プリンセスチュチュとギャル文字

このサイトを見るのも二ヶ月ぶりです。いや最近gyaoクリィミーマミ流してるし。二ヶ月って早いなあ。

プリンセスチュチュにおける登場人物のひらがな表記

[id:dokoiko:20060506:title]を訳すときに、原文に列挙されていた魔法少女物アニメについて概要を調べていた。と言うのも私はアニメの人ではないため、アルスはいずみのさんに薦められて半分ぐらい見て、どれみとミュウミュウとピッチはわずかに本編を見たことがあり、名前だけ知っているのが燃えよ剣で、残りは(゚⊿゚)シラネだったのだ。ということでおもにWikipedia日本版で概略を調べた。
オタクネタは強くていいよねWikipedia(dokoiko)
んで、プリンセスチュチュである。これはまずプリンセスチュチュ - Wikipediaを読んだ後、公式サイト(http://www.imagica.com/shop/tutu/)のStoryを読んだのだった。で、読んでも読んでも人物と名前が一致しない。えーっと、あひるが好きなのはふぁきあ? みゅうとだっけ? るうって誰だったっけ? というのがあらすじを読んでいる間ずっと続くのだった。いや、猫先生はわかるし、ドロッセルマイヤーもわかるし、チュチュもわかるぞ。お話の筋だって村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」っぽいってのも分かるし、ぶっちゃけ面白そうだ。というかDVD借りてきて見てみたいナリ〜。
そうやって何度かあらすじを読んでいると、ずっとなんだかすごく読みづらいという感覚が続いていることに気が付いた。いったんあらすじ読みを中断して、読みづらいと思う理由を考えた。そしてたどり着いたのは、人物の名前がひらがなであることだった。
でもここで私はそれを否定するわけではない。そんなことをしてもどうしようもない。かといって心の広いわかった大人のつもりをしたいわけでもない。ここで私は人物の名前にひらがなを用いた理由、およびその効果について考えたいのだ。ではどうするかというと、普通チュチュの人物たちのような名前であればカタカナ表記をするだろう。ということで、人物の名前をカタカナ表記してみる。
ヒル、ミュウト、ファキア、ルウ、ピケ、リリエ、マレン、フレイア、フェミオ、アオトア、ウズラ。んー、そうなんだよな。固い。イメージがまったく異なってくる。だいたいカタカナで書いたらホントに鳥の名前になってしまう。だからあひるとうずらはひらがなでも普通として、みゅうととかふぁきあはカタカナでもふつう問題ないわけだ。
だからチュチュで登場人物がひらがな表記であるのは、カタカナそれ自身が持つイメージを拒否しているということになる。で、それはひらがな表記に「する」側の論理である。ひらがな表記を「読む」側の論理を考えてみると、カタカナが持っているイメージから離れることができるということだ。「カタカナは固くて、ひらがなはやわらかい」ということであり「カタカナはかわいくなくて、ひらがなはカワイイ」ということである。で、もうちょっと論を進める。そうではあるが、チュチュにおけるひらがな表記にはもうひとつ別の効果があるのだ。
いま「カタカナはかわいくなくて、ひらがなはカワイイ」と書いた。かわいいというのは(まあ「かわいい」の場合通常といってもかなり近接してきたのだが)ひらがな表記が標準である。カワイイと表記する場合というのは例外であり、われわれはカワイイが例外であると言うことを理解してカワイイを読む。例外であればそこには標準外であるという意味が発生するわけで、カワイイを文脈で理解しようとしてしまう。
チュチュにおけるひらがな表記も同様で、ひらがなで表記されたみゅうとという文字についてわれわれは何かしらの文脈を付加してみゅうとを理解しようとしてしまう。
つまり、「カワイイ/かわいくない」という並列の意味同士としてではなく位相がずらされている「標準/標準外」という関係においてわれわれはチュチュにおける登場人物のひらがな表記を理解せざるを得ない。

