目を覚ました時、僕がいたのは自宅の布団の中だった。隣りに由紀もいた。
 後で聞いたことだが大人達が探しに来てくれたのだ。遅くになっても帰らない僕らを心配し、大勢で探しに出たのだ。神社に探しに来たのは髭おじだった。僕らに鳥居の下でのおまじないを教えたのは自分だからだろうか、真っ先に神社を思い付いたそうだ。ただ、僕らは社の裏に立つ倉庫の中の、それも藁の間に潜り込んでいたから簡単には見付からなかったという。
 僕と由紀は裸で眠ったまま、家まで担いで来られたのだった。服は剥き出しの梁に干してあったという。僕らが倉庫に逃げ込んだ後に雨は降り始めた気がするのだが、そうでは無かったのか?もしかしたら雷が鳴っていた時点で少し降っていて、それに服を濡らされたのだろうか?幾ら考えても、上手く記憶がつながらなかった。

 僕が目を開けた時、由紀も目を覚ましたらしい。僕らは顔を見合わせたまま、台所から響いてくるトントンという包丁の音を聞いていた。いつもの朝だった。母はそうして僕らの朝ご飯を作る。父は寝ている。遅番で帰ってきてから、外が白々する頃に父は眠るのだ。
 由紀から視線を離し周りを見回すと、間違いなく僕の家だ。由紀も同じように部屋の中を見回していた。何も変わらない、以前と同じ部屋。僕と由紀は顔を見合わせ、そして微笑みあった。
「願いが叶ったんじゃない?」
僕らは同時にそう叫んだ。自然、笑みが零れてきた。あり得ないと分かっていても今、この瞬間だけは嬉しかったんだ。
 でも、僕らは次の瞬間には青ざめていた。父の怒声が響き渡ったのだ。
「おい、朝飯だけ喰わしたら、とっとと出て行けよ!」
僕らは一瞬にして全身から血の気が引いた。父は台所に立つ母に向って言ったらしい。天国から地獄に落とされた気分だった。僕らの幸福な気持ちは引き裂かれ、望まない現実がありありと蘇ってきた。そうしてよく見ると、この部屋は変わってしまった。以前とはまるで別の部屋だ。まず母の衣類を収めていた収納ダンスが消えていた。子供用の洋服掛けは、由紀の服だけが消えていた。何より、それらが寄せてあった壁が、真新しいもののように白かった。
 僕は、運命が変えられなかったことを知った。父と母はやはり離婚し、僕らは離れ離れになってしまうのだ。
 由紀の顔を見た。由紀も同じことを考えていたらしい。そっと爪を噛んでいた。でもそれは涙を堪えてるんじゃないことは僕には分かった。「願いが叶ったのじゃないか」という僕らの淡い夢を父は掻き毟った。僕らの前に「離婚」という辛い現実を突き付けてみせた。それもこれ見よがしに、だ。僕は父が、まるで僕らを傷付けようとしているように感じたほどだ。僕は父を心底憎んだ。何のために父は僕らを傷付けるのだ?と。でも由紀は違う。由紀は決して父を憎みはしない。心の底では父の言葉に泣き出したいほど傷付いているというのに、由紀の心のフィルターはそれを父の善意として昇華してしまうのだ。どんな善意?僕には理解できなかった。でもそれは僕があまりに何も知らなかった為だった。由紀を一番苦しめていたのは、それに気付かぬ僕自身だったというのに。

 その日も、僕らの辛苦などまるで無視するかのように授業はあった。僕らを除くと、誰もが変わらぬ日常を送っていることを思い知らされた。由紀は何事も無く登校の準備をしていたから、僕もつられて用意した。ただ違ったのは、出掛けに母が、美和が僕ら二人を抱き寄せ、いつまでも離さなかったことだ。僕は右の乳房に、由紀は左の乳房に顔を埋めたままいつまでも離れないでいた。
「そろそろ出なきゃ、学校送れちゃう」
そう言ったのは由紀だった。乳房に口を押さえられたままだったから、その声は酷くくぐもっていた。母の腕の力が緩み、僕らは母から離れた。
「言ってきまーす」
由紀と、それに続いて僕が小声で言った。父は隣りの部屋で寝ていたが、僕らは声を掛けなかった。それがいつもの習慣だからだ。思えば僕らが家族になったばかりの頃、毎朝のように由紀は「父ちゃん、行ってきまーす」と明るい声を掛けていた。まだ、小学校に上がりたての頃の由紀の声は、今より2オクターブほど高音だった気がする。まるで小鳥が囀るようなその声は、玄関をパッと明るくしたものだ。でも父はなぜかそれを嫌った。何十回目かに由紀が「父ちゃん、・・・」と声を掛けた時、奥の部屋から父の怒声が聞こえたのだ。
「うるせえぞ!眠れねえだろうが!」
僕らは黙り込んだ。黙り込んだまま玄関を出た。小学校に着くまでの間、僕らは一言も口を利かなかった。僕はあんな父が恥ずかしかった。でもそれを言葉にすることが出来なかった。由紀も、それについては何も言わなかったのだ。ただそれ以来、由紀は出掛けに父に声を掛けなくなった。
 
