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2011-09-02

とどけたいことば

| 22:15 | とどけたいことばを含むブックマーク とどけたいことばのブックマークコメント

大変な状況だからこそ、お互いの事を信頼し、前向きな遣り取りが出来る事をどらねこは願っています。そんな気持ちで思うところを正直に書いてみました。

■ボクたちはそんな風に社会化された

小さい頃、『知らないおぢさん(人)についていってはイケナイよ』、そんなふうな話をされた記憶があります。知らない人が全部アブナイわけじゃない、中にはイイ人もいるのかもしれないけれど、知ってる人よりアブナイことはたしかです。子どもにはその人がアブナイ人なのかイイ人なのかの判断はとても難しい。だから本当はアブナイおぢさんじゃないのかもしれないけれど、知ってる人より知らない人のほうがアブナイのは事実だから、知らないおぢさんにはついていかないように、と教えることでリスクの回避を図るわけですね。でも、それってつまり、そう教えないと子どもは知らないおぢさんにでもついていくってことだよね。じゃあ、どうして知らないおぢさんでもついていってしまうんだろう?

それはきっと、子どもは自分に対して好ましい(好ましくみえる)態度や対応を示してくれるヒトを信用することにメリットがあるとすでに学習しているからだよね。最初は母親、父親など身の回りの面倒を見てくれる人たち。そして親族や近所に住んでいるヒト、お店の人たち。保護者に抱かれておっかなびっくり、いろんな人と出会っていく。そうして、多くの人がにっこりほほえみ、大丈夫だよ、ほらイイコだね、と声を掛けてくれる。そうしてボクたちは知らない間に社会化されてきた。誰に対しても猜疑心タップリではすぐに疲弊をしてしまうから。人を疑うなんてホントは割に合わないことなんだ。向こうから手をさしのべてくれる人を拒否することは割に合わないってことを、ボクたちは早い内から自然に学習してるんだね。

だから、あえて『好ましい態度を示してくれる人→信じて良い』にも例外があることを示してリスクを回避させる必要があるんだろうね。そんな例外が有ることを学びながらも、ボクたちはおおむね友好的に接してくるヒトに対しては緊張をゆるめ、相手のお話を好意的に聞くように社会化されていった。人間の社会はみんなで協力して一人の力でできることよりも大きなことを成し遂げていくものなんだから、基本的にはお互いの信頼で回っていくほうが効率が良いものなんだよ。

■円滑な社会

自分の周りは敵だらけだ・・・。そんな風に思ってしまうと、ちょっとした事を実行するのにも大変な手間が必要になってしまうだろうね。

店員が話しかけてきた、コイツ僕に不要な在庫品を売りつけようと企んで居るんじゃないか?


財布落としましたよ?知らないオジサンが話しかけてきた。でも、それは僕のじゃない。きっと拾った瞬間泥棒扱いするに違いない。

まぁ、ちょっと極端な例ではあるんだけど、笑顔で話しかけてきた相手を見て、すぐに何かを企んでいるに違いない、みたいに思ってしまうのではとても生きにくいと思うんですよね。でもさ、そこまで極端では無いにしても、一度痛い目にあったら他人が信じられなくなると謂う気持ちはよく分かるんですよ。詐欺師の手口なんてまさに、集団社会を生きるうえで重要な信頼関係を悪用しているわけですね。だから、一度詐欺に引っ掛かったヒトは本当は悪意の無いヒトまで疑うようになってしまうかも知れない。そうやって人を信じられなくなることは、金銭的な直接被害とはまた別の二次被害と謂えるんじゃないかな。

悪意や猜疑心が蔓延する社会だったら、信頼で成り立っている社会活動の多くは円滑に行われない事になってしまう筈だよね。だから、ヒトの善意や信頼を弄ぶような悪徳商法や詐欺に対しては厳しい目を向けて、取り締まることが必要だと思うのも自然だよね。

それでも、『疑わしきは罰する』と謂うようなやり方はスジが悪くて、それって結局権力が猜疑心だけで人を裁く行為だよね。人々が猜疑心を抱く代わりに権力が人を疑いだけで裁くのなら、そっちのほうがもっと怖い。人を罰するのは犯罪を行ったことが明白な場合だけに留められるべき。冤罪ダメっ、なわけ。

だからさ、人の信頼感を損なうような犯罪がなるべく行われないように、自分たち自身が自分たちの為に努力していく必要があるのでしょうね。本当はそんな犯罪を犯そうと思うヒトが居なくなれば一番良いのだけれど・・・。

その為の方法には、法律で取り締まるとか個々人が慎重になるとかあるのだけれど、そうじゃなくって、幼い頃ワクワクした正義の物語を信じる気持ちを、親からニッコリ笑いかけられ安らいだ気持ちを思い出したりして、相手の信頼を逆手にとるような方法は良くないこと!と、思いとどまるようになれたらなぁ、なんて思うんだよね。相互の信頼が喪われた社会は高コスト社会なんだよ、と謂う理解がみんなに共有されていれば、人の信頼につけこもうと思う人も少なくなるかもしれない。

『誰かに騙されるのは騙されるほうが馬鹿なんだ』って言い分は、一見合理的に見えるけど、もっと大きな視点で考えるととっても非合理なんだ。相手が自分を騙すかもしれないと身構え自衛するコスト、相手を信頼出来ないことで協力して行う作業の能率が落ちるコスト、そう謂うふうに考えていくと『騙されるほうが馬鹿なんだ』式の考え方って、無駄なコストを払うのが当然だと言ってるのと同じことなんだよ。

■そんな理由で買ってくれた

僕は昔、接客販売業務をしていた事がある。最初の頃はお客さんに話しかけるとき、緊張してしまいぎこちない笑顔になっていたと思う。慣れてくるとだんだん余裕が出てきて、笑顔に遠慮がちな自信を覗かせながら話しかけるようになった。そうしたら面白いように売れるようになった。

