"Away From Her"


写真クレジット:Lionsgate
日本の母からくる電話の内容がヘンになり始めて久しい。虐待を受けた、金を盗まれたという話を何度も繰り返し、疑問を差し挟むと激怒する。『2001年宇宙の旅』でハルという電子頭脳が壊れていく感じに似ている。

彼女はもとより被害意識が強い傾向にあるので、半信半疑で聞いていたが、去年あたりから認知症からくる被害妄想だと確信するに至った。家族というのは、なかなかこの確信に至れないもので、母と仲のよい叔母などは未だに半信半疑だ。

そんなことを思いながらこの映画を見ていたら、妻の人格崩壊に苦しむ主人公よりも、静かに事態を受け入れて生きている脇役に共感が湧いた。たぶん、親の発病と伴侶のとでは打撃がかなり違うからだと思うが、脇を演じたオンピア・デュカキスの好演によるところも大きかった。

話の中心にいるのは、森の中で静かに暮す仲の良い初老の夫婦。元大学教授の夫グラント(ゴードン・ピンセント)と洗練された妻フィオナ(ジュリー・クリスティ)だ。結婚生活45年で、子供はいない様子。

友人を招いたディナーで知的な会話を交わし、晴れた日にはクロスカントリー・スキーを楽しむ優雅な暮らしをしている2人だ。が、フィオナの物忘れがひどくなっており、彼女自ら介護施設に入ることを決める。そして、入所1ヶ月間の面会謝絶をへて妻を訪ねた夫は愕然とする。

妻がまったく自分を認識できなくなっているばかりか、施設の生活になじみ、同病の男オーベリーと親しくしているのだ。グラントは妻の激変に衝撃を受ける。そんな二人をオーベリーの妻マリアン(デュカキス)は冷静に見つめていた。

物語は、最愛の妻が遠くへと消えていくことをどうすることもできない夫の焦燥と哀しみを丹念に描きながら、その一方で共に伴侶を無くした初老の男女の出会いを描いていく。
蓄えが尽きて夫を施設から自宅に引き取ったマリアンの生活への不安。ポツンと一人、家に取り残されたグラントの孤独。二人は交流を始め、次第に共感を寄せ合っていく。

恋と呼べるような甘やかな感情ではない。が、やむにやまれぬ人恋しさだろうか。モタモタとしているグラントの心に、率直な言葉と態度で迫るマリアン。廃人同然の夫を背負った女の逡巡や諦め、決意といった微妙な表情の変化をデュカキスが巧みに演じて、初老の女の気概と不安、性のリアリティを浮かびあがらせている。

記憶を失うことで、人間として壊れていく過程をデリケートに演じたクリスティも素晴らしい。『ドクトル・ジバゴ』や『シャンプー』で人気を集めた往年の美人女優で、今年67才。整形をしていない数少ないハリウッド女優ということらしいが、年齢を刻んだシワや白髪には老年の自然な美しさがあった。

監督は『あなたになら言える秘密のこと』でクリスティと共演したカナダの若手女優のサラ・ポーリー。彼女の監督デビュー作だ。脚本も、アリス・マンロー原作の短編小説『クマが山を越えてきた』を元に、彼女が書いている。子役から活躍しているポーリーだが、27才の若さで老年の境地を描いた力量は大したもの。当地での評判もすこぶる良い。

家族の認知症は、誰にとっても厳しい試練だ。母に何度もなじられ心穏やかでない時も多いが、こうした映画作品に触れると、人が壊れ消えていく哀しみにうたれ、母の病いの重さを思う。良質な映画との出会いに感謝するのはそんな時だ。

上映時間:1時間50分。日本での劇場公開未定。

英語公式サイト:http://www.memory-catcher.net/