Hatena::ブログ(Diary)

doitakaの日記

2013-12-08

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語 夜と変身

00:56

まどかマギカ劇場版について。

前回は、観た直後の感想等をざっと書いたが、主観的なレベルで「どこで心が揺さぶられたか」というあたりについては書けてなかったので書いてみる。

以下、ネタバレ

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2013-10-27

2013-09-03

ファンタジスタドール 8話 玉ねぎ破壊劇場

21:44

ファンタジスタドール、8話についてメモみたいなもの。


学園祭の学校を舞台に、複数の登場人物がそれぞれに行動し、交錯やら衝突やらが起きる、という流れ。場面の転換、動きの方向の転換が激しく、見ていて楽しい構成である。画面上の動き、見せ方とプロットが噛みあうと効果的で、脚本の腕の見せ所という感がある。ストライクウィッチーズの7話「スースーするの」回と似た構成。


この手の構成の場合、何かキーになるものが舞台を縦横に移動し、このキーをめぐって各登場人物の思惑がそれぞれに動く、というのがパターンになると思う。今回は、うずめの妹のみこがそのキーの役割を担っている。


かがみとリン

作品の前半〜中盤で実際にみこを追いかけたのは、かがみとリン(チャリーンの人)である。


かがみは、これまでの流れ的には、うずめと仲良くなりたいものの委員会とのアレコレで素直に仲良くするわけにいかず葛藤している、という立ち位置である。最初のシーンで、うずめの差し出した手を取れなかったかがみは、たまたまやってきたみこの保護者役を買って出ようとする。

かがみは、みこを、ある種のうずめの分身として見ていることになる。うずめ本人には近づけないが、「うずめの一部だがうずめそのものではない」みこに、代償的に接近しようとする。これもカティアに割り込まれるなどして上手くいかないわけだが。


リンの方はどうかというと、こちらは単純に委員会の手先として、うずめからカードを奪って自分の希望を叶えようとする。リンがみこを追いかけるのは、うずめにたどり着くための手段として、である。


ここにおいて、かがみとリンがそれぞれの理由でみこを追いかける状況が生まれるが、これはそのまま、かがみの内面の葛藤が表現されているとも言える。つまり、リン=過去のかがみ、である。現在のかがみがリンを撃退したということは、かがみの内面で、委員会の手先としてでなく友人としてうずめに触れ合う、という意志が確立した、とも言い換えられる。


最後のシーンで、かがみがうずめの手を取るシーンが描かれたということで、今話においてかがみの葛藤にとりあえずの決着がついたと言っていいのではないか。そして来週は直接対決……と。


……まあ、委員会の刺客をかがみが撃退するのはこれまで3,4回やってるので、今回も「かがみちゃん毎度おつかれー」というとこではあるのだが。うずめの手を取る/取らないあたりの描写や、みことの会話、みこを追いかけるシーンの描写、というあたり、特に今回はかがみの葛藤に焦点が合った回になっていた、と言えると思う。

葛藤らしくない、ドタバタコメディー的な見せ方ではあるが、ちゃんと葛藤的になっているのは、本作らしい。




監督とみことうずめ、あと玉ねぎ


今作のもう一人の委員会の刺客は映画監督である。

監督はみこを直接追いかけたわけではないが、映画上映後にみこだけが客席に残るという印象的なシーンが描かれている。

監督と対決するのはうずめの方だが、映画のラストシーンに出るのが玉ねぎで、戦闘で使われるのも玉ねぎ、というあたりはちょこちょこと関連付けがある感じである。

ちょっとここは整理してみる。


  • 監督は、Aパートで映画を上映したものの、誰にも理解されず酷評を受ける。
    そして、理解してくれる人を見つけるため、映画に人を集めることを委員会に依頼する。
  • 映画の内容は、何とも言いがたいが、「感情のない男女が残ったが、出会うことがなく、映画は始まりもせず、終わりもしない」みたいな感じである。そしてラストカットで玉ねぎ。これは地雷
  • 委員会と契約した後、監督とうずめの戦闘になるが、戦闘の場面では監督は映画の内容を踏まえた発言をしている。
    「出会ってしまった以上、ぼくらは戦いの中で映画の結末を語らなければならない」。
    戦闘はうずめチームの玉ねぎ攻撃で終了、監督は涙を流してリタイア
  • この後、監督が上映会場に向かったところ、みこ一人が残っており、他の観客は途中退席していた。
    みこは映画の感想を「おもしろかった」と言い、監督はこれを聞いて涙を流す。

