第9章 ◇悪夢◇
 
「あのゲーム機、ヤマサに売ってたで」
裕二は大変な発見をした、というような口振りだった。そりゃそうだろう、と思った。淳司が買ったゲーム機は、まだ発売されてないものだと言われて買ったのだ。もっとも、近いうちに発売する、とも言っていた。でも一台3万円もするゲーム機なんてこの町じゃ淳司の家くらいしか買えないだろうから、発売しても意味が無いんじゃないかと思っていたのだ。
「早速、五年の小島が買って貰ったらしいで」
「ええ?!ほんとか?」
真人が大きな声を上げた。一瞬、クラスのみんなが驚いて、ボクたちに視線が集まった。二時間目が終わった休憩時間だった。昼休みの次に長い休憩時間なので、みんな仲良し同士がそれぞれ集まって雑談をしていたのだ。
「しーっ」
裕二が人差し指を唇の前に立てるとボクらはみんな肩をすぼめて身を寄せ合った。裕二が小声で話始めた。
「それだけじゃない。中学校じゃ、十人ばかりが買ったらしいで」
「ええ!?3万もするのにかあ?」
今度は健太が大声を上げそうになって、慌てて両手で口を押さえた。すると、さっきまで少し離れたところで話を聞いていた武男が、
「実は俺も買って貰ったんだ・・・」
とばつが悪そうに言った。
「ええー!?」
裕二、真人、健太も、もちろんボクも驚いた。
「武男んち、そんな金持ちだったかあ?」
「金持ちなんかじゃないよ。だってうちの親、公務員だもん」
「でも、お前んち、共稼ぎだよな」
「ん?うん、お母さんも働いてる。別の役所だけど」
「あー、そっかー」
急に裕二が頭を抱えるようにして頷いた。
「うちの両親が話してたで。最近の若い夫婦は共稼ぎが多いって。共稼ぎすりゃあ、二倍儲かるから、知らねえ間に金持ちになるってさ」
「金持ちなんかじゃねえって」
「いいや、それにこうも言ってた。公務員はいいって。ろくに働きもしねえくせに、給料だけはちゃんと入ってくるって。今みたいな不況の時は公務員が一番オトクは商売だってさ」
「オトクなんかじゃねえよ!」
武男は裕二に掴み掛かりそうになった。それをボクと真人がなんとか止めた。
「別に金持ちでいいじゃねえか。悪いことして稼いでる訳じゃねえし」
健太はそう言ってから、はっとした。淳司が頭を掻いていたのだ。
「いや、まあ、おれたち子供には関係ないっつーかさあ・・・」
「いいよ、健太。どうせうちは”強盗”だからな」
淳司が言うと健太は苦笑いを浮かべながら
「そういう意味じゃないってえー」
と言い訳したが、淳司は笑いながら
「いいよいいよ」
と顔の前で手を振った。

「そんなことよりさ。なんか怪しくねえかあ?」
「怪しい、って?」
「まだ発売してない、って話だったろ。それが何で淳司の家にだけ売ったんだ?」
「試作品だからだろ」
ボクらは腕組みをして頭を捻った。そもそも試作品なら東京で試してみればいいのに、なんでこんな田舎に持って来たんだろう?と思ったのだ。
「日電通で作り始めたらしいよ」
小林君という同級生が言った。彼の両親は日電通の工場で働いていた。
「先月、急に話があって、急ごしらえでラインを造ったって話してた」
「ははーん。それでこんな田舎に持って来たって訳か」
「それにしてもさ、試作品を売り付けるなんておかしくね?」
「そうだよ。普通、試作品なんてタダだよな」
「淳司んちがいっくら金持ちだっつったって、試作品が有料っておかしいで」
「なあ、淳司も変だと思うだろ?」
淳司はあまり興味が無い、という表情だった。だが、何も答えないと、余計に煩いことになりかねないと思ったらしい。
「あれはさ、父さんが貰ってきたんだよ」
