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とらねこ日誌

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2012-02-16

欠如モデル関連とニセ科学親和性と予告編

| 11:26 | 欠如モデル関連とニセ科学親和性と予告編 - とらねこ日誌 を含むブックマーク 欠如モデル関連とニセ科学親和性と予告編 - とらねこ日誌 のブックマークコメント

自称ニセ科学批判批判者であるどらねこですが、非常に参考になりそうな記事がありましたので、紹介をしておこうと思います。この記事はちょっとめんどくさい話ですので、おもしろ知識を期待している方には不向きな内容となっておりますので、どうぞご了承下さい。

【PseuDoctorの科学とニセ科学、それと趣味 】

P02-04-2 ニセ科学の潜在的被害者は誰か〜「欠如モデル批判」と「ニセ科学批判」の意外な関係〜

http://pseudoctor-science-and-hobby.blogspot.com/2012/02/p02-04-2.html

批判批判者云々は話半分に聞いていただくとして、上記のブログ記事とも関わる内容の記事を鋭意(?)制作中ですので、その前振りみたいなモノです。PseuDoctorさんの記事を先に読んでいただいていればスムーズかと思いましたので紹介した次第です。


■ニセ科学を信用してしまう/取り入れてしまう人

ニセ科学とされるようなその妥当性が担保されていない言説を受け入れてしまうような場合、その人の知識が足りないからそうなってしまうのだ、と謂うように考えた時期がどらねこにもありました。これについて興味深いモデルの提示と結論(仮定に基づく限定された)が示されておりました。


P02-04-2 ニセ科学の潜在的被害者は誰か〜「欠如モデル批判」と「ニセ科学批判」の意外な関係〜 より

結論としては「社会を欠如モデル批判的に捉えている人の方が、むしろニセ科学批判を熱心に行う傾向がある」と言って良いでしょう。

そのこころは・・・


P02-04-2 ニセ科学の潜在的被害者は誰か〜「欠如モデル批判」と「ニセ科学批判」の意外な関係〜 より

例えば「ニセ科学にハマる人は、むしろ科学に対して不信感を持っている場合があるので、かえって受容度は低いのではないか?」とお考えの方がおられるかもしれません。

科学に対して不信感を持っているとすれば、それは科学に「裏切られた」という感覚が強いからでしょう。裏切られたと感じるのは、元々は受容度が高かったからです。そして、裏切られた時に替わりのものを探してニセ科学にハマってしまうのだとすれば、それはやはり、本質的には、未だ受容度が高い状態に保たれているからだと思うのです。そしてその事は、ニセ科学の中にある「現代科学を超越した画期的な理論」や「海外や著名な学者も絶賛」といった煽りに魅かれる心性にも現れていると考えています。

愛憎が入り交じった状態と謂うのは無関心どころか関心ありありとでも言い換えられるのでしょうか?とにかく興味がなければ知識を仕入れようとすら思わないことでしょう。


P02-04-2 ニセ科学の潜在的被害者は誰か〜「欠如モデル批判」と「ニセ科学批判」の意外な関係〜 より

よりクリティカルな批判としては「ニセ科学にハマるかどうかは、知識量と受容度のみで決まるのではない」というものがあるでしょう。確かにその通りです。特に重要なのは例えば「世の中にはそうそうウマい儲け話などない」とか「欠点が無く利点だけの方法など存在しない」などの「考えるコツ」に相当する部分です。こうしたコツは、知識と相互に補完しあう事で、いわゆる「リテラシー」を形作るものだと考えています。これはとても重要なポイントです。

コツって難しいですよね。勘所を押さえると深い知識を持たなくともそれなりにできちゃう事って多いでしょう。ところで、そう謂ったコツを身につける一つの方法に、コツを上手に使いこなしている人に教えて貰う事があると思います。ところが、知識はあるんだけど科学とかそう謂ったものに複雑な感情を持っている人が科学者とかニセ科学を批判するような人に、コツ教えて!とか、身につけようとか思わないですよね?感情的に反発すると思う。

このあたりが届かない所以じゃ無いかな?と、どらねこは思うわけ。で、最初っから知識も十分で反発はあっても距離をとっている人については関わってこなければ特に言及しなくても良いと思うのはPseuDoctorさんに同感。要するに対立軸を明確に示したり反発を強めようと謂う事をしないなら無関係みたいな感じかな。逆に謂えばニセ科学など妥当性に疑問符がつく言説に対し批判をするような人が、それらの反発を持つ人に言及しているケースではそこからの逸脱*1があると見なしているのだろうと理解できるでしょう。


震災後の状況で実感

そのような事を強く感じるようになったのは、震災後の人々の不安とそれに便乗するニセ科学の問題が見えてきた事が関係しております。それについて言及したのが以下の記事です。


緊急鼎談!震災の不安とニセ科学(前編):ニセ科学問題はどう変わったのか?

http://d.hatena.ne.jp/doramao/20110912/1315825236

この中でPseuDoctorさんが述べている内容とリンクする部分を引用してみます。


どらねこ: それに加えて、ニセ科学にハマる人たちって、どちらかと謂うと平均的な方に比べて向上心が旺盛だったり、勉強熱心だったりするんですよね。そう謂う人たちがツイッターを媒介に情報を収集したり拡散したりしていると謂う状況なんではないかと私はみています。ですから、「ニセ科学にハマるのは情報リテラシー科学リテラシーがないからだ」と謂う様な批判は的外れだろうと思うんですよ。


むいみ: そうだね。不安に思ってる人ほどよく勉強してるので、コミュニティの情報交換でそういうネタを仕入れてくるんだろうね。放射性物質による汚染なんて、ぼくらにとってほぼ未知の状況なわけだから、科学的な見方からすると日常レベルでできる対策ってほとんどないじゃん。そうすると、その不安な気持ちとどうつきあっていいかわかんなくなってるんだと思うんだよね。

これはPseuDoctorさんがコツと述べた部分が大きく関わっていると思います。

そうしたコツを伝える部分では、対象者に受容してもらえるにはどのような方法が良いのか?と謂う対象の特性を考えた対応が必要になるのでしょう。全方位を対象としてではスジが悪い部分です。全方位を向けて発信する基礎知識に当たる情報は欠如モデル的な体裁に見えるモノでしょう。それとは別にもう一つ別の側面からのサポートが必要になると謂う話なのでしょう。

では、もうダマ書評シリーズ第4章をご期待下さい。

*1:個人的にそう見えると謂うものですが

mimonmimon 2012/02/18 15:39 考えがまとまっていないのですが、PseuDoctorさんの示されたグラフに違和感があったのは、あのx-y平面に垂直なz軸として「誤った科学」というのがあって、それをx-y平面に投影しても、反映されないように感じたからです。
そうして、そのz軸上で飽和した人は、普通のx-y平面に戻りにくいのですよね。
インプリンティングは早い者勝ちですから、常に啓蒙が必要だと感じています。

doramaodoramao 2012/02/22 09:16 なるほど、私は勝手に元の「欠如モデルはこういうもの」的なもの定義とするとあのような平面図しか得られないため、その土俵にのったモデルでは平面的なあの図が得られると謂う風に解釈してました。勘違いですかね。
で、そのあたりまで織り込んで考えるのは別の話で、そう謂った前提を既に共有している人はmimonさんのおっしゃるz軸が気になるのかと思ってました。
最近の私は、啓蒙とかよりも住みやすい社会をつくる為の技術的なものをどれだけ共有できるか、みたいな事を考えてます。似ているんですけどね。

2011-09-13

緊急鼎談!震災の不安とニセ科学(後編):対策や批判はこのままでよいのか?

| 19:18 | 緊急鼎談!震災の不安とニセ科学(後編):対策や批判はこのままでよいのか? - とらねこ日誌 を含むブックマーク 緊急鼎談!震災の不安とニセ科学(後編):対策や批判はこのままでよいのか? - とらねこ日誌 のブックマークコメント


前回までの粗筋と登場人物

どらねこ:このブログを運営する宇宙動物。冬の主食は真鱈子、春の主食は山菜、夏の主食はホヤ、秋の主食はキノコである。

黒猫亭:読むと目が痛くなる「黒猫亭日乗」の管理人で愛称はクロネコッティ。日々の日課はHDDレコーダーの録画編集と千日回峰行。美少女好きを公言しているが意外と守備範囲が広い。

むいみ:みんなが忘れた頃に更新される神出鬼没な「azure blue」の管理人で腐女子。最近はおじさんにも萌える事ができるようになりつつあります。これが大人になるっていうことなのね(絶対違う


前回のエントリでは、キノコとホヤをエサに二人を上手くおびき出したどらねこであったが、褒めて貰うという目的が達成されないままにニセ科学とその批判についての議論に入り込んでしまった。当初の目的を達成するべく、濃厚焼きホヤで挽回を図ろうとするが・・・】 


むいみ: うわ〜ん! どらちゃんのばかー、本物だかニセモノだかしらないけど、ポルチーニ茸も焼きホヤもちっとも美味しくなんかないじゃないかー! ばかー、ばかー、うそつきー!

どらねこ: ええっ! あ、あれ? そそそ、そんな筈は・・・いつも通りに作ったんだけどなぁ・・・美味しかったですよねぇ、黒猫亭さん?

黒猫亭: う、うん、オレは凄く美味いと思ったが・・・

どらねこ: そ、そうですとも! ポルチーニ茸のあのナッツのような清冽で香ばしい風味と、そんじょそこらの乾燥品では出せない生茸ならではの歯切れ良い官能的な食感も塩梅良く仕上がりましたし、パスタの茹で加減も申し分なかった筈です。それよりも、軽く炙ることで鮮烈なエッジが際立ったホヤの濃厚な磯の風味に他の何物とも形容し難い独特の複雑精妙な旨味が絡み合い渾然一体となり、一口噛むとプリッとした弾力を感じさせ乍らもその儘噛み締めれば潔くにゅるっと噛み切れてしまうあの歯応え、喉をするするっと滑り落ちていく喉越しが実に以てこの・・・じゅるるるるっ

むいみ: うわ〜ん! 想い出させるなよお〜、どらちゃんのばかやろ〜! ぼくはなんだかわかんない臭いとかなんだかわかんない味のするものがいちばんきらいなんだよお〜、固いんだか柔らかいんだかわかんないものもだいきらいなんだよお〜! かえせもどせ〜、アレを食う前のぼくをもどせよお〜!

黒猫亭: な・・・何だこの手に負えない幼児退行は・・・流石は実力行使で実家の冷蔵庫からマヨネーズとマーガリンを完全排除した女*1、喰い物の好き嫌いが半端ないレベルだ・・・

どらねこ: あ、そうそう、それじゃむいみさん、お料理のほうがお気に召さなかったようでしたら、騙されたと思って一口そこのお水を口に含んでご覧なさい、にゅふふふ・・・

むいみ: もーどらちゃんにはだまされないぞー! だまされないけど気持ち悪いから言われなくても水くらい飲むぞー! 文句あっかよー!・・・あ、あれれ? なんかこの水、ちょっと甘くね? うん、甘いよ、甘い甘い。

どらねこ: どうです、美味しいでしょう? ホヤはそれ自体微かな甘味を帯びて居て窮めて美味なる食材なのですが、その直後に水を飲むとさわやかな甘さが口の中に広がる*2のです。多分それはホヤの波動が水に転写・・・いや、気が動転する剰りに非ぬ事を口走ってしまいましたが、ホヤを食べる楽しみはホヤそれ自体だけではないのですよ、どうですかお客さん!

むいみ: 美味しいなー、これ美味しいよー、どらちゃんありがとー! そうだ、いいこと思いついた。今度こっちに来るときはさー、ホヤはいらないからこの水だけ出してよー、すっごくいいアイディアだと思うけどなー。

黒猫亭: えっ

どらねこ: えっ



■言葉は通じてこそだよね?

