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dongfang99の日記

2012-09-08 社会保障を考える このエントリーを含むブックマーク

 「平成24年版厚生労働白書 −社会保障を考える」に対して、「教科書的」という好意的な評価がある一方で、「経済学の知見がない」という批判が散見された。あまり正当な批判ではないと思う一方で(経済学の教科書に「社会保障論の知見がない」と批判するようなものなので)、社会保障制度が経済にどう貢献するのかについて改めて考えたくなったので、以下に簡単に述べておきたい*1。ちなみに、これは厚労省白書のように「教科書的」なものでは全くなく、人によっては「いまさら」の話かもしれないが。

 第1に、希少資源を奪い合う「生存競争」を抑止し、付加価値を高めるための競争を促進する。政府による基本的生存の保障がなく、市場競争が純粋に「生き残るため」の競争になってしまうと、「俺たちの生活がかかっているのにそんな冒険できるか」と、ビジネスの現場で斬新なアイデアや発想は排除されて、確実に目先の利益を確保できるような旧来のやり方を選択する傾向が強まることになる。純粋に「楽しさ」や「便利さ」を追求する付加価値をめぐる競争を活性化するためには、まずは人々を「生存の恐怖」から解放させなければならない。

 第2に、低生産性の企業に労働者が滞留することを防ぎ、生産性の高い産業への雇用移動を促進する。失業リスクが高すぎると、「ゾンビ企業」「既得権益」と罵られようと労働者は必死でしがみつくしかなく、逆に失業しても以前とそれほど変わらない生活が保障され、かつ次の雇用への見通しが立つのであれば、そうした衰退産業であえて働く理由はなくなる。現在はよく知られているように、これは「スウェーデン・モデル」と呼ばれるものである。

 第3に、低賃金労働者に依存して利益を得ているような、非生産的な企業の存在を許容させない。政府による生活保障がないために、どんな劣悪な労働条件でも労働者が「生きるため」に甘受してしまう状態は、企業家が利益を生み出そうとする際に、新しい製品やサービスを生み出すことに汗をかく前に、労働者の待遇を徹底的に切り下げて利益を出すという安易な選択を横行させてしまう。「ブラック企業」がその典型であるが、こうした企業の存在を許容することが経済の成長にとってプラスであるはずがない。

 第4に、経済の安定性をもたらす。社会保障がなく生活の資源を全て市場から調達しているという状態は、不況が到来すると途端に生活が行き詰ってしまうことを意味する。そのため、好況の時は「今が稼ぎ時」とばかりに投資が過熱してバブルを引き起こしやすくなり、逆に不況になると既に蓄えた貯金や資産を大事に抱え込むという過度な防衛反応となって、不況が深刻化・長期化してしまう。好況・不況に関わらず、政府によって一定の生活水準が保障されていれば、人々のこうした極端な経済行動は抑制されることになる。

 最後に、市場競争への参加の機会を均等化する。市場競争に富裕層の家庭に生まれた人が優先的に参加できるという不平等を放置することは、健全な競争を阻害することになる。単なる規制緩和だけは、現在資産を持っている人が圧倒的に有利であるという状況を改善することはできないため、保育・教育や職業訓練を中心とする、政府社会保障による市場競争への参加支援が必要になる。現実には完全な機会均等は不可能であるが、だからと言ってそれを放置しておくことは、市場原理の公平性に対する不信感を人々の間に蔓延させてしまう。

 逆に、社会保障経済に貢献するという議論で、厚労省自身も主張していることで賛成できないものがある。

 一つには、「社会保障の機能強化は需要と雇用を生み出す」というものである。需要と雇用を生み出すことが有り得ることは全く否定しないが、なぜそれが社会保障でなければならないかの理由が説明できない。例えば、金融緩和や公共投資のほうが、より強力に需要と雇用を生み出すじゃないかと言われてしまえば、全く反論できなくなってしまう。特に、財源として「増税」というそれ自体は需要を冷え込ませる方法を選択する場合、人に納得してもらうことがきわめて難しいことは、小野善康氏への批判をみても明らかである。

 もう一つは、医療介護が「成長産業」になるというものである。「成長産業」になるということは、価格を上げたり顧客を増やしたりすることができることを意味しなければならないが、貧しい人もサービスの消費者である医療介護で高い価格を要求することは無理であり、さらに患者や要介護者を人為的に増やすことは(現実的にという以上に倫理的な問題として)不可能である。成長産業になると言うのであれば、民営化にまで言及しないと筋が通らないし、民営化が好ましくないと言うのであれば成長産業として見るべきではない。

 こうした社会保障には経済効用があるという議論は、社会保障費を削減すべき、あるいはもっと民営化すべきという経済学者エコノミストへの対応も含まれているのかもしれない。しかし、そうした無理な議論を展開して自己撞着に陥るよりも、経済的な目的とは無関係に政府が国民の生存権を徹底的かつ無条件に保障することこそが、結果として経済の安定と活性化の双方に寄与するという視点をとるべきだと考える。

(追記)

なお、生産や消費で測った経済規模の拡大よりも、福祉の充実に価値を見出すことを経済学では否定していない。福祉がいかに人間的に重要かを道徳的に説く方が、下手に経済規模の拡大に貢献すると言うよりも、より経済学と整合的だと思う。

http://www.anlyznews.com/2012/09/blog-post_9.html

 素人の思いつきを丁寧に読んでいただいて恐縮だが、以上の議論は社会保障経済に対して貢献する要素があるとしたらどこにあるのかということで、自分自身もナショナルミニマムの保障は、それ自体は経済的な効用を度外視して行われるべきだと考えている。