監督が涙を流すシーンが2回あり、それらが関連付けられているのは確実であろう。

みこがうずめの分身的な存在である、とすれば、監督はうずめとの戦闘において涙し、また、みこの言葉において涙する、と、うずめ=みこによって2回泣かされている。

ここを大きく大きく俯瞰で見れば、監督はうずめとの接触により大きく気持ちを動かされた、と言える。

では、それぞれの接触をどう見るべきか。


戦闘の方。

監督のセリフにある通り、映画が結末を語っていないことについて監督は自覚的である。そして、うずめとの戦闘で語られなかった「結末」を迎えることへの期待がある。

戦闘で何が起きたかといえば、玉ねぎが包丁で切り刻まれた、要は破壊された。

始まりも終わりもしない自己完結的な閉じた映画作品、その映画を象徴する玉ねぎ、戦闘における玉ねぎの破壊……と並べてみると、どうも意図は明白であるように見える。

要するに、監督がうずめと出会うことで閉塞した自意識を壊された、と。


そういう衝突の後で、うずめは監督に対して同情を覚える。人を楽しませたいという気持ちは同じだ、ということで。

そこから今度は映画の方である。

客観的に見れば地雷、自己完結な映画。で、大多数の人は離れてしまっているわけだが、みこはただ一人「おもしろかった」と言う。誤読かもしれないし、本当に意図が伝わったかも怪しいが、それでもそういう観客がいてくれたことで、監督の涙腺が決壊である。

2度目の玉ねぎの破壊だが、こちらが本当の意味での破壊であった、ということになる。


うずめとの戦闘と、みこの映画評は切り分けて見るわけにはいかない。

うずめが戦闘という形で監督と衝突し、監督に共感を得たことにより、うずめの分身たるみこが、監督の映画に「おもしろい」という評を下すことが初めて可能になった、と見るべきだろう。

説明しすぎず、直線的になりすぎずに、テンポ良くイメージを表現している、というあたり上手いと思う。



今回の監督とうずめのエピソードに、作品全体の流れから見て特に意味があるとすれば、監督の「希望」の叶えられ方、にあるだろう。

監督の「希望」が、委員会によって直接叶えられたのでなく、うずめとの衝突によって叶えられたという点は、作品のテーマにも関わってきそうな話である。おそらく、次回のかがみとの対決でもかがみの「希望」がどう叶えられるべきか、という辺りがポイントになってくるのではないか。



ふぁんたじすたどおるは楽しいなあ。

2013-08-19

艦これにおけるキャラクターの生と死の表現

01:39

概要と目的

艦隊これくしょん(以下、艦これ)を最近よくやっている。

艦これがコレクション型のいわゆるソーシャルゲームの流れを汲んでいることは間違いない。F2P、キャラクターの収集要素は、従来のいわゆるソシャゲからそのまま引き継いだものと見られる。

ただ、艦これの場合は、従来のいわゆるソシャゲが肌に合わなかったユーザーにおいても好意的に受容されているように見える。というか自分がそうなのだ。主観的な意見として、艦これは従来のいわゆるソシャゲよりとっつきやすかった。

この「とっつきやすさ」がどこから来るのかについて、以下、順に考察してみたい。


なお、「従来のコレクション型のいわゆるソーシャルゲーム」として想定しているのは、ドリランドモバマスパズドラ、くらいである。艦これソーシャル要素(プレイヤー間の人間関係を取り入れたシステム)が希薄であるため、ソーシャル性は考慮しない。以降、上述のタイトルと同等のシステムをもつものを「(従来の)コレクション型ゲーム」と呼ぶことにする。





艦これと従来のコレクション型ゲームとの差異

艦これは基本的には「よくできたタイトル」であると言える。

ここで「よくできている」と言っているのは、主にシステム・UIまわりについてで、例えば以下の点である。


  1. ゲーム内世界のイメージのしやすさ。図像、テキストによる世界表現の仕方。
  2. 演出、アニメーション、サウンド、音声の使い方、丁寧さ。
  3. プレイヤーへの提示情報量のコントロール。段階的な情報開示の仕方。
  4. プレイヤーに発生する操作量のコントロール。プレイのテンポの良さ。

一応、1だけ補足を入れる。

これは、ゲームの全体像や、各要素(画面、シーン)のつながりがどれだけプレイヤーにとってイメージしやすいか、ということである。

艦これの場合は、そもそも現実の地域や艦船をモデルにしていることが明確なので、プレイヤーがゲーム内に記号的に出現する図像・テキストから現実の事象をイメージしやすい。つまり、細かい説明を省略してもプレイヤーが付いてきやすい。

また、画面の表現上も、海=外界=戦場 と 母港=屋内=キャンプ と、画面の機能と場所のイメージが合致するような作りになっている。空間のイメージでゲーム内世界を捉えやすくなっていることで、とっつきやすさが確保されていると言える。


