文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

中村修二は「産業スパイ」だった…のか?

中村修二「裁判闘争」と「テーミス
 私が「中村修二問題」について考える時の資料は、主として雑誌「テーミス」である。実は、私も昨年末にこの雑誌から原稿依頼を受け、今年の初頭に経済コラムを書いたのだが、ちょうどその頃、相前後してこの雑誌に掲載されたのが「青色LED特許裁判の『真実』」という特集記事だった。私はこの記事を読み、はじめて問題の深さと広がりを実感として理解した。
 われわれは、これまで、この裁判について中村修二サイドからの情報だけで物を考えてきた。しかし裁判には相手がいる。当然、相手には相手の言い分があろう。しかしマスコミも一般大衆も中村修二が作った「物語」を鵜呑みにして、裁判の相手の日亜化学という会社にはなんの興味も示さなかった。「会社に莫大な利益をもたらすような技術開発をただ一人で成功させた中村修二という天才的な科学技術者」を抱えながら、その能力や成果を全く評価せず、むしろ冷遇し続けた会社……という物語。
 では、実際はどうだったのか。日亜化学の経営者や残った社員たちはこの問題をどう受け止め、どう考えているのか。いや、そもそも中村修二の言う話は真実なのか。
 この問題に挑戦したのが雑誌「テーミス」であった。私は寡聞にして、この問題を日亜化学側から追跡したマスコミの存在を知らない。マスコミも出版社も、中村修二を追い掛けるだけであった。そして中村修二の「自慢話」「ホラ話」を鵜呑みにした「駄本」を続々と世に送り出しただけであった。
中村修二が裁判にこだわる理由
 一般的には、中村修二は、裁判そのものが当初の目的ではなく、日亜化学に訴えられたから、仕方なく裁判を始めたと思われている。そして裁判の目的も金銭的対価が目的ではなく、「日本の科学技術者の地位向上……」等が裁判の目的だ、と。しかしこれが大きな間違いである。
 そもそも中村修二日亜化学を退職し、アメリカに渡ったのは、何故か。ここに中村修二の「裁判闘争」の真の意味は隠されている。つまり「アメリカ行き」と「裁判闘争」はセットだったのである。中村修二が「産業スパイ」ではないか、という疑惑が発生する理由である。
 中村修二は、日亜科学を退職する直前、日亜化学のライバル会社「クリー社」やカリフォルニア大学の関係者と接触している。
 1999年10月13日。ノースカロナイナで開かれた学会に出席した中村修二は、クリー社の幹部と食事し、そこで20万株の「ストップオプション」(未公開株式)の提供を受けた。中村修二は、ここで日亜化学からクリー社への転職を決意したと思われる。むろん、クリー社は中村修二を陣営に引き込むことによって「日亜化学つぶし」をねらったのであろう。その罠にはまったのが、日亜化学の研究開発の現場にいて、日亜化学の特許や産業機密に精通していた中村修二だつた、というわけである。
 中村修二はこの後、クリー社に、「クリー社に行ったら日亜化学の特許が問題になる。」「クリーに行ったら、特許を逃れるいい方法がある」というメールを送っている。つまり中村修二の方も、転職先としてクリー社にさかんに売り込んでいたのである。
 これに対してクリー社は、「ストップオプションの他に、年俸32万ドル、ボーナス最高8万ドル、さらに100万ドルの家を提供する」という雇用条件を提示した。
 しかし、結果的には中村修二はクリー社を断念し、カリフォルニア大学サンタバーバラ校に転職した。なぜか。ここに重大問題が隠されている。
 実は、カリフォルニア大学のデンバーグ教授から、「クリーに行ったら、日亜に『企業機密漏洩で訴えられる』可能性は高いぞ」と忠告されたからである。
 しかし中村修二は、カリフォルニア大学に転身の直後、クリー社の子会社「クリーライティング社」の非常勤研究員になる。
 さらに中村修二は、デンバーグ教授の設立した「ナイトレス」という半導体バイス開発のベンチャー企業コンサルタントにもなっている。ところが、このベンチャーはその直後クリー社に買収されている。この買収劇で、中村修二は、10億5000万円以上の株式利益を得ている。
 ■暴露された契約書の内容
 ところが、裁判の過程でさらに大きな疑惑が暴露された。2003年7月15日の裁判の本人尋問で明らかになった事実である。中村修二は、クリーライティング社の非常勤研究員になるにあたって「2通の契約」を結んでいたが、その牝契約内容とは。
 2001年5月の契約書には、「東京地裁日亜化学を相手に相当の対価の訴訟を行うこと。その際、弁護士費用はクリーライティング社がすべて負担すること、追加報酬としてクリー社の7万株のストップオプションが与えられること。」とあった。
 この契約書を読めば、クリー社が中村修二に接近した理由が一目瞭然であろう。しかも、中村修二が研究生活を犠牲にしてまでも裁判闘争を開始せざるをえなかった理由も明らかだろう。中村修二は完璧ににクリー社の罠の中に堕ちていたのである。
 ところがこの契約書は途中で変更されている。つまり、2001年8月の契約書では、「訴訟の範囲が『半導体結晶膜の成長方法』という中村修二が帰属を主張した『404特許』に限定されてしまったため、訴訟費用の前払いは望んでいないが追加のストップオプシヨンは変更されていない」という内容に変わった。
 何故、訴訟費用の全額負担が後退したのか。それは、おそらく、前回も説明したように、「404特許」だけでは青色発光ダイオード製造は不可能だということにクリー社側が気づいたからではないのか。
 つまり、クリー社も、中村修二の「自慢話」にまんまと騙されていたのだ。