文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「梅沢裕」は朝鮮人慰安婦と共に米軍の捕虜になった??????。

現地取材をせずにウソだらけの記事を書いた、と大江健三郎の『沖縄ノート』を批判する曽野綾子は、「現地取材」や「当事者へのインタビュー」を売り物にしているようだが、「集団自決裁判」の原告の一人・梅沢裕に関しては、以下のような、最新の「現地取材」に基づく驚くべき「話」も伝えられている。梅沢は、当時、戦場で朝鮮人慰安婦を常に同行、最後は、朝鮮人慰安婦と共に米軍の捕虜になり、住民から石を投げられながら、米軍に保護され、トラックに乗せられ連行されていったそうだ。この話も、曽野の「現地取材」によれば、真っ赤なウソということになるのだろうか。しかも、1987年4月18日の神戸新聞に掲載され、裁判でも証拠資料として採用されている「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」という文書と記事は、どういう背景の下に捏造されたか。恐ろしい話だが、これまた、「現地取材」でその真相が明らかになっている。事件の核心を知る「元助役」の弟に、実はこの弟は当時は福岡へ出征中で沖縄座間味島の現地にはいなかったらしいのだが、この弟の福岡時代の同僚を同伴した赤松某等が、執拗に「軍命令はなかった」と記した文書への署名を迫り、頑なに拒否し続ける弟に泡盛を飲ませ、泥酔したところで、「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」という文書に署名・捺印させたらしいというのだが、しかもその話は、曽野等が頻繁に引用する宮城晴美の著書「母の遺したもの」(現在絶版、近日復刊予定)に出ているらしいのだが、はたしてこの話は、真実なのだろうか、デッチアゲなのだろうか。曽野綾子からの反論はあるのだろうか。是非、曽野の「現地取材」(笑)に基づく反論を聞きたいものだ。現地取材をした者同士の記述が、まったく正反対に食い違っているわけだが、言い換えれば、これは現地取材とか当事者へのインタビューというものは、所詮、そういうものなのだ、ということを証明している。現地取材とか当事者へのインタビューで真実が明らかになるというのは、曽野の思い過ごしであり幻想であり、今更言うまでもないことだが、それは曽野の文学の限界を象徴している。



森住卓ホームページの「梅沢裕」に関する話 http://mphoto.sblo.jp/article/5976589.html

さて、文科省が高校歴史教科書の書き換えの理由にした裁判で座間味の元部隊長・梅澤裕元少佐は「軍命ではなかった」と名誉回復を求めています。
しかし、彼は米軍上陸後、次ぎつぎと突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いやり住民をスパイとして虐殺し、自決へと追い込んだ責任者でした。
梅澤少佐は、朝鮮人慰安婦を伴い壕を転々と逃げ回り4月10日、各隊に独自行動を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしまいました。
本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったとき朝鮮人慰安婦と一緒で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されました。
その梅澤元少佐が1987年に座間味を訪れました。目的は「軍命はなかった。住民は自発的に集団自決した」という証文をとるためでした。
元村収入役兼兵事主任の弟A氏に会い、「一筆書いて欲しい」と頼んだのです。
しかし、元助役の弟は拒み続けました。元助役の弟は戦時中、徴兵され福岡県の部隊に配属されており、座間味にはいなかったのです。
A氏が梅澤氏の要請を断ったあと、福岡の時の戦友だという2人の男が泡盛を持ってやってきました。
その時の様子は宮城晴美氏の著書「母の遺したもの」に書かれていますので引用します。「ところがその夜、M・Y氏(ブログではA氏 以下同じ)の元戦友という福岡県出身の二人の男性が、慰霊祭の写真を撮りに来たついでにと、泡盛を持参してM・Y氏を訪ねて来た。戦友とはいっても所属が異なるため、それほど親しい関係ではないし、またなぜ、この二人が座間味の慰霊祭を撮影するのか疑問に思いながらも、はるばる遠いところから来てくれたと、M・Y氏は招き入れた。何時間飲み続けたか、M・Y氏が泥酔しているところに梅澤氏が紙を一枚持ってやってきた。家人の話では朝7時頃になっていたという。「決して迷惑はかけないから」と、三たび押印を頼んだ。上機嫌でもあったM・Y氏は、実印を取り出し、今度は押印したのである。」とその経過を書いている。
この翌月1987年4月18日の神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」との記事が掲載されました。A氏が押印した文書は裁判の証拠として提出されているのです。
梅澤元少佐はA氏を二重三重に貶めたのです。

