文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

『葉隠』をハイデガー哲学で読み解く。

■『葉隠』は武士道批判の書である。

 ご承知のように、『葉隠』は、今から約300年ほど前の1716年(享保元年)に、隠遁していた佐賀鍋島藩士・山本常朝が七年間にわたって語った談話を、同藩の後輩・田代陣基が筆録し、編集したものである。つまり山本常朝が田代陳基に語った武士道、逸話、由緒、噂などを編纂したのが『葉隠』である。出来上がったのは1716年(享保元年)、と言われている。むろん、『葉隠』の成立した1716年(享保元年)という年がどういう年であった、あるいはその頃の時代背景がどういうものであったかを知ることは、『葉隠』理解には不可欠である。『葉隠』は、「武士道とは死ぬことと見付けたり」「武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬもの也」と言うような、勇ましい戦闘的な過激な言葉に満ち満ちている。あたかも戦場で血みどろの戦いを繰り返してきた古参兵士の戦場での実体験を元にした談話のように読める。しかし実際は、『葉隠』の語り手の山本常朝も編集者の田代陳基も戦場の経験はない。殺すとか、死ぬとかいうことに関して言えば、切腹の場面での介錯の経験があるくらいである。つまり、二人とも武士とは言え、平和な時代の平凡な、一種の公務員的な小役人に過ぎない。その二人が、「武士道とは死ぬことと見付けたり」「武士道とは死に狂いなり」と叫ぶのである。普通の平凡な人間から見れば、明らかに時代錯誤も甚だしく、まさしくアナクロニズムそのものであろう。武士とはいえ、時代はもはや戦争の時代でも戦場を駆け巡る時代でもない。そういう平和の時代に血みどろの戦闘的な武士道を叫ぶ。それが『葉隠』である。しかし、言い換えれば、戦争の時代が終わり、平和と安逸が支配し、人々が生きることの意味を見失いつつある時代だったからこそ、こういう過激な戦闘的な書物が成立したとも言えるかもしれない。しかしその秘密を解明することは単純な作業ではない。たとえば、『葉隠』研究家・小池喜明は、こう書いている.。≪『葉隠』の成立は、元禄・宝永・正徳に次ぐ享保元年(1716)、七代将軍家継が没し八代吉宗が就任した年である。元禄盛時の語から想起されるように、世は泰平を謳歌していた。その七年前までの二十三年間(中略)、五代将軍による「生類憐れみの令」などは平和ボケの象徴といってよい。この二十三年間は、『葉隠』の語り手山本常朝の二十九歳から五十一歳までの時期に相当する。≫(小池喜明『葉隠 武士と「奉公」』)『葉隠』の語り手山本常朝も平和な泰平の世を満喫し、死ぬどころか立派に長生きをして、のどかな余生を送っている身であった。しかし、この泰平を謳歌する時代は、武士にとって問題がないわけではなかった。武士たちは、平和であるがゆえの深い存在の不安に直面していたからだ。つまり武士という存在の存在理由の喪失という危機である。≪当時の武士たちは、戦闘の場の失われた泰平の代、乱世ならぬ治世にあって、みずからの存在理由と存在形態をはかりかねていた。武士とは何か、いかにあるべきか。これが、当時の武士たちの直面していた難問であつた。≫(同前)というわけで、そこで必要とされたのが、平時に生きる武士の生き方の指南書であった。戦争の時代が終わり、もはや武士が必要とされなくなった時代、武士が存在理由を失った武士失業の時代、そういう時代に武士はどういう理念と理想の元に生きるべきかが問われていたのである。そこから、武士道という言葉が生まれ、その武士道という言葉が流行し、そして武士道理論が体系化され、やがて武士道という形而上学的な人生哲学が成立することになる。たとえば山鹿素行の「士道」などはその代表であろう。当時の知識人や学者たちは、武士の存在理由探しとその理論化・体系化に狂奔したのである。しかし、『葉隠』はそういう種類の武士道書とは一線を画している、というのが私の『葉隠』解釈である。一般の武士道の書と『葉隠』はどのように違うのか。