僕は、お客さんからまず必要とする機能をはじめとした要望を聞いてから提案を行った。すぐには満足してくれることは少ないからそうした遣り取りを繰り返した。そうして最後にお客さんを後押しする納得を引き出すヒトコトで購入してもらうことが出来た。こうやって商品を買ってもらった後にはなんとも謂えない満足感が残った。

それとは違い、僕を不安にさせてしまうような事もあった。ある時、高齢の方が買い物に来て、僕は最大限丁寧な接客をしようと優しく笑顔で話しかけた。そうして、こんなのはどうですか?と提案した。そしたら、すぐに購入を決めてくれた。どうして購入を決めてくれたのだろう。

『あんたが薦める商品なら悪いわけは無いと思った。あんた正直で優しそうだから』

その時は嬉しかったと思う。僕の接客技術が受け入れられた、と。でも、今の僕はこの話を思い出してちょっと恐ろしくなる。あの人に必要のないモノを提案したとしても同じように買ってくれただろう・・・と。

それから、僕はずぶの素人の割にはバンバン売りまくった。その様子を見ていたメーカーの販売促進の人が僕に商品券を手渡した。ウチの商品を沢山売ってくれるから気持ちだよ・・・、と。僕は受け取ってしまった。あの商品が良いと思うから薦めたんだ・・・、だからナニモモンダイナイ、モンダイナイと。何で受け取ったんだろう?

それから間もなく僕はその仕事を辞めた。別に罪悪感とかじゃなくて・・・でも、自分には合わないと思った。もし、その仕事を続けていたとして、必要のないモノを薦めないで居られただろうか?

その方は『どらねこさんだから買うんだよ』と言ってくれたけど、僕は本当は『貴方の説明に納得できたから買ったよ』と言われる事を目指していた。その説明を聞いてもらう為に必要な手続きが、相手に受け入れられそうな笑顔と好ましい話し方だったのだけれど・・・その方が欲しかったのは、『説明』じゃなくて『笑顔と話し方』だけだったのかもしれない。

だから僕は、僕の『笑顔と話し方』を信じて『説明』を必要としないような全面的な信頼が怖かったんだと思う。相手の信頼につけこんで自分の成績を上げようなんてワルイ事を考えなくても、僕が必要だと考える物が必ずしも相手にとって必要だとは限らないよね。僕とその方は別の人間なんだから、そんなことまでは分からない。だから僕はキチンと説明してその方自身に判断してもらいたかった。

でも、その方は僕が必要だと言ったら『そうだね、必要だね』って思って買ってくれるかもしれない。多分相手は説明なんて聞いてなくて、僕の笑顔や話し方だけを見て、そこでもう『判断』を終えてしまっていたのかもしれない。本当はその人自身が自分で判断しなきゃならないことを、他人の僕が判断して僕がその判断に責任を持たなきゃならなくなっていた。

僕はそれを仕事だからやっていて、その仕事や能力が評価されて褒められたいと思っていただけなんだけどね。

でもある時ふと考えた・・・その方は僕が必要だと言えば必要だと思ってくれるのだから、全然騙したことにはならないんじゃないの?だったら、その人にたくさん買って貰って売上を増やすことはちっとも悪いことではない・・・、と。だんだんとそんな風に納得をさせようとする自分がいた。この仕事は続けられないな、なんとなくそう思った。


■好悪で判断と合理的に判断

相手に対する印象で価値判断を歪めてしまう事は誰にもあると思う。同じ事を謂われても、○○さんなら受け入れやすいけれど、△△さんからだと反発してしまう・・・みたいな。前段で書いた、相手に対する印象で購入を決めた人はその傾向が強かったのだと思う。

でもね、その方だって全部が全部好悪の基準だけで物事を判断していたワケではないと思う。極端に言えば、いくら相手の印象が良くても、買いに来たモノと別なモノをいきなり薦められたら買うワケなんて無いからだ。その中にはある程度の合理的な判断が存在するはずだ。

判断を行うにあたり、人によって好悪と合理性の寄与する割合が違っていたり、その時のコンディションや何を決めるのかによっても判断の参考基準は変わってくるのだと思う。だからこそ、自分が信じてもらいたい話、妥当であると思われる話を相手に伝えたい場合には、なるべく好悪の判断基準についても働き掛ける努力は続けるべきだと思ってるんだ。

さっきの話で謂うと、たとえばお客さんが何か欲しいと思ってお店に来て、店員の態度が『えっ、そんな事もわかんないの?』『自分のお金を遣うのにそのくらいの勉強もしてないの?』『ちょっとは勉強してこいよ』みたいな冷たく見下したものだったら、誰も買ってくれないよね。そのお客さんが何かを欲しいと思ってお店に来たことは事実なのに、店員の人柄が信じられないから何も買わずに帰ったとしたら、それはお客さんにとってもお店にとっても一つも良い事はないよね。

だから、僕は笑顔と話し方を良くすることは、お話を聞いてもらう為の必須条件なんだと思う。あのお客さんの事でも、笑顔と話し方のおかげで『話を聞いてもらう』と謂う段階までは行っていたのだから、今ならもっと違うことが出来たんじゃないかな。『どらねこさんが良いと言うんなら買うよ』と言われても、自然にご本人に判断してもらうような説明の持って行き方があったんだろうと思う。

僕が『これが一番良い』と決めてそれを薦めるのじゃなくて、いろんな選択肢を用意してきちんとその違いを説明することで、自然にその方自身に判断してもらうことは出来たんじゃないかな。そう謂うふうに説明すれば、少なくともその方が本当に欲しかったものを一緒に探しながら見つけていくと謂うことくらいは出来たのだろう。僕はその程度に人間って合理性を持っていると思うんだ。。


