文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

産経新聞よ、オマエも捏造か。(笑)

産経新聞」大阪版夕刊掲載の記事で、写真の合成捏造が発覚。朝日新聞の捏造記事を批判・罵倒していた保守派のみなさん、お元気ですか。さあー、今度は産経新聞が捏造記事をやっちゃましたよ。どーうするー。どうもしない。(笑)ごもっとも。産経新聞も、あの天下の朝日新聞にとうとう追いついた、ということかな。

松田岩夫先生、入閣、おめでとうございます!

時代を読む眼。政局を読む知性。見習いたいものですな。ははは。佐藤ゆかりセンセイも、さぞお喜びでしょう。握手は、まだ?


■わが友・オーガイ君も、「唖然…」







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合成写真掲載のおわびと経緯

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産経新聞大阪本社写真報道局長 西野徳男
 大阪本社発行の本紙夕刊で、合成写真に「合成」とキャプションを付けずに掲載していたことが調査の結果、判明しました。これは虚偽報道であり、深くおわびするとともに、写真と写真説明文を削除します。

 写真は十月二十五日夕刊の写真グラフ「CATCH2005 コウノトリ大空飛翔」に、「月とランデブー」の見出しで掲載。写真説明は「月をバックに大空を舞うコウノトリ。早朝の一瞬の出来事だった」となっていましたが、実際は、月の写真とコウノトリの写真を重ね合わせて作成したものでした。

 撮影した記者は、十月十七日から二十一日まで兵庫県豊岡市で取材し、月とコウノトリのからむ写真を狙っていましたが、狙い通りの写真が撮影できませんでした。

 二十日夜に待機中、同日未明に撮影した月と、十七日に撮影したコウノトリの写真を理想の構図としてパソコンで重ね合わせ、イメージ写真を作成。帰社後に写真を見た同僚が「見事な出来栄えだ」とほめたため、合成写真と言い出せずに出稿してしまったと説明しています。

 出稿の際は、担当デスクと部長がチェックしましたが、記者を信用していたため合成と見抜くことができませんでした。掲載後、局員の一人がピントの状態に疑念を抱き、これをきっかけに調べた結果、二十九日夜、記者が合成だったことを認めました。

 本人は、厳重注意のうえ取材から外し、写真報道局内で無期限の謹慎としました。関係者も含めた正式な処分は、賞罰委員会を開いたうえで決めます。

 今回の事態は読者に対する重大な背信行為であり、産経新聞に対する信頼を揺るがせかねない深刻な問題と受け止めています。今後、写真出稿の際のチェック態勢や指導のあり方を見直すとともに、記者倫理の徹底を図り、再発防止に取り組む所存です。

「読者に対し裏切り」
会見で「虚偽報道」を謝罪

 産経新聞社は三十一日夕、十月二十五日付夕刊で掲載した写真グラフ「CATCH2005 コウノトリ大空飛翔」の中に合成写真があったとして記者会見を開き、虚偽報道にあたる合成写真掲載について謝罪するとともに掲載の経緯などについて説明した。

 会見は午後六時半から大阪市浪速区の大阪本社八階会議室で行われ、柳原正志・取締役(編集・写真報道担当)と西野徳男・大阪本社写真報道局長、堀川晶伸・同写真報道局部長が出席した。会見の冒頭、柳原取締役が「産経新聞はもとより、新聞報道に信頼を寄せていただいている読者の皆さんに対する重大な裏切りとして、改めておわび申し上げたいと思います」と陳謝した。

 会見では、西野局長が撮影から出稿、発覚の経緯を話した上で、出稿した記者が「(なかなか言い出せなくて)非常につらく苦しい思いをした」と話していたことなども説明した。産経新聞では、今後、紙面上でも検証を行うとした。

報道への語らい取り戻せ
立教大学教授・服部孝章

 掲載写真はその掲載によって「被害」を生んだわけではないが、新聞に掲載される記事や写真は、「ことわり」がない限り読者は真実と受け止める。月とコウノトリがからむ写真を撮るために五日間の取材を行ったが、狙い通りの写真は撮れなかったために、コンピューター処理で合成写真を作成してしまったとのことだ。撮影した記者の「焦り」を知らされる思いだ。

 同僚からもほめられたとあるように、目をくぎ付けにするショットである。「合成」とのことわりをつけても掲載する価値があったのかどうかは分からないが、問題写真を眺めていると、宙を舞う鳥に神々しさと命の尊さを感じ、生きる勇気を与えてくれるのも事実だろう。しかし、加工したことを隠したまま読者の目の前にさらすことは、これからベストショットを狙い、思い通りの写真を撮った場合に、いらぬチェックを受け、読者の疑念を生む可能性を残したのでないか。それが、最も重大なことだと私は考える。

 これまでも、朝日新聞の虚偽報道問題など、報道機関の信頼を揺るがすケースがあった。信頼を揺るがしたとして、記者個人や関係者の処分が繰り返されてもいる。そのような処分は、報道姿勢を堅持することや再発を防止する目的にかなうのかどうかは疑問である。虚偽報道や「合成写真」が読者や社会に被害を生んだのかも検証されねばならないはずである。内部でのチェック体制を強化する以上に求められているのは、報道機関に従事する人たちのコミュニケーション環境を作り出すことではないのか。電子処理が進む中、奪われていった時間を取り戻すことである。

 パソコン画面と向き合う時間が多くなった分だけ、同僚や上司と会話する時間が減っている。今こそ回復し、時間をかけるべきことは、同僚らとの新聞報道についての語り合いであり、執筆原稿を批評しあう時間ではないのか。

 コンピューター化によって締め切り時間が印刷ぎりぎりまで延びたのは、新聞報道にとって、より最新のニュースを掲載することを可能にした。でも人との会話によって生まれる発見や学習は日々の取材活動には必要不可欠であるはずだ。その一見無駄と思われる時間こそが、ジャーナリズムの意義を確認し、それをより強固なものにしていくのではないか。(寄稿)


(10/31)