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文芸評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』 このページをアンテナに追加 RSSフィード

哲学者=山崎行太郎の政治ブログ
『毒蛇 山荘日記』

2008-07-21

曽野綾子と鬱病と沖縄と……。

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曽野綾子は、山川方夫の推薦で、山川方夫編集長時代の「三田文学」に発表した「遠来の客たち」で芥川賞候補になり、わずか23歳か、24歳前後の頃に、この作品で本格的に文壇にデビューしたといっていいが、ほぼ同じ頃にデビューした有吉佐和子とともに「才女作家」として注目され、一部では「才女時代」と持て囃された時期もあったわけだが、その後の活躍は、有吉佐和子や、あるいは同世代の男性作家たちの華々しい活躍に較べると、若干、見劣りするものだったと言っていていいだろう。同世代の男性作家たちとは、言うまでもなく、石原慎太郎であり大江健三郎であり、評論家の江藤淳だったが、彼等と比較するのもどうかと思うが、やはり同じように若くして作家として、あるいは評論家としてデビューした文学者仲間として、曽野綾子の中にも、ライバル意識がなかったはずはなく、彼等の文壇、論壇での大活躍を横目に見ながら、内心では大きな焦りと絶望感にさいなまれ続けたはずである。僕には、曽野綾子の鬱病発症の真の原因が何であるかはわからないが、それでも鬱病の原因の一つが、きわめて文学的、文壇的なものであつたろうということは、容易に想像が付く。さて、曽野綾子は、そのデビュー当時のことを、次のように回想している。

「新思潮」で私は徹底して小説作法を叩きこまれたが、この雑誌はどういう巡り合わせか、村上兵衛、阪田寛夫、林玉樹、岡谷公二、有吉佐和子、梶山季之、などといった才能のあ る人々をほんとうに世に出すのに決定的な推進力になっていない。私が作家として認められたのも、当時「三田文学」の編集長だった山川方夫氏が、私に「三田文学」に小説を書 かないか、と言ってくださったおかげである。その時書いた『遠来の客たち』という小説が 昭和二十九年度上半期の芥川賞候補になり、吉行淳之介氏の『驟雨』が受賞し、私は次点となったが、それがきっかけで私は小説を書いて暮らせるようになったのであった。(「山川方夫のこと」)

東大系の同人雑誌「新思潮」に参加し、やがて慶応の半商業文芸誌「三田文学」に誘われて作品を次々と発表、ついに23歳の若さで芥川賞候補にまでなるというのは、恵まれた順風満帆の文学的スタートだったと言ってもいいだろうが、そこに暗い影が忍び寄っていたことは間違いない。曽野綾子の「遠来の客たち」が昭和二十九年度上半期の芥川賞候補で、その時の芥川賞が、吉行淳之介だったとすれば、すぐその後に、行動的というか、活動的な「怒れる若者たち」とも呼ばれることになる石原慎太郎、開高健、大江健三郎、そして評論家の江藤淳等の若く威勢のいい文学世代が、次から次へと続々と登場してくるからである。曽野綾子としては、華々しいデビューを飾ったはいいが、時代の風は、次の世代に瞬く間に移っていき、彼女が属していると思っていた「第三の新人」たちは、文壇の片隅に追いやられ、その存在が改めて注目を浴びることになるのは、かなりあとのことである。安岡章太郎や吉行淳之介等、「第三の新人」は年配者が多く、しかも自他共に認めるような文学的に地味な作風であってみれば、石原慎太郎や大江健三郎等の活躍に対抗心や嫉妬の炎を燃やすこともなかっただろうが、つまり自分達のペースで作品を書き続けていくことは決して無理なことではなかったろうが、しかし、彼等とあまり年の違わない曽野綾子にとっては、そんな悠長なことは言っていられなかったであろう。要するに、新人作家としての曽野綾子がデビューする間もなく、つまり曽野綾子が文学的、文壇的地盤を固める前に、文壇の趨勢は、早々と石原慎太郎や大江健三郎等の世代へと移行して行ったのである。曽野綾子の心が平穏であったはずはない。曽野綾子でなくても、鬱病にもなろうというものである。ところで、三浦朱門は、曽野綾子の「鬱」について、次のように書いている。