■鏡を見る

そんなふうに人を好悪で判断する事って、『何も知らないお客さん』だけに限ったことなのかな、とも思ったりする。僕自身、その方みたいに僕を信頼してくれるお客さんには熱心に説明しようと思ったり、逆に態度の悪いお客さんにはちょっと不親切な説明をしてしまったり、と謂う事はあったんじゃないか。『おっ、この人ちゃんとわかってるな、勉強しているな』と思うと説明に熱が入ったりね。

『こんな奴には説明してもわかりっこないから無駄だ』『こんなイヤな奴に親切にしたくない』と思う気持ちって態度に出たりするよね。それが相手に伝わることで、説明を聞く気がなくなってもしょうがないんじゃないかな。相手が好悪で物事を判断しているのと同様に、こっちもその相手を好悪で判断している所はあるんだと思う。でも、話を聞いて欲しいと思ったらそれじゃダメなんだ。

僕はこのブログで代替医療やアヤシイ健康法の問題を採り上げることが多いけど、それはそれが間違っているから指摘したいわけじゃない。それが人を不幸にするから、それが人を騙して他人に対する信頼を喪わせるから、僕に出来る限りそれに対抗して阻止したいと思ってそんなお話をしています。だから一人でも多くの人に僕のお話を聞いてもらいたいと思っている。

僕は人間が代替医療やアヤシイ健康法に騙されるのは、その人が合理的な考え方が出来ないからじゃないと思っている。lets_skepticさんがこのエントリ*1で仰っていることなんかまさに僕の考えていた事と同じです。

ひとは意外と合理的で、まがりなりにも合理的な筋道が立たないものを信じるのは難しい。間違った結論に達する過程には、事実誤認があったり、論理展開が間違っていたり、飛躍があったりするもんだけど、信奉者がどのような筋道で信じているのかが重要。多くの場合、信奉者と批判者の一番の違いというのは、暗黙の前提が全く異なることが原因なので、そこまで落とし込むことができたら第一段階成功と考えていいと思う。

状況を全て把握する事なんて不可能だから、全ての場面で的確な判断を下せるなんて事は幻想に過ぎないと思うのね。この過去記事*2でも語ったけど、自分は偶然にその暗黙の前提の違いに気付くことが出来たから、こうやって根拠の無い代替療法やアヤシイ健康法に対する批判めいた事を行っているわけで、根拠の無い言説と気がつかないで、ソレを正しいモノと誤解をしてしている人たちとの違いはそこだけなんだと思う。

だから、まず話を聞いてもらうところから始めなくちゃならないんじゃないかな。同じ目線で話し合うところから始めないと、誰も自分の間違いに気付こうとはしないだろうし、説明するほうだって何処が間違っているのかわからない。頭ごなしに間違いを指摘したって、話を聞いてもらえなかったら意味がないじゃない。

そして、少しでも多くの人たちに話を聞いてもらう為には、対話のチャネルを広くしていかないといけない。その場合、好悪の選択基準をクリアすることって第一条件なんじゃないかと僕は考えている。『自分の話を聞くべきだ』『聞くのが当然』なんて態度の人の話なんか、僕だって聞きたいとは思わないからね。

自分に対して優しく親切に話しかけてきてくれたことで、妥当性の無い言説を信じてしまった人が居たとしても、その人の行動は社会的には批判される類のモノではないと僕は思う。この社会は原則的に信頼関係で回っているんだし、その信頼を踏みにじる悪意が横行しているからと謂って、その判断基準で人を信じるかどうかを判断する行為自体は間違っていないんだから。

■あの事故があってから

去年までと今年では、社会状況が大きく変わっていると考えるのは当然だよね。僕たちは、今の状況で、福島以外の地域では放射性物質についてそれほど厳重な警戒を要する状況じゃないことは知っているし、電力供給以外のリスクがそんなに高くないことも知っている。だから危機的状況なんかじゃないと謂う前提で物事を考えてしまいがち。

たしかに原子力発電所が大爆発して大量被曝したわけでもなければ、致命的なレベルで放射性物質が飛散したわけでもなくて、被害規模は大きいとしても、大勢の人が亡くなるような取り返しのつかない大惨事になったわけじゃない。

でもね、そこに事故を起こした原発があって、未だに事故を完全に終熄させることが出来てなくて、何だかわからなくて目に見えない怖ろしいものが毎日空から降ってきていると謂うことは事実なんだし、ある日突然原発が大爆発して破滅的な状況にならない保証なんか何処にもないことも事実なんだよね。たとえそれがたった1%の確率にすぎないとしてもさ、起こり得ることは事実なんだから。

だから、やっぱり怖い。怖いと思っている大勢の人たちは間違っていないんだし、その意味ではやっぱり今は危機的状況なんだろうと思う。こう謂う時に大事なのは科学的思考だと謂うのは正しいけれど、でもそれだけじゃないんだよね。危機的状況において人間が誰かを信頼する基準って、『その人が正しい事を言うかどうか』じゃなくて、『自分を助けてくれるかどうか』だと思うんだよ。

少なくとも、僕は出来ることなら一人でも多くの誰かを助けたいと思っている。だから、誰かを助けたいと思っている気持ちを信じて欲しいし、その為には僕自身が好悪の判断基準に働き掛ける努力は必要なんじゃないかと思う。

まして今って、とっても怖いのが当たり前なのにその怖さが実現していないから、怖いと言っても理解してもらえないって不満が蔓延しているわけじゃない? だったら、人を信じる基準が『正しいかどうか』じゃなくて『自分を助けてくれるかどうか』『自分の為に何をしてくれるのか』になるのは仕方ないんじゃないのかな。

そして、そう謂う人々が事故が起こる前とは桁違いに増えているんだろうね。以前はニセ科学や代替医療には一部の親和的なメンタリティの持ち主がハマり込むものだったとしても、今はそうじゃなくて、ごく普通のたくさんの人々が、優しく手を差し伸べてくれるかどうかを基準にして騙されやすくなっているんじゃないかな

でも、それってニセ科学や代替医療のワルイ所なの? 優しく手を差し伸べてくれる人を信じて何処がワルイの? 僕たちが誰かを助けたいと思った時に、どうして同じようにしちゃいけないの? そんなワルイ連中は、「話を聞いてもらう」と謂う第一段階を簡単にクリアしているんだよ。そして、人々がそんなワルイ連中を信じてしまうのは、優しく手を差し伸べてくれるのがワルイ連中ばかりだからじゃないの?