「え!?」
「だからタダさ」
「タダ!?」
「そ、ほんとはタダで貰ったんだ」
なーんだ、とみんな手品の種明かしをされたような気分になった。
「でもさ、淳司の父ちゃん誰からタダで貰ったんだ?」
「金持ちだから日電通の偉い人と知り合いなんだろ」
「ふーん、やっぱ金持ちはトクだなあ」
淳司は不満げに溜息を吐き、
「うちはさ、みんなも知ってるとおり悪徳不動産屋だから、日電通なんて大手の会社と取引なんか無いさ」
と苦々しい顔をした。みんな淳司の顔を見て押し黙った。明らかに淳司は怒っていた。自分の家を金持ちと言われることを淳司は嫌がっていたのだ。
 その時、ふいに小林君が口を開いた。
「おれ、変な噂、聞いたんだ」
「変な噂?」
「うん。父ちゃんと母ちゃんが噂してたんだけど、あれさ、本当はたくみの父ちゃんが発明したって言うんだ」
「たくみの父ちゃんが?」
みんなが急にボクの顔を見た。突然のことにボクは、答える言葉が思い浮かばなかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんで急にうちの父ちゃんなんだよ」
「うちの父ちゃんと母ちゃんがそう言ってたんだ」
「でもうちの父ちゃんなんて、警備員や工事現場の仕事をしてるだけだよ。なんでゲーム機なんて開発できるんだよ」
ボクはゲーム機の話が突然、父さんの話に移ってしまったので、困ってしまった。それにボクの知る父さんは、大人しくて、無口で、ただ毎日、真っ黒になりながら黙々と仕事をする人だった。
「いや、考えられるで」
また裕二が、年寄りのような口調になった。
「おれは聞いたことがあるぞ。たくみの父ちゃんは昔、社長さんだったって。東京のでっかい会社の研究所から独立して、えらい進んだ機械を作る会社をやってたって。淳司の父ちゃんより金持ちだったとも言ってた」
「え?オレ聞いたことないよ。そんなこと」
「いやでもおれも、それ聞いたことある」
追い討ちを掛けるように真人が言った。
「父さんが話してた。あの人は優秀な人だったって」
みんなの視線がボクに集まった。答えに窮したボクは、何も言えずただ戸惑うばかりだった。
「おーい、授業だぞー!三時間目が始まるぞー。みんなー席に着いてー」
先生の大きな声が、ボクらの会話を遮った。途端にチャイムの音が鳴り響いた。お陰でボクはみんなの追及から逃れることが出来たのだ。
 それから放課後まで、ゲーム機の話題は出なかった。次の短い休憩時間はともかく、昼休みにはみんなに問い詰められるんじゃないかって少し不安だったけど、誰もその話題には触れなかった。思い出さなかった、と言った方が正しいのかもしれない。子供の興味なんてそんなものだ。そして、下校時間が近付くにつれ、ボク自身もその話題を忘れてしまった。
 そんなことよりボクは、由紀の姿を探した。昨日はあっという間に先に帰られてしまったけれど、今日は一緒に帰ろうと思ったんだ。それで、この一ヶ月ちょっとの間ゲーム機に夢中になっていたことを謝ろうとも思った。きっと由紀はそれを怒っているに違いない。昨夜だってその件については
『勝手なものね』
と呆れたような口振りだったじゃないか。

 ボクは六時限目の授業が終わるや、一目散に玄関に向かった。淳司や真人、健太に挨拶もせずにだ。これなら由紀を待ち構えることは容易だと思った。背の高い靴箱の陰に隠れて由紀を待った。わざわざ隠れる必用など無いような気もしたが、クラスの誰かに見付かりたくなかったのだ。しかし結構な時間待ったが、由紀は一向に来ない。他の生徒がポツリポツリと少しずつだが玄関を出て行った。
