「はい、北原由紀さんですね・・・・ご面会、ですか。お兄様、ですね。ええ、っと。少々お待ち下さい」
昨日と同じ受付嬢だった。同じようにパソコンの画面を目で追っていた。
 昨日、父への面会を申し込んだ時は、まるでわたしがとんでも勘違いをしているとでもいうように冷たい対応だった。父など初めからそこに居ないと決め付けているかのような態度に腹が立ったものだ。しかし今日は、どうやら真剣に探しているようだった。
 ほどなくして彼女の表情に変化があった。由紀の名を発見したらしい。安堵した表情が見られた。しかしその直後、わたしは首を傾げた。一瞬だが、彼女の表情が戸惑うように歪んで見えたのだ。
「どうかしましたか?」と問うわたしの言葉を遮るように
「お座りになってお待ち下さい」
と受付嬢は視線でロビーの長椅子を指し示した。
『昨日といい今日といい、訳が分からないな』
わたしは独り言を呟きながら、言われるまま長椅子に腰を下ろした。受付を見ると、受付嬢はまるでわたしの話を忘れてしまった、とでもいうように次の客に応対していた。
『客を無視するとはまったく失礼な接客態度だ。田舎の病院は殿様商売なのだな』
わたしは一人溜息を付き、あたりを見回した。きっとかなり待たされるに違いないと思ったから、時間を潰すために雑誌でも読もうと思ったのだ。だが、広い待合室のどこにも雑誌らしいものは無かった。よく見ると、これだけ広い待合室だというのに、患者らしい客は少なかった。見舞い客と思われる人々の姿が見られたが、皆、まるで他人に顔を見られまいとするように節目がちにしていた。身を固くしているように見える者もいた。つまり気楽に雑誌など読む雰囲気では無かった。
『なんなんだ?』
わたしは自分が来る場所を間違えているように思えてきた。確認するように受付を見詰めた。だが、たしかに受付嬢は「お待ち下さい」と言った。ということは由紀はここにいるのは間違いない。
 いろいろ想像してみたが、そんなことをしたところで始まらない。わたしは別のもので気を紛らわすことにした。そしてボストンバッグの中を探ってみた。妻が詰めてくれた着替えと歯磨き。まるで出張の用意のようだ。いつもと変わらぬ日常がそこにあるような気がした。しかしその奥に茶色い封筒が潜んでいた。取り出して見ると、退社に伴う社会保険関係の手続き書類。これが今のわたしにとっての現実。真実の姿だ。目を瞑ると自然と溜息が漏れた。これからどう生きて行けばよいのか?あるいは、生きていく価値があるのだろうか?ふとそんな思いが心に浮かんだ時、柴崎専務の姿が頭をよぎった。
 柴崎専務は、以前と変わらず細身で、いつものように地味な背広を着、苦悩が眉間の間の皺となっていた。先代社長が死んで以来、彼が一人で苦悩を背負い込んできたのだ。髪が乱れていた。風が吹いているのだ。生暖かい風。東京は既に春の風が吹いているのだろうか?丘の上に一人立ち竦んでいるようにも見えた。吹きさらしの風の中で、乱れた髪を撫で付けようともせず、専務は佇んでいた。ふいに太陽を見た気がした。専務は、斜めに顔を上げると僅かに微笑んだ。ふいに動き出した。ゆっくりと真正面に向かって歩き出した。微笑みは消えていない。時折、視線がわずかだが左右や上下に動くのは、その辺りに過去の思い出が見え隠れするせいかもしれない。ゆっくりと歩いていた専務は、突然落とし穴でも掘ってあった、とでもいうように下方に消え去った。その落とし穴を見落としたのか、それとも、そこから先には歩くべき道など無かったことに気付かなかったのか。上から覗き込んだわたしに見えたのは、血溜まりの上に横たわる専務の遺体だった。
「北原さん!」
受付嬢の甲高い声に、わたしは我に返った。慌ててバッグを担ぎ、受付に向かった。
「では石田先生の診察室までどうぞ」
「診察室?」
わたしの問いに受付嬢は答えようとしなかった。
「済みません、わたしは妹の見舞いに来ているのです。なんで診察室になんか・・・」