 問題は、だからといって経済との関係を考えなくて済むようになるわけではないことである(社会保障論の業界内ではそういう振りができるが)。もともと、福祉国家の考え方は「苦汗産業」の撲滅と失業問題の解消を出発点としており、現在からみると少々粗っぽいところもあるが、自分は最近の小難しい社会保障論よりも、このあたりの古臭い議論に共感することが多い。

 これは価値観の問題に属するが、自分は市場はその守備範囲を「得意分野」に限定してあげたほうがより活性化する、という考え方が基本にあり、おそらくこの点で「資源配分の9割は市場でうまくいく」と言い切ってしまう経済学系の人たちとは相性が良くないところがある(自分は5割強ぐらいだと思っている)。ブラック企業の問題も「情報の非対称性」の問題とする傾向があるが、自分もこれは納得できない。そこでは、ブラック企業で体を壊して働くほうが失業状態よりもましという、悲惨な選択をさせられている現実があるのであって、そうした現実の条件を変えていくことが第一だと思う。

*1:この点で自分は割と古典的な福祉国家論者である。社会保障論のテキストだと、1970年代後半以降に「福祉国家経済成長との幸福な結婚は終わった」と書かれていることが多いが、これは全く不適切な表現だと考える。社会保障制度の基礎が「雇用」にある以上(年金問題の根本解決も要は雇用所得の増加である)、福祉国家経済成長は「離婚を許されていない夫婦」のようものとして理解されるべきだろう。その点で白書に「雇用」の重要性があまり強調されていないことは、不満の残る点である。

2012-07-16 お詫びと言い訳 このエントリーを含むブックマーク

 禁欲すると宣言しておくながら全然出来なかったことをお詫びします。いろいろと誤解を招く言い方が多かったようなので、ほとんど繰り返しなのですが、批判的なコメントをいただいた(ごくごく少数の)人に対して、言い訳というか私の意図をもう一度最後にまとめておきます。

 まず、私が何度もくどいほど言っているのは、増税反増税を政治的な対立軸とする限り、どちらに与しても緊縮財政路線を後押しすることにしかならない、ということです。「増税」を掲げるのはもちろんこと、「増税反対」を掲げても「まずバラマキ政策をやめて政治家官僚が身を削るべき」という圧倒的な声に回収されてしまうわけで、野田政権自民党の緊縮増税路線を批判したいなら、「反増税」ではなく真正面から「反緊縮」を掲げるべきと言っているわけです。その意味で、私に批判的にせよコメントを付けていただいた人が、その後も相変わらず「増税反対」ばかりを言っているのには正直脱力してしまいます。

 私は野田政権増税策に反対すべきではない、などとは全く思っていません。あくまで需要と雇用の創出という「反緊縮」を前面に掲げて、その文脈で語られる増税反対論(まさにクルーグマンのような)には賛同しています。赤字国債で財源を作るという主張であれば、それを真正面からタイトルに掲げてくれればいいのです。私が批判しているのは、あくまで増税批判が自己目的化し、文章の中から需要や雇用といった文字が消滅してしまっているような議論です。ちなみに、増税財源で福祉関連の分野を中心に政府雇用をつくる、といった政策は経済や景気の問題とは別に普通にあるべきだと思います*1

 次に今回の5%の消費税増税が、他の需要喚起策を全て無に帰するほどの壊滅的な影響を及ぼすという前提での議論が目立つのですが、これは即刻やめるべきだと思います。98年以降の不況を見ても、公共事業や公的雇用の削減、金融引き締め政策、社会保障支出の抑制、規制緩和政策の断行、社会保険料の負担増などなど、デフレ不況を引き起こした可能性のある緊縮政策がたくさんあるなかで、消費税増税だけが突出した原因であるというのは、いくら読んでも説得されません。また消費税の景気に対する影響は専門家の間でも見解がばらばらで*2、傍から見ると不毛な神学論争を招くものでしかありません。この問題はとりあえず脇に置き、一つの原因のみを過大評価することなく、需要と雇用の創出に悪影響を及ぼす可能性のある全ての緊縮的な政策に対して批判的に接する、という態度があるべきだと思います。

 私がもし「増税容認派」に見えるとしたら*3増税が回避されたときに「事業仕分け」の徹底化などの歳出削減圧力が一層激化する(ほぼ確実の)可能性を真剣に心配しているからです。財務省増税策だけではなく「事業仕分け」も主導しているわけですが、当然増税策が回避されれば「事業仕分け」に全力を尽くすようになるでしょう*4。特に歳出削減は、必ず緊急性が低く声の弱いところ(つまり若い世代の低所得者)にしわ寄せが行きますし、2000年代の社会保障抑制で最も「痛み」を蒙ったのがシングルマザーや障害者(とその家族)であったことは記憶に新しいところです。

 消費税は質の高い再分配を可能にする税制というのは自分の持論で、これは「消費税は再分配に不適格な税制」という議論が散見されたことへの異論でしたが、当然ながら現行の文脈では野田政権の緊縮増税策への賛成と読まれてしまうので(まあ読まれてしまっても別によいのですが)、今するべき議論ではなかったかなと少し反省してします。ただ今から消費税増税を撤回させるより、逆進性を根拠に再分配強化を訴えるほうが、単純な垂直的再分配よりも人々が納得しやすく、将来へのさらなる再分配の機能強化につながると考えているのは確かです。