 僕らはこうして登校するのは、今日が最後だということを知っていた。でも、もう僕も由紀もそれは仕方の無いことだと諦めることが出来た。鳥居の下での願いが通じなかった時点で僕らにはもう何も出来なかったのだ。

 6時限の授業は瞬く間に過ぎた。
 その日の夕方、学校から帰ると袋小路の真中に母が立っていた。3棟の長屋がコの字に並び袋小路を作っているのが。その真ん中には古びたブランコが立っている。美和と由紀の親子はお揃いの余所行きの格好をしていた。
「たくちゃん」
と声を掛けられ、僕はこの女性は誰だったっけ?と思った。
 余所行きの化粧をした美和は知らない女性のように見えたのだ。化粧は女性を美しく見せるが、それ以上に子供の僕には無表情な顔に見えた。無表情な僕の知らない女性の顔だった。
 つい今朝まで彼女は母として台所に立ち、僕らの為に食事を作っていたんだ。彼女の顔は、湯を熱した鍋の上では頬が赤くなった。味噌汁の濃さを観る為に汁を味見する時は頬が膨らんだ。鰯の焼き加減を観ようとガスレンジを開ける時は煙に目を瞬かせ、沁みた目には涙を浮かべた。キャベツを細かに刻む際には眉に皺が寄った。ジャーの蓋を開いた時、炊き上がった米の匂いを嗅ぐように鼻を膨らませた。そんな母としての生々しい表情がすべて消え去り、これまでの僕らの生活に何の感慨も無い顔をしていた。それは僕の見知らぬ女性の顔、化粧をした美和の顔はそんなふうに見えた。
 でも僕はこの顔を知っていた。六年前、僕の家に来た女性の顔だ。あの頃の美和はまだ僕の母では無かった。僕の見知らぬ女性、名前も知らない女性だった。彼女の方も僕のことなど何一つ知らなかった。そしてその女性は、僕と同じ歳の娘を連れていた。残酷な童話しか知らない僕にとって、継母なんて怖いだけの存在だった。僕は辛い未来を覚悟した。ご飯だってまともに食べさせて貰えなくってお腹が空いても我慢しなくちゃいけないんだって思ってた。そうしなくちゃ、もう僕には一生お母さんなんて出来ないかもしれないと。でもそんなことはすべて気の弱い僕の思い込みで、すべてが間違いだと、それを教えてくれたのが彼女だった。僕の目の前にいるこの女性は、ある日突然僕の目前に現れた見知らぬ女性は、僕と家族になった(ついでに由紀とは兄妹になった)。いつしか美和は化粧をしなくなっていた。あるいはしていたのに、僕にはその内面にある素肌がはっきりと見えていたのかもしれない。
 そして今日、僕の前から去っていくのだ。再び僕の見知らぬ女性の顔になって。僕にはもう彼女の素肌は見えなくなっていた。
 僕はこの6年間の出来事が夢だったのかもしれない、と思った。幸福な夢を見ていたのかもしれない。今、ただその夢から覚めただけなのだと。僕の目の前には、愛する人が存在しない現実が露になっただけなのかも。そう思うとすべてが自然な気がした。
「たくちゃんごめんね」
女性は僕を抱き締めた。上目遣いに彼女の顔を見ると、酷く歪んでいた。まるで化粧という仮面を自ら脱ぎ捨てようとしているかに見えた。だから僕は一生懸命首を振った。彼女に罪はないと、伝える為に。もう僕に化粧の内側の顔を見せる必要は無いのだと。

 振り向くと由紀がいた。でも由紀は一言も喋らなかった。ただ虚ろな眼差しを僕に向けていた。僕は、何かを間違えているのかもしれない。何か重要なことを。由紀は、それを知っているのだ。
「由紀、由紀、」
僕は二度ほど由紀の名を呼んだ。由紀は何も答えず、母に手を引かれ去っていこうとしていた。母は僕の見知らぬ女性だった。僕は別れの悲しみよりも、疑惑と不安に身体中の血液が凍て付くのを感じた。
 それから二人は手に持てるだけの荷物を抱え、僕の前から去って行った。気付くともう初冬だった。初冬というのに、今日も太陽が強く輝いていた。それが為に二人の影は驚くほど長かった。その長い影が線になり、点になり、ついに見えなくなるまで僕は見詰めていた。太陽の位置が下がってきて、とても眩しかったのに僕はずっと見詰めていた。目を逸らすと、これまでのことが消え去ってしまう気がしたからだ。

 一週間経った時、僕の中から二人の記憶は消えていた。遠い過去の記憶を仕舞い込む棚の中にすっぽりと隠れてしまったのだろうか?以来、わたしは二人のことを思い出すことはなかった。日々の煩雑さに追い掛けられ、過去を振り向く余裕が無かったのかもしれない。或いは小学生の記憶などその程度のものだったのかもしれない。いずれにせよわたしは今、由紀と母と暮らした6年間をありありと思い出したのだ。


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