2009-11-20
■[社会][財政][医療]優生学と財政学再論

といってもべつに再び論じるわけでなく、いつもどおり再びメモするだけですが。。。
今日、微妙に重なる部分がある2つの議論を読み、久しぶりに考えた。
一つ目
医療費増、経済にプラスも(岩本康志氏)
http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/iwamoto/01.html
元ネタの一つはここ?(最新バージョンではなさそう)
Fukui&Iwamoto(2004)Medical Spending and the Health Outcome of the Japanese Population
二つ目(1年以上前でのブログでのやりとり。うかつにも気がつかなかった)
QOLでなくQODを語るべき時 - 書評 - 日本人の死に時(dankogai氏)
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51054104.html
介護を考える光(bewaad氏:dankogai氏への応答1)
http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20080523/p1
介護を考える影bewaad氏:dankogai氏への応答2)
ちなみに、二つ目のブログやりとりを今頃見つけたのは、himaginary氏の以下のエントリの注経由。
経済学者は感情で動く
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20091118
エントリの内容とは直接関係ない注だが、「ただ個人的には、実際にナチスに喩えるべき妄言を唱える人間も世の中にはやはり存在するので(たとえばこれ)、上記の解釈がそうした人たちに悪用される可能性については注意を払うべきかと思う。」とdankogai氏に手厳しい。
dankogai氏への批判は、bewaad氏が優生学の説明(http://homepage2.nifty.com/etoile/hansen/03eugenics.html)を引きながら応答しているのでそれを見てもらうとして、こういう繰り返しでてくる優生学的言説・感覚を断固拒否すること(私の規範的立場もhimaginary氏のそれと近く、dankogai氏の発言は感情的に「妄言」と切って捨てたいところである)は比較的たやすいものの、上記の岩本氏論文のようなよりアカデミックな実証研究の背景にある優生学的(?)設定をどう受け止め、QALY(Quality Adjusted Life Years)やDALY((isability Adjusted Life Years)のようなQOLの経済評価手法に代わる評価手法はどうあるべきかと冷静に考えなければならないのはなかなか難しい。
そもそも多くの医療行為そのものに、障害・要介護状態になることを回避し、そういう状態ではない「健康」を実現することが目的として内包されているわけだから、QALYやDALYをもってして「重度障害者や重度要介護者のQOLが健常者の0.8掛けとか0.5掛けになるように設定されており、優生学的だ」という批判はその通りだと思う一方(そういう批判は、たとえばここhttp://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/55315756.html)、障害・要介護状態となることを回避することを目的とした医療行為の効果を計るあり方としては一定の妥当性を有しているようにも思われる。
しかしこれを一定の妥当性があるといってしまうと、限られた資源・財源を有効に使うために老人は死んでくれというdankogai氏の言説を肯定することともどこかで繋がってしまうのではないか、という感覚もある。じっくり考えれば繋がらないのかもしれないが。
こういうこんがらがった話はいろんなところで議論されているので(例えばSocial Science and Medicineというジャーナルにはこういうトピック関連の論文がたまに載っているし、日本でも有名どころでは立岩先生などが独自の思索を展開しているはず) 、まずは先人のお知恵拝借ということで自分は思考停止していて知識の補充すらしていないのだが、自分がいつかこういう領域に手を染める可能性がないわけではないのでメモ。というか、一度手を染めかけてかなり中途半端なところで止まっている。ごめんなさいajisunさん。
参考リンク:
・QALYについての概論は例えばここ
http://www.csp.or.jp/cspor/upload_files/arch_71.pdf
・DALYはあんまりいい解説みつからなかったが、例えばここ
関連エントリ(どれも古い):
「スパゲティ症候群」について
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060414#p1
健康経済学とQOL
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060410#p1
優生学と財政学
参考文献(昔いろいろ読んだのだけど、中身かなりわすれたー)
Methods for the Economic Evaluation of Health Care Programmes
- 作者: M. F. Drummond,Mark J. Sculpher,George W. Torrance,Bernie J. O'brien,Greg L. Stoddart
- 出版社/メーカー: Oxford University Press
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Economic Evaluation in Health Care: Merging Theory With Practice (Economy and Environment)
- 作者: M. F. Drummond,Alistair McGuire
- 出版社/メーカー: Oxford University Press
- 発売日: 2002/01/15
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- 作者: Erik Nord
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 1999/09/28
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Public Health, Ethics, And Equity
- 作者: Sudhir Anand,Fabienne Peter,Amartya Sen
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Txt)
- 発売日: 2006/03/09
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- 作者: Marthe R.Gold,池上直己,池田俊也,土屋有紀
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福祉国家が福祉の効率性を求めればこうなるのも自然か…
ご参考になれば(既にご存知でしたら申し訳ありません)
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2003dir/n2542dir/n2542_05.htm
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第20回
李 啓充 医師/作家(在ボストン)
「 ここ数十年,医療技術は目覚ましい進歩を遂げてきたが,人工心臓に代表される人工臓器の実用化はその最たるものである。しかし,医療技術の進歩は,人類に福音をもたらす一方で,医療費の止めどない上昇をももたらした。これまでは,医療の進歩に対してそのコストを負担する余裕が社会にあったので,必要や適応のある患者「すべて」に対して,医療保険などの形でそのコストの大半を負担することが可能であった(略)。
ところが,医療費が止めどない上昇を続ける限り,やがて,「ない袖が振れなくなる」日が到来することは避けえない。例えば,人工心臓が実用化された場合,心臓「置換」の適応がある患者すべてに対して,その医療費を社会として負担することができる国がどれだけあるだろうか?