 最後に、需要と雇用の創出に関心を持つ相対的に少数の人々の間で、金融公債・税などの手段の次元での不毛で感情的な論争が多すぎると思います。「デフレ脱却」は誰もが唱える合言葉にこそなりましたが*5、それに対応した政策はほとんどなく、テレビを見ていると未だに緊縮財政再建策と「成長産業」(あるいは「グローバルな競争に打ち勝つ人材」の)育成策の組み合わせで経済を立て直す、という「構造改革」的な意見が依然として跋扈しています。金融緩和によるインフレの誘導、赤字国債による財政出動、税を通じた社会保障の機能強化を唱える人々が、それぞれの手段へのこだわりを持ちつつも、「反緊縮」で連携していく姿を切に望みます。

*1小野善康氏の間違いは、これがデフレ脱却経済成長のエンジンになる、と言い切ってしまったことにある。税を通じた社会保障の機能強化こそがデフレ脱却を可能にするという社会保障論者によくある主張も、意図や問題意識は全面的に共感するが、社会保障マクロ経済の関係はもっと慎重に議論されるべき、というのが個人的な考えである。

*2:理由は良く分らないが、日本の経済学会の中心にいる人ほど影響を小さく見積もる傾向がある(消費増税はあくまで一里塚 吉川洋・東大教授に聞く 消費税率引き上げが日本経済に及ぼす影響/伊藤元重(東京大学大学院経済学研究科教授)。吉川氏や伊藤氏の方が正しいとは思わないが、こういう経済学の教科書も書いている権威のある(時の政権政党が否応なく尊重せざるを得ない)人に対してなすべき批判が、「増税で日本経済壊滅」という批判ではないことは確かである。

*3:見たい人は別にそう見ても構わないが、単に軽蔑するだけ。

*4:前者では財務省を厳しく批判する人が、後者に関しては割と寛容なのがよくわからないが。

*5:これについて、菅前首相の功績は公平に評価されるべきだと考える。「・・・私もこの間、ここでの議論やIMFなどのいろいろなレポートも読んでおりますけれども、やはり何としてもデフレの脱却なくしては、逆に財政の再建も非常に困難度が増す。全部が卵と鶏というか因果関係がありますけれども、同時並行的にぜひとも日銀にもデフレ脱却の努力を一層していただきたい、こう期待いたしております。」(平成22年02月22日衆議院予算委員会

2012-07-03 当たり前の政治が欲しい このエントリーを含むブックマーク

 現在、「増税」をめぐって政界再編が起きようとしている。民主主義の政治において重要なのは適切な争点の設定であるが、まさに「増税」ほど不適切な争点はなく、日本の政局の混乱および政治(という以上に民主主義への)不信、政策の停滞の元凶であると断言してよい。

 ブログツイッターなどで発言力の高い経済系の人が増税策に反対しているのは、消費税増税の景気や財政に対するネガティヴな影響の問題である。そうした問題は「科学」に属するので、学問的なスキルを身につけた専門家同士で冷静に議論してもらうしかなく、そこに政治的な判断の入り混む余地はなく、当然ながら選挙の争点にもなり得ない。

 そうした専門家で議論されるべき増税の問題が、政治の争点として前面化するとどうなるか、既に日本の現実が語っている。社会保障はもちろんのこと、景気や財政の話ですら重要性がなくなってしまい、「国民は我慢して増税を受け入れるべき」か、それとも「増税の前に政治家官僚が身を切るべき」かという、科学的に決着をつけるべき問題が、誰が我慢すべきかという不毛な精神論の問題になってしまう。そうなると、専門家の間で出した結論がひっくり返されたり、あるいはたまたま同じだったとしても、実際に遂行される経済政策社会政策は全く期待したものでなかったり、ということにならざるを得ない。

 社会保障問題で増税に賛成している人や、デフレ脱却への関心で増税に反対している人は、まずは足もとの政治勢力や世論をじっくりと眺めるべきだろう。そうした「増税反増税」という一点では共有している勢力や世論の声が、自分の関心とあまりに隔たっているということはすぐに理解できるはずであり、ゆえに「増税」をめぐる政策論争政局がそもそも不毛なものでしかない、ということもただちに認識し、そうした不毛な政局から撤退しなければならない。

 さらに言うと、科学という「真理」を追究すべき問題を政治の争点にしてしまうと、政治的な敵対者は価値意識や利害関心の違いではなく、「真理ではない」ものとして抹殺の対象になってしまう。人種主義や共産主義というと、今は単なるイデオロギーに過ぎないが、その当時信奉している人たちにとっては、誰にも否定的できない立派な「科学」および「真理」であった。そうした「真理」が全面的に政治化したことで民主的な政治が破壊され、その後に官僚主義による専門家専制支配が打ち立てられたわけである。

 もちろんファシズム共産主義の歴史は極端だとして、たとえば「デフレ不況下の消費税増税経済を破壊する」(逆に「早く増税しないと国債金利が上昇して財政破綻する」)という認識が全国民に広く共有され、そうした認識に基づく政権ができたとしても、それは既に民主主義の社会ではないだろう。そこにおける政治的な敵対者は、政治信条や利害関心の異なる(がゆえに尊重される)者ではなく、「真理を理解しない者」(ゆえに軽蔑すべき者)になってしまうからである。科学の問題は科学の土俵において「民主主義」が行われるべきで、政治の土俵において行われるべきではない。

