プリキュアと百合とプリンセスチュチュとギャル文字(1)

「日常的であること」からの離脱

id:dokoiko:20060507およびid:dokoiko:20060509の2エントリがこの文章の基礎となります。プリンセスチュチュとギャル文字について考えていたのは、両者がともに標準/標準外とか正統/異端とか常識/非常識という軸に沿って分割されているのだろうということだった。
チュチュについては登場人物の名前がカタカナ表記っぽいものであるにかかわらずひらがな表記となっていることに注目した。結論を忘れてしまったので書いていなかったのだが、登場人物のひらがな表記はメタ構成が物語世界内で進行するらしい(未視聴なので断言できず)チュチュ物語世界の抽象性を強調する役割を担っているということだ。また世界設定は中世ドイツを、物語はファンタジーを下敷きにしていることから、プリキュアのように視聴者の「いま、ここ」に根ざしたものではなく、チュチュはまったくのファンタジーとして受け止められるように設計されていると思われる。
というようなチュチュを考えると、登場人物をカタカナ表記することが正しくない事がわかる。ふぁきあ、みゅうと、るう、という発音は通常であればカタカナ表記を選択する。ということはここではカタカナ表記が標準であるわけで、標準であるということはすなわち日常と結びついており、日常を想起させる効果を持つ。だから登場人物の表記についても、非日常的なひらがな表記を選択するべきだということになる。
ギャル文字については「(一般人には解読不能なぐらい)いくところまでいける異端であることがギャル文字使用者たちの(社会から隔絶した価値軸における)優越感および(隔絶ゆえの)グループ意識を満足させる」というのは書いておいた。マンバになったりおパンツ見えるほどズボンをずり下ろして履いたりスカートを短くしたり、われわれの世代であればボンタンは太いほど短ランは短いほどワルいとか、孔雀の羽は大きくてきれいなほど強いとか、シャコタンの車は低いほどカッコイイとか、それらと同じということだ。ギャル文字を使うという行為は常識とか日常と乖離して非常識とか非日常へ突っ込む行為である。「普通の文字」を使うことはカッコ悪い、それはつまり日常的であり常識的であることそれ自体をカッコ悪いと感じているというべきであり、マンバになることとギャル文字を使うことは親和性が高いというわけだ。
ということで、ここでは日常/非日常という軸において非日常を選択するということが、日常を意識しない(させない)ためであるというのが確認点。

「日常」の手触りを拒否する手段として追求される百合

ということで日常を意識しない(させない)のは、百合も同じではないかと思ったのだった。これまで百合というジャンルに惹かれる理由は「むさくるしいのは嫌い」とか「女×女が好き」とかなのかなあと考えていた。考えていたといっても漠然とそんなふうに思っていただけだ。というのも私は百合に萌えないし、性欲も刺激されないから特に掘り下げて考えようとも思わなかったからだ。
で、チュチュやギャル文字について日常を意識しない(させない)という軸を使って考えをまとめていたところ、ここに至る。百合に惹かれるという心象を持つというのは、平均的に見れば「日常」の手触りを拒否するという逃避的な心理的駆動力からくるのではないか。
ぶっちゃけ「異性愛を描くと現実の関係におけるごちゃごちゃしたいやなことや、体温とか体臭とか、もっと言えば日常そのものを感受してしまうからイヤ。もともと恋愛には非日常的な高揚感や絶対感や充足感を求めているのだから、非日常的な状況である百合を描いて思いっきり現実を忘れたい」ということだ。
と言うことを考えていたら、自称ガチのレズビアンというみやきちさんがid:miyakichi:20060217とかid:miyakichi:20060218とかid:miyakichi:20060225できっちりレズビアンの気持ちにおいてレズビアンマンガ/小説と百合マンガ/小説の違いを指摘していた。特に2月25日の小見出し『作品を「百合」寄りにする、すなわち現実から乖離させる仕掛け』は簡潔かつ説得力があると感じる。

二次元でしか表現できない百合

百合というジャンルが恋愛を現実から乖離させるもの、というより恋愛を現実から乖離させるために百合というジャンルを利用するのであれば、百合は三次元と相性が悪いと思われる。というか三次元で百合を表現しようとしてもことごとくレズものとして認知されてしまうものと思われる。

プリキュア本編における恋愛関係示唆と百合

(続く)