社会が医療コストを賄えるかどうかだけでなく,医療資源そのものの量が極めて限定されている状況においても,必要と適応がある患者すべてにはその資源を供給しえないという状況ができる。例えば,腎透析の黎明期,世界で初めて透析を実用化したシアトル市のスウェーディッシュ・ホスピタルには,わずか5人分の透析供給体制しか整えられていなかった。あまたの腎不全患者の中から透析を受けるに「ふさわしい」患者を選別するための委員会が同病院内に設置されたが,腎不全患者の生き死にの運命を決定するこの委員会は,やがて「God Committee(神の委員会)」と呼ばれるようになった。」
患者各人、医師各人ともに、誰に接種すべきで誰に接種すべきではないか?という問題が生じています。
一つの「最適」解決策は市場経済的な分配でまさに価格暴騰のザ・温床。
逆に神意(くじ)を参考にする方法。
http://b.hatena.ne.jp/entry/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091109-00000230-jij-soci
コネ型
鳥取・西伯病院の余ったワクチン問題
ソ連ジンバブエナチと揃い踏み。アルゼンチンの出番がないのが惜しまれます(笑)
それはさておき、本来なら自分の施しうる医療を、お金のない人、あるいは何らかの事情を持つ人に対し、諦めなくてはいけない葛藤から無縁で日本の医療従事者は恵まれていると思います。新型インフルエンザワクチンはほとんど初体験かもしれません。
大きかろうが小さかろうが福祉財源に限りがあるかぎり、福祉の効率性っていうのは必要なものだとは思うのですが、どう計るのかはほんとに難しいですね。また、福祉の効率性で評価する前に財源の大きさを評価する必要がある場合もあって、その場合には福祉と他領域の間での資源配分や資源再分配を考えなければならなくなります。最後は神学論争で決めるしかないと思うのですが、その「最後」に至るまでの議論の詰めはまだまだ途上なんだと思います。
>ajisunさん
すみません。。。がんばります。。。
>匿名希望さん
有用な情報提供ありがとうございます。ここで気をつけるべきは、この話には、(短期的に)「神の委員会」の意思決定をどう行うべきかということと、(中長期的に)腎透析への資源分配の大きさをどのように決定するべきかという、二つの問題が含まれていることですよね。私がより興味があるのは後者ですが、この決定にQALYやDALYをどの程度参考にすべきかといわれると、いや、あんまりよくなくね?となってしまいます。でも代わりになにかあるかといわれても正直よくわかりません。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/18429203.pdf
あと、岩本先生の論説は、「健康寿命の伸長を経済成長の果実としてとらえる」という視点ですので、これは医療費増を社会的・経済的コストとして捉えるという一面的な見方への批判でもあります。これに対しては、医療費増を肯定的に捉える立場の人間からは、「その通りだ。医療はコストではない」という擁護の声と、「医療費増は、その経済的価値とは関係なく正当化されるものだ」という批判の声の両方がありそうです。
あと私個人としては、医療の成果を経済価値に換算することはよいとしても、その基準が「健康寿命(介護の必要なく元気に日常生活ができる期間)の伸長」でよいのか、という問題があると思います。これだと、介護の必要があって、かつ介護によって元気に日常生活ができる期間がカウントされなくなってしまいます。これを「健康寿命」概念に含めるのは技術的には可能で、神学論争抜きにできる議論ではないかなぁと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/58734210.html
ついでに……私は何の専門家でもないので、こういうところに口を挟ませていただく資格などないかもしれませんが、「障害・要介護状態を回避することが医療の目的には内包されている」という解釈は、いかに医学モデルでも、ちょっと狭すぎるのではないでしょうか。あ、でも、それだからこそ、今の欧米では遺伝子診断で障害と遺伝病をはじいて、障害新生児への「無益な治療」は拒み、要介護状態の人の「死の自己決定権」によって医療的に自殺幇助を行おうという方向に行っているのだと考えると、整合性もあるのかな……。もうちょっと、医療の中だけで対処しようとするのではなく、介護とか福祉との連携の可能性の中で障害・要介護状態への対応を考えてもらえないものか……といつも思うのですが。
