◇真実◇
 長い廊下を大きな足音が向かってくるのが聞こえた。くぐもった音ではあったが、それが男の足音であることは容易に分かった。
「あら!淳司かしら?」
時計を見るとまだ五時前だった。淳司の母はドアを開け、その向こうを覗き込んだ。ドアに半身が隠れた格好で、近付いてくる誰かに声を掛けようとしていた。
「早かったのね。びっくりするわよ、たくみちゃんが来てるの」
彼女の声の狭間から、見知らぬ中年の男が顔を出した。痩せて、白髪交じりの男だった。「ほらね、ほんとにたくみちゃんでしょ?」という母の言葉が聞こえていないのか、淳司はわたしの顔を長い間見詰めていた。
 記憶の中と、目の前の姿の折り合いを付けるのに時間が掛かったのはわたしの方だった。子供時代の淳司は太ってはいなかったが丸顔で童顔だった。何ごとにも鷹揚な性格が顔に表れていたと言っていい。簡単に言えば、いかにも豊な家庭の子供という感じだったのだ。ところが目の前の淳司は貧相とまではいかないまでも、ひどく痩せて神経質に見えた。
「俺にはおやじのような商才は無かったからな。親父が財産として建てたアパートの経営で暮らしているんだよ」
不労所得さ、と自虐気味に言った。父の経営していたIT会社は、実質的に社員達が運営し、淳司は単なる大株主だという。
「ま、他人から見れば金と時間があり余ってるように思えるかもしれないが、これがどうして大変なんだ。財産って奴は増やす以上に、減らさないのには手間が掛かる」
それが彼の自慢らしい。急に昔と変わらぬ屈託の無い表情になったように見えた。
「お前も、苦労したな。随分、痩せた」
しかしわたしがそう声を掛けると、ふいに淳司は怪訝そうな表情をして見せた。

「それより由紀ちゃんには会ったのか?」
突然、由紀の名を出され、わたしはどう反応して良いのか戸惑った。由紀がああいう病院に入っていることを淳司は知っているのだろうか?わたしには見当もつかなかったからだ。しかしそんなわたしの戸惑いなど無意味だったらしい。
「病院に行ってみたのか?」
と言って淳司はわたしを見た。それはわたしの表情を覗き込もうとしているように見えた。淳司はすべてを知っているようだ。そしてどうやら何も知らないのはわたしだけらしかった。
 この町の誰もが由紀のことを知っているようだった。
「なあ、淳司。由紀はなんであんな病院に入ってるんだ?」
思い切ってわたしは訊ねてみた。
「20年ぶりだから何もかもが知らないことだらけなんだ。まず父さんに会いに来たのに、入院してる筈の病院に行ったら『そんな人はいない』なんて言われたんだ」
淳司の顔が微妙に歪むのが見えた。
「で、驚いたことに同じ病院に由紀がいた。それも精神病棟だ。びっくりしたよ」
淳司は黙ったままわたしを睨み付けていた。
「まるで子供の頃のままなんだ。聞いたら二十歳より少し前に入院したらしいんだが、当時担当した医者が引退してしまったらしい。だからなんで由紀があんな風になってしまったのか、病院としては分からないっていうんだ」
淳司が「コホンッ」と一つ咳払いをした。
「お前、噂は本当だったのか?」
「噂?」
「お前が記憶を失ってしまったという噂だ」
「オレが?記憶を?なぜ?」
「いや、あれだけの事件に巻き込まれたんだ。俺がお前の立場だってまともじゃいられない。それどころか、単にお前の友達だっていうだけで、俺たちは――俺も、真人も、健太も、裕二も、みんな一時はおかしくなりそうだったよ」
淳司は、壁に貼られた思い出の写真を見詰めていた。
「もっとも俺たち子供に知らされたことと言えば、お前と由紀が転校するってことだけだ。それ以外のことは噂で耳にした。でもクラスのみんながひどく興奮していた。今にして思えば子供らしからぬ興奮だった。黒い興奮と言えばいいのかな、嫌な感じだったな」
わたしには淳司の言わんとすることが何ひとつ分からなかった。淳司はそれと察したらしい。
「そうか、お前まだ記憶が戻ってないんだな。何があったか知らないが、それで戻ってきたんだな。でなければ、俺なら一生ここには戻ってこないよ」
心の中に黒いものが渦巻くのを感じた。粘性のあるそれは、わたしの心の扉を引き剥がし始めた。見たことも無い光景が、頭の中に幾つも瞬いて、混乱を極めた。しかしそれらは”見たことも無い光景”などではなく、忘れ去った光景らしかった。
「なあ、淳司」
わたしの問い掛けに淳司はこちらを見た。まるで奇異なものを見るような淳司の視線に苦痛を感じた。
「なんていうか・・・ちょっと戸惑っているんだ。会社を辞めた途端、妻に離婚を切り出されて、それからおかしなことばかりなんだ・・・どうなってるのか自分でも良く分からない。それで偶然、お前のお袋さんと遭って、この家に来れば何か分かるかもしれないと思ったんだが、そうしたらまたお前まで変なことを言いだすから・・・」
「変なこと?」
「ああ、そうだ。例えばだ。さっきも言ったように退社と離婚を済ませたオレは、久しぶりに親父の見舞いをしようかと思って20年ぶりに長野へ帰って来た。前にまだ小さかった娘を連れて見舞いに来て以来だからな。しかし入院先の栗木病院に行ってみたら、親父は入院していないと言われた」
「ちょっと待て」
「ん?何が?」
「たくみ、何言ってるんだ?」
「何って?」
「たくみの言ってること、辻褄が合わないんじゃないか?」