それは端的に言えば、『葉隠』は戦場の血みどろの戦国的武士道を主張するのに対して、山鹿素行等に象徴される江戸の武士道(士道)は、平時の武士道であるということである。つまり当時、『葉隠』の時代に流行していた武士道とは、血みどろの戦闘や殺し合いとは無縁な観念的な、都会的な武士道であった。菅野覚明は、≪素行の説く威儀は、基本的には、荒々しい武士を道徳的人格に変換するための装置である。≫(『武士道の逆襲』)と言うが、まさしく戦国武士道を道徳化して、人畜無害な平和主義的な武士道に転換したのが江戸の武士道であった。儒学的武士道と言われる所以である。言い換えれば、『葉隠』の存在意義は、当時の平和主義的な道徳中心の武士道に対して、戦場の血みどろの戦国武士道を対置することによって、当時の武士道を、「上方風の打上りたる武道」と言って激しく批判・罵倒するところにある。私は、そこにハイデガー的な形而上学批判を読む。『葉隠』は、単に戦闘的な戦国武士道の再興を希求したものではない。≪武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬもの也。直茂公も仰せられ候。(中略)又武道に於て分別出来れぱはや遅るる也。忠も孝も入らず、士道におゐては死狂ひ也。此内に忠孝は自らこもるべし。≫忠孝道徳の原典とも言うべき『葉隠』は、厳しく「忠も孝も入らない」と断言する。何故か。それは、ここで言われる忠孝が、理論としての忠孝であり、道徳的観念としての忠孝に過ぎないからだ。忠孝の観念よりも「死狂い」を優先するのは、道徳的な観念と化した空虚な忠孝に基づく武士道を批判し、否定するためであろう、と私は思う。つまり『葉隠』は、武士道の理論書というより、武士道批判の書なのである。一説では江戸の儒教的武士道と戦国武士道の二つの武士道があるという意見もあるが、私はそうではなく、武士道と武士道批判の二つがあると考える。
■具体的な、あまりにも具体的な…。「武士道」から「奉公」へ。
 しかし、『葉隠』も、あくまでもこの平和な時代の武士道書であるという観点から、『葉隠』の本質は、戦闘的な言葉を連ねた武士道的側面にはなく、むしろ『葉隠』の談話に頻出する「奉公」や「奉公人」という言葉に着目して、武士が奉公人に成り下がった時代における「奉公人道」を説いた書と解釈する説もある。小池喜明の『葉隠』解釈がそれである。≪当時、殉死禁止(寛文三年、1663。『武家諸法度』)、喧嘩両成敗、私闘禁止などの条項は、すでにひろく世間に浸透し、また六代将軍家宣と新井白石による「正徳の治」でも知られるように、幕藩体制開始当時の武断政治から文治盛時への転換はほぼ完全に遂行されていた。武士の存在形態や意識も、戦闘者から官僚・役人へと変質していた。一騎駈け・城取りに命を賭け、戦いの庭に夢を馳せた花咲ける武士道の時代は、とうに昔語りになっていたのである。そんな無事泰平の時代に、眦を決して決死の武士道を説く者がいるだろうか。『葉隠』はそれほどに時代錯誤的な勇壮な武士道を思想的中核としていたのだろうか。≫むろん、私は、小池喜明のような解釈をとらない。小池喜明の『葉隠』をめぐる時代背景の分析は認めるが、『葉隠』を今更、論理的整合性を優先させるために、わざわざ「奉公人道」の書に通俗化させる必要はない、と考える。おそらく日本人の多くは、『葉隠』はそういう「奉公人道」の書などではないことを直感的に知っている。だからこそ、武士道と言えば誰もが即座に『葉隠』を想起するのである。われわれ日本人は、三島由紀夫を初めとして、『葉隠』の中に何を読んでいるのだろうか。奉公人道でも武士道でもなく、もっと深いものを読んでいると私は思う。さて、『葉隠』が、徳川時代の書であるとすれば当然、戦争が不可能になった平和と安定と秩序の時代である。時代が必要としているのは戦場を駆け回り、血みどろの戦闘を繰り返す武士道でないことは言うまでもない。にもかかわらず『葉隠』の作者の文体は、まるで戦場にあるように激しく戦闘的で、しかも過激である。明らかに時代に逆行している。『葉隠』や山本常朝の文体には何ものかへの激しい怒りがある。何があるのか。