むくわれたい気持ち

※今回は自分用メモみたいな内容です。先日マンガを読みながら頭の中でモヤモヤうかんだ内容をなんとか言語化してみようとあがいたモノ。
■マンガの展開
最近のマンガはリアル指向なものが多いような気がします。自分が子供の頃のマンガを引っ張り出してきて読み直してみると設定が陳腐だなぁと思う事が多いのですね。現実にありそうな設定の中に巧みに虚構を取り入れる事で作品世界により引き込まれやすくなるのでしょうね。どらねこは昔からマンガが大好きですが、好きなマンガに共通しているのはジャンルを問わず努力が報われて登場人物がハッピーエンドを迎えるという展開です。ご都合主義で偽善的であるのかも知れないのですけど、やっぱり好きなんですよね。
最近は流石にあんまりベタすぎるのは受け付けなくなってきてますけど、基本的にはそんな物語が好きです。最近は子供の絵本を見る機会が多いのですが、やっぱり絵本もそんな展開の物語が多いようです。やっぱり子供には夢や希望を持って欲しいですものね。
■正しい行為
主人公は信念に基づいて行動し、その結果はじめは理解してもらえなかったヒトビトも協力するようになり大団円を迎える。そりゃあ、マンガの中にまでもキビシイ現実と同じ結末をというのじゃ受けないですからしょうがないでしょう。リアル指向のマンガでも多くはそんな展開です。
多くの子供はマンガやアニメなどを通してそんな展開のフィクションを楽しみながら育っているんですよね。この楽しめているというところがポイントなんですよね。善行や正しいとされる行為を行い、それが報われ皆が幸せになるという展開に共感していると謂うことで。でも、そんな彼らも正しいとされる行為を現実世界ではなかなか実行できない。だって自分の利害が関係してきてしまうのが現実世界だから。小さい頃だと、欲求を抑えることが難しいからね。でも、利害があんまし関係無い場合にはとっても優しい行為を見せたりする。親バカかも知れないけど。
■夢を目指してきたけれど
マンガの題材にもなる事の多い責任ある職業についてはみたけれど、現実は違っていた。だって、正論振りかざしたら若いねぇと笑われて、仕事で理想を求めたら空気読めとうざがられたよ。もうちょっと頑張りたいけど身体が持たないし、自分が正しいと思うことは社会のニーズではなかったりするんだ。こんな時憧れの主人公だったら相手を一喝して正しさを遂行するのになぁ・・・なんて。そんな繰り返しでだんだんと周りの人と同じように振る舞うようになっていくのでしょう。それ自体は別に悪い事じゃあないのだけど。
じゃあ、ここで周囲のことはともかく妥協しないで自分の思う道を貫いたらどうなるのだろう。おそらくマンガみたいに上手くいかないし、しかも感謝も何もされない事が多いと思うんだ。自分の期待していた結果でなければ長続きさせるのは難しいだろうから。これは仕事だけじゃなくて、社会生活を送る上でもあることだとおもう。
■目に見える結果が欲しい
そんな現実を見せつけられたら、子供の頃に抱いた気持ちは全部消え去ってしまうの?う〜ん、そんな事は無いと思うんだよね。現実には抗えない事が多いけど、できることなら皆が住みやすくて楽しく暮らせる社会が実現して欲しいとは思っているはずでしょうね。
もしかしたらそう謂った気持ちなどが行動と結果が明確(に見える)だったり構造が単純な社会活動が支持されやすい原因になっているんじゃないかなぁと感じるのですね。(あっやっと本題にたどり着いた)また、現実に疲弊したヒトが自分に出来る何か良いコト、それを考えればあまり難しい話じゃ無い方が受けるんじゃないかとも思います。
例えばこんな感じ

里山や街へ山の動物が出没するのは動物がお腹をすかせているからだ→じゃあエサをあげればよい→山に集めたエサを届けよう

で、動物の生態についての専門家や地元のヒトから反発があった場合に、自分は良いことをしているのに何で非難されるの・・・となる。良いことをしているに怒られるなんて心外だみたいに。
でも、最近ではそこいら辺のところにも深く切り込むようなマンガもあって頼もしい限りなんだけど、そんなマンガでもやっぱりご都合主義なところがあって、主人公の身体を張った努力などで解決、登場人物は納得してめでたしめでたし・・・となるのですね。
勿論、絵本やマンガは娯楽ですからしょうがないのですが、正しい行為には望ましい結果が伴うモノだという構図自体は温存されたママなのですね。

■正しさは報われるモノなのか
そんなのマンガはマンガだよそんなの分かっているでしょ!
確かにそうかも知れない。でも、分かっているからと謂ってかんたんに割り切れるモノでもないのですよね。小さい頃から動物はカワイイ、大切だ、仲良くしようと教えられてきたわけで・・・。テレビ画面に動物がお腹をすかせていたりケガをした画像が流れればかわいそう、何かしなくちゃと思うのは特に不思議はないですよね。深い事情を知らなければ短絡的な行動をとってしまうひとがいても不思議はない。でも、その人達の多くは深い事情を斟酌するような余裕を持ち合わせていることは少ないんだよね。余裕はないけど彼らに何かしたい、何が出来るの?そう考えたとき思い浮かぶのは動物を助ける活動をしている団体を支持することかなぁ、募金とか簡単なボランティアとかですね。そのような団体を選ぶときの基準はやっぱり自分の感情に沿ったモノ*1に成り易いのではないかとおもいます。直接的にみえる個体の命を助けるような方向のものばかり。

■結果は目に見えるモノとは限らない
行動に正解なんて無いのだけど、望ましいと考えられる行動を行ったからと謂って、必ずしも報われるとは限りません。でも、報われていないように見える場面でも本当に報われていないのでしょうか。
たった一つの行動が社会全体を目に見えてよくすることはまずあり得ないことでしょう。では、あり得ないからと謂って誰もやらなかったらどうなってしまうでしょうか、めちゃくちゃになっちゃいますよね。それはほんのちょっとした行為で直接的には世界に影響を与えないかも知れない。でも、その小さな積み重ねがあって社会は成り立っているんですよね。
自分が行ったことは直接目に見える形では還ってこない事が多い、それをもう少しきちんと教える仕組みをつくる事が大切なような気がします。勿論教えられているようなのですが、上手く伝わっていないような気がするんですね。


ちょっと中途半端ですが、どらねこの実力では上手く言語化できないみたいです、今日はこのへんで。
貴方が幸せを感じた事があるのなら、それは自分たちの行ってきた小さな積み重ねが還ってきた証拠なんですよ、みたいな気持ちを持とうかなぁと思いました。

*1:実際に問題なのは、その人達じゃなくて、その人達の気持ちにつけ込むような専門家を装う集団なのですけど、今回はそれを置いときます。