「辻褄?」
わたしは自分の言葉を反芻してみたが、特に不自然さは感じなかった。
「どこが?」
「どこがって。娘は幾つになるんだ?もう成人してるのか?」
「とんでもない。まだ小学校5年生だ」
「というと10歳?」
「そう、10歳になったばかりだ」
「その娘を連れて見舞いに来たのはいつだ?」
「いつだったかな?娘がまだ小学校に入る前だったと思う」
「ほう、じゃ5歳くらいか」
「あ、ああ。そうかな」
「で、その時はどこへ見舞いに来たんだ?」
「どこへ?」
まるで淳司の口調は警察の取調官のようだった。こちらの意図を汲みもせず、ずけずけと機械的に質問を畳み掛けてくる。わたしは次第に腹が立って来た。
「なんなんだ?淳司?まるでオレを犯罪者扱いじゃないか?オレはただ、こっちに帰ってきてからおかしなことばかりだ、ってお前に相談してるだけだぞ!」
わたしは自分でも驚くほど激しい口調になっていた。自分が思う以上に興奮してしまったらしい。
 しかし淳司は、至って冷静にわたしの言葉を聞いていた。そしてわたしが一通り叫び終わると、わたしから視線を逸らし何か独り言を言った。わたしには「・・ざいしゃか・・」というあたりしか聞こえなかった。
 淳司はわたしから視線を外したまま呟いた。
「なあ、たくみ。また怒るかも知れんが、教えてくれ。その見舞いに行ったのはどこなんだ?」
「まだそんなこと言ってるのか?!」
「ああ、済まんな。ちょっと聞きたくなったんだ」
「ふん!馬鹿馬鹿しい。栗木病院に決まってるじゃないか。ほかにどこがあるんだ」
「くりき、びょういん、か。それは長野の栗木病院だな」
「おい!いい加減にしてくれ。オレをからかってるのか?」
わたしは激昂していた。そんなわたしに、わたし自身が一番驚いていた。なぜ、淳司のその程度の質問に、わたしをこれほど腹を立てるというのだ?
 淳司は、大きく溜息を吐いた。そしてしばらく考え込むように黙っていたが、再び顔を上げると意を決したように言った。しかし、何を決意したのはわたしにはまったく分からなかった。
「なあたくみ。自分の言葉をもう一度思い出してみないか?」
「言葉?」
「娘を連れて栗木病院へ見舞いに来たのはいつだ?」
「そうだな。今10歳で、その頃5歳だったとすれば5年前か。もっとも1、2年の誤差はあるかもしれないが」
「1、2年なんて関係ないさ。それで今回、お前が長野に帰ったのは何年ぶりなんだ?」
「何言ってるんだ。さっきから言ってるように20年、いや、20年とちょっとかな。高校出て以来だから」
ほう高校ね、と含み笑いを浮かべながら淳司は顔を上げた。
「何かおかしいか?」
「ははは、弱ったな。帰省したのは20年ぶりだという。しかし5年前に見舞ったのだという」
淳司は、犯罪者の嘘を見破った刑事のごとき視線でわたしを見詰めていた。
 わたしはすぐさま言い返そうとした。しかし、言い返す言葉を失っていた。
「たくみ、この話はもう良しとしようぜ」
淳司に言われ、わたしは自分が懸命に拳を握っていることに気付いた。お陰で全身が汗まみれだ。淳司の、安っぽい謎解きのような指摘に、また同級生のくせにすべてを見抜いているとでもいうような高邁な口調が腹立たしかった。そしてそれ以上に、反論が思い浮かばない、自分に憤りを感じたのだ。
 それにしても、なぜ自分はこれほど苛付いているのだろう?と不思議に思った。淳司の指摘は、的を射ているじゃないか、とも思った。見事に的を射られただけに、腹立たしかったのか?実のところ、そうとも思えない。わたしは心のどこかでこういう場面を期待したいたように思えた。予期していたと言っても良いのかも知れない。
 期待に近付いてきたことで、単に興奮しただけかも知れなかった。それに、とわたしは思った。こうやって誰かにわたしの中の誤りを、ひとつひとつ訂正してもらうことでしか、知るべきことを知る方法が無いだろう、と。
「ところでたくみ、さっき俺のことを変な風に言ってたな」
「淳司のことを?変な風に?」
「ああ、『痩せた』とか」
「痩せたじゃないか?」
淳司は「ふうん」と表情も変えず相槌を打ってから
「じゃ、昔の俺はどうだったんだ?」
と問うてきた。
「もっと丸顔だったか?」
「そうだな。どちらかと言えば丸顔だった。金持ちの坊ちゃんにありがちな顔と言ったらいいのかな?」
「ははは、金持ちの坊ちゃんな」
納得したように笑いながら、しかし淳司は小さな反論をした。
「金持ちではあったが坊ちゃんとは言えないな。俺の親父は評判悪かったからな」
「え?そうかあ?若くしてIT企業を立ち上げたインテリってイメージだったぜ」
「そうだな、たしかにさっきお前は『おやじさんのIT企業』って言ったな。それを今は従業員達に渡して俺は悠々自適なオーナー生活だと」
「悠々自適とまでは言ってない。お前もそれなりに苦労して来たんだろ。それは顔を見れば分かるよ」
弁解するようにわたしは両手を上げた。しかし淳司にとって、そんな話はどうでも良かったらしい。
 淳司は、まるで別のことを考えているようだった。
「ところでたくみ。『IT企業』なんて当時あったのか?」
言われて見ればそのとおりだった。ITなどという言葉はここ10年の間に普及したものだ。しかし、たしかにわたしの記憶の中では、淳司の父親はコンピュータの仕事をしていた筈だったのだ。しかし淳司は、そんなわたしの記憶など簡単に否定した。
