研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

介護者の専門性と被介護者の専門性(というか当事者性)

『500時間研修?』
http://d.hatena.ne.jp/ajisun/20050812
『無題』
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20050812

なんじゃこりゃ。。。

いい機会だし、介護の質や介護の専門性について考えてたことをつらつらと書こうと思う。

高齢者介護と障害者介護のどちらかを想定するかによって違うのかもしれないが、とにかく高齢者介護を考えている人達ってとにかく介護職の専門性や資格の確立の必要性とかを強く訴えている。社会福祉学も基本的にそういうことを言う人が多いらしい。そうすれば介護の質が上がると思い込んでるらしい。(もちろん介護労働者の地位向上という側面もあり、それについては別途しっかり考えなければならない。以下ではそういうことは考えず、ただ介護の質という観点から考える。)

しかし本当に介護の質のために「専門性」とか「資格」とかってそんなに必要か??とりあえず「資格」は国からのお金をシステマティックに配分する上で必要かもしれない(必ずしも私は同意しないが)ということで置いとくとしても、介護の「専門性」ってなんだろう?

例えば介護福祉士のテキストでは、「肢体不自由者の介護は、残存機能の活用と自立援助にある」なんて書いてあるけど、この「残存機能の活用」とかいう概念を、プロの介護者はしっかり覚えてけよ、それが介護の専門性だ、とでもいうのだろうか。

この「残存機能の活用」っていうのは、例えば、どこかで読んだのだが、こんな風に用いられる概念らしい。

「多少握力や腕力が残っている高齢者や障害者にジャムのビンを持ってきてくれるように頼まれた場合、介護者は少しだけビンの蓋を開けて、残りは高齢者や障害者にやらせましょう。介護者が全部開けてしまっては高齢者や障害者が「残存機能」を活用できず、さらに身体機能が低下してしまうからです。」

ふーん。でも自分が高齢者や障害者だったら、介護者にこんなことまで気を使われたら窮屈だし、そんなおせっかいにある種のパターナリズムを感じてしまう。

「残存機能の活用」が必要なのは認めるとしよう。介護によってさらに要介護状態が悪化してしまっては(少なくとも財政的には)よくないからだ。だけど、被介護者の意思決定能力がしっかりしているのならば、そんなものは介護者への講習ではなく、高齢者や障害者などの被介護者に「介護のさせ方」講習でも開講して、そこでしっかり教えればいいじゃないか。「身体機能が衰えたくなかったら、自分の生活を自分で主体的に営んでいきたいのなら、なんでも介護者まかせに任せないで、出来る限り自分でできることは自分でしましょう」とかいって。もちろん講師はベテランの被介護者がやればいい。

未来の介護者にいくら現場と切り離された教室で介護の技術や理念を教えたって、それが現場での介護の質の向上に繋がる保障はないし、むしろ介護の画一化など悪い面のほうが多いのではないか。そもそも、介護の質とは、介護者と被介護者との関係性(権力関係、信頼関係、介護行為に関する互いの了解など)によって決まってくる部分が大きい。介護の質をちゃんと考えようとするならば、そこの部分をしっかり考えなければならない。

問われるべきは、介護者の介護意識と介護技術というよりも、被介護者の被介護意識と被介護技術ではないのか。介護者の介護意識や介護技術は、講習ではなくて被介護者に教わるのが、被介護者の主体性や当事者性を考えるならば当然ではないだろうか。

実際、私は障害者の介護を無資格でやっているが、介護の仕方については、基本的な理念に関しては所属している団体の障害者たちに教わり、具体的な介護の仕方は障害者本人たちに習った。介護される側に介護に対する意識と経験がしっかりしていれば、介護者は講習など受けなくても、介護者にとって快適な介護を心がけるようになるし、そうならざるを得ない。そうでなければ被介護者に怒られるし、それでも改善しなければクビだろう。

なぜ、「介護の質」を議論するときに、被介護者の専門性ではなく、介護者の専門性ばかりが議論になるのか。被介護者の専門性とは、すなわち個々の被介護者が自分にあった介護のされ方と介護者との関係のあり方をしっかり構築することである。障害者運動が主張してきたように、自分の障害に関しては自分が一番の専門家なのであり、同様に自分の介護に関しては自分が一番の専門家なのである。

多くの障害者団体は、それを自ら実践してきたが、高齢者についてもそういう文化をちゃんと築いていかなければならないのではないか。結局、そういう当事者意識を持った高齢者の出現を待つしかないのか。

もちろん今までの議論は、意思決定能力のしっかりした人を前提にした議論だと思われるかもしれない。しかし意思決定能力がしっかりしていない人(たとえば認知症の高齢者や知的障害者)だって、周りの高齢者や介護者の被介護意識がしっかりしてれば、周りのサポートの中でそういう介護者と被介護者の関係性を作っていくことができるのではないか。私も、知的障害児の介助をしたときは、経験がなかったので、他の障害者や経験の豊富な介護者に基本的なことを教わったし、今までに教わった「介護意識」を頼りに介助をしようとした。

将来的には、障害者団体内での介護講習やピアカウンセリングがそうしてきたように、被介護経験の長い高齢者が新たに要介護状態になった高齢者に対して、介護について講習や訓練をするのは十分ありうる選択肢だ。また、意思決定能力の高いやる気のある高齢者が、例えば認知症の高齢者の介護のあり方をサポートしていくことだって可能かもしれない。そういうシステムを政府がバックアップすることもできるはずだ。

もちろん、今書いたことは思いつきにすぎず、私は高齢者介護について多くをしらない。もっと多面的に考えなければならない問題だろう。しかし、介護の質を高めるといったときに、なぜ介護の主役であるはずの「被介護者の教育、訓練」という議論が起こらずに、介護者の専門性の確立とか講習の充実とかそんな話ばっかりなのか。わけがわからない。