そこに『葉隠』の不思議な思想性が隠されている、と私は考える。『葉隠』は、武士道の書と思われているが、全編を読み通してみると、「『葉隠』は武士道の書ではなく、奉公人道の書である」という小池喜明の主調を裏付けるように、七、八割が、「奉公」「奉公人」「奉公哲学」について語られていることがわかる。つまり山本常朝は、彼自身が体験し、経験した目前の瑣末な日々の「奉公」生活という現実をテクストに、奉公とは何か、奉公人とは何か、奉公哲学と何か、を具体的な実例を提示しながら執拗に議論し、分析し、論評していると言っていい。あくまでも現実的、具体的、実践的な書なのである。そこには荒唐無稽な抽象的な議論や学問的な思弁的な議論はほとんどない。常に具体的である。現役を引退した老商人が、若い商人を相手に、自分の体験を元にして、あるべき商人の生き方や理想の商人道を、経営の理論や観念によるのではなく、あくまでも実践的に説いているという趣である。そこから、すでに書いたように、大きな誤解も発生する。つまり山本常朝は、奉公人の生き方を論じたのであって、武士道などを論じているのではない、というような誤解である。確かに山本常朝は奉公や奉公人の生き方について繰り返し論じている。小池喜明は、『『葉隠 武士と「奉公」』で、「奉公」という言葉がどれだけ使われているかを実証的に調査・分析した上で、 ≪右に見た「聞書」一・二、「聞書」十一の編集意図に徴しても、『葉隠』全巻を通じて見られる語り手山本常朝の中心的視座は、相対的に「武士道」というよりむしろ組織の視点に立脚する「奉公人」道にこそあったと見るほうが自然であろう。≫と分析する。そして三島由紀夫に代表される「武士道とは死ぬことと見付けたり…」という勇ましい武士道的言説を『葉隠』の本質と考える『葉隠』論者を批判する。これに対して、私は、小池は、『葉隠』というテクストを表層的にしか読んでいないと考える。山本常朝は、介錯の経験はあるが、いわゆる戦場を駆け巡り、死闘を繰り広げるような戦闘体験のない平時の武士である。山本常朝の語る戦国武士道は、実践体験に裏打ちされたものではなく、明らかに観念論である。それに比べれば、奉公人道は観念論ではない。山本常朝は、結局、奉公人の行き方を論じているのだ、と言いたくなるのは当然だろう。しかし、山本常朝がそれにしか興味がなかったと見るのは大きな間違いだろう。私は、山本常朝は、武士道や奉公を論じながら、実は武士道や奉公そのものよりも、もっと普遍的、原理的な「人間存在論」とでも呼ぶべきものを議論していると考える。そう考えない限り、この『葉隠』の不思議な吸引力は理解できない。奉公や奉公人について論じながら、人間とは何か、存在とは何か、について論じているところに『葉隠』の謎と魅力がある。繰り返して言うが、田舎侍・山本常朝や田代継基の知的能力を甘く見てはいけないのである。『葉隠』には、知的なものへの激しい憎悪が隠されている。たとえば、≪忠の、義のと云ふ立上がりたる理屈が返々いや也。≫(『葉隠』聞書一ー十五)と言う。つまり『葉隠』が衝突しているのは理屈であり理論であり体系である。知的なものとは、言うまでもなくこの江戸時代に蔓延した「理」である。それは「理」を重んじて「情」を軽んじる思考である。その延長上に理論や体系を土台にした形而上学が成立するのである。私は、『葉隠』の知性憎悪は、形而上学批判という意味を隠していると思う。『葉隠』の文体が、激しくなるのは、そういう思想的な背景があるからだろう。
■秘書としての『葉隠』の歴史と運命
 不思議なことだが、われわれの素朴な先入観や予想とは逆に、『葉隠』は成立当初から熱心に読まれ、そして現在まで熱烈な信奉者たちに支持され、さらに強力な影響を同時代の人々に与えつつ、長く読み継がれてきたというわけではないらしい。というよりも『葉隠』が本格的に世間の目に触れるようになったのは幕末から明治へかけてである。つまり武士の時代が終わろうとした時代にようやくその姿を現す。しかしそれはまだ佐賀鍋島藩の内部に限られていた.。たとえば、『葉隠』が最初に活字化され、書物としての『葉隠』が登場したのは、明治39年、小学校教員中村郁一が編纂して自費出版した『葉隠』であるが、それも、まだ『葉隠』の写本の一部を収録した抄録にすぎなかった。