「俺の親父は不動産屋だ。それも地元では誰もが知ってる悪徳業者だったな。うちの苗字が『後藤』だから『強盗』なんて言われたものさ」
「なんだって?」
「子供の頃から痩せっぽち俺には、悪徳不動産屋なんて柄じゃあない。だから親父が死んだところで”それらしい”社員達にくれてやったんだ。もっとも未だに筆頭株主ではあるが。そのせいか連中、毎月律儀に俺の給料払い込んできやがる」
やくざもの特有の義理と人情って奴かな?と言って淳司は笑った。
「親父さんの会社、コンピュータ関係じゃなかったのか?なぜ、そんな風に思ってたんだろ?」
わたしは淳司の説明を聞いても、釈然としなかった。そんなわたしを見詰めていた淳司は、わたしに意外なことを言った。しかしそれはわたし以外の人間にとって、当時のことを知っているこの町の人々にとって、さして意外なことではなかったらしい。誰もが当然のこととして知ってることだった。
「コンピュータ会社を経営してたのは、お前の親父さんだろ。正確に言えばプリント基板というのかな?」
淳司が何を話しているのか、わたしには全く理解できなかった。記憶のどこを探しても、そんな出来事は見付からなかったのだ。
須坂市に大手の電子メーカーが大工場を作った。たくみの親父さんの会社はその下請工場だったが、もともと東京の研究所から独立したんだ。だから特殊な技術を提供する工場だったって聞いてる」
「済まんが、なんの話か分からない」
「そうか。ただ、それが事実だ。親父さんは優秀な技術者だった。大手の電子メーカーが須坂市に巨大な工場を造ったのも、親父さんの会社がここにあったからだって言う人もいたくらいだ」
「オレの親父は、駄目人間を画に描いたような男だった・・・定職に着けず、年がら年中、職を変えていた・・・それも、夜中専門の警備員ばかり・・・朝方、家に帰ってくれば昼間から酒を飲んで義母さんに暴力ばかり奮っていた。あんなだから義母さんにも由紀にも逃げられたんだ」
「逃げられた?」
淳司は腕組みし、じっとわたしを睨み付けた。しかし、ふいに何かを諦めたようにフッと肩の力を抜いた。
「倒産したんだ。ドルショックって知ってるだろ?」
もちろん、と思った。が同時に、最近どこかでその名を見かけた気がした。それもごく最近の話だ。思い出そうとしてみたが、なかなか思い出せなかった。
「あの時の不況で、輸出に頼っていた初期の電子産業は大打撃を受けた。たくみの親父さんの会社もそれで倒れたと聞いている」
馬鹿な、と思った。そもそもあの人が会社を経営してたなんて、まして優秀な技術者だったなんて・・・。わたしは歯ぎしりしていた。父に対するわたしのイメージとは掛け離れていたからだ。
「それと”酒”だが・・・たくみの親父さんは下戸だった筈だ。何回か家に遊びに行ったが、酒を飲んでるとこなんて見たこと無いよ」
わたしは淳司を睨み付けた。まるで記憶を否定されたようだった。誰か別の人の話を聞いているようだと思った。父は、夜勤明けの朝から酒を煽り、母に暴力を奮うような男だった。ところが今、淳司は父を下戸だったという。
 しかし、とわたしは思った。淳司が父を下戸だという理由は、何度かわたしたちの家に遊びに来た際、父が酒を飲んでいるところなど見たことが無い、ということだ。さすがに小学生だったわたしたちの前で酒を飲むことも無かっただけだろう。淳司が気付かなかっただけに違いない、とわたしは思った。
「しかし、お前の叔父さんは酷かったな。子供ながらに眉を顰めたよ」
「叔父さんだと?」
誰のことだろう、と考えてみたが思い当たらなかった。そもそもわたしにとって叔父といえばマサ兄しかいなかったのだ。
「たくみの親父さんはいつも、たしなめていた方だったぞ」
わたしは左右に首を振った。
「何のことか分からない」と淳司に言った。
「なあ、淳司。お前は何の話をしてるんだ?さっぱり分からない。父を下戸だとか、オレに叔父さんがいるとか。オレには叔父といえばマサ兄という男しかいないんだ」
自分でも驚くほど声が上ずっていた。金切り声に近い、聞きようによっては悲鳴に聞こえたかもしれない。わたしはそんな自分に驚愕しながら、なお自分の記憶の正当性を確かめたいと思っていた。
「なあ、淳司。お前どうかしてるんじゃないか?」
わたしの問いに淳司は呆然とした。半ば開いた口は、言葉を失ったように動かなかった。しかしそれもそう長い時間は続かなかった。淳司はすぐ気を取り直し溜息をともに呟いた。
「そうだ、正夫さんだ。彼が全ての元凶だったって大人たちは言ってたな」
「元凶?」
淳司は「ああ」と相槌を打ちながら立ち上がった。そして
「だが俺はそうは思わない。仕方が無かったのかもしれない、とも思うんだ」
とまた謎掛けのような言葉を吐くと、壁に近付いた。

「淳司。いい加減にしてくれ。もっとはっきりものを言ってくれないか?そう奥歯に物の挟まったような言い方をされても、何が言いたいのかさっぱり分からない」
わたしの言葉にまた淳司は「ああ」と気の無い返事をしながら、壁に貼られた古い写真を覗き込んでいた。
「なあ、たくみ」
写真を覗き込んだまま、ふいに淳司は言葉を発した。だから初め、わたしに対しての言葉と気付かなかった。わたしはそんな淳司の態度も気に障った。自分だけが真実を知っている、という態度。それならわたしに教えてくれれば良いのに、まるでからかうように小出しにしているように思えたからだ。