「申し訳ありません。担当医の石田からそのように連絡がありましたので。指示に従うようお願い致します」
「指示って・・・」
わたしの言葉を他所に、受付嬢は次の待ち客の名前を呼び上げた。

 受付嬢から渡された配置図を元に、病院の廊下を進んだ。増築を繰り返したらしく廊下や階段が入り組み、まるで迷路のようだ。床に目的別の行き先を伝えるカラーテープが貼ってなければ迷ってしまうところだ。わたしが向かう先は緑のテープに沿っていくという。五度目の曲がり角で
「石田診察室」
という小さな表札が見えた。
 幸い、順番待ちの患者は誰もいないらしい。廊下に置かれた長椅子には誰も座っていなかった。わたしは少々躊躇いながら診察室のドアノブに手を掛けた。考えるほどに首を傾げてしまう。見舞いに来た者が診察室に呼ばれるなど聞いたことがない。あるいは昨日、救急車で運ばれた新生病院から何かしらの連絡でも入ったのだろうか?しかしそれではわたしがここへ来ることを何故知っているのだ?という疑問が残る。婆さんが病院に話したのだろうか?いいや、婆さんは昔から他人にいらぬ節介をすることを嫌っていた。では何故だ?
 ノブを握る手に力を入れたつもりは無かったが、ドアがゆっくりと開いた。開いた隙間から覗く狭い診察室には、中年の医師が座っていた。壁に向かって設置された机に向かい、なにか調べものをしているようだ。何枚ものカルテを繰っていた。
「よろしいですか?」
そうわたしが声を掛けると医師はゆっくりこちらを振り向いた。
「石田先生でしょうか?受付でこちらへ行けと言われまして」
「はあ、お名前は?」
医師は気の抜けた声を出した。先ほどまで繰っていたカルテが気になるらしい。しかし、わたしが
「北原と言います」
と名を告げると表情に変化が現れた。
「北原さんですか」
満足気な声すら上げた。

石田医師はわたしに
「よく来て下さった」
と言った。わたしにはその意味がよく分からなかった。まるでわたしを以前から知っているような口振りだ。わたしは注意深く医師の顔を観察してみたが、まるで思い出せなかった。
 やはりわたしはよほどの重症で、なんらかの拍子に婆さんからわたしがこの病院を訪れる旨聞いた新生病院が、この石田なる医師に連絡したのかもしれない・・・そんなありえない想像を巡らせている間に、石田医師はクルリとわたしに背を向けた。今ほど机の上に広げたカルテに再び目を通しているらしい。つい今しがた「よく来て下さった」と言ったばかりだというのに、これはどうしたことだろう?
 どうもこの病院とは相性が悪いらしい。受付嬢はじめ、彼らの意図するところがわたしには理解できなかった。
「えーっと」
突然、石田医師は声を上げた。まるでわたしを無視するように、相変わらずカルテを読み耽っていた。。
「子供の頃ご両親が離婚されて離れ離れで育ったそうですね」
石田医師は背中を向けたままだった。わたしは意味が分からず
「はあ?」
と聞き返していた。すると石田医師は顔だけこちらに向けた。
「他でもない妹さんのことです」
老眼鏡を外し、目を細めてわたしの顔を見詰めていた。それは人間を見る目というより観察眼と言った方が良いのかも知れない。石田医師は明らかにわたしを観察していた。
「お兄さんは東京にお住までしたね」
「ああ、そうですがなぜそれをご存知なんです?」
「妹さんから、由紀さんから聞いています」
「由紀から?」
由紀とは小学生の頃、父母の離婚を機会に別れて以来、会っていない。それはたった今、この医師も言っていたではないか。それ以降は、所在すら知らなかった。
「由紀は、わたしが東京に居ること知ってたんですか?」
「え?ああ、そりゃあそうですが・・・」
石田医師は再びあの目をした。わたしを観察するような目だ。そしてそれはさきほどより、より冷たくなっているように見えた。まるでわたしを物として見ているように思えた。