で、この1〜4の要素だが、これが艦これと従来のコレクション型ゲームとの決定的な差異になっているかというと否であろう。

実際、この1〜4の点については、パズドラも十分なレベルでこれを満たしていると思われる。

3、4は、ブラウザベースのコレクション型ゲームでも十分満たせていて、1、2は近年のネイティブアプリ系のコレクション型ゲームでは十分対応できているのではないか。

「よくできている」以外の部分で、艦これと従来のコレクション型ゲームの間の大きな差異がどこにあるのかというと、コレクションの対象たるキャラクターの扱いではないか、と思われる。


以降、キャラクターの扱いに着目して話を進める。



キャラクター生成・消滅システムの比較

キャラクターに関するシステムで、艦これに特徴的な点は以下ということになるだろう。


  1. ガチャがない
  2. レアなキャラクターでもドロップ or 建造により入手可能
  3. 戦闘でキャラクターがロスト(撃沈)する

では、これらのシステムが稼働した結果どういう現象が発生するのか、また、それらを貫くコンセプトは何か。


上記の「特徴的な」システムはキャラクターの生成・消滅に関わるものである。

以下、艦これパズドラにおけるキャラクターの生成・消滅について比較してみる。


パズドラにおけるキャラクターの生成・消滅

まず、パズドラの場合、キャラクターはドロップ、または、ガチャによって生成される。

ガチャはゲーム内ポイントによるガチャと、現金相当のポイントによるガチャの大きく2種類に分かれる。

キャラクターの消滅は、合成または売却によって起こる。これはプレイヤーの操作によってのみ発生するもので、プレイヤーが意図しない形では発生しない。


では、生成・消滅の頻度はどうか。

ドロップによるキャラクター生成は、ゲームの進行と並行して自然に起こる。ガチャをやるかどうかはプレイヤー次第である。

合成によるキャラクターの消滅は、ゲームの最初期から発生する。これは、あるキャラクターを成長させるには合成により他キャラクターを消費しなければならない、というシステム上の必然によるものである(確か、チュートリアルでも合成をやる手順があった気がする……うろ覚え)。また、キャラクターの保持可能数も初期値は20と少なく、普通にプレイしていればすぐにいっぱいになってしまう。これも、プレイヤーによるキャラクター消滅操作を促す措置である、と見れる。


以上から、パズドラにおいては、キャラクター消滅の頻度は、キャラクター生成頻度とほぼ同数か若干下回る程度になる、とみなせる。

つまり、パズドラに代表される従来のコレクション型ゲームでは、キャラクターを消滅させる操作は「プレイヤーが必ず行わなければならないゲームの主軸となる操作である」と言える。これらのゲームでは、キャラクターを集め、選り分け、消費する、ということが一連のプロセスとして行われる。


艦これにおけるキャラクターの生成・消滅

一方で、艦これの場合はどうか。

キャラクターの生成は、ドロップ、または、建造によって行われる。ガチャが建造に変わっている点以外はパズドラと変わらない。

キャラクターの消滅は、合成(近代化改修)、解体、撃沈によって発生する。撃沈がある点は異なっているが、合成・解体がプレイヤーの操作で発生する点は一致する。


では、生成・消滅の発生頻度はどうか。

生成についてはパズドラと同様である。ゲームが進行すればドロップでキャラクターは生成されるし、プレイヤーが建造を行ってもキャラクターは生成される。

だが、消滅の頻度は異なる。まず、艦これのキャラクター保持可能数は初期状態で100件と多い。キャラクターの種類数が130前後なので、1キャラにつき1体保持するのであれば過半数が収まる。また、キャラクターを成長させるための主要な手段は戦闘への出撃による経験値集めであり、キャラクターを消費しての合成は成長に必須ではない。チュートリアル的に「合成せよ」と指示されることもなかった、と思う……確か。


上記から、少なくともゲームの初期段階でのキャラクター消滅頻度は相当低いはずである。

もちろん、ドロップによるキャラクターの生成・入手があり、キャラクター保持可能数が有限である以上、インベントリの圧迫に対応するためのキャラクター消滅操作が発生することは避けられない。ゲームの中盤以降では、キャラクターの生成頻度と消滅頻度は拮抗してくるはずである。

だが、それでも、プレイヤーによるキャラクター消滅操作(合成 or 解体)の重要性・必然性の低さは、パズドラとの大きな差異と言える。


端的には、艦これのシステムは「キャラクターをなるべく消滅させない」ようになっている、と言える。




艦これのキャラクター生成・消滅システムの意義付け

前述の、艦これに特徴的なシステムを再掲する。


  1. ガチャがない
  2. レアなキャラクターでもドロップ or 建造により入手可能
  3. 戦闘でキャラクターがロスト(撃沈)する

先ほど「キャラクターをなるべく消滅させない」のが艦これのシステムだと述べたが、この視点からの撃沈システムをどう位置づけられるか。


撃沈システムとキャラクター消滅について

まず、撃沈は、プレイヤーが意図しない形で発生するもので、プレイヤーの過失である。キャラクターを収集・成長させるゲームにおいて、キャラクターを意図せず失うことは最大のペナルティとなり得る。