『葉隠』の全文が収録されたものが登場するのは昭和15年で、栗原荒野が編纂した『校註葉隠』である。この『校註葉隠』の登場で、「『葉隠』はひろく学界にその存在と価値を知られることになった。」(小池喜明『葉隠武士と[奉公』)が、さらに一般の読者の眼にも容易に触れられるようになるのは、和辻哲郎と古川哲史が校訂した『葉隠』が、同じく昭和15年岩波文庫に収録された時からである。つまり、昭和15年に『葉隠』は本格的に人の眼に触れられるようになったのである。新渡戸稲造の「明治武士道」の登場よりもはるかに遅いのである。この「遅れ」は、実はかなり深い思想的な意味を持っている。では、この遅れはいったいどういう思想的、哲学的意味を有しているのか.。今では武士道と言えば『葉隠』…、ということにほぼ決まっているが、しかし同時代の人々は、『葉隠』をほとんど読んでいない。この事実は重要である。ここに『葉隠』という書物の不思議な運命がある。と同時に、われわれ日本人を惹きつけてやまない不思議な魅力の源泉もここにある。実は、先にも述べたように、『葉隠』は、一般に理解されているような、いわゆる武士道の理論書ではない。私見によれば、『葉隠』はむしろ武士道という「理」への批判の書である。武士道を理念化し、体系化し、道徳主義的な思考へと集約しようとする、いわゆる江戸時代の武士道、つまり儒教的武士道に対する批判・罵倒の書である。『葉隠』が、佐賀鍋島藩の一部の人々を除いて、同時代的にはほとんど読まれなかった、ということの意味もそこにある。また、儒教に代わってキリスト教を理論的な根拠にして確立された新しい形而上学である明治武士道の世界的なブーム以後に、『葉隠』が再登場したという意味もそこにある。『葉隠』は、江戸時代の儒教的武士道への批判の書であると同時に、明治武士道への批判の書でもある。むろん、『葉隠』が、古くから多くの写本があり、密かにではあれ、それなりに読まれていたことは確かだが、その読まれ方はわれわれの『葉隠』に対する素朴な先入観とはかなり違っている。言い換えれば、『葉隠』は長い間、「秘書」あるいは「奇書」として隠匿され非公開状態だったと言うことである。つまり『葉隠』という書物は、『葉隠』が編纂された江戸の時代から武士道のバイブルとして読まれていたわけではないのである。なぜ、『葉隠』は、秘書・奇書として禁書扱いされ非公開のまま秘蔵されてきたのか。その理由として、ここに書かれていることがあまりにも具体的で、個人名や事件が赤裸々に書かれ、詳細に語られているから、書かれている当事者たちが読むと、一騒動でも起こりそうだったからではないかという説もある。しかし、私は、その可能性を否定しないが、そういう説はとらない。『葉隠』が禁書扱いされ、長いこと人目に触れることがなんったのは、『葉隠』という書物の哲学的、思想的な意味によると私は思う。つまり、『葉隠』が武士道を論じながらも、徹底的な「武士道批判」の書であり、より具体的に言えば、いわゆる江戸時代の徳川武士道、つまり儒教的武士道への根源的な批判・否定の書だつたからだ。『葉隠』の論理は、ある意味では、朱子学批判、儒教批判、仏教批判、そして究極的には江戸幕府批判の書として受け取られれかねない可能性を秘めていたからだ。では、『葉隠』は反権力、反体制的な革命哲学かというとそれでもない。『葉隠』が否定するのは知であり、理であり、体系化された形而上学的な思考である。言い換えれば、武士道という形而上学的思考への批判なのである。ここで、『葉隠』が、いわゆる、存在を喪失した西欧形而上学を批判・解体し、存在を取り戻そうと試みたハイデガー哲学と交錯するのである。『葉隠』もまた、理論的、道徳的思考に汚染され、武士道本来の存在を忘却し、存在を喪失した儒教的武士道への批判を通して、存在を回復しようと試みた書であったのではないか、というのが私の読みである。『葉隠』が、激しく批判・罵倒する「上方風の打上がりたる武道」とは、まさしく江戸時代の儒教的武士道である。