 もっとも医師という職業柄のことかもしれない。そうも思ったが、この病院の不可思議な対応に対する答えにはなっていない。
「ところで由紀はなぜ入院してるのですか?」
「え?」
今度、石田医師は顎を手で撫でながら困惑した表情を見せた。それから再びわたしに背を向け、カルテを何枚か繰り始めた。それは先ほどまでと異なり、何かの戸惑いを抑えるための作業に見えた。
 しばらくそうした後、石田医師はわたしに不思議な問いをした。
「妹さんに会ってみますか?」
「勿論です。あの、受付からどんな連絡を?わたしは妹の見舞いに来たのです」
わたしの答えに石田医師は一瞬、顔を歪めた。しかし、すぐさまにこやかな表情をして
「そうでしたね。では参りましょう」
と言って立ち上がった。

◇忘郷
 どうやら由紀は眠っていた。
 石田医師は、長い廊下を歩くと突き当たりから三番目の病室に案内してくれた。そこは六人部屋だった。患者は皆、出払っていた。治療やリハビリだろう。或いは、久しぶりに今日は天気が良いので、散歩に出ているのかもしれない。
「こちらです」
指し示されたのは一番、窓側のベッドだった。そこだけ隣りのベッドとの間のカーテンが敷かれていた。天井に設置されたリールから吊るされた白いカーテンを見詰めるうち、わたしは妙な気分になった。カーテンの白さがあまりに無機質に感じたからだろうか。その向こうに生きた人間がいる気がしなかったのだ。医師がわたしに会わせようとしているのは、本当に生きた由紀なのだろうか?そこにあるのは由紀の死体じゃないか。
「さあ、近くに寄って声を掛けて上げて下さい」
医師の声にわたしは我に返り苦笑した。自分のおかしな妄想にだ。
「さあ、さあ」
と言いながらわたしを先導するように医師はカーテンの向こう側に消えた。馬鹿げた妄想と気付いたのに、それでもわたしは何故かカーテンの影を越えるのを躊躇ってしまった。そんなわたしに気付いたのか医師はカーテンの向こう側でベッドに横たわっている由紀に声を掛け始めた。
「北原さん、北原さん。お兄さんが着てくれましたよ。ずっと待ってたんでしょ」
しかし由紀らしい声がしない。医師はしばらく繰り返すと諦めたように溜息を付いた。
「ふー、残念だなあ」
わたしはカーテンの向こう側で何が起きているのか分からなかった。疑問に思う気持ちに押され、カーテンの向こう側に踏み出した。
 ベッドには女性が一人横たわっていた。まるで死人のように姿勢良く仰向けられ、しっかりシーツで首まで覆っていた。しかし目を開かずとも、それはわたしのよく見知った顔だった。それは美和の顔だ。だが、これだけ長い歳月の後、美和がこの美しさを留めたいる筈がない。とすれば、これは由紀に違いない。あの、いつも顔を真っ黒に日焼けしていた由紀。男の子のように活発だった由紀が、いつしか母親そっくりの女へと成長していたのだ。
「眠ってますね」
医師の言葉にわたしは頷いた。
「起きそうもないなあ」
という医師の呟きを他所に、わたしは由紀の姿に見入っていた。
「変わってないでしょう」
と医師が言った。思わずわたしは顔を上げ、医師を見詰めた。睨むような目付きになっていたのかもしれない。医師は戸惑ったように苦笑しながら
「いえ、あなたを責めている訳ではありません。仕方の無いことですから」
言い訳するような口振りをした。
「ただ、由紀さんの中で時間はずっと止まったままなんです。そのせいか身体の成長もゆっくりだった。成長と言うより今になれば老化というべきかもしれません」
たしかに医師が言うとおりだった。由紀はわたしと同じ年齢なのだから、もう40を越えている。さきほど美和と比べて若いと思ったが、この寝顔を見る限りそれ以上に若い。
「20代でしょう」
医師の言葉の一つ一つがわたしの心の襞に触った。なぜかは分からないが、無性な苛立ちを憶えた。


 わたしは医師の『変わってないでしょう』という言葉を思い出していた。『変わってない』とはどういう意味なのだ?何から変わってないと言うのだ?
