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文芸評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』 このページをアンテナに追加 RSSフィード

哲学者=山崎行太郎の政治ブログ
『毒蛇 山荘日記』

2009-04-01

エコノミスト亡国論、あるいは稀代の詐欺師・竹中平蔵のトンデモ経済学に異議あり!!!(『月刊日本』四月号より)



■ドストエフスキーの『罪と罰』にとって経済学とは何か。

ロシア革命前夜に書かれたドストエフスキーの『罪と罰』に「新しい学問」としての「経済学」というものが登場することを、どれだけの人がご存知だろうか。というわけで、まず、ドストエフスキーの『罪と罰』の一節を引用することから始めよう。たとえば、こんな風にドストエフスキーは描いている。娼婦ソーニャの父親であり、娘の稼ぎを全部酒代に代えてしまう酔っ払いの失業男・マルメラードフの独白である。

≪失礼ですが、学生さん、あなたは……その……見込みのない借金をしようとしたことがありますか?(中略)つまり、ぜんぜんその見込みがない、はじめから、頼んでもどうにもならないことが分かっているんですよ。(中略)どうです、貸す理由がありますかね?だって、わたしが返さないくらいのことは、彼は百も承知ですよ。同情から?どういたしまして、レベジャートニコフ氏は、新思想研究しているから、同情などというものは今日では学問によってすら禁じられている、経済学進歩しているイギリスではもうそれが実行されている、とこの間説明してくれましたよ。どうです、貸してくれる理由がありますか?ところがいま、貸してもらえないことを承知で、それでもあなたは出かけて行くわけです。≫

 ちなみに、ここで、返す見込みのない貧乏人には金は貸さない、と言うのが「新しい思想」としての経済学常識であり、貸しても返す見込みのない貧乏人に貸すのは、同情や憐憫の情に流される「古い思想」ということになる。言い換えれば、ここでドストエフスキーが語る「経済学」とは、現代の経済合理主義、効率第一主義の経済学と言っていいかもしれない。哲学なき凡庸なエコノミストという妖怪が日本を滅ぼす。経済学という妖怪が、テレビや新聞アカデミズム、あるいは政財界というような現代社会の表舞台だけではなく、全国、津々浦々、どのような都会にも田舎にも、そして辺鄙な寒村にまでも、つまり社会システムの隅々にまで進出、出没、徘徊し、そして「効率」とか「利益」の名の下に、「構造改革」とか「郵政民営化」、あるいは「規制緩和」とか「小さな政府」とかいうような、よからぬ事件を次から次へと引き起こしているようだが、この「経済学という妖怪」、ないしは「エコノミストという妖怪」について、私なりの視覚から考察、分析してみみたい。私は、「哲学なき凡庸なエコノミストという妖怪が日本を滅ぼす」と考えているが、それ故に、今こそ、日本の国家国民の命運をも左右しかねない政治的政策決定の場所から、不可能かもしれないが、「哲学なき凡庸なエコノミストという妖怪」を排除し無力化しておかなければならないと思う。さて、その「経済学という妖怪」、ないしは「エコノミストという妖怪」と呼ぶにもっとも相応しい人物が、その時々の政治権力に接近し洗脳する術において優れた才能を発揮する竹中平蔵という「政商的」な経済学者、ないしは特定の政治勢力の「工作員的」な言論情報活動を得意とする竹中平蔵というエコノミスト…であることに異論を唱える人は、おそらく竹中平蔵本人かその仲間(「ポリシー・ウォッチ」グループ)しか、いまい。私は、竹中平蔵という存在を、経済学者ともエコノミストとも思っていいないし、むろん、政治家とも思っていない。もっと深く怪しい、曖昧な、意味不明人格と考えている。むろん、彼の唱える経済学なるものも同じだ、と思っている。言うなれば、竹中平蔵の経済学には、ドストエフスキーやラスコーリニコフに見られたような哲学的素養と深い根源的な思索というものがない。つまり竹中平蔵には経済の情勢論や政策論はあるが、経済の原理論や本質論が欠如している。マルクス、ケインズ、ハイエク、シュンペーター等、経済学思想巨人たちに関する言及や著書が、竹中平蔵にほとんどないのは、そのためであろう。その代わり、彼は、権力を握った政治家に取り入るのが無類にうまいし、そういう政治家を信用させる詐欺師的弁舌にたけている。竹中平蔵から学ぶべきことがあるとすれば、その学界・政界の遊泳術と詐欺師的弁論術だけだろうが、それこそ心ある日本人の最も嫌悪し、排斥する点だろう。翻って思うに、おそらく現代日本の政治家たちほど思想的、人間レベルの低い人種は、いまだかつて存在しないのではないか、と思われるほどだ。現代日本の政治家たちは、いとも簡単に竹中平蔵の詐欺師的弁舌に洗脳されているように見える。竹中平蔵という、見るからに怪しい、詐欺師的人物に惚れ込み、その「立て板に水」という言葉が文字通りピタリと当て嵌まるかのような詭弁的弁舌に洗脳されたあげく、なんと恐るべきことに、国家国民の命運をも左右する政策や行政を、その稀代の詐欺師・竹中平蔵に丸投げするというような、そういう「人を見る眼」のない、「思想性の欠如」した、言い換えれば「貧困の哲学」ではなく「哲学の貧困」を体現しているような暗愚の政治家は、現代日本にしかいないだろう。要するに、政治家エコノミスト思想的貧困が、すべての原因なのである。というわけで、おそらく、今、多くの日本人は、未曾有の経済危機がもたらす悲劇と不幸のどん底に突き落とされ、その共同体も社会システムも崩壊と解体を余儀なくされているわけだが、これらの問題は、言うまでもなく竹中平蔵という妖怪を抜きにしては語れない、と言えば、竹中平蔵本人は喜ぶだろうか。