そしてその批判・罵倒の根拠が、「武士道とは死ぬ事と見付けたり…」という反社会的、反世俗的な言葉なのである。つまり儒教的武士道の「生の哲学」に対して『葉隠』は「死の哲学」を対置するのだ。儒教的武士道とは、戦時下の戦闘者たちの武士道ではなく、戦後の武士道であり、戦争のない平和な時代の、平和主義的な生命尊重の武士道である。というわけで、『葉隠』の成立と影響の歴史を考えていくと『葉隠』の哲学的意味が明らかになるのではなかろうか、というのが私の意見である。つまり『葉隠』という書物は、武士道の理論的極北にあるが、同時に武士道という哲学、武士道という形而上学を批判し解体するという役割を担っているということである。それが、『葉隠』が大東亜戦争(太平洋戦争)直前まで一般に公開されなかった理由の中心だろう、と私は考える。そしてまた、この書物が、大東亜戦争の渦中で広く読まれ始めたという歴史的運命の不思議さもそこにある。日本民族は、初めての「世界戦争」という未曾有の体験の中で、『葉隠』を読んだのである。むろん、日本国民は、世界戦争という生死を賭けた戦いに直面して、迫りくる「死の正当化」のために読んだのではない。むしろ、逆に世界戦争を、『葉隠』的に戦うために読んだのである。「生か死か」の二者択一的論理で読んだのではない。私は、日本人は、この世界戦争体験において「存在」というものに触れたのだと思う。結果として勝つか負けるかという問題は確かに発生する。原因を作ったものの責任や結果責任も発生する.。世界情勢の推移や、欧米の国力や、あるいはわが国の当時の国力を見誤った、つまりあの戦争は「無謀な戦争だった…」というような議論も確かに成り立つだろう。しかし、それらは多くは「後講釈」に過ぎない。『葉隠』の論理を敷衍するならば、日本人は、生死を超えた次元で、つまり勝つか負けるか、生きるか死ぬか、というような合理的な次元の問題として戦争を体験したのではない。『葉隠』が世界戦争の渦中で、突然、必読書として読まれ始めた理由はそこにある。『葉隠』の語り手・山本常朝は、平凡な奉公人の奉公哲学を語りながら、決して上方風の儒教的武士道批判を手放さない。『葉隠』に充満しているのは、語り手山本常朝の怒りと憤怒と絶望である。『葉隠』を他の武士道書と分けるのは、おそらくそこだろう。『葉隠』は、絶対的な忠義を説きながら、「忠も義もいやだ!」と叫ぶ。≪忠の、義のと云ふ立上がりたる理屈が返々いや也。≫(『葉隠』聞書一ー十五)と。要するに山本常朝が批判しているのは、いわゆる観念的な、形而上学的な思考である。その典型が上方の儒教的武士道なのである。山本常朝が、「四誓願」の冒頭に、「国学」の必要性と重要性を書き込む理由もそこにある。≪勘定者はすくたるる者なり。……又学問者は才智、弁口にて、本体の臆病、欲心などを仕かくすものなり。人の見誤る所なり。≫≪釈迦も孔子も楠木も信玄も、ついに龍造寺、鍋島に披官懸けられ候儀これなく…≫と。むろん、山本常朝のこれらの言葉からすぐに、非合理主義とか反知性主義という言葉を連想してもおかしくない。しかし、これを非合理主義とか反知性主義と勘違いしてはならない。これは合理主義批判、知性主義批判ではあっても、非合理主義とか反知性主義とか言うようなものではない。もし、『葉隠』や山本常朝の思考を、田舎侍の「非合理主義、反知性主義」と呼ぶならば、ハイデガー小林秀雄の思考をも、「非合理主義、反知性主義」と呼ばなければならない。ここで、われわれは、「からごころ」を批判し、それに対置して「やまとごころ」を主張した本居宣長を思い出してもいいだろう。本居宣長も、仏教や儒教という外来の理論的思考を排斥して、先祖伝来の「我が国」の文学や学問に帰れ、と叫んでいる。むろん、山本常朝の「国学」と本居宣長の「国学」はまったく意味が違う。山本常朝の国学は、佐賀藩の歴史や来歴を学ぶことであり、本居宣長国学(古学)は、儒教や仏教伝来以前の日本の古典文学を学ぶことであろう。しかし、私は目指すところは同じだろうと考える。いずれも外来思想批判であり、理論や体系を優先する形而上学的思考への批判であり、つまり江戸思想批判なのである。田舎侍・山本常朝や田代継基の知的能力と、江戸幕府的なものへの怒りの激しさを甘く見てはいけないのである。