 車窓の外を見ると安茂里から篠ノ井の景色が流れ去っていった。栗木病院を出たわたしは、その足で長野駅に向かい東京行きの新幹線に乗り込んだのだ。柴崎専務の葬儀に出席する為だ。
 妻のメールによれば今夜が通夜、明日葬儀ということだった。通夜には普段着でも致し方ないとしても、葬儀には礼服で出席せねばなるまい。まして柴崎専務の奥さんは、わたしと専務の間柄を良く知っているからお斎(おとき)の席も用意されているかもしれない。礼服はダンボールに詰め、妻が会社宛に送ってくれた筈だ。東京駅に着いたらそのまま会社に行き、取り合えず礼服だけでも取ってこよう、と思った。
 礼服以外の荷物は、少々気が引けるがもうしばらく会社に預かって貰おうと考えた。既に退社した身とはいえ、ほんの数日前までは社員だったのだ。まして事実上の会社都合だ。その位の便宜を図ってもらってもバチは当たらない。それに関口らわたしを慕ってくれた後輩たちもいるのだ。
 ふいに夜が訪れたように車窓の外が真っ暗になった。トンネルに入ったのだ。ここから先は幾つものトンネルを断続的に抜け、ようやく明るい日差しが戻った頃には関東平野だ。もっとも、そこまで小一時間も掛からない。わたしは少し寝ることにした。
 目を閉じると病院で見た由紀の顔が浮かんだ。結局、由紀が目覚めることは無かった。医師は何度か声を掛けてくれたが、ついぞ由紀が反応することは無かった。その姿はまるで死体のように思えた。しばらくしてわたしは医師に「もういいです」と言った。医師は諦め切れない様子だったが、わたしが今日の夕方までには返らなければならない旨を伝えると諦めてくれた。しかし、
「また是非、来て下さいね。近いうちに必ずです。いいですね」
と念を押された。
 思えば一昨日の夜、長野に訪れてから奇妙なことばかりだ。そもそも始まりはあの栗木病院だ。長野に着いた翌朝、栗木病院へ父を見舞ったのだ。ところが受付嬢は
『過去にも現在にも入居の記録は無い』
という。そして、あの角の婆さんだ。まさかあの婆さんがまだ生きていようとは思わなかった。だが婆さんのお陰でわたしが暮らした家がまだあることを知ったし、中にも入れたのだ。しかし、婆さんの言うことはおかしなことばかりだった。
 婆さんはわたしに『許せ』という。『父ちゃんと母ちゃん』そして『みんな』と。何を許すと言うのだ?
 更に『法要をやりに帰って来たのか?』とも言った。それも父の法要だという。
 わたしは一度目を開いた。まだ、あるいはまたトンネルの中にいるらしい。車窓の外は真っ暗なままだ。
『呆けた婆さんの話をいちいち気にしても仕方ない』
独り言を呟いた。車窓は暗がりを背に鏡のようにわたしの顔を映していた。
『なんとも情け無い顔をしているじゃないか』
また独り言が口から漏れた。急に気が滅入ってきた。窓ガラスに映った自分が見るに耐えない。どうしようもな男のように思えたのだ。妻に捨てられ、会社も解雇された。だが、そうした事実以上にわたしの心を押し潰す何かがあった。
 もう一度、窓ガラスを見た。いつか見た顔だと、ふとそう思った。いつか、それはずっと以前のことだ。窓ガラスに映った顔はずっと以前、何度も見た顔だった。わたしはずっとそれを重荷として背負って生きてきたのかもしれない。平穏な家庭も安定した職業もわたしには相応しいものではなく、いつかそれらがわたしの掌から消え去ってしまうのではないか、という予感に囚われながら生きてきた気がする。その先には惨めな人生が宛も無く伸びている、そこがわたしの本来住むべき世界なのだと、いつも誰かが僕に教えてくれていたように思う。今、訪れたこの状態は、僕の本来あるべき姿なのだと。
 あの日、僕は辛抱強く由紀を待っていた。