どらねこ: ええと、先程はニセ科学を取り巻く社会状況についてお話をしてきましたけど、じゃあ今度は、その現状を踏まえて、今のニセ科学批判自体はどうなんだろう、と謂う辺りについてお話を伺いましょうか。

黒猫亭: 一言で言うと、今までとあんまり変わってないよね。それが多分問題の核心なんだろうけど。

どらねこ: これまでは、ネットの狭い一画とは謂え、様々な議論を経て或る程度有効な批判の方法論や作法などが纏め上げられてきたと思うんですね。菊池さんを中心に、経験を積んだ幾人かの論者が纏めを作り上げ、ブログのコメント欄でのやりとりの作法とかも含めて、最近ではその蓄積も一段落していたように思うんですよ。

黒猫亭: ネットの集合知を何処かに蓄積していこうと謂う動きは弛みなく続いていたよね。そのURLを示せば大概のFAQに対応出来ると謂うツールとかね。「集合知を研鑽し蓄積し利用する」と謂うのはニセ科学批判の言論の大きな特徴だったと思うよ。その流れで今も同じ方法論が継続されているのだと思う。

むいみ: そうね、今までの「ニセ科学批判」って初心者に対しては「Q&Aがあるので読んでください」とやってた気がする。でも、その「集合知を見てください」という手法は、震災以降は使えなくなってしまってると思うんだよね。

黒猫亭: 理由としては幾つか考えられるが、最大の理由はニセ科学の受け容れられ方とそのパイの規模が、震災前後でドラスティックに変わったことだろうか。たとえば震災以前は、ニセ科学と謂うのは趣味の延長上で入っていくものが多かったわけだし、元々ニセ科学なりスピリチュアリズムなりに親和性の高い一部の人々がハマるものだったと思う。

むいみ: そうそう。それが震災以後は、放射性物質汚染に対する恐怖やストレスというものすごく圧力の高い力が、ごくふつうの人々をニセ科学の方向へ強力に押しやってる。

黒猫亭: 今みたいな状況では普通は冷静でいられないし、不安な人々の主観的現実のうえでは死活問題だろう。それが国民の大多数と謂うことになれば、そう謂うマッスに対してネットの短く狭いリーチで「集合知を見てください」とやっても今まで以上に効果がないのは当然だろうな。

どらねこ: そのくらい間口が広くなってくると、ニセ科学批判で使われる科学的な専門用語の難解さも理解の妨げになっているのかも知れませんね。本来は科学的な正しさを大事にしたいと謂う理由なんでしょうけれど、その正しさに拘る剰りに、必要以上に用語や定義の正しさを要求する批判者も居るのかも知れません。

むいみ: いや、でも対話をするうえで前提となる用語や定義をすり合わせることはとっても大事だよ。その前提が食い違うことで対話がかみ合わなくなることはよくあるから。

どらねこ: 私もそう思います。ただ、既に用語や定義を熟知している批判者は大きなアドバンテージを持っていると思うんですよね。そうすると双方で立場の非対称性が有るわけですから、指摘される側は相手に完全にコントロールされたような気持ちになる様な気がします。そうなると、本来訴えたかった意見を封じられた様な気持ちになるのかな、と思います。

むいみ: そうね、そもそも科学的な議論に必要な素養となる用語や定義を学習してない立場の人は、科学についての議論では完全にアウェー感があるのは当然だし、それを「ずるい」「公平じゃない」って思う気持ちはあるのかもしれない。

黒猫亭: 科学的な正しさってたしかに大事なんだけどね、要は情報に求められる厳密さのレベルってあるわけじゃん。このレベルの話をするのに、そのレベルの厳密性は必要ない、とかさ。要はタームってお互いの認識を摺り合わせる方便に過ぎないんだから、極端な話、その場面で求められる精度で相手と自分の間で話が通じればそれで用が足りるわけ。

どらねこ: 「専門用語」は、その名の通り専門家同士の議論でこそ効果を発揮するモノですよね。でも、科学的知見の客観的な正しさはその種の厳密性に依拠しているわけですから、ニセ科学の言説や理論を批判する場面では、ギャラリーに向けた情報発信の意味でも、やっぱり科学的な厳密性が必要なこともあるでしょうね。

むいみ: 「ニセ科学批判」ではしばしばその専門用語が注釈なしで出てくる場面があるよね。科学的な正確さを担保する用語・定義の厳密さと、科学的な専門訓練を積んでない人々との対話で必要十分な精度の見きわめ、そのバランスがむずかしいよね。

黒猫亭: そこはニセ科学批判の先人たちが常に悩まされてきた問題で、一朝一夕に「これが答えだ!」と謂う究極の解法なんかない部分だよな。特定の対話の場面で特定の相手との間合いを常に測っていくしかないから、個々の論者の判断力や対話スキル、それと対話相手の属性と謂う一回性の強い要件に投げ返されてしまうところだな。



■ニセ科学批判の中には変わるべきところもある?

むいみ: たとえば「科学的に正しい理解に至らないと、また別のニセ科学に引っかかるから、平易に説明しちゃダメだ」みたいな意見もあるよね。

黒猫亭: オレはそれは欲張りすぎだと思うよ。たしかにニセ科学批判には啓蒙乃至啓発的な役割が期待されているけど、それは飽くまで自由意志で情報を受け容れようとする人々が対象でさ。そう謂う気になってもらおうと努力するところまでは必要だろうけど、現実にはそうでない人のほうが多いわけだよね。そう謂う相手に対して「教育の押し売り」みたいなことまですべきなのかと謂えば、オレは違うと思う。

むいみ:そうだなあ。ぼくもそういう態度の人がどんなに正しいことを言ってても聞こうかなと思わないと思う。科学的な訓練を積むのには、かなり長期間にわたって大きなコストを払う必要があるわけでしょ。今大人の社会人が「これが必要なんですよ」って言われたからといって、すぐにそんなコストが払えるかといったら絶対無理だもん。

黒猫亭: 普通の大人の社会人は教育や訓練に充てられる時間が限られているんだよ。教育期間を経て一旦社会に出てしまったら、普通の社会生活を送ることにほぼすべてのコストを要求されちゃうわけだよね。遊んでる時間だって、社会生活の息抜きと謂う側面があるんだから、その余暇を勉強に充てるべきだと主張するほうがそもそも無理筋だよ。

むいみ: うん。大人でも仕事とは関係ない勉強を熱心にしてる人はたしかにたくさんいるんだけど、それは受験勉強とは違ってうるさく成果を問われない自由な勉強がおもしろいからだろうし、そもそもおもしろいと思う内容って人によって偏りがあるし、強制じゃないから習熟度もバラバラだったりすると思うんだよね。

黒猫亭: ニセ科学批判は「負け戦」とか「もぐら叩き」に喩えられることが多いんだけど、それは受け容れるべき大前提だと思うんだ。たしかにその場で納得させてもまた次に何かに引っ懸かる人は多いんだろうけど、それはその都度対処していくしかない。赤の他人様を無理矢理教育することなんて出来ないし、そんなことに大義もない。少なくとも個別の対話の場面ではね。

むいみ: 「勉強すべきだ」って言ってる人の主張って、勉強する時間的余裕がなかったり苦手だったりする人のことを最初から切り捨ててるよね。単にそれは「このくらいのことがわからないのはダメだ」という価値観を主張してるだけにすぎないような気がする。

どらねこ: 少し話を戻して用語や定義の問題との関連で言いますと、たとえばニセ科学問題については、ニセ科学批判の集合知の蓄積が学問として確立しているわけでもないにもかかわらず、「これがニセ科学の定義だ」とか語られているように思います。でも、そんなのは知らないヒトから見れば知ったこっちゃ無いわけですよね。

黒猫亭: そこもやっぱり、量的な問題が質的な問題に転換している部分だろうな。「ニセ科学問題」が社会の極一部分の問題でしかなかった頃には、現実の社会の一部を「問題領域」と謂う概念的な切り取り方で囲い込むことが出来たから、その「問題領域」の内部で通用するタームを拡げていこう、と謂う戦略があり得たんだろうね。

むいみ: やっぱり震災前のニセ科学問題って、ある種限られた人が対象となる問題だったんだよね。その規模でなら成立するけど規模が変わると向かない戦略というのは当然ある。

黒猫亭: そうそう。今は日本の一般社会の至るところで、極日常的にニセ科学が人々の生活を浸食してきている。「問題領域」と謂う限定的な括りで囲い込んで考えることが難しくなってきて、全体的な社会一般を相手にする必要が出てくると、ネットの集合知である「ニセ科学」の定義のようなローカル概念が通用しにくくなってくる。

どらねこ: そう謂う風に、ニセ科学問題や社会の状況が激変しているにもかわらず、批判者の側は従来通りの批判手法で良いのか、と謂う辺りに問題の核心があると謂うことですね。私などはこの間ツイッターで「ニセ科学批判サヨナラ!」と、感情的な事を口走ってしまいましたが、実のところニセ科学批判の存在を知った当初から、ニセ科学批判に対し、ある種の批判的な意識があったんです。で、実際そのような記事*3は何本か書いてます。

黒猫亭: ああ、そう言ってたね。でも、最初はどらちゃん流の腹黒い冗談*4かと思っていたよ。従来の感覚だと、「ニセ科学批判者」は社会的な問題に直接コミットして批判している人々で、「ニセ科学批判批判者」は批判者のネット言論に対するメタ批判「だけ」する人と謂うイメージだったわけだし、その意味で「批判偶数組」なんて言い方もあるよね。

むいみ: ぼくは気づいたら「ニセ科学批判批判」と呼ばれるものがあったなあ、という感じ。実際に以前はダメな「批判批判」もあったしね。メタ批判や印象論ばかりだったし、ぼくもそのころは「批判批判は有意義な言論じゃないなー」と思ってた。

黒猫亭: ただ、随分早いうちから「有意義なニセ科学批判批判はニセ科学批判者からしか出ない」と謂う結論が採択されていたようにも思うけど。ニセ科学問題と謂う社会問題が現に存在して、それに対抗しなければならないと謂う目的意識を共有していない限り、「そんなことしても無駄だ」とか「上から目線乙」みたいな役に立たない批判批判しか出ないと謂うことで。

どらねこ: 私が「ニセ科学批判批判」と謂っているのも内部の相互批判的な意味をイメージしていますね。ニセ科学問題についての問題意識は共有しているんですが、その方法論を相互批判で鍛えていかなければ、と思うんです。

むいみ: そうね、「ニセ科学批判」の問題点の一つは、「ニセ科学批判」の中でのフィードバックの機能が著しく弱いことだと思うんだよね。具体的にいうと「内部での相互批判がない」「批判されても自分たちに都合のよい解釈がなされることがある」ということが気になってる。

どらねこ: 実は、ニセ科学批判と括られる事自体に問題があるんじゃないかと思っていたんですね。所謂メタ視点のニセ科学批判批判では必ず「ニセ科学批判者は」と括られて論じられているんですよね。「批判者」とされるのは、ニセ科学を推奨する側からの視点だと思うんですが、批判する側が一般の方に接する場合は批判を意図していないと思うんです。それでも「批判者」として認識されているような気がするんですよ。

むいみ: それはニセ科学とは関係のない方とお話するときでも「批判者」然としてるということ? 「科学的に間違ったことを言うと承知しねーぜ」的なイメージで見られてるということかな?

どらねこ: モヒカン*5的イメージは有るかもしれませんね。受け取る相手はその延長線上に捉えている事も有ると思います。もしかすると「そう謂う事を言う奴が現れるかも知れないよ」というアドバイスを事前に受けている方も居るのかも知れないですね。非難するつもりがなくても「批判*6」と謂う括りで見られてしまうこと自体が問題なんじゃないかな、と。



■それは叩かないとダメなの?

どらねこ: それには、たとえばニセ科学批判は提唱者や推進者の言説に対してのみ行われる類のもので有る筈なのに、ツイッターなどのネットのコミュニケーションツールの台頭で、批判者とニセ科学のエンドユーザーとの接点が大きくなった事が色々と問題を起こしている気がするんですね。

黒猫亭: ネット参入の敷居が低くなっていると謂われて久しいけど、少し前までは「HPやブログを開設してニセ科学言説を発信する」と謂うところで一つハードルがあったはずだよね。今はそれがさらにもう一段低くなっていて、ケータイからでもツイッターアカウントを取得出来る。たしか三月の時点でおおよそ一七〇〇万人とか謂うレベルだし、ツイッターは自分でもつまんないと思うような話でも抵抗なく書き込めるから、ブログなんかより遙かにアクティブユーザー率は高いんじゃないかな。

どらねこ: 以前なら、ニセ科学などをネットで発信している人たちは、ニセ科学を正しいと誤解をしてしまっている人たち全体の一部でしたから、それらのネット言論に対抗することで全体にメッセージを届ける、と謂う構造がイメージされていたと思うんです。少なくともその限りでは「総叩き」の印象は薄くて、「情報発信者」と謂う特別な立場を想定することができました。しかし、今はその「一部」の割合がかなり大きくなっていて、情報を受け取る側と発信する側の垣根がより一層低くなっているのだと思います。

黒猫亭: 以前のブログブームの際に謂われていたことがツイッターの登場でさらに加速したわけだな。ネット参入の敷居がもっと下がれば、ニセ科学批判はどんどん「手当たり次第に総叩き」の性格を帯びてくる。「情報発信者」と謂う立場の特殊性がどんどん薄れてきているんだな。

どらねこ: ネット参入のハードルが高い時期であれば、一般人がネットの世界に入って来たと謂う形ですから、ネット固有の事情を考慮して発言すべきだと謂う話になりますが、ハードルが低くなれば逆に一般社会にネット社会が呑み込まれたような性格になってくるのだと思います。そこで一般社会と同様の軋轢が起こっている状況が今なのかな、と。

黒猫亭: たしかに情報発信者の立場である以上は、有害な言説を批判されるのはしょうがないと思うんだ。ただ、直接対話で「手当たり次第に総叩き」と謂うのはイメージ戦略上も具体的なリソース配分の観点からも愚策だろうと思う。それらの情報に対抗する場合には、発信者と直接対話しなければならない理由はないんだし、対抗言論で十分な場合のほうが多いだろうね。

むいみ: ある人の発言を批判するのに必ずしもその人とお話をする必要はないと思うのですよ。だって、そもそも「ニセ科学批判」って誰かと対話をするのはメインの活動じゃなかった気がするし。

どらねこ: そうですね。最初はあくまで言説批判だった筈です。頑なな信奉者は基本的に説得は出来ないし、直接対話に持ち込む必要は必ずしもないと思います。現状のツイッターでは、たとえば単独ツイートやRT言及が対抗言論に当たる発言テクニックだと思うんです。