 わたしは憤りを感じながらも
「なんだ?」
となるべく声を荒げずに聞き返した。
「たくみ。さっき、親父さんが義母さんに暴力を振るったって言ってたな」
「ああ、そのとおりだ」
「それは無いぞ。親父さんはそんな人ではなかった」
抑え切れぬほどの憤りが湧き上がってきた。自分でも抑え切れぬほどのものであると同時に、心のどこかでここまで興奮する自分が怖くなっていた。
 しかし、わたしの口は勝手に興奮し、淳司を罵倒するような暴力的な口調になっていた。
「そんな家庭内のことを、なぜお前が分かるんだ!お前のような他人が遊びに来ている時は大人しくしてたんだよ!いくらあの悪辣な親父でも、他人様に見せたくないものはあるさ!」
「悪辣な親父?だと」
淳司とわたしはしばらく睨み合った。先に視線を離したのは淳司だった。淳司はまた壁に飾られた写真に目をやった。
「話は変わるが、たくみ。これを見ろ」
壁に貼られた写真の一枚を指差した。
「これは誰だ?」
淳司の問いにわたしは写真を覗き込んだ。深緑に囲まれた小公園といった場所。小学生が二人、並んでカメラに向ってポーズしていた。二人ともリュックサックを背負っているところを見ると、遠足の時の写真だ。
 遠目では細かいところまで見えないが、淳司と誰か、そう、わたしか真人、健太、裕二の誰かだろう。しかし先ほどから淳司が発する質問はことごとくわたしの足元を掬うようなものばかりなのだ。わたしの些細な記憶違いを指摘しては愉しんでいるように思えた。
 わたしには淳司の質問の意図が分からなかった。今度は何を指摘しようというのだろう?そしてまた追い詰められるような気分を味わうと思うとわたしは容易には答えられなくなっていた。
「近くで見ていいか?」
というわたしの要望に、淳司は無表情のまま「ああ」と承諾してくれた。まるで犯人を訊問する検察官のような態度に思えた。
 しかし壁に近付き、淳司が指し示す写真を間近に見たわたしは「これは・」と口走ったまま、それ以上の言葉が見付からなかった。淳司の『これは誰だ?』という質問を奇妙に思ったが、奇妙なのは写真の方だった。
「誰だ?これは」
そこに写っていたのは見たことも無い二人の少年だった。痩せた貧相な少年と、もう一人は・・・もう一人はどこかで見たことがあるような気もしたが、思い出せない。隣りのクラスの生徒だったかもしれない?だが、淳司の家の壁に、淳司以外の少年達が写った写真が飾ってある、というのも妙だった。
「誰なんだ?」
わたしの質問に、淳司は静かに
「俺たちだよ」
と答えた。
「俺とたくみ、お前さ」
そう言われてもう一度、写真を見た。だが、わたしの記憶の中にある淳司の顔はそこには無かった。少年達は、育ちの良いお坊ちゃん顔とは程遠い、痩せた顔をしていた。
「右側がたくみだ。ははは、貧乏を画に描いたような顔してやがるな」
その頃はもう、親父さんの会社は潰れていたんだ、と淳司は言った。
「左側が俺だ」
より痩せた少年、少しひねた顔付きをした少年だ淳司だという。
「俺に”スネオ”なんて格好悪い渾名付けたのは、たしかたくみ、お前だったぞ」
淳司は口の端をひしゃげた。それは笑っているようにも見えたが、ひどく皮肉っぽくも見えた。
「たくみ、お前さっき俺を見て『痩せたな』って言ったろ。俺は昔から痩せてる。だから子供の頃、お前ら悪友達は俺をそういう渾名で呼んでたんだろう」

 淳司は、わたしの記憶をことごとく否定してみせた。それがいったい、どんな意味があるのかわたしにはまるで分からなかった。実感が湧かなかったと言った方が良いのかもしれない。だからわたしは、何十年ぶりかで再会したというのに、このような非礼を働く淳司の真意が理解出来なかった。
「なあ、淳司。教えてくれないか?」
「なんだ?」
「久しぶりに会ったというのに、なぜこんな話ばかりするんだい?」
「こんな?話ばかり?」
「そうさ、たしかにオレの記憶違いはあろうさ。だって30年ぶりなんだからな。その間に記憶なんて幾らでも変化する。お前はずっとこの町にいたからさして変わってないのかもしれんが、高校を卒業した以来ずっと別の土地で暮らしてきたオレにしてみれば、ここは異郷の地に等しい。また、子供の頃の記憶なんて、実のところこれまであまり思い出したことがなかったんだ」
「思い出したことがなかった、か」
「そうさ、ずっと思い出さなかった。毎日が慌しくてね。思い出してる暇なんて無かったさ。東京のサラリーマンなんて多分、みんな似たようなものだろう」
淳司は「そうかもな」と呟いてから
「ところで『高校を卒業してから』と言ったが・・・・」
と、わたしの顔を見詰めた。だが次の瞬間
「いや、やめておこう」
そう言って俯いた。
 わたしたちは淳司の母が運んできてくれた茶を、一口ずつ啜った。互いの啜る音に耳をそばだてるようにして、相手が次に発する言葉を待った。だか淳司は黙ったまま、溜息とも取れぬ深い呼吸を繰り返していた。そんな淳司を見詰めながら、わたしは先ほど淳司が発した言葉を思い出していた。
 淳司は
『お前が記憶を失ってしまったという噂だ』
と言った。それから
『あれだけの事件に巻き込まれたんだ』
とも。そしてこうも言った。