チキンレースとしてのギャル文字

と言うことで話はギャル文字に移る。ギャル文字という表記がどのような意味を持つかについては、ネットを検索してみたが全然出てこない。かろうじて

「言葉で理解を求めるというよりは,見た目の雰囲気で何かを伝えようとしている印象を受けた。そのようなコミュニケーション手段では絵文字や顔文字も,ある意味パターン化はまぬがれない。よりインパクトの強いメールを送ろうと思った中から生まれた文字ではないか」
「知り合いの若い女性が書いた手書きのメモはギャル文字にそっくりだった。自分たちが日常で使っている文字を携帯電話上で表現したいという気持ちもあるのかもしれない」
メールを暗号のようにすることで,親や他人に読まれてもバレない「身内だけの」コミュニケーションを図っているのではないかと想像する。
引用:Mobile:あなたは解読できるか?──絵文字,顔文字そして「ギャル文字」ITmedia

要するに平仮名ってのは当時の「ギャル文字」だったんですね。
引用:http://mita.cocolog-nifty.com/mita/2006/01/post_7f25.html(ケータイAlternative)ぐらいである。

ぐらいだ。ITmediaの⊃〃┣宀廾于氏の「「身内だけの」コミュニケーションを図っている」と言うのはたぶん当たりで、あとは理由を説明しているわけではなくただの感想でしかない。ケータイAlternativeについてはチラシの裏である。ひらがなは当時の日本語表記が万葉仮名であり、ひらがながなければまともな文章を書くには漢字で漢文体を書くか漢文訓読体を書くしかないわけで、日本語を日本語のまま表記するという方法上の転換をもたらしたひらがなとは質が異なる。
ギャル文字は中高生がおパンツ見えるまでスカートを短くしてみたり、どいつもこいつもディズニーの縫いぐるみをかばんにぶら下げていたり、マンバになったりするのと同じ位相に存在する。マンバについてはhttp://www.jmrlsi.co.jp/menu/report/2004/manba.htmlが株式会社ジェイ・エム・アール生活総合研究所で発表されていた。企業レポートなので、ガングロとマンバって違うんですよーというぶちかましで始まり、リサーチが入り、マクロ視点でもっともらしい説明をつけて終わっているわけだ。ただし「対立から協調へ」というところへ話を持っていくのが気に入らない。そうではなくてガングロからマンバへの移行は、社会からの完全な隔絶であるように思える。
マンバの存在は同世代でも比率で言えば少数であるわけで、またマスメディアにマンバの格好で出てくる芸能人がまったくいないのだから、マンバという存在が流行や普遍ではなく隔絶や異端であると思われる。
んーここらで話を元に戻す。ギャル文字を含めてこれらの現象はすべて正統/異端という軸を使うべきなのだ(ジェイ・エム・アールは過去にガングロの分析も行っており、こちらは一人ぼっちが怖いだけというガングロの分析およびガングロは消費リーダー足り得ないという結論ともにいい線だと思う)。
ギャル文字も「手書きの表現」ということで説明を終わるのは片手落ちである。ではなぜギャル文字使いがギャル文字を使うかを説明せねば、ギャル文字という現象の意味を説明したことにはならない。まあわれわれの世代の文字である丸文字も同じこと、と言いたいところであるが多分ちょっと違う。丸文字はみな丸文字という勢いであったが、現在の女子中学生が書いている文字は多様なのだ。ギャル文字のこともあれば、丸文字気味であったり通常の文字であったり、われわれの世代ならば男子の書く文字であったような通常の意味においてヘタな文字の女子も結構いる。
その中でギャル文字はヘタに書くというトレンドを突き詰めて差異を成就しているというわけだ。おパンツ見えるスカートや道化のようなマンバと同じように、いくところまでいける異端であることがギャル文字使用者たちの(社会から隔絶した価値軸における)優越感および(隔絶ゆえの)グループ意識を満足させるわけだ。

結論は無い

と言うことで非プリキュアカテゴリで書いてみた。結論は無い。というかチュチュにおける登場人物たちのひらがな表記が読みづらいのはどうしてだろうと考えていて、こんなことを考えたということです。
それではまた翻訳に戻ります。あ、あとid:dokoiko:20060305にコメントをくれたT.H.E.M Anime Reviewエディターのdoinkiesさんが、クリィミーマミについてもレビューを書いているので、それは今回のプリキュア翻訳の次に訳してみたいと思います。doinkiesさんに超訳を気に入ってもらえちったのだが、レビューを読んでみるとプリキュアレビューのような(超訳にふさわしい)毒が感じられないので、ていうかぶっちゃけクリィミーマミ論評そのものの質/量が今北産業へのレス程度なので超訳するのも微妙。