サイバー保守主義の可能性?

「重い3秒ルール問題」(崎山伸夫のBlog)
経由で
ised@glocom倫理研第1回:議事録を読んだ。

いろいろとひっかかる部分はあるんだけど。

「日本という国が実際には何を価値としていままで動いてきたのか、立ち止まって考えるという話がここで出てこなくてはいけないと思うんです」(白田秀彰

というのはどうなんだろうか?

その昔、「この国は渦のようにくるくると回り、その渦の中心はきっと何も無い中空なんだろう」というような唄があったように思う。勿論この唄の意図するところは社会の規範性の無さを嘆いているわけなんだろう。「天皇制」という議論でもこの「中心の中空」は浮かび上がってくる。

しかし最近は、この「中心の中空」こそが、竹のような強靭さをこの社会に与えているのでは無いかと推測されるんだけどな。



また、上の「重い3秒ルール問題」について考えると。「啓蒙」と「運動」という切り分けにおいて思考停止的な「運動」に対して批判的なように思うのだけど。これって衆愚批判まで後一歩という気がする。プロの条件というのは説明責任を持つということなんだろうと思う。プロであるからには素人がわかる言葉で説明をする責任を持つのだろう。それは「啓蒙」(「折伏」といっても良い)という言葉ですらない当たり前の責務なんじゃないのだろうかと思える。
そしてこういった大衆の選択がエリートの論理的帰結と異なろうとも、その大衆の選択とともにあるのが「民主主義」という奴なんじゃないんだろうか。
エリートが独善に陥ればそれはカルトと異なるところが無い。