『今日は用事がないのかあ?』
ボクは昨日、由紀が足早に帰ったり、暗くなるまで家に帰らなかったりしたのは、誰かの家に遊びに行っていたのではなく何か特別な用事があったのではないかと考えていた。
「たっくちゃん」
背中から誰かが抱き付いて来た。振り返ると裕二だった。こいつはいつも馴れ馴れしい。ボクと特に仲が良い訳ではないのに馴れ馴れしい。そうやって馴れ馴れしいから、ボクはこいつを好きになれなかった。
「たくちゃん、こんなとこで何してんの?」
意味ありげな言い方をした。ニヤニヤ笑っていた。そして裕二の向こうには淳司、真人、健太が同じように含み笑いを浮かべていた。
 裕二が「ねええ」と、わざとオカマ言葉で答えを催促してきた。
「なんでも無いよ!」
とボクが無視しようとすると
「あれ!来たよ?」
と裕二が素っ頓狂な声を上げた。それに合わせて淳司、真人、健太が
「来た来た」
ふふふ、とひそやかに笑った。ボクは靴箱の陰に隠れていたので、ボクの位置からだと由紀の姿は見えないのだ。それが分かっていて、ボクをからかっているのだった。
 ボクは、彼らのお陰で由紀に逃げられてしまうんじゃないかと思うと気が気じゃなかった。だから下駄箱の陰から由紀の姿を確認したかったけれど、悪友4人が邪魔で出来なかったのだ。
 やがて誰かが靴箱の前で立ち止まる気配がした。そして靴箱から靴を取り出す音、コンクリート製の床に置く音がして、靴を履くと、何のためらいも無く、玄関に向かって足早に歩き始めた。ボクは慌てて追い掛けようとした。また昨日のように逃げられてしまうかもしれないのだ。しかし、出口に向ったボクの視線の先を横切ったのは美奈子だった。
 悪友たちが「来た来た」と言ったのは美奈子だった。ボクをひっかけてからかったのだ。でも、ボクは文句を言えなかった。言ったら彼らの思う壺、
『やっぱりたくちゃん、由紀が好きなのね』
なんて裕二にオカマ言葉で笑い者にされてしまうに違いないのだ。
「残念だったねー、たくちゃん。由紀ちゃんはまだですよ」
裕二が意味ありげな言い方をした。
 ボクと由紀が兄妹であることは、当然みんな知っている。でも同時に、ボクと由紀が血のつながりの無い兄妹だということも知らない者は無いのだ。昨年までは、つまり五年生までは、そんなこと誰も気にしなかった筈なのだ。少なくともボクにはそう思えた。でも、裕二のちんぼがある日突然、びっくりするくらい大きくなったり、髭が生えたりするようになってから、みんな少しずつ色んなことにそわそわし始めたんだ。運動会の練習でするフォークダンスで、男子が女子の肩に手を回すのに、顔を真っ赤にしたり、手付きがぎこちなくなったりする奴らが増えていった。それは伝染病のように少しずつ、でもたちまちに学年中に蔓延し、今や男女が二人でいるだけで、他の児童からのからかいの的になってしまった。
 そして綺麗な子や可愛い子は特にその対象になってしまった。彼女たちの一挙手一投足に皆の関心が集まったと言って良い。結果、彼女たちと親しげに話したりする男子はまるで痴漢でもしたかのように蔑まれた。困ったことに、由紀は学年でも一番の美人と見られていた。勉強が出来、スポーツも万能というところが、彼女の価値を更に高めていたと言っても良い。欠点といえば少し無口なだけで、それすら神秘的な魅力に見られる方が多い。ボクにすればいつまで経っても真っ黒な男の子のような妹に過ぎないのだけれど、周囲がそれを受け入れる時期は過ぎてしまったらしい。