森住卓ホームページの全文 http://mphoto.sblo.jp/article/5976589.html

9月27日から10月13日まで沖縄で「集団自決(強制集団死)」の取材をしました。
その時出会った人々のことを記しておきます。



「集団自決」の舞台となった渡嘉敷村座間味村沖縄本島南部の西方海上慶良間諸島にあります。(集団自決はここだけではありません)
周辺の海は世界有数の透明度を誇っておりダイビングポイントもたくさんあります。この海域は毎年冬から春にかけて鯨がやって来る、ホエールウオッチングも出来る観光名所です。
那覇からの高速船は戦争体験のない若者たちで一杯でした。彼らの多くは62年前、太平洋戦争末期に起こった、この島々の悲劇を知る者は数少ないのではないでしょうか。

1945年太平洋戦争末期、押し寄せてきた米軍艦船で渡嘉敷村座間味村の島々の海は埋め尽くされました。船伝いに本島まで渡って行けるようでした。
小さな島は米艦船に包囲され、連日激しい空襲と艦砲射撃が豪雨のように降り注ぎ、島の地形が変わってしまうほどでした。島にある船は破壊され、逃げるすべもなく島は完全に孤立しました。
「必ず友軍が巻き返しに来る」事を信じて疑うものはいませでした。
「一億玉砕」「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神が浸透した魔の戦場と化したのです。「鬼畜米英」とすり込まれた住民は、「米軍に捕まれば男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺される」と信じ込まされ、捕まるより「天皇陛下のため、お国のためにいさぎよく死のう」とすり込まれていました。
米軍が上陸した3月26日(座間味)、27日(渡嘉敷)以後、集団自決(集団強制死)が始まったのです。

「集団自決(強制集団死)」を体験した証言者は62年間ずっと苦しみを背負って生きてきました。
自分たちの体験が歴史教科書の中で歪曲されてしまうことに、身を震わせて怒っていました。自分の体験が歪曲されて後世に伝えられてしまったなら、同じ過ちが繰り返されると。

身内を殺し、死のうと思っても死にきれず生き残ってしまった人々の苦悩は想像を絶するものがあります。生き残ったひとびとのインタビューで「体験していない者には本当のところを理解できないですよ」と言われた時に、確かにそうだと思いましたが、同時に「あなたはジャーナリストとしてどのように伝えるのですか?」と問われたのだと思っています。
世界の戦争被害の歴史の中で、これほど残酷で無惨な体験を私は聞いたことがありません。

1945年3月末、米軍が上陸した後、米軍に追い詰められ、日本軍から保護をされなかった住民は「愛する故に愛する我が子を、妻を殺さなければならなかった」のです。「天皇陛下バンザイ」を叫んで。
渡嘉敷では米軍上陸の1週間ほど前に兵器軍曹が役場職員や青年にひとり2個ずつ手榴弾を配りました。「一発は米軍に投げ、一発は自決用に」と。
「生きて虜囚の辱めを受けず」「天皇のために、お国のために死になさい」と教育された住民に残された選択はひとつ。「自決」しかありませんでした。しかも、軍から手渡された手榴弾は操作の不慣れや不良品が多く、不発のものもたくさんありました。
榴弾を持たない住民は鎌や棒きれ、石、カミソリ、縄や紐で、そして幼子を燃えさかる炎の中に。最後に残された父親は死にきれず気が狂ってしまったのです。
16と18才の兄弟は大人達がどうやって殺すのか、その殺し方をじっと見ていました。二人はやがて母と妹、弟を石で殴り殺したのです。