■自民党支配の終焉と「小泉・竹中構造改革」派の「哲学の貧困」

ところで自民党支配の終焉が、麻生政権がいかに解散・総選挙や内閣総辞職を逃げ回り、政敵を東京地検特捜部と結託して政敵を「お縄に掛けよう」とも、少なくとも半年後には現実のものとなる可能性がきわめて高い。というわけで、今、「小泉・竹中構造改革」や「郵政民営化」が原因の大不況の発生という現実認識に覚醒した日本国民は自民党を見放しつつあるわけだが、その国民から見放された自民党は、潔く解散・総選挙を行い、結果次第では政権を民主党に渡すという、憲政の常道にのっとった「堂々たる政治」ではなく、あらゆる手練手管を使って、政権交代を阻止しようとして策謀に策謀を繰り返し、そして当然の結果として不可解な陰湿な政治事件が、いかにも政権末期を象徴させるように頻発している。「小泉・竹中構造改革」の本丸と言われた「郵政民営化」、詳しく言えば郵便事業の「四分社化」に隠蔽されていた利権疑惑が、オリックスへの「かんぽの宿」一括譲渡の過程で暴露され、「郵政民営化」担当大臣だった竹中平蔵をも巻き込んで、大きな政治スキャンダル、疑獄事件に発展しそうな雲行きなのだが、今度は、それを封じ込めるべく、小泉元首相側からの「麻生内閣批判」と「麻生降ろし」の、いわゆる小泉劇場なるものが開幕し、それを踏まえて、あるテレビ番組で、「郵政民営化」をめぐる政争に敗れ、自民党離党を余儀なくされた亀井静香国民新党代議士が、「郵政民営化」担当大臣だった竹中平蔵に、「これは大疑獄事件だ」「地検に提訴するぞ」と宣言すると、その直後に、麻生首相側と小泉元首相側の間で素早く「手打ち」が行われたらしく、小泉元首相周辺からの「麻生内閣批判」や「麻生降ろし」がピタリと止まり、その代わりに今度は、なんと、次期総理はほぼ確実と思われている小沢一郎民主党党首の政策秘書が、「小沢降ろし」とも取れる「西松建設不正献金疑惑」で、突然、東京地検特捜部に逮捕される、というような「史上最低のドロ仕合」が展開している。この政界の「史上最低のドロ仕合」は、国民から見放された自民党が、解散総選挙を恐れて、政権を盥回しにしていることがすべての原因であるが、その奥には、やはり竹中平蔵という妖怪存在が、見え隠れしていることを忘れてはならない。