なんで僕たちは、困っている人たちに優しく手を差し伸べて、笑顔を向けてはいけないと考えなくちゃいけないのかな。それって人と話をする時に当たり前に必要な手続きなんじゃないの?

■科学的思考法は当たり前じゃない

たとえば科学的思考法を養う為には、そんな人間の基本的な考え方とは別の方法論を学ばなくちゃいけないのだから、学校のような専門的な訓練の場が必要です。今科学的な思考法を身に着けている人たちは、学校にも行かず勉強もしないで人から『正しいこと』を言われただけで『そうか、そうだよな』って納得出来たのかしら。

どらねこは違うと思います。科学的思考法って、tikani_nemuru_Mさんがこのエントリ*3で次のように語っているとおり、黙っていても習得できる類のモノでは無いからです。

個々のニンゲンにとって「しっくりと」くる部分をそぎ落として事実そのものをとり出すことによって成立するのがカガクなのだから、カガクは最初から非人間的であり「しっくりと」くるものではにゃーんだ。

このように、僕が今まで言ってたような人間社会の合理性とは全然別の、人間にとって馴染みのない考え方なのですね。それってコストを掛けて長年訓練して漸く習得出来るものなんでしょ。そんな訓練を積んでいない人たちに向かって、同じように考えろなんて頭ごなしに言って、それで通じると思うなんておかしくないですか?それは科学的思考法を養う為のコストの重要性を軽視する考えなんじゃないでしょうか。

好悪の基準に働き掛けてまず話を聞いてもらうことが必要なのは、その基準だけで相手を支配する為じゃないと思います。それは、多くの人々が当たり前に持っている日常的合理性を発揮してもらう為の入り口なんだと思います。

ニセ科学や代替医療を流布する人々とそれを批判する人々の違いは、笑顔を向けるかどうか、優しく話し掛けるかどうかじゃないんだと思います。そこは同じであっていいし、寧ろ同じであるべきだ。でも、ニセ科学はその基準にしか依拠していないのに比べて、それを批判する人々はそこを入り口にして人々が当たり前に持っている日常的な合理性に訴える、そこが一番違うのだと思います。

『科学的に考えれば自明のこと』と謂う指摘は、専門的な科学の訓練を積んだ相手にしか通じないのは当たり前のことなんです。そして、専門的な訓練を積んだ人は妥当な情報がどれであるかを判断する能力がありますが、そうでない人々に対して科学的なやり方で説明をしても通じないことのほうが多いと思います。

ニセ科学の問題に効果的に対抗するには、大多数の人々が当たり前に持っている日常的な合理性に基づいて正しい情報に辿り着くことを手助けする事が大事なのではないかな。どらねこはそう思うのです。

■おわりに

あなたにつたえたい、でもとどかないことば、それでもとどけたい・・・

僕は以前、とどかないことばと謂うエントリでそのもどかしい気持ちを綴りました。今回のエントリはそのアンサーとして、気持ちを込めて書きました。どうかみんなに届いてほしいな。

ふぃっしゅふぃっしゅ 2011/09/04 11:16 doramaoさん、こんにちは。
doramaoさんのこれまでのエントリーをすべて読んでいるので、おっしゃりたい部分は痛いほど理解できていると思っています。
ネット上でもリアルな人間関係でも、何かを伝え合う時には最初の一歩が大事だととても思います。一言でボタンが掛け違っていくことはたくさんあります。たとえば医療訴訟などの報道を読んでも、きっと患者さんやご家族は医療従事者の態度や言葉を許せなかったのかなという印象を持つことは多々あります。たとえ医学的に正しくてもあるいはそのときの状況でどうしようのない場面(たとえば救急外来に重症の救急搬送がたてこんでいて十分な説明や処置ができなかったなど)でも、感情の部分では納得できない方向へ大きく傾く可能性がありますね。
ただ、私は「不安」をネット上でつぶやいたり記事にする方たちのリアルな状況やその方自身がどういう方なのかがわからないので、なおさら本当に不安なのかなという疑問も感じてしまいます。
デリケートな問題だと重々承知しています。不安な方の言葉を「傾聴する」「共感する」というのは、臨床で毎日向き合っている仕事なので、なおさらなにかちょっと違うようなという気持ちがするのです。
テレビでも震災後は何かあらたなことがあると市民へのインタビュー場面が映されますが、おそらくたくさん他のことも答えていると思うのに「不安ですよねぇ」という部分だけが放送されているのをしばしば目にします。
今、「不安」と表現しているものはどんなことなのだろうという全体像をまず知りたいというところがあります。
福島で実際に放射線量が高めの地域の方たちは、実際問題としての不安はあると思います。関東でも放射性ヨウ素が水道水から検出されり余震が続いた頃は、緊張しましたし不安はいろいろありました。
それ以外の地域でも不安をあおるような報道や情報で、不安にさせられている方たちもいるとも思います。
ただ、震災前でも「不安」の表出はどちらかというと「自信」の一表現なのではないかと感じることもありました。一部の代替療法に傾倒している方たちもそうですね。
それとエントリーには書かれてはいないのですが、「母親の不安」にもものすごく幅があると思いますが、一緒くたにしてそれはデリケートな話題だからと当たり障りのないように接する雰囲気もなんだか違うなと思います。
人間関係の中では声の大きい人が方向性を引っ張っていきやすいという点は、認識しておいた方が良いと思うのです。不安だと声を上げる人の中には、自分が間違った根拠に基づいていることにも気づかずに言葉で表現することに自信がある人がいるのだと思います。
そういう状況の人に己の間違いを気づかせようとするのは、おそらくプライドを傷つけて頑なにさせるだけのような気がします。
合理的な考え方を、ある個人へ向けて説得させるより社会全体へ浸透させる方へ力を注いだほうが良いのでしょうね。そのプロセスは目に見えにくいし時間がかかるものなので、効果はよくわからないのですが。
それと、「自分自身の『母親としての不安』は具体的に何なのか」それは、他のお母さんと一緒の部分もあるでしょうし違う部分もあることを、理解してもらうにはやはり伝える努力とか工夫も必要だと思います。それは震災に関係なく、やはり人間関係をスムーズにする大事な部分でもあると思います。
doramaoさんの文章には、いつも感動します。気持ちの問題をよくさらさらと表現されているので。自分の中のもやもやをちょっとコメントさせてもらいました。

