dora_mのメモ

2009-06-29

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序とテレビ版との比較

前も似たようなことがあったけどひょんなことから書いてたデータが飛んだ。書く気力が一瞬潰えたけど、へこたれずに書くぞ。

破についていえる最初に言えることは、とにかく素晴らしい映画ということ。少なくとも僕にとっては。ついったーだとネタバレ禁止的な空気が蔓延しているので、まあblogでなら言いかと思いこちらで書くことにする。

テレビシリーズの総集編という立場のアニメ映画を見るにあたって

かつてガンダムイデオンヤマトなどの幾多のアニメで行われてきた「テレビシリーズの総集編」としてのアニメ映画。近年ではラーゼフォンエウレカセブンなど。このテレビシリーズと映画とを比べるときに、一番違うのは尺であろう。

アニメの演出とは、テーマ的に何を見せたいか。その上で絵的に何をみせるか。というのが基本である。しかし総集編の映画は、もう一つ何を削るかというのが重要になってくる。単純に考えると総集編映画はTV版原作の焼き直しでしかない。尺が短いということは情報量がすくなくなることと同意だ。テレビ版の時点で必要と考えられて作られた映像を、何の考えもなしに切り貼りしてるだけなら必要ないのである。ただ単に情報量が減るだけだ。

総集編映画を作る際には、テーマを絞る必要がある。テーマとして何をみせたいか。その際に必要なのは、最終的にはどのカットを残すかという問題=どのカットを削っていくかというのが重要になってくる。削るということは描かないことであって、描かないことはその物語の本質ではない。アニメではないが、一例。

柳下 最後のほうで、V.R.Tが「洞窟に行って私が発見したものは……」って言いかけると、尋問間から「いや、そんなこと興味ないから」って勝手に話を切られちゃう。たぶんSF読者は、「なんでそこで全貌を聞かないんだ!?」って皆思うよね(笑)。SF的にはそこが重要なんだけど、この物語ではそれは本質じゃないんだよとウルフは語っているわけです。

SFマガジン2004年10月号 p.70*1

これはアニメにおいても同様だ。エヴァテレビシリーズにおいて殺された加持リョウジ。彼を殺した犯人は未だに不明だ。その理由はあまりに手がかりが少なすぎることでしかないが、その手がかりを描写しなかったのはスタッフらにとって重要なことは「加持が何者かによって殺された」という部分のみということ。語られてない部分は作品にとって意味をもたないのが普通だ。

しかし、総集編アニメにとってはそうではない。原作では描かれていたはずの部分をカットして、なかったことにする。それによって削られたカットは、「今回の映像にとっては無価値」という点ではすべて意味がある。なぜ削られたのか、なぜ削られなかったのか。その点に目をやってみるとテーマが汲み取りやすくなってくる。

また同時に、どのカットを作り直す(新規カットね)という点も重要だ。この場合のアニメ映画は、完全な意味での切り貼りしただけでの総集編ではなくなる。テーマのために新たにシーンを起こすということは、従来のあるカットだけでは語れなかった部分があるということ。そこが単に派手なアクションシーンというときは別の話になるが、そうでない場合は語りたいテーマに必要な絵として捉えて問題ないと思う。

どこが削られたか

どこが新しく作られたか

どこが残ったか

それらを踏まえた上で、原作と比べてテーマがどのように変化しているか。それを考えるのが総集編アニメ映画においては重要なんじゃないでしょうか。

まず、序について

序について長々と語る気力はちょっとないので、サクサクと行きましょう。

序で一番の見所は言うまでもなくヤシマ作戦ですね。同時に一番印象が変わったのもここです。原作でも一つの山場になってるし、基本的に原作と変わりない形を装いたかったこの作品では当然の選択といえるでしょう。

しかしヤシマ作戦をテレビ版と見比べると、面白い違いが見えてきます。

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まず目にはいる部分は、エヴァに乗るのはつらいという点でしょう。ラミエルとのファーストコンタクトの際、テレビ版は撃たれてすぐカタパルトを戻す。それに比べて新劇場版では、ビームのあと、シンクロ率落として、シールド出して……そしたらラミエルが変形してきてシールドごと溶かす超強力なビーム。カタパルト戻してやれよ! と思ってると折りよく「カタパルト戻して」のセリフ。一瞬安堵したのもつかのま、カタパルト、溶けてるよ。な、なんですって……!?どうするのどうするの。その間にも響くシンジ君の「痛いよ! もういやだ! ここから出してよ! 父さん!」の声。つれえ。「プラグを緊急射出して!」お、いいぞ!「ダメだ」ええええええええええええ親父冷たすぎだろどうすんだよ! 「今プラグを――」ああそういうことなの……。

その末での爆砕ですよ。町を大規模にぶっ壊してエヴァを助ける。シンジ君の大変さが身にしみてくるシーンですね。すいませんテンション高まってしまいました。

その後の病室でも、テレビ版なら裸なのを恥ずかしがったりするんですけどもうそんな余裕ないじゃないですか、シンジ君。あんなん乗りたくないよな普通。完全に視聴者はシンジ君の味方です。テレビ版だとなんか勝手な奴だな、と思うことがないでもないのですが、新劇場版においては一切そんなことありません。ああー、あれは乗りたくないよね。テレビ版の10倍以上の時間で描いたビーム照射を見てれば誰もがそう思うはず。