 財務系の学者や政治家が緊縮増税を訴えるのは不愉快だが仕方ないとして、問題は反対する側が、彼らのつくった土俵に安易に乗っかって「反増税」で応酬してしまったことで、需要喚起・脱デフレ社会保障の機能強化という「反緊縮」の問題が争点から消えてしまったことである。政治において敗北というのは勢力の多寡で負けるということではなく、自分が選択すべき争点が消えてしまうことである。たとえ少数派だとしても、「反緊縮」を訴える足場がしっかりあることが重要であるにも関わらず、「反増税」論者は「デフレ下の増税は税収を減らす」という(当然論戦にかけては百戦錬磨の財務系の人も織り込み済みであろう)批判ばかりにかまけてしまうことで、その足場を自ら解体してしまった*1

 緊縮や反緊縮という以前に増税阻止が重要なんだという人がいるかもしれないが、それは全面的に間違っていると考える。そういう増税政局への加担が増税阻止すら実現できず(よしんばできたところで泥沼の道でしかなく)、かえって「増税派」を政治的に結束させ、増税派反増税派ともに緊縮財政派の一人勝ち状態になってしまっていることは、既に現実が証明していることである。自分は諸外国と同じように、「緊縮/反緊縮」あるいは「保守リベラル」「大きな政府小さな政府」を対立軸として、政策手段の問題については専門家どうしで冷静に議論してもらうという、当たり前すぎる当たり前の政治を希望しているだけなのだが、日本は政策手段の問題が政治の対立軸となって感情的な神学論争に陥っている状態である。

(追記)

 このエントリは「財政民主主義」を否定するものではないかというコメントがあったので、確かにそういう誤解を招きやすいところがあったが、財政民主主義は税負担の公平性をめぐる討論や合意に関して意味を持つ概念であって、消費税増税の景気に対する影響うんぬんという問題は民主主義で討論かつ選択できる問題ではない。少なくとも、専門家の間で決着のつかない問題を政治に決断してもらう、などという倒錯は論外としか言いようがないだろう。もちろん、「これ以上消費税が上がったら商売できない」という小売・自営の人たちの声はあって然るべき(個人的にはこういう声こそが重要)だが、それに対する政治的な応答が「増税阻止」だけであるはずがない。

 そもそも、税負担と再分配をめぐる公平性の問題が争点化するという財政民主主義が機能していれば、当然ながら「大きな政府」(普遍的な社会保障)か「小さな政府」(残余的な福祉)かという対立軸に緩やかに収斂していくはずであるが、いまは税負担の問題が過剰なまでに争点化しているのに、「財政民主主義」が全く機能していない状態である。というより、専門家の間では一年十日の感情的な神学論争が飽きずに繰り返され、世論では国民が負担を我慢して甘受すべきか政治家官僚がまず身を切るべきかという水準の議論にとどまっている(というよりその水準で議論する以外にない)。しかも、この二つの次元の対立が最悪の形で絡み合って、まるで数パーセントの増税が日本の命運を決するかのような、あるいは人間の良心や知性そのものが問われるかのような、異常な物言いが跋扈している状態である。つまり、「財政が破綻寸前の厳しさのに増税に応じないわがままは許されない」と、「増税したら経済が崩壊するのに官僚は身を切る前に国民に負担を押し付けて既得権を守っている」という、健全な政策論争など望みようもない対立構図になってしまっているわけである。さらに悪いことに、双方とも世論の支持を得ようと「身を切る姿勢」の緊縮削減策に邁進し、反緊縮と社会保障の具体的な問題を後景に追いやってしまっている。

 「反増税最大公約数」というのは、もちろんよくわかるけども、それはあくまでネット上の経済論壇の話であって、テレビの政治討論、国会そして世論など政治の現場に降りていけば降りていくほど、反増税論は「増税の前にやるべきことがある!」という、景気の問題とは何の関係もない(緊縮財政志向の)話が主題となっており、そういう政局や世論の関心の前に需要喚起策や脱デフレの話が押しつぶされてしまうことは確実である。むしろ増税すべきか否かという、財務省の中でのみ公約可能な対立軸で、自分たちの政策を無理にを公約しようとしたことが、全ての間違いだったと言ってよいだろう。自分は反増税を言うべきじゃないと言っているのでは決してなく、ちゃんと本来の関心である「反緊縮」の文脈を前面に出してほしいと言っているだけである。

 

 これまでも、増税を政治の争点にすべきではなく、需要創出に関心を持つ人たち(社会保障論者を含む)が金融公債、税などの手段を超えて政治的に連携すべきと主張してきたのだが、ほとんど理解・共感されたことはない。また泥沼にはまって無駄な時間を費やしていくいくだけなので、もうこれ以上は禁欲してこの話題は二度と書かないことにしたい*2


(財政民主主義に関するメモ)

 すいません禁欲できませんでした。これはメモということで言い訳。

 財政民主主義的な観点で言うと、国民全員が等しく負担と分配の関係に参加する「普遍的」なものと、負担する層と受給される層がそれぞれ相対的に限定されるべきという、「残余的(選別的)」なものの対立となる。そして「普遍的」なものと「残余的」なものについても、再分配の規模の大小で、「大きな政府」「小さな政府」に分けることができる*3消費税が「普遍的」という違和感がもたれるかもしれないが、国民全員が均等に税負担に参加しているという根拠付けに親和的な税制であるということを意味している。