doramaodoramao 2011/09/04 21:03 過去エントリ全て・・・ううっ、なんと嬉しい言葉を・・・。ふざけた記事ばかりで申し訳なくなってきます。
今回のエントリで私は主要な論点については語り尽くしたと思っておりますので、コメントへの直接的な返答は必要ないと思います。なので、ふぃっしゅさんに頂いたコメントで同意や感銘した部分を繰り返させて下さい。
※ ※ ※
>ただ、震災前でも「不安」の表出はどちらかというと「自信」の一表現なのではないかと感じることもありました。一部の代替療法に傾倒している方たちもそうですね。
それとエントリーには書かれてはいないのですが、「母親の不安」にもものすごく幅があると思いますが、一緒くたにしてそれはデリケートな話題だからと当たり障りのないように接する雰囲気もなんだか違うなと思います。
人間関係の中では声の大きい人が方向性を引っ張っていきやすいという点は、認識しておいた方が良いと思うのです。不安だと声を上げる人の中には、自分が間違った根拠に基づいていることにも気づかずに言葉で表現することに自信がある人がいるのだと思います。
そういう状況の人に己の間違いを気づかせようとするのは、おそらくプライドを傷つけて頑なにさせるだけのような気がします。
※ ※ ※
私もそう思いますし、そのタイミングを見計らう為には相手とある程度の期間接している事が必要なのかな、と思います。
じゃあ、具体的には?となるのですが、今のところは、自分から相手に接近するのではなく、カウンターとなる情報を当人や心配するその周囲の方などの目にする場所に掲載する事や、求めたときに手に入る状態にしておく事かな、と思っております。
前から同じ事ばかり謂ってて恐縮ですが、無理をしてもしょうがないから今のところはこの方針でしばらくやっていこうと思っております。

shinzorshinzor 2011/09/07 22:51 はじめまして、お邪魔します。zorori(はてなID shinzor)と申します。
poohさんのところで、この記事をしりやってきました。
実は、とらねこさんの書いていらっしゃることと非常に近い内容の本を少し昔に読みました。
「安心社会から信頼社会へ」山岸俊男 中公新書

いろいろ書いてありますが、前半部分を要約すると、以下のようなになります。

・信頼とは、社会的不確実性が有る場合に相手の人間性や行動傾向から相手が搾取的行動を取らないだろうという期待することであり、安心とは、社会的不確実性が無く(制裁などで搾取的行動が抑止されるなど)相手が搾取的行動を取る心配がないこと。

・不確実性を減らす一つの方法は狭いコミュニティの仲間づきあいに留まる事。それは、安心社会であるが、一般的人間性への信頼が大きいわけではない。外部社会やよそ者への不信感は大きい。日本は安心社会であったが崩壊し始めている。(1999年ごろのこと)

・社会的ジレンマの実験結果からは、日本人よりアメリカ人の方が協力的行動を取る比率が高く、見知らぬ人への一般的信頼が大きい。日本人が集団的協力行動を取るのは、社会的ジレンマのような不確実性がない社会内部でのことであって、他者への信頼が大きいわけではない。

・社会的不確実性が大きい場合には、特定の相手とのコミットメント関係をつくり「仲間づきあい」をし、「よそ者」を避ける傾向がある。このことは実験により確かめられる。

・「仲間つきあい」により、取引費用を小さく出来るが、仲間以外とつきあうことによって得られるかもしれない利益を失っている可能性がある。いわゆる「機会費用」が大きくなる。

・他者に対する一般的信頼の自己申告調査でも日本人はアメリカ人より、他者を信頼する程度は低い。社会的ジレンマ実験での実際の行動も同様。

・他者への信頼が大きいことはお人よしで騙されやすいわけではない。高信頼者の方が、よく知らない他者に関する情報に敏感で他者の行動を正しく予測出来る傾向がある。

・特定の関係にある(よく知った仲間内)相手の好き嫌いや人間関係については低信頼者の方が正確に把握しており、行動の予測も正確。

・低信頼者の安心社会もある社会環境の中では合理性があり、環境が低信頼者を作り、低信頼者がまた、閉鎖的な安心社会(集団主義社会)を強化することになる。しかし、「機会費用」が大きくなると安心社会は崩壊し始める。