■竹中平蔵は、何故、経済学の「古典」や「本質」を語らないのか?

たとえば、柄谷行人という文芸評論家は、「経済学者は経済の本質を知らない。言語学者は言語本質を知らない。」というようなことを言っているが、それは柄谷行人が経済学に疎いからではなく、経済学という学問を、もっと広く、深く考えるからであり、言い換えれば、経済現象を、たとえば貨幣や交換、あるいは資本労働という経済学概念を、本質論、原理論のレベルで考える立場に立っているからである。竹中平蔵の経済学には、経済の本質に関する議論がほとんどない。今、私の手元に『経済ってそういうことだったのか会議』という竹中平蔵と佐藤雅彦の対談本があるが、その冒頭で、竹中平蔵は、「貨幣」「交換」「価値」等について語っているが、残念ながら彼には、貨幣本質や交換の謎、あるいは価値の発生…等の本質的原理論的な基礎問題がまったく見えていないようである。「牛乳瓶のフタ集めの話」であるが、ある時、竹中平蔵少年が牛乳瓶のフタを集めはじめると、しばらくして学校中で「フタ集め」がブームとなり、フタ集めとフタ交換を繰り返すうちにフタに価値が発生し、竹中平蔵少年は「フタの大富豪」になったというわけであるが、それだけの話である。わずかに「信用」ということが語られるだけで、「貨幣」「交換」「価値」等の経済学的現象の奥底に潜む謎に、まったく関心がないようである。一方、柄谷行人は、文芸評論家という肩書きながら、「貨幣」「交換」「価値」等について、マルクスをテクストにして、綿密な議論を展開している。≪マルクスがイギリスのイデオローグを二流の哲学者政治思想家ではなく古典派経済学者に集約させたこと自体、彼がイデオロギーによって何を意味したかをよく示している。イデオロギーとはもはや宗教観念ではなく、自然的な自明さをもった事実のことであり、自己充足的で透明な概念(意味)のことである。そこで、はじめて、古典経済学における超越的な「価値概念が問い直される。あるいはそれを自明にする貨幣=音声的文字の優位が疑われるのである。≫(『マルクスその可能性の中心』)ここでは、柄谷行人の議論に深入りすることは出来ないが、柄谷行人が、「貨幣」「交換」「価値」等について、それが正しいか間違っているかは別としても、根源的に、あるいは原理論的に、つまり深く考えるという作業を展開していることは明らかだろう。どちらが経済学者、あるいはエコノミストに値するかは、議論の余地がないが、もし竹中平蔵に経済学経済学説史に関する深い素養があるならば、是非ともうかがいたいものだが、竹中平蔵にはそういう深い素養は皆無だろう。竹中平蔵の言う「構造改革」や「規制緩和」「財政出動無効論」、あるいは「緊縮財政」「郵政民営化」「小さな政府」論等は竹中平蔵のオリジナル思想ではなく、それぞれ経済学的な理論的背景と学説史があるのだが、竹中平蔵はそこの理論的背景と学説史を隠蔽したまま、まったく語ろうとはしない。「現代の経済学では常識ですよ。そんなこと、当たり前じゃないですか」と語るだけである。繰り返して言うが、経済学や経済政策をめぐる竹中平蔵の理論のほとんどは、借り物の理論であり、受け売りの理論であり、借り物や受け売りが一概に悪いというわけではないが、いずれにしろ、そのオリジナルはアメリカにある。 竹中平蔵式経済理論の核心は、需要拡大によって景気回復を試みるケインズ主義批判である。ケインズ理論では、不況の原因は需要の不足による消費後退、つまり生産能力はあるが商品が売れないデフレ・ギャップの発生である、と考え、財政出動、あるいは公共投資などによる需要拡大こそ景気回復の指標になるとする。しかし、アメリカでは、ケインズ主義的な需要拡大による景気回復という思想は、少なくともアメリカ経済学界では、理論的に否定され、完全に歴史の遺物と看做されて、つまり「ケインズはもう古い」「ケインズは死んだ」というのがアメリカの現代経済学の主流であり、流行思想である。竹中平蔵もそうしたアメリカの現代経済学を鵜呑みにして、それを無批判に受け入れ、日本国内でそれを、「構造改革」や「規制緩和」「財政出動無効論」、あるいは「緊縮財政」「郵政民営化」「小さな政府」論などとして、政策的に現実化したと言っていい。しかし、竹中平蔵は、その理論的根拠を明かさない。まるで自分オリジナル思想のように語る。そこで、竹中理論なるものの理論的背景を暴露しておこう。