撃沈によるキャラクター消滅頻度は、おそらく合成・解体によるキャラクター消滅頻度と比べれば微々たるものであろう。だが、プレイヤーにとっての意味的重要性は極めて大きい。実際、ステージを攻略する際のプレイヤーの判断は撃沈のリスクによって制限される。


撃沈というシステムが存在している以上、ゲームシステムは「キャラクターを消滅させ」ようとしている、と言える。一方で、プレイヤーは自発的に「キャラクターを消滅させない」ようにする。

よって、撃沈というキャラクター消滅システムは、ゲームプレイにおける葛藤の発生要因となり得る。ゲームにおける葛藤の場では、プレイヤーによるギリギリの判断が行われ、そこにドラマが発生する。ドラマの結果として、生存、あるいは、消滅が発生する。撃沈によるキャラクターの消滅は、鮮やかに、高ディティールに、プレイヤー自身の体験として描き出され得る。

一方で、合成・解体というキャラクター消滅システムにおいては、葛藤というよりは作業効率の追求がなされるのが通常である。そして、これは艦これでは重要視されていない。


撃沈システムを考慮に入れれば、艦これのシステムはこう言える。「合成・解体ではキャラクターをなるべく消滅させないが、撃沈によるキャラクター消滅は常にプレイヤーに意識させる」と。

ここに見られるのは、ドラマ性のある、劇的な消滅に重きを置く姿勢である。



ドロップ・建造によるキャラクター生成について

前節で、キャラクターの消滅において「劇的」というキーワードを挙げた。

では、この「劇的」というキーワードをキャラクターの生成に適用して再度見直すとどうなるか。

ドロップ、ガチャ、建造、の3つのキャラクター生成システムを比較してみる。


まず、ステージクリアによるドロップは劇的となり得る。

練度が低くクリアできなかったステージを、いくつかの準備を経てようやくクリアできた際、その報酬として魅力的なキャラクターが得られた、というのは十分にプレイヤーにとってドラマチックになり得る。

イベントステージでの潜水艦大和のドロップ等はまさにそんな感じである。


ガチャはどうか。これも劇的とはなり得るが、現金が絡むと扱いが難しくなる、と思われる。

現金ガチャのシステムが、あまりに劇的さを演出できてしまうと、プレイヤー側が雰囲気に飲まれて過剰に現金を投入してしまうことになる、ということがあるのではないか。要するに、コンプガチャの問題である。

自分でコンプガチャ系のシステムをやり込んだわけではないので詳しくは語れないが、SNS等の書き込みを見る限り、「〜万円を投入した末にようやく獲得したキャラ」という形で、キャラクター生成のドラマが発生していることは見て取れる。

プレイヤーが冷静に判断して適度に現金を投入できるようにするには、システムを単純にせざるを得ない。そして、劇的さが発生し得るような手の込んだシステムにするには現金の扱いが枷になってしまう。

現金ガチャにおいてはこのような制約があると見れる。


では、建造はどうか。

これは、単純なガチャと比べれば相当に手の込んだシステムになっている。資源の投入量の決定、建造完了までの待機時間、とプレイヤーがかける手間、払うコストは多い。

現状だと資源の投入量ノウハウwikiにまとめられているし、高速建造材も余りがちなので、劇的さが強いとは言えないかもしれない。ただ、独力でノウハウを貯めようとした場合は相応の試行錯誤は発生するはずだし、今後システムが変更になった場合にはプレイヤーコミュニティでの活発なやりとりが発生するはずである。

現金によるガチャと比べた場合、現金を使うこと自体から生ずる劇的さを差っ引けば、低リスクで多様な劇的さを演出することを指向している、と見れる。



個別の検討は以上。

上に挙げたシステムのうち艦これで採用しているのはドロップと建造となっているわけだが、艦これでは、メインがドロップ、サブが建造となっている、と思われる。ドロップ・建造のどちらでもレアキャラクターが出るという点では対等だが、イベントステージでドロップの形でキャラクターが先行配信されるところからすれば、ドロップ>建造、である。

つまり、艦これについては、「ガチャがない」と言うより、「ドロップが最も重視されている」とみなすのが適切ではないか。

そして、ドロップを重視するのは、それがメインのゲームプレイと最も密接に結びつき、最も劇的となり得るから、である。また、ゲームプレイとの結びつきが弱いシステムには重きを置かないという方針から、現金ガチャは不採用となり、補助的なキャラクター生成システムとして建造が採用された、と見れるのではないか。