 僕と由紀は毎日、鬼ごっこをしてるようなものだった。でも、互いに知らん顔しながらそれを繰り返していたんだ。僕は日々、授業が終わると真っ先に片づけをし、玄関の下駄箱の陰に身を潜めた。由紀が来るのを待っていたんだ。由紀は大概、友達と一緒だった。一番背が高く、勉強も、運動も何をしても一番だった。そんな由紀だったから、自然と友人が集まった。みな由紀に憧れ、由紀に近付きたがったんだ。みんな口々に由紀におべっかを使っていた。でも由紀は、いつも悲しそうな顔でそれを聞いていた。でもそれと気付いていたのは僕だけで、他の誰も知らなかった。それから由紀たちは連れ立って玄関を出ると、校門から外へ抜ける。そこからしばらく歩くと由紀は一人になった。友人たちはみんな塾があるから、早々に家に帰ってしまうのだ。皆と別れた由紀は、しかし家路に向かわなかった。いつも長屋の方向と。は別の方へ、歩いて行った。僕は由紀に気付かれないようずっと後を付けた。でも、いつも由紀はそれと気付いていて、高い塀のある曲がり角や、入り組んだ小路を使って僕を巻いてしまうのだった。
 それが、あの日だけは僕は巻かれなかった。高い塀も、入り組んだ小路も僕の目隠しにはならなかった。僕は執念深く由紀の後を追い、ついに由紀が毎日のように向かう秘密の場所を見付けた。長い線路沿いの道に、由紀の姿を隠す場所は無かった。踏み切りを渡り、林の間の道を登り始めた時、由紀の姿は僕の目の前から消えた。でも僕は安心していた。なぜならもうそこからは一本道だったから。
 僕はもう由紀の案内が無くても由紀の向かう先が分かっていた。僕は、藪の中を突っ切って由紀の先回りをすることだって可能だった。でも僕は後になって気付いたんだ。その日、由紀は敢えて僕にすべてを見せようと思っていたということを。もうすべてを隠すことは、由紀には限界だったに違いない。

 ふと気付いて車窓を見ると、眩しいほどの光に満ちていた。コンクリで固められた駅舎が陽光を反射しているのだ。
「うえだー、うえだー、お降りの方はお忘れ物の無いよう・・・」
というアナウンスが聞こえた。上田駅だ。まだ長野を出て十数分しか経っていなかった。ほんの少しうたた寝をしてしまったらしい。妙な夢を見た気はするが、内容は思い出せなかったが酷く鬱屈した気分に囚われていたように思う。それもこれも婆さんの妙な話が原因だ、とわたしは苦笑した。
 そんなことより念のため、会社に連絡を入れておかねばならない。妻のことだから予定通りわたしの荷物を送ってくれていることと思う。しかし配送会社の都合によってはまだ到着してない可能性もないこともない。確認しておくに越したことはない。そう思ってわたしは携帯電話のメールを開いた。
 初め、関口にメールしようかと思ったがやめた。分野違いの彼に頼んで迷惑を掛けるのも心が引けたのだ。おそらくこうした話は総務が担当だろう。第一、わたしの退社の手続きもすべてが終了した訳ではなかった。総務の大森に頼もう、と思った。大森はあまり気の効く男ではないが、わたしを慕ってくれていたように思う。届いた荷物を確保してくれるくらいの便宜は図ってくれるだろう。大森のアドレスを呼び出し、依頼内容を書き込んだ。読み返して見ると、あまりに一方的な要求しか書かれてないので『最近、どうだ?元気にやってるか?』という文面を付け加えた。自分なりに納得出来たところで、送信ボタンを押した。
 上田駅を出てしばらくするとまたトンネルに入った。昼と夜とが交互に訪れるような錯覚に襲われたが、それは眠気が襲ってきているからだろう。とにかく眠ろうと思った。昨夜、婆さんの出鱈目な話に付き合って深酒し過ぎたらしい・・・頭痛に襲われたまま眠ってしまったのもいけなかった。あれは眠ったとは言い難い。意識を失ったのだ。朝まで意識を失ったままわたしは何を思い出してたんだ?