『俺たちに知らされたことと言えば、お前と由紀が転校するってことだけだ』
 わたしは胸騒ぎを感じた。わたしが何か、とてつもない事件に巻き込まれたような気がしてきたのだ。とてつもない、という言い方は適切では無いかも知れない。むしろ淳司の言った『黒い興奮と言えばいいのかな、嫌な感じだ』という言葉が当て嵌まる気がした。
「淳司。さっきお前が言った”事件”についてだが」
ふいに淳司は顔を上げた。喉元がゴクリと動くのが見えた。ずっと冷静だった筈の淳司が、緊張し始めたのだ。
「ストレートに教えてくれ。その”事件”とは何だ?」
「ああ、それか。それもそうだな。たくみは忘れてしまったんだろうな」
「そうなんだ。ずっと東京に居たから、忘れてしまったらしい」
わたしは、ははは、と声を上げて笑って見せた。しかし淳司はますます緊張し、蒼褪めていった。
「そう硬くならないで、簡単に教えてくれればいい。そうすればオレも思い出すかもしれん」
な、淳司、と促すわたしに淳司は大きく首を左右に振った。そしてわたしにとってまた、意味不明なことを言い出した。
「いいや、俺が話したところできっと思い出さないだろう。それで良いのかも知れない。だからたくみは普通に暮らして来れたのかもしれない」
「頼む、淳司。そう訳の分からんことを言わないでくれ。単純に何があったか?どんな事件があったのか?そしてオレがそれにどう関わっていたのか?それを教えてくれればいいんだ」
淳司は大きく頷いた。そしてわたしに向き直ると、わたしの目をジッと見詰め
「たくみ」
とわたしの名を呼んだ。
「なあ、たくみ。これが本当のことかどうか、実のところ大人たちにも分からないんだ。結局、警察にも分からなかったんだからな。ただ、みんながそう思っている」
「ああ、分かった分かった。そう回りくどいこと言わないで、早く教えてくれ」
「あの日、たくみと由紀ちゃんのどちらかが、親父さんを殺した」
淳司の言葉が飲み込めなかった。
 淳司は、まるでわたしを記憶喪失者のような物言いをしてきた。そして彼の話に取り込まれ、わたし自身がわたしの記憶に疑問を感じてしまっていた。しかし今わたしの中は淳司には悪意があるのではないか?という疑問が湧き上がってきた。それは怒りを伴っていた。
「おい淳司!ふざけるなよ!」
わたしの怒りに淳司は気圧されたらしい。
「だから言ったろ。大人たちから聞いた話だって!」
まるで言い訳するように反論した。
「俺だって信じたくは無かった。だが、大人たちがみんなそう噂してたんだ」
「いい加減な話だな」
わたしは吐き捨てるように言った。淳司の話を根底から否定したつもりだった。
「まったく他人なんていい加減なものだ。面白おかしく伝わる間にどんどん出鱈目になっていくものさ!」
「それはそうだが・・・」
「第一、親父は生きている。長野市の栗木病院という所に入院してるんだ」
そこで淳司は押し黙った。黙ったまま、機会を窺っているように見えた。それはまたわたしの細かい記憶違いを指摘するためだろう。
「今度は何だ?淳司。オレと由紀を人殺し、それも親殺しに仕立て上げるだけじゃ、気が済まんのか?」
「いや、そうじゃなくて」
また淳司は黙り込んだ。言うべきか否かを悩んでいるように見えた。しかし一度目を瞑ると決意したように言った。
「親父さんは死んでいる」
わたしは、込み上げてくる怒りに震えながら淳司を睨み付けた。しかし淳司は決然としてわたしを見詰めていた。
「役場に行って調べてみたらどうだ。亡くなったのは俺たちが小学校6年の時だ」
「何言ってるんだ?だって毎月のように親父から手紙が来ていたんだぞ!」
手紙?そんなものは知らん、と淳司は首を振った。
「家に沢山ある、山のようにな。見たければ見せてやる!そうだ、今度上京した時、持って帰って来るよ。それを見ればお前だって信用する筈だ」
淳司は首を左右に振った。
「何故だ?何故信用しない?親父が死んでる筈無いだろ。だって、何度も見舞いに来たんだぞ!」
「たくみ、お前は『長野は30年ぶりだ』と言ったな。その一方で『娘を連れて見舞いに来て以来だ』とも。辻褄が合わないよ」
「またその話か!もう屁理屈はやめてくれ」
「しかしその病院に親父さんはいない」
わたしは最初に栗木病院を訪れた時のことを思い出していた。受付嬢の事務的な応対、困惑した表情、彼女は父の入所を否定した。
『そのような方はいません』
冷たい表情が思い出された。
「ようし」
知らぬ間にわたしはそう口にしていた。それから携帯電話を取り出すと、
「妻に電話する。そして、家に親父から送られてきた手紙があることを証明してもらう」
山ほどあるんだ、と呟きながらアドレス帳を捲る自分が意識のどこかで、異常者のように思えてきた。目の端に俯いたまま嫌々をするように首を振る淳司が見えた。さっきから淳司はずっと首を左右に振っているような気がした。久しぶりの再会というのに、なぜ淳司はこうもわたしを不愉快な思いにするのだろう?溜息が湧き上がって来たが、それを付こうと思うと同時に、電話が繋がった。
「パパ?」
有希だった。
「パパ、久しぶり。といっても一昨日話したばっかりよね」
「ああ、元気にしてたか?」
「ぜんぜん元気よ。パパこそ元気?あれ?走ったの?なんだかゼイゼイ言ってるよ」
「あ?ああなんでもない」
言いながらわたしは息を止め、呼吸を整えた。