 結果、血の繋がらないボクらが、一つ屋根の下で暮らしているという事実が、みんなの妄想を書きたてた。女子の中には勝手なロマンスを妄想する者もいた。ボクら兄妹は、好奇の目で見られるハメになったのだ。
「たく、なにやってんの?」
振り返ると由紀がいた。靴箱の最上段から靴を取り出していた。
「またみんなでゲーム?」
「違うよ。もう帰るんだ」
「ふうん。じゃ、一緒に帰る?」
ボクが「うん」と答えると、裕二が
「由紀ちゃん、たくみはずっとあなたを待ってたんですよ」
と芝居染みた口振りで言った。しかし由紀はまった動じなかった。
「へえ、そりゃ兄妹だからね。帰る方も一緒だしね」
と軽く返した。往なされた思いをしたのか、裕二は白けたように黙り込んだ。
 その時、ボクは聞いたんだ。由紀が
「たく、帰るよ」
と言った言葉が、コンクリートの壁や天井、床でまるで洞窟のように響き渡ったのを。なぜそんな風に聞こえたのかはよく分からない。ただ、少しの間、由紀の言葉は玄関に木霊していた。

 ボクと由紀が校門を出ると、玄関から出たすぐの中二階の位置にあるエントランスから悪友たちが恨めしそうな顔をこちらを見ていた。
「熱いよお二人さん!」
と叫んだのは相変わらず裕二だった。他の三人、真人、健太、淳司は白けている感じだった。当たり前だ。ボクにしてみれば、例え血のつながりが無いとはいえ、由紀は妹以外の何者でも無かった。第一、同級生には黙っているが、ボクと由紀はいまだに一緒に風呂に入っているのだ。背中を流し合ってもいた。二人で湯船に入り、潜水ごっこや手の平で作った水鉄砲で湯を掛け合ったりしていたんだ。だから誰がなんて言おうとボクらは兄妹で、・・・しかしそれにしては由紀の方が大人び過ぎているのは否めない。背も学年で一番高いし、勉強ができるせいかどこか大人びていた。それに比べてボクは、まだまだ大人になるには時間が掛かるらしい。裕二など、大人と変わらないくらい毛が生えていたりするんだ。
 由紀が姉で、ボクが弟だったらちょうど良いのかもしれなかった。ボクは二人で歩くたび、いつもそう思うんだ。行き先を決めるのも、先を歩くのも、立ち止まって辺りを見回すのも由紀だった。ボクは由紀の後を付回しているに過ぎない。
 ところで今日の由紀は様子が変だった。いつもは遠回りして帰るくせに、今日に限って真っ直ぐ長屋に向った。何か特別な用があるのだろうか?と思ったが、そうでもないらしい。ボクの問いに由紀は
「ん?別に」
と簡単に答えたんだ。その割りに由紀は時間を気にしているようだった。窓の外から柱時計が見える家の前で立ち止まっては、今の時間を確認しているようだった。
「やっぱり何かあるの?急いでる?」
ボクが訊ねると由紀は突然、不機嫌そうに横を向いた。それから
「うるさいわねえ!黙って歩いて」
と怒鳴ってから俯いた。自分自身が一番驚いたように見えた。
 りんご畑の向こうに屋根が小さく一つ見えた。最近、建った関口さんという家だ。元は長屋の向かいの部屋に住んでいたが、貯めたお金で建てたという。父親は郵便局員で、公務員らしい四角い建物だとボクは思っていた。
 その家を越えるともう長屋の壁がすぐそこに見えた。北側の壁は、長屋の背中に当る。壁伝いに表に回った。コの字型に作られた長屋の中庭に出た。ボクと由紀は慎重に家の様子を窺った。マサ兄が来ていないか確認したのだ。マサ兄が居る所へ帰ってしまうと義母に酷く叱られる。奥の部屋から声だけしか聞こえないのだが、まるで仇に向っているかのような激しい口調なのだ。きっと顔も鬼のように恐ろしいものになっているに違いない、とボクは密かに思っていた。
 マサ兄がいるのかいないのか、家の外からは分からなかった。ボクは不安になって由紀の袖を引いた。