『許せ!』
記憶の闇から突如、聞き覚えのある声が蘇った。それは角の婆さんの声ではなかった。わたしは必死で記憶を探ってみた。なんとなく、そこにあるのが分かった。だが、どうしても肝心の部分だけが見えないのだ。それはまるで鍵の掛かった木箱の中に入れられたように、頑固にわたしの視線を妨げていた。
 額から汗が垂れてくるのが分かった。新幹線の暖房は、さほど強くない。あまりに記憶に拘ったせいで、冷や汗が出たのかもしれない。嫌な予感が的中した。再びあの頭痛が襲ってきたのだ。周囲の乗客に悟られてはいけない、と思った。次の駅で病院へ送られてしまうだろう。今夜は柴崎、元専務の通夜なのだ。わたしは必死で堪えた。
『許せ、卓巳』
激痛のうねりの中で、誰かがまたわたしに向かって叫んでいた。誰の声なんだ?そして何を許せというのか?
『許してくれ、な、俺だって苦しいんだ、だから・・・』
肝心なところが聞き取れなかった。激痛は巨大な音となって頭の中を掛け巡ったのだ。途端に幕が下りたように静かになった。同時に意識を失っていた。


 しかし僕は藪の中を突っ切って先回りするのはやめた。僕の目的はそこで由紀が何をするのか?だった。だから僕が先回りして待ち構えていたら、由紀はきっと目的を放棄して返ってしまうだろう。僕は由紀が登った後をゆっくりを進んだ。もう由紀の姿も、ここを通った気配さえも消え去っていたが、僕には関係なかった。僕は由紀の行き先が分かっていたから、もう尾行する必要はなかったのだ。
 その石段は歪(いびつ)で曲がりくねっていて、ところどころ剥げたり、場所によっては初めから設置してないような、粗雑な造りだった。障害物競走でもするように僕はその石段を駆け上がった。由紀は学年で一番脚が速いが、まるでサラブレッドのように細い足首をしていた。こんな瓦礫の上を走るのは、さぞ苦手だろう。その証拠に、十分に時間を置いて登り始めた筈なのに、僕の頭の上辺りに折り返している石段の付近から
「はあ、はあ」
という由紀の荒い呼吸が聞こえてきた。
 呼吸はやがて、動きを止めた。それもその筈。その辺りは境内だった。由紀は石段を登り切ったのだ。僕は歩を止め、由紀の呼吸が発する音を耳で追った。由紀の息遣いは次第に小さくなっていった。呼吸が整ってきたことと、どうやら境内を横切っているらしい。社に向かって歩いているのだ。僕は石段の影からほんの少しだけ顔を覗かせた。
『何をする気なんだろう?』
まさかこのまま社の前で立ち止まり、お賽銭投げて手を合わせるだけじゃないだろうな、と僕は思った。僕はそんな場面を見る為に由紀を尾行してるんじゃなかった。
 毎日、一緒に帰っていた由紀が半年くらい前から突然、僕と一緒に帰るのをやめたんだ。
『用がある』
と言って学校からどこかへ消え、夕方暗くなった頃、家に帰ってくるのだ。僕はそんな由紀が心配になって義母にこっそり告げた。義母は初め首を傾げて聞いていたが、数日後に同じ話をすると
『本人が「用がある」って言うんだから、何か用事でもあるんだろ!』
と突き放されてしまった。それで僕は自分で探すことにしたんだ。それから僕は毎日、放課後に玄関で由紀を待ち伏せ、尾行した。
 僕は、由紀が重大な秘密を隠してる、と思っていた。
 でも由紀はそのまま真っ直ぐ境内を横切ると、ついに賽銭箱の前に着いた。するとポケットから五円玉らしき硬貨を取り出すと、投げた。それから二度手を叩くと、何事かを願うように頭を垂れた。由紀はなんでこんなことをしてるんだろう?僕は不思議に思うとともに、なんだかがっかりした。5年生までずっと一緒に帰っていたのに、急に知らん顔し始めるから何か特別なことでもあったのかと思ったのに、ただ神様にお祈りしてただけなんて。