「ところでママはいるかい?」
「ううん。パート」
「え?まだパートしてるの?」
「うん。なんか正社員になれそうだって言ってた」
「なに?なんだそれ」
妻は、金持ちの男の愛人になった筈だ。
「え?なんか変?」
という有希の声が聞こえた。慌ててわたしは気を取り直した。
「いいや。そうか、じゃあその携帯は?」
「今日、忘れてったって。さっきそう電話があったわ」
「そうか」
妻が居ないのでは手紙のことが分からない。仕方なく諦めかけていると
「何の御用?」
という有希の声がした。わたしは試しに、有希に聞いてみようと思った。
「なあ有希、手紙入れって分かるか?」
「てがみいれ?」
「そう。手紙が沢山刺してあるんだ。封筒とか葉書とかだ」
「さあ、分からない」
やはり、子供には無理だったらしい。しかし有希が思いがけない事を言った。
「でもお手紙なら分かるよ」
「お手紙?」
「うん、いっぱいあるの」
「いっぱい?」
「そう、みんな封筒に入ってるお手紙」
わたしにはそれが父からの手紙だとピンと来た。封筒に入ってる手紙など、それ以外に考えられなかった。
「それはどこにある?」
「ママの部屋。机の上に置いてある」
「机の上?ママの?」
なぜ妻が父からわたしに届いた手紙を机の上に置いているのかまったく思い当たらなかった。もっとも、それはわたしの荷物だから、そのうち小包にでもして送って寄越すつもりかもしれない。
「毎晩、ママはそのお手紙を読んでるの」
「え?」
どうやら、送って寄越すつもりではないらしい。
「有希、今すぐママの部屋に言ってくれないか?」
「うん、いいよ」
電話の向こうで、有希が移動する音がした。
「あったよ」
「ありがとう。それは何の手紙だい?」
「うーん、漢字ばっかりでよく分からないよ」
「誰から来た手紙かな?封筒の裏に書いてある筈だ」
「あるよ」
「なんて書いてある?北原・・・」
「うん、うちと同じ苗字だ。きたはら」
「健介だね?」
わたしは確信を得た。やはり父は生きているのだ。淳司はどういうつもりで嘘を付いているのだろう?
「ううん違うよ」
「なに?」
「違う。そんな名前じゃないよ」
「え?有希、そうか漢字が読めないんだな。どんな字かな?まず、健康の健だよね」
「違う」
「そんなことないだろ、にんべんを書いて・・・」
「違うよ。女の人の名前だよ」
女?そう言われてわたしは誰の名も思い当たらなかった。
「ええーっと。ユウ・・・なんだっけ?」
「ユウ?」
「そう。その下の字が何だっけ・・・読めない」
わたしは『ユウ』とつく女性の名前を思い浮かべてみたが、見付からなかった。
「ところで有希、手紙は何通くらいあるんだ?」
「沢山。机の上いっぱい」
「それがみんなその『ユウ』とかいう女性からなのか?」
「そう」
そんな馬鹿な、と呟きながら
「北原健介と書いてある手紙はないか?」
「ちょっと待ってね」
電話の向こうでがさごそと紙が擦れる音がした。
「うーん、無いよ。みんな同じ女の人」
「そうか、おかしいな」
わたしは頭を掻いた。妙に熱くなって来たのだ。顔にも熱があるようだった。汗が額から零れ落ち、まるで運動でもした後のようになった。
「ところで、その『ユウ』下の字は読めんのか?」
「今、辞書調べるね」
電話の向こうで何かを操る音がした。電子辞書で調べているらしい。
 わたしは今か今かと待ちわびながら、目の前の淳司を見た。淳司は壁に背を預けたまま放心したように、目を見開いていた。わたしの電話の結果など、まるで気にならないようだった。
「なあ、たくみ」
見開いた目はあらぬ方向を見詰めたまま、ふいに淳司はわたしに話し掛けてきた。
「ごめんな、たくみ。傷付けるつもりは無かったんだ」
まるで淳司は人形のように無表情のまま、動かなかった。ただ声だけが静かな居間の中に、ひどく明確に響いた。
「頼まれたんだ。あの時の刑事に。たしか、刑事だったと思う。お前に、こういう話をしてくれって」
「誰だ?あの時の刑事って?」
「あの時の刑事さ・・・ああ、そうかたくみは憶えてないんだな。まあいいさ、忘れたままの方がいい。さっき俺が言った全てのことを忘れてくれ。今のお前には必要の無いことだ。いや、不要な、害悪にしかならない記憶だ。今すぐ忘れろ。忘れて、これまで思い込んでいたことを思い出せ」
随分、勝手な言い草だ、と思った。人の記憶をさんざん引っ掻き回しておいて、今更忘れろと言う。
『オレはもはや、何が真実で、何が虚構か分からなくなったんだ!』
と叫びたかった。だが、人形のごとく感情を失った淳司にそんなことを言っても仕方がない、そう思った。そんなことより今は、父の手紙だ。父の生存を証明する父が栗木病院から送ってくれた何通もの手紙。それがなければ、わたしの記憶はすべて否定されたも同然だ。
 記憶の齟齬は、父を見舞いに行った栗木病院から始まった。あの日、わたしは父の入所する病院内の高齢者施設を訪問したつもりだった。しかし父の入所は否定された。だが、手紙は来ていた筈だ。ならば父は栗木病院の介護棟で生きている筈だった。それを証明するための手紙。しかし有希もまた、差出人は女だという。
「分かったよ・・・あれ?わたしと同じ名前だね」
「同じ?」
「そう、ユキさん」
「ユキ?」
字は違う、自由の『由』に紀元前の『紀』よ、と有希がしてくれた説明をわたしは黙って聞いていた。