「ねえ、いつもみたいにどこか行こうよう。こんな早く帰ったらまた叱られるよ」
でも由紀は動かなかった。
「由紀い、松川行こうよ。それとも滑り山の方がいい?」
由紀は首を左右に振った。
「じゃ!遠いところで切通しの向こうの小山は?神社の境内で鬼ごっこして遊ぼうよ」
「嫌!絶対に嫌!」
今日の由紀はどうかしてる、とボクは思った。普段なら由紀の方からボクを誘うのに。
 意を決したように由紀は、ボクらの家の引き戸を開け始めた。少しずつ、音を立てずに隙間を開け始め、やがてボクらが一人ずつなら出入り出来る程度の空間が出来た。まず由紀が、滑り込むように入った。続いてボクが侵入すると、今度は静かに引き戸を閉めた。締め切る時、一瞬だがピシャッという木と木が弾ける音がした。
 ボクらが侵入した部屋は、静まり返っていた。急に静まり返ったような気もするし、ずっと静かだった気もする。由紀が耳に手を当て、部屋の中の音を探った。だが何の音もしない。人の気配も感じられなかったから、ボクは
「マサ兄来てないね」
と声を上げてしまった。すぐさま由紀に手の平で口を封じられた。耳元で由紀が激しく叱責した。もちろん、音にならない声だ。
『馬鹿ね!隠れてたらどうするの』
ボクも同じ声で答えた。
『誰もいないよ。義母さんだっていない。きっと今日は来ない日なんだよ』
由紀はう〜ん、と唸るような仕草をしてから、目の前を指差した。奥の部屋を覗いてみようというのだ。そこはボクらにとって謎の部屋だった。マサ兄が来ると決まって義母と二人でその部屋に篭りっきりになるのだ。義母が怒る声も、決まってその部屋から聞こえて来るのだ。
『えー?もしもマサ兄がいたら大目玉だよ』
『だから、しー、静かに』
ボクらは鼠のように四つん這いになった姿勢で、奥の部屋に近付いた。家の中は相変わらず静まり返っていた。それはマサ兄と、そして義母の不在を示していた。
 ボクは、そういえば?と初めて疑問に思った。マサ兄が来ると何故、二人は奥の部屋に行ってしまうのだろう?話をするなら居間でいい筈だし、居間にはテレビもあるし、卓袱台だって居間にあるんだ。
『ばか!』
小さな声で、由紀がボクを罵倒した。まるでボクの頭の中を見透かしているようだった。あるいはボクは、頭の中で思ったことを口に出して言っていたのだろうか?ボクの目の前で由紀が奥の部屋の前に辿り着いた。襖で仕切られた向こう側が奥の部屋だ。夜は布団を敷いて寝床に使っている。
『開けてみる?』
ボクの問いに由紀は首を左右に振った。そして顔を横に向け、耳をゆっくりと襖に押し当てた。中の音を聞いていた。ボクも由紀の真似をした。静かに耳を近付けると、洞窟の中にでもいるような、低い風の音がした。それ以外、何の音もしない、そう思った時、ボクらの耳に大人の話し声が聞こえてきた。
 それはかすかな音だったが、ボクらは聞き逃さなかった。普段聞きなれている義母とマサ兄の声だったから。声は、意図して小声としていることがすぐに分かった。でもボクらの耳は、そんな微かな会話の内容も聞き逃さなかった。
『やっぱりさ、念のため見てこようか?』
という言葉が聞こえた。義母の声だった。すぐにマサ兄の声がそれを否定した。
『いらねえよ』
『でもさ、もしあの人だったら』
『いいじゃねえか今更よう』
『そりゃそうだけど』
『もうとっくく了解済みの話じゃねえか』
まさ兄が小さく『くっくっくっ』と笑うのが聞こえた。
『今更見られてもなんのこたあねえさ。文句言う度胸もねえんだからな』
『そりゃそうだけど、気味悪いじゃないか』