キャラクター生成・消滅システムのまとめ

ということで、艦これにおいては、ゲームプレイにおいて最も劇的なユーザー体験を発生させるための要素として、キャラクターの生成・消滅システムが用いられている、と考えられる。

少なくとも、(短期的な)収益化のしやすさは、ユーザー体験の劇的さに比べて低い重要度に位置づけられているのではないか。



幕間

無駄に長くなってきたので一旦これまでの流れをまとめる。


  • 艦これがなぜとっつきやすかったか、が問題点。
  • 艦これと従来のコレクション型ゲームの主要な差異はキャラクターの扱いではないか、という仮説を立てる。
  • 艦これのキャラクター生成・消滅まわりのシステムを検討し、劇的さが主軸になっているとみなす。

以上。

まだ、特徴的なシステムについて意義付けをしたまでなので、当初の目的まではまだ道半ばというところである。

ここまではできるだけ事実ベースで話を進めるようにしたつもりだが、以降は主観的だったり観念的な話が多くなってくる予定である。




コレクション系ゲームにおけるドロップと敵

前章では、艦これの特徴的な要素としてキャラクターの生成・消滅まわりのシステムを確認した。

艦これにおいては、生成ではドロップが消滅では撃沈が重視される作りになっている、としたわけだが、これらのうち、発生頻度が多い方のドロップについて掘り下げてみたい。

また、艦これでは戦闘の結果としてドロップが発生するということから、敵の存在がどう描かれ、どうキャラクターと関連しているかを確認する。


コレクション型ゲームに限らないが、「強力な敵を倒す(超克する)ことで、その敵の力を我が物とする」というお話は、一般的な物語のパターンとして存在する。龍を殺してその血を浴びることで不死の力を得るとか、ヤマタノオロチを殺したら剣が出てきたとかそんなやつである。

もっと抽象的に「障害を乗り越えることで価値あるものを得る」パターンと言ってもよい。


戦闘タイプのゲームにおいて、敵を倒すことでドロップにより何かを得る、というシステムがすんなりとプレイヤーに受け入れられるのも、この物語のパターンが一般的であることの証左と言っていいと思われる。

古典的なRPGで見られるのは、モンスター等の「恐ろしいもの」を倒すことで何らかの装備品(強力な武器とか)を得る、というパターンである。ここで得られるのが装備品になるのは、RPGではプレイヤーの分身たるキャラクターがゲーム内世界にただ一人存在するからである。プレイヤーとキャラクターの1対1の関係を維持しつつ、キャラクターへの報酬付与を象徴的に表すために装備品というモノが使われる。


で、報酬として得られるモノが装備品でないパターンとしてポケモンやら女神転生やらのような、キャラクターコレクション型のゲームが出てくる。

こちらでは、モンスター等の「恐ろしいもの」を倒し、これをそのまま自分の駒として使役する形になる。つまり、敵とドロップ報酬がイコールになる形である。

パズドラも本来はこの流れを汲むものであった……と思う。


で、で、また別の派生として、「敵を倒す(超克する)」という過程以上に、プレイヤーが「価値あるもの」を収集・所有すること自体を重視するタイトルが出てくる。おそらく、ビックリマンをここに位置づけられると思う。作品内世界における障害克服のロールプレイは発生させず、一段メタな次元での収集行為の困難さが、結果的にプレイヤーにとっての「障害」になる、という形である。

そして、さらなる派生として「価値あるもの」に「美しいもの」「愛らしいもの」として美少女キャラクターが使われる流れが出てくる。モバマスはまさしくこの流れにある、と思われる。また、パズドラの美少女系モンスターもこの流れの影響にあると思われる。艦これもまたそうである。


このあたりの派生要素が混ざってくると、話がややこしくなってくる。

プレイヤーにとって、乗り越えるべき障害・困難は「恐ろしいもの」の姿をとって現れるのが自然である(ゲーム内世界で障害克服の過程を描くのであれば)。一方で、プレイヤーが所有したい(あるいは同化したい)のは「愛らしいもの」である。

このギャップをどう乗り越えるか?