■竹中平蔵よ、「マンデル・フレミング効果」「クラウディング・アウト現象」「ルーカス批判」を隠蔽するなかれ。

ケインズ批判の理論的根拠になっているのは、「マンデル・フレミング効果」理論と「クラウディング・アウト現象」理論、あるいはルーカスの「合理的期待生成」理論、もしくは「小さな政府」を主張するリバータリニズムなどである。マンデル等の主張する「クラウディング・アウト現象」とは、財政赤字が巨大化している時、総需要拡大政策をとるためには財源が必要であるが、その財源を国債発行に求めるのがもっとも容易で安全な選択であろうが、しかしそこに経済学的に問題がある、というわけだ。つまり、国債の発行(国民がそれを買い取る…)によって市中の民間資金が国庫に吸収され、結果的に民間資金の不足が発生し、民間資金の不足が市中金利の高騰をもたらし、やがて資金不足から民間投資が冷え込み、景気回復が挫折する、という論理である。マンデルらはさらに、ここから、市中金利の高騰は、その国の通貨の高騰を招き(例えば、円高…)、その国の輸出産業が壊滅的な打撃を受け、景気回復は挫折する、という「マンデル・フレミング効果」理論を展開する。したがって、マンデルらは、ケインズ主義的な「総需要拡大政策」は無効だ、と主張することになる。ケインズ経済学批判は、ロバート・ルーカスの「ルーカス批判」で決定的な段階を迎えるが、それ以後、「ケインズ経済学は古い…」「ケインズ的経済政策は無効だ・・・」という言説が、アメリカだけではなく日本でも、無批判的に蔓延することになったわけだが、では「合理的期待形成学派」のルーカス教授の「ルーカス批判」とは何なのか。はたしてそれは信頼にたる批判なのか。そもそもフリードマンルーカス等によるケインズ批判の哲学的背景はどこにあるのか。ルーカス革命の実態は如何なるものなのか。その核心にある哲学とは何か。たとえば、ルーカス批判の理論の一つは、「経済学者たちの代替的政策提案に対する評価は、人々の適応的期待とその影響による行動を考える必要がある」という理論である。要約すれば、ルーカス批判のポイントは、「ケインズ的な従来の経済政策においては標準的なマクロ経済モデル依存するだけで、人々の適応的期待とその影響による行動を考慮していない」ということになる。では、「適応的期待とその影響」とは何か。例えば,「近々インフレが起きる」という期待が形成されると仮定しみる。すると,労働者は、賃金交渉の場で、「少なくともインフレの分だけ給料を上げてくれ」という要求が出すだろう。次に、経営者側は、賃金の上昇は企業にとってはコストの増加につながるから,企業は製品価格を上げようとする。その結果,いろいろな製品価格が上昇して実際にインフレが生じることになる。このように,期待形成はいろいろな経路を通って実現することが多い。したがって、「政府は、このような期待の効果を十分に考慮した上で政策を行う必要がある」というわけだ。しかるに、ケインズ経済学では、この「期待形成とその影響」が無視されている。これが「ルーカス批判」の核心命題である。むろん、ケインズ経済学でも、「期待」という問題を完全に無視しているわけではない。しかしケインズ経済学が想定している「期待」は、過去の値を予測値として使う「静学的期待」であるのに対して、ルーカスの「期待」は、現在入手できるあらゆる情報を使って予測を行う「合理的期待」である、と主張する。「ケインズ的静態的期待」と「ルーカス的合理的期待」を区別するところにルーカス批判の核心があるのだろう。おそらく、ルーカス批判がアメリカのアカデミズムを制覇した理由は、必ずしもその理論の正当性ではなく、様々な高等数学を援用して数式や数字を駆使するその技法にある。科学主義や数学主義とも言うべきその悪しきスタイルはしばしば学問や科学の名のもとに人間頭脳を一時的に幻惑する。一種のモダニズムである。たとえば、20世紀哲学界を一時的に席巻した科学哲学論理実証主義の台頭の場合にも、「科学」「記号論理学」「数学」を武器に、「ヘーゲル哲学の迷妄」が批判され、罵倒され、嘲笑された。数字や記号を使わない哲学は「過去の遺物」だというわけである。しかし言うまでもなく、哲学は、数学や科学の「基礎」や「前提」を問う学問である。数学や科学を道具として使えば、簡単に批判できるというのは大きな錯覚である。たとえば、近代哲学の父と言われるデカルトはそもそも数学者であったし、カント哲学はニュートン物理学の哲学的基礎付けである。経済学世界でも、数字や数式の前に哲学や形而上学が忘れられ、隠蔽される。 最後に、竹中平蔵の「小さな政府」論について述べて終りにしよう。「小さな政府」論は、ブキャナン等の「公共選択論学派」の思想と理論からの受け売りと切り売りであり、その理論的根拠も学問的背景も知らずに、絶対的真理のごとく盲信し、思考停止状態で政権運営に当たっていたのが小泉政権であった。アメリカで「小さな政府論」を理論的に主張するグループがもう一つある。これも冷戦勝利後に急速に勢いを増しているグループだが、リバータリアニズムとかリバータリアンと呼ばれる一派である。たとえば、竹中平蔵等が主張する「小さな政府」論とは、言うまでもなく何もしない政府(笑)…のことである。そしてその行きつく先は政府そのものが必要ないと言う無政府主義アナーキズム)である。むろん、これは極端な議論だが、「小さな政府」という美しい言葉がその背後に無政府主義的な国家解体への思想的可能性を秘めていることは憶えておいてよい。竹中平蔵が大衆洗脳に使った言葉に、「公務員を減らせ」「官から民へ」「既得権益の打破」というプロパガンダがあったが、それは、無意識のうちに国家解体の可能性を夢想していたはずである。竹中平蔵の経済学には、ドストエフスキーやラスコーリニコフ、あるいはマルクスやケインズ、柄谷行人等に見られたような哲学的素養と深い根源的な思索というものがない。つまり竹中平蔵の経済学には経済の情勢論や政策論はあるが、経済の原理論や本質論が欠如している。いずれにしろ、「かんぽの宿疑惑」を初めとして、「小泉・竹中構造改革」の暗部が暴き出されようとしているが、同時に、小泉政権下で、政府を誤った方向へ導いた稀代の詐欺師・竹中平蔵の経済学が、受け売りと借り物と、そしてそれの隠蔽とからなる「トンデモ経済学」であったということが暴き出される日も、近いだろう。






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