A 普遍的・大きな政府・・・消費税による社会保障制度の機能強化

B 残余的・大きな政府・・・所得税累進強化を通じて低所得者に分配

C 残余的・小さな政府・・・税ではなく市場や非政府組織による公共財の配分

D 普遍的・小さな政府・・・消費税による財政再建や企業負担の軽減



 補足しておくと、「残余的・大きな政府」は中間層以上に対する福祉給付が少なくなる体制であり、「残余的・小さな政府」は貧困層障害者などに対しては政府の再分配を充実させる(ことを論理的に否定しない)体制である。この四つの対立軸をめぐって3つぐらいの政治勢力が収斂していくことになれば、財政民主主義が機能していると言うことができる。日本でこうした対立軸に沿った政局が形成されないのは、増税策の是非が税負担と分配とのあるべき関係がどうあるべきかという問題ではなく、(1)社会保障の恒久的財源の根本的な不足、(2)慢性的デフレ不況、(3)「税金の無駄使い」に対する行政不信といった、「翼賛会的」*4な問題意識を背景に展開され、必然的に反対派の立場を最初から議論以前の「あり得ない」ものとする主張が優勢になってしまっているためである。

*1:もっとも反増税論者が、究極的には財務省とおなじ緊縮財政派であるというなら別に矛盾はない。

*2:と宣言しておかないと、また追記を重ねる悪癖に陥るので。

*3:これは便宜的なもので、個人的に「大きな政府」を掲げる場合はAの立場のみをさしている。

*4:(追記)増税策に対して反増税派から「翼賛会的」という批判があったが、事実として「翼賛会的」な状況があったとは思われない。こうした批判が意味しているのは、増税派反増税派双方が、相手側の主張がそれなりの理由や正当性を根拠にしているという可能性を全く勘案していないため、「翼賛会的」という批判でしか応酬できないという事実である。「野田首相財務省操り人形」など、相手を無知や利権で批判するような人格攻撃が吹き荒れたのは、そもそも増税の是非という争点自体がそうした人格攻撃を必然的に招くのである。当然ながら、こうした批判から交渉を通じた妥協や調整といった余地が生まれるはずがないので、優勢に立った側が相手側の主張を全否定して「数の論理」で押し切ってしまうことになる。これは押し切られた側から見れば確かに「翼賛会的」であるということになるが、逆に一度自分が優勢に立ったならば今度は相手側から「翼賛会的」と批判されることになることは免れない。こういう「翼賛会的」な問題を争点とした政局におかれた政治家は必然的に、メディア上ではポピュリスティックな物言いを繰り返して世論感情に訴えつつ、国会では「数」を確保するための、なりふり構わない醜い政治手段が横行することになる。今回自民公明が「一体改革」法案に賛成したのは、増税という自らも掲げている「汚れ仕事」を民主党に被せ、しかも小沢派と分裂させて勢力を弱体化させ、次の総選挙で勝たせてもらうという、見え透いた政局目的以外の理由は何もない。なお社会保障論者があらゆる増税策に好意的になるのは、反増税派の経済学者にとっては苦々しいことであろうが、これはほとんどデフォルトだと理解してもらうしかないだろう。「ペイアズユーゴー」とか、そういう小難しい話では決してなく、日本における税負担が低いことで現役世代を中心とした社会保障(特に教育と雇用・労働関連)が切り崩されていることは、現実の政治過程で厳然と起こっていることである。

2012-06-26 再び反緊縮派の立場から このエントリーを含むブックマーク

 「社会保障と税の一体改革」関連法案が衆議院を通過したが、「増税」をめぐって政局が大混乱に陥っている国は、おそらく日本だけではないだろうか。ギリシアでもフランスでもアメリカでも、争点になっているのは「緊縮」の是非であって増税ではなく、むしろ世界の反緊縮派は(経済学者も含めて)富裕層増税を掲げている。日本の「増税反増税」は「緊縮/反緊縮」と緩やかにすら対応するものではなく、「増税しないと財政破綻」と「増税の前にやるべきことがある」の対立にすぎない。それぞれにおいて優勢なのは、公務員人件費を筆頭とする歳出削減を志向する緊縮派であり、反緊縮派はその中の少数派に甘んじて(というより甘んじているという自覚すらなくて)、政治的な勢力としてはまさに「存在しない」状態になっている。

 野田政権のように「財政再建」の文脈を強く押し出す形の増税策は、つまりは国民に「我慢」を要求するということになり、そうなると官僚国会議員に対する、「増税の前に身を切る努力をしたのか」という不満や不信の声を高めていくだけであろう。財政再建的な増税策は、景気に対する影響という以前の問題として、人々の税負担の不公平感に対してきわめてネガティヴな作用をもたらす危険性が高い。特に2年前は「増税しなくても無駄を削れば財源はある」と豪語していた政権による増税策なのだから尚更である。しかし、だからと言って増税に反対すべきだ、ということでは決してない。もし増税を回避すると、今でも財源不足で深刻な教育や福祉の現場における歳出削減圧力がさらに強まることは、火を見るより明らかだからである*1。それは特に、緊急性の高い高齢者向けよりも、若者向けの支出がターゲットにならざるを得ず、教育や雇用社会保障の不足は格差・貧困の再生産を悪化させることになることは容易に理解できる。