モバマスでは、障害を、レッスン、クエスト等の姿のないものとし、姿を持つのは「愛らしいもの」だけにしている。

パズドラでは……全く追いきれていないのだが……脇で見る限りは、「愛らしさと強さを兼ねたもの」を障害と報酬の両方に使う、「愛らしいもの」は障害としては登場せずガチャ等の別経路で入手できるようにする、倒した「恐ろしいもの」が「愛らしいもの」に転生して報酬になる、等のパターンを組み合わせていると思われる。

艦これでは、倒した「恐ろしいもの」が「愛らしいもの」に転生して報酬になる、となっている。

艦これの解法はストレートでシンプルであると言えるが、これは敵と報酬=キャラクターを強く密接に関連づける形にもなっている。


艦これの設定上、敵が最初に在って敵を倒すことで艦娘が生まれたのか、艦娘が最初に在って艦娘が撃沈することで敵が生まれたのか、「卵が先か鶏が先か」は明確でない。

何が発端かは定かではなく、明確な意図を持って設定されたのかも不明であるが、結果として、艦これにおいて美少女キャラクターは「愛らしいもの」と「恐ろしいもの」の2面性を持つことになった。そして敵とキャラクターには点対称的な構造が生まれた。

敵の死はキャラクターの生に、キャラクターの死は敵の生に、容易に結びつく。

構造があまりにも単純で強固なので、例えば、視点を180度反転させて、

 プレイヤー : キャラクターを捕まえて兵器として使役する悪の権化

 敵     : キャラクターをプレイヤーの手から解放するために侵攻する正義の軍

と見ることも可能であり、そう見た場合でも構造は維持される。


とにかく、艦これにおいては、生成と消滅の主要システム(ドロップと撃沈)が、キャラクターと敵の対立構造ときれいに重なっている。

ならば……生と死にゲーム内世界と密接に関連する強い意味が与えられている、とも言える。


艦これにおいて、プレイヤーは死なせてしまった愛すべきキャラクターの恐ろしい恨みと対峙し、それを乗り越えることでまたキャラクターを生まれ直させ、それを繰り返す。そういう舞台になっている。




キャラクターの生と死を描くということ

ある物語において(あるいは現実において)、キャラクター(あるいは人間)が死ぬということに対して、我々は自然と何らかの「意味」を求めてしまう、はずである。

「無意味な死」はストレスである。

そういう、死を中心にした物語化の圧力は、物語作品において意識せざるを得ない主要な位置を占めていると思う。


そういう点から見て、従来のコレクション型ゲームにおいて、合成で消滅させたキャラクターが他のキャラクターの経験値になって終わり、という描かれ方をしたことに拒否反応を示す層が一定数いたのではないか、と思う。

そういう層が、艦これをプレイした際は、少なくとも序盤は合成を行わずに済むので、結果として定着しやすかったのではないか、と考える。


「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」とか「袖振り合うも他生の縁」とか色々あるが、プレイヤーがキャラクターと出会ってしまったならば、プレイヤーはキャラクターに多少なりとも愛情を抱いてしまう、ということはあると思う。ゲーム内世界ではシステムは強力であるからこそ、「無意味な殺害」のロールプレイをプレイヤーに強要するシステムは、少々注意して取り入れるべきではないかと思う。

2013-07-31

『ヴァンパイア・サマータイム』 救われない「恋愛」

01:28

読んだ。

完成度の高い作品という点は確かだと思うが、「どういう話だったか」を語るには少々慎重になってみたくなる。主軸が恋愛であるという点は確かにそうだが、その背景にあるイメージにどこか不吉なものを感じる。


カマタリさんからの流れ、リアリティの問題


ちょっとうろ覚えだが……前作のカマタリさんでは、いかにも「ラノベ的」なガジェットや設定を散りばめておきつつ、後半ではシリアスな恋愛の方向に展開が変わり、シリアスな恋愛が割とあっさりと成就するというラノベらしからぬ終わり方をしていた。確か。


少年の視点から見て象徴的なガジェットを多用したり、現実との差異を強調するような、いかにも「ラノベ的」なやり方を排しつつ、何かしら独自の手法を確立しようとする意図がこの頃からあったと思われる。

カマタリさんでは、それがいち作品内での急激な路線変更として現れたので少々面食らったが、本作は最初から「そういうもの」として書かれた感があり、落ち着いて読める。


では、「ラノベ的」であることから離れることの意義はどこにあるか。

ラノベ的」であるということは、過度に抽象的である、とも言いかえられる。つまり、「お約束だから」という暗黙の了解によって、設定の不整合を強引に押し通すことができる。これによって物語をダイナミックに動かしたり、魅力的なガジェット・キャラを出して、読者を強く惹きつけることができる。しかし、その反面、ダイナミックさが強く求められるあまり、微細で複雜な問題が描きづらくなる、というデメリットがある。


これは、作品においてフォーカスするポイントをどこに置くか、ということである。

恋愛という未知の存在を強く恐れる少年の視点からすれば、恋愛は容易に達成できない大問題で、少女は強大な力を持つ存在となる。この視点に立って物語を描くことは可能である。だが、ここに現れる「恋愛」は遠く、大きい分、解像度が低い。

では、恋愛は未知だが手が届きそうな位置にある存在である、と見る立場からすればどうなるか。恋愛は作中で達成できてもできなくてもよい、少女は特別かもしれないが特別すぎなくてもよい、くらいに収まる。そして、「恋愛」は近く、小さくなるが、その分解像度が高くなり、多様な形になり得る。