「なあ有希、差出人の由紀さんの住所はなんて書いてある?」
住所?と電話の向こうで有希が小首を傾げたのが感じられた。それからまたごそごそと手紙を弄る音が聞こえた。
長野市栗木大字東だって」
れは病院の住所に違いない。
 また、電話する、といい電話を切った。有希が名残惜しそうにしてくれたのが、せめてもの救いに思えた。

 どうやら淳司の言うように父は死んでいるらしい。わたしが父の手紙と思っていた病院からの手紙の数々は、宛名が由紀になっているという。妻の悪戯だろうか?とも思ったが、離婚する夫婦の間にそのような余裕は無い。また、由紀が父に代わって代筆してくれたものかもしれない、とも考えてみた。しかし、昨日病院で遭った由紀は、
『たくみに手紙書いてるんだよ』
と言っていた。
「淳司の勝ちだ。親父は死んでるらしい。信じられないことだが、親父からの手紙なんて存在しないらしい」
父からの手紙は別の場所にあるかも知れない、という考えが一瞬浮かんだ。だが、そんな悪足掻きをしたところであっさり否定されてしまう気がした。その否定は、わたしが生きてきたこの30年、いや40年余りの記憶を完全否定するものだった。首の皮一枚繋がった状態で、手探りで記憶を手繰りたいと思った。そうしなければわたしは、自分の過去をすべて失ってしまうように思えたのだ。
「勝ち負けの問題じゃない」と淳司が言った。
「そんなことより、あの刑事、いや元刑事は知りたがっているんだ。たくみが殺したのか、由紀が殺したのかを」
淳司の言葉に、頭の中が混乱した。父を殺したのはわたしか由紀?もしその通りだとすれば、それはいつのことなんだ?淳司はさっき『あの日』としか言わなかった。あの日とはいつを指しているのだろう?わたしはこの30年の日々を思い出そうとした。しかし、東京での日々、会社で過ごした平凡な日々以外、思い出すことは出来なかった。そして父がわたしの思い出に現れることは無かった。それはまた淳司の言葉の正当性を証明した。何ども父を見舞った、と思っていたのに、その思い出は記憶のどこにも存在しないのだ。
「おかしなことばっかりだ。義母さんの見舞いに行った。そしたらさ、ネームプレートに記された名は『芳子』だってさ。オレの義母さんは『美和』だった筈だ」
「たくみ、残念だが美和さんは、お前の実の母親の名だ。おふくろが仲が良かったらしい。今でも時々、思い出話をするんだ。決まって、蟹を貰ったっていう話さ。親子三人で鯨波に海水浴に行った帰りに、お土産として買ってきてくれたんだそうだ。『あの家は、あの頃が一番幸せだったのよ』って途中から必ず涙を流すんだ」
もう四十年以上前の話なのにな、と淳司は言いながら自身も涙を拭った。
「それから、俺たちが小学校に上がった頃、美和さんが死んだそうだ。親父さんの会社が倒産して一年くらい経ってのことらしい。すべてを失った家族のために美和さんは必死に働いたそうだ。昼は工場に勤め、夜は工事現場で旗振りをして、とにかく一日中働き詰めだったって。死んだのは過労だそうだ。そこから先は・・・憶えてないか?たくみ。それからの六年間を本当に忘れてしまったのか?」
「昨日、いや一昨日だったか、夢を見たんだ。嫌な夢だ。義母さんが、ひどく冷たい女だった。オレが初めて夢精した日、布団の中で汚れた下半身に呆然とするオレを、酷い口調で罵っていた。現実は、義母さんは、美和は、とても優しい女性だった。オレの憧れの人だったんだ。真っ黒な顔をした、男の子のように勝気な由紀の母親とは思えなかった。そんな義母さんを、酷い女のように夢に見てしまうなんて、オレはどうかしてるよな」
だから美和さんは実のお母さんの方なんだ!、と淳司が叫ぶのが聞こえた。しかし淳司はすぐに押し黙った。それから
「それでいいのかも知れないな。あんな日々を思い出すのは、何の意味も無い」
「しかしオレの過去の記憶は間違っているんだろ?」
わたしの問いに淳司は少し躊躇するように押し黙ってから、再び顔を上げた。それから
「仕方ないよ。あんなことがあれば、誰も思い出したくなくなる」
と言った。
「『あんなこと』とはオレと由紀が親父を殺したって話か?」
「それは分からない。刑事がそう言ってただけだ。いや『かもしれない』とな。だが、お前たちの二人の目の前で殺されたのは間違いない。それも全身を刺されて、遺体は見られたもんじゃ無かったらしい」
「それはいつのことだ?」
「俺たちが小学校6年の、そう夏の終わり、運動会の後だ」
「運動会の・・・」
壁に貼られた修学旅行の写真を確認した。運動会の翌月、修学旅行が行われたのだ。もう一度、そこに写った子供らの表情を確認すると、笑みを浮かべてはいるがどこか悲し気に見えた。
「しかし小学生のオレや由紀に殺人なんて出来ただろうか?」
「俺もそう思うんだ。何しろ死体は身体の一部が切り取られたという」
「死体の一部?」
聞きながらわたしは吐き気が催してきた。
「きっと、当時も刑事たちが変な噂を流したんだろう。もっともそのつもりじゃなくても、聞き込みをする過程で噂は一人歩きしてしまう」
淳司が言い終えた時、ガチャリと大きな音を立ててドアが開いた。淳司の母親だった。
「そうよ、そのとおり。誰もあなたたちがお父さんを殺したなんて思ってやしなかったわ。だってあなたと由紀ちゃんは、本当に可愛い子供だったんだもの・・」