黒猫亭: つまり、直接対話と対抗言論のクベツが附いてない人が一定数いるんだろうね。直接対話は特定個人との私的で現実的な関係性の性格がどうしても附随する。だから、言説批判がしたいだけなら、別段直接対話でないといけない理由なんかないんだよな。

むいみ: ぼくには、どうも批判者のほうも精神的な余裕がないように見えてしかたがないんだよね。

黒猫亭: 自然科学の知見って正否がガチガチにハッキリしているから、正しいほうに乗るとまず論戦で負けない。間違っているほうはそれでも主張を取り下げないし、自分の意見の正当性を訴え続けるためにかなり苦しい言い分に終始するから、さらにその不誠実な議論姿勢が批判の対象になる。それが非常に紋切型の人格攻撃に直結する場合も度々あるんじゃないかな。

むいみ: 逆に考えれば、正しくて負けないのだから、その分余裕をもって接することができそうな気がするんだけどね。それで最近いちばん気になってるのは「ニセ科学批判」の目的ってなんなのかな?ってこと。

黒猫亭: そうね。みんなは何が目的で批判してるんだろう。一部で「対話しても結局何も伝わらない」って主張する人がいるけど、だったら、何も伝わらないとわかっているのになんで対話なんかしたいんだろう。

むいみ: ええとだから、間違いを間違いだと指摘したいんだろうね。それとか、有害な情報発信にともなう責任を追及したいという動機もあるのかも。

黒猫亭: なんで間違いを間違いと指摘したいんだろうな? 寡聞にして「間違いを指摘するのは当たり前のこと」以上の理由って聞いたことがない。そこで思考停止しているからわからないんじゃないのかね。

どらねこ: 「間違いを間違いと指摘できる世の中が正しい」と謂う信念をお持ちの方も多いんだと思います。科学の領域ではそれが当然ですから。でも、人間や社会はいきなり変わるものではありませんから、一般社会がその方向に変わっていくとしても、間違いを指摘する場合のソーシャルスキルのようなものが要求されると思います。

黒猫亭: 「それが正しいんだから聞くべきだ」と謂う料簡で何ら配慮もなくズケズケ物を言って話が通じるなんて、そんな簡単な話はないよ。科学の領域と謂うのは人間にとって窮めて異質で特殊なのだから、科学の流儀が人間社会で採用されることなど、人間が人間である限り金輪際あり得ない話だよな。

むいみ: そもそも、だれかと言葉を交わすこと自体がコミュニケーションなのだから、相手に最低限の敬意を払うべきだよね。それってリアルの社会では当たり前なのではないの?たとえばこれは「相手のパーソナルスペースに土足で上がり込むような行為」を想定して言うんだけど、そんなことはネットだからといって許されるもんじゃないよね。

どらねこ:ええ。増してやツイッターのような爆発的な規模で一般に普及した媒体で、ネットローカルなルールが通用するものではないでしょう。月並みな言い方ですが、それはもう現実の社会と同じルールで動いている場所に当たるのだと思います。

むいみ: なにも直接対話を行わなくてもニセ科学のコアの人に対する言論での批判は可能だと思うんだけどな。むしろ、コミュニケーションが苦手ならそちらに特化すればいいと思う。「説得ができない」「説得は考えていない」と言うんだったら、直接に対話を試みるよりも第三者に対して「これは間違いなのですよ、実は・・・」とやるのがいいように思う。



■ニセ科学批判は日本中を敵に回すの?

どらねこ: 優先順位問題が論じられる場合、時にはニセ科学批判が「趣味的活動」と見做される事も有りますよね。そうなると「お前らの趣味になんか付き合っていられるか、余計なお世話だ」と思われる事も多いですよね。「優先順位は個人の問題意識が基準だ」が行き過ぎちゃう事もあると思います。自分の問題意識が社会と共有されているかとか、多くの人々にとって本当に大事な事なのかとかは、自分が決められるものじゃ無くて客観的に決まってくる事柄ですよね。

黒猫亭: そう謂う場合に重要になってくるのは、やはりその言論の公益性なんだよね。公益なんかどうでもいいと謂う話なら、「それはキミ個人の趣味だから他人に迷惑かけんなよ」と謂う話になる。

むいみ: ちょっと話が飛ぶけど、たとえばアサイさんのブログなんか、アサイさん個人が注目を浴びるような奇抜なパフォーマンスを演じて客寄せすることで、間口を広くしてるところはあるよね。森ガールや川ガールに扮して女装するとか、カエルの卵に黒蜜かけて食べちゃうとか、もうはっきり言って飛び道具のレベル(笑)。でも、ぼくはアサイさんという人はだいぶ以前から知ってたのだけれど、興味をもったのは「もし森」の記事を読んでから。おもしろいことだけやってる人なのかと思ったら、熊出没とドングリ撒きについての記事を書いててびっくりした覚えがある。本人にとっては「両方大事」なんだろうけどね。ネタが目当てでも人がたくさん寄ってくるなら、その中から「この人の話を聞いてみたい」という姿勢の人も出てくるし、そこで初めて直接対話に持ち込むとか、そういう戦略もアリだよね。

黒猫亭: オレはお喋り以外の飛び道具を持っていないから羨ましいが、あれは富山の薬売りが風船配ったり手品したりするようなもんだよな(笑)*7

むいみ: それとは反対に、言論を届けるにあたってわざわざ間口を狭めるような行為をしてる人もいるなあとぼくは感じてる。「ニセ科学批判」ってそもそもがかなりニッチな活動なのに、その入り口まで狭めてどうするんだろう?と率直に疑問に思うんだよね。

黒猫亭: それは個人の勝手だと言われると、じゃああんたとオレとは目的が違うし利害が対立しているね、と謂う話になるんだよな。で、その「個人の勝手」と謂うのも、他人にキチンと説明可能な公益がないのなら、個人の利己的目的とか愚行権の範疇の問題になるのだよな。あんたの趣味的愚行のお陰で公益が損なわれるじゃん、と謂う話になる。自分一個人の利益だけではなく、社会に還元可能な利益があることは重要だろう。

むいみ: ふむ。「ニセ科学批判」ではなくて「社会への還元」が大事ってことなのね。そっちのほうがいっそわかりやすいかも。「おれがやりたいからやってるだけで他人から制限されるいわれはない」が成り立つためには「他人に迷惑をかけていない」という条件が必要になるんじゃないかな。


黒猫亭: 「その批判のやり方は、あんたにとっては意味があるかもしれないが、誰にとっても意味がないし、ぶっちゃけ迷惑だ」と謂うやり方があるわけだろう。で、「目的は正しいのだから何が悪い」と言うなら、じゃあ善意は結果を免責するのかと謂う話になる。そこは最終的に目的性の違いに戻ってくるのだろうなぁ。同じ目的性を踏まえているなら、公益に資することなく間口を狭めるような行為をやっていて反省がないと謂うことは考えられない。

むいみ: 目的がわからないと、その戦略が合ってるかどうかも判断できないなあ。ぼくとしては「ニセ科学批判」をしてるつもりはないのだけど、結果的に「ニセ科学批判」に類することをやることもあって、そういうときに「ニセ科学批判ってこわいからやだ」って思われて、エントリを見る前に避けられるのはいやだなあと思ってる。

どらねこ: むいみさんのブログの方向性だと、間違ったことを言っている人を批判したり攻撃すると謂う趣旨のものではないですよね。

むいみ: ぼくはどちらかというと「ニセ科学にハマる人」にチャンネルを合わせてないんだよね。もっと広く「ある話題で不安に思ってる人向け」で書いてる場合が多い。結果的にニセ科学と呼ばれるものに踏み込むことはあるかもしれないんだけど、目的はそうじゃないんだよね。ある話題に対するカウンター情報を提供してるので、ある意味では「批判」なんだけど、主な目的は「情報を伝えること」にある。

黒猫亭: オレは「ニセ科学批判」と謂うのは基本的に「ニセ科学問題への言論を通じた対処」くらいの意味に広く捉えているから、むいみんの方向性も十分に「ニセ科学批判」だと思っていた。だから「ニセ科学批判はしていない」と言われても最初はピンと来なかったな。

むいみ: そもそもぼく、だれかに寄りかかられるのがきらいなのだよね。というより、必要以上に責任を背負うことはできないというか。だから批判よりも情報発信のほうに重点がかかる。たとえば、震災以降にそこそこうまくいったかなと思う例は、まあ、継続的にやってるわけじゃないからこれを挙げるのは不適当かもしれないんだけど・・・農産物の産地表示のエントリは結構ニーズに合ったものを流せたと自負してる。

どらねこ: そうですね、あれは所謂「ニセ科学批判」では主流のテーマではないですけど、一般のニーズは強いものでした。

むいみ: ある日突然、「農水省が野菜の産地隠しを奨励してる」という話がツイッター内で駆け巡ったのよね。ぼくはJAS法に基づく産地表示について知ってたのですぐにおかしいことに気づいてエントリを書いたんです。詳細はブログの方を見てもらうとして、そのときぼくが注目したのはツイッター内での情報の広がり方かな。こまめにチェックして、新しくブログ記事を書いた人にぼくのエントリを読んでもらったり、たくさんRTされてる人に「それは誤解だから」と読んでもらったり。結局、情報元のブログを書いた人にも届いて訂正してもらえて、けっこう速やかに鎮火できた。もちろんぼく一人の力ではないのだけど、要所要所で引用してもらえるようなエントリが書けてよかったな、とは思った。そのときに、間口を狭めないためにタイトルだけでは中身が判断できないようにしたり、最初のほうに結論をもってきて、最後まで読まなくても「誤読されないように」したんだよね。あとは、リンクが多いのがぼくの記事の特徴かも。とにかく検証できる情報を提示することが大事だと思ってる。

どらねこ: そう謂う風に、適切な情報発信で人々の自発的な気づきを促すと謂う戦略は効果的だと思うんですよ。前にも言いましたけど、誤っているかどうかはともかく、情報を発信したり自分で調べたりしている人は意識が高いですね。ですから、そのような人に理解してもらう事ってとても重要だと思うのです。そんな人が思い違いに気がついたら、良き理解者になってくれる可能性が高いのですけどね。

むいみ: そうだね。ツイッターでの議論なんか見てても、「正しいことであればどちらでも受け容れる」という中立的な姿勢の人は意外に多いと思う。それをモヒカン的な厳しさで批判してまわって議論を見てる人まで敵に回すのなら、日本中が「ニセ科学批判」の敵になっちゃうのは当たり前だよ。



■みんな幸せなほうがいいじゃん?

黒猫亭: でも、ホントにモヒカン的な動機でニセ科学批判にコミットしている論者ってそんなに多いのかな。オレはそう謂うふうには思っていないんだけど。実際には「ニセ科学批判者」と見られている人の多くは、一種の利他心や親切心で行動していることのほうが多いと思うけどな。

むいみ: ぼくも少数の声の大きい人がクロースアップされてるのじゃないかな、と思っている。それが主流派なのかはぼくにはちょっとわからないけど。

黒猫亭: 誰かを助けたいとか、誰かの役に立ちたいから批判していると謂う人のほうが多いはずだ、と謂うのがオレの信念だな。批判がしたいから批判をすると謂うふうに自己目的化している論者は、少なくとも菊池さん経由でニセ科学批判にコミットしている人では少数派だと思うなぁ。

むいみ: ぼく自身はたぶんかなり利己的に考えて行動してるよ。自分がよりよく暮らすためにはみんなが幸せなほうがよくて、だから利他的に行動したほうがぼくも幸せになれると考えてる感じ。

黒猫亭: 自分がよりよく暮らすためにはみんながシアワセなほうがいい。これは効率の観点の問題だよね。例のエントリでも社会的な効率性についての言及があったけど。青臭い考え方で謂えば、利他心と謂うのは結局利己心と表裏一体のものにすぎないけど、それはそう謂うものなのだし、他人様の役に立つのならそれでいいのだと思うんだよ。

どらねこ: ニンゲンらしさって二通りあると思うんですよね。生得的に持つ感情というか感覚と、後天的に身につける知識とか。科学リテラシーなんかもその一つなのですが、それは前者の感覚を満たす為にこそ用いられるモノだと思うんです。だから、みんなのシアワセを考えるにあたって、二通りのニンゲンらしさが大事なんじゃないかな?と思うんです。自分のシアワセを願う事と集団のシアワセを願う事とイコールになるように・・・。

むいみ: ちょっと思ったんだけどさ、たとえば今は「ニセ科学批判」についてもニセ科学あるいは「ニセ科学批判批判」との対立の構図があって、そういう対立構造を前にしたときに、人々が味方するのは「より共感できるほう」ではないかなって思う。だから、二項対立の構図そのものを崩さないとダメなんだろうとぼくは思ってる。

どらねこ: どうもネットでは依然として「科学リテラシーの高いモヒカン対人間的な論理で動くムラビト」みたいな対立構造があるように見えるんですけど、それは本来対立すべき事柄ではないですよね。どっちが正しくてどっちが間違っていると謂う問題じゃない筈だと思います。

黒猫亭: 対立構造と謂う意味では、たとえばオレは少し前に「ニセ科学批判でも戦略・戦術が重要だ」と言ったら「ニセ科学批判は戦争じゃない」と言われて心底ビックリしたのだけど、これって普通のビジネス用語だよね。何らかの社会的活動をする場合の戦略・戦術の考え方って、一般社会では物凄く当たり前なんだけど、それが通じない人が結構いたりする。

むいみ: 一般社会でごくふつうに流通してる用語や概念を全然理解しようとしないのでは、圧倒的な多数派である一般社会のほうが科学的な専門用語を理解しようとしなくてもしかたないよね。

どらねこ: 結局それが「どちらかが正しくてどちらかが間違っている」的な対立構造の現れなのかもしれませんね。私も黒猫亭さんがさっき言ったように科学的な流儀が一般社会で主流になるとは考えていませんし、勿論科学的な領域で一般社会の流儀が主流になることもないでしょう。

黒猫亭: それらは本来別々の事柄なんだから、その両者の接点となる科学コミュニケーションやニセ科学批判では、相互の流儀を適切に勘案することでしか有効な情報発信は出来ない、そんなところが一応の結論かな。じゃあ、こんなところで対談を〆ましょうかね。

むいみ: あ、これで終わりなの? 長かったなー、ぼく、マジメな話なんか日頃しないから、なんだか疲れちゃったよー・・・あっ、そうだ、ぼく今急におなかがすいてきたから、どらちゃんなにかつくってよー。

黒猫亭: えっ

どらねこ: えっ

むいみ: おなかすいたぞー、はらへったぞー、早く早くー! どらちゃんのぐずー! とっとと台所に行けよー! カレー食わせろー!