10年以上前から、安心社会は崩壊し始めていたわけですが、震災後に一気に進んだような気がします。そこで、信頼社会に向かうのではなく、他者への信頼がますます低くなり、安心を与えてくれるますます狭い安心社会に退却しているのかもしれません。これは「安心」(安全でも信頼でもないが)を与えてくれますが、ますます「機会費用」が大きくなりそうです。

doramaodoramao 2011/09/08 20:04 はじめまして。コメント有り難うございます。
山岸俊男さんは、社会学出身の社会心理学の研究者でいらっしゃいますね。日本人の集団主義は幻想である、と謂うような研究成果も著書で語っていらっしゃいますね。
私のエントリで語っている内容が似ているのは、同じように集団主義は錯覚であると述べている、高野陽太郎氏の著書などを読み色々と影響をうけている事が関係していると思います。
高野さんは、心理学出身の社会心理学者です。二人の共通点は実験等による実証を主眼に置いている点では無いかと思います。
※ ※ ※
日本という大きめの安心社会が縮小へ・・・というのは、もしかしたら自分たちが抱いていた集団幻想が溶けてきた結果、昔ながらのお互いを縛り付けるような小さなコミュニティの集合体である日本が顕在化してきたのかも知れませんね。
山岸さんは欧米的信頼社会こそが例外では無いかと述べておりますが、低コストな信頼社会を構築する術を、探していくことこそ、本当(?)の社会学に求められるものではないか?とも仰っていたように記憶しております。
根拠の無い○○療法や、インチキ商売に引っかからないように・・・という取り組みは信頼社会の実現に向けた行動の一つであるとも考えられますね。ヒトにとっては当たり前でない考え方だからこそ、浸透は難しいのでしょうね。
ルールで雁字搦めで成り立つ安心社会なんて窮屈じゃないでしょうか?じゃあ、どうしたら良いのか一緒に考えませんか?甘いかも知れませんが、このようなモノが共通理解の一歩になるのかな、と思ったりしております。
考える切っ掛けとなるコメントを頂き、有り難うございました。

クララクララ 2011/09/11 10:30 はじめまして。
最近こちらのブログを見つけ、どらねこさんの、強い信念に裏づけされた骨のある意見(日本では貴重希少だと思いますが)、そしてなにより人間に対する真摯で真剣な態度(愛情)どんな相手に対してでも人間の尊厳を尊重される姿勢に惹かれています。
特に今回のテーマ、そして二人の方のコメントに関しては考えることが多く、コメントを入れさせてもらいました。

ドイツ(社会)に住んで22年になりますが、この間、人間と社会との関係、人間同士の関わり方(すみません、言葉が固く抽象的ですが、詳しく書くと長くなるので。)などについては、いろいろと悩み意識して考えさせられることが多いです。
常に、自分の常識との葛藤、そしてまた新たな価値観(常識)の構築、そしてまた葛藤と、新たな世界への絶え間ない挑戦を否応無しに迫られています。
「ルールでがんじ搦めで成り立つ安心社会なんて窮屈、、、、、 じゃあどうしたらいいのか一緒に考えてみませんか?」
と、どらねこさんはおっしゃってましたが、どらねこさん自身には答えの一つが見つかっていてもうすでにそれをブログで実行され始めてるんじゃないかなあと思いました。
つまり、科学的思考法を訓練し、なあなあや場の雰囲気ではなく、純粋な思考によって人間同士の理解を深め、その際には例えば<笑顔>というような感情にプラスに働きかける智恵(愛を前提にした技術)もおおいに役立てる。愛情の存在を大前提にした、でも情に流されない純粋思考力の発揮が、人間相互理解や少しでも多くの人が本当に幸せな生を送ることができる社会の鍵ではないかと、、、そういう信念で、このブログにできるだけ詳しく正確に意見を載せよう(思考力の鍛錬と私たちへ話しかけるという意志力)としてらっしゃる。(ちょっと強引にまとめてみました。私の理解力がずれていなければいいのですが。)

私も、長い間このテーマで苦しみ考えていくうちに、最近では同じようなことを思っていました。
国が違おうと同じであろうと家族であろうと、人間というものはしょせんは個々違う生き物であるというはっきりした意識をまず持ったほうがいい。同じ人間なんだからという幻想は持たないほうがいい。そういう認識から出発して、見知らぬ他者への愛情(普遍的な愛、慈愛)をしっかり基底に持ちつつ、純粋思考力を駆使して、相手を理解しよう私を理解してもらおうということに努力を注いでいくこと無しには、信頼社会は実現できないだろう。
暗黙の了解や慣習と言うルールで運営される小さな内向きの安心社会の中に留まろうとすれば、経済政治通信などのグローバル化の進む今の時代、破綻がやってくるのは時間の問題だし、それが維持されたとしても、それは限られた人達のためだけの共同体でしかなく、そんな共同体同士の衝突はあちこちで避けられずにテロをはじめ大なり小なり不幸な形で世界中にあふれてきている。身近に目を向けても、世代間の確執、地方と都市との関係などで多くの問題が袋小路状態。
人間はどこかの社会(共同体)に属して生きるものではあるけれど、一つの社会内のみで通用する固定された作法で生きようとするには、世界はお互いが何かしら関係せざるを得ないくらい複雑に絡み合い近づき合っている今、とても無理があるんじゃないのか。
だから今の私たちに必要なのが、感情がメインの役割を持つ慣習習慣で運営される昔からの共同体(安心社会)ではなく、いつどこの共同体と連携を組もうともすぐにやっていけるような、共通認識を育める土壌作り、どこででも通用するような確実な思考力を鍛えていくことが、ひいてはこれからの信頼社会につながる火急の課題だろうと切実に思う。
それは、それぞれ皆がそれぞれの生きている場で日常生活の中でできる(されるべき)ことだとも思う。

