな!」という声が聞こえた。わたしはその声の主が誰であるか確認しようとは思わなかった。既に頭の中が混乱していた。

「あんたがさあ!一人で社長の悪口言ってたんだろ!『そう思うだろ!』なんて強要するから、仕方なく頷いただけだのによ!」

強要?意外な言葉だった。わたしはそんなことをしたつもりは無い。

「おい、お前!」

声の主は木下だった。

「お前、じゃあな。あの貴明の馬鹿が社長でこの会社がやっていけると思うってのか?」

関口が「北原さん!」と言ってわたしを制したが、わたしは収まらなかった。

「やっていけっこねえだろ!」

わたしの声に全員が言葉を失った。彼らはわたしの正論に反論できない、そう思ったのだ。しかし、後になって考えてみると、わたしは何も見えていなかったのだ。

 突然、わたしの思いも寄らぬ声が上がった。

「社長なんて関係ねえよ」

声の方を見ると山本だった。別の方から笑い声が聞こえた。高村だ。

「ほんっと。俺たち社長なんて話したこともねえもの。知らねえよな」

高村は細身の身体を伸ばし、わたしを見下ろすように続けた。

「馬鹿社長だかなんだか知らねえけど、俺たちはその人から給料もらってるんだからよ。あんたじゃねえんだよ。それにどんなに馬鹿だって、ほとんど会ったこともねえし、話したこともねえんだから関係ねえよ。俺たちは自分の仕事をするだけだって」

高村の言葉が終わる前に方々から声が上がった。

「そう、そう、あんた僕らに『今の社長じゃ会社が潰れる』って何度も言ったけど、僕らにどうしろって言うんですか?一緒になって社長の悪口言えば良かったんですか?そんなことしてる暇ありませんよ。僕らは会社に仕事をしに来て、それで給料を貰ってるんだ。人の悪口なんて言ってる暇無いんですよ」

「あたしたちがさ、会社変えられる訳?あたしたちが『社長を替えて欲しい』って言えば変わるの?」

「結局のところ部長、あなた社長を追い出して自分が社長になろうと思ってたとか?それで私たちを利用しようとしてたんじゃ無いですか?」

わたしにとっては信じがたい光景だった。数日前まで皆、わたしに同調してくれたのは、真っ赤な嘘だったというのだろうか。

 わたしは我慢できず、彼らに向かって叫んでいた。

「ちょっと待ってくれ」

今日初めて、彼らはわたしの顔を見てくれた。わたしは少し安堵した。ようやく話を聞いてもらえる気がした。

「わたしが自分の出世の為に君たちを利用するなんてことある訳ないだろう?」

皆それを分かってくれる筈だ、という確信があった。わたしは彼らのためにこそ貴明と戦って来たのだから。

「冷静に考えてくれ。君らだって会社がいずれ倒産してしまっては困るだろう。それには今の社長では、貴明では駄目なんだ」

沈黙が流れた。皆がわたしの言葉を咀嚼しているように見えた。受け止めてくれさえすれば分かってくれる筈だ、とわたしは思った。

 しかし、ふいに笑い声が聞こえた。それは小さい笑いだった。しかし、時とともに笑いは渦となってそこにいるほぼ全員が笑いに同調し始めた。

「この人ぜんぜん分かってねえよ」

誰かが言った。

「人の話聞いてんのかね?」

別の誰かが言った。

 再び留美子の声がした。振り向くと留美子は怒りの表情でわたしを睨み付けていた。

「みんな知ってるんですよ」

留美子の口調は驚くほど厳しかった。わたしは首を傾げた。正直、彼女の言っている意味が分からなかったのだ。

「私たちがみんな社長を嫌ってるって言ったんでしょ?常務や副社長にそうやって言ったんでしょ?取引先にまで行ってそう言ったんでしょ?それって卑怯じゃないですか?」

「え?卑怯?」

「そうでしょ?なんで私たちのせいにするんですか?社長を嫌いなのは部長でしょ?」

反論する言葉が無かった。

「へへへ、ネタは上がってるんだぜ」

「ああ、常務も『北原には困ったもんだ』って言ってた。ほんと困ったよ。社長がさ、企画部は全員解雇だ!って言ってきた時には」

「部長あんた責任も取れないくせしてデカイことばっかり言うもんじゃねえよ」

「結局、負けて出て行くんだから、これ以上、俺らを巻き込むなよな」

わたしは関口からダンボール箱を譲り受けるとエレベータの乗り口へ向かった。

「ったく、喧嘩して辞めた会社へ荷物送ってくるなんてどういう神経してんだよ!」

そういう罵声が浴びせられたが、今更反論する言葉も見付からなかった。もはやわたしはこの会社とは関係の無い人間になったのだから。

 エレベータが開き、中へ乗り込むと壁にダンボールを押し付けて片手を開け、ボタンに指を向けた。初め「1F」と押そうと思ったが、思い直して逆に「R」を押した。

 屋上でエレベータを降りると、そのまま正面に歩いた。行き止まりまで歩くとそこでダンボールを下ろし、手摺りに手を掛けた。そこには見慣れた光景が拡がっていた。

 正面には役所の古い建物があった。それはわたしが入社した時から変わらぬ姿で建っていた。もっとも10年ほど前に一度、外壁の塗り替えていた。しかしその効果も長続きはしなかったらしい。すっかり古びた建物に似合いの煤けた色になっていた。その右隣は金融機関のビルだ。1〜3階がビル名になっている損保会社の店舗となっており、そこから上は保証会社や不動産金融会社、ファイナンス会社など関連業種の事務所が入居していた。茶色で窓の少ない外観は、いつかテレビで観たサバンナにある蟻塚を思わせた。中で軍隊蟻が警戒してるんじゃないか?と思わせるくらい排他的な印象の建物だ。

 左斜め前は雑居ビルだ。年がら年中、テナントが変わっており、会社名を覚えきれない。だが唯一、5階に入居する探偵社はずっと以前から変わらなかった。

 若い頃、それはまだ結婚する前のことだ、帰宅途中に寄った焼き鳥屋でその探偵社の所長と名乗る男と一緒になったことがある。初老の男は白粉を塗ったように顔が白く、表情が読み取れないほど顔に肉が無かった。

「変装し過ぎて自分の顔を無くしちまったのさ」

と男は嘯(うそぶ)いた。

「顔が変われば、なんだか別の人間になったみたいでな。嫌なことも全部忘れる。それがいいんだよ」

「なんか嫌なことあるんですか?」

「ん?こんな仕事してりゃあ、毎日嫌なことだらけだ」

「面白いのかと思った。他人の秘密を覗き見する訳でしょ?」

「秘密?秘密といえば聞こえはいいが、まあ秘密なんて程度のいいもんじゃあねえなあ。人間のアラだ。人間のアラぁ探すのがオレらの仕事さね。アラって奴ぁそりゃあ醜いもんだ」

「へえ・・・それが嫌なんですか。所詮、他人事じゃないんですか?」

「他人事?そりゃそうだがな、醜いものは見たくねえ。それが人情ってもんじゃねえか?」

「うーん、分からないな。醜いものたって、探偵さんが扱うものは酒を飲んで吐いたゲロじゃあなくって、形の無いものでしょ?」

「そう!それだ。ゲロ。いやあ、いい表現だ。まさにゲロなんだ。それをな、忘れられるんだよ。別の人間に変装した瞬間に、前の仕事で見た人間たちのゲロを綺麗さっぱり忘れちまえるんだよなあ」

「所長さん!勘弁してくれよ。他のお客さんが気持ち悪いってよ!」と店主が遮ったところで所長との会話は終わったと記憶している。

 ふいに風が吹いた気がした。振り向いたが、無風の空が拡がっているだけだ。空の下にはビルの屋上が碁盤の目のように広がっていた。容積率の関係でどのビルも同じ高さになってしまうのだ。そして道路の区画に沿ってそれらは規則正しく建っていた。

 それにしてもどれも古びた屋上だ。わたしが社会人になって初めてこの屋上に上がった時と、ビルの数はさして変わらない。ただ、それらが埃にまみれ、雨露による水染みが広がり、日光に晒されて塗装が禿げ上がり、色褪せた壁がそれらを必死に支えていた。

 屋上が形作る碁盤の目を見ていると、そこを三段跳びのように飛び越えて行けるような気がしてきた。どこまでも飛び越えて、会社という理不尽なから空間から解放されるのではないか?と思えてきた。ふと、もしや柴崎専務も同じように考えたのではあるまいか?という思いが湧き上がってきた。そして柴崎さんは人生の大部分を捧げた会社から、あっけなく去っていった。だが、去った先には何も無かったのかもしれない。理不尽な空間すら無かったのかもしれない。それはわたしも同じだ。

 手摺りから、下を覗いてみた。古びたビル群の下を走る中途半端な幅員の道路は、飲み屋街のそれのように始終汚れていたが、ここから見るとまるでおもちゃの道路のように、汚れたものは何一つ見えなかった。時折通る車が、道路脇に立ち並ぶ電柱の避けて蛇行していた。普段は歩行の邪魔に思えるそれも、ここからは面白く見えた。

「二人続けてなんて勘弁してくれよな」

ふいに背後から声を掛けられ、わたしはひどく動揺した。声の主は貴明社長だった。

「まったく会社を辞めてまで、なんで迷惑を掛けるのかねえ?」

嫌味を含んだ言葉だった。彼はいつもそうだ。自己主張と他人の否定以外、頭の中に無いらしい。それにしても通夜の日に、死人を貶(けな)すとは見下げたものだ。

「ふん!そんなに恨みがましい顔で見るなって。一言言っておくが、俺が殺したんじゃねえからな。柴崎は自分で勝手に死んだんだ。それも会社を辞めてもう何ヶ月だ?てっきりどこかの会社に再就職したものと思ってたよ。それがおい、びっくりさせるなって言うんだよ」

相変わらず自分の都合しか考えない物言いだった。わたしは怒りより落胆の思いに胸の内が占められた。

「まったく柴崎といい、お前といい会社の中を掻き回すだけ掻き回しておいて、やっと辞めてくれたかと思ったら、思い出したように会社に現れる。挙句の果てに恨みがましく自殺までしてみせてくれる・・・まったくどういうつもりなんだか理解出来ねえよ」

貴様などに理解出来る訳が無い、とわたしは喉元まで湧き上がった言葉を呑み込んだ。こいつになど言っても仕方の無いことなのだ。歳こそ六十を越えているが何の苦労も知らずに社長になり、仕事らしい仕事をしたことが無い。それが不況になった途端に社員の中に戦犯を見付けさんざんに責め立てる。その筆頭に名指しされたのが柴崎さんだった。そしてわたしか。だが、最後まで会社を改革しようと考えていたわたしたちが戦犯であろう筈も無かった。結局、わたしたちは戦犯というより、貴明の思い通りにならぬ人材に過ぎなかったのだ。

「いい加減なあ、好きにさせてくれよ。お前らがなあ、何十年にも渡って俺を馬鹿にしてなあ、仕事をぜーんぶ取り上げちまったもんだから、俺は何にもして来れなかった。それをな、お前らまるで俺が仕事してねえかのように言ってきただろ?いくらなんでも酷くねえか?」

それはお前が無能だったからだ、会社を守るためには仕方無かった、そう思ったが口には出さなかった。

「でよ、お前らが辞めて、何か会社が変わったか?困ることあったかよ?悪いが、お前らの高い給料が無くなったお陰で会社は大助かりなんだよ」

わたしは身体の血が逆流し始めるのを感じた。

「若い連中にな、ボーナスも出せそうなんだよ。お前らの給料浮いた分でな」

「いくらなんでも失礼でしょう!わたしはともかく、柴崎さんは今夜、通夜なんだ。これ以上、侮辱するな」

「分かってらあ、そんなこと!だがな、お前らは何十年に渡ってそうやって俺を侮辱してきたんだ」

侮辱?侮辱してきたのは貴様の方だろ!この会社を守ってきたのは誰だと思っている?わたしたち社員じゃないか!

 心の中でそう叫んだ時、つい先ほどの光景が目の前に現れた。

『迷惑なんですよ』

わたしが信頼してきた部下達の言葉だ。

『社長を追い出して自分が社長になりたいだけでしょう?』

そんなつもりは毛頭無かった。

『俺たちを巻き込むなよ』

わたしはみんなの為には、貴明は正しくないと思ったからそうしてきたのに・・・・

「若い連中はみんな俺の言うことを聞いてくれる」

勝ち誇ったように貴明が言った。

「さっき、お前が企画部にいた時、俺は階段の影で聞いていた。ふふふ、いくら鈍感なお前だって分かっただろ。迷惑なんだよ。柴崎とお前が迷惑だったんだだよ、若い連中にとってはな」

青い空が揺らめいたように見えた。

「これから若い連中と一緒に会社を立て直すんだ。だから、な、北原よ、お前もう二度と顔を出さないでくれ」

貴明ではなく、わたしの部下たちが言っている聞こえた。正確には、わたしの元・部下たち。彼らが貴明の口を借りてわたしにそう宣告したのだ。

 わたしは重要なことに気付いた。わたしは貴明から追放されたのでは無かった。部下や、同僚、先輩社員らで形作っている会社という世界から捨てられたのだ。

 もしかしたら柴崎さんは、わたしより一足早くそれと気付いたのかもしれない。真面目で一本気な柴崎には絶えられなかったのかもしれない。わたしはと言えば・・・わたしはどうなのだ?自問してみたが答えは返って来なかった。

「おい、もういいだろ。そろそろ下に行って帰ってくれ」

貴明はそう言ってから、わたしが抱える2つのダンボール箱を睨み付けた。

「そんなもの持ってどこへ行く気なんだ」

と吐き捨てた。それから

「しょうがねえ、最後の親切だ」

と言うと内ポケットからメモ帳を出し

「ここへ送り先を書け。総務の人間に送らせてやる」

と言った。

 しばらく、わたしは考えあぐねた。送ってもらうといっても、送ってもらう場所が無いのだ。

「早くしてくれよ」

と貴明にせっつかれ、結果的にわたしが書いたのは実家の住所だった。誰もいないが、角の家の婆さんが受け取ってくれるだろう。

 それからわたしはマジックで「上着類」と書かれたダンボールを開け、礼服を引っ張りだした。封をする間もなく貴明がそれらを抱え上げた。

「もう顔を見せないでくれ」

それが貴明の最後の言葉だった。同時に、この会社の人間がわたしにくれた最後の言葉と言って良かった。


=おすすめブログ=

「知ってトクする保険の知識」連載中

2010-12-03 りふれいん-49-

[]

 「はい、北原由紀さんですね・・・・ご面会、ですか。お兄様、ですね。ええ、っと。少々お待ち下さい」

昨日と同じ受付嬢だった。同じようにパソコンの画面を目で追っていた。

 昨日、父への面会を申し込んだ時は、まるでわたしがとんでも勘違いをしているとでもいうように冷たい対応だった。父など初めからそこに居ないと決め付けているかのような態度に腹が立ったものだ。しかし今日は、どうやら真剣に探しているようだった。

 ほどなくして彼女の表情に変化があった。由紀の名を発見したらしい。安堵した表情が見られた。しかしその直後、わたしは首を傾げた。一瞬だが、彼女の表情が戸惑うように歪んで見えたのだ。

「どうかしましたか?」と問うわたしの言葉を遮るように

「お座りになってお待ち下さい」

と受付嬢は視線でロビーの長椅子を指し示した。

『昨日といい今日といい、訳が分からないな』

わたしは独り言を呟きながら、言われるまま長椅子に腰を下ろした。受付を見ると、受付嬢はまるでわたしの話を忘れてしまった、とでもいうように次の客に応対していた。

『客を無視するとはまったく失礼な接客態度だ。田舎の病院は殿様商売なのだな』

わたしは一人溜息を付き、あたりを見回した。きっとかなり待たされるに違いないと思ったから、時間を潰すために雑誌でも読もうと思ったのだ。だが、広い待合室のどこにも雑誌らしいものは無かった。よく見ると、これだけ広い待合室だというのに、患者らしい客は少なかった。見舞い客と思われる人々の姿が見られたが、皆、まるで他人に顔を見られまいとするように節目がちにしていた。身を固くしているように見える者もいた。つまり気楽に雑誌など読む雰囲気では無かった。

『なんなんだ?』

わたしは自分が来る場所を間違えているように思えてきた。確認するように受付を見詰めた。だが、たしかに受付嬢は「お待ち下さい」と言った。ということは由紀はここにいるのは間違いない。

 いろいろ想像してみたが、そんなことをしたところで始まらない。わたしは別のもので気を紛らわすことにした。そしてボストンバッグの中を探ってみた。妻が詰めてくれた着替えと歯磨き。まるで出張の用意のようだ。いつもと変わらぬ日常がそこにあるような気がした。しかしその奥に茶色い封筒が潜んでいた。取り出して見ると、退社に伴う社会保険関係の手続き書類。これが今のわたしにとっての現実。真実の姿だ。目を瞑ると自然と溜息が漏れた。これからどう生きて行けばよいのか?あるいは、生きていく価値があるのだろうか?ふとそんな思いが心に浮かんだ時、柴崎専務の姿が頭をよぎった。

 柴崎専務は、以前と変わらず細身で、いつものように地味な背広を着、苦悩が眉間の間の皺となっていた。先代社長が死んで以来、彼が一人で苦悩を背負い込んできたのだ。髪が乱れていた。風が吹いているのだ。生暖かい風。東京は既に春の風が吹いているのだろうか?丘の上に一人立ち竦んでいるようにも見えた。吹きさらしの風の中で、乱れた髪を撫で付けようともせず、専務は佇んでいた。ふいに太陽を見た気がした。専務は、斜めに顔を上げると僅かに微笑んだ。ふいに動き出した。ゆっくりと真正面に向かって歩き出した。微笑みは消えていない。時折、視線がわずかだが左右や上下に動くのは、その辺りに過去の思い出が見え隠れするせいかもしれない。ゆっくりと歩いていた専務は、突然落とし穴でも掘ってあった、とでもいうように下方に消え去った。その落とし穴を見落としたのか、それとも、そこから先には歩くべき道など無かったことに気付かなかったのか。上から覗き込んだわたしに見えたのは、血溜まりの上に横たわる専務の遺体だった。

「北原さん!」

受付嬢の甲高い声に、わたしは我に返った。慌ててバッグを担ぎ、受付に向かった。

「では石田先生の診察室までどうぞ」

「診察室?」

わたしの問いに受付嬢は答えようとしなかった。

「済みません、わたしは妹の見舞いに来ているのです。なんで診察室になんか・・・」

「申し訳ありません。担当医の石田からそのように連絡がありましたので。指示に従うようお願い致します」

「指示って・・・」

わたしの言葉を他所に、受付嬢は次の待ち客の名前を呼び上げた。

 受付嬢から渡された配置図を元に、病院の廊下を進んだ。増築を繰り返したらしく廊下や階段が入り組み、まるで迷路のようだ。床に目的別の行き先を伝えるカラーテープが貼ってなければ迷ってしまうところだ。わたしが向かう先は緑のテープに沿っていくという。五度目の曲がり角で

「石田診察室」

という小さな表札が見えた。

 幸い、順番待ちの患者は誰もいないらしい。廊下に置かれた長椅子には誰も座っていなかった。わたしは少々躊躇いながら診察室のドアノブに手を掛けた。考えるほどに首を傾げてしまう。見舞いに来た者が診察室に呼ばれるなど聞いたことがない。あるいは昨日、救急車で運ばれた新生病院から何かしらの連絡でも入ったのだろうか?しかしそれではわたしがここへ来ることを何故知っているのだ?という疑問が残る。婆さんが病院に話したのだろうか?いいや、婆さんは昔から他人にいらぬ節介をすることを嫌っていた。では何故だ?