(わがままなお嬢様の罵倒が響く中、対談は終わる・・・)

*1:むいみさんはご幼少の水限り、大嫌いなマヨネーズとマーガリンを実家の冷蔵庫から完全に排除することを雄弁に主張して、ご家族に認めさせたことがあるそうです。流石はフジョシですね。

*2:ホヤは嫌いだが、その後に飲む水の美味しさを愉しみたいが為に、嫌々ホヤを食べる人が居ると謂うが・・・。

*3:批判批判としては相手にされなかったですけど。

*4:どらねこには、時々こっそりダブルミーニングの腹黒い冗談や地口を言って、元の文脈をご存じない方を惑わせてしまうと謂うイケナイ癖があります。ごめんなさいモフ。

*5:ガチンコの殺伐議論を愛する人々を指すネット用語。某世紀末救世主伝説アニメに登場するモヒカンヘアの雑魚キャラから、平和なムラビトに「ヒャッハー」と謂う奇声を挙げつつ襲い掛かる様子を指している様。

*6:どちらかと謂うと非難的な意味合いの批判。

*7:富山売薬の行商人は、一般家庭に薬箱を預けておいて使った薬の分だけ後で料金を徴収すると謂う「先用後利」のシステムで有名です。訪問先の家庭の子供に紙風船やゴム風船を配ったり簡単な手品を見せたりする習慣があったようだ。

野鳥観察の会会員野鳥観察の会会員 2011/09/13 23:32 コミュ障のネット弁慶たちがワロス。
つうかこれがdoramao流の韜晦なの?ぜんぜん面白くないぞ。

hogehoge 2011/09/14 02:23 不安に向き合う。

面白いお話しありがとうございました。

『サはサイエンスのサ』を書いた鹿野司へのインタビューの中にこんな一節がある。

http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20110825/E1314200559795.html
>>たとえば、小さい子供を持つ親御さんの心理としては、不安になるのは当たり前だよね。とくに、東京とかのお母さんは家庭内で孤立しがちだと思う。一生懸命にニュースを追って怖い情報ばかり見つけて、子供に「砂場で遊んじゃいけません」とか言うわけじゃない。でも、子供は親離れしかけてるから、言うこと聞きゃあしない。それで、お父さんに相談すると「えー大丈夫だろう?」とか言われちゃう。すると、お母さん超さびしいわけね。

これはすごく重要な指摘だ。主婦が放射能不安にはまる理由を、「科学的知識の欠如」ではなく、「家庭内での孤立」と言う言葉で語っている。

疑似科学と科学と言う文脈では、単に正しい科学知識を身につける。そのためにどう啓蒙するかが争点になる。一方、問題が家庭内での孤立による疑似科学信奉であるなら、アプローチは違ったものになる。

私は臨床心理学を学んできた。臨床心理学では、家族力動と言う分野がある。たとえば、ある家庭で子供が問題行動を起こしたとする。普通の人はその子供に問題があると考えるが、家族力動では、子供に原因があると考えない。家庭内の問題が一番弱い子供の症状として現れたと考える。たとえば母親の教育観が硬直的すぎるとか、父親に何らかの心理的ゆがみがあるとか、別の問題が子供の問題行動として顕在化したと考える。
疑似科学信奉も、それは単に、科学知識の欠如ではないと考えている。それは上の例で言えば、子供の問題行動のようなものだ。本当の問題は、家族力動の方にある。つまり疑似科学を信奉するまでに何が起こったのかを調べる必要ある。つまり問題は、疑似科学を信奉したことではなくて、なぜ「疑似科学を信奉せざるを得なかったか」と言うことだ。

疑似科学批判は、それはそれで正しいと思うけれど、疑似科学信奉者へのアプローチとして、正しい科学知識を伝達するアプローチは違うだろうと思う。鹿野さんの例で言えば、問題は「科学知識の欠如」ではなく、「家庭内での孤立」である。

疑似科学に対峙しようと思うのなら大切なのは、サイエンスコミュニケーションではなく、単に心理学のような気がします。
自殺企図があってリストカットした患者に対して必要なのは、体のどこを切ったら死ぬかと言う医学上の知識ではなく、単にカウンセリングあることと似ている。

doramaodoramao 2011/09/14 21:17 >hogeさん
今までであれば、ライフイベントなどに直面した場合に顕在化していたような家庭の問題が、震災後の原子力発電所事故などの不安が切っ掛けに出現したとも考えられますね。
hogeさんがご指摘されたようなアプローチで考えると、原子力発電所事故による不安では夫婦間に非対称性がある事が切っ掛けとなり、『危機』が頻発している状況が思い浮かびます。そして、発生した危機に対応できないような危機対応能力に乏しい家族内に於いて、そのような問題が発生する・・・という感じなのでしょうね。
そうなると必要な援助は家族心理アセスメントやカウンセリングの手法となると思うのですが、個別事例に対応することは現状では非常に難しく、次善の手段ということになりそうですね。
ありきたりですが、この機会に夫婦間若しくは家族内で腹を割って話し合ってみたら如何?とか、不安に思う事やどうして欲しいかを正直に伝えて、胸の中に溜め込むのはやめてみたら?という助言なども考えられそうです。
あとはどんな手があるでしょうか・・・色々と難しそうですが、相談や質問を持ちかけられたとき、示す事の出来るカードは多い方が良いだろうなぁ、とは思っております。

ながぴいながぴい 2011/09/16 00:22 >黒猫亭: でも、ホントにモヒカン的な動機でニセ科学批判にコミットしている論者ってそんなに多いのかな

いわゆるモヒカンは動機ではなくて、ネット上で起こる衝突の形態のひとつだと思うぞ。

おもしろがって攻撃している連中もいるのだろうけど、この問題の本質は、意識せずに、相手が「攻撃された」と思ってしまうような批判をしてしまう人がいるということだと思う。

ふぃっしゅふぃっしゅ 2011/09/16 09:46 出産関係の怪しげな民間療法に疑問を持って考えているうちに「ニセ科学」という表現とそれが指す内容を知って、素直に「そう、それが問題!」と納得できました。
その後いろいろ読んでいるうちにニセ科学批判とかニセ科学批判批判という言葉にぶつかって、そういう表現は何のためにあるのか未だによくわからないというところが正直な感想です。
簡単なことをかえって難しくしてしまっているのではないかと。
批判の形や動機だっていろいろだと思うので、いろいろなやりかたがあってもいいと思います。誹謗中傷は論外ですが、言い方に問題があると感想を持てば「こういう言い方は問題」と感想だけを言えばすむことだと思います。
ネット上の議論は、あくまでもゆるやかに共感を持つ人の集合でなりたっているので、あまりグループ化されたような表現も戸惑ってしまいますね。
doramaoさんの伝えたいことも一理あると思います。
でも先日からのもやもやした気持ちは、ながぴいさんの一言がぴったりきました。

黒猫亭黒猫亭 2011/09/16 18:11 >ながぴいさん

>>いわゆるモヒカンは動機ではなくて、ネット上で起こる衝突の形態のひとつだと思うぞ。

ながぴいさん個人のご意見はご意見として、本文で「モヒカン的動機」として言っているのは、以下の項目で「モヒカン族の特徴」として挙げられている心性を踏まえています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%97%8F_%28%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E7%94%A8%E8%AA%9E%29

>>おもしろがって攻撃している連中もいるのだろうけど、この問題の本質は、意識せずに、相手が「攻撃された」と思ってしまうような批判をしてしまう人がいるということだと思う。

本文ではまさにそのような話をしていたつもりなのですが、こちらの表現が及ばなかったようですね。改めて直接表明いたしますが、この鼎談で三人が語っているのはまさにそのような事柄です。

ふぃっしゅふぃっしゅ 2011/09/18 11:17 doramaoさん、再びこんにちは。前回の自分のコメントを読み直して重大な間違いを発見し、心に大汗を書いています。
ながぴいさんのコメントを取り違えていました。その部分は、黒猫亭さんが再度確認されている内容ですね。私も十分に理解しています。
私が考えたのは、twitterやネット上の個人個人の議論の中での行き違いや紛糾は、あくまでもその個人の問題と傍観しておいたほうがいいのかなという感想です。
それを「批判派」「批判批判派」と表現すると、ニセ科学を指摘された側が「やっぱり自分は『批判派』に攻撃されている」と実態もない「派」をイメージしてかえって誤解されてしまうのではないかという心配でした。
あくまでも感想です。
こうした議論の過程を読めることは、有意義だと思いました。
ただ会話の多い小説の読書感想文は苦手な私なので、十分理解しきれていないかもしれません(泣)。
きっと前回の私のコメントに、doramaoさん返答を困っているのではないかと思い再度コメントいたしました。ご迷惑をおかけしました。お許しくださいモフ。

doramaodoramao 2011/09/18 15:35 >ふぃっしゅさん
もしかしたら誤解はあるのかも・・・と、思い返答をちょっと躊躇っておりました。
ですが、ふぃっしゅさんにコメントいただいた内容で仰りたいことは理解したつもりではあります。なので、これに懲りずコメントを頂ければ嬉しいです。(迷惑と思っていないです)
※ ※ ※
このエントリでは実際に3人で話し合いを行いましたが、どうして攻撃的な批判者と見られてしまうのか?実際にそういうことが行われているのか、何か構造的な問題があるのか?そういった疑問が話し合いの切っ掛けと成っております。
自分たちにそう思わせるような共通項があれば改める必要があるからです。1人で考えていればダブルスタンダードも見過ごしたままにも成りそうだからです。
もう一ついってしまうと、所謂ニセ科学批判側は外から見た場合に相互批判が行われていない、若しくは身内には基準が甘いと見られる事などもある事を頭に入れて議論を行っておりました。
自己満足や興味本位で、1人の人間の大切にしている領域に踏み込んだりする事自体が傲慢なのではないだろうか?等々の疑問があったのですね。これはふぃっしゅさんが二つめのコメントで述べている事と同じですね。
ケースバイケースではあるものの、個々人の事情を斟酌しないで事実を突きつけると謂う行為の暴力性については今後も考えていかなければならないと思っております。
それは、マルトリートメントについて考えた(不適切な対応を行う保護者に対し不適切な対応をした場合の被害者になりうる者は子どもだろう)時から自分にとって重要なテーマとなっております。
自覚がない行為によって何が起こりうるのか?もしかしたら自分も不適切な応答を行っているかも知れません。そうならない為にもダブスタ無しの相互批判が大切なのかなぁ、と思うのです。
私の返答、支離滅裂かも知れませんがご容赦下さい。

2011-09-12

緊急鼎談!震災の不安とニセ科学(前編):ニセ科学問題はどう変わったのか?

| 20:00 | 緊急鼎談!震災の不安とニセ科学(前編):ニセ科学問題はどう変わったのか? - とらねこ日誌 を含むブックマーク 緊急鼎談!震災の不安とニセ科学(前編):ニセ科学問題はどう変わったのか? - とらねこ日誌 のブックマークコメント

※今回はいつものとらねこ日誌とは趣向を変え、以下の3人による、緊急(?)討論会の模様をお送り致します。3人で激しく議論した内容を黒猫亭さんに座談会形式にまとめて頂きました。ニセ科学問題(?)にコミットする3人が抱いた、震災前後の変化とは?どうやって変化に対応するか・・・このままでよいのか?などを熱く語りました。どうか最後までお付き合い下さい。

今回の登場人物

どらねこ:このブログを運営する宇宙動物。食と健康関連のブログの筈が脱線が多いのが悩み。最近はむいみさんの人気に嫉妬気味*1であると謂う。


黒猫亭:読むと目が痛くなる「黒猫亭日乗」の管理人で愛称はクロネコッティ。複雑な問題の論点整理には定評がある。今回は座談会のまとめ役を快諾してくださった。

http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/


むいみ:みんなが忘れた頃に更新される神出鬼没な「azure blue」の管理人で腐女子ツイッターではむいみんと呼ばれ、おぢさまのアイドル的存在である。

http://kuroha.blog.shinobi.jp/


どらねこは考えたのです。

この前ニセ科学批判について書いたエントリにはたくさんのアクセスを戴いたし、嬉しいブコメもいっぱいもらいました。いろいろ考えて凄く苦しんでアレを書いた甲斐がありました。でもごめんなさい、私は呆れる程に欲張りで自分大好きなフリーダム猫なのです。もっと褒められたいんです。もっともっと、褒めて褒めて褒めまくられたいんです。褒められたい・・・あ〜も〜ホメられたいっ!