9月8日のNHKクローズアップ現代「世界を変えた9.11」の中で、東大教授の藤原帰一さんが、
「国際関係は分散拡散内向きという方向に向かうと私は憂慮しています。」
「民主主義は一つの価値ではなく、多様な価値の共存を認める制度です。民主主義は一つの価値であり、他の価値を否定するものだと考えた時、実は民主主義は壊れます。」
という発言をされてます。
残念ながら世界中で、安心社会を求めて内向きになりつつある傾向が出てきているようです。
アメリカの主導で世界を引っ張ってきた民主主義というものが、本当の意味での民主主義であったのか?と今の私たちに大きな疑問を投げかけています。
私たちが行っている民主主義が本当に多様な価値を認める制度になっていく(信頼社会になる)ためには、何よりまず、互いを理解しようという姿勢、知りたいと言う気持ちが必要だし、違うもの同士の理解のためには、感情に左右されることのない純粋思考力が大きく問われてくるでしょう。
そうやって違いの詳細を確認しあった後で、じゃあどうやって共存していけるのか?を一緒に探ること、明るい思考共同作業の元での新しいルール作りが将来常に必要になってくるでしょう。

最後に、ちょっと気になったのは、
どらねこさんが考えてらっしゃる科学的思考法というものが、やっぱりそれはどらねこさんが考えられてる範囲での限られた科学的思考法になっていないかな?ということです。
どらねこさんの騙されてる(そうな)人に対する愛情と働きかけはとてもよく伝わってくるので、代為療法やマクロビオなどなどへの批判は本当の誠意からきているんだなというのはよく理解できました。
でも、世の中にはそんな(人から見たらとんでもな)ものがいろいろあって、それぞれがそれぞれの主張をしており、そしてそれぞれのやり方で存在し、いろんなグループや人たちが千差万別にいるので、ひと括りにして、これはまやかしだなどとは言い切れないんじゃないのかなあ?
そこには、たまたまどらねこさんが知り合った人や向き合い方への疑問、強引なやり方に対する嫌悪感が含まれてないのかなあ?
あるもの(考え)まるまるそのものが間違いで怪しくて危ないのではなく、それを各自がどう受け取ってどう実践しているか?という、ケースバイケース、個人の問題なんじゃないのかなあ?
その人を不幸にしてるのは、とんでもがまがい物であるからと言うよりも、その人自身が問題を抱えてる場合の方が多いんじゃないかな?
人間や自然とは摩訶不思議で、無限に自在変化進化する可能性を秘めた存在なので、現段階の一般常識内の科学的思考(これも、現段階で自明になっている範囲で私たちは考えてるだけであり、将来自明になる事柄だってまだまだあるんだと思っておかないとね。)だけをもって全てが説明できるとはあんまり思わないほうがいいんじゃないかな?
世の中には驚くくらい多様な世界観があって、そのどれが正か誤かなんて、私には決められないです。

でも、なんと言ってもどらねこさんのブログの魅力は、どらねこさんはじめいろんな人が、いろんな意見を思考力を駆使しながら自由に述べることが保障されている(勧められている)ことですね。皆にとって、純粋思考の鍛錬の場になっている!と思います。
こうして温かい思考のやり取りができる人たちが集う場というのはとても貴重で、皆さんの博識には全然及びませんが、そんなブログと出会えたこと、とてもうれしいです。

ちょっとまとまりのないコメントになっていたら、どうぞお許しください!

doramaodoramao 2011/09/11 12:20 はじめまして。記事を読んでくださいまして有り難うございます。
実際のところ、私自身まだ考えがしっかり纏まっておりませんので、コメントしていただいた内容にしっかりとお答えすることは出来ません。アメリカ的価値観の民主主義が本当に民主主義なのか、など色々と興味深いのですが、ゆっくりと考えていきたいと思っております。共同体の衝突という観点から日本を見ると、日本人は集団主義であるというような、国内にも漂う幻想から覚めないと事態は色々と悪化していくのではないかなぁ、といったような漠然とした不安感も持っていたりします。私は国内生活しかありませんが、ドイツでの生活という経験を踏まえてこの様子を見ると、色々と感じ取れる部分が多いのかも知れませんね。
※ ※ ※
コメントについて少しだけ思うところを述べさせてもらいますが、前半についてはだいたい同意です。後半部分についてはおそらく誤解があると思います。
誤解をされそうな発言になってしまいますが、私は個々人にとっての事実というのは確かにあって、それが譲れないもので有る場合が多いこともそれなりに理解しております。なので、ブログでは対抗言論的な記事を載せておりますが、個々人にそれを突きつけるような行動は慎んでいるつもりではあります。
それについては、『小さな子どもが抱きしめる大切なぬいぐるみにあたるものを大人だって持っている』という表現を用いたりします。例えば、猫毛アレルギーに苦しんで、八つ当たりをする人がいたとしても、その人に、じゃあ猫を手放せば?なんていうのは以ての外であるようなものですね。強引に取り上げるような行為は善意であっても許容されないと思っております。
但し、個人の問題で済ます為には、子どもを巻き込まない、他者にむやみに勧めないという事が大切になってきます。他者も薦められるままに受け入れないという事も必要になるでしょう。なので、その判断材料となる言論を掲示している、そんな意味合いです。その中には勿論、私の価値判断が含まれていますけれども。
科学的○○があって自分達がある・・・ではなくて、自分があって、自分が住む世界が愛おしくて、その世界をより良くしたいし、楽しく暮らしたい・・・その為に科学というツールを利用している、そんな感じなんですね。この説明で分かっていただけるかどうかは不明ですが、自分語りをすればこんな感じです。
※ ※ ※
とまあ、色々と考えることはありましたが、これだけコメントを読んで色々考えることは稀ですので、色々と楽しかったです。答えのない問題を考え続けるのもまた辛いけれども楽しいことではありますね。