 このように、本当に不況や貧困の問題をなんとかしたいと思っている人なら、「増税」や「反増税」をタイトルに掲げた政策論がいかに無意味で危険か(さらに言えば福祉国家論者や経済学者自己満足でしかないか)、ということが理解できなければならない。たとえば、脱デフレのための需要創出に関心のある人が「反増税」を前面に掲げてしまうことで、「負担を押し付ける前に無駄削減の努力を」「まずバラマキ政策をやめるべき」という、緊縮志向の反増税世論に埋没してしまう(実際そうなっていた)わけである。本当は少数派になってもよいから、「反緊縮」「需要喚起」を掛け声にしたほうが、本来の政策を世論に向けてよりアピールできたはずなのだが、そうした人はほぼ皆無であった*2

 個人的には、税率は社会保障費の水準に応じて自動的に決まる仕組みにして*3、政治の争点を増税ではなく社会保障給付の水準と中身をめぐるものにすべきだと考えるが、どうも下手に経済や財政を勉強している「頭のいい人」ほど、増税をめぐる不毛な政局の罠にはまってしまった傾向がある*4。しかし増税策が決まった以上は、反緊縮・需要創出という本来あるべき(はずの)主張が全面に出て、金融緩和・財政出動社会保障の機能強化が一体となった形の政策論が展開されることを望みたい。

 (追記)

 「反増税」派の議論を眺めていると、社会保障費の削減・抑制に賛成の人が意外に多い。彼らは資産を持っている高齢層をイメージしているのかもしれないが、社会保障費の削減というミッションを厳しく与えられた官僚政治家がどうするかといえば、緊急性が低く政治的な抵抗も弱い現役世代向けの社会保障の削減という手段に出ることは、容易に想像できることである。2000年代前半の社会保障費の抑制を最も厳しく被ったのは、都心に高級マンションを買う高齢年金生活層では決してなく、看護師介護士、シングルマザーそして障害者などであったことは、誰の目にも明らかである。増税策を批判しようとするあまり、こういう普通の想像力を働かせようともしない人たちには、本当に憤りを感じる。

 さらに、自民公明が要求する公共投資に対しても否定的な人が多く、中には増税するならすべて債務の返還に回すべきと挑発する反増税論者もいる。消費税に比べて、社会保障公共事業の削減は需要の冷え込みに影響を与えないという論理や実証的な根拠は専門家にまかせるしかないが、いずれにしても需要と雇用の創出に悪影響を与える可能性のある政策には総じて批判的に接するべき、という自分の反緊縮的な立場とは全く相容れないものである。

 あと逆進的な消費税社会保障に不向きという意見が相変わらずあるが、何度も書いてきたように、(1)低所得者にも税負担の対価として福祉給付の権利があるという根拠を与える、(2)現代の社会・経済において徴収の効率性と安定性が高い、(3)逆進性があるとしても給付面で考慮すべき、という三つの観点から社会保障に適しているというのが自分の(という以上に社会保障論者にとっては割と当たり前の)主張である。特に自分が重視しているのは(1)で、人間に感情というものがあってそれを強制的に抑圧しない限り、垂直的な再分配に誰も不満を抱かないなどということは有り得ない。というより、再分配の問題を真面目に考えていれば、こういう議論に必ず突き当たって、消費税に反対するにしてももう少し深みのあるものになるはずなのだが、相変わらず視野狭窄で軽薄な批判しかないところを見ると、再分配の問題に対して今まで大して関心がなかったのだろう、としか言いようがない。

 最後に、「経済成長」なしに財政再建社会保障の機能強化もできるはずがない、ということは言わずもがなである。ここで「経済成長」を敢えて言わないのは、専門家に遠慮して素人談義を避けるというのもあるが、それを真正面から否定している人はさすがに見当たらないからである。

*1:当然ながら湯浅誠氏を筆頭に、若手の貧困・福祉の現場の人たちの議論も、政府による過度な干渉や規制を批判するものより、政府の公的な支援が不足していることを訴えるものが圧倒的多数である。増税が回避されると、こうした分野に新規の(かつ恒久性の高い)予算がつけられることはさらに絶望的になる。あるいは、「派遣村」のような運動でも起これば特定の分野の予算は増えるが、それは貧困関連の予算増が教育・研究の予算を圧迫したように、貧困解決のための予算獲得の運動が、他のセーフティネットを掘り崩して貧困の再生産に加担してしまうという皮肉な事態が起きてしまうわけである。

*2:あるいは、増税批判は世論をひきつけるための戦略だったのかもしれないが、明らかにそれは大失敗であり、むしろ「野田首相財務省のあやつり人形」などという、反増税派の品のない紋切り型の批判にウンザリして、「増税派のほうがまだ真面目に考えている」と判断した人も少なくなかったように思う。

*3:(追記)「社会保障社会保険料で賄う、という大原則に立ち戻ればいいだけ」という反応があったがhttp://twitter.com/adachiyasushi/status/217742812966420480、この手の(増税批判のネタとして使われている)社会保険方式論者の誤解は、従来の医療年金介護という、安定した雇用を前提とした、病気や高齢のリスクに対する社会保障社会保険が筋だとして、出産・育児職業訓練といった、機会を均等化して労働市場への参加を橋渡しするための現役世代向けの社会保障は、不安定な雇用に対するリスクを前提としているため、社会保険方式を採用できないことである。実際、世界的な傾向として社会保障財源における社会保険の比重は緩やかに低下している。後者の社会保障の必要性が高くなっている以上、税財源による社会保障の高まりは絶対に避けられないと考える。