人物の解像度の高さ、そこに現れる問題の解像度の高さ、この辺りがこの路線での目指す所だと言えるのではないか。これは、リアリティと言い換えてもよい。


「現実と似ている」という意味での「リアリティ」について言えば、本作には「リアル」でない要素は多い。

まず、吸血鬼という設定がそうだし、ヒロインの冴原の人物にしても、男性目線での理想化はされていると思われる。この点からすれば、本作の作品内世界は少年・青年の内的な世界である、といって差し支えないだろう。

ただ、この内的な作品内世界に現れる、少年・青年の問題が、高解像度で複雜である点について「リアリティがある」と呼ぶことは可能と思われる。




ヨリマサという人物

細かいあらすじは省く。

本作の主人公はヨリマサであるわけだが、この人物には伏せられた部分が多い。半ばまで読んだ時点で、昼夜逆転気味、実家がコンビニで時々バイトをしている、部活はやっていないっぽい、三角関係的な友人がいる、成績は中の上程度、くらいだろうか。

作中時間は冴原との出会いから始まるが、冴原以外の要素はほとんど現れない。冴原以外に好きなものがない、とも言える。

p189、冴原家に招待される前、恋愛映画を観た後。

 恋に生き、恋に死にたいと思った。昼夜逆転していると心が柔になり、触れたものに合わせてたやすく形を変えてしまいがちだ。明日になればこの感動も消えて、泣いていたことなど馬鹿みたいだと思い出されるだろうが、やはり恋なのだった。その一点だけで彼は、まわる世界にかろうじてひっかかっていられる気がした。

虚無と、一縷の望みとしての「恋」。


昼夜逆転し、冴原家に招待され、吸血鬼達と寝食を共にしたヨリマサは、「ここではないどこか」「向こう側」へと(一時的に)越境する。

冴原家での冴原との会話。

「前に夏休み嫌いだっていってたよね」

「うん」

「どうして?」

昼夜逆転するから」

昼夜逆転したらどうして駄目なの?」

「することないから」

「することあったらいいの?」

「どうかな」

冴原は、ヨリマサの虚無の救い手であるように見える。

そして「夜と牙」の章で、ヨリマサの虚無の行方、内実が現れる。


夜の海

「夜と牙」の章、ヨリマサは夜の世界の住人として、冴原との夜のデートを重ねる。

ここで強調されるのは、人間と吸血鬼の差異である。

「理想に燃えて駆け落ちしたものの現実とのギャップに幻滅」「外国人と結婚したらカルチャーギャップで大騒ぎ」、紋切り型で言えばこうなる。が、そこで大げんかしたりドタバタコメディに持ち込める程、俗的・現実的にもなりきれない。ヨリマサはまだ純粋な少年である。


p269、デート先の海は、虚無の世界としてヨリマサの前に現れる。

 海はヨリマサの知っているそれに見えなかった。海岸通りに並ぶ街灯を境界線として、その先はヨリマサの目にとらえられない世界だった。

海ではしゃぐ冴原と、何も見えていないヨリマサという絵は、この先の全てを暗示してしまっている。ただただ、描けば描くほど痛みを得るシーンである。


p274、ヨリマサの過去がようやく語られる。

 そうでない生き方もありえたのだろうかとヨリマサは考えた。規則正しい生活を送って、高校でもサッカーを続けて、夏合宿で吐くほど走らされて、友人や先輩後輩がたくさんいて、食卓に家族がそろって、夢も見ずに眠って、波の音に目がさめて、海沿いの街で、冴原がいっしょで、生まれた時から吸血鬼で、夜の海がどこまでも見渡せてーー続いていく確かな幸せを手に入れられた世界もあったのだろうか。


ヨリマサには、この「恋愛」の限界が見えてしまっている。ここで示唆されるのは、吸血鬼となり本当の意味で越境することである。故に、ここからの冴原との接触には、キスシーンには、越境の期待と罪の予感が付きまとってくる。