■『葉隠』にとって存在とは何か
 そもそも哲学とは何か。哲学とは、新しい世界観や自然観を確立することが第一義的な仕事だろうか。思想史や哲学史、あるいは学問や科学の歴史を振り返るとそこには確かに様々な世界観や自然観があり、偉大な哲学者や思想家の名前とともに、いわゆる理論や体系があふれている。何々主義とか何々理論とか言われるものである。人は、しばしばそれが哲学であり、思想であると錯覚しているが、本当にそれが哲学であり思想と呼べるのか。ハイデガーが、存在を忘却し存在を喪失した哲学として批判し、否定する哲学、つまり西欧形而上学の歴史とはそういうものではないのか。ハイデガーは、そもそも存在喪失の歴史を、ソクラテスプラトンアリストテレスに求めている。いわゆる「哲学の誕生」として語られるギリシャ哲学の形而上学の成立そのものが存在喪失の起源として把握されている。とすれば、ハイデガー哲学とは、まさしく西欧形而上学批判だったことになる。具体的に言えば、「デアル存在」(本質存在)と「ガアル存在」(現実存在)を区別することから形而上学は形成されるのだが、この「デアル存在」と「ガアル存在」の区別によって、存在の全体性は見失われていく、というわけである。言い換えれば、ソクラテスやプラトンの登場する以前のギリシャ人には存在が見えていたということである。つまりハイデガー哲学とは、ソクラテスプラトンアリストテレス以前へ戻ろうとする哲学的運動なのだ。無論新しい世界観や自然観を確立するためには、古い伝統的な世界観や自然観を批判し、解体することが前提されている。批判・解体の後に、新しい世界観や自然観という新理論の創造や建設があるというわけである。つまり建設や創造には常に破壊や解体が、いわゆる脱構築が前提として不可欠である。では、ここで、より重要なのは、批判・解体の方なのか、それとも創造・建設の方なのか、と問うてみよう。よく人は、「批判や破壊は容易だが、建設や創造は難しい」と言う。ということは、多くの人が、批判や破壊、解体という作業より、新しい理論の建築や創造という作業を重視し、そこに哲学や思想の根拠があると考えているということだろう。つまり新しく建築された理論や体系こそが哲学や思想の真髄であると考えているということだ。はたしてそうだろうか。ここに問題はないのか。私が、ハイデガーと『葉隠』を並列するのはここに理由がある。つまりハイデガー哲学も『葉隠』の武士道も、ともに存在を問うているが、むしろ理論や体系を構築することを批判し、その新しい理論や体系の構築そのものに「存在喪失」や「存在忘却」の原因を見ている、と思うからだ。つまりハイデガーは、西欧哲学史そのものが、存在喪失、存在忘却の歴史だと言っている。言い換えれば、われわれが漠然と哲学と呼んでいるものこそ、実はハイデガーにおいては批判され否定されるべき思考なのである。それは『葉隠』が武士道や士道を批判し否定することと似ている。『葉隠』は、いわゆる「武士道」を、「上方風の打上がりたる武士道・・・」と呼び、激しく批判している。『葉隠』の武士道と「上方風の武士道」とは何処がどう違うのか。たとえばハイデガーも、ハイデガー哲学の影響の元に誕生したと言われるサルトル等の「実存主義」や「実存哲学」を、「人間中心主義」であり、「自我主義」である、と厳しく批判し否定する。ハイデガーは、実存主義や実存哲学の何を、そして何処を批判し否定するのか。言い換えれば、『葉隠』は武士道の書でありながら「武士道」的なものへの過激な批判の書である。≪犬死などといふ事は、上方風の打上たる武士道なるべし・・・≫という言葉が何を意味しているかを考えてみればいいだろう。『葉隠』の説く武士道は、いわゆる「武士道」を徹底的に批判し解体し破壊しようとしているのである。『葉隠』が嫌悪し、批判し破壊しようとしている武士道とは、まさしく形而上学化された武士道、存在を忘却し存在を見失った武士道、つまり理念化され美学化された武士道なのである。

 


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