『そっかな?俺は気になんねえ。むしろ見せ付けてやるのも面白えな』
『やだ!悪趣味だねえ』
二人の低い唸り声が響いた。顔を見合わせて笑っているらしい。
 それで会話は途絶えた。ついで、布団が捲くれる音がした。布が擦れ合う音がして、襖が揺れ始めた。すると由紀が襖から顔を上げた。しばらく襖を凝視した後、顔を左右に向けて何かを探し始めた。ボクが
『どうしたの?』
と訊いてもそれには答えず、襖の隅から隅に目を凝らした。でもすぐに一番壁際に何かを見付けたらしい。鼠のような格好のまま、四つん這いの忍び足で壁際まで移動した。
 由紀は壁に頭をくっ付けると、そのまま顔を前にずらし襖の端に押し当てた。どうやら襖の端を覗き込んでいるらしい。
『何してるの?』
と訊いてみたが、ボクはまるで由紀に無視されてしまった。そこでボクは由紀の隣りに行き、由紀の頭の上から同じように襖の端を覗き込んだ。そこには隙間があった。1センチほどの隙間。子供が部屋の中を覗きこむには十分な隙間だった。
 隙間の向こうに広がる部屋には、布団が拡がっていた。といってもボクらが寝る時とは違い、一つしか敷かれていない。また掛け布団が足元に丸まって山を作っていた。その足元が、ちょうどボクらが覗き込む襖の方だった。だからボクらは布団の作った山が邪魔でその向こうが良く見えなかった。だが突然、足が一つ山の向こうから落ちて来て山を潰した。その為に向こう側の様子が見えた。二人が裸でいた。それはマサ兄と義母だった。
 義母の上にマサ兄の乗っていた。二人は懸命に身体をぶつけ合っているように見えた。やがて掛け布団が形作っていた山がすっかり崩れ、全体が見え始めた時ボクはマサ兄の動きに合わせるように見え隠れするマサ兄のちんぼに目を奪われた。
 それは、
『ほーれ、どうだ!』
と裕二が校舎の裏で見せてくれたちんぼと同じだった。

『おめらはまだ毛も生えてねんだろ?』
と裕二は自慢げだった。
でもボクは、いやボクや淳司や真人や健太は、毛よりも裕二のちんぼの大きさに驚いていた。夏にプールの着替え室で見た裕二のそれは、ボクらのとさして違いは無かった。例えるなら小指程度のものだったのだ。それが、目の前の裕二のそれはまるで鰻のように見えた。
『ははは、これか。こりゃ毛が生えてきたら急にでかくなったんだ』
裕二はこれ見よがしに手の平で掴んで見せた。
『弄ってるともっとでかくなって固くなんだぜ』
言いながら裕二は自慢げに手の平で擦った。するとたちまち棒そっくりになった。お寺の和尚が木魚を叩く撥(ばい)という棒にそっくりだった。
『いけね!これやってると気持ち良くなっちゃって』
おお!という声を上げて突然、裕二は蹲った。顔が真っ赤だ。
『どうしたんだ?裕二』
心配そうに淳司が声を掛けたが裕二は答えなかった。
『腹痛いのか?』
真人の問いに裕二はしぶしぶ頷いた。
『ばっかだなあ。ちんぼなんか出してるからだよ。保健室に行け!おいみんなで連れてってやろうぜ』
真人が裕二の腕を取ろうとしたが裕二は首を左右にふり嫌々をした。
『おい!いいのかよ。大丈夫なのか?』
『一人で行く』
『だって裕二、立てるのか?』
『立てるさ。でもおめえらが居たら立てねえ』
『なんでだ?』
『なんでもなんだよ』
みんな裕二の言う意味が分からなくて、裕二の言うようにこのまま一人残して教室へ帰ってしまって良いやら、思案したまま立ち尽くしていた。その時、突然健太が
『なんか臭え!』
と叫んだ。
『そうか?』
『臭えよ!なんか変な臭いがする』
言われて見ると今まで嗅いだ事が無いような臭いがした。
『なんだこりゃ?』