夜の海でのキスの失敗の後、第三節では、ヨリマサの告白から初のキスが描かれる。

ただ、第二節、夜の海にあった越境の予感はここではスカされ、まるで普通の恋人であるかのように告白とキスは行われる。

p300、

「俺さあ、ずっと夏休みが嫌いだった。嫌いっていうより怖かった」

「怖い? どうして?」

 彼女はヨリマサの胸に声を響かせ、それを聞こうというのか、耳に胸を押しつけた。

昼夜逆転して暗い中で起きると、ひとりで、どうしたらいいのかわからなかった。俺この先どうなるのかなって考えて、誰の助けも借りられない気がしてた」

「そう」

「でも、この夏は冴原がいたから、色々話せたし、ひとりじゃなかったし、楽しかった」

「この先のことよりいまのことを怖がりなよ。吸血鬼につかまって血を吸いたいっていわれてるんだよ?」

「怖くないよ。感謝してるんだ。冴原、ありがとう」

ヨリマサの虚無は解消されたかのように見える、だが、実際には夜の海の虚無は乗り越えられたわけではない。まだヨリマサは越境していない。


この第三節をどう読むかは……迷うところではある。

続く四節ではヨリマサは何でもないような会話の流れから、ボソッと「血ィ吸っちゃってもいいよ」と漏らしている。冴原と視線の合わない膝枕の体勢からの一大決心の吐露。叶わない願いを冗談のように言うヨリマサ。これは、正面からの告白、キスの流れでは口に出せなかった言葉、ではないか。正面から強く迫れば叶えられた願いかもしれない、が、そこまで強くはなれない。

三節では普通の恋人であるかのようにキスをした二人は、四節で昼と夜の世界に別れてゆく。三節の瞬間は、甘い夢、あるいは嘘の様相を成す。


終章は、ヨリマサからのメールと冴原からのメール、そして、ヨリマサ・冴原の周囲の人物の会話によって構成される。

それぞれの宛名、題名等のフォーマットの差は、何かしらの差異・すれ違いを予感させる。「昼間の世界」の文字はボールドで強調されている。

孤立とすれ違い、離別を予感させる中で、言葉にはまだ希望があるようにも見える。それが上滑りしているのか、真実になるのかは分からない。



冴原という人物

ここで、冴原という人物に戻る。

彼女は何者なのか? ヨリマサの中心が空虚であるとして、その対面者である冴原の中心には何があるのか。


本作における冴原の「原風景」は、「ガラスの向こうの対面者」である。明と暗に分かれた世界で対極に位置し、視線を交わすもの。

この関係は、二人の学校での席が同じであるという点にも端的に表される。

異なる世界にある同一のもの。鏡面的な関係。構造的には、このような関係が示唆される。


だが、冴原にヨリマサの空虚はあるだろうか。ヨリマサが見た夜の海の空虚が冴原に見られるか。

優等生で部活にも精を出している、という点で、設定的にはヨリマサと異なっているように見える。が、いくつか傾向は見られる。

p190、

冴原に希望の学部はなかった。特考の対策をするのは、ただ悪い点を取るのが怖いからだった。

特に強調されているものでもないが、冴原にも見えていないものがある、ということではある。


ただ、冴原という人物において虚無を語るのであれば、彼女自身にではなく、彼女からヨリマサへの視線の中にこそ虚無がある、と言える。

冴原は、なぜヨリマサが好きなのかが分からない。ただ、好きである理由は「におい」へと集約されてゆく。ヨリマサの人物を嗅覚へと押し込み、視覚的、言語的な部分を捨象してしまう視線。冴原に「見えない」のは、恋愛の対象であるはずのヨリマサである。

冴原の視線は、冴原による「におい」の肯定は、ヨリマサを非言語的な実存の闇に落としこむ。対象の無条件の全肯定とは、対象の無限の矮小化に等しい。


「夜と牙」の章、第三節では、冴原は「におい」が好きなだけであることを告白するが、これをヨリマサ自身によって肯定され、初めてキスをする。

暗闇にただ感覚だけがある、第三節のキスシーンはそういう世界である。これを是とすることも否とすることもできない。だが、ヨリマサと冴原の「恋愛」には「先」がない。孤独の虚無と全肯定の虚無を行き来しただけ、と言えてしまう。

夜の海の閉塞と懊悩、まだそこから抜け出せない。



まとめ

……と、夜の海のシーンのインパクトが自分には強烈だったので、これを軸にしてまとめた。

あのシーンのイメージに引きずられて見ているところはあるかもしれないが、それはそれで。


恋愛が全てを変えてくれるわけではない、恋愛によって全てが上手くいくわけではない、という視点は確かにあるのだと思う。

これは、冴原の以下の描写・セリフにも現れている。p288

 冴原はベッドの上に携帯を投げ出した。ヨリマサに対して誠実でいたいと思う気持ちは、正義感や道徳心から来たのではなくて、単にそういう生き方しかできないだけのことだったのだ。試験勉強や部活のことも同じだ。手を抜けなくて、息苦しくてーーでも、それが自分だ。この身が灰になるまで自分というものはついてまわる。

(誰かを好きになったら別の自分になれるとか、そんなのないんだなあ……)

ヨリマサに当てはめるなら、虚無から抜け出すには、自分でなんとかするしかない、ということになるか。ただ、恋愛がきっかけになる可能性が無いわけではない、はず。


実に、実に、まともな青春小説というところか。