 僕は由紀が手を合わせて目を瞑っている間に、石段から境内の隅の草むらに移動していた。そこからだと斜め後ろからだが、由紀の表情が少しだけ見えるからだ。それに鳥居の太い脚の影になるから、由紀から見付かり難いのだ。でも、いくら見ていても、由紀は一向にお祈りをやめなかった。僕は覗いているのがすっかり飽きてしまって、草むらの中に仰向けに寝転んだ。鳥居の脚が天に向かって伸びていた。
『由紀は何をお祈りしてるんだろう?』
鳥居に向かって僕は呟いた。でも、当たり前のことだが、答えは分からなかった。
 由紀はまだお祈りしてるのかな?と思って顔を上げると、そこに由紀の姿は無かった。境内を戻ってきたならこの鳥居の下を潜る筈で、そうなれば由紀は容易に僕を見付けただろう。それに僕の方も、幾ら鳥居に気を取られていたとしても、由紀が通過するのを見過ごす筈がない。じゃあ、由紀はどこへ消えたんだ?僕は草むらから慎重に身体を起こし境内の中を見渡した。けれどどう見ても由紀はいない。僕は思い切って立ち上がった。右手の平を庇にして眺めてみたが、やはりどこにも由紀の姿は無い。そんな筈は無いのだ。ここに至る道は鳥居の下を潜るこの一本しかない。まさか女の子の由紀が藪の中を降りて行ったとは思えなかった。
 僕は境内に躍り出た。もう一度辺りを見渡す。でも由紀の姿どころか、気配すらない。まるで神隠しに合ったように由紀は忽然と消えた。
 もしかしたら社の中にでも忍び込んで遊んでるのだろうか?と思い、賽銭箱の背中に回り、扉の格子の隙間から中を覗いた。しかし社の中は埃だらけでここしばらく誰かが入った形跡は無かった。また由紀にしてもこんな汚いところに入りたいとも思わないだろう。それから僕は、由紀が僕に気付いたんじゃないだろうか?と考えた。それで由紀は僕から隠れたのだと。とすると、社の床下だろうか?社の正面は広い階段があって床下に潜れないが、裏側からなら簡単に入れた筈だ。僕はすぐさま社の裏手に回った。ちょうど僕の背の高さもあろうかという高い床下が広がっていた。でも、そのは蜘蛛の巣だらけで、とても入る気はしなかった。では、由紀はどこへ行ったというのだろう?と僕は首を傾げていた。
 その時、突然に僕は人の気配を感じた。でもどこからその気配が発せられたのか分からなかった。僕は人がいそうな場所を注意深く探した。だが、どこにもそれらしい場所は見当たらないのだ。不思議なのは、その気配は一人だけのものではなかった。由紀だけのものでは無い、と言うべきか。由紀よりずっと強い気配が感じられたのだ。
 別の誰かが潜んでいるのだろうか?薄気味悪くなった僕は、顔を上げた。社の向こうに鳥居が見えた。夕陽が鳥居の金具に反射して僕の目を眩ました。僕は目を瞑って光を避けると、両手を顔の前に翳して再び目を開いた。それまで気付かなかったものが目の前にあった。納屋だった。祭事用の道具をしまっておくものだろう。よく思い出してみると、それはずっと以前からそこにあった。何故気付かなかったのか分からない。それくらいそれはひっそりと立っていた。
 僕は納屋に近付いた。中からは何の音もしない。けれど、中から人の気配がする気がした。その気配はじっと息を潜めて僕が立ち去るのを待っているようにも思えた。そうするときっと気配の主は由紀に違いない。でも僕には由紀以外の誰かもそこにいるような気がしたのだ。
 僕は入り口を探った。ぐるりと納屋の周りを一周すると、南京錠が掛かっている引き戸を見付けた。古い南京錠は解かれていた。錆びの擦れ具合からすると、つい今しがた開けられたように思う。僕はいよいよ確信し、引き戸に手を掛けた。しかし、
ががっ!
