トキワ荘はクリエイティブコモンズの日本型モデルか

donburaco2006-08-23

一般的にクリエイティブ・コモンズは「CC」という頭文字で略されるが、以前からぼくは普及への願いと愛着を込めてあえてこれを日本語特有の4音節の響きで略してみたいとうずうずしていた。セクハラしかり、インフラしかり。外国語で伝達されてきた概念はカタカナ4文字になってはじめて日本語化される。パソコンしかり、デジカメしかり、生活に完全に溶け込んだ品々には元の言語の陰すらない。
というわけで、「クリコモ」って呼んでもいいですか?

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さて、愛称の提案はさておき、クリエイティブ・コモンズの普及と理解がさらに進むことによって、まず考えられるのはデジタル作品の創作・発表活動の裾野が一挙にアマチュア・レベルに広がることだ。東急ハンズや郊外型のホームセンターに日曜大工や家庭園芸のさまざまな道具と素材が取り揃えられているように、ネットワーク上では今後さまざまなデジタル素材が手軽に入手できるようになる。プロフェッショナルもアマチュアも同じ場所で資材を調達するというのは、まさにホームセンターの在り方だ。
あるアーティストが「ぼくの作品はすべて東急ハンズで売ってるものからできている」と自嘲気味に(とてもウォーホルっぽく)語ってくれた覚えもあるが、メディアアートのコンテンツ素材に関しても同様の価値転倒が引き起こされる環境は着々と整いつつある。


すでに英国ではBBCやチャンネル4がニュース映像や番組コンテンツの一部を、創作的二次利用のためのダウンロードを前提としたアーカイブとしているが、この流れはいずれ日本でも珍しいものではなくなるだろう。
先頃、アメリカの13歳の少年2人組が広島原爆投下を主題にしたドキュメンタリー映画を制作し話題となったが、この手のクリエーターの低年齢化もまた珍しいことではなくなる。カメラの向こうの視聴者に向かって「みなさん本当のことを知っていますか」と問いかける2人は、なかなかのリトル・マイケル・ムーアぶりだ。
  
ニュース記事「米13歳少年が撮った原爆ドキュメンタリー映画が話題」
◆その映画「Genie In A Bottle」はここで鑑賞できる>http://www.worldlinktv.org/programming/programDescription.php4?code=nuclear_genie


現実的にはCCPL(クリエイティブ・コモンズ・パブリック・ライセンス)の素材から制作された作品は商業的運用に制限があるため、彼らの作品がいきなり映画界や美術市場のレールにのせられることはないが、出来上がってしまった作品が本当に面白ければ、しかるべき会社が契約や手続きを踏んで旧式の公開方法をとることもできる。これまでその足枷となっていたのは、制作者のレベルにおいてまず素材調達が困難(あるいは不可能)だったり、それ以前に二次利用が創作上のタブーとされていたことにあったということが、ここにきてぐっとわかりやすくも反省させられる。

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ただ、アマチュアの拡大とクリエーターの低年齢化だけでは、創作の裾野は広がっても突端部分は変わらない。クリエイティブ環境の変化は、より優れた創作内容の変化をもたらすべきだ。

クリコモは、芸術のオリジナル信仰から作品を解き放ち、芸術家をエゴ(自我、自意識)から解放する。
実際、過去においても、新しい未知の(=つまりは暗闇の中にある)表現の生成の場では、複数の人間によって手探りされるかのように価値ある創造が成し遂げられることはあった。
たとえば、ピカソとブラックの共同アトリエから生まれたキュビスムのように。


 
ピカソ「マ・ジョリ(ギターを持った女)」1911-12  ブラック「ギターを持った女」1913


ここでは、どちらが先かとか、どちらが上手いとかすぐれているとか、比較評価はあまり意味がない。
当の本人同士も、そういったことで競いあっていたわけではない。
かといって、これはいわゆるコラボレーション(共同制作)でもない。2人は仲良く「合作」をしたかったわけではなく、むしろそれぞれの勝手な絵画的関心から、ただ先を急ぐかのように、この時期だけ並走者を必要としていた(そのことは、以後2人はまたそれぞれのコースに戻り、異なる作風を展開していくことからも想像できる)。


互いに影響を授受しながら、新しい絵画様式の展開がどんどん加速していくことには強烈な興奮と高揚があったはずだ。まるでジャズ演奏家が織りなすインタープレイや、ジャンルを越えたジャム・セッションのように。
キュビスムは、ピカソとブラックがアトリエを共にした1911年から1914年の間このようにして生まれた。彼らはただ制作の空間を共にしただけでなく、絵画のモチーフや理論、手法や技法までをも共有した。遠近法的な単一の視点で描くのではなく、複数の視点からなる多次元的な絵画を創造しよういうコンセプトが、エゴからの脱却と2人の作風の融合を自然なものとしたといってもいい。

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ちなみに、それはアバンギャルドの時代のパリのみでありえた話ではない。
たとえば、日本の昭和30年代の東京、豊島区南長崎にあったトキワ荘

ここでは手塚治虫のもとに集まったまだ無名の漫画家志望の若者だった赤塚不二夫石ノ森章太郎藤子不二雄らが屋根をひとつにするなかで、新しいマンガ表現の基礎がつくられた。熱く理想を語り合い、さまざまなアイディアを交換し、互いの執筆をアシストし合ったというこのマンガ制作における一種のコミューンは、現在の視点で見れば、クリコモがもたらす制作環境のひとつの原型として見ることができるのではないか。
実際には彼らのマンガがヒットするのはおのおのトキワ荘から転居して以降なので、いわゆる「トキワ荘の時代」とは戦後マンガ黎明期の伝説として象徴的にハンドリングされすぎている節もあるが、藤子不二雄(A)『まんが道』や映画「トキワ荘の青春」といった回想的作品からは、逆にいまのぼくたちだからこそさまざまな想像をふくらませることができる。


おそらくクリエイティブの現場としてのトキワ荘では、まだ彼らが無名だったからこそ自然に行うことのできた、エゴのない創作的融合やアノニマス(匿名)的な発表があったはずなのだ。たとえば、藤子不二雄というそもそも匿名的な二人組が、投稿時代は「手塚の足元にも及ばない」との意味を込めて「足塚不二雄」というペンネームを用いていたこと(年譜を見ながら推測するに、赤塚不二夫[本名・赤塚藤雄]との音の類似は偶然。とすれば赤塚が逆に漢字の「不二」をもらったのか)。
あるいは、トキワ荘の後、スタジオ・ゼロ時代に描かれた『オバケのQ太郎』が、実際にはキャラクターごとに描き手が分担されており、藤子・F(藤本弘)、藤子(A)(安孫子素雄)のみならず、ゴジラハカセといった脇役は石ノ森章太郎によるものだったことなど。


マンガ愛好家の間ではよく知られていることだが、『オバケのQ太郎』の出版が現在困難となっている理由のひとつに、出版権や印税配分の取り決めがなされないまま作者が没してしまったという事情がある。参照>http://ja.wikipedia.org/wiki/オバケのQ太郎
藤子不二雄は晩年コンビを解消した際に、過去にさかのぼってすべての自作をそれぞれの名義に振り分けているが、第三者が加わった作品に関してまでは手がつけられなかったというのが正直なところだろう。


だが、ここでむしろ着目すべきことは、制作当時の彼らはその分業スタイルに何ら疑問を抱くことなく、むしろ自然なこと(=キャラはそれぞれ発案者が描く)として制作していたことにある。そして、その後『ドラえもん』あるいは『サイボーグ007』といったそれぞれのヒット作がもたらした莫大な著作権印税の仕組みによって、藤子両名と石ノ森は法律上の「著作者」(あるいは税法上の「納税者」)として分断させられざるをえなかったということだ。
その意味では、現行の制度こそがまさに硬直的で、トキワ荘式のクリエーションが生み出したコンテンツ=知的財産の在り方を歪めている。

映画「トキワ荘の青春」のなかでは若いマンガ家の卵たちを見守りながらも自分の作風が時代から取り残されていくテラさん(寺田ヒロオ)の苦悩と孤独にスポットがあてられるが、それは過去にあった話というよりは、むしろこれから近い将来において再び、多くのクリエーターの胸中に起こりうることなのではないか。

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さらに話題の接続をはかるなら、いま「ハチクロ」や「下北サンデーズ」など、表現者の卵たちが貧乏生活を送る物語が若者たちに受容されているが、その源流もまた辿っていけばトキワ荘に行き着く。
クリエイターが一度は夢見るプリミティブな楽園は、今日も、終わりなき夏の日差しの下にある。