ブログ、いつもチェックさせて頂いています。毎回情報量が多いのでなかなかフォローしきれてませんが、勉強させて頂いています。私も何の専門家でもないので、そんなことは気にしないでください。それに専門家のみが口を挟む資格があるなどということは、この種の領域ではありえないですし、それこそspitzinbaraさんの思想・哲学に反することだと思うので、まったく気にする必要はないですよ。
>「障害・要介護状態を回避することが医療の目的には内包されている」という解釈は、いかに医学モデルでも、ちょっと狭すぎるのではないでしょうか
コメントの趣旨をきちんと押さえているかわかりませんが、例えば骨折したときにそのまま放置しないで直すとか、腰を痛めて動きにくくなったときに治療するというのは、ただ痛みを無くすというだけではなく、障害・要介護状態を避けるための医療行為ですよね。そういう意味で、多くの医療行為には障害・要介護状態を避けるための行為が内包されているということです。
なので、この種の医療行為の効果を計るために、どの程度、障害・要介護状態の悪化を防げているかを評価すること自体はおかしなことではありません。
例えば、複雑骨折したときに、同様のコストで治療Aと治療Bを施すことができ、治療Aのほうが治療後の身体的パフォーマンスが高ければ(身体的な障害度が低ければ)、費用対効果としては治療Aのほうがすぐれており、同じコストをかけるならば治療Bではなく治療Aを選択すべきだということになるでしょう。この推論自体に倫理上の問題はありませんし(といいきれない部分もありますが)、私もspitzibaraさんも当然治療Aを選択するでしょう。骨折してそのまま放置して(あるいは治療Bを施して)障害が残っても、手厚い介護保障制度があるなら大丈夫、なんて発想をする人はほとんどいないでしょう。
現在我々がその恩恵を預かっている様々な優れた医療行為も、そうやってパフォーマンスの技術的・経験的測定のふるいにかけられながら発展してきたたものだと思います。
このような費用対効果の評価の是とすることを、「無益な治療の拒絶」や「死の自己決定権」を是とすることを同一視することはできず、そこには飛躍があります。
しかし、「論理の飛躍」と一蹴することもできない微妙な関係性が両者の間にあることも事実です。欧米圏については知りませんが、ご存知のとおり日本でも障害当事者や社会学者、倫理学者が、こういった微妙な問題について、その微妙さを微妙なままに扱って議論してきた歴史があります(最近はこういうものを読んでいないのでもう議論の内容はほとんど覚えていませんが)。
私の大雑把な理解では、QALYとかDALYとかは、この比較的(あくまで比較的)価値中立的な医療技術的な費用対効果の測定法が、より微妙でより価値中立的でない「幸せ」の評価や社会的分配の評価にまでナイーブに入り込んできているがために摩擦を生んでいるんだと思っています。
私は医学や医療経済学における費用対効果の測定そのものを問題視するよりも(治療後のADLが高いほうが望ましいと思うのは万人に共通する想いでしょう)、その測定の適用範囲をどこまでに封じ込めるかについてのコンセンサスを形成することこそが重要な事柄だと思っておりますが、どうでしょうか。ご意見お聞かせ頂けると幸いです。
そういうことだと思います。最近は勉強していないので忘れかけてますが、DALYやQALYは、個々の患者の治療選択にも、医療での資源配分にも技術的には使えるのではないかと思います。私はどちらにせよかなり限定的にしか使用されるべきではないと思っていますが。ちゃんと検証していないので断言はできませんが、そのメリットデメリット両方考えると、なくてもいいものなのかもしれません。
>そういう文脈で、医療の目的を障害・要介護状態を回避することだと言ってしまうと、リハビリテーションとか緩和医療とかリエゾン医療とか、それから在宅介護を支える地域医療など「支える医療」とか、成果が数値化できにくい医療には最初から価値が見いだせないことになってしまうんじゃないか、という気がしたのですが。
おっしゃるとおりだと思います。なので私は「QALYやDALYをもっと使って科学的な議論・意思決定を」という主張にはかなり懐疑的です。
ただ一方で、「医療の目的には障害・要介護状態を回避することが内包されている」というのも上述したように否定しがたい事実であり、その成果が数値化されるということも阻止しがたい潮流だとも思います。我々がその恩恵を受けているのも事実でしょうから、頭ごなしに否定しても仕方ないと思います。