というけたたましい音が僕を襲った。身を凍り付かせた僕の目の前で、引き戸が大きく開かれてた。僕が開こうとする一瞬前に、それは強い力で開かれたのだった。僕は、僕の目の前に立ち塞がる影を見上げた。それは巨大な鼻を持つ恐ろしい顔をしていた。僕はあまりのこと腰を抜かしてその場に座り込んだ。その僕の前を天狗は逃げるように走り去った。
 走り去る後姿をよく見ると、天狗のお面を被った大人だった。
「どうして来たの?」
腰を抜かして地面に座り込んだままの僕に、誰かが話し掛けてきた。声の方向を見ると由紀だった。由紀は積み上げられた藁の上に座り、僕を見下ろしていた。
「どうして来たのよ?」
由紀は問い詰めるような口調をした。
「ねえ!どうして!?」
口調は次第に激しさを増した。
 由紀は、何かを堪えるように唇を噛んでいた。
「どうしてよ。たくには絶対分からないように、毎日巻いてきたのに。どうして来ちゃったの?」
「ええ?だって、由紀が一緒に帰ってくれないから」
「馬鹿!もう6年生でしょ!来年はもう中学生なんだよ!いつまでもままごとしてるんじゃないわよ!」
「そんな、怒らなくても」
僕はうなだれて、でも由紀の足元を見ていた。
「あれ?靴下どうしたの?」
僕に言われて由紀は慌てて靴下を探した。どうやら藁の中に沈んでいたらしい。乱暴にそれを取り上げると、不機嫌そうに履いた。
「どうして脱いでたの?」
そんな質問が、由紀の神経を逆撫でたらしい。由紀は立ち上がり、逆上したように僕に突進してきた。
 由紀は僕の襟を掴むと、僕の息が止まるほどに捻り上げた。
「もう!二度と付回さないで!あなたとなんか、好き好んで兄妹になった訳じゃない。ノロマで、馬鹿で、無神経なあんたなんかと一緒にされるのが嫌なのよ!もう兄妹なんて思われたくないの!だからもう、近寄らないで!」
由紀は僕の襟首を握り締めたまま、力任せに前後に振った。僕は繰り返し、後頭部を板戸に叩き付けられた。
「もう、顔も見たくない」
由紀は放り出すように僕を突き放した。僕は、一度板戸に背をぶつけると、そのまま地面に座りこんだ。それからゆっくり立ち上がると、ズボンを汚した土埃を払った。これだけ汚れれば、きっと義母に大目玉を喰うに違いない。そんなことを思いながら、僕は上目遣いに由紀の顔を見た。由紀は怒りに震えながら、涙を堪えていた。
「分かったよ。もう二度と一緒に帰ろうなんて思わない」
僕はズボンの土埃を払い終えると由紀に背を向けた。
「帰るね」
そう由紀に告げると、僕は納屋を出た。でも出る際、僕は不思議なものを見た。それは僕らが住む街の中古ショップのビニール袋だった。それは作業台の上に置かれていたんだ。ビニール袋からは僕が欲しがったゲームソフトのパッケージが顔を覗かせていた。ゲーム機も無いくせにそんなもの欲しがってどうするんだ、と母に何度も叱られたが、僕あどうしても欲しかったんだ。見かねた父が、こっそり僕に約束してくれた。『次に時間外手当が出たら、義母さんに気付かれないよう買ってやる。その代わり中古でいいな』と。
 そんなことを考えながら僕はそのビニール袋を見詰めていた。由紀がそれと気付いたらしい。慌てて作業代の上のそれを取り上げ、自分の身体の影に隠した。
「誰が忘れてったんだろうね。近所の馬鹿な子供だね、きっと。後で届けてあげなきゃ」
僕は、何も考えられずそのまま納屋を後にした。境内まで来たところで、振り返ったが由紀の姿はなかった。そして天狗の面を被った父の姿も無かった。なぜ父がそこにいたのか、その頃の僕はもうその意味を理解するほど大人になっていたんだ。


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