座間味国民学校の校長先生は妻と2人の女教師や住民と壕に隠れていました。米軍が迫ってきたことを知った校長先生は静かに「皆さん、こちらに集まってください」と住民をひとかたまりに集まらせたのです。そして「天皇陛下バンザイ」と叫んだ直後、手榴弾が爆発しました。2人の女教師は瀕死の重傷を負いました。
校長先生と妻は死にきれませんでした。やがて校長先生は妻を抱き寄せ、鞄からとり出したカミソリで妻のクビを切り始めました。じっと目をつむったままでした。そのため、妻のどこに刃が当たっているのかもわからず、何度も何度もクビに切り込みを入れてゆきました。妻は「まだですよ、まだですよ」と言いながら、やがて大量の出血で意識を失って行きました。
押し黙っていた校長先生は自分のクビに刃を当て一気にカミソリを引きました。
「プシュー」と言う鈍い音ともに鮮血が噴き出し周りを血の海にしました。
狭い壕の中、校長先生の向かい合わせに座っていた9才の少年が全てを目撃していました。
飛び散った校長先生の血が少年のシャツを真っ赤に染めました。その時の少年は「血が生暖かかった」ことを今も鮮明に覚えています。

「鬼畜米英」の思想は米軍に遭遇したときに米軍を憎しみ殺すという思想でした。
しかし、武力を持たない、逃げまどう住民は戦場で圧倒的な火力をもつ米軍に遭遇すると、憎しみが恐怖に変わり、米軍に向ける刃を愛情をもつ家族に向けたのです。
「殺意無き殺人、愛するが故の殺人」天皇制がいかに残酷で、残虐であるかが最も劇的な形で現れた事件でした。

さて、文科省が高校歴史教科書の書き換えの理由にした裁判で座間味の元部隊長・梅澤裕元少佐は「軍命ではなかった」と名誉回復を求めています。
しかし、彼は米軍上陸後、次ぎつぎと突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いやり住民をスパイとして虐殺し、自決へと追い込んだ責任者でした。
梅澤少佐は、朝鮮人慰安婦を伴い壕を転々と逃げ回り4月10日、各隊に独自行動を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしまいました。
本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったとき朝鮮人慰安婦と一緒で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されました。
その梅澤元少佐が1987年に座間味を訪れました。目的は「軍命はなかった。住民は自発的に集団自決した」という証文をとるためでした。
元村収入役兼兵事主任の弟A氏に会い、「一筆書いて欲しい」と頼んだのです。
しかし、元助役の弟は拒み続けました。元助役の弟は戦時中、徴兵され福岡県の部隊に配属されており、座間味にはいなかったのです。
A氏が梅澤氏の要請を断ったあと、福岡の時の戦友だという2人の男が泡盛を持ってやってきました。
その時の様子は宮城晴美氏の著書「母の遺したもの」に書かれていますので引用します。「ところがその夜、M・Y氏(ブログではA氏 以下同じ)の元戦友という福岡県出身の二人の男性が、慰霊祭の写真を撮りに来たついでにと、泡盛を持参してM・Y氏を訪ねて来た。戦友とはいっても所属が異なるため、それほど親しい関係ではないし、またなぜ、この二人が座間味の慰霊祭を撮影するのか疑問に思いながらも、はるばる遠いところから来てくれたと、M・Y氏は招き入れた。何時間飲み続けたか、M・Y氏が泥酔しているところに梅澤氏が紙を一枚持ってやってきた。家人の話では朝7時頃になっていたという。「決して迷惑はかけないから」と、三たび押印を頼んだ。上機嫌でもあったM・Y氏は、実印を取り出し、今度は押印したのである。」とその経過を書いている。
この翌月1987年4月18日の神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」との記事が掲載されました。A氏が押印した文書は裁判の証拠として提出されているのです。
梅澤元少佐はA氏を二重三重に貶めたのです。

深い傷を心に秘めた人々から証言を聞き出すことは、かさぶたをはがして、血のにじみ出た所から傷口に入り込むような残酷さがあります。
しかし、この作業なしに歴史を後世に正しく残せません。
渡嘉敷島で証言してくれた97才になるおばあさんが自決現場近くに案内してくれました。しかし、身体が震えて現場までたどり着けませんでした。
インタビューが終わると1時間も泣き続けていたと、あとで長男から聞きました。

証言をしていただいた方々の心の奥にしまい込んだ深い傷を思うとき、一度や二度の取材でこの人々の痛みを理解したなどと絶対に言ってはならないと固く思ったのです。
これまで、これほど真剣に取材対象と向き合ったことはありませんでした。
(今までは真剣ではなかったと言うことではないのですが)
この取材はある意味、命がけ。中途半端は許されない、心してかからねばならいと思っています。

posted by M at 23:10| レポート リンク集
森住卓ホームページ

にほんブログ村 政治ブログへ←この記事にピーンときたら、ワン・クリック、お願いします!