そんなわけで、どらねこは日頃仲良くしてもらっている二人のトモダチ*2をお招きして、面と向かってホメてもらうことに決めました。なぁ〜に、あの人たちのことだから、どらねこご自慢の美味しいキノコとホヤで釣ればすぐに来てくれることでしょう。・・・おや、話をすればにゃんとやらです。早速玄関のインターホンが鳴りました。きっとあの二人に違い有りませんよ・・・。


■エサに釣られてやってきた

むいみ: こんにちわ! きたよ!

黒猫亭: 罷り越して*3ござる。

どらねこ: いらっしゃいモフモフっ!!

黒猫亭: なんでも美味いキノコとホヤをご馳走戴けるそうで、それを楽しみに地獄を見たと思って遙々最果ての北の国に推参仕りましたよ。

むいみ: そうだね、ぼくも楽しみだよー。キノコは好きだけどホヤはきらいだけどね。ついでに言うとホヤは生まれてから一度も食べたことなんかないんだけどね。でもたぶんきらいだよ、うん。

黒猫亭: えっ、それじゃあキミは一体ナニしに来たんだ?

むいみ: だって、どらちゃんが「一週間待ってくれれば本物のキノコとホヤを食べさせてやるモフぅ〜!」って大見得切るんだもん。楽しみだよね、ぼくが今までに食べてきたキノコって本物じゃなかったんだなー、全然知らなかったよ。ホヤは生まれてから一度も食べたことがないけどね、たぶんぼく、今まで食べたことのないものってたいがいきらいだよ。楽しみだなー。

どらねこ: ・・・えっ? あ、あれ? そうだっけ? 今日は昨日山に行って採ってきたポルチーニ*4を「うそっ!*5」と謂うほど惜しげもなくふんだんに使ったお下品なパスタと、獲れたてほやほやの新鮮なホヤをほやっと焼いてご馳走しようかと思って用意しているんですけど・・・

むいみ: ポルチーニ茸もホヤも食べたことないわー。食べたことないからたぶん97%くらいの確率できらいだわー。でも、本物のポルチーニ茸とか本物の焼きホヤとかはニセモノとは違うんだよね、きっと美味いんだろうなー。すごく楽しみだよー、早く本物のポルチーニ茸と焼きホヤを食べさせてよー。

どらねこ: (プルプルプルプル)た、多分美味しいと思いモフ・・・

黒猫亭: (・・・この子はアレか、「一週間待ってくれ」と謂うのは単なる時間稼ぎの常套句で、単に「普通よりちょっと美味いもの」が出てくるだけだと謂う昭和な約束事を識らないのだな・・・)

どらねこ: ・・・(コホン)えーとですね、実は本日ご両所に拙宅へお越し戴いたのは、日頃のご愛顧に感謝を込めて心尽くしのオモテナシをしたいと謂う事なんですが、それだけじゃなくて・・・えへへ(チラチラッ)、あの、私がこの前上げたエントリについてご両所のご高閲を賜りたいと、このように愚考致しました次第にてございましてですね・・・。

むいみ: あれ、そうなの? ぼく、そんな話全然聞いてないから何も考えてきてないよ。ぼく、何も考えてないとナチュラルに攻めとか受けとかリバとか総受けとか掛け算順序問題とかぐぇへへへたまんねぇー*6とか腐ったこと口にするけど大丈夫かなー?

どらねこ: ・・・そ、その辺は書記役の黒猫亭さんに全部お任せしてありますから、大丈夫だと思いモフ・・・ねえ、黒猫亭さん?

黒猫亭: (チッ)丸投げかよ・・・はいはい、武士の情けで腐ったセリフはオフレコにしてやるから、思う存分ぐぇへへへしたまえ。

むいみ: そうなのか、じゃあ安心したよ。それより、この辺のテキストってどうせクロネコッティさんが導入部としてでっち上げた設定紹介のためのフィクションなんでしょ? このノリで真面目な話するのってつらくないかなー、つらいよねー?

黒猫亭: ・・・誰がそこまでメタフィクショナルなセルフリファレンスをしろと言った。新人類*7の腐女子はこれだから扱いづらいぜ。これはな、キミのことをご存じない読者に向けて面白可笑しくキャラ立てして印象附ける目的と、この後延々糞真面目な会話が続くから、せめて導入部で小芝居を入れて読者を掴んでおかないと不安で不安でボクたまんないんですぅ、と謂うアクセス乞食流の小心な配慮なのだよ。

むいみ: えっ、「シンジンルイ」ってなに? NEXT能力者とかそんな感じなのかなー、ぼく、電撃とか変身とか火炎放射とかハンドレッドパワーとかできないんだけどなー、記憶操作ならちょっとできるけどなー、相手が記憶を完全になくすまでひたすら強く殴り続けるだけだけどねー。

どらねこ: あのう、導入部の小ネタはもうお腹いっぱいですので、そろそろ本題に入って戴いて宜しいでせうか・・・

黒猫亭: はいはい、じゃあみんなもうネタはいいから真顔になろう。


f:id:doramao:20110911211238j:image:w200 キリッ!

f:id:doramao:20110911211551j:image:w200 キリキリッ!

f:id:doramao:20110911211714j:image:w200 キラーン!

むいみ: どらちゃんて、真顔になると形とか色とかずいぶん変わっちゃうんだねー、知らなかったわー、知らなかったからたぶんきらいだわー。

黒猫亭: 未知のアイテムをヘイトしてdisるのはたいがいにして、とっとと本題に入るぞよ、そこの穢れなき純心なお嬢様よ。

むいみ: うん、わかったよ。さて、どらちゃんおつかれさま、かなりの長文エントリだったんでブログを間違えたかと思っちゃった。長かったけど、最後まで一気に読んじゃいました。やっぱり行間のおかげかなー、世間にはあれより長くてぎっしりで読むと目が痛くなるいやがらせみたいに真っ黒な糞ブログ*8とかあるけどそれより全然マシだったよ、うん。

黒猫亭: ・・・如何にもついでみたいにお座なりなアテコスリーを入れなくてもいいから。うん、あれはとらねこ日誌にしては随分長いエントリだったけど、これまでの遠慮を捨ててかなりハッキリとニセ科学批判に対するステートメントを出した印象だよな。面白かったですよ。



■震災がすべてを変えたのか

どらねこ: おホメに与って滂沱の感涙モフ〜。本日はあのエントリで書かせて戴いた様な事柄についてお話をしたいと思うのですけれど、まず、所謂ニセ科学*9を取り巻く現状について・・・なんてお題ではどうお考えですか?

黒猫亭: そうだなぁ、震災後の状況については、オレの感じ方ではやっぱりこれまでよりもかなりカジュアルな感じでニセ科学が受け止められている印象なんだけれど、これは今年になってからの変化なのかな?

むいみ: ぼくはほとんど震災の影響がなかった地域で暮らしてるので、あまり震災前後で状況が変わったという意識はないんだよね。

黒猫亭: そうか。でも、ネットの状況と謂うことなら地域的な格差はないよね。たとえば最近は「ネットコミュニケーション」と謂えばツイッターが主流的なツールなんだろうけど、オレは今年から始めたので長期的な状況の変化はわかんないんだよね。その辺、どんな感じなのかな?

どらねこ: 今は根拠が定かでない代替療法の活動が活発化して、今迄そんな能書きを掲げていなかったのに急に放射線への効能を謳うようになってきたような状況が有ると思うんですが、そんな根拠の無い言説を広めるような善意のツイートが横行しているように思います。不安で不安でたまらないヒトが「もしかしてコレは効果あるかも」みたいな軽い気持ちでツイートする様な事って有ると思うんです。ヒトの「もしかしたら」と謂う気持ちは侮れないモチベーションですからね。

むいみ: ニセ科学と呼ばれてるもの、たとえばホメオパシー*10とかEM*11なんかはすごく柔軟に「放射能」に対応してきたよね。それが普段はニセ科学に縁のない人たちの間にするするっと自然に入り込んできてるんだと思う。

黒猫亭: 例のエントリでもそう謂う話があったけど、今は去年までとは全然状況が違うよね。原発事故前ならアヤシゲなものに手を出さなかったはずの極普通の人々までもが、強い不安感の故にニセ科学に対する敷居が低くなっている印象だよね。

むいみ: 不安を感じてる人は、なんでもいいから効果があるものを試してみたいだろうし、ニセ科学のほうはそれを見越して手を広げてるから、周りを見回したらそこに普通にニセ科学がある、みたいな状況になってるのかも。

どらねこ: それには、コミュニティなどによる口コミの影響が強そうですよね。他の人たちと不安を共有したいと謂う気持ちが関係しているのかもしれません。放射能の様な得体の知れない不安に対抗するには神秘的なモノのほうが印象が良いかもしれませんから、そう謂うニーズにニセ科学が上手くマッチしたのでしょうね。

黒猫亭: なるほど、その辺はニセ科学側のマーケティング戦略がこの混乱に乗じて上手く奏功しているってことなんだろうな。ニーズがあってサプライがある、みたいな関係なのかもしれん。

どらねこ: それに加えて、ニセ科学にハマる人たちって、どちらかと謂うと平均的な方に比べて向上心が旺盛だったり、勉強熱心だったりするんですよね。そう謂う人たちがツイッターを媒介に情報を収集したり拡散したりしていると謂う状況なんではないかと私はみています。ですから、「ニセ科学にハマるのは情報リテラシー科学リテラシーがないからだ」と謂う様な批判は的外れだろうと思うんですよ。

むいみ: そうだね。不安に思ってる人ほどよく勉強してるので、コミュニティの情報交換でそういうネタを仕入れてくるんだろうね。放射性物質による汚染なんて、ぼくらにとってほぼ未知の状況なわけだから、科学的な見方からすると日常レベルでできる対策ってほとんどないじゃん。そうすると、その不安な気持ちとどうつきあっていいかわかんなくなってるんだと思うんだよね。

黒猫亭: それにしても、TLを視ていると人々が完全に二極化していて、ニセ科学を批判する人とカジュアルにニセ科学を受け容れている人に二分された印象なのだけれど、震災前はここまで極端な構図だったっけ。

むいみ: 以前から「国は信用できない」と考えてる層はいたと思うけど、ハッキリと対立構造ができたことが震災後の大きな特徴なのかな。対立構造というか、どちらも対立したいと思って対立してるわけじゃないけど、いわゆる「御用学者*12」は「安全だ安全だ」とばかり言ってて本当の被害を隠してる、と思われてるんだよね。

どらねこ: 不安なヒトが欲しいのは「安心」の保証ですからねぇ、それに応えるのは難しいです。「国は信用できない」と謂う世論については、原子力施策を推進してきた自民党に責任が有ると思うのですけれども。その辺りをマスメディアがどう伝えたかが大きく影響しているような気がします。

むいみ: 今までは国が原子力政策を推進してきたんだから、国に親和的な態度をとる人は「加害者」を擁護してるように思えちゃうのかなあ。

黒猫亭: 国と謂うかおおまかに「制度」と謂ったほうがいいのかな? 人々の日常的な安心感は制度に対して無意識の信頼感を抱いているから得られるわけで、それが崩壊したことで、何を信頼していいのかわからなくなったと謂うことがあるかもね。

むいみ: ホントに「制度に対する信頼感」なんてあったのかな?