淳司の母は、言葉を詰まらせた。右手で目尻を拭いながら小さく呟いた。それはたしかに「可哀想なくらい」と聞こえた。
 彼女は涙を飲み込むとこう言った。
「知ってるかどうか分からないけど、あなたが居なくなってから叔父さまが逮捕されたの。でも証拠が無くてすぐに釈放された。それからしばらくしてからよ。誰が言い出したのか知らないけど、あなたたちのどちらかがお父さんを殺したらしいって噂が流れた」
「叔父?」
わたしは、誰のことか分からなかった。それに気付いたらしい、淳司が補足してくれた。
「たくみたちが『マサ兄』と呼んでいた人のことだよ」
さっき『正夫さんが全ての元凶だったって大人たちは言ってた』と言っていたことを思い出した。
「彼が、あの家庭を滅茶苦茶にしたようなものだわ。私は今でも彼が殺したと思ってる」
「マサ兄が?」
「ええ、もっとも本人が死んでしまってるから、今となっては分からないけど」
死んだ?マサ兄が。父も死に、マサ兄も死んでいるという。頭の中に、廃墟となっていた父の実家が浮かんだ。それはほんの二時間ほど前、淳司の母と遭った場所だ。
 わたしがそれを考えていることに気付いたのか、廃墟となった理由を教えてくれた。
「お父さまが亡くなって二年後に、あの家に住んでいたお祖父さまとお祖母さまも亡くなったわ。それから正夫さんが後を継ぐってことで、芳子さんと由紀ちゃんを連れて帰って来て三人で暮らしてたのよ・・・」
突然、言葉に詰まった。込み上げてくる何かを必死で堪えているように見えた。
「何年か、そう由紀ちゃんが中学から高校を卒業する間際まで三人で住んでた。その間、由紀ちゃんに辛いことが・・・」
堪えかねたらしく、吐き出すように嗚咽を漏らした。
「辛い、本当に辛いことがあったって・・・」
「母さん!余計な話をするなよ!」
淳司が言葉を遮った。淳司の母が、小さな手を力いっぱい握るのが見えた。嗚咽を呑み込む為に違いない。
「ごめんなさいね。それで、由紀ちゃんが高校三年生の時、突然、火事になったの。芳子さんは出掛けてたらしい。正夫さんは逃げ遅れたの」
ふいにわたしは「由紀は?」と訊いていた。由紀がいないのはおかしい、と思ったからだ。
「由紀ちゃんは、分からない。ただ・・・」
淳司が、余計なことを言うなって言っただろ!、と話を遮るように叫ぶのが聞こえた。

「おばさん、由紀が辛い目に遭ったって、どんなことです?」
淳司と母親は顔を見合わせた。答えたのは母親ではなく淳司の方だった。
「たくみ、あまり気にしないでくれ。母さんも久しぶりにお前にあったもんだから、ちょっと感情が昂ぶってしまった。根拠の無い噂話をあったことのように話してしまっただけだ」
「その根拠の無い噂話というのが、聞きたいんだ。オレは何ひとつ自分のことを、自分の家族のことを知らない。父親は今でも生きていると本気で思ってた。それが小学校の時に殺されていた?その犯人がオレか由紀だと?」
「だからたくみ、それは根も葉もない噂だ。刑事たちが勝手に広めたんだろ?」
「マサ兄が、元凶だという。そして火事で逃げ遅れて死んだ、というのは分かった。でもそれまでの何年間か、マサ兄と母を一緒に住んでいた由紀が辛い思いをしたという」
淳司は大きく首を振り、その母は両手で顔を覆った。彼らはもう何一つ答えたくない、というように身を固くしていた。
「ところで、オレはどうなったんですか?」
淳司と、母親は顔を見合わせた。
「父が死んだ後、オレはどうなったんですか?さっきから聞いていると、オレだけがどこかへ消えたというような言い方ですが」
淳司が「それも憶えてないのか?」と驚いた表情で言った。
「ああ、ずっと高校を卒業するまでこの町に住んでたと思っていた。義母と由紀は離婚して出て行ったから父と二人でね。しかし、幾ら思い出してみても中学生の記憶も、高校生の記憶もまったく無い」
わたしは記憶の断片を幾つも捲ってみた。
「いや、わずかに校舎の記憶がある。だが、コンクリートに遮られた都会の校舎だ」
「そうさ。たくみは事件の直後に消えた。俺たちの前からいなくなったんだ」
淳司が答えるのを補足するように、母親が説明してくれた。
「お父さまが殺されて、あなたは酷いショックを受けてたの。由紀ちゃんもそう。まともな精神状態じゃなかったって聞いてる。二人とも蝋人形のようになって、目を開いたまま死んでるんじゃないかって思うくらいだったそうよ。すぐ病院に入院して、落ち着いたところで由紀ちゃんはお母さんも元へ返されたわ。でも、あなたは、芳江さんの元へは返せなかった。酷い虐待が確認されてたから。それで美和さんのお母さまが、あなたを遠くの施設に送ったの」
「美和?実の母方の?」
「そうお祖母さま。私はその方から聞きました」
まるで記憶に無い。わたしの記憶の中で母方の祖母など登場したことは無かった。
「今でも生きてるわ。ずーっとあなたを待ってた。いつか帰ってくるに違いないって。その時、あなたに全てを話すまで死ねないって」
「どこにいるんです?」
「どこ?って、あなたたちが住んでた公営団地よ。あの頃と変わらない、角の部屋よ」
『角の部屋』という言葉が心に響いた。心の中で何かが溶け始めるのを感じた。

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