『なんの臭いだ?』
皆が口々に騒ぎ始めた。でも、すぐに収まった。裕二が叫んだのだ。
『おめえら帰れ!帰ってくれよお、』
裕二は『おっおっおっ』と泣き始めた。ボクらは泣き続ける裕二にただ驚き、裕二に何の言葉も掛けられぬままその場を去ったんだ。

 マサ兄と義母は裸で抱き合ったまま、必死に動いていた。肌には汗が浮き湯気が立ち昇っているようにさえ見えた。ボクは
『ね、何してるんだろう?』
と由紀に訊ねようとしてやめた。由紀がそれを拒んでいるように見えたからだ。でもボクは、どこかで見たことがあるな、と思った。一生懸命思い出してみると、社会見学の時に見たあれだ、と思い出した。
 あれは螺子工場だった。コンプレッサーが熱い蒸気を発しながら力強く鉄板を突くのだ。コンベアの上の鉄板が、少しずつ移動するのに合わせて
とーんとーんとーん
とリズミカルな音を立てながら何度も何度も繰り返し聞こえた。
 その、繰り返される音は人間が発するものとは明らかに異質だった。プログラミングされた機械特有の動きだ。
 マサ兄と義母はまだ同じ動きを繰り返していた。コンプレッサーの奏でる音、規則正しい音が聞こえてくるようだった。それは人間では叶わぬ音の筈だった。心を持たない機械だけが発する音。吹き出る汗だけが、コンプレッサーが発する唯一の悲鳴に感じられた。永久に繰り返されると思われた正確な動きも、いつかは終わりが来ることを暗示していた。
 二人の身体から噴出す汗、立ち昇る湯気が濃さを増したように思えた。壊れる寸前の機械がブレーキを失ったように暴走し始めたように見えた。ボクは思わず
『ねえ由紀』
と由紀に助けを求めた。しかし由紀は襖の隙間に険しい視線を向けたまま、ボクを振り返ってはくれなかった。
 その時、ボクは自分の身体に変化が現れているのを感じだ。ボクらは襖の隅に身を寄せ合い、折り重なるようにして狭い隙間から覗いていた。そしてボクはボクの身体にぴったりとくっ付いた由紀の身体が、これまでと別のもののように感じたんだ。淳司や真人や健太の身体とは異なる別の生き物の身体のように思えてきた。突然、そんな思いが湧きあがったボクは慌てて由紀の身体から離れた。でも、由紀の身体の感触が、ボクの血液を逆流させる方が先だった。
 突然、
ドクンッ
という大きな音が聞こえた。それは由紀には聞こえなかっただろうと思う。なぜならボクの耳の中でした音だからだ。その音の震源地はボクの心臓だった。大きく脈打った心臓から大量の血が流れ出した。それは次第に激流となっていったらしい。激流はあっという間に身体を巡った。次の瞬間、体内のあちこちで波打った血流はひっぽんの波にまとまり一つの方向を目指して突進した。大量の血が一気に流れ込んだの場所は逃げ道の無い袋小路だった。
 恐る恐る手に触れたそれは、何ものかが分からなかった。ボクはパンツの中に手を入れたまま由紀を見た。由紀の様子を窺おうと思ったんだ。しかし、由紀は襖の隙間から眼を外し、ボクを見詰めていた。
『裕二のちんぼがある』
ボクはなんだかひどく卑怯な言い方をしてしまった気がして、後悔した。後悔は、パンツの中を汚した白濁した液体をより醜いものに見せた。ボクは由紀に嫌われたかどうかがひどく気に掛かった。
「あんたたち!なにやってるの!」
ばしゃん、という乱暴に襖が開かれる音とともに罵声が聞こえた。義母が全裸のまま立っていた。全身の汗は既に引いていた。むしろ真っ青な顔が、部屋中の空気を凍り付かせた。

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