黒猫亭: だから「無意識の」となるわけ。たとえば、電車なんか事故を起こすと凄く怖いよね。クルマだってみんなが勝手に運転しているんだから、ホントは怖いはずだよね。でもみんな乗っているのは制度に対する無意識の信頼があるからで、それは多分、原発も同じだったんだろう。一旦事故が起こると物凄く危険なものが目の前に存在すると謂うことはみんな知っていたんだよ。そこで時々小規模な事故が起こっていて、それが度々隠蔽されていたことも。「けしからんことだ」「怖いことだ」と思っていた。でも、みんな大筋では「大丈夫だろう」とも思っていた。ところが、大丈夫じゃなかったんだよね。

むいみ: そっか。「大丈夫だろう」というのは無根拠な希望的観測なんだけど、責任をもって管理してるのは自分たちじゃなくて、国とか制度みたいなよくわからない強くて大きなものだから、それを考えないで済んでたということなんだろうね。起こってみて初めてその思い込みには具体的な根拠なんかなかったってことに気づくんだ。その反動で一気に「裏切られた! だまされてた!」「あのときも隠蔽していたんだから、今度も隠蔽してるに違いない!」ってなっちゃうんだろうね。

どらねこ: 国や制度が信じられないなら何を信じるかと謂う事で「身近な信頼できそうな人」の言葉を無条件で信用すると謂う事になるのかもしれませんね。もしくは「敵の敵は味方」メソッドで、敵である国家を攻撃するヒトを無条件に英雄視してその言説を信用してしまうのかも。自分を含む周りを見渡せば、完璧にルールに則って行動できているわけじゃないなんて事は簡単に気がつく筈なのに、国や制度のような大きなものには完璧であることを求めてしまう。その辺りに大きな危険があるのだと思います。

黒猫亭: 国も制度も大枠で言えば信用に値すると思うけど、完璧じゃないよね。勿論、原子力行政についても綺麗事ばかりじゃない、舞台裏には汚い利権構造があったりするんだろうし、「絶対安全神話」だって嘘だった。それは事実だとしても、それはイコール「完璧じゃないから完全に信用出来ない」ってこととは違うよね。



■そして科学者は責められる

どらねこ: 今のように平常時とは謂えない状況に陥れば、専門的な科学教育を受けていない方々は混乱した行動をとる事が予測されますよね。その場合、それに対処できるのは、科学について訓練を積んできた人々であってもオカシクナイと思うんですね。ところが実際は科学者や科学に詳しい人々に期待される役割が機能しているように見えないばかりか、逆に混乱した人々を痛めつけているようにも見られていますね。

黒猫亭: そうだね、特定の専門的訓練を受けた人間は社会的リソースとして特定の社会的責任を負わざるを得ない。これが大前提としてあるから、科学者に対しても現状に対するコミットへの強い期待感がある。

どらねこ: ええ、科学者に対して「国の味方をするな」とか「何をやってるんだ」と謂う様なキビシイ批判的な意見が多いのは、科学者に対する期待感の裏返しみたいなところもあると思いますね。

むいみ: 社会からの期待はあっても、そもそも震災はともかく原発事故については未曽有の出来事だから、慎重で誠実な科学者であればあるほど不用意な発言はできないと思うんだよね。

黒猫亭: そうだね、科学と謂うのは世界を厳密に記述する方法論だから、科学者の言葉は現実の厳しさや先行き不透明感の代弁者になっている嫌いがあるわけだよね。現実に対する反撥がそれを代弁する科学者に対する反撥に重ね合わされている嫌いはあるんだろうな。

むいみ: 決定的に信頼されなくなったのは「原発はメルトダウンを起こしていない」という趣旨の発言じゃないかな。たぶん「科学者は安全だと言ったのに放射性物質が飛散したじゃないの!」というその反動が続いてる気がする。

黒猫亭: そこはターム論の範疇の問題で「メルトダウン」と謂う言葉に拘っても意味がない、と謂うのが事故発生当時の菊池誠さん*13の主張だったよね。

むいみ: そう。「メルトダウン」を「爆発」と定義するとやっぱり起こってない。だけど、燃料棒が溶けて圧力容器が破損したことを「メルトダウン」と定義すると起こったことになる。だから「メルトダウン」なんて言葉を使うと混乱するだけだからやめましょう、という話があったよね。

黒猫亭: それと、期待されている安全性のレベルが「ゼロリスク」だったのに、現実には相対リスクの話になっちゃってゼロ一〇〇のレベルの問題じゃなくなった。そこが不信感に繋がっているところはあるかもしれない。

むいみ: でも、実はぼくらが思っているほどゼロリスクは求められてないのかもしれないよ。普通の日常生活にともなうリスクはいいんだけど、「上乗せのリスク」はゼロにしたい欲求はあるんだろうと思う。だから放射線のリスクと比較してタバコやCTなんかを持ち出すと「そういうことじゃない! ぼくらの言いたいことを理解してない!」とか言われてた気がする。タバコやCTは自分でコントロールできると思われてるんだよ、ホントはそうじゃないけどね。

黒猫亭: なるほど、コントロール可能性の問題か。そうすると、問題はリスクやハザードの妥当な秤量ではなく、自由意志の問題になるのかな。

どらねこ: だから必死にコントロールを求めて、デトックス*14などに走ると謂う事になるのでしょうね。

むいみ: 地震津波だったら自然災害だからしかたがないとあきらめることができる。けれど、原発事故はある意味人災ととらえることが可能なので、それを防ぎきれなかった東電や国へ矛先が向かう。「事故がなければ放射性物質のついた食品を食べることもなかったのに・・・」というわけ。

黒猫亭: 煙草やCTは自分で選んだリスクなのだから、それはリスクのレベルがどの程度でもどうでも好い。気に入らないのは、自分で選んだわけでもないリスクを圧し附けられて、それが自分ではどうにも出来ないこと、と謂うことかな。それと、人間は自分が蒙った損害に対して責任主体が想定出来ればそれを非難すると謂うことだろうと思う。

むいみ: 東電や国の責任を過剰に追及するのはそういう意識だと思うよ。

どらねこ: ゼロリスクが求められていると謂う事ではなく、信頼できる相手に「安心していいよ!」と声をかけて欲しいのだと思います。人々が求めているのは科学の話でもなんでもなくて「大丈夫だと約束したんだから、ちゃんと守れよ」と謂う気持ちなのかもしれませんね。



■「敵の敵は味方」じゃない

むいみ: 原発の「絶対安全神話」は科学者の間でも批判されてたよね。「絶対安全」なんてことがありえないことくらいわかってるはずなのに。行き場のない憤りを抱えてうずくまるより、たとえ糾弾という形でもだれかにその思いを伝えるほうが楽になるんだろうな。ところで、「絶対安全神話に科学者が加担した」というのは本当なんだろうか?

どらねこ: 絶対安全神話に科学者が加担した事になっているから、正義の科学者として、アノヒトやアノヒト*15が持て囃されているんじゃないでしょうか。事実としてこれまで「原発は絶対安全だ」と散々宣伝されていて、広報冊子には安全性について科学的な説明が為されているわけです。科学的な説明をするのは科学者ですから、科学者が介在した事自体は事実でしょう。

黒猫亭: 全部が全部積極的に「絶対安全神話」の醸成に荷担したかどうかはよくわからんのだけどね。科学者が個人の倫理観に基づいて附言した留保は常に無視されるものでさ。科学者は情報を提供することしか出来ないから、都合の好い情報だけが採用され、都合の悪い情報は無視される。まあ、そう謂う状況に過適応する科学者もいるだろうけどね。

むいみ: ふむ。絶対安全神話の崩壊と、それを指摘できなかった、あるいは積極的に推進した科学者の信頼性が低下したのは事実だろうな。だったら、今求められてる科学者像ってどんなものなんだろう? たとえば、武田邦彦氏は今でもいちおう原発推進派なんだよね? 彼が信頼を得たのは何がきっかけだったっけ? 一部では「正直に危険性を伝えたこと」が評価されたと聞いたことがあるけど、あれは「正直に告げた」のではなくて「妄想を垂れ流した」だけだよね。

どらねこ: 単にテレビ露出じゃないですか。テレビ的な演出があって、それに応える軽さを持ち合わせていたとか。

むいみ: 食品関係では「福島県産野菜は全部ダメだ」「牛乳はダメだ」「だけど牛肉は大丈夫だ」というような無責任な発言にけっこう振り回された印象がある。人々が求めている科学者像が、ぼくにはよくわかんないんだよね。一般的に人気のある武田氏とか小出氏みたいなものなのかな?というところから推測するしかないわけで、実はあの辺のセンセイ方には全然興味がなくて、どんな層が支持してるのかすらもよくわかってないのだけど。

どらねこ: ウチは宅配生協やってますけど、チラシを視ると反原発的な講演会などが盛んに行われている様ですよ。生協は反原発の為ならなりふり構わない印象ですね。

むいみ: ぼくは、生協というと食品の放射性物質の測定とかそういう活動しか見てなかったからなあ。でも、今はたしかに状況的にどうしても反原発運動のほうが勢いがあるよね。べつに反原発運動そのものがアヤシイなんて思ってないけど、反原発に紛れてニセ科学が入りこむこともあるんだよね。それと、科学者や国への不信みたいな二項対立や敵味方思考も気になってる。国VS国民、御用VS市民、みたいなアレ。

どらねこ: 敵味方思考って、特定の一部の問題なのに、全体が問題であるかのように錯覚させるところがありますよね。「敵の敵は味方」メソッドっていつからあるのでしょう。

黒猫亭: それはもう、春秋戦国以前の大昔から。やはりそれだけ人間の組織観にマッチした思考なんだろうな。

むいみ: ぼくは「御用学者」の根がだいぶ深いと思ったけどなー。彼らが当初に「安全だ」と言ってたレベルを遥かに超えてしまったものだから、その後にいくら妥当なことを言ってても「国のため東電のためだろう」と歪められて受け取られちゃってるんだよね。

黒猫亭: とうとう「カネもらってる」って話にまでなってるからな。「国からカネもらってなかったら国に味方するわけがない、だからカネもらってるに違いない」と謂うのは鉄壁の循環論理だな。

むいみ: まあ、「自分がその立場だったらお金をもらわないとやらない」ということなんだろうね。ぼくは「鏡の中に映った自分は醜かった」という告白だと受け取ってるけどさ。

どらねこ: 自分が善意なら、それに敵対する相手は悪意でないとモチベーションは下がるかも知れないですね。

黒猫亭: 正しさは悪が存在するとわかりやすいからね。それとは別に、まあたとえば東電や国家とは違うところからだとして、カネもらって科学コミュニケーションをやることが悪いことなのかと謂う別の問題性もある。

むいみ: 正当な研究や事業に対する対価としてお金が動くこと自体は悪いことではないよね。でもさ、「安全です」とか、もんじゅの広報キャラとか、広報施設とかにかけたお金については、この状況では批判したくなるのも当然かな、とも思う。

どらねこ: 実際、原子力広報・教育予算から業務委託費をもらって広報業務を受注している新聞社があって、その新聞社は現在も原子力発電を擁護する記事を掲載し続けているわけですから、そう思われても仕方のない部分はあると思います。

むいみ: お金をかけたことに対する批判は当然あるとして、それを立証せずにだれでもかれでも「金をもらってるから味方するんだ」と決めつけるのはどうなんだろう?

どらねこ: それは論外ですね。実際にもらっていた新聞社*16とはまた違う話で。公の場でそんな事を謂う行為は批判されてイイと思いますよ・・・あ、ところで、折角のお話に水を挿す様で申し訳無いのですが、ちょっとこの辺でお食事にしませんか? お約束通り、とっても美味しいポルチーニ茸と焼きホヤをご馳走しますよ。

黒猫亭: そうだな、オレも喋りすぎて腹が減った。そもそもそっちのほうが今日の集まりのメインの目的だったわけだしな。

むいみ: うん、楽しみだなー。早く食べたいなー、たぶんきらいだと思うけど、早く本物のポルチーニ茸と焼きホヤ食べさせてよー、たぶんきらいだと思うけどねー。

どらねこ: はいはい、ちょっと待っててくださいね、ボクは料理にだけはかなり自信があるんですよ。その上食材が最高で獲れたて新鮮と来ているのですから、万が一にも失敗はありません、ご期待有れでございますよ!

むいみ: ・・・あ、ちょっと待った。ぼくたち、これまでかなりしゃべってるような気がするんだけど、まだ話が全然核心にいってないよね。それで書記役がクロネコッティさんなんでしょ? ぼく、なんか今得体のしれない不安を感じてるんだけどなー。

どらねこ: ・・・ぎくっ!

黒猫亭: まーまーまーまー、キミたちゃーそんな面倒臭ぇーこと考えなくてもいーんだよ! 万事このオレに任せておきゃー心配なし! ささ、そんなことよりどらちゃんお手製の美味いメシを喰おうぜ、はっはっはっはっは・・・



(むいみんの不吉な予言は当たった! 待て!風雲急を告げる次回!!)