妻、曽野綾子は三十代のはじめからの数年間、ウツでした。曽野自身もウツや不眠症のことを書いているし、年譜を調べればすぐわかります。彼女は大学を卒業直後に芥川賞候補になっていらい順調に作品を発表していたのに、その数年は極端に作品数が少ないのです。/私が曽野のウツ的な兆候に初めて気付いたのは、昭和三十七(一九六二)年、結婚してから十年目のことでした。(三浦朱門「妻・曽野綾子がうつに罹った時」「文藝春秋」八月号)

昭和三十七(一九六二)年に、初めてウツの兆候が現れたというが、昭和三十七(一九六二)年という年が、どういう意味を持っているかを考える前に、ほぼ同世代の作家たち、つまり石原慎太郎や大江健三郎が、当時、どういう活躍をしていたかを考えてみる必要があるかもしれない。ちなみに、曽野綾子が1931年生まれなのに対して、石原慎太郎は1932年生まれ、大江健三郎は1935年生まれであり、ほぼ同世代と言っていいが、曽野綾子は23歳で芥川賞候補になり華々しい文壇デビューを果たしたわけだが、しかし石原慎太郎は24歳で『太陽の季節』で芥川賞受賞、大江健三郎も23歳で『飼育』で芥川賞受賞というように、曽野綾子以上に華々しい、ともに学生作家としての文壇デビューであり、しかも「太陽族ブーム」に象徴されるように、石原慎太郎や大江健三郎の登場で時代は激変したのであった。ほぼ同世代で、後に『悲の器』で作家としてデビューしてくる高橋和己は、石原慎太郎のデビューを、赤いスポーツカーが全速力で走り去っていく感じだったというような表現で、当時の雰囲気を回送していたと思うが、要するに、曽野綾子は、石原慎太郎や大江健三郎の登場で、一時的にとはいえ、文壇の中心的な流れからは、「第三の新人」とともに、完全に置いてけぼりを食い、言い換えれば、文壇的には、忘れられかねない存在となっていたのである。さらに付け加えるならば、有吉佐和子の存在と活躍も忘れてはならない。有吉佐和子は曽野綾子と同じく1931年生まれたが、文壇デビューは曽野綾子より少し遅く、石原慎太郎が芥川賞を受賞した時に、『地唄』という作品で同じく芥川賞候補になり、文壇にデビューしたわけだが、その後は、華々しくデビューしたとはいえ、鳴かず飛ばずの新人作家生活を余儀なくされていた曽野綾子とは違って、文学的には実に鮮烈な活躍をするのである。特に自伝的な長編小説『紀ノ川』で作家的地位を確立し、『華岡青洲の妻』など、問題作を次々と発表し、石原慎太郎や大江健三郎とは違った意味で、社会的名声と作家的名声を不動のものにしていくのである。しかも有吉佐和子は、一方では、ロックフェラー財団の援助でアメリカに留学したり、小説のための海外取材等を活発にこなしていた。しかし、この頃、その名前は知られていたが、曽野綾子には、語るに足る作品がない。したがって僕は、曽野綾子の「鬱病」の原因が、家庭環境夫婦関係……等にあるとは思わない。明らかに、文学的、文壇的なものの中に、曽野綾子の「鬱病」の原因はある、と思う。三浦朱門は、ペンクラブの代表としての海外旅行の話が持ち上がり、期待をふくらませるが、それが結果的にダメになった時、それを聞いた曽野綾子が泣き崩れたと言うが、そしてその時初めて、曽野綾子の異変に、つまり「鬱病」に気付いたというが、有吉佐和子のアメリカ留学や活発な海外取材の話を持ち出すまでもなく、なんとなく「鬱病」発症の原因がわかるような気がする。それ故に、曽野綾子の「鬱病」は、「沖縄」という海外の地に文学的テーマ発見し、『生贄の島』や『ある神話の背景』のための「沖縄取材」を繰り返し、やがて「鬱病」の原因の一つだったかもしれない「大江健三郎」という目障りな存在を、思想的、政治的な攻撃対象に設定することによって、「鬱病」は治癒されていったのである、と言う事が出来るかもしれない。

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