 ノブを握る手に力を入れたつもりは無かったが、ドアがゆっくりと開いた。開いた隙間から覗く狭い診察室には、中年の医師が座っていた。壁に向かって設置された机に向かい、なにか調べものをしているようだ。何枚ものカルテを繰っていた。

「よろしいですか?」

そうわたしが声を掛けると医師はゆっくりこちらを振り向いた。

「石田先生でしょうか?受付でこちらへ行けと言われまして」

「はあ、お名前は?」

医師は気の抜けた声を出した。先ほどまで繰っていたカルテが気になるらしい。しかし、わたしが

「北原と言います」

と名を告げると表情に変化が現れた。

「北原さんですか」

満足気な声すら上げた。

石田医師はわたしに

「よく来て下さった」

と言った。わたしにはその意味がよく分からなかった。まるでわたしを以前から知っているような口振りだ。わたしは注意深く医師の顔を観察してみたが、まるで思い出せなかった。

 やはりわたしはよほどの重症で、なんらかの拍子に婆さんからわたしがこの病院を訪れる旨聞いた新生病院が、この石田なる医師に連絡したのかもしれない・・・そんなありえない想像を巡らせている間に、石田医師はクルリとわたしに背を向けた。今ほど机の上に広げたカルテに再び目を通しているらしい。つい今しがた「よく来て下さった」と言ったばかりだというのに、これはどうしたことだろう?

 どうもこの病院とは相性が悪いらしい。受付嬢はじめ、彼らの意図するところがわたしには理解できなかった。

「えーっと」

突然、石田医師は声を上げた。まるでわたしを無視するように、相変わらずカルテを読み耽っていた。。

「子供の頃ご両親が離婚されて離れ離れで育ったそうですね」

石田医師は背中を向けたままだった。わたしは意味が分からず

「はあ?」

と聞き返していた。すると石田医師は顔だけこちらに向けた。

「他でもない妹さんのことです」

老眼鏡を外し、目を細めてわたしの顔を見詰めていた。それは人間を見る目というより観察眼と言った方が良いのかも知れない。石田医師は明らかにわたしを観察していた。

「お兄さんは東京にお住までしたね」

「ああ、そうですがなぜそれをご存知なんです?」

「妹さんから、由紀さんから聞いています」

「由紀から?」

由紀とは小学生の頃、父母の離婚を機会に別れて以来、会っていない。それはたった今、この医師も言っていたではないか。それ以降は、所在すら知らなかった。

「由紀は、わたしが東京に居ること知ってたんですか?」

「え?ああ、そりゃあそうですが・・・」

石田医師は再びあの目をした。わたしを観察するような目だ。そしてそれはさきほどより、より冷たくなっているように見えた。まるでわたしを物として見ているように思えた。

 もっとも医師という職業柄のことかもしれない。そうも思ったが、この病院の不可思議な対応に対する答えにはなっていない。

「ところで由紀はなぜ入院してるのですか?」

「え?」

今度、石田医師は顎を手で撫でながら困惑した表情を見せた。それから再びわたしに背を向け、カルテを何枚か繰り始めた。それは先ほどまでと異なり、何かの戸惑いを抑えるための作業に見えた。

 しばらくそうした後、石田医師はわたしに不思議な問いをした。

「妹さんに会ってみますか?」

「勿論です。あの、受付からどんな連絡を?わたしは妹の見舞いに来たのです」

わたしの答えに石田医師は一瞬、顔を歪めた。しかし、すぐさまにこやかな表情をして

「そうでしたね。では参りましょう」

と言って立ち上がった。

◇忘郷

 どうやら由紀は眠っていた。

 石田医師は、長い廊下を歩くと突き当たりから三番目の病室に案内してくれた。そこは六人部屋だった。患者は皆、出払っていた。治療やリハビリだろう。或いは、久しぶりに今日は天気が良いので、散歩に出ているのかもしれない。

「こちらです」

指し示されたのは一番、窓側のベッドだった。そこだけ隣りのベッドとの間のカーテンが敷かれていた。天井に設置されたリールから吊るされた白いカーテンを見詰めるうち、わたしは妙な気分になった。カーテンの白さがあまりに無機質に感じたからだろうか。その向こうに生きた人間がいる気がしなかったのだ。医師がわたしに会わせようとしているのは、本当に生きた由紀なのだろうか?そこにあるのは由紀の死体じゃないか。

「さあ、近くに寄って声を掛けて上げて下さい」

医師の声にわたしは我に返り苦笑した。自分のおかしな妄想にだ。

「さあ、さあ」

と言いながらわたしを先導するように医師はカーテンの向こう側に消えた。馬鹿げた妄想と気付いたのに、それでもわたしは何故かカーテンの影を越えるのを躊躇ってしまった。そんなわたしに気付いたのか医師はカーテンの向こう側でベッドに横たわっている由紀に声を掛け始めた。

「北原さん、北原さん。お兄さんが着てくれましたよ。ずっと待ってたんでしょ」

しかし由紀らしい声がしない。医師はしばらく繰り返すと諦めたように溜息を付いた。

「ふー、残念だなあ」

わたしはカーテンの向こう側で何が起きているのか分からなかった。疑問に思う気持ちに押され、カーテンの向こう側に踏み出した。

 ベッドには女性が一人横たわっていた。まるで死人のように姿勢良く仰向けられ、しっかりシーツで首まで覆っていた。しかし目を開かずとも、それはわたしのよく見知った顔だった。それは美和の顔だ。だが、これだけ長い歳月の後、美和がこの美しさを留めたいる筈がない。とすれば、これは由紀に違いない。あの、いつも顔を真っ黒に日焼けしていた由紀。男の子のように活発だった由紀が、いつしか母親そっくりの女へと成長していたのだ。

「眠ってますね」

医師の言葉にわたしは頷いた。

「起きそうもないなあ」

という医師の呟きを他所に、わたしは由紀の姿に見入っていた。

「変わってないでしょう」

と医師が言った。思わずわたしは顔を上げ、医師を見詰めた。睨むような目付きになっていたのかもしれない。医師は戸惑ったように苦笑しながら

「いえ、あなたを責めている訳ではありません。仕方の無いことですから」

言い訳するような口振りをした。

「ただ、由紀さんの中で時間はずっと止まったままなんです。そのせいか身体の成長もゆっくりだった。成長と言うより今になれば老化というべきかもしれません」

たしかに医師が言うとおりだった。由紀はわたしと同じ年齢なのだから、もう40を越えている。さきほど美和と比べて若いと思ったが、この寝顔を見る限りそれ以上に若い。

「20代でしょう」

医師の言葉の一つ一つがわたしの心の襞に触った。なぜかは分からないが、無性な苛立ちを憶えた。


 わたしは医師の『変わってないでしょう』という言葉を思い出していた。『変わってない』とはどういう意味なのだ?何から変わってないと言うのだ?

 車窓の外を見ると安茂里から篠ノ井の景色が流れ去っていった。栗木病院を出たわたしは、その足で長野駅に向かい東京行きの新幹線に乗り込んだのだ。柴崎専務の葬儀に出席する為だ。

 妻のメールによれば今夜が通夜、明日葬儀ということだった。通夜には普段着でも致し方ないとしても、葬儀には礼服で出席せねばなるまい。まして柴崎専務の奥さんは、わたしと専務の間柄を良く知っているからお斎(おとき)の席も用意されているかもしれない。礼服はダンボールに詰め、妻が会社宛に送ってくれた筈だ。東京駅に着いたらそのまま会社に行き、取り合えず礼服だけでも取ってこよう、と思った。

 礼服以外の荷物は、少々気が引けるがもうしばらく会社に預かって貰おうと考えた。既に退社した身とはいえ、ほんの数日前までは社員だったのだ。まして事実上の会社都合だ。その位の便宜を図ってもらってもバチは当たらない。それに関口らわたしを慕ってくれた後輩たちもいるのだ。

 ふいに夜が訪れたように車窓の外が真っ暗になった。トンネルに入ったのだ。ここから先は幾つものトンネルを断続的に抜け、ようやく明るい日差しが戻った頃には関東平野だ。もっとも、そこまで小一時間も掛からない。わたしは少し寝ることにした。

 目を閉じると病院で見た由紀の顔が浮かんだ。結局、由紀が目覚めることは無かった。医師は何度か声を掛けてくれたが、ついぞ由紀が反応することは無かった。その姿はまるで死体のように思えた。しばらくしてわたしは医師に「もういいです」と言った。医師は諦め切れない様子だったが、わたしが今日の夕方までには返らなければならない旨を伝えると諦めてくれた。しかし、

「また是非、来て下さいね。近いうちに必ずです。いいですね」

と念を押された。

 思えば一昨日の夜、長野に訪れてから奇妙なことばかりだ。そもそも始まりはあの栗木病院だ。長野に着いた翌朝、栗木病院へ父を見舞ったのだ。ところが受付嬢は

『過去にも現在にも入居の記録は無い』

という。そして、あの角の婆さんだ。まさかあの婆さんがまだ生きていようとは思わなかった。だが婆さんのお陰でわたしが暮らした家がまだあることを知ったし、中にも入れたのだ。しかし、婆さんの言うことはおかしなことばかりだった。

 婆さんはわたしに『許せ』という。『父ちゃんと母ちゃん』そして『みんな』と。何を許すと言うのだ?

 更に『法要をやりに帰って来たのか?』とも言った。それも父の法要だという。

 わたしは一度目を開いた。まだ、あるいはまたトンネルの中にいるらしい。車窓の外は真っ暗なままだ。

『呆けた婆さんの話をいちいち気にしても仕方ない』

独り言を呟いた。車窓は暗がりを背に鏡のようにわたしの顔を映していた。

『なんとも情け無い顔をしているじゃないか』

また独り言が口から漏れた。急に気が滅入ってきた。窓ガラスに映った自分が見るに耐えない。どうしようもな男のように思えたのだ。妻に捨てられ、会社も解雇された。だが、そうした事実以上にわたしの心を押し潰す何かがあった。

 もう一度、窓ガラスを見た。いつか見た顔だと、ふとそう思った。いつか、それはずっと以前のことだ。窓ガラスに映った顔はずっと以前、何度も見た顔だった。わたしはずっとそれを重荷として背負って生きてきたのかもしれない。平穏な家庭も安定した職業もわたしには相応しいものではなく、いつかそれらがわたしの掌から消え去ってしまうのではないか、という予感に囚われながら生きてきた気がする。その先には惨めな人生が宛も無く伸びている、そこがわたしの本来住むべき世界なのだと、いつも誰かが僕に教えてくれていたように思う。今、訪れたこの状態は、僕の本来あるべき姿なのだと。

 あの日、僕は辛抱強く由紀を待っていた。

 僕と由紀は毎日、鬼ごっこをしてるようなものだった。でも、互いに知らん顔しながらそれを繰り返していたんだ。僕は日々、授業が終わると真っ先に片づけをし、玄関の下駄箱の陰に身を潜めた。由紀が来るのを待っていたんだ。由紀は大概、友達と一緒だった。一番背が高く、勉強も、運動も何をしても一番だった。そんな由紀だったから、自然と友人が集まった。みな由紀に憧れ、由紀に近付きたがったんだ。みんな口々に由紀におべっかを使っていた。でも由紀は、いつも悲しそうな顔でそれを聞いていた。でもそれと気付いていたのは僕だけで、他の誰も知らなかった。それから由紀たちは連れ立って玄関を出ると、校門から外へ抜ける。そこからしばらく歩くと由紀は一人になった。友人たちはみんな塾があるから、早々に家に帰ってしまうのだ。皆と別れた由紀は、しかし家路に向かわなかった。いつも長屋の方向と。は別の方へ、歩いて行った。僕は由紀に気付かれないようずっと後を付けた。でも、いつも由紀はそれと気付いていて、高い塀のある曲がり角や、入り組んだ小路を使って僕を巻いてしまうのだった。

 それが、あの日だけは僕は巻かれなかった。高い塀も、入り組んだ小路も僕の目隠しにはならなかった。僕は執念深く由紀の後を追い、ついに由紀が毎日のように向かう秘密の場所を見付けた。長い線路沿いの道に、由紀の姿を隠す場所は無かった。踏み切りを渡り、林の間の道を登り始めた時、由紀の姿は僕の目の前から消えた。でも僕は安心していた。なぜならもうそこからは一本道だったから。

 僕はもう由紀の案内が無くても由紀の向かう先が分かっていた。僕は、藪の中を突っ切って由紀の先回りをすることだって可能だった。でも僕は後になって気付いたんだ。その日、由紀は敢えて僕にすべてを見せようと思っていたということを。もうすべてを隠すことは、由紀には限界だったに違いない。

 ふと気付いて車窓を見ると、眩しいほどの光に満ちていた。コンクリで固められた駅舎が陽光を反射しているのだ。

「うえだー、うえだー、お降りの方はお忘れ物の無いよう・・・」

というアナウンスが聞こえた。上田駅だ。まだ長野を出て十数分しか経っていなかった。ほんの少しうたた寝をしてしまったらしい。妙な夢を見た気はするが、内容は思い出せなかったが酷く鬱屈した気分に囚われていたように思う。それもこれも婆さんの妙な話が原因だ、とわたしは苦笑した。

 そんなことより念のため、会社に連絡を入れておかねばならない。妻のことだから予定通りわたしの荷物を送ってくれていることと思う。しかし配送会社の都合によってはまだ到着してない可能性もないこともない。確認しておくに越したことはない。そう思ってわたしは携帯電話のメールを開いた。

 初め、関口にメールしようかと思ったがやめた。分野違いの彼に頼んで迷惑を掛けるのも心が引けたのだ。おそらくこうした話は総務が担当だろう。第一、わたしの退社の手続きもすべてが終了した訳ではなかった。総務の大森に頼もう、と思った。大森はあまり気の効く男ではないが、わたしを慕ってくれていたように思う。届いた荷物を確保してくれるくらいの便宜は図ってくれるだろう。大森のアドレスを呼び出し、依頼内容を書き込んだ。読み返して見ると、あまりに一方的な要求しか書かれてないので『最近、どうだ?元気にやってるか?』という文面を付け加えた。自分なりに納得出来たところで、送信ボタンを押した。

 上田駅を出てしばらくするとまたトンネルに入った。昼と夜とが交互に訪れるような錯覚に襲われたが、それは眠気が襲ってきているからだろう。とにかく眠ろうと思った。昨夜、婆さんの出鱈目な話に付き合って深酒し過ぎたらしい・・・頭痛に襲われたまま眠ってしまったのもいけなかった。あれは眠ったとは言い難い。意識を失ったのだ。朝まで意識を失ったままわたしは何を思い出してたんだ?

『許せ!』

記憶の闇から突如、聞き覚えのある声が蘇った。それは角の婆さんの声ではなかった。わたしは必死で記憶を探ってみた。なんとなく、そこにあるのが分かった。だが、どうしても肝心の部分だけが見えないのだ。それはまるで鍵の掛かった木箱の中に入れられたように、頑固にわたしの視線を妨げていた。

 額から汗が垂れてくるのが分かった。新幹線の暖房は、さほど強くない。あまりに記憶に拘ったせいで、冷や汗が出たのかもしれない。嫌な予感が的中した。再びあの頭痛が襲ってきたのだ。周囲の乗客に悟られてはいけない、と思った。次の駅で病院へ送られてしまうだろう。今夜は柴崎、元専務の通夜なのだ。わたしは必死で堪えた。

『許せ、卓巳』

激痛のうねりの中で、誰かがまたわたしに向かって叫んでいた。誰の声なんだ?そして何を許せというのか?

『許してくれ、な、俺だって苦しいんだ、だから・・・』

肝心なところが聞き取れなかった。激痛は巨大な音となって頭の中を掛け巡ったのだ。途端に幕が下りたように静かになった。同時に意識を失っていた。

 しかし僕は藪の中を突っ切って先回りするのはやめた。僕の目的はそこで由紀が何をするのか?だった。だから僕が先回りして待ち構えていたら、由紀はきっと目的を放棄して返ってしまうだろう。僕は由紀が登った後をゆっくりを進んだ。もう由紀の姿も、ここを通った気配さえも消え去っていたが、僕には関係なかった。僕は由紀の行き先が分かっていたから、もう尾行する必要はなかったのだ。

 その石段は歪(いびつ)で曲がりくねっていて、ところどころ剥げたり、場所によっては初めから設置してないような、粗雑な造りだった。障害物競走でもするように僕はその石段を駆け上がった。由紀は学年で一番脚が速いが、まるでサラブレッドのように細い足首をしていた。こんな瓦礫の上を走るのは、さぞ苦手だろう。その証拠に、十分に時間を置いて登り始めた筈なのに、僕の頭の上辺りに折り返している石段の付近から

「はあ、はあ」

という由紀の荒い呼吸が聞こえてきた。

 呼吸はやがて、動きを止めた。それもその筈。その辺りは境内だった。由紀は石段を登り切ったのだ。僕は歩を止め、由紀の呼吸が発する音を耳で追った。由紀の息遣いは次第に小さくなっていった。呼吸が整ってきたことと、どうやら境内を横切っているらしい。社に向かって歩いているのだ。僕は石段の影からほんの少しだけ顔を覗かせた。

『何をする気なんだろう?』

まさかこのまま社の前で立ち止まり、お賽銭投げて手を合わせるだけじゃないだろうな、と僕は思った。僕はそんな場面を見る為に由紀を尾行してるんじゃなかった。

 毎日、一緒に帰っていた由紀が半年くらい前から突然、僕と一緒に帰るのをやめたんだ。

『用がある』

と言って学校からどこかへ消え、夕方暗くなった頃、家に帰ってくるのだ。僕はそんな由紀が心配になって義母にこっそり告げた。義母は初め首を傾げて聞いていたが、数日後に同じ話をすると

『本人が「用がある」って言うんだから、何か用事でもあるんだろ!』

と突き放されてしまった。それで僕は自分で探すことにしたんだ。それから僕は毎日、放課後に玄関で由紀を待ち伏せ、尾行した。

 僕は、由紀が重大な秘密を隠してる、と思っていた。

 でも由紀はそのまま真っ直ぐ境内を横切ると、ついに賽銭箱の前に着いた。するとポケットから五円玉らしき硬貨を取り出すと、投げた。それから二度手を叩くと、何事かを願うように頭を垂れた。由紀はなんでこんなことをしてるんだろう?僕は不思議に思うとともに、なんだかがっかりした。5年生までずっと一緒に帰っていたのに、急に知らん顔し始めるから何か特別なことでもあったのかと思ったのに、ただ神様にお祈りしてただけなんて。