クララクララ 2011/09/13 01:56 どらねこさん、早速の、とても丁寧な返信をどうもありがとうございました。
大丈夫です。私はしっかりとどらねこさんのご意見、基本姿勢を正しく理解してますよ。返信でのご説明で確信しました。私も基本的に同じ姿勢で生きています。だからこのブログにとても好感を持ったのですね。
確かに、どらねこさんのブログがどらねこさんの経験や価値観から書かれていることは当然なので、私の見方とは違うこともあって当たり前なんですよね。私は一部のニセ科学には本能的に身の危険を感じて近寄ろうとも思いませんが、時に「へえっ?!!」て思いちょっとついて行けないなあと思う理論展開があっても、全体的に見て基本理念が自分に合えば完全否定はしないスタンスでいます。いつか疑問が解明できる時が来るかもしれないと、保留にして暖かい目でまあ見守っていくのです。もちろん、その狂信的な信奉者が他人にまで強制するような態度を(無意識にしろ)取ることは是としませんが。
あと私には、「火は人間に幸ももたらすが不幸ももたらす。どちらになるかは、それを使う人間次第だ。」という思いもあります。博学でない私は、ニセ科学らしきものへ直接アプローチするよりは、人間各自が本当の意味で賢くなるようなアプローチ(個人攻撃とか洗脳とかじゃないです。人間同士の共同作業協同援助です)をできないかなあ?という気持ちもあります。要は、それぞれ一人一人が自分できちんと考えることのできる人間になることだと思います。極論を言えば、騙される方も悪い、です。確かに、危ない思想や科学に騙され押し切られそうな人や子供を見て全く放っておくわけにも行きませんが。
私は、一人一人の意見(価値観)の違いは実は気にしていません。互いにその意見を出し合い、さらに一緒に各自の意見を進化させていくことができればいいと思っているからです。だってそのためにいろんな人間がこの世に生きてるんだもの!民主主義って、そういうことでもあるんじゃないかな?
私が大切にしているのは、各自が自分なりの意見やポリシーをしっかり持つこと、そしてそれを誰に押し付けるでもなく、思考の力を通してきちんと他人とそれを会話でき、かつ相手の自由(存在)も尊重できることです。世の中には、自分の正当性ばかりを「声高に」主張し、他人の意見に耳を貸さない(価値を置かない)人は一杯いますから。或いは、自分の意見を誠実に説明しようとする人に対して、「屁理屈ばかりこねててうるさーい!!」と変人扱いして、黙ってることの方が偉いように振舞う実は思考のできない人もたくさんいますから。そういう人たちに対してはなかなか難しいものがあると思います。
但し思考が、人間に対する暖かい愛情を通して出てきたものでなければ、せっかく正しいことを言っていても単なる高慢にしか受け取られませんね。でも、目に見えるように丁寧に紡ぎ出されるどらねこさんの思考は、背後に暖かい心をとても感じるので大好きです。ああ、でもどらねこさんの狂信的信奉者には決してなりませんから、ご心配なく!
日本語で、こんなにハードな思考をもうずっとしてなかったので、記事を読んで頭の中に浮かび駆け巡るいろんな思いがなかなかまとまらず、きちんと文章化できていなかったかもしれませんね。舌足らずなコメントだったかもしれませんが、丁寧に読んで返信をくださり、うれしいです。
言葉に対して繊細な感覚を持とうと努力し、思考コミュニケーションをしていくことは、苦しい作業ではあるけれど楽しいですよね。
この共同作業に、またいつかお邪魔させてくださいね!

doramaodoramao 2011/09/13 19:33 コメント有り難うございます。
私のつたない説明で理解頂けるか不安でしたが、安心致しました。
コメントの中の
>「火は人間に幸ももたらすが不幸ももたらす。どちらになるかは、それを使う人間次第だ。」
という件や
>人間各自が本当の意味で賢くなるようなアプローチ(個人攻撃とか洗脳とかじゃないです。人間同士の共同作業協同援助です)をできないかなあ?
などは、実際にはどうしたら良いだろう、という答えは見つからないままですが、私も考えている内容です。
>「屁理屈ばかりこねててうるさーい!!」と変人扱いして、黙ってることの方が偉いように振舞う実は思考のできない人もたくさんいますから。
このようなケースはトレーニングを積む機会が無かった事により生まれている部分と、そのままでやり過ごす事のできるような状況がつくっているようにも思うのですね。
これから大変な時代に突入するのはほぼ確実でしょうから、無駄なコストのかかる安心社会では乗り越えられないと思うんですよね。

匿名匿名 2011/09/13 21:25 匿名ですみません。1/3ぐらいまでは、良い話だからツイッターで広めようかと思って読んでいましたがそのあとが長かったですね。常連さんで毎回見ていますという人がいましたが、私は疲れ果ててしまいました。どうにかもう少し短くまとめてもらえないでしょうか。
この記事ではなく今後の記事で。興味あるエントリーがいくつかあるのですが全部この長さだと思うと読む前に辟易してしまいます。

ブログは無料で書き手の人が自由に書いているだけのものですからこちらの要望なんてナンセンスなのは百も承知ですが
読んでもらいたいなら読む側に立つのも売り手の努力と
同じなのではないかと思います。

doramaodoramao 2011/09/14 20:35 一つの意見として読ませて頂きました。
仄めかし程度で終わる素っ気ない記事もある程度過去に書いたつもりで居ます。この記事は今まで考えてきた事をまとめた区切り的なものなので、長文になっています。
確かに読んで頂きたいのですが、無理に短くまとめた結果誤解を招くような事はなるべく避けたいとも考えております。誤解を招かない書き方が出来れば良いのですが、それだけの実力を備えておらず、ままなりません。