なので、「数値化できにくい価値がある」としてQALYやDALYが様々な意思決定に安易に適用されていくのを根本的に批判・反対していくという方向と、「数値化できにくい」ものをなんとか数値化してQALYやDALYを「一面的な評価しかできておらず、科学的に未熟」として駆逐していくという方向と(その方向で研究している人はけっこういると思いますが、まだまだ発展途上なんだと思います)、その両者が必要なんだと思います。両者は矛盾しているところもあり、難しいとは思いますが、それしかないのではないでしょうか。
簡単にいえば、「科学は万能ではない」という外在的批判と「科学的に未熟である」という内在的批判の両方が必要かつ可能だと思います。ただ後者についても、上のコメントで書いたように、おのずと限界があります。その場合にはやはり外在的批判こそが重要で、意思決定や資源配分の「あるべき姿」を狭い科学的視野のみならずより広いパースペクティブでしっかり討議して構築していくことこそが必要、ということになるんだと思います。
抽象的な一般論かつ歯切れが悪くてすみません。
米国・カナダの「無益な治療」概念も、当初は「延命・救命効果もないのに患者に苦痛を強いている」という意味での「治療の無益」の判断であったはずのものが、今では「救命できたとしてもQOLが低すぎるなら、その治療は無益」という「患者の無益」論にすり替わろうとしています。自殺幇助化合法化議論においても「ターミナルで耐え難い苦痛がある」という線引きに、QOLの低さが取って代わろうとしている気配があります。欧米の医療倫理全般において障害のある生を無価値なものとして切り捨てる動きがいろんな形で急速に進んでいる大きな絵の中にDALY・QALYも置かれている以上、DALYとQALYだけが価値中立的であり続けるということはありえないんじゃないでしょうか。
前段のコメントで書いてあるように、私もそう思います。なのでQALYやDALYというのが例えば上述のシンガーのような論理で使用されていくというのは私の価値基準からすればありえませんし、これは社会全体のあり方の話なので「個々の価値観の違いだよね」ですむ問題ではありえません。
>「医療の目的に障害の回避も内包されてはいるかもしれないが、それだけではない」という部分を、いかにこの流れが阻止しがたいとしても強く言い続けてもらわなければ困る
これも上述したように、完全に同意します。だからこそ、外在的、内在的批判が必要なんだと思います。私が「医療の目的に障害の回避も内包されてはいる」とあえて書いたのは、(すでに多くの日本の障害当事者や社会学者や倫理学者が指摘しているように)この種のちょっと思考を進めれば優生学的思想に繋がりかねない行為(例えば病気や障害を直す・防ぐ行為)や思想(例えば健康な子どもが生まれてくることを願う親の気持ち)は、社会にあたりまえのように深く埋め込まれており、容易に批判できない側面が含まれているからです。
立岩真也氏の私的所有論の第9章の冒頭で最首悟氏の「わたしは心身共に健康な子を生みたいという願いを自然なものとして肯定します。しかし、そうは思わない不自然さも、人間的自然として認める余地はないのだろうか。」という一文が引用されており(http://www.arsvi.com/w/ss02.htm)、私は非常に強い印象を受けた記憶がありますが、要はここらへんをどう考えるかということだと思います。
まぁ残念ながら現在の私はとてもDALYやQALYの専門家といえる立場ではありませんが、いずれ何かこの領域で貢献できればとは思っております。外在的な批判はそれこそAjisunさんやspitzibara さんも含む人々がやっておりますので、内在的な指標化の部分でオルターナティブなものを提示できればいいのですが、自分のキャパや、この領域にどの程度時間を割けるのかは未知数です。。。
しつこい学生みたいなコメントに、いろいろ丁寧に答えてくださって、ありがとうございます。dojinさんがどういう方なのか私は知りませんが、お名前やお立場を知ったら「ひぇぇっ」とすくみあがるような方なんだろうと拝察しつつ、匿名をいいことに、こんな贅沢なやり取りをさせていただけることに、ブロガ―の幸せを感じました。ありがとうございました。
>お名前やお立場を知ったら「ひぇぇっ」とすくみあがるような方なんだろうと拝察しつつ
いえ、ただの20代の学生です。。。
ところで、まだDALY・QALYにこだわっているのですが、dojinさんが記事にリンクしておられる資料から、なんだか面白いもの(コワイものかも?)が見えてきたような……。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/58813477.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/58813564.html