*4消費税を財源とした財政出動を掲げた小野善康氏と、氏を罵倒気味に批判していた人たちなどがその典型である。

2012-06-07 「施し」から「環境」へ このエントリーを含むブックマーク

 ここのところブログツイッター生活保護の話題に完全に占拠されている状態だが、やはり気になったのは、再分配の「公平性」をめぐる感情の問題がほとんど語られていないことである。実名を上げて「不正受給」を告発した片山さつき氏のやり方は、率直に言って悪質極まりないものであるが、彼女をこうした行動に駆り立てているのは、「働き者の国民年金や、最低賃金より県によっては多くもらえる、正直な働き者がバカをみる」という*1生活保護制度に対する世論の「不公平感」の存在がある。この不公平感自体は決して理解不可能というものではなく、こうした負の感情がどうしてここまで強まってしまったのか、そしてどのようにして「公平性」を回復できるのかについて、真剣に考えていく必要があるだろう。

 一般的に言えば、政府の再分配に対する公平性を確保するためには、より均等な負担に均等な給付を対応させることが原則である。経済格差が存在しても、富裕層が税を負担して貧困者に再分配すればよい、という考え方に私が賛成しないのは、そうした方法は税負担の重い富裕層の政治的発言権をより高めるだけで、分配を受け取るばかりの貧困層に対するスティグマを強化する危険性があるからである。さらに、そうした垂直的な再分配の方法は、給付が受けられるか可能か否かの境界線を明確かつ強い形で線引きする必要があるが、その結果何が起こるかと言えば、境界線上で給付を拒否された貧困者のルサンチマンであり、そして貧困者が給付を受けるための醜い手段の横行である。結果として、貧困者に対するスティグマがより悪化し、社会保障制度への信頼も失墜してしまうことになる*2

 もちろん、日本は既に逆進的な社会保険負担と消費税社会保障費と税収に占める割合が相対的に高く、90年代末以降に累進所得税も緩和されてきた。問題は、負担の逆進化が社会保障の抑制や削減とともに行われたこと、つまり逆進的な負担が再分配の権利の根拠としてではなく、所得の多寡に関わらず国民が均しく社会保障財政の厳しい状況を受け入れて「痛みに耐える」べきだ、という論理の下に導入されてきたことである。均等で逆進的な負担は、スティグマを伴わずアクセスの容易な均等な分配が対応しなければならないにも関わらず、実際は障害者福祉の現場など、「自立支援」の名の下に福祉給付のハードルが引き上げられ、スティグマがより強化されてきたことは周知の通りである。この結果どうなったかと言えば、税負担が高まったのにも関わらず分配が引き下げられた低所得層が、一方では「自分たちは我慢をしている」という自意識を強め、他方では生活保護受給者などの「我慢をしていない」人々に対するルサンチマンを募らせていったのである。

 生活保護受給者へのバッシングを生み出さないためには、人々の人生や生活における政府社会保障の役割をもっと普遍的なものにしていくしかない。旧来の日本の社会保障制度が、男性雇用を通じた企業福祉を中心として、それを専業主婦と家族が補完し、政府の直接的な福祉給付はリタイアした高齢層に相対的に集中していたことは、既に多くの人によって論じられている。政府も現役世代の社会保障を担っていなかったわけではないが、それは経済規制を通じた雇用保障という間接的なものであって、言わば「裏方」としての役割であった。こうした仕組みの下では、人々は企業と家族によって生活が保障されてきたという実感が強く、自ずと政府の直接的な福祉給付に依存することは「よっぽどの事情」がなければならない、というイメージが形成されることになる。結果として、「よっぽどの事情」がないと見られる場合には、容易にバッシングを生み出してしまうわけである。

 そうではなく、出産・育児、進学、就職といった人生の節目節目で政府の直接的な支援を受けることが「当たり前」になっていれば、生活保護受給者に対する視線もかなり違ったものになるはずである。政府社会保障を「家族の絆」と対立させて語る人は依然多いが、そのように考える人が多いのは、逆説的なようだが家族を対象とした政府社会保障が依然として手薄だからである。例えば、育児休暇や介護保険などの政府社会保障による支援を抜きにした「家族の絆」など現実にあり得ないのであって、もしそうした支援がなければ育児介護の負担に耐えかねて(あるいはそうした負担を忌避して)崩壊する家族が増えることは、容易に理解できるはずである*3。「政府に頼らず」に子供を育てて親を介護してきたという自意識の強い真面目な人ほど、当然「扶養義務」を果たさない人に対して厳しい態度をとることになるのは自然である。

 「不正受給」問題で最も間違った解決法は、今自民党が推し進めようとしている、審査の厳格化や親族の扶養義務の強化である。厳格化すれば「本来給付されるべき弱者」*4のハードルがさらに上がり、今まで特に問題視されてこなかった「不正受給者」が、新たに続々と「発見」されていくだけの話である。そして、親族の扶養義務を強化すれば、繰り返すように扶養の負担に耐えられない人が続出して「家族の絆」が崩壊し、そうした風景が「日本の美徳が失われた」という保守派の嘆きや、「自分たちは生活を切り詰めて両親を養っているのに」という人々のルサンチマンをさらに掻き立て、最終的に生活保護制度を崩壊に導くことになるだろう。