*1:新聞を読んでいると猫が新聞に乗って寝ころぶアレである

*2:厭くまでどらねこの認識であり、相手はどう思っているか不明。

*3:昨年、罷り路を歩みかけたと謂う・・・。

*4:ヨーロッパでは人気のキノコであるが、日本ではソレほどでもない。ちょっと郊外に行けば簡単に採ることができる。

*5:美味しんぼ12巻「黄金の意味」参照。

*6:以上全てフジョシ界では基本的な用語らしいのですが、生憎どらねこはフジョシでは無いのでよく分かりませんでした。

*7:ロクジュウネンダイ生まれの黒猫亭氏世代が若かりし頃のバブル期にこう呼ばれていたそうですので、多分バクゼンと「自分よりうんと若い人」くらいの意味でつかっているのでしょう。

*8http://kuronekotei.way-nifty.com/

*9:どらねこはこちらのページで示されているような意味で用いておりますhttp://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/14.html他の二人とはニュアンスが違う可能性がありますが、大きな差は無い模様です。以下「ニセ科学」と表記。

*10:「同種療法」と訳される代替医療の一種で、科学的には「効果が無いことがほぼ完全に証明されている」ものの一つです。医療忌避に結び付き易い性格が問題視されています。http://www.asahi.com/health/feature/homoeopathy_0828_01.html参照。

*11琉球大学の比嘉照夫教授が開発した有用微生物群の名称です。元は土壌改良材として開発されたもので、その用途では効果が有る様ですが、現在は「何にでも効く魔法の杖」の様にニセ科学的な使い方もされている様です。

*12:元々は「権力者に媚び諂って政府に都合の良いことを言う学者」の様な意味でしたが、最近では「政府や大企業の批判に都合の悪いことを言う学者」の様な意味で使われているみたいです。派生語に「エア御用学者」があるそうなのですが、どらねこには定義がムズカシすぎて理解できませんでした。

*13:「ニセ科学」と謂う用語を定義した方で、ご存じニセ科学批判の第一人者です。クロネコッティさんによると、肩書きは「キラキラ☆愛され御用学者ランキング堂々第一位! 大阪大学物理学教授&テルミン奏者」だそうです。

*14:detoxificationの事。全てでは無いが多くはその有用性が実証されていない。銅を蓄積してしまうような先天性の病気であればキレート剤で吸着・排出させる治療法に効果が確認されているが、健康な人が普通に生活を送るうえでの必要性については今のところ無さそうである。

*15:思いついた名前をあてはめてみましょう。

*16:下野の最中らしい

野鳥観察の会会員野鳥観察の会会員 2011/09/13 13:22 菊池教団による集団リンチを目にしてなお、おちゃらけ続けられる感性と人間性。科学云々する前にそのへんにいい加減気がついたほうがいいよ。

2011-09-02

とどけたいことば

| 22:15 | とどけたいことば - とらねこ日誌 を含むブックマーク とどけたいことば - とらねこ日誌 のブックマークコメント

大変な状況だからこそ、お互いの事を信頼し、前向きな遣り取りが出来る事をどらねこは願っています。そんな気持ちで思うところを正直に書いてみました。

■ボクたちはそんな風に社会化された

小さい頃、『知らないおぢさん(人)についていってはイケナイよ』、そんなふうな話をされた記憶があります。知らない人が全部アブナイわけじゃない、中にはイイ人もいるのかもしれないけれど、知ってる人よりアブナイことはたしかです。子どもにはその人がアブナイ人なのかイイ人なのかの判断はとても難しい。だから本当はアブナイおぢさんじゃないのかもしれないけれど、知ってる人より知らない人のほうがアブナイのは事実だから、知らないおぢさんにはついていかないように、と教えることでリスクの回避を図るわけですね。でも、それってつまり、そう教えないと子どもは知らないおぢさんにでもついていくってことだよね。じゃあ、どうして知らないおぢさんでもついていってしまうんだろう?

それはきっと、子どもは自分に対して好ましい(好ましくみえる)態度や対応を示してくれるヒトを信用することにメリットがあるとすでに学習しているからだよね。最初は母親、父親など身の回りの面倒を見てくれる人たち。そして親族や近所に住んでいるヒト、お店の人たち。保護者に抱かれておっかなびっくり、いろんな人と出会っていく。そうして、多くの人がにっこりほほえみ、大丈夫だよ、ほらイイコだね、と声を掛けてくれる。そうしてボクたちは知らない間に社会化されてきた。誰に対しても猜疑心タップリではすぐに疲弊をしてしまうから。人を疑うなんてホントは割に合わないことなんだ。向こうから手をさしのべてくれる人を拒否することは割に合わないってことを、ボクたちは早い内から自然に学習してるんだね。

だから、あえて『好ましい態度を示してくれる人→信じて良い』にも例外があることを示してリスクを回避させる必要があるんだろうね。そんな例外が有ることを学びながらも、ボクたちはおおむね友好的に接してくるヒトに対しては緊張をゆるめ、相手のお話を好意的に聞くように社会化されていった。人間の社会はみんなで協力して一人の力でできることよりも大きなことを成し遂げていくものなんだから、基本的にはお互いの信頼で回っていくほうが効率が良いものなんだよ。

■円滑な社会

自分の周りは敵だらけだ・・・。そんな風に思ってしまうと、ちょっとした事を実行するのにも大変な手間が必要になってしまうだろうね。

店員が話しかけてきた、コイツ僕に不要な在庫品を売りつけようと企んで居るんじゃないか?


財布落としましたよ?知らないオジサンが話しかけてきた。でも、それは僕のじゃない。きっと拾った瞬間泥棒扱いするに違いない。

まぁ、ちょっと極端な例ではあるんだけど、笑顔で話しかけてきた相手を見て、すぐに何かを企んでいるに違いない、みたいに思ってしまうのではとても生きにくいと思うんですよね。でもさ、そこまで極端では無いにしても、一度痛い目にあったら他人が信じられなくなると謂う気持ちはよく分かるんですよ。詐欺師の手口なんてまさに、集団社会を生きるうえで重要な信頼関係を悪用しているわけですね。だから、一度詐欺に引っ掛かったヒトは本当は悪意の無いヒトまで疑うようになってしまうかも知れない。そうやって人を信じられなくなることは、金銭的な直接被害とはまた別の二次被害と謂えるんじゃないかな。

悪意や猜疑心が蔓延する社会だったら、信頼で成り立っている社会活動の多くは円滑に行われない事になってしまう筈だよね。だから、ヒトの善意や信頼を弄ぶような悪徳商法や詐欺に対しては厳しい目を向けて、取り締まることが必要だと思うのも自然だよね。

それでも、『疑わしきは罰する』と謂うようなやり方はスジが悪くて、それって結局権力が猜疑心だけで人を裁く行為だよね。人々が猜疑心を抱く代わりに権力が人を疑いだけで裁くのなら、そっちのほうがもっと怖い。人を罰するのは犯罪を行ったことが明白な場合だけに留められるべき。冤罪ダメっ、なわけ。

だからさ、人の信頼感を損なうような犯罪がなるべく行われないように、自分たち自身が自分たちの為に努力していく必要があるのでしょうね。本当はそんな犯罪を犯そうと思うヒトが居なくなれば一番良いのだけれど・・・。

その為の方法には、法律で取り締まるとか個々人が慎重になるとかあるのだけれど、そうじゃなくって、幼い頃ワクワクした正義の物語を信じる気持ちを、親からニッコリ笑いかけられ安らいだ気持ちを思い出したりして、相手の信頼を逆手にとるような方法は良くないこと!と、思いとどまるようになれたらなぁ、なんて思うんだよね。相互の信頼が喪われた社会は高コスト社会なんだよ、と謂う理解がみんなに共有されていれば、人の信頼につけこもうと思う人も少なくなるかもしれない。

『誰かに騙されるのは騙されるほうが馬鹿なんだ』って言い分は、一見合理的に見えるけど、もっと大きな視点で考えるととっても非合理なんだ。相手が自分を騙すかもしれないと身構え自衛するコスト、相手を信頼出来ないことで協力して行う作業の能率が落ちるコスト、そう謂うふうに考えていくと『騙されるほうが馬鹿なんだ』式の考え方って、無駄なコストを払うのが当然だと言ってるのと同じことなんだよ。

■そんな理由で買ってくれた

僕は昔、接客販売業務をしていた事がある。最初の頃はお客さんに話しかけるとき、緊張してしまいぎこちない笑顔になっていたと思う。慣れてくるとだんだん余裕が出てきて、笑顔に遠慮がちな自信を覗かせながら話しかけるようになった。そうしたら面白いように売れるようになった。

僕は、お客さんからまず必要とする機能をはじめとした要望を聞いてから提案を行った。すぐには満足してくれることは少ないからそうした遣り取りを繰り返した。そうして最後にお客さんを後押しする納得を引き出すヒトコトで購入してもらうことが出来た。こうやって商品を買ってもらった後にはなんとも謂えない満足感が残った。

それとは違い、僕を不安にさせてしまうような事もあった。ある時、高齢の方が買い物に来て、僕は最大限丁寧な接客をしようと優しく笑顔で話しかけた。そうして、こんなのはどうですか?と提案した。そしたら、すぐに購入を決めてくれた。どうして購入を決めてくれたのだろう。

『あんたが薦める商品なら悪いわけは無いと思った。あんた正直で優しそうだから』

その時は嬉しかったと思う。僕の接客技術が受け入れられた、と。でも、今の僕はこの話を思い出してちょっと恐ろしくなる。あの人に必要のないモノを提案したとしても同じように買ってくれただろう・・・と。

それから、僕はずぶの素人の割にはバンバン売りまくった。その様子を見ていたメーカーの販売促進の人が僕に商品券を手渡した。ウチの商品を沢山売ってくれるから気持ちだよ・・・、と。僕は受け取ってしまった。あの商品が良いと思うから薦めたんだ・・・、だからナニモモンダイナイ、モンダイナイと。何で受け取ったんだろう?

それから間もなく僕はその仕事を辞めた。別に罪悪感とかじゃなくて・・・でも、自分には合わないと思った。もし、その仕事を続けていたとして、必要のないモノを薦めないで居られただろうか?

その方は『どらねこさんだから買うんだよ』と言ってくれたけど、僕は本当は『貴方の説明に納得できたから買ったよ』と言われる事を目指していた。その説明を聞いてもらう為に必要な手続きが、相手に受け入れられそうな笑顔と好ましい話し方だったのだけれど・・・その方が欲しかったのは、『説明』じゃなくて『笑顔と話し方』だけだったのかもしれない。

だから僕は、僕の『笑顔と話し方』を信じて『説明』を必要としないような全面的な信頼が怖かったんだと思う。相手の信頼につけこんで自分の成績を上げようなんてワルイ事を考えなくても、僕が必要だと考える物が必ずしも相手にとって必要だとは限らないよね。僕とその方は別の人間なんだから、そんなことまでは分からない。だから僕はキチンと説明してその方自身に判断してもらいたかった。

でも、その方は僕が必要だと言ったら『そうだね、必要だね』って思って買ってくれるかもしれない。多分相手は説明なんて聞いてなくて、僕の笑顔や話し方だけを見て、そこでもう『判断』を終えてしまっていたのかもしれない。本当はその人自身が自分で判断しなきゃならないことを、他人の僕が判断して僕がその判断に責任を持たなきゃならなくなっていた。

僕はそれを仕事だからやっていて、その仕事や能力が評価されて褒められたいと思っていただけなんだけどね。

でもある時ふと考えた・・・その方は僕が必要だと言えば必要だと思ってくれるのだから、全然騙したことにはならないんじゃないの?だったら、その人にたくさん買って貰って売上を増やすことはちっとも悪いことではない・・・、と。だんだんとそんな風に納得をさせようとする自分がいた。この仕事は続けられないな、なんとなくそう思った。


■好悪で判断と合理的に判断

相手に対する印象で価値判断を歪めてしまう事は誰にもあると思う。同じ事を謂われても、○○さんなら受け入れやすいけれど、△△さんからだと反発してしまう・・・みたいな。前段で書いた、相手に対する印象で購入を決めた人はその傾向が強かったのだと思う。

でもね、その方だって全部が全部好悪の基準だけで物事を判断していたワケではないと思う。極端に言えば、いくら相手の印象が良くても、買いに来たモノと別なモノをいきなり薦められたら買うワケなんて無いからだ。その中にはある程度の合理的な判断が存在するはずだ。

判断を行うにあたり、人によって好悪と合理性の寄与する割合が違っていたり、その時のコンディションや何を決めるのかによっても判断の参考基準は変わってくるのだと思う。だからこそ、自分が信じてもらいたい話、妥当であると思われる話を相手に伝えたい場合には、なるべく好悪の判断基準についても働き掛ける努力は続けるべきだと思ってるんだ。

さっきの話で謂うと、たとえばお客さんが何か欲しいと思ってお店に来て、店員の態度が『えっ、そんな事もわかんないの?』『自分のお金を遣うのにそのくらいの勉強もしてないの?』『ちょっとは勉強してこいよ』みたいな冷たく見下したものだったら、誰も買ってくれないよね。そのお客さんが何かを欲しいと思ってお店に来たことは事実なのに、店員の人柄が信じられないから何も買わずに帰ったとしたら、それはお客さんにとってもお店にとっても一つも良い事はないよね。

だから、僕は笑顔と話し方を良くすることは、お話を聞いてもらう為の必須条件なんだと思う。あのお客さんの事でも、笑顔と話し方のおかげで『話を聞いてもらう』と謂う段階までは行っていたのだから、今ならもっと違うことが出来たんじゃないかな。『どらねこさんが良いと言うんなら買うよ』と言われても、自然にご本人に判断してもらうような説明の持って行き方があったんだろうと思う。

僕が『これが一番良い』と決めてそれを薦めるのじゃなくて、いろんな選択肢を用意してきちんとその違いを説明することで、自然にその方自身に判断してもらうことは出来たんじゃないかな。そう謂うふうに説明すれば、少なくともその方が本当に欲しかったものを一緒に探しながら見つけていくと謂うことくらいは出来たのだろう。僕はその程度に人間って合理性を持っていると思うんだ。。


■鏡を見る

そんなふうに人を好悪で判断する事って、『何も知らないお客さん』だけに限ったことなのかな、とも思ったりする。僕自身、その方みたいに僕を信頼してくれるお客さんには熱心に説明しようと思ったり、逆に態度の悪いお客さんにはちょっと不親切な説明をしてしまったり、と謂う事はあったんじゃないか。『おっ、この人ちゃんとわかってるな、勉強しているな』と思うと説明に熱が入ったりね。