 僕は由紀が手を合わせて目を瞑っている間に、石段から境内の隅の草むらに移動していた。そこからだと斜め後ろからだが、由紀の表情が少しだけ見えるからだ。それに鳥居の太い脚の影になるから、由紀から見付かり難いのだ。でも、いくら見ていても、由紀は一向にお祈りをやめなかった。僕は覗いているのがすっかり飽きてしまって、草むらの中に仰向けに寝転んだ。鳥居の脚が天に向かって伸びていた。

『由紀は何をお祈りしてるんだろう?』

鳥居に向かって僕は呟いた。でも、当たり前のことだが、答えは分からなかった。

 由紀はまだお祈りしてるのかな?と思って顔を上げると、そこに由紀の姿は無かった。境内を戻ってきたならこの鳥居の下を潜る筈で、そうなれば由紀は容易に僕を見付けただろう。それに僕の方も、幾ら鳥居に気を取られていたとしても、由紀が通過するのを見過ごす筈がない。じゃあ、由紀はどこへ消えたんだ?僕は草むらから慎重に身体を起こし境内の中を見渡した。けれどどう見ても由紀はいない。僕は思い切って立ち上がった。右手の平を庇にして眺めてみたが、やはりどこにも由紀の姿は無い。そんな筈は無いのだ。ここに至る道は鳥居の下を潜るこの一本しかない。まさか女の子の由紀が藪の中を降りて行ったとは思えなかった。

 僕は境内に躍り出た。もう一度辺りを見渡す。でも由紀の姿どころか、気配すらない。まるで神隠しに合ったように由紀は忽然と消えた。

 もしかしたら社の中にでも忍び込んで遊んでるのだろうか?と思い、賽銭箱の背中に回り、扉の格子の隙間から中を覗いた。しかし社の中は埃だらけでここしばらく誰かが入った形跡は無かった。また由紀にしてもこんな汚いところに入りたいとも思わないだろう。それから僕は、由紀が僕に気付いたんじゃないだろうか?と考えた。それで由紀は僕から隠れたのだと。とすると、社の床下だろうか?社の正面は広い階段があって床下に潜れないが、裏側からなら簡単に入れた筈だ。僕はすぐさま社の裏手に回った。ちょうど僕の背の高さもあろうかという高い床下が広がっていた。でも、そのは蜘蛛の巣だらけで、とても入る気はしなかった。では、由紀はどこへ行ったというのだろう?と僕は首を傾げていた。

 その時、突然に僕は人の気配を感じた。でもどこからその気配が発せられたのか分からなかった。僕は人がいそうな場所を注意深く探した。だが、どこにもそれらしい場所は見当たらないのだ。不思議なのは、その気配は一人だけのものではなかった。由紀だけのものでは無い、と言うべきか。由紀よりずっと強い気配が感じられたのだ。

 別の誰かが潜んでいるのだろうか?薄気味悪くなった僕は、顔を上げた。社の向こうに鳥居が見えた。夕陽が鳥居の金具に反射して僕の目を眩ました。僕は目を瞑って光を避けると、両手を顔の前に翳して再び目を開いた。それまで気付かなかったものが目の前にあった。納屋だった。祭事用の道具をしまっておくものだろう。よく思い出してみると、それはずっと以前からそこにあった。何故気付かなかったのか分からない。それくらいそれはひっそりと立っていた。

 僕は納屋に近付いた。中からは何の音もしない。けれど、中から人の気配がする気がした。その気配はじっと息を潜めて僕が立ち去るのを待っているようにも思えた。そうするときっと気配の主は由紀に違いない。でも僕には由紀以外の誰かもそこにいるような気がしたのだ。

 僕は入り口を探った。ぐるりと納屋の周りを一周すると、南京錠が掛かっている引き戸を見付けた。古い南京錠は解かれていた。錆びの擦れ具合からすると、つい今しがた開けられたように思う。僕はいよいよ確信し、引き戸に手を掛けた。しかし、

ががっ!

というけたたましい音が僕を襲った。身を凍り付かせた僕の目の前で、引き戸が大きく開かれてた。僕が開こうとする一瞬前に、それは強い力で開かれたのだった。僕は、僕の目の前に立ち塞がる影を見上げた。それは巨大な鼻を持つ恐ろしい顔をしていた。僕はあまりのこと腰を抜かしてその場に座り込んだ。その僕の前を天狗は逃げるように走り去った。

 走り去る後姿をよく見ると、天狗のお面を被った大人だった。

「どうして来たの?」

腰を抜かして地面に座り込んだままの僕に、誰かが話し掛けてきた。声の方向を見ると由紀だった。由紀は積み上げられた藁の上に座り、僕を見下ろしていた。

「どうして来たのよ?」

由紀は問い詰めるような口調をした。

「ねえ!どうして!?」

口調は次第に激しさを増した。

 由紀は、何かを堪えるように唇を噛んでいた。

「どうしてよ。たくには絶対分からないように、毎日巻いてきたのに。どうして来ちゃったの?」

「ええ?だって、由紀が一緒に帰ってくれないから」

「馬鹿!もう6年生でしょ!来年はもう中学生なんだよ!いつまでもままごとしてるんじゃないわよ!」

「そんな、怒らなくても」

僕はうなだれて、でも由紀の足元を見ていた。

「あれ?靴下どうしたの?」

僕に言われて由紀は慌てて靴下を探した。どうやら藁の中に沈んでいたらしい。乱暴にそれを取り上げると、不機嫌そうに履いた。

「どうして脱いでたの?」

そんな質問が、由紀の神経を逆撫でたらしい。由紀は立ち上がり、逆上したように僕に突進してきた。

 由紀は僕の襟を掴むと、僕の息が止まるほどに捻り上げた。

「もう!二度と付回さないで!あなたとなんか、好き好んで兄妹になった訳じゃない。ノロマで、馬鹿で、無神経なあんたなんかと一緒にされるのが嫌なのよ!もう兄妹なんて思われたくないの!だからもう、近寄らないで!」

由紀は僕の襟首を握り締めたまま、力任せに前後に振った。僕は繰り返し、後頭部を板戸に叩き付けられた。

「もう、顔も見たくない」

由紀は放り出すように僕を突き放した。僕は、一度板戸に背をぶつけると、そのまま地面に座りこんだ。それからゆっくり立ち上がると、ズボンを汚した土埃を払った。これだけ汚れれば、きっと義母に大目玉を喰うに違いない。そんなことを思いながら、僕は上目遣いに由紀の顔を見た。由紀は怒りに震えながら、涙を堪えていた。

「分かったよ。もう二度と一緒に帰ろうなんて思わない」

僕はズボンの土埃を払い終えると由紀に背を向けた。

「帰るね」

そう由紀に告げると、僕は納屋を出た。でも出る際、僕は不思議なものを見た。それは僕らが住む街の中古ショップのビニール袋だった。それは作業台の上に置かれていたんだ。ビニール袋からは僕が欲しがったゲームソフトのパッケージが顔を覗かせていた。ゲーム機も無いくせにそんなもの欲しがってどうするんだ、と母に何度も叱られたが、僕あどうしても欲しかったんだ。見かねた父が、こっそり僕に約束してくれた。『次に時間外手当が出たら、義母さんに気付かれないよう買ってやる。その代わり中古でいいな』と。

 そんなことを考えながら僕はそのビニール袋を見詰めていた。由紀がそれと気付いたらしい。慌てて作業代の上のそれを取り上げ、自分の身体の影に隠した。

「誰が忘れてったんだろうね。近所の馬鹿な子供だね、きっと。後で届けてあげなきゃ」

僕は、何も考えられずそのまま納屋を後にした。境内まで来たところで、振り返ったが由紀の姿はなかった。そして天狗の面を被った父の姿も無かった。なぜ父がそこにいたのか、その頃の僕はもうその意味を理解するほど大人になっていたんだ。


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「知ってトクする保険の知識」連載中

2010-12-01 りふれいん-48-

[]

 婆さんに促されて、わたしは鍵を開けた。かつてわたしと父、義理の母、連れ子だった妹の4人で暮らした家だ。父が長野市の老人施設に入所して以来、誰も開けていないのだろう、錆付いていて開けるのが一苦労だった。ギシギシと軋む大きな音を立てようやく開いた

「変わっとらんだろ」

玄関から室内を見上げながら婆さんが言った。わたしは婆さんの隣りに立ち竦んでいた。そこには、わたしがここを出て行った時のまま変わらぬわたしの家があった。入り口の正面の壁、その上方にはわたしが小学校の頃、一度だけ賞を貰った鶏の絵が額に入って飾ってあった。夏休みの宿題に描いた絵だ。それほど絵が得意な訳ではなかった。ただ鶏冠の赤の色が美術教師に気に入られたのだ。たしかその時、赤の絵の具が無かったから母の紅を拝借したのだった。鶏の鶏冠の部分は色褪せた今も、独特の色を放っていた。

「さあ、入ってみれや」

促されてわたしは靴を脱いだ。板の間や古びたカーペットの埃が気になったが、二三歩あるくと靴下が埃まみれになったお陰で、逆に吹っ切れた。わたしは埃が付くのを気にすることなく、自由に部屋の中を歩き回った。居間に入ると古い型のテレビがあった。ここで義母はテレビを観ながらよく繕い物をしていた。男子のわたし以上に、妹は服を破いた。勉強も出来たし運動も出来たがその分、お転婆だったのだ。

「おう、運動会だなあ」

隣りの部屋から婆さんの声がした。

「ほれ、見てみれや、おめさんが写るっとるぜ」

わたしは足早に近付くと、老婆から写真を受け取った。そこには父とわたし、そして老婆の3人が写っていた。義母と妹が写ってないのが不自然に感じられた。

「わしもご相伴に預かったんだった。健介さんが握ったもんだから、こんなにでっけえ握り飯での。とっても食い切れんかった」

老婆は思い出話に頬を緩めた。

「健介さん?」

「ん?あ、ああ。あ?」

「って誰?」

わたしの質問に婆さんは

「おめ、何言ってんだ?」

と首を傾げながら

「自分の父親の名前だろ」

そう言って困惑を隠すように笑った。

 父の名は健介だったか?わたしは記憶を手繰ってみたが、分からない。父はなんという名はだったか?たしか昨日、長野市介護施設の受付で父の名を告げた気がする。あれは何と言ったのだったか?

 わたしのそういう困惑に気付いたらしい。

「おめえ、本当に卓巳だよな。北原卓巳。うん、まあその顔は間違えねえ」

婆さんはわたしの顔を見詰めたまま腕組みした。

「やっぱ病院でよく観て貰った方がいいしねか?」

「いや、ここのところちょっと疲れててね。会社でいろいろあって、それで退職することになって。ついでに妻とも離婚したんだ。だから、ちょっと・・・それだけだよ」

怪訝そうにわたしを見詰める婆さんの視線から逃れ、西側の部屋に行った。そこは僕らの寝床だった。まるで、さっきまで誰かと誰かが寝ていたとでもいうように、二組の布団は敷かれたままだった。一箇所だけ捲くれ上がっていたのは、起きた際にそこから抜け出したのだろう。掛け布団の柄から二つとも子供だ。青と赤があるということは男の子と女の子だ。

「おめえと由紀の布団だ」

 妹の名を聞いてふと思い出した。婆さんは昨夜、酔って『迎えに来たんだろう』と言った。あれはどういう意味だったのか?

「寝てたとこな、無理矢理みてえに連れてかれちまってそのまんまになっちまった。でもおめえにとってはそれで良かったんだろう」

わたしは記憶を隅々まで探ってみたが、婆さんの言うことが分からなかった。『無理矢理連れて行かれた』誰に?『それで良かった』何がだ?

 第一、この部屋はなんだ?わたしは台所に行ってみた。流しには皿や茶碗が無造作に突っ込まれていた。食器洗い用のプラスチックの桶に入ったそれらは、分厚い埃に変色していることを差し引けば、まるで昨夜、食事を終えた状態そのままだった。

 どう考えてもおかしい、そう思った。わたしたちの家族は、もう何十年も前にこの家から出て行った。だから家財道具も何もありはしない筈だった。仮にそれらを置いて行ったとしても、朝、置き抜けたままの布団や食事を終えた状態のままの台所。そして風呂場を開けてみると、湯船には赤黒く濁った水が溜まっていた。長い時間の中で錆び付いたのだろう。しかしこれも使ったままの状態だ。水分が抜けて石膏のように固くなった石鹸は、わたしたちが使っていたものに違いない。

 この光景は、ある日突然、家人が全員消え去った後のようであった。まるで神隠しにあった家族が住んでいた家。そう言われても仕方がない。

「誰も怨んじゃいかんぞ。今更、怨みを思い出しても何にもならん」

呆然と部屋を見詰めたまま声を発することが出来ないわたしに婆さんがそう声を掛けた。婆さんは、昨夜も同じことを言った気がする。しかし、わたしには分からなかった。いったい誰を怨めというのだ?そしてなんのために?わたしは婆さんにそう訊ねたかった。しかしわたしの質問を遮るように婆さんは言った。

「由紀を、早く見舞ってやれ。てっきりようやっと迎えに来たんかと思ったんだが、まあ、そんな余裕はないか」

昨夜も婆さんは「由紀を見舞いに行け」と言った。それには特別な意味があるように思えた。まるで婆さんはそれに固執しているかのように感じたのだ。だかなぜ、婆さんがわたしが妹を見舞うことに固執するのか?わたしにはまったく分からなかった。

 正直、分からないことだらけだ。一昨日、長野に着いて以来、病院に父を見舞っても受付の女は父の名は入院患者リストに無いという。そして30数年ぶりに会った老婆も、意味不明なことばかり口走る。

 それらすべてをまとめて質問したいところだったが、わたしは何も訊ねなかった。代わりに

「どこへ行けばいいんだろう?」

と訊ねた。老婆は少し驚いた顔をしてから、やがて微笑んだ。

長野市のな栗木病院というところだ」

その名を聞いてわたしは戸惑った。昨日、父を見舞いに行った病院と同じだったのだ。

「さてさて地図を描いてやろうかの」

という婆さんの言葉をわたしは遮った。

「大丈夫。その病院なら分かるから」

婆さんは「そっかそっか」と言って喜んだ。そうさなあ、由紀のことだからきっとあんたに連絡を取ってると思ったんだよ、それであんたも地図を見て調べてたんだな、などと独り言を呟いた。わたしはそこに父も入院してるのだと言うべきか迷った。だが言わなかった。またこの老婆がわたしを悩ませるようなことを言い出す気がしたのだ。

「じゃあ、さっそく行ってみるよ」

婆さんが小さく何度も頷いていた。

 小布施駅から善光寺下へ向かう電車の中でわたしは老婆の奇妙な話を思い出していた。30分もある車中、婆さんの話を自分の記憶と何度も擦り合わせてみた。しかしいずれも噛み合わない話ばかりだった。幾ら考えてみても辻褄が合わなかったので、きっと婆さんも歳だから記憶が曖昧になっているに違いない、そう考えるようにした。

 だが、そう考えても辻褄が合わないのだ。あの部屋は何だったのだ?まるで昨日まで誰かが暮らしていたかのような様。だが、どう考えても、その”昨日まで暮らしていた”家族はわたしたちなのだ。「昨日」は30数年前の日々だ。そしてその昨日、忽然とわたしたち家族はあの部屋から姿を消したかのように、生生しい痕跡を残していた。

 どう思い出してみてもわたしには、辻褄が合う記憶が見付からなかった。由紀と義母が出て行くのを見送り、わたしは再び父と二人であの家で暮らしたのだ。

 わたしは婆さんから預かったあの家の鍵をポケットから取り出した。手の平に載せ見詰めてみたが、鍵は何も語ってはくれなかった。それもその筈だ。わたしがあの家に住んでいた頃、鍵など使ったことは無いのだから。鍵と言えば、あの壊れた鍵はどうなったのだろう?ふとそう思った。あの鍵が壊れてくれていたお陰でわたしたちはあの日、豪雨に濡れずに済んだのだ。思えば子供時代の楽しい思い出というものだ。病院で由紀と会ったらそんな思い出話をしてみよう、そう思った。

プルルルッ

携帯の受信音だった。画面を見ると妻だ。わたしは周囲を見回した。出勤時間を過ぎた田舎の鉄道は、回送列車のように空いていた。そう思えるのは、たまに見かける乗客が皆、死んだように目を瞑っているためかもしれない。彼ら、彼女らは粗末な車両の、まるで室内装飾の一部ででもあるかのように、身動き一つしなかった。

「もしもし」

それでも他の乗客に気付かれぬよう小声で出た。

「パパ?」

有希だった。

「パパでしょ?声小さいよ」

「ああ今、電車の中なんだ」

「じゃ、掛け直すね」

「いや、いい。大丈夫。田舎の電車だからあまり人が乗ってないんだ」

「電話してて叱られない?」

「うん。みんな寝てるから誰も気付かない」

そう言ってわたしは窓の外を見た。

「周りの景色も、家があまり見えないな。木とか畑ばっかりだ」

「海とかは?」

「ああ、ここは山国だから海は無いな。ああ、でも大きな川があるよ。千曲川って言ってなんでも日本で一番長いらしい。さっき鉄橋で渡ったな」

有希は電話の向こうで小さく笑った。

「なんだか面白そう」

「そうかい?退屈かもよ」

「ううん、でもパパの故郷だもの。いつか行ってみたい」

「ん?あ、そうだな。一度、お祖父ちゃんにもあっておいた方がいいかもしれない。そう長くないだろうから」

電話の向こうで有希が沈黙するのが分かった。

「どうした?」

「有希にお祖父ちゃんいたの?」

「ああ、いたよ」

「なんだ、もっと早く教えてくれれば良かったのに。ぜんぜん知らなかったよ」

「あ?そうだったかな。なんとなく言い忘れてたかな」

電車は住宅街に入った。ここまで来れば善光寺下はもうすぐそこだ。

「ところで何か用かい?」

「ん?うん」

「なんだ?はっきり言ってごらん」

「うーん。はっきり分からないの」

「何が?」

「ママが電話を受けてて、それを横で聞いてただけだから」

「へえ、どんな話?」

「ママが昨日、メールを送ってたわ」

「誰に?」

「パパによ」

?わたしは携帯の画面を見た。右上にメールが着信している表示を見付けた。

「ああ、ほんとだ。全然、気付かなかった。昨日からパパ、いろいろあってね。ちょっと携帯を見てる余裕が無かったんだ」

「良かった、電話して。ママも今朝『連絡したのに全然返事がない』って心配してたのよ」

「それは悪かった。今すぐ見るよ」

「そうして。じゃあね」

「ああ、また」

そうして切ろうとした時、電話の向こうで有希が何か話す声が聞こえた。慌ててスピーカの辺りに耳を付けたが、ガチャリと通話を切断する音が響いただけだった。わたしは、有希がわたしにどんな言葉を掛けてくれたのか、知りたかったが掛け直しはしなかった。未練がましいという気持ちと、しかし父親とは娘に対して未練がましいものだ、という思いが行き来した。だが最終的に、わたしが未練を遺すことは有希にとって良いことではない。そう思ったのだ。

 通話を終えたわたしは液晶画面を見た。新しい受信メールが一件あることが表示されていた。由紀が今、教えてくれた妻からのメールに違いない。クリックすると送信者はやはり妻だった。内容は、妻も連絡を受けた時、困惑したのだろう。淡々とした文面で事実だけが綴られていた。何の装飾も無い事実だけの文は、ことさらに生生しい感触をもたらした。

 メールに記された文を読む限り、柴崎専務が死んだらしい。「らしい」というのは、それだけ認め難いということだ。わたしはそうして自分の心の内を読むことで冷静になろうと努力してみた。波打ちそうな心をなんとか静めてみたのだ。だが、改めて妻の文を読み返したとき、抗いようがないほどに皮膚が震えた。心より先に身体が反応を始めたのだ。

 空席が目立つ車両だったが、一番近い席に座る女が何やらわたしを気にし始めた。中年の女だ。全体的に淡い色の服を着て、目も鼻も小さい。古びた車両の内壁に溶け込みそうなほど、存在感の薄い女。その女が、何度か顔を上げてはわたしに視線を送ってきた。どうやらわたしは傍から見ても異様に見えるような有様らしい。たしかに身体の震えは止まらないし、汗も掻いているようだった。わたしは女がわたしをどう見ているのか気になった。女がどんな顔をわたしを見ているのか知りたかったが、しかし目が合うのが怖くてついに女の方を見る勇気が湧かなかった。

 もう一度、携帯を見た。そこには明確に

「柴崎専務がお亡くなりになったそうです」

と書かれていた。続いて

「本社の入るビルの屋上から飛び降り自殺だそうです」

と理由が書かれていた。

告別式は追って連絡が入るそうです」

これだけだった。たった三行。しかし、わたしを動揺させるには十分だった。むしろ簡潔なだけに、まるでわたしの身体に起きた出来事のように感じられた。

 自殺など、新聞や雑誌の中では今や日常茶飯事だ。だが、自分の身の回りで起きたそれは、フィクションノンフィクションの狭間にあるマスコミから発信されたものとはまったく異なっていた。わたしは、あっという間に時空を飛び越えた気がした。宙に浮かんだわたしが見詰める先には、空っぽのビルの屋上が拡がっていた。やがて鉄扉が開くと中年、というより既に老人のように精気を失った男が現れた。柴崎専務だ。元・専務は特に周りを見回す風も無く、躊躇無い様子でまっすぐ屋上の端まで歩いた。突き当たりで手摺りに捕まると、そこに足を掛けた。

 わたしが特に気になったのは、柴崎専務が飛び降りた理由では無かった。あのビルは、周囲が込み過ぎていた。雑居ビル群の中に立つそれは隣りのビルとの隙間が、それこそ猫が落ちるのも精一杯ではなかったか?柴崎さんはちゃんと飛び降りることが出来ただろうか?落下途中で隣りのビルから突き出た突起が、柴崎さんの顔や身体を傷付けたりはしなかったか?厚い胸板がコンクリの壁と壁の間に挟まり、逆さ吊りになるなどして無用な苦痛を感じたりはしなかったか?そんなことばかりが不安として湧き上がって来たのだ。

 ところで何故、飛び降りた理由を知りたくないのだろう?と自分に自問した。どうやらわたしは知りたくないというより興味が無いらしい。

 そう思うと笑いが込み上げてきた。ほんの数日前まであれほど社の将来を懸念し、自らの立場を危うくしてまで悪戦苦闘していたのに。わたしが現金なのか、人間とはそういうものなのか。思えば悪戦苦闘の結果といえば

「会社の将来のために辞めて欲しい」

という芹田貴明社長からの通告だった。思い出しながらわたしは苦笑した。なんとも不条理な話じゃないか。会社のためを思って悪戦苦闘した結果が、厄介者扱いとは。

「会社の将来のため、か」

わたしは小さく口に出してみた。あの時の貴明の口真似をしてだ。貴明は唇を尖らせていた。まるで業績低迷の元凶が、わたしであるかのごとき物言いだった。言われた時は腹も立った。その場でぶん殴ってやろうかとも思ったものだ。

 そんな日々が懐かしい。まだほんの数日なのに、既に遠い過去の出来事だった。昨日の関口の電話のように、何かきっかけでも無いと思い出さなくなっていた。

 所詮サラリーマンなんてそんなものかもしれない。また、そんなものでなければいけないのだ。これから先も生きていくためには、過去のことを引きずってはいけないのだから。どんなに引きずっても会社に戻ることは出来ないのだから。

 だが柴崎さんはわたしとは違う。あの人は貴明との衝突から已む無く退社した後も、何かと会社のことを気に掛けていた。今はもう故人に対して言い難いことだが、未練もあったと思う。その未練の為に飛び降りたのだとしたら悲しいことだ。

善光寺下ー、善光寺下ー、お降りの方はお手元のお荷物などお忘れになりませんよう、お気を付け下さい。次は善光寺下ー」

場内アナウンスが響いてわたしの思考を中断させた。

 それから一分と掛からず電車はホームに止まった。携帯に表示された時刻を見ると、もうじき十時だ。この時間のせいか、降りるのはわたし一人だった。


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2010-11-30 りふれいん-47-

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「目ぇが覚めたかや?」

老婆の声でわたしは目覚めた。

「まったく突然『うん、うん』唸り出すからびっくりしたで。こっちゃ久しぶりに酔って気持ちよーく寝てたっつーのによ」

わたしは布団の中にいた。婆さんが敷いてくれたのだ。婆さんは文句を言いながら立ち上げると台所に向かった。年寄りの一人暮らしにぎりぎり必要なスペースしかない部屋だった。それでも台所は独立した室になっていた。婆さんは湯を沸かしていたらしい。戻った時には盆に急須と湯呑みを乗せていた。

 婆さんの淹れた茶は渋かったが、酒明けの朝にはちょうど良い。わたしは渋みを味わうように少しずつ口に含んだ。

「おめえ、どっか悪いんか?」

率直な訊き方は、無神経から来ているものではなかった。むしろ様々な気遣いの果てに、呆けたような物言いの仕方を選んだに違いない。幾人もの死と付き合ってきた者の為せる業だ。

「そういえば昨夜も病院の方から来たな。まさか逃げてきたんじゃあるめ?」

わたしは「そんな馬鹿な」と一笑した。

「昼間、駅で倒れたんだ。気付くとあの病院にいた。なんといったか、新生病院だったかな?」

「ああ、あそこの先生らはみーんな神様のために働いておられる。よかったなー、いい医者に観てもらって」

「うーん、そうかなあ?実は原因がさっぱり分からない」

「原因とは?」

「ああ、二三日前から時々頭痛するようになった。少しずつその頻度が多くなり、痛みも酷くなってきた。この町の駅に着いた時、その痛みが最高潮に達した訳だ」

言いながらわたしは、昨夜の頭痛は駅でのそれより軽かったような気がした。酔っていた為だろうか?

 婆さんは横を向いたまま聞いていた。一見、興味が無いように見えるがこれも婆さんの気遣いだろう。

「その痛みの原因が分からんのか?」

「昨日、意識を失っている間に病院へ担ぎ込まれ、いろいろ検査されたらしいが、特に悪いところは無かったそうだ」

もっとも頭痛のことを医者に話してないから、詳しい検査はしてないのだろう。そう思ったが、特に婆さんには言わなかった。こんな片田舎で入院しなくとも東京に帰れば幾らでも検査施設が整った病院があるのだ。

 婆さんはわたしが持つ湯呑み茶碗に急須で茶を継ぎ足してくれた。

「いずれにせよ、一度ちゃーんと調べてもらった方がいい。ありゃちょっとなあ、凄かったぞ。『うん、うん、うぐぐぐ』って死ぬのかと思ったわ」

笑いながらまた立ち上がった。台所に入るとなにやら鍋で似ているようだった。しばらくして器に入れて持ってきたものを見ると、粥だった。よほど体調が悪く見えたらしい。わたしは少し可笑しく思ったが、せっかくの婆さんの思いやりだからありがたく食べた。

「うめえか?」

「ん?ああ、うまい。この漬物と合う」

「ああ?野沢菜か?まだ漬けたばっかだからなあ、味が染みてねくねえか?」

「いや、この位の浅漬けの方が口に合うよ」

「おめえの父ちゃんは古漬けが好きだったなあ。こう、もうなんつーかしょっぱくってなあ、何杯も飯が喰えるくれーの奴だ」

うちへ来て、茶飲んじゃー喰ってたわ、と老婆は言った。わたしはふと、違和感を感じた。あの父が近所の家へ茶を飲みに行くなどということがあったのだろうか?まだ小学生のわたしの記憶は、朝帰って来ては怒鳴るか、寝るかのどちらかだった。

「うちに居ずらかったってのもあるんだろーなあ。うちへ良く来ちゃあ、正夫の帰るのをジッと待ってた」

『正夫?』わたしは思い掛けぬ婆さんの言葉に首を傾げた。

 正夫とは、当時わたしたちがマサ兄と呼んでいた父の弟のことだ。マサ兄が義母と不倫したためにわたしたち家族はばらばらになったのだ。

 それにしても父がマサ兄が帰るのをジッと待ってたとはどういうことだ。わたしの記憶にない話ばかりだった。

「待っていたって、ここでかい?」

「ああ、あ、まあおめえはまだ子供だったからな。親のそんな話、今更聞いても仕方あるめえ」

婆さんは再び立ち上がると台所に向かった。ちょうど湯が沸騰した音がした。わたしは老婆が茶を淹れ替えるまでの間、もう少し詳しく訊こうか悩んだ。わたしの知らない過去の話がひどく気になったのだ。だが、老婆の言うのはもっともなことで、親達は子供のわたしに知られないように努力していたに違いない。今更そんな話を蒸し返すことに何の意味も無いのだ。

 婆さんが淹れ替えてくれた茶を一口啜ったところで、

「ありがとう。世話になった。今夜、帰ろうと思う」

と伝えた。婆さんはうんうんと頷いて

「そっか、また来ることがありゃあな。いつでも寄っとくれ。昨日みたいに泊まってってもいい」

そう言った。しかし言ってから何かを思い出したように顔色を変えた。

「そうだ。おめえたちの家だが、あれから誰も住む者が無くってな。ほら、あれだろ。あんな死に方しちまったからな。縁起が悪いってんで借り手が付かなかったんだな。さりとて、わしがここに住んでるから役場でもぶっ壊す訳にゃいかんってことで、そのまんまにしてあるんだ」

『死に方?』わたしはまるで思い当たることの無い言葉に再び疑問を持った。しかし婆さんはそんなわたしを無視するように話を続けた。

「ぶっ壊さねえとなると誰も中の荷物を処分すらしようとしなかった。住む人間が居なくなっても、皆お前の家に関わることが嫌だったんだろ。簡単に言うと管理放棄だな。今でもなあ、あん時のまんま手付かずだ」

それから婆さんは立ち上がり茶箪笥の引き出しを探った。

「ほれ、このとおり鍵もわしが預かっとる」

たしかに見覚えがあった。わたしたちの家の鍵だ。



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2010-11-29 りふれいん-46-

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目を覚ました時、僕がいたのは自宅の布団の中だった。隣りに由紀もいた。

 後で聞いたことだが大人達が探しに来てくれたのだ。遅くになっても帰らない僕らを心配し、大勢で探しに出たのだ。神社に探しに来たのは髭おじだった。僕らに鳥居の下でのおまじないを教えたのは自分だからだろうか、真っ先に神社を思い付いたそうだ。ただ、僕らは社の裏に立つ倉庫の中の、それも藁の間に潜り込んでいたから簡単には見付からなかったという。

 僕と由紀は裸で眠ったまま、家まで担いで来られたのだった。服は剥き出しの梁に干してあったという。僕らが倉庫に逃げ込んだ後に雨は降り始めた気がするのだが、そうでは無かったのか?もしかしたら雷が鳴っていた時点で少し降っていて、それに服を濡らされたのだろうか?幾ら考えても、上手く記憶がつながらなかった。

 僕が目を開けた時、由紀も目を覚ましたらしい。僕らは顔を見合わせたまま、台所から響いてくるトントンという包丁の音を聞いていた。いつもの朝だった。母はそうして僕らの朝ご飯を作る。父は寝ている。遅番で帰ってきてから、外が白々する頃に父は眠るのだ。

 由紀から視線を離し周りを見回すと、間違いなく僕の家だ。由紀も同じように部屋の中を見回していた。何も変わらない、以前と同じ部屋。僕と由紀は顔を見合わせ、そして微笑みあった。

「願いが叶ったんじゃない?」

僕らは同時にそう叫んだ。自然、笑みが零れてきた。あり得ないと分かっていても今、この瞬間だけは嬉しかったんだ。

 でも、僕らは次の瞬間には青ざめていた。父の怒声が響き渡ったのだ。

「おい、朝飯だけ喰わしたら、とっとと出て行けよ!」

僕らは一瞬にして全身から血の気が引いた。父は台所に立つ母に向って言ったらしい。天国から地獄に落とされた気分だった。僕らの幸福な気持ちは引き裂かれ、望まない現実がありありと蘇ってきた。そうしてよく見ると、この部屋は変わってしまった。以前とはまるで別の部屋だ。まず母の衣類を収めていた収納ダンスが消えていた。子供用の洋服掛けは、由紀の服だけが消えていた。何より、それらが寄せてあった壁が、真新しいもののように白かった。

 僕は、運命が変えられなかったことを知った。父と母はやはり離婚し、僕らは離れ離れになってしまうのだ。

 由紀の顔を見た。由紀も同じことを考えていたらしい。そっと爪を噛んでいた。でもそれは涙を堪えてるんじゃないことは僕には分かった。「願いが叶ったのじゃないか」という僕らの淡い夢を父は掻き毟った。僕らの前に「離婚」という辛い現実を突き付けてみせた。それもこれ見よがしに、だ。僕は父が、まるで僕らを傷付けようとしているように感じたほどだ。僕は父を心底憎んだ。何のために父は僕らを傷付けるのだ?と。でも由紀は違う。由紀は決して父を憎みはしない。心の底では父の言葉に泣き出したいほど傷付いているというのに、由紀の心のフィルターはそれを父の善意として昇華してしまうのだ。どんな善意?僕には理解できなかった。でもそれは僕があまりに何も知らなかった為だった。由紀を一番苦しめていたのは、それに気付かぬ僕自身だったというのに。

 その日も、僕らの辛苦などまるで無視するかのように授業はあった。僕らを除くと、誰もが変わらぬ日常を送っていることを思い知らされた。由紀は何事も無く登校の準備をしていたから、僕もつられて用意した。ただ違ったのは、出掛けに母が、美和が僕ら二人を抱き寄せ、いつまでも離さなかったことだ。僕は右の乳房に、由紀は左の乳房に顔を埋めたままいつまでも離れないでいた。

「そろそろ出なきゃ、学校送れちゃう」

そう言ったのは由紀だった。乳房に口を押さえられたままだったから、その声は酷くくぐもっていた。母の腕の力が緩み、僕らは母から離れた。

「言ってきまーす」

由紀と、それに続いて僕が小声で言った。父は隣りの部屋で寝ていたが、僕らは声を掛けなかった。それがいつもの習慣だからだ。思えば僕らが家族になったばかりの頃、毎朝のように由紀は「父ちゃん、行ってきまーす」と明るい声を掛けていた。まだ、小学校に上がりたての頃の由紀の声は、今より2オクターブほど高音だった気がする。まるで小鳥が囀るようなその声は、玄関をパッと明るくしたものだ。でも父はなぜかそれを嫌った。何十回目かに由紀が「父ちゃん、・・・」と声を掛けた時、奥の部屋から父の怒声が聞こえたのだ。

「うるせえぞ!眠れねえだろうが!」

僕らは黙り込んだ。黙り込んだまま玄関を出た。小学校に着くまでの間、僕らは一言も口を利かなかった。僕はあんな父が恥ずかしかった。でもそれを言葉にすることが出来なかった。由紀も、それについては何も言わなかったのだ。ただそれ以来、由紀は出掛けに父に声を掛けなくなった。

 

 僕らはこうして登校するのは、今日が最後だということを知っていた。でも、もう僕も由紀もそれは仕方の無いことだと諦めることが出来た。鳥居の下での願いが通じなかった時点で僕らにはもう何も出来なかったのだ。

 6時限の授業は瞬く間に過ぎた。

 その日の夕方、学校から帰ると袋小路の真中に母が立っていた。3棟の長屋がコの字に並び袋小路を作っているのが。その真ん中には古びたブランコが立っている。美和と由紀の親子はお揃いの余所行きの格好をしていた。

「たくちゃん」

と声を掛けられ、僕はこの女性は誰だったっけ?と思った。

 余所行きの化粧をした美和は知らない女性のように見えたのだ。化粧は女性を美しく見せるが、それ以上に子供の僕には無表情な顔に見えた。無表情な僕の知らない女性の顔だった。

 つい今朝まで彼女は母として台所に立ち、僕らの為に食事を作っていたんだ。彼女の顔は、湯を熱した鍋の上では頬が赤くなった。味噌汁の濃さを観る為に汁を味見する時は頬が膨らんだ。鰯の焼き加減を観ようとガスレンジを開ける時は煙に目を瞬かせ、沁みた目には涙を浮かべた。キャベツを細かに刻む際には眉に皺が寄った。ジャーの蓋を開いた時、炊き上がった米の匂いを嗅ぐように鼻を膨らませた。そんな母としての生々しい表情がすべて消え去り、これまでの僕らの生活に何の感慨も無い顔をしていた。それは僕の見知らぬ女性の顔、化粧をした美和の顔はそんなふうに見えた。

 でも僕はこの顔を知っていた。六年前、僕の家に来た女性の顔だ。あの頃の美和はまだ僕の母では無かった。僕の見知らぬ女性、名前も知らない女性だった。彼女の方も僕のことなど何一つ知らなかった。そしてその女性は、僕と同じ歳の娘を連れていた。残酷な童話しか知らない僕にとって、継母なんて怖いだけの存在だった。僕は辛い未来を覚悟した。ご飯だってまともに食べさせて貰えなくってお腹が空いても我慢しなくちゃいけないんだって思ってた。そうしなくちゃ、もう僕には一生お母さんなんて出来ないかもしれないと。でもそんなことはすべて気の弱い僕の思い込みで、すべてが間違いだと、それを教えてくれたのが彼女だった。僕の目の前にいるこの女性は、ある日突然僕の目前に現れた見知らぬ女性は、僕と家族になった(ついでに由紀とは兄妹になった)。いつしか美和は化粧をしなくなっていた。あるいはしていたのに、僕にはその内面にある素肌がはっきりと見えていたのかもしれない。

 そして今日、僕の前から去っていくのだ。再び僕の見知らぬ女性の顔になって。僕にはもう彼女の素肌は見えなくなっていた。

 僕はこの6年間の出来事が夢だったのかもしれない、と思った。幸福な夢を見ていたのかもしれない。今、ただその夢から覚めただけなのだと。僕の目の前には、愛する人が存在しない現実が露になっただけなのかも。そう思うとすべてが自然な気がした。

「たくちゃんごめんね」

女性は僕を抱き締めた。上目遣いに彼女の顔を見ると、酷く歪んでいた。まるで化粧という仮面を自ら脱ぎ捨てようとしているかに見えた。だから僕は一生懸命首を振った。彼女に罪はないと、伝える為に。もう僕に化粧の内側の顔を見せる必要は無いのだと。

 振り向くと由紀がいた。でも由紀は一言も喋らなかった。ただ虚ろな眼差しを僕に向けていた。僕は、何かを間違えているのかもしれない。何か重要なことを。由紀は、それを知っているのだ。

「由紀、由紀、」

僕は二度ほど由紀の名を呼んだ。由紀は何も答えず、母に手を引かれ去っていこうとしていた。母は僕の見知らぬ女性だった。僕は別れの悲しみよりも、疑惑と不安に身体中の血液が凍て付くのを感じた。

 それから二人は手に持てるだけの荷物を抱え、僕の前から去って行った。気付くともう初冬だった。初冬というのに、今日も太陽が強く輝いていた。それが為に二人の影は驚くほど長かった。その長い影が線になり、点になり、ついに見えなくなるまで僕は見詰めていた。太陽の位置が下がってきて、とても眩しかったのに僕はずっと見詰めていた。目を逸らすと、これまでのことが消え去ってしまう気がしたからだ。

 一週間経った時、僕の中から二人の記憶は消えていた。遠い過去の記憶を仕舞い込む棚の中にすっぽりと隠れてしまったのだろうか?以来、わたしは二人のことを思い出すことはなかった。日々の煩雑さに追い掛けられ、過去を振り向く余裕が無かったのかもしれない。或いは小学生の記憶などその程度のものだったのかもしれない。いずれにせよわたしは今、由紀と母と暮らした6年間をありありと思い出したのだ。


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2010-11-28 りふれいん-45-

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「誰か助けに来てくれないかな?」

僕は不安になった。こんな暗い場所に来たことが無かった。

 ついさっきまで月明かりに照らされいた境内が途端に真っ暗になったのだが、これは月が雲に隠されただけではない暗さだった。普段は、田舎町とはいえ街灯や家の明かりが暗がりを照らしていた。すべての光を遮断したような暗さを僕は初めて体験した。

 それは由紀も同じだったらしい。普段冷静な由紀が息を乱していた。

「ねえ、帰ろ」

僕は心細くなって由紀にそう訴えた。

「馬鹿ね、どうやって帰るの?真っ暗で方向も分からないよ」

「でも、さっきこっち向いて立ってたから、このまま前に進めば石段の方じゃないかな?」

由紀は、由紀らしくもない弱弱しい声で「う、うん」と曖昧な答えをした。

 僕らは真っ暗闇の中を肩を抱き合いながらゆっくりと進んだ。摺り足で地面の感触を確かめながら、参道の方へ向かっているつもりだった。でも、まるで見当違いの方へ進んでいたらしい。僕らはすぐ藪に足を突っ込んだ。

「ああ〜あ!」

僕は情け無い悲鳴を上げてしまった。でも由紀だって僕の上腕を強く掴んで震えていた。僕らは腰が抜けたように、地面に腰を降ろした。もう動き回るのは無理じゃないかと思ったんだ。

「どうしよう?」

由紀に訊ねてみたが、何も答えてくれなかった。由紀だってどうしていいのか分からないのだ。

 空を眺めてみた。今や僕らに分かるのは上下の感覚だけだ。僕らは救いを求めるように空を見上げた。でも、空は相変わらず真っ黒で、さっきまで僕らの真上で輝いていた月は影すら見えなかった。

 しばらくすると夜の闇が寒さを運んできた。僕らは、寄り添って互いの身体を温めあった。由紀が僕の右の上腕にしがみ付いてきた。

「なんだろう?」

突然、由紀が言った。

「え?何が?」

「ほら、耳を澄ませて」

「え?耳?」

由紀は僕の口を手の平で塞いだ。黙って耳に集中しろ、ということらしい。

「ほら!」

また由紀が言ったが、僕には何も聞こえなかった。でも突然、

ゴゴゴッ

という音がした。僕は由紀の顔(があると思われる暗闇)を見詰めた。由紀が僕に額を寄せて

「聞こえるでしょ?」

と確信を持ったように言った。

 それは地鳴りのような音だった。暗闇の中に置き去りにされた僕らには、怪獣の唸り声のようにも聞こえた。それは断続的に繰り返し聞こえた。聞いてるうちに、唸りは次第に大きさを増し、もう耳を澄まさなくてもはっきり聞こえるほどになった。

「なんだろう?怖いよ」

地震かな?それにしては揺れないね」

僕らは必死で目を凝らし辺りを見回してみたが、暗闇は僕らの視力を奪ったかのように何も見せてくれなかった。僕らは目隠しされて放置された子供のようにただ怯えるしかなかった。次に来る何かが、それが僕らにとって良いことであろうと悪いことであろうと、早く訪れてくれた方がいいと思った。ずっとこのままいる方が余程不安だったのだ。

「ああ、もうヤダよう!」

僕が叫んだと同時に、大地を割るような大きな音がした。同時に、辺り一面が真っ白に輝いた。

「雷だわ」

音の正体がはっきりして由紀は落ち着きを取り戻したらしい。僕はと言えば突然聞こえた落雷の音に腰を抜かしていた。

「に、逃げよう」

僕は参道の方へ駆け出そうとした。落雷がもたらした光は、一瞬辺り一面を照らし出したのだ。僕には参道の方向が分かったのだ。半分抜けた腰でなんとか立ち上がると参道へ向かって走りだそうとした。

「待ちなさいよ」

由紀が僕のTシャツを後ろから引っ張った。「なにするんだよう?」と僕が由紀の手を払おうとすると

「ホント馬鹿ねえ、たくは。雷鳴ってるところへ出てったら、それこそ死んじゃうよ」

「え?」

「だって参道に出れば坊主山でしょ。この辺りで一番高い場所だもの。そんなところをフラフラ歩いてたら雷様の格好の餌食になっちゃうわ」

「ほんと?!」

「当たり前じゃない」

「じゃどうするの?まさかずっとここにいるの?なんだか寒くなってきたし、もう帰りたいよう」

僕の台詞に由紀は大きく溜息を付いた。いつもの、しっかりものの由紀に戻ったらしい。

 でも由紀もすぐには答えは見付からないようだった。少し思案し、それから僕を見た。

「まだ雷はやみそうもないわ」

たしかに空の上ではゴロゴロ音がし、時折、黒雲の間を白い閃光が走った。

「やんだとしても、きっと雨が来る。それもこの調子だと土砂降りになるわ」

僕は「ええー」と大きな声を出してしまった。由紀に不満をぶつけてもしょうがないのに。

 それから由紀はまた考え込んだ。考えては顔を上げて辺りを見回した。雲の合間から漏れる雷の閃光が漏れていた。それが照明の代わりになり、薄っすらと辺りの景色が見えた。

「雨が来るまでにどこかへ入りましょ」

僕はまた「ええー」と叫んでしまった。

「しょうがないでしょ。このまま無理して帰ったら雷に打たれて死ぬか、途中で大雨に降られて風邪を引くか」

「分かったよう。でもどこにする?」

「うーん、社の中かな?」

「鍵が掛かってて駄目だよ。前に入ろうとして鍵が開かないかやってみたけど無理だった」

「じゃ、床下?」

「やだよ。さっきかくれんぼの時、覗いてみたら蜘蛛の巣だらけだった」

「じゃあ、」と言って由紀は考え込んでいた。その時、僕には一つの場所が思い浮かんだけど、僕はそれを気付かないフリをした。由紀が気付かないよう、心の中で祈ったりした。でも「鍵」とか「かくれんぼ」とか、その場所を連想する言葉を僕は不用意にも連発してしまっていた。頭のいい由紀が気付かない筈が無かった。

「社の裏の倉庫へ行こうよ」

僕は「しまった」と思ったが、由紀は既に歩き始めていた。雷を避けるよう境内の縁に生える杉の木に添って歩いていた。僕は由紀のすぐ後を追いながら、なんとか思いとどまらせようと言葉を探した。

「あそこはやめた方がいいよ」

取り合えず僕の口から出たのは、そんな言葉だった。すぐさま由紀の返事が帰って来た。

「なんで?」

「なんでって、えーっと、なんというか、あそこは鍵が・・・」

「ちょうどいいじゃない。鍵が壊れてて。簡単に中へ入れるわ」

「いや、そうじゃなくって、えーと、あそこは蜘蛛の巣、そう蜘蛛の巣だらけだよ。床下なんてもんじゃなかったよ」

「え?この前入った時は綺麗だったじゃない」

「いやあ・・あれから蜘蛛が入り込んだらしくて、今日は蜘蛛の巣だらけ・・・」

「あんたなんで知ってんの?」

突然、由紀が足を止め、振り返った。

「さっき、中を見てないじゃない。鍵は掛かったままだった」

僕は由紀の言葉に気圧されて返答できなかった。

「ねえ、何?あそこになにかあるの?さっきかくれんぼの時だって、わたしがやめて倉庫でお昼ねしよう、って言った時も嫌がってたわよね。何?何なの?」

由紀は僕の胸倉を掴まんという勢いで問い詰めてきた。僕は、どう答え良いのか分からなかった。実際、何も見てはいない。開いた引き戸の向こうに、誰かと誰かの気配がしたけれど、見た訳じゃないんだ。

 それに、不思議なのは僕が引き戸を閉めようとして、でも身体が固くなって閉められなくて、そこへ由紀が来て、僕は慌てて閉めようとしたんだ。由紀にその光景を見せたくなかったから。でもその時、引き戸は閉まっていた。そして由紀が言うように鍵も閉まっていたんだ。僕は狐にでも化かされたのだろうか?

「しょうがないわねえ、答えられないんなら行くよ!」

僕は仕方なく由紀の後に付いて行った。

 社の裏手へ出ると、荒地の中ほどに倉庫が立っていた。磨りガラスの窓からは、光が漏れていない。ということは、もう誰もいないらしい。もっとも初めから居なかったのかも知れない。僕が白昼夢のようなものを見たか、薄暗い倉庫の奥にお化けがいて僕を脅かしたのか、そのどちらかもしれない。僕は馬鹿らしくなってそれ以上、考えるのをやめた。

「開いた」

数日前と同じように由紀が金具を引っ張ると南京錠は簡単に開いてしまった。中がすっかり錆び付いて使い物にならないのだ。

 由紀が引き戸を開ける時、僕は心臓がどきどきした。さっきかくれんぼをしていた時に見た光景――いや僕は何も見ていないから、感じた雰囲気と言った方が良いのだろうか?――僕らが見てはいけない何かがそこにあったらどうしよう?と思ったんだ。

「真っ暗ね」

由紀が呟く声に僕は飛び上がって驚いた。

「何してんの?」

不思議そうに由紀は言った。僕は由紀の声が倉庫の中の何かの音かと勘違いしたのだ。真っ暗な倉庫の中は静まり返っていた。

「どこかに・・・」

由紀が何かを探しているようだった。

「ないかなあ・・・」

「何が?」

「スイッチよ。電気の」

「そんなのあるかな?」

「あるよ。だって作業台がある。こんな窓の少ない倉庫じゃ、仕事をするには昼間だって暗いでしょ」

「そりゃそうだ」

僕は阿呆のように納得した。

 ふたりで随分と長い間、壁を手で触れてスイッチを探した。だけどなかなか見付からなかった。やがて僕が、探すのに飽きた時、それは見付かった。

「ここ、ここだよ」

え、どこ?と由紀が喜んで近付いて来た時、僕はスイッチを押した。蛍光灯が二三度瞬いた後、倉庫の中が明るくなった。

「柱の裏側にあった。ぶら下がろうとしたら手に触れたんだ」

僕は見付けた経緯を説明した。

 気付くと倉庫の外は静まり返っていた。時折、小さく雷の鳴る音がゴロゴロと聞こえた。それも遠ざかっていく感じだった。

「雷、行っちゃったね」

僕は「帰ろう」という意味で由紀に言った。でも由紀はゆっくりと首を左右に振った。それと同時に、倉庫の外で大きな音がした。それは雷の音ではない。バケツをひっくり返したような音。土砂降りの雨が訪れたのだ。

 突如、降り始めた雨は、激しく倉庫の屋根を叩いた。

「壊れないかなあ?」

僕は不安になった。なにしろ簡単な作りの倉庫だから、大粒の雨に派手な音を立てていた。

「大丈夫よ。トタン屋根だから音が響くのよ。それだけ」

たしかに音は派手だが、水が浸入してくる気配は無かった。

「ほら、慌てて帰らなくて良かったでしょう。帰ってたら今頃濡れ鼠よ」

そりゃそうかもしれないが、ここに居たっていつになった家に帰れるか分からないじゃないか、と僕は思った。それに、激しい雨が倉庫の熱を奪っているらしい。だんだん寒くなってきた。夜になってただでさえ寒いのに、冷たい雨が僕らを凍えさせようとしていた。

「寒いね」

僕らは同時に言った。僕らはすぐに山と積まれた藁を発見した。それは数日前、潜り込んだ藁だ。太陽の熱がそのまま保たれているように暖かだった。

「あそこに入ろうよ」

一番高く積まれた、ちょうど僕らの身長ほどに積まれた藁の間に潜り込んだ。

「暖かいね」

由紀が笑った。その笑顔を見て僕も笑った。藁は太陽の光の匂いが充満していた。予想していた通りの暖かだった。藁は、太陽の光を保存できるのかも知れない、そう思った。それくらい、まるで藁そのものが太陽のように暖かだったのだ。

「なんか眠くなっちゃったね」

どちらからともなくそう言うと自然と目蓋が落ちてきた。意識が薄らいできた時、由紀が

「目が覚めた時、全部元通りになってるかも」

と呟いたのが聞こえた気がした。でもその直後、僕の意識は消えてしまった。


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2010-11-27 りふれいん-44-

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 辺りが十分に暗くなるのを待っていたように月が山の麓から顔を出した。月は濃い橙色に輝き、いつもに増して大きく見えた。

「やった!満月だ」

由紀が小さく叫んだ。

 僕らはかくれんぼにも鬼ごっこにも疲れ果て、社の木の階段に並んで腰を降ろしていた。どれくらい待ったか分からないけれど、暗がりが辺りに満ち始めてから月が顔を出すまで、僕らは随分と焦らされた気がする。だからようやく顔を現した時はなんだかホッとしたんだ。

 由紀は僕の手を握ると、素早く立ち上がった。

「さ、早く行こ」

僕らは目的の場所、境内の入り口の鳥居の下に向かった。木の階段から30メートルほど走ったところにそれはあった。僕と由紀は鳥居の下に立つとすぐ手を合わせ、目を閉じた。

「ところでたく、何てお祈りしてるの?」

由紀の声がした。僕が目を開くと由紀も目を開いて僕を見詰めていた。僕は少し戸惑った。僕はただ手を合わせて「お願いします」と心の中で呟いていただけだった。たしかに何をお願いするのか考えていなかったのだ。どうやら由紀も同じだったらしい。

「『元に戻して下さい』ってお願いしたら?」

僕の意見に由紀は「うーん」と腕組みしてから

「ただ、元に戻して下さいじゃ駄目だわ」

と言った。

「だって母ちゃんが浮気したってことは、もう父ちゃんと仲が悪くなってたってことだもの」

由紀の言うとおりだと思った。でも、じゃどうすればいいのかさっぱり検討が付かなかった。

 それは由紀も同じだったらしい。由紀は不安そうに空を見詰めていた。真っ暗な空には巨大な月が煌々と輝いていた。まるで世界中で僕らだけを照らしているような錯覚に陥るくらい、それは僕らの真上にいた。由紀の不安は、その月が僕らの真上、つまり鳥居の上を通過してしまう前に、お祈りをしなければならないことだった。

 由紀が何か呟いた。でもあんまり小さい声だったから、何を言っているのか聞こえなかった。普段、誰よりもはきはき喋る由紀だったから、余計に聞き取り難かった。僕は由紀の顔を見詰め、首を傾げて見せた。

「時間を遡れないかな?」

想像もしていなかった言葉に僕はなんて反応していいのか分からなかった。

「時間を遡るって、何のために?」

そう問い返すのがやっとだった。由紀は僕の問いに困惑した表情を浮かべながら、また空を見た。月はいよいよ鳥居の真上に達していた。あと少しで鳥居の上を通過してしまう。それまでに願い事をしないと僕らの望みは叶わないという。

「父ちゃんと母ちゃんの仲が悪くなり始めた日に戻るの。そうすれば仲が悪くなった理由も分かるし仲直りさせる方法も見つかるわ」

「仲が悪くなり始めた日って、そんなの分からないよ。だって父ちゃんなんていっつっも機嫌悪かったから、オレ、なんで母ちゃんこんな人と結婚したんだろう?って不思議に思ってたんだもの」

それは僕にとって越えられない二律背反で、そんな僕の父親を由紀の母が愛したから僕らは家族になったんだ。

「父ちゃんのことをそんな風に言っちゃ駄目」

この6年間、何回も繰り返されてきた会話だった。由紀は決して僕の父を悪くは言わなかった。僕の知る限り、父が家にいる時の由紀はいつも無口だった。そんな由紀が父を悪く言わないのは、僕ら家族がいつまでも家族でいるためにはそうするのが一番良いと考えているからだろうと僕は思った。それだけ由紀は僕ら家族を大切に考えているのだと。

 僕はそんな由紀の気持ちは分かったけど、やっぱり父と母がいつまで愛し合っていて、いつから仲が悪くなり始めたのかなんて分からなかった。

「大丈夫、二人の仲が悪くなったのって、そんなに前じゃないと思う」

由紀は確信を持っているように言った。

「一年前はまだ大丈夫だったと思うよ」

「一年前?何だよそれ?」

「みんなでスキーに行ったじゃない。貸別荘に泊まって」

「ああ、あのおんぼろ別荘な。うち貧乏なくせに無理するからひどい目にあったよ。隙間だらけで薪も足りなくて夜雪が吹き込んで大変だったなあ。よく遭難しなかったって・・・」

僕は由紀が泣きそうな顔をしてるのに気付いた。鈍感な僕は、由紀の気持ちなんてさっぱり分からなかったんだ。由紀にとってあの旅行は、とても大切な思い出だったに違いない。僕ら家族は、貧しかったのと、父の仕事に休みが無かった為に外出することがまったく無かったのだ。僕はそれでも気にならなかったが、由紀は賢い子供に特有の強い好奇心から、友達の誰かが遠くへ遊びに行ってきたという話をすると熱心に聞いていたものだ。

だから由紀にとってあのスキー旅行は特別なものだったのだと思う。ただ一度の家族旅行。それはただ、父が知り合いの旅行代理店から無理矢理押し付けられた旅行券で行ったものだ。それでも、それは由紀がずっと望んできたことだったのかもしれない。

ふと、由紀が涙が出そうな顔を左右に小さく振ったのに気付いた。

「隙間って、そこからヤマネが顔出して可愛かったじゃない」

僕は、そんな由紀を傷付けたみたいでばつが悪かった。でも、僕は馬鹿だったからその時、意地を張ってしまった。もっと由紀の気持ちを考えて、話せば良かったのに。

ヤマネヤマネなんて冬眠してるよ。あれはネズミ。山ネズミさ」

「山ネズミを略してヤマネって言うんじゃないの?」

「馬っ鹿じゃねえの?」

「もう、どうしてタクってそんなに悪くばっかり考えるのよ!楽しかったんだからいいじゃない!」

「ふん!夜中に吹雪が吹き込むようなボロ屋敷に泊まってネズミに馬鹿にされて何が楽しいもんか!その上、レンタルスキーだって今時見たことも無い古くてぼろっちい奴だったし」

「でも、曲がれるようになったわ」

「一生のうちもう行かないんだろうから、一日券くらい買えばいいのに、ケチって回数券にするから、せっかく調子の出たところでお仕舞いだもんな。ふん、我が家なんてそんなもんさ!」

「でも、楽しかったでしょ!父ちゃんも母ちゃんもずっと笑ってたじゃない。たくみだって笑ってたじゃない。とっても楽しかったじゃない」

いつの間にか由紀が泣いているのに気付いた。僕はますますばつが悪くなった。僕がつまらない意地を張ったためにこんなに由紀を傷付けてしまったんだ。

 誰でも自分の大切な思い出を否定されたくない、そんなことはこの時の僕でも分かっていた。でも僕は、自分が言ったことの無神経さに気付いていた分、意地を張ってしまった。だから由紀の顔に涙の筋が流れるたびに僕の心に痛みが走った。

「私たちの家族、みんな仲良しで楽しかったじゃない。それをそんな風にひどく言わないで」

由紀が「たく馬鹿あ」と小さく叫んだが、きちんとした言葉にならなかった。鼻水で鼻が塞がってしまっているようだった。由紀は子供のように泣いた。

 僕は由紀が泣くのを見るのは何年ぶりだろう?と思った。随分と昔、まだ由紀と母が僕の家に来たばかりの頃、由紀が泣いたのを見た気がする。でもそれ以来、由紀は泣かなくなった。勝気で前向きな由紀は、どんな時も最後は良い結果になると確信しているように見えた。だから何事も良い方に考えるのが由紀だった。でも今、そんな由紀にもどうしようも無いことが起こった。父母の離婚という僕ら子供にはどうしようも無い出来事。僕らにはどう考えても前向きな答えが見付からない。それでも由紀は、答えを見付けようとしていたのだ。

 そんな由紀の気持ちを僕は少しも分からず文句ばかり言っていた。僕は「ごめん」と心の中で呟いた。でも、口には出せなかった。

僕らは一緒に目を瞑り、両手を合わせて願った。空の月は鳥居の上を通り過ぎようとしていた。僕らは大分長いこと願っていた。でも何も変化は無かった。

「何も起きないね」

暗闇に包まれた境内は ただ静まり返っているだけだった。

「やっぱり駄目なのかなあ」

僕らが空を見るとあれほど大きかった満月が、薄ぼんやりとしてきた。月に雲が掛かって来たらしい。雲は見る間に月を覆い、辺りは真っ暗になった。何も見えないほどの暗黒に僕らは包まれ立ち竦んだ。洞窟の中にいるようだった。社も鳥居も見えず、帰るべき参道も見えなくなった。僕らはしっかりと手をつなぎ、地面に座り込んだ。


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2010-11-24 りふれいん-43-

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それはかつて何度も見た光景だった。いや、正確に言うと僕は毎日それを見ていたんだ。

「行って来るね!」

由紀が明るい声を放った。母が、優しい笑顔で僕らを見送った。もう6年もそんな光景を見ているというのに、僕はこの母娘のこんな姿をみるのが好きだった。

 由紀の、放課後に僕を拘束する癖には辟易したけれど、彼女は僕の自慢の妹だった。同級生だし、誰が見ても由紀の方が大人っぽいから、誰かに由紀のことを「妹」と言うと笑われる。でも僕の方が一ヶ月早く生まれたのは確かなのだから、僕が兄であることに間違いは無いんだ。

 僕は由紀に比べのろまだったから、朝はいつも由紀に遅れて玄関を出た。ポッケにハンカチを入れたり、カバンを担いだり、靴下を履くのに由紀より時間が掛かったんだ。だから僕が玄関を出ると由紀はいつもブランコに腰掛けていた。コの字に建った長屋に囲まれた場所に立つブランコは毎朝、ベンチの代わりをしていた。

 毎朝、このブランコを見るたびに意地悪だった由紀を思い出すんだ。由紀はいつも僕に敵意を剥き出しにしていた。特に母が僕を甘えさせている時など、今にも喰い付くんじゃないかって顔をしてた。ことあるごとに僕を悪者にしようとしてた。だからブランコから落ちた時だって、僕のせいにしたんだ。でも母はまるで取り合ってくれなかったから、由紀は涙が枯れるんじゃないかと思うくらい泣いた。駄々を捏ねて泣いた。母が僕を叱るまで泣き止まないと脅したりもした。僕に、思いつく限りの罵声を浴びせた。でも、まだ小学校一年生の由紀には、思い付く罵声と言ってもそう多くは無かったから、本人は余計に悲しくなってしまったらしい。そういう時間を経て、僕らはすっかり兄妹になったんだ。それからの由紀は、相変わらず僕を馬鹿にしてはいたけれど、僕を兄として受け入れてくれた。どう違うって?良く分からないけど、僕が母に愛されることを許した、ということだろうか。僕が母の膝に凭れていても、風呂で母に身体を洗って貰っていても、以前のように不機嫌にはならなかった。なにごとも無いかのように今日、小学校で起こった出来事や、放課後した遊びのことなどを母に話していた。

 でも、この光景を見るのもあと僅かだった。母は父に許されなかったのだ。母と由紀はこの家を出て行く。

 授業がすべて終わり放課後になった。僕は由紀が何をしたいかが分かっていた。鳥居へ行くんだ。山の斜面の参道を登った神社の、鳥居へ。

 僕らはそこで願掛けをした。髭おじにそそのかされた形で。もっとも髭おじを悪く言うと由紀が怒ったから、僕は彼については何も言わない。でも、もし由紀が言うようにあの日、僕が「父が居なくなるように」なんて願ったから、父母が分かれることになったのだとすれば、そうさせたのは髭おじだ。髭おじが「満月の晩、鳥居の下で願い事をすれば叶うかもしれない」なんて、中途半端なことを言うからいけないんだ。絶対叶う、って言ってくれれば、不用意な願いはしなかった。もっと厳選して願掛けしたんだ。逆に髭おじが、あんなこと言わなければ願い事をすることも無かったんだ。そうすれば僕ら家族はこれまでどおり安泰で暮らせていたかもしれない。

 でも、おかしいことが一つある。僕の願いが叶った為に父母が分かれることになったのだとすれば、僕はどうなるのだ?願いの通りになるとすれば、僕は父を置いて母と由紀とともにこの家を出て行くことになるのだ。しかし現実にそれはあり得ない。父母が分かれることで、血の繋がらない僕が二人と一緒に暮らす”理由”が無くなってしまうのだから。

「行こ」

下駄箱の前に座り込み、僕が靴を穿いていると頭上で由紀の声がした。僕はそれに頷き、立ち上がった。僕らは手に手を取るようにして玄関を飛び出した。背後で声が聞こえた。

「お二人さーん、仲良過ぎー!」

「見せ付けるなあ、もう!」

「両親が離婚したんだから、結婚できるんだよ君たちはあ!」

子供は残酷だ。無責任な言葉で囃し立てられながら、でも僕らはそんなことを気にも止めず、目的の場所へ走った。

 もっとも、慌てて向かっても夕陽が沈む時間にならなくちゃ目的は達成できないんだ。途中でそれに気付いた僕は、由紀に「歩こうよ」と提案した。クラスで一番、脚の早い由紀にくっついて走るのはかなり大変だったから。由紀は僕に言われるがまま走るのを止めた。

 僕らはゆっくりと歩き始めた。まだ時間はあったから。その時までには、まだ十分な時間があったんだ。

 僕らは、無為に時間を浪費し、時が来るのを待った。それでも僕らは、僕らが待っている時間が来るよりずっと前にその場所に着いた。子供には浪費しても終わらない時間が与えられているらしい。そんな時間を贅沢に持て余しながら、僕らは待ちくたびれてさえいた。

 ある日、どんなに努力しても時の速度に追い付けないことに気付くのだ。何もかもが取り返しの付かない状態で、過去に消え去っていってしまった時、僕らは大人になるのかもしれない。僕は今日に限って、自分の中にそんな年寄り染みた考えが浮かび上がって来ることに疑問を感じていた。

 僕らは暇つぶしに、境内で何かやろうということになった。初め由紀がかけっこ(走競争の方言)をやろうと言い出したが、6年生の僕らには境内は狭かったし、学年で一番早い由紀に僕が叶う訳が無かった。「繰り返しやれば勝てるかもよ」と由紀が言ったが僕にしてみれば負けの決まった勝負はやる気が出なかった。そこで色々考えた結果、単純だがかくれんぼをすることになった。じゃんけんをするとまず由紀が鬼になった。

 由紀が境内で一番太い杉の木に顔を当て「十」を数え始めた。僕は、ぐるりと境内を見渡し、社の影に隠れることにした。在り来たりだが、境内の周囲に他に隠れる場所が見当たらなかったのだ。由紀が「八」と言ったのを聞いて僕は走り出した。一度、社とは反対の方向へ走ってから、今度は足音を立てないように社の裏へ向かった。由紀の耳を眩ますためだ。なるべく大回りをして、境内の縁に沿って社の裏へ回った。由紀の数える声が小さく聞こえた。「四」と言った。僕はそれそれ慌てて隠れ場所を探さなければと思った。社の裏から建物の下に潜り込もうか、と思って床下を覗くとそこは蜘蛛の巣だらけで途端に侵入する気が失せた。そこを諦めた僕が辺りを見回すと手頃な隠れ場所になりそうなものが目に入った。それは倉庫だ。物置くらいの大きさの倉庫。数日前、由紀と一緒に来た時に見付けた。中には藁が沢山、仕舞いこんであった。そこに潜り込んでしまえば由紀も容易に見付けることは出来無いだろう。

 あの時、由紀が壊してしまった南京錠はそのままだった。僕は南京錠を外すとなるべく音を立てないように引き戸を開けた。少し開いたところで中に誰かの気配がした。気配は一人ではなかった。

「中に誰かいる」

僕は、僕の心の声に戦慄した。心の底から震えが来た。なにをそんなに恐れたのか?僕には分からなかった。僕は何も見なかった気がする。だからその気配が人間のものだったか、それとも犬や猫だったのか、それすら思い出せない。でもその引き戸の向こうには僕の知らない場所、僕が認めたくない世界があるような気がしたんだ。だから僕はただその気配に気圧され恐れおののき、ただその場に立ち尽くしていた。

 それはひどく長い時間に感じられた。ずっと僕は硬直した身体の中で、心も凍り付いたように動かせなかった。唯一、僕は開け放った引き戸が気になっていた。引き戸を閉めなければ、とそればかり気にしていた。なぜそんなことが気になったのか?やがて僕を探しに来る由紀に見せたくなかったのだろうか?しかしそれとは違う何かだった気がする。違う何かが、僕に引き戸を閉めるよう命じていた。

 でも僕の身体は何かに金縛りにあったように動かなかった。引き戸はずっと開けられたままで、僕の左手にはずっしりと重い壊れた南京錠がぶら下がっていた。役立たずな鍵がなぜこれほど重いのか、僕は疑問に思った。

「たく」

誰かが背中を叩いた。振り返ると由紀がいた。

「見付けたよ!」

由紀は満面の笑みを浮かべていた。父母の離婚が決まってから沈みがちだった由紀の久しぶりの笑顔だった。勉強も運動もいつも一番で、勝気な由紀には笑顔の方がよく似合った。その笑顔があんまり輝いて見えたから、その時、僕は不条理というものをよく理解したんだ。

 僕らはこの6年間、幾つもの衝突を経て兄妹になった。僕らの家族としての絆は、血の繋がった家族のそれと遜色なんてありはしない。でも、間もなくそんな僕らは引き裂かれる。親たちの勝手な都合によってだ。思えば六年前、由紀が僕の家で一緒に暮らすことになったことだって、由紀が望んだことではない。あの頃、由紀が酷く意地悪く見えたのは、由紀なりに不条理な現実と戦っていたのだ。由紀から見たら、同い年の僕だって不条理な現実の一部にしか見えなかったんだ。そしてあと後数日で、由紀は同じことをもう一度繰り返さなければならなくなるのだ。

 僕はふと気が付いた。この引き戸の向こうに何があるのかを。それは大人たちの勝手な都合。僕ら子供に知らされない理屈かもしれない。

「どうしたの?」

由紀が僕に近付いてきた。僕は慌てて引き戸を閉めようと由紀に背を向けた。しかし引き戸は閉まっていた。それだけじゃない。あの壊れた南京錠も掛かったままだ。僕は狐に摘まれたような気分だった。ほんのつい今しがた僕が南京錠を外し、引き戸を開け、そして中から湧き上がるように現れたある予感に僕は苛まれていたんだ。でも、今僕の目の前の引き戸は閉まっていた。もちろん南京錠も外れてはいない。開けられた形跡すら無かった。

「どうしたの?」

由紀は不思議そうに、僕が見詰める南京錠に顔を近付けた。

「この間の南京錠だねえ、これがどうしたの?」

あんまり由紀が顔を近づけるものだから、僕は由紀に引き戸の中まで見られてしまうような気がした。僕は力任せに慌てて由紀を押し戻した。

「きゃ!なにするの」

転びそうになった由紀は

「乱暴なたくね。訳わかんない」

と頬を膨らませた。

「何やったたのよう。もう簡単に見付かって。ちゃんと隠れないとつまんないよ。でも、たくが鬼だからね!」

「分かってるよう」

僕らは社の裏から境内へ向かって歩き始めた。鬼が目隠しをする杉の木に向かって。

「ねえ、やっぱり鬼ごっこやめにしない?」

突然、由紀が言った。悪戯っぽい笑みを浮かべている。由紀は最近、こういう表情を見せるようになった。由紀は、僕の妹なのに、ずっと僕より大人びていた。だからいつも悪戯するのは僕で、その僕を叱るのは由紀と役割が決まっていた。でもいつからだろう?ほんの最近、時としてまるで子供のような顔をするようになった。年齢的にはずっと、そして今も子供の筈なのに、由紀はようやく最近、子供になったような気がした。それが何故なのか。僕にはまるで分からなかった。

「やめて何をするの?」

僕の問いに由紀は「えへへ」と小さく笑うと、僕らの後方を指差した。

「え?何?」

「さっきの」

「さっきの?」

「倉庫」

「倉庫?」

「あそこでこの間みたいにお昼ねしよ。まだ暗くなるまで時間あるしさ」

僕は慌てて首を左右に振った。僕の目には倉庫の中にまだあの何かが潜んでいるのが見えた。それは黒い渦のように、倉庫の奥で暗いエネルギーを発していた。もしかしたら魔物かもしれない、と僕は思った。こんな古びた神社の裏にある、汚らしい倉庫だから、妖怪の一匹や二匹いても不思議は無いのかもしれない。

「駄目だよ!、駄目駄目!」

僕は強く否定して、由紀の腕を強く引っ張った。

 由紀は「なんで?」と首を傾げながらも、しぶしぶ僕に着いて来た。

 それから僕らは夕闇が迫るまでずっとかくれんぼをした。でも僕はもう社の裏へは行かなかったし、由紀にも行かせなかった。


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2010-11-20 りふれいん-42-

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「さあさあ、上手く揚がったで」

今時珍しい卓袱台の上に置かれた皿の上には、コロッケがこれでもかというくらいに乗っていた。

「腹いっぱい喰っとくれ」

先ほど病院で遅い昼食を食べたばかりだった。第一、コロッケの量は若者が食べるほどのものだ。

「病院でトーストをもらったばかりなんだ」

「何言ってんだい。これっぱかしペロって喰っちまったじゃねえかい」

老婆の中ではいつまで経ってもわたしは少年らしい。

「さ、これもな」

盆から飯と味噌汁、そして漬物を置いた。

「テレビでも点けるか」

そう言って角の婆さんはテレビのスイッチを入れた。綺麗に拭かれたテレビにはリモコンは無いらしい。恐らく十数年も前に買ったものを後生大事に使っているのだ。点いた画面は色褪せて見えた。

「そろそろ買い換えた方がいいんじゃないかな?」

「なんで?まだ見れる」

「うーん、でも再来年からデジタル放送というのが始まって、するとこういう古いテレビは観れなくなるんだ」

婆さんは返事もせず、頷きもせず黙ってテレビを眺めていた。それから

「死ぬるからいい」

と小さく言った。あまりに早口だったので、わたしはその声を聞き逃した。「え?」っと聞き直すと

「死ねっちゅうこっちゃ。用済みの者はな。いい、いい。もう十分生きたから。生き過ぎたわい」

ぶつぶつと独り言のように呟いた。婆さんはずっと一人身だった、と記憶している。当然のことながら子供は無かった。親はとっくに没しているだろうし、兄弟姉妹も、あったとしても既に亡くなっているか、縁遠くなって行き来など無いだろう。思えば孤独な人生だ。

「早く喰え!」

婆さんに促され、わたしは箸を取った。自然と笑いが込み上げてきた。もちろん自嘲だ。

 この老婆を哀れむ筋合いではない。会社から追い出され、妻と娘に捨てられた我が身は目の前の老婆と変わらない。あるいはこの老婆もわたしの知らぬところで誰かと繋がりがあるかもしれない。であれば孤独なのはわたしだけなのだ。

 大盛りの飯の上に揚げたてのコロッケを一つ載せた。記憶が蘇った。少年の頃、暖かい飯の湯気で蒸されるコロッケの匂いに胸を躍らせたものだ。

「ソース、ほれ!」

婆さんから渡されたのは懐かしいウスターソースだった。あの頃、大好きなコロッケだったが一つしか食べられなかった。そのために飯の上にコロッケを置くとウスターソースを飯に沁みるほどたっぷり掛けて食べたものだ。わたしは軽く掛けると飯と、コロッケを一緒に口の中に頬張った。あの頃は必ずそうして食べた。潰した芋と中に含まれたひき肉の味、揚がった衣の香ばしさがウスターソースで際立ち、飯がその味を包み込むのだ。

「懐かしかろう。お前の母ちゃんもな、コロッケ揚げるの上手かった」

それには叶わんがわしのもなかなかのもんだろ、という老婆の声を聞きながら母を思った。そういえば母はどうしてるのだろう?両親が離婚して以来、母とは会っていなかった。勿論、由紀ともだ。

「ところで今日は、何しに来たんだ?」

「あ?ああ、まあちょっと。たまには生まれ故郷を見たいと思ってさ」

「そうか。そういえばどこに住んどるんだったか?」

「杉並・・東京だよ」

「ああ、ずっと東京にいたんだなあ。仕事は何しとる?サラリーマンか?」

「あ、うん、そうだね。ただ、一昨日辞めたんだ」

「辞めた?なんで?」

「うん、このご時世だろう。会社も大変なんだよ。だからさ、やり直せるうちに辞めちゃおうと思って」

「それってリストラって奴か?」

違う、と言いかけてわたしは口をつぐんだ。違うと思う方が間違っているのであり、婆さんの言うことが真実なのだ。たしかに形の上では依願退職だったが、社長から不要の烙印を押された。リストラと言うのが正しい。

「あー、湿っぽい話はやめだ!そうだ、酒があった。しばらく飲まんかったから忘れとった」

そう言って婆さんは立ち上がった。「医者からな、酒は控えろって言われて、飲まなくしとったらすっかり縁遠くなっとった」と独り言のようにいいながら、台所を探り始めた。ほどなく一升瓶を見付けたらしく「冷でいいな」と声を掛けてきた時は、もう湯呑みも持って来ていた。

「さあさ」

と注がれ、一口口に含むと、婆さんの湯飲みに注ぎ返した。久しぶりの酒に婆さんは顔を蒸気させていた。

「婆さん飲み過ぎんなよ。医者から止められてるんだろ?」

「なんの、控えろというだけよ。それに、そのデジタルなんとかで、テレビが観れんくなる前に死にゃいいんじゃ。こんなババア、テレビくらいしか楽しみがないからのお」

婆さんは思い切り良くグイと呑み込み、噎せた。

「言わんこっちゃ無い」

とわたしは婆さんの背中を軽く叩いた。とんとん、と叩いたそこは驚くほど肉が無く、どれほど軽く叩いてもほろほろと骨が崩れ落ちそうな感覚に襲われた。そして婆さんの噎せた咳はしばらく収まらなかった。

「大丈夫か?婆さん」

「へ、大袈裟な。久しぶりだったもんで肺の方に入っちまったんだよ」

「何十年ぶりかで会った途端にあの世へ行かれたんじゃかなわないよ」

「いつの間にそんな減らず口が叩けるようになったんだろうね。いっつも泣いてた子が」

婆さんは悪態を突きながら再び湯飲みを口に付けた。今度は噎せずに飲み込めたらしい。

「ふう。甘いだろ。わしは甘口が好きなんだよ。口に合わんか?」

「いや、それほど酒は強い方じゃないんだ。だからこれくらいの方が飲みやすいよ」

そりゃあ良かった、と言いながらまた婆さんは立ち上がろうとした。「えっと、たしか乾物入れてる缶の中にスルメが・・・」と言っていた。

「婆さん、もういいよ。ほら、こんなにコロッケがある。これを肴にしよう」

「ん?だが塩っ気が足りねくねえか?」

「ほら、こうしてソースを多めに掛ければ十分塩っ辛い」

わたしの言葉に婆さんは「ああ、そうかい」と素直に従うと、どすんっと音を立てて座り込んだ。もう酔っているらしい。少し呂律も回らなくなってきた。


 婆さんが泣き上戸だったとは、初めて知った。もっともわたしがここに住んでいたのは小学生の頃だから隣家の者の酒癖まで憶えてはいない。酒が入るにつれ口が滑らかになり、涙腺も緩み、自身の口から出た言葉に身を震わせた。

 酔っ払いの話ほど、聞く側に迷惑なものはない。婆さんは自分の身の上にどれだけ不運が重なったのかということを、延々と繰り返した。もっとも婆さんが、若い頃に一度結婚していたということには、驚かされたが。

「へえ、なんで別れちゃったんだい?」

「死んじまったんだ。しゃああんめい」

わたしは、なぜ死んだか?とは訊かなかった。婆さんは訊いて欲しそうだったが、これ以上、同じ話題で堂々巡りをすることに飽きたのと、わたしが訊きたい話題に切り替えたかったのだ。しかし婆さんはわたしの思惑通りには話を進めてくれなかった。話は第二次大戦後の動乱期から始まり、亡くなったご主人との出会いから、荒廃した農地で悪戦苦闘したこと。やがて生活が上向き始めた頃、ご主人が他所に女を作ったこと。婆さんには子供が出来なかったこと。ご主人が家に寄り付かなくなってしばらくの後、入院したとの噂を聞いたこと。病院へ駆けつけて見ると既に手遅れだったこと。

 酒とタバコ、不規則な生活などが災いしたらしい。癌だったという。若かった分、末期に至るのも早かったらしい。

「女房そっちのけで女にうつつをぬかしたバチが当たったってもんよ。けどなあ、一番酷えバチが当たったのはわしじゃねえかあ?それからずっと一人っきしで、何十年も暮らし来たんだで」

婆さんは泣きながら湯飲みを口に当てた。

「それにしても、なんで神さんはこんな歳まで生かすんだかな」

「なんでって、そのお陰で今生きてるんだから、いいんじゃないのか?」

「何がいいんだ?何のために生きてるんだ?家族もいない。相手にしてくれる者も誰もいない。このまま死んでも、きっと誰も気付かねえわ」

たしかに、かつて満員だった長屋は、既にこの一棟を除き撤去されている。この一棟にしても、婆さん以外住んでいないのだ。逆に言えばこの棟は婆さんが生きているから撤去できないということだろう。

「ま、町役場の者たちも、わしが死ぬのを今か今かと待ち草臥れてるだろうて。この棟を壊して分譲団地として住宅会社に売り払う予定らしい。だが、早くしねえとこれ以上景気が悪くなったら会社も買ってくれねくなっちまうんだ、なんて行って来たわ」

「え?誰が?」

「役場の職員だ」

「そりゃ酷え話だな。まるで死ねって言ってるようなもんじゃないか」

「ああ、昔からヤクザみてえな野郎でさ・・・あ?いや、そういうつもりじゃあな、ねえんだ」

途中から婆さんの口振りが変わったことが気になった。そのことを聞こうとしたが、その前に婆さんが訊ねてきた。

「ところで何回忌だ?」

「え?何?」

「何って、だから何回忌になるんだ?」

わたしには婆さんの言っている意味がまるで分からなかったのだ。なぜ分からなかったのか、後になって考えてみるとわたしは長い間どうかしていたのだ。

「玄徳寺でやったんか?」

「ごめん、なんのことかさっぱり分からないんだ」

婆さんはわたしの言う意味がまるで分からなかった。

「その、何回忌、って何だい?」

わたしの問いに婆さんは目を丸くした。それからわたしの顔を覗き込み「おぬし、間違いなくたくみだの?」と確認した。

「なんじゃ、父ちゃんの年忌法要をやりに帰って来たんじゃなかったのか?」

えーっと、三十三回忌じゃなかったかのお、と婆さんは指を数えて見せた。

「婆さん、何を言ってるんだ?親父は長野の施設に入院してるだろ?」

わたしの言葉がよく聞き取れなかったのか、婆さんは首を傾げたまま何かを考えるように黙り込んだ。何か独り言のようにぶつぶつ言いながら何度も湯呑みに口を当てた。

 酒が回ったのか婆さんは、真っ赤な顔のまま目を瞑り、時折前後に身体を揺らした。座ったまま眠ってしまったらしい。わたしは押入れを開けた。中から毛布を取り出し婆さんの背中に掛けようと思ったのだ。襖に手を掛けると、色褪せた襖紙の模様に見覚えがあった。

 まだ小学校も低学年の頃、たまに婆さんが「菓子があるから来い」と手招きした。由紀と二人で行くと、婆さんは羊羹やらカステラやら、多分もらい物らしい菓子とお茶を出してくれた。そのまま二人で夕刻までこの家で遊んだ。遊ぶ道具が無いから、襖を開けた。二段になった上の段から布団を降ろした。クッションにするためだ。それから上の段に登ると、布団の上に飛び降りた。逆さに落ちたり、尻から落ちたり、そんなことが楽しかった。自分達の家では、布団で遊ぶと叱られたから余計に楽しかった。婆さんはそんな風にして僕らが遊んでいても怒るどころか楽しげに見ていた。

 あの頃と襖の模様が変わらない。30余年、襖は張り替えていないらしい。開けると、上の段に薄く硬い布団が畳まれていた。驚くほど狭かった。こんな小さな押入れに由紀と二人で登っていた。飛び降りるのには初め、勇気が要ったのだ。もっとも僕の身体も今よりずっと小さかったから。

 畳まれた布団の上に、一色で模様が描かれた毛布が乗っていた。硬いそれは一枚の厚い布のようだった。これも30余年前、ここにあった。僕はそれを手に取り、婆さんの背中に掛けた。その拍子に老婆が目を覚ました。

「たくみ、許してやれや」

寝惚けているのだろうか?と僕は首を傾げた。しかし老婆は、酒で染まった赤い目を僕に向けた。そこには明確な意思が感じられた。寝惚けた人間の目ではなかった。

「父ちゃんも、母ちゃんもみんな許してやれ」

「?」

理解の外にある言葉にわたしはどう反応して良いのか戸惑った。

「由紀は可愛そうなことをした。だが迎えに来たのだろ?それでええ。血は繋がらずともたった一人の兄妹だからの」

婆さんは両腕を卓袱台の上で組み、そこへ顔を突っ伏した。再び眠りに付いたらしい。

 わたしは途方に暮れた。時計を見るとそろそろ早い最終電車の出る時間だ。田舎の私鉄東京に比べ、最終が驚くほど早いのだ。駅まで歩けば、ちょうど間に合う時間だ。しかし・・・。婆さんに、訊ねてみたい気持ちがわたしの足を止めた。

 「許せ」とは、どう意味なのだ?口ぶりから推察するに「わたしが」誰かを「許す」らしい。誰を?「父ちゃんと母ちゃん」と言っていた。しかしその後に「みんな」とも。わたしが父と母、そしてみんなを許すとはどういう意味だ?そして婆さんは「父の法要をやりに帰って来たのか?」とも言った。法要?父は生きている。長野市の施設に入院していて、今も定期的にわたしに手紙を送って来るじゃないか。それに応えてわたしも毎年、父の見舞いに長野市へ・・・・長野市へ?長野長野県に入るのは何十年ぶりだ。僕は高校を卒業し、大学へ行くとそのまま東京で就職した。以来、長野へは・・・いや、高校ってどこだ?高校?高校は戸山じゃなかったか?大久保から高田馬場に向かう途中。中学も、戸山第二?先月同窓会から手紙が来ていた。名簿の更新の為の確認だ。ではいったい?ここはわたしの故郷なのか?

 間違いない。あの校舎、玄関。背の高い靴箱が図書館の本棚のように立ち並び、その間からいつも由紀が僕を見張っていた。僕が逃げ帰らないように。由紀は毎日のように僕を連れまわすのが趣味だったんだ。ほら、僕が友達と玄関に向かい廊下を歩いて行くと、あの靴箱の陰から由紀が見ている・・・いや?あれは男の子だ。誰だ?あの薄汚れたTシャツ。着古した半ズボン。あれは僕だ。

 靴箱の陰で僕は何をしてる?廊下を歩いてくる声が聞こえてきた。3〜4人の声だ。高い声?女の子たち?淳司、健太、真人じゃないのか?その中で一人無口な女の子がいる。由紀?由紀じゃないか?なぜ由紀が廊下を歩いてくる。

 少年の僕は靴箱の陰から由紀を見詰めていた。由紀は、たしかに僕に気付いていた。でも気付かないふりをして、友達と一緒に帰ろうとしている。でも僕は由紀を逃すことは無い。由紀は小学校の校門を出るまでは友達と一緒だが、友達はみな塾があるのだ。

 見たこともない記憶が脳裏に蘇った。今まで、考えたことも無い様々な疑問が湧き上がった。辻褄が合わない記憶。これまで考えもしなかった幾つもの辻褄が、まるでほぐれた糸のように僕の脳内でのた打ち回った。

 またあの頭痛が襲ってきた。案の定、これまでで一番酷い。どんどん悪くなっている。しかし病院の検査では原因は不明だという。どうなっているんだ?僕は遠のく意識の中で、由紀の苦痛に歪む顔を見た。



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2010-06-05 ドログバが骨折。

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ドログバが骨折。

サッカーではよくあることだからトゥーリオを責めることはできない。

(監督のエリクソンもそう言っている)

でも、今回大会の主役の一人がこういう形で去るのは本当に残念。

前回ドイツ大会、初戦のアルゼンチン戦の思い出すよ。

百戦錬磨のアルゼンチン守備陣5人にペナルティエリア内で取り囲まれ、転倒しながらも立ち上がり、強引にシュートコースを作るとゴールに突き刺した。

その様は、まさに不屈のエレファンツ。狩人に幾重にも縄を掛けられ引きずり倒され殺戮される命の際に、再び立ち上がり人間たちを蹴散らす様を見るようだったよ。

しかし、まだ経験の浅いチームは予選で敗退した。敗退が決まった試合、絶望からピッチに倒れこむチームメートに「これは終わりではない。始まりなんだ」と一人一人手を差し伸べて立ち上がらせたとという。

この時ドログバは26歳だったから、普通に考えると彼にとってのW杯はあれが最後だった筈だ。

それから4年、彼は再び不屈の闘志を持って戻ってきた(戻ってくる筈だった)。それも、更にパワーアップして。

彼の努力に神が幸運をもたらした(筈だった)。

3月に急遽、監督が辞任。新しい監督に名将エリクソンが就いたのだ。エリクソンは前回イングランドの監督をしてたからドログバよく知っている。

そして、昨日の試合を見て誰もが驚いたろう。

アフリカサッカーを体現するような圧倒的なフィジカルを全面に押し出していた筈のコートジボワールが、まるで欧州の一流国のような洗練されたサッカーに様変わりしていた。

ボール回し戦術レベルの高さはオランダスペインと見まがうほどだった。あの強気なトゥーリオが「これまで対戦したチームとレベルが違う」と驚きを隠せないでいた。

今大会、もっとも注目される一人がイングランドを率いるカペッロだ。常に優勝候補に数えられながら大した成績を収められないイングランドを、常勝を約束する名将が率いるとどうなるか?

しかし、カペッロの前任としてイングランドを率い、結果を出せなかったエリクソンアフリカのチームを急ごしらえし、イングランド以上の高いレベルのサッカー体言している。時間だけ見れば「急ごしらえ」だったかもしれないが、この4年弱、エリクソンの中では忸怩たる思いとともに、再出発への渇望に満ち溢れていたのだろう。だから我々が見た2ヶ月はエリクソンにとっては40年くらいの重みがあったのかもしれない。

ドログバがいれば・・・・」

今更、望んではいけないことだけど、エリクソンがこの2ヶ月で作り上げたチーム・エレファンツは間違いなく優勝候補だ。

それでもコートジボワールの健闘を心からお祈り申し上げます。

2010-04-11 りふれいん-41-

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 それは街中に聞こえるんじゃないか、と思うほどの大きな泣き声だった。だが、顔を出したのは角の家のばあさんだけだった。それも窓越に老眼鏡を下げ、ちょっと見てみたというだけ。すぐにその姿は消えた。

 突然、僕に色んな音が襲い掛かって来た。犬はもう吠えていなかったけど、代わりに畑を耕すガーデンのエンジン音が聞こえた。軽トラックが走る音。自転車が走る音。大人が立ち話するひそひそ声。羊羹工場が缶詰にブリキの蓋をする音。蝉が鳴く声。何十匹、何百匹という蝉がけたたましく鳴いていた。それら全ての音が僕の耳の中に大挙して侵入してきた。ときどき鳥の啼く声も聞こえた。それらは僕の耳を塞ぎ、由紀の泣き声を遮断した。僕には音もなく顔を顰め続ける由紀が見えた。かろうじてその目から流れる涙によって由紀が泣いていることを理解できた。

「たくのばかあ!」

由紀は米搗きバッタのように跳び起きると、長屋の僕らの住む家に向かって駆け出した。僕はその姿を見て、由紀の身体が無事だったことに安堵した。

 由紀に続いて玄関の中に入った。明るい屋外からいきなり部屋の中へ入ったので、目が慣れなくてよく見えなかった。ほどなく暗がりに目が慣れた僕が見たのは、母の膝に埋まるようにすがりつく由紀の姿だった。由紀はさきほどとは打って変わって小さな声ですすり泣いていた。

「えんえん」

という赤ん坊のような声が聞こえた。

 僕が玄関のドアを閉める時、いつもの軋むような音が響いた。由紀の泣き声しか聞こえない小さな部屋に、その音は大きく響いた。途端に由紀の泣き声が止んだ。

「おかあちゃん、怒って!」

由紀は母の膝から顔を上げると、両腕を母の首に巻き付けた。それからそう叫んだんだ。いつの間にか由紀はその小さな尻を母の膝の上に乗せていた。まるで猿の親子のようにくっついたまま、母子は玄関で立ち竦む僕を見詰めていた。

「たくが強く押すからブランコから落ちたんだよ!」

半袖から剥き出しの腕を母の顔の前に突き出した。そこにはブランコから落ちた時に出来た小さな傷が無数にあった。

「痛いよう、おかあちゃん」

えーん、と由紀は母の胸に顔を埋めて泣いた。

 ふと視線をずらすと母が僕を見詰めていた。無表情なその視線は、僕を見ている筈なのに僕を見ていないようだった。まるで僕の身体を透過して僕の身体の向こう側の風景を見詰めているように思えた。

 美和がこの家に来て以来、美和に疑いを抱いたのはこの時初めてだった。あの日に僕の心をすべて奪った美和だったから、僕は美和のすべてを肯定し、受け入れてきた。だから僕は美和がすることに疑いなど抱かなかった。でも、まだ幼かった僕にとって、母子の繋がりを否定することなど出来なかったんだ。

 突然、美和の焦点が僕に合った気がした。僕は身体を硬くして、これから来る失望に絶える準備をした。

「たくと由紀は仲良しねえ」

美和の口から思いがけない言葉が出た。

「ふふふ、良かった。もうすっかりほんとの兄妹になったんねえ」

いつもの柔らかい笑みが美和の顔一面に広まって行った。

「怒らないの?たくを。怒らないの?」

由紀が顔を上げ、抗議するように言った。目には怒りさえ浮かんでいた。

「何を怒るの?そんなことより赤チン持っておいで。背中まで擦り剥いて」

なんで、なんで、と由紀は美和の首に手を巻き付け、前後に身体を揺すった。それを横目に見ながら、僕は靴を脱ぎ家に上がった。それから台所に行くと座卓が丸い腰掛を入り口まで運んだ。その上に乗ると、背の高い和箪笥の上から木製の箱を手に取った。箱は両手で持たなければならないくらい大きかった。だからそれを落とさないように腰掛から降りのは少し難しかった。手を使えないからだ。僕は慎重に降りると、腰掛をそのままに母と由紀のいる居間に向かった。

「ありがとね。たくちゃん」

母は僕が持つ薬箱は後回しにし、僕の頭を抱き寄せた。僕は由紀のすぐ横に抱き締められた。それに気付いた由紀は僕を押しのけようと、手や足で押したり挙句に叩いて来たりした。

「やめな、由紀」

母が軽く叱ると由紀はまた泣き始めた。

「しょうがない子ねえ。お兄ちゃんが赤チン持って来てくれたよ」

僕は気を回し、木製の薬箱の蓋を開けた。由紀は全身でいやいやをしながら「お兄ちゃんじゃないもん!ばかたくだもん!」などと悪態を付いていた。母は僕の頭を軽く撫でると赤チンを取り出し、由紀のTシャツの背中を捲くり上げ、血が滲む何箇所かにそれを押し当てた。由紀は「痛い、痛い!」と叫んで泣いた。そして「なんでえ、たくがやったのにい」とか「痛いよう」などと叫んだ。母は笑いながら赤チンを塗り続けた。

 由紀の悪態はそれからずっと続いた。「お夕飯を作らなきゃ」と何度か母が、由紀の腕を振り解こうとしたが、由紀は聞かなかった。母の首にしっかり細長い腕を巻き付け、僕の非を訴えた。そのほとんど、ほぼ全部は僕にしてみればまるで出鱈目な作り話で、由紀は僕を陥れようとしているのは明らかだった。

「困ったねえ。ねえたくちゃん。今日はお夕飯、ちょっと遅くなっちゃう」

僕がコクリと頷くと、母は嬉しそうに笑った。それから僕の頭に手を回し、僕をしっかり抱き寄せた。僕は母の胸に顔を押し付けた形だったから、母の顔は見えなかったけれど母が時折笑っているのが分かった。

 夏の日の長い夕方が終わり、ようやく暗がりが辺りを満たした頃、由紀は泣き疲れたらしい。呆然と宙を見たまま、畳の上に大の字になった。

 今にして思えば、由紀はこの時、僕を家族として受け入れようとしたのだ。不条理なほどの罵詈雑言を吐き、七転八倒することがその儀式だった。血の繋がらぬ僕らが本当の兄妹になるには、こんな激しい時間を過ごさねばならぬことを由紀は知っていたに違いない。

 母の遅い夕食を作る音がした。油で揚げる音がジャーっと響いた。僕はその音が好きだった。僕は、放心したまま大の字になった由紀の隣りで母が立てる音を聞いていた。


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2010-04-10 りふれいん-40-

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「どうしたん?」

母の美和が由紀と、由紀の隣りに立ち竦む僕を見て首を傾げたんだ。由紀と美和の親子が僕の家に来た年の夏のことだ。僕にとっては小学校の入学と新しい母親が出来たことで毎日が楽しい日々の筈だった。そんな日々に冷や水を浴びせるような出来事があった。

 小学校の同級生たちは単純な奴らが多かったから僕は気楽に過ごせた。そして僕が見たこともない漫画やゲームを持っている奴もいたりした。だから僕は毎日、飽きることが無かった。

 それ以上に僕が楽しみにしていたのは、自分の家に帰ることだった。僕は家に帰ると毎日、どきどきしていた。新しい母の美和に、僕の心はそのほとんどを埋め尽くされてしまっていた。僕は美和の美しい顔が好きだったし、柔らかな身体も好きだった。その身体や髪が発する甘い臭いも、すこしのろまな話し方も、のんびりとした動きもすべてが僕の理想の母親像を満たしてくれた。更に美和は僕の身体を抱き締めるのが好きだった。

「わたし、男の子が欲しかったんよ」

と言っては日に何度も僕を抱き締めてくれたものだ。

 僕は家に帰るといつ美和が僕を抱き締めてくれることかと、胸を躍らせながら待ち構えていたものだ。そして抱き締められるたび、僕は夢見心地になり、眠ってしまいそうになった。でも大抵、お尻に鋭い痛みを感じて目を覚ました。痛みの発信源に目を向けると、由紀が真っ黒な顔で睨み付けていた。お知りを抓っているのは由紀だった。

 だから僕は、すっかり美和と母子になっていると思っていた。そう信じ込んでいたんだ。でも、物事はそうやすやすと夢のような結果はもたらさない。その時の僕は、そんな風に自分を否定する思いでいっぱいだった。

 まだ一年生だった僕らは、街を歩いて回るようなことはしなかった。一年生の地理感覚では、大した行動範囲は持てなかったのだ。友達の家に寄る以外は真っ直ぐ帰って来た。だから遊び場は家の中かその周辺が多かった。

 美和が家の掃除をしている間など、僕らは彼女の邪魔にならないよう家の外で遊んだ。

 その日、長屋がコの字に連なる小さな庭で遊んだ。いつものことだった。長屋に住む子供たちの為に砂場とブランコがあったのだ。由紀はブランコに乗るのが好きだった。ブランコを大きく漕いでは、一番高いところで軽やかにジャンプした。クラスでも抜きん出た運動神経を持っている由紀のジャンプはまるでテレビの中の体操選手のようだった。由紀は納得できるジャンプを成功させると決まって腰に手を置き、僕に向かって不適な笑いを浮かべた。

「たくもやってご覧!」

命令口調で言った。でも僕はとても張り合う自身は無かった。だから僕は、俯いてどう対処しようか迷うのだ。こんな時、僕がもっと優秀な人間だったら、と思う。真正面から勝負を受け止めて、躊躇無くブランコからジャンプし、仮に大転倒したにしても見事なほどの心意気を見せ付けたことだろう。そうであれば由紀も僕を侮ったりしなかったに違いない。そんな僕であることは、由紀が一番望んでいたことでもある。そう僕は思っていたし、そういう思いが、由紀と相対する時はいつも重荷として圧し掛かっていたんだ。

 現実の僕は、由紀が望むような兄では無かった。ブランコからジャンプする恐怖に震え、失敗を恐れ、由紀の軽蔑の眼差しに自分を卑下するだけの人間だったんだ。だから僕は迷っているだけでブランコに乗ろうとしなかった。

「意気地なしね!」

由紀は「ふー」っと深い溜息を吐き出すと、ブランコに座った。そうしてしばらく鼻歌交じりに漕いでいたが、ふいにブランコを止めた。

「いいこと思い付いちゃった!」

由紀が思い付く”良いこと”は、僕にとって良かった験しが無かった。

「ねえねえ」

「な、なんだよお」

「たくさあ、自分が乗っても面白く無いみたいだからあ」

ブランコに乗って面白くない筈が無い。ただ、由紀の要求が厳し過ぎるのだ。

「押して」

「え?」

「押してよ」

「何を?」

「あたしをよ」

そう言って由紀は視線で自分の背中を指し示した。

「さあ、早く!」

僕は嫌な予感がした。由紀の目的が分からなかったからだ。こういうパターンの時はいつも、僕がひどいことになる。今日もそんなニオイがぷんぷんした。

「わたしね。ぐるりんって一周してみたいの」

「一周?どこを?」

地球

「はあ?」

間抜けに口を開けた僕の顔を見て、由紀は指を指して大笑いした。

「な、なんだよう?変なのは由紀だろう」

「ばか、ばかねえ地球一周なんてする筈無いじゃない。そうじゃなくって、このブランコが一周するのよ」

「ブランコが一周って?」

「このブランコがぶら下げてる鉄の棒を中心に一周するの。そうすればあたしが見てる景色が一周するでしょ」

まったく無謀なことを考えるものだ、と僕は半ば呆れた。小学1年生とはいえ、そのブランコの構造はぐるりと一周回るように出来ていないのは明らかだった。そんなことをしてブランコから投げ出されたら大怪我をしてしまう。躊躇する僕を促すように由紀は

「やって」

と言った。僕は、由紀にその危険性をどう伝えようかと悩んでいた。でもその悩んでる姿は、ただボーっと突っ立ってるだけに見えたことだろう。由紀は次第に苛立ち始め

「なにグズグズしてんのよ!」

と怒り出した。

「でも、危ないよ」

「はあ?どこが?」

「だって、ほら。ブランコの鎖はここで留まってるんだよ。一周したらここに突っかかって由紀が吹っ飛ばされちゃうよ」

「馬鹿ねえ、その前にジャンプして降りるから大丈夫よ」

無理だよそんなの、という僕の言葉を無視して由紀はブランコを漕ぎ始めた。

「意気地無し!自分でやるわ」

由紀は膝を曲げたり伸ばしたりしながら次第にブランコの揺れを大きくしていった。

「たくが押してくれないから中途半端な勢いにしかならなくって、鉄棒に頭ぶつけちゃうかも!」

大声で叫ぶ由紀に僕は根負けし、仕方なく由紀の後ろに回った。既にブランコは大きく前後に動いていたが、僕はタイミングを合わせて由紀のお尻を押した。二度、三度と押すうち、由紀はブランコを吊るす鉄の棒より高く舞い上がった。しかし、まだ鉄の棒は超えない。それから由紀は宙に舞う木の葉のように不安定に揺らぎながら、再び僕の前へ勢い良く舞い戻ってきた。僕は嫌な予感がしてもうここでお仕舞いにしようと思った。でもその時、由紀が叫んだんだ。

「もう一回!」

もう一回僕がその背中を押せば、由紀が望むとおりブランコは鉄の棒の周りを一周するに違いない。そんなことして大丈夫なのだろうか?僕は不安に思ったが既に由紀のお尻は僕の手の中にあった。僕は由紀に抗えず、力いっぱいそれを押した。

 タイミング良く押された由紀は、軽やかに舞い上がった。僕は見ているだけで背筋が凍り付いた。由紀を乗せたブランコは天を突くまで上がり切ると、その勢いのまま鉄の棒の方向へと回り込んだ。とうとう由紀が望んだとおり、ブランコは鉄の棒を中心に回転した。それに乗った由紀は喚起の声を上げた。

 でも、やっぱり無理だったんだ。ブランコを吊るす鎖は鉄の棒の下部に固定されていた。当然のことながら、ブランコは一周するようには出来ていないのだ。一周したところで鎖は鉄の棒に巻き付き、その長さは半分になり、同時に由紀は投げ出された。スローモーションのように宙を舞う由紀の身体は、あっという間に地面に叩き付けられた。由紀は仰向けに地面に転がったまま、しばらく動かなかった。僕は、慌てて近付こうとしたが、足が竦んで動けなかった。

 しばらく全てが凍り付いたように時間が止まった気がした。その静寂を破ったのはどこからともなく聞こえてきた犬が吠える声だった。犬は僕らと何も関係ないところで郵便配達員にでも吠え付いているに違いない。それでもその声が僕らの意識を覚まさせたのは確かだった。突然、由紀が大声を上げた。

「わーっ!」

というその声は、初め叫びに聞こえたが、泣き声だった。



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2010-04-04 りふれいん-39-

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 しかし、病院から北に出たわたしの目の前には、葦の藪など無かった。葦が生えていた筈の場所は病院の駐車場になっていた。機械で管理されたそれは、都会のものと変わり無かった。振り返ってみると、かつて木造だった病院は鉄筋コンクリートの建物に建て替えられていた。木造だった建物は、当時はあまり見ない洋風の建築様式で子供心に印象深いものだったのに。その面影は唯一、病院の隣りに移築されたと思われる医師用の住宅に見られるのみだった。

 駐車場を道沿いに歩くと住宅街が広がっていた。分譲された団地のようだが、家々の創りを見る限り、わたしがここを離れた直後に建てられたように見える。わたしがここを去った後、あっという間にこの街は変貌したようだ。

 団地内の道路を歩くが、まったく方向が分からなかった。まるで見知らぬ街を歩いているようだ。顔を上げ、薄暗がりの空を見上げた。住宅の群れの向こうに薄っすらと山が見えた。雁田山と呼ばれる小さな山だが、わたしはかつて毎日その山を見ていたのだ。風景の一部に溶け込み、記憶の片隅に隠れていた。そんな思い出すことも無かった山は、その大きさや角度といった記憶を呼び覚まし、わたしは今、自分が立つ場所を理解した。

 しばらく団地内を歩き回ると一番、西の端に立っていると思われる家の裏手に向かって進む道を見付けた。その道を進むと見慣れた川が流れていた。幅一メートルほどの小さな川だった。他の川はコンクリートで固められた側溝になっていたが、この川だけ団地の境界線を走っているせいか昔のまま手を付けられていなかった。かつてテニスコートを横切り、葦の林を抜け出た最後の関門のように横たわっていた川の小ささに驚いた。そして今はその川をアスファルトの道路が軽々と跨いでいた。

 わたしは川から顔を上げようとして躊躇した。そこにはわたしたちが住んでいた長屋が立ち拡がっている筈だった。しかしテニスコートや葦の林が駐車場や団地になっていたのと同様、そこにわたしの家は無くなっているのだろう。町営の住宅だったから、誰も住まなくなると同時に撤去されたに違いない。新たな団地として分譲されたか、町営住宅として近代的な団地に建て替えられたに違いない。

 しかし躊躇していても何も始まらない。わたしは溜息を付きながら顔を上げた。目の前に広がったのは、驚いたことにかつて見た長屋だった。セメントブロック作りの安普請な造り。平屋建ての長屋は、かつてコの字に三連あった筈だった。今、目の前にあるのは一連のみだ。しかしその1連は紛れも無くわたしたちが暮らした家のある棟だった。

 既に夕闇に包まれたそこは、まぼろしのように橙色の光を吹いていた。光はところどころにある窓から漏れているらしい。そして三軒ある筈の、一番奥の一軒から漏れているのみだった。わたしは吸い寄せられるように近付き、窓の外に立った。ふいに玄関の引き戸が開き、小さな影が現れた。小柄な老婆だった。老婆は目の前に立つわたしに驚いたように顔を上げた。

「あ?なんだ、たくじゃねえかあ」

ふいに名を呼ばれたわたしは戸惑ってしまった。老婆が誰なのか思い出せないのだ。


◇再会◇

「あの寝小便垂れが、立派になってのお」

老婆の濁声を聞いていて、思い出した。角の家の婆さんだ。かつて長屋がコの字に連なっていた頃、この老婆の家は角にあたった。

「知らんと思うが、今はうちだけになっちまった」

老婆は特に悲しみも伴わずに言った。幾つもの年月を経て、そうした感情から解放された者特有の乾いた響きがあった。

「飯でも喰って行くか?なんにも無いがなあ、こんな年寄りの一人暮らしだから、ろくに食べなくても生きてるからの。そうだ!たくが好きだったコロッケ作ってやるわ。肉コロッケ、な」

暗がりの中の老婆の顔を先ほどと打って変わって悲しげに見えた。そしてわたしもかつては憎まれ口を叩いたこの老婆の顔を明かりの下で確かめたいと思ったのだ。

「さあ、へえってけ」

角の家の婆さんに勧められるまま、玄関に足を掛けた。

その時、背後で「ギイ」という音がした。振り返るとまた

ギイ

と鳴った。

「ああ、ブランコだな」

と角の家の婆さんは暗闇に目を向けたまま言った。

「もう誰も使わなくなって、何十年にもなる。そうだよ、お前たちが居なくなってから誰も使ってない。でもな、鉄で出来てっからなかなか壊んなくてなあ」

婆さんは昔を思い出すように目を細めた。

「でも流石に錆びてしまうから、もう大分前から風が吹くとな、ああやって音を出すんだよ」

わたしは暗闇に向かって目を凝らしたが、ブランコの実体を確認することは出来なかった。

「なんだか泣き声みてえで、家なんだがな。撤去してくれって役所に言ったらこの長屋まで一緒に取り壊せれちゃあかなわねえから、そんまま放ってあるんよ」

また

ギイ

と泣いた。わたしはそれが僕を呼ぶ声に聞こえたのだ。由紀とよく遊んだブランコ。臆病な僕は、揺れるブランコから飛び上がることが出来なかった。それを軽々とやってのける由紀によく笑われたものだった。そして僕は由紀に命じられるまま由紀の背を押し、由紀に怪我をさせてしまった。由紀と美和が僕らの家に来た最初の夏のことだった。僕はあの日、こんな家の目の前で、どこへ帰って良いのか途方に暮れたものだった。


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2010-03-13 りふれいん-38-

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 荷物を片付けながら『つまり早く出て行けということか』と僕は理解した。

 医師の説明は看護婦のそれとさして変わりは無かった。ただの過労だそうだ。もっとも僕は頭痛のことは一言も話して無かった。だから、それを話せば医師の判断も違ったものになっていたかもしれない。その方が正しい判断を導き出せたろう。それでも僕は話す気にはなれなかった。こんなところで足止めされるのが嫌だったのだ。

 支払いを済ませて病院を出ると夕闇が迫っていた。山国の冬は昼間が短いのだ。僕は早く行かなければと思った。「早く」と。その行き先は勿論、僕の生家だった。この病院からそう遠くない。

 夕闇は降り注ぐように辺りに満ちていった。東京ではこんな感覚に襲われたことが無かったが、それは街が持つ光のせいだろう。その光のせいで僕らは街が闇に包まれる瞬間に気付きはしない。そして気付いた時、空は真っ暗だが街は日中と遜色ない光に満ちている。しかしその陰で、やはり闇は広がっていて、自分の身に降り掛かってきた時には抗いようが無いのだ。そんなセンチメンタルな思考の先にあるのは失った家族と、会社という居場所だった。

 娘の有希は元気にしているだろうか?今日の朝、電話で声を聞いたばかりだと言うのに、心の中が有希のことでいっぱいになった。恋しいとはこういうことを指すのだろう、と思った。しかしすぐさま僕はその気持ちを振り払った。僕が恋しいと思うのは有希の為を思ってのことではなく、僕自身の寂しさから来たものなのだ。妻と有希を失った喪失感に僕が耐えられないだけだった。妻から聞いている限りは――実際、僕は妻の恋人という男に会ったことは無かったのだ――彼は妻だけでなく有希も幸せにしてくれるだろう。

『少なくとも僕よりは』

いつの間にか僕は、自分を「僕」と読んでいる自分に気付いた。郷里に戻り、少年の頃の口癖が戻ったのだろう。照れ臭くもあったが、しばらくこのまま少年時代に自分に浸ってみるのも悪くない気がした。

 そう考えているうち、辺りは夜の帳が降り始めた。再び僕の中の何かが『早く』と僕を促した。たしかに早くしないと辺りが真っ暗になってしまう。だが、それだけではないらしい。僕の中の何かが急かす理由はもっと別にある気がした。

『もっとも・・・』

とわたしは思った。全てを失ったわたしは、早く自分の居場所を見付けたかったのだ。

 病院から北に出て背の高い葦の藪があった。子供にとっては林と呼んだ方が良いくらい背が高かった。その葦の林に分け入って進んで行くとクレーのテニスコートがある。一面だけだが、本格的なコートであることは子供でも分かった。昭和の初期に作られたままのそれは、ネットを貼るポールは木製だ。何度か木が劣化したらしい。その都度補修したのだろう、幾つも鉄板を張ってあった。

 こんな田舎町でテニスなんて誰がやるのだろう?と、いつも思った。だが誰かに理由を訊かされ納得した気がする。キリスト教系の宗教団体が経営する病院には、かつてカナダから来ていた牧師らが病院の医師や看護婦にテニスを教えたという。

 もっとも、わたしたちはここにくるといつも鬼ごっこをしていた。由紀はテニスの真似事をしたかったらしいが、わたしたちにはボールもラケットも無かったからそれは叶わなかった。

 テニスコートを横切るとまた葦の藪が壁のように立ちはだかる。そこへ分け入り、どれくらい歩けば良かったか?まるで別の世界に到達するまで歩いたような気がした頃、葦の向こうに粗末な長屋が見えてきた。私たちが暮らしていた家の裏側へ出るのだ。わたしたちは子供が跳び越えるには少し幅広の川を跳び、わたしたちの住む家に帰ったのだ。


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