 まとめると、生活保護バッシングのような現象を生み出さないためには、均等な負担に対応したアクセス・フリーな(低所得者限定ではない)普遍的な社会保障制度の構築と、人々の人生と生活に対する政府社会保障制度の役割強化を通じて、生活保護などの福祉給付が政府の「施し」ではなく、人々が生きていくために不可欠な「環境」であるという実感を、国民全体が持ってもらうことが必要である*5。しかし今の日本では、政府社会保障が現実に人々の生存と生活から切り離すことのできない厳然たる「環境」になっているにも関わらず、それがあたかも「施し」であるかのような理解が、依然として大きな声で語られている状況である。

(補足)

 累進所得税などの垂直的な再分配は筋がよくない、という私の議論がピンと来ないという人は、飲み会では上司や先輩がより多く負担するのが「当たり前」である、という風景を思い起こしてもらえれば十分である。言うまでもなく、上司や先輩がより多く負担するのは、目に見える形で「上下関係」が存在し、それを維持・強化するためであって、所得の多さで決まっているわけでは必ずしもない。逆に言うと、上下関係が存在しない同窓会の場合に、「自分は貧乏だから会費は他の人の半分にしてくれ」などという言い分が通用するかどうかを、考えてみればいい。

 要するに、上下関係が原理的に存在しない(はずの)国民どうしの間で同様の垂直的な再分配をやろうとすれば、高い負担に応じている富裕層・中間層の不公平感が蓄積されやすいのである。逆に、かつて累進所得税が公平性を確保できていた理由の一つは、富裕層貧困層の関係が単なる所得の多寡という以上の「上下関係」(実質的な権力関係というよりは規範・イメージとしての)*6であったから、と理解することができる。もちろん政府の再分配政策と、飲み会や同窓会は違うと言われるかもしれないが、負担と分配の公平性の感情という問題については、決して不適切な喩えではないと考える。

 できるだけ均等な負担を課した上で、政府の社会サービスへのアクセスをフリーにする、というのがもっとも不公平感を生む可能性の低い再分配の方法である。ただ、再分配を確約できたとしても、低所得者が分厚い層を成している場合は、実際問題として均等な負担を課すことは困難である。だから結局のところ、不公平感を生まないための基本的条件として、野田首相も語っている「分厚い中間層の再建」、つまり安定した経済成長と健全な雇用の創出、劣悪な労働環境に対する規制強化などの政策が遂行される必要がある。

 自分が片山さつき氏を心底許せないと思うのは、生活保護社会保障制度に対する「無知」「誤解」を垂れ流しているからではなく*7、普通に真面目に働いている人が感じているであろう不公平感を利用・扇動して、その感情を貧しい人の再分配を切り下げる政策に誘導していることにある。多分「頭のいい人」は、「自分ばかり損している」という、人間であれば誰もが(特に生真面目な人ほど)抱きがちな卑小な感情の問題にグジグジと悩むこともなく、「ベーシック・インカム」などを掲げて「解決」できてしまうのだろうが、自分は再分配の問題を考えるというのは、まずはそうした世間の卑小な感情にきちんと向き合うことだと思っている*8

*1http://twitter.com/katayama_s/status/210291233820643328

*2ベーシック・インカムを掲げる人もいるが、これは働かずに税金も社会保険も負担せず、給付を一方的に受け取ることに誰も不満を抱かないという、まさに近代的な価値観の根本的な転覆を必要とするものである。スティグマの問題は、現行の社会保障制度の枠組みで十分に対応可能な問題であると考える。

*3:もちろん、「不正受給」をバッシングする人たちの言う「家族の絆」はあくまでイデオロギーなのであって、現実の家族が崩壊しようがあまり興味がないのかもしれない。

*4:もちろんこれは「不正受給」を批判する人の頭の中にしかない幻想である。普通に考えて、生活保護を受給するほどの状況に追い込まれた人は、平均的な勤労者よりも「生活がだらしがない」「人生に真面目じゃない」人たちであろう。

*5:「税と社会保障の一体改革」に不満を言えばきりがないが、それでも今の日本の政治の中で、この方向に半歩でも前に進もうとしているのが「一体改革」周辺であるのも、否定できない事実である。しかし、政治家メディアの評論家もブログツイッターでも、「増税」の是非にのみ異常に関心が集中しており、「一体改革」は消費税増税のための言い訳でしかないような扱いになっている。批判するにしても、まず「一体改革」の成案とその周辺の社会保障論者の著作を熟読すべきところだが、管見の限りそうした誠実な態度を示している人は一人もいない。それどころか、「一体改革なんたら」などと茶化した上で、橋下大阪市長の他愛もない「維新八策」などに真面目に付き合っている人がいるが、本当に唖然とするとしか言いようがない。

*6:このように所得の格差を上下関係としてイメージさせるのに、おそらくマルクス主義社会主義運動が非常に大きな役割を果たしていた。

*7:というより、彼女ほどのキャリアを積んだエリートなら「分かってやっている」「意図的に国民を騙している」と信じたい。

*8:BI論者ほどそうした感情に向き合う粘り強さが必要とされるのだが、世のBI論者というのはそういう感情に無神経な人か、あるいは官僚公務員に「中間搾取」されているという被害者感情を抱えている人か、いずれかの場合が多い。