でも綾波は乗ろうとするんですね。なんでって、絆だから。

もう一つの大きな違いが、シンジ君と皆との距離感です。テレビ版のヤシマ作戦て、すごく面白いんですけどメインとして描くのはその作戦自体の面白さじゃないですかやはり。綾波と仲良くなるということもありますけど、尺の都合上作戦自体の面白さに終始してる。

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ところが序では尺をいっぱい使ってキャラクタ、特にシンジ君の描写に時間を使ってるわけです。例えばネルフの人たちの存在。病室から出てミサトに諭されるシンジ君。サードインパクトを防ぐために命をかけているという点。しかし自分たちでは直接エヴァにのって戦うことはできないから、命をかけて君をサポートする。命を君に預けるしかない。シンジ君はその期待に少しだけ応えようと、エヴァに乗る決意をするのです。完全にテレビ版にないシークエンスが出てきました。作品内にてエヴァに乗ることはつらいと描写された後では、こういう理由もなしに乗られてはちょっとリアリティに欠けてしまいます。と同時に、テレビ版だけでは語りえなかったドラマということはテーマに肉薄しているシーンであることと同義であり、このシーンがドラマ的に重要度が高いというのも見えてきます。

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あるいは友人たちの存在。テレビ版6話においてはケンスケとトウジというのは、エヴァを見送りながらがんばれー、と言うだけの存在でした。ところが、新劇場版では留守電を入れてくれます。停電の際にご丁寧にアップで悲しい表情描いてるところと、その留守電を重ねて、二人の不安を描き同時にその不安が直接シンジ君への期待へと繋がっているのです。

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人間関係と呼べるかわかりませんが、電力会社の人らも存分に関わってきます。テレビ版ではネルフオペレーターらが指揮をとる形で電力供給のシーンを描きました。電力会社の人たちは微塵も存在が感じられません。しかし序においては(もちろん指揮下ではあるが)ハッキリと彼らが描写されてるし、それらしき声もいっぱい。

砲撃前のミサイルもありました。あれもリアリティを増加するという意図だけでなく、シンジ君以外の人の手もいっぱいかかっているという描写です。人手=期待。

このようにシンジ君への期待を上手いこと映像として作っているのが、序とテレビ版の最大の違いですね。

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その反動としての不安も表れます。ヤシマ作戦中のシンジ君は常に不安げではありますが、その心情は「綾並ほどの覚悟もなければエヴァを動かす自信もない…」という言葉に全て表れてるでしょう。紛れもない、14歳としては至極普通の反応。そして砲撃の失敗、反撃と描かれます。この不安と皆の期待をなんのために描いたか。作品のテーマ=シンジ君の決意を描くためです。

シンジ君の決意と新劇場版のテーマ

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砲撃後のシンジ君は、その不安が全て発露するように泣き出してしまいます。14歳の少年として泣き出すのは当然のことといえますが、フラッシュバックする友人らの言葉と、ミサトの熱い励ましを受けて、またシンジ君はコンソールに手をかけるのです。このミサトの言葉に「使途に必死に抗う人類」を象徴する形で、働くおじさんたちを見せるのも実にわかりやすい。友人、ネルフの人たち、人類。それら全部の期待をミサトの言葉と一緒に見せることで、シンジ君がレイのようにエヴァンゲリオンに乗ることは=絆でもある、というのを描いてます。わかりやすいが故に感動を産んでいますね。

同時に、フッとこの作品で描きたい部分が見えてきたんです。シンジ君の成長、が今回のテーマだなと思うに到りました。これはもしかしたら僕個人が感じただけなのかもしれませんが……。テレビ版の1話から始まって、最終回、春エヴァ夏エヴァと通して、シンジ君は自身の勝手な都合で乗ったり乗らなかったりを繰り返して来ました。特に夏エヴァで彼が最後まで自らエヴァに乗らないのにはすごいフラストレーションを覚えました。

そんな彼が、他人のためにエヴァンゲリオンに乗ってる。10年間。10年かけてやっと、シンジ君が14歳の自意識過剰なごく普通の少年から、ヒーローに。ロボットアニメの主人公に成長したのだ。

序に対して思うこと

この映画は演出を用いて「シンジ君がヒーローに成長すること」ということを訴えている。これは序自身のテーマでもあり、ひいては新劇場版全体のテーマでもあるな、というのが理解できました。10年かけて庵野さんがシンジ君をどう成長させるか。その点でのみ新ヱヴァはほんとうに感動的になるな、と僕は思ってますし、言っちゃうけど破はほんとうに清清しいまでの感動を得られました。破のエントリもすぐにアップしますよ。

*1:鼎談『ケルベロス第五の首』に謎はない より柳下毅一郎の言葉

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