『こんな奴には説明してもわかりっこないから無駄だ』『こんなイヤな奴に親切にしたくない』と思う気持ちって態度に出たりするよね。それが相手に伝わることで、説明を聞く気がなくなってもしょうがないんじゃないかな。相手が好悪で物事を判断しているのと同様に、こっちもその相手を好悪で判断している所はあるんだと思う。でも、話を聞いて欲しいと思ったらそれじゃダメなんだ。

僕はこのブログで代替医療やアヤシイ健康法の問題を採り上げることが多いけど、それはそれが間違っているから指摘したいわけじゃない。それが人を不幸にするから、それが人を騙して他人に対する信頼を喪わせるから、僕に出来る限りそれに対抗して阻止したいと思ってそんなお話をしています。だから一人でも多くの人に僕のお話を聞いてもらいたいと思っている。

僕は人間が代替医療やアヤシイ健康法に騙されるのは、その人が合理的な考え方が出来ないからじゃないと思っている。lets_skepticさんがこのエントリ*1で仰っていることなんかまさに僕の考えていた事と同じです。

ひとは意外と合理的で、まがりなりにも合理的な筋道が立たないものを信じるのは難しい。間違った結論に達する過程には、事実誤認があったり、論理展開が間違っていたり、飛躍があったりするもんだけど、信奉者がどのような筋道で信じているのかが重要。多くの場合、信奉者と批判者の一番の違いというのは、暗黙の前提が全く異なることが原因なので、そこまで落とし込むことができたら第一段階成功と考えていいと思う。

状況を全て把握する事なんて不可能だから、全ての場面で的確な判断を下せるなんて事は幻想に過ぎないと思うのね。この過去記事*2でも語ったけど、自分は偶然にその暗黙の前提の違いに気付くことが出来たから、こうやって根拠の無い代替療法やアヤシイ健康法に対する批判めいた事を行っているわけで、根拠の無い言説と気がつかないで、ソレを正しいモノと誤解をしてしている人たちとの違いはそこだけなんだと思う。

だから、まず話を聞いてもらうところから始めなくちゃならないんじゃないかな。同じ目線で話し合うところから始めないと、誰も自分の間違いに気付こうとはしないだろうし、説明するほうだって何処が間違っているのかわからない。頭ごなしに間違いを指摘したって、話を聞いてもらえなかったら意味がないじゃない。

そして、少しでも多くの人たちに話を聞いてもらう為には、対話のチャネルを広くしていかないといけない。その場合、好悪の選択基準をクリアすることって第一条件なんじゃないかと僕は考えている。『自分の話を聞くべきだ』『聞くのが当然』なんて態度の人の話なんか、僕だって聞きたいとは思わないからね。

自分に対して優しく親切に話しかけてきてくれたことで、妥当性の無い言説を信じてしまった人が居たとしても、その人の行動は社会的には批判される類のモノではないと僕は思う。この社会は原則的に信頼関係で回っているんだし、その信頼を踏みにじる悪意が横行しているからと謂って、その判断基準で人を信じるかどうかを判断する行為自体は間違っていないんだから。

■あの事故があってから

去年までと今年では、社会状況が大きく変わっていると考えるのは当然だよね。僕たちは、今の状況で、福島以外の地域では放射性物質についてそれほど厳重な警戒を要する状況じゃないことは知っているし、電力供給以外のリスクがそんなに高くないことも知っている。だから危機的状況なんかじゃないと謂う前提で物事を考えてしまいがち。

たしかに原子力発電所が大爆発して大量被曝したわけでもなければ、致命的なレベルで放射性物質が飛散したわけでもなくて、被害規模は大きいとしても、大勢の人が亡くなるような取り返しのつかない大惨事になったわけじゃない。

でもね、そこに事故を起こした原発があって、未だに事故を完全に終熄させることが出来てなくて、何だかわからなくて目に見えない怖ろしいものが毎日空から降ってきていると謂うことは事実なんだし、ある日突然原発が大爆発して破滅的な状況にならない保証なんか何処にもないことも事実なんだよね。たとえそれがたった1%の確率にすぎないとしてもさ、起こり得ることは事実なんだから。

だから、やっぱり怖い。怖いと思っている大勢の人たちは間違っていないんだし、その意味ではやっぱり今は危機的状況なんだろうと思う。こう謂う時に大事なのは科学的思考だと謂うのは正しいけれど、でもそれだけじゃないんだよね。危機的状況において人間が誰かを信頼する基準って、『その人が正しい事を言うかどうか』じゃなくて、『自分を助けてくれるかどうか』だと思うんだよ。

少なくとも、僕は出来ることなら一人でも多くの誰かを助けたいと思っている。だから、誰かを助けたいと思っている気持ちを信じて欲しいし、その為には僕自身が好悪の判断基準に働き掛ける努力は必要なんじゃないかと思う。

まして今って、とっても怖いのが当たり前なのにその怖さが実現していないから、怖いと言っても理解してもらえないって不満が蔓延しているわけじゃない? だったら、人を信じる基準が『正しいかどうか』じゃなくて『自分を助けてくれるかどうか』『自分の為に何をしてくれるのか』になるのは仕方ないんじゃないのかな。

そして、そう謂う人々が事故が起こる前とは桁違いに増えているんだろうね。以前はニセ科学や代替医療には一部の親和的なメンタリティの持ち主がハマり込むものだったとしても、今はそうじゃなくて、ごく普通のたくさんの人々が、優しく手を差し伸べてくれるかどうかを基準にして騙されやすくなっているんじゃないかな

でも、それってニセ科学や代替医療のワルイ所なの? 優しく手を差し伸べてくれる人を信じて何処がワルイの? 僕たちが誰かを助けたいと思った時に、どうして同じようにしちゃいけないの? そんなワルイ連中は、「話を聞いてもらう」と謂う第一段階を簡単にクリアしているんだよ。そして、人々がそんなワルイ連中を信じてしまうのは、優しく手を差し伸べてくれるのがワルイ連中ばかりだからじゃないの?

なんで僕たちは、困っている人たちに優しく手を差し伸べて、笑顔を向けてはいけないと考えなくちゃいけないのかな。それって人と話をする時に当たり前に必要な手続きなんじゃないの?

■科学的思考法は当たり前じゃない

たとえば科学的思考法を養う為には、そんな人間の基本的な考え方とは別の方法論を学ばなくちゃいけないのだから、学校のような専門的な訓練の場が必要です。今科学的な思考法を身に着けている人たちは、学校にも行かず勉強もしないで人から『正しいこと』を言われただけで『そうか、そうだよな』って納得出来たのかしら。

どらねこは違うと思います。科学的思考法って、tikani_nemuru_Mさんがこのエントリ*3で次のように語っているとおり、黙っていても習得できる類のモノでは無いからです。

個々のニンゲンにとって「しっくりと」くる部分をそぎ落として事実そのものをとり出すことによって成立するのがカガクなのだから、カガクは最初から非人間的であり「しっくりと」くるものではにゃーんだ。

このように、僕が今まで言ってたような人間社会の合理性とは全然別の、人間にとって馴染みのない考え方なのですね。それってコストを掛けて長年訓練して漸く習得出来るものなんでしょ。そんな訓練を積んでいない人たちに向かって、同じように考えろなんて頭ごなしに言って、それで通じると思うなんておかしくないですか?それは科学的思考法を養う為のコストの重要性を軽視する考えなんじゃないでしょうか。

好悪の基準に働き掛けてまず話を聞いてもらうことが必要なのは、その基準だけで相手を支配する為じゃないと思います。それは、多くの人々が当たり前に持っている日常的合理性を発揮してもらう為の入り口なんだと思います。

ニセ科学や代替医療を流布する人々とそれを批判する人々の違いは、笑顔を向けるかどうか、優しく話し掛けるかどうかじゃないんだと思います。そこは同じであっていいし、寧ろ同じであるべきだ。でも、ニセ科学はその基準にしか依拠していないのに比べて、それを批判する人々はそこを入り口にして人々が当たり前に持っている日常的な合理性に訴える、そこが一番違うのだと思います。

『科学的に考えれば自明のこと』と謂う指摘は、専門的な科学の訓練を積んだ相手にしか通じないのは当たり前のことなんです。そして、専門的な訓練を積んだ人は妥当な情報がどれであるかを判断する能力がありますが、そうでない人々に対して科学的なやり方で説明をしても通じないことのほうが多いと思います。

ニセ科学の問題に効果的に対抗するには、大多数の人々が当たり前に持っている日常的な合理性に基づいて正しい情報に辿り着くことを手助けする事が大事なのではないかな。どらねこはそう思うのです。

■おわりに

あなたにつたえたい、でもとどかないことば、それでもとどけたい・・・

僕は以前、とどかないことばと謂うエントリでそのもどかしい気持ちを綴りました。今回のエントリはそのアンサーとして、気持ちを込めて書きました。どうかみんなに届いてほしいな。

ふぃっしゅふぃっしゅ 2011/09/04 11:16 doramaoさん、こんにちは。
doramaoさんのこれまでのエントリーをすべて読んでいるので、おっしゃりたい部分は痛いほど理解できていると思っています。
ネット上でもリアルな人間関係でも、何かを伝え合う時には最初の一歩が大事だととても思います。一言でボタンが掛け違っていくことはたくさんあります。たとえば医療訴訟などの報道を読んでも、きっと患者さんやご家族は医療従事者の態度や言葉を許せなかったのかなという印象を持つことは多々あります。たとえ医学的に正しくてもあるいはそのときの状況でどうしようのない場面(たとえば救急外来に重症の救急搬送がたてこんでいて十分な説明や処置ができなかったなど)でも、感情の部分では納得できない方向へ大きく傾く可能性がありますね。
ただ、私は「不安」をネット上でつぶやいたり記事にする方たちのリアルな状況やその方自身がどういう方なのかがわからないので、なおさら本当に不安なのかなという疑問も感じてしまいます。
デリケートな問題だと重々承知しています。不安な方の言葉を「傾聴する」「共感する」というのは、臨床で毎日向き合っている仕事なので、なおさらなにかちょっと違うようなという気持ちがするのです。
テレビでも震災後は何かあらたなことがあると市民へのインタビュー場面が映されますが、おそらくたくさん他のことも答えていると思うのに「不安ですよねぇ」という部分だけが放送されているのをしばしば目にします。
今、「不安」と表現しているものはどんなことなのだろうという全体像をまず知りたいというところがあります。
福島で実際に放射線量が高めの地域の方たちは、実際問題としての不安はあると思います。関東でも放射性ヨウ素が水道水から検出されり余震が続いた頃は、緊張しましたし不安はいろいろありました。
それ以外の地域でも不安をあおるような報道や情報で、不安にさせられている方たちもいるとも思います。
ただ、震災前でも「不安」の表出はどちらかというと「自信」の一表現なのではないかと感じることもありました。一部の代替療法に傾倒している方たちもそうですね。
それとエントリーには書かれてはいないのですが、「母親の不安」にもものすごく幅があると思いますが、一緒くたにしてそれはデリケートな話題だからと当たり障りのないように接する雰囲気もなんだか違うなと思います。
人間関係の中では声の大きい人が方向性を引っ張っていきやすいという点は、認識しておいた方が良いと思うのです。不安だと声を上げる人の中には、自分が間違った根拠に基づいていることにも気づかずに言葉で表現することに自信がある人がいるのだと思います。
そういう状況の人に己の間違いを気づかせようとするのは、おそらくプライドを傷つけて頑なにさせるだけのような気がします。
合理的な考え方を、ある個人へ向けて説得させるより社会全体へ浸透させる方へ力を注いだほうが良いのでしょうね。そのプロセスは目に見えにくいし時間がかかるものなので、効果はよくわからないのですが。
それと、「自分自身の『母親としての不安』は具体的に何なのか」それは、他のお母さんと一緒の部分もあるでしょうし違う部分もあることを、理解してもらうにはやはり伝える努力とか工夫も必要だと思います。それは震災に関係なく、やはり人間関係をスムーズにする大事な部分でもあると思います。
doramaoさんの文章には、いつも感動します。気持ちの問題をよくさらさらと表現されているので。自分の中のもやもやをちょっとコメントさせてもらいました。

doramaodoramao 2011/09/04 21:03 過去エントリ全て・・・ううっ、なんと嬉しい言葉を・・・。ふざけた記事ばかりで申し訳なくなってきます。
今回のエントリで私は主要な論点については語り尽くしたと思っておりますので、コメントへの直接的な返答は必要ないと思います。なので、ふぃっしゅさんに頂いたコメントで同意や感銘した部分を繰り返させて下さい。
※ ※ ※
>ただ、震災前でも「不安」の表出はどちらかというと「自信」の一表現なのではないかと感じることもありました。一部の代替療法に傾倒している方たちもそうですね。
それとエントリーには書かれてはいないのですが、「母親の不安」にもものすごく幅があると思いますが、一緒くたにしてそれはデリケートな話題だからと当たり障りのないように接する雰囲気もなんだか違うなと思います。
人間関係の中では声の大きい人が方向性を引っ張っていきやすいという点は、認識しておいた方が良いと思うのです。不安だと声を上げる人の中には、自分が間違った根拠に基づいていることにも気づかずに言葉で表現することに自信がある人がいるのだと思います。
そういう状況の人に己の間違いを気づかせようとするのは、おそらくプライドを傷つけて頑なにