もっとも困難な「無知」

大本営
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こちらから来訪者が増えているので読みに行ったのですが。
余りにも面白すぎます。
自らを「大本営」と名付けつつ、米国の軍制が「三軍」であるとされるヒトから「知性」をどうこう言われても、それをそのまま素直に受け取るわけにはいきませんが。一つ面白い事に気が付きましたので、それを指摘してみましょう。

大本営」という組織が何かとかをすっ飛ばし、ただ言葉づらから「嘘つき」「組織的硬直」「官僚的専行」というあまりに偏向かつ類型的な印象を想起。
それこそが無知を晒していると言わざるを得ません。

どうなんでしょうか?一般的に「大本営」という言葉にはすでに特別な意味が付与されていると思うのですが。例えばどこかの公式発表やらニュースリリースを受けて、誰かがそれを「大本営発表である」と評したとすれば、わたしは「その論者はこの発表を、形式的な奇麗事であり信じるに値しないと評価している」と受け取ります。これが偏向であり類型的な印象であり、無知であるといわれるのならばそれは仕方が無い事なんでしょうか。

では、偏向せず(政治的に中立という事でしょうか?)類型的な誤謬に陥ることなく、虚心に「大本営」という組織を考えさせて欲しいものだとご高説を賜るに、次のような記述がその前にあるわけですね。

「軍組織の一元管理」は現代の軍事機構における必須の課題です。
そしてみずほの呈している「軍組織の一元管理」は、誤解されているような帝國時代の「大本営」を理想とするのではありません(そんな主張はしていません)。
強いて言うなら将来の日本における"新しい形の"大本営のことです。

わかりませんねぇ。というか、凄すぎます。その昔、戦前ですが。大蔵省の主計局の上に海軍軍令部だとか陸軍参謀本部ってのがあったって事です。官僚的かもしれませんが少なからぬ知性が結集した事には違いないんだろうと思います。少なくともわたしにはそれらの集団を真っ向から否定して、自分の理想の優位性を主張するような勇気はありません。
いったいどうやって「みずほの呈している」「将来の日本における"新しい形の"大本営」が「誤解されているような帝國時代の「大本営」」と同様の陥穽に陥らないと言えるのでしょうか?
戦前の軍組織においても、彼等は自ら陥穽に陥ろうと思って陥ったわけではありません。逆に、それまでの旧態を刷新し「将来の日本における"新しい形の"大本営」を理想として、やがて「大本営発表」を繰り返す「嘘つき集団」と成り下がっていったのです。
ここに「組織」というものを運営する面白さと難しさがあるのですが、まあ、そのお話はまたの機会ということでよいでしょう。

「テロの大義」についてもそうです。
それがあるのならば語らなければならないでしょう。「赤報隊」という歴史的意味合いがついた言葉に「テロリズム」というロゴを振っただけでそれを肯定する言説は危険きわまりません。「大本営」にしろ「テロ」にしろ「みずほ」には「みずほ」の理想と論理があるのでしょう。それは「みずほ」の中に留まる限りにおいては無謬です。誰もその実体を理解できないわけで、どこからも批判は起こりません。しかしその姿は「未矛盾」であるだけで「無謬」であるか否かは未決定です。「みずほ」の中に留まっている「未矛盾」の理想に自論は論理的整合性がある。しかし他者はその理想と食い違っている。それならばその他者が誤りである。という結論付けは客観性に欠け少々問題なのではないでしょうか。

実は、こういった客観性の欠如という姿はこの「みずほ」だけに見られるものではありません。某ネット政治右翼団体の長。某パソ通時代からの保守主義者と自らを自任する者。さらには渡部昇一なんぞにも見られる傾向ではないかと思えるのです。

もっとも困難な「無知」は自らの「無知」すらも知らぬことではないでしょうか。

ひょっとすると「ネット内に蔓延する保守主義的傾向」という問題を読み解くのに必要なのは、政治学やら社会学ではなく心理学、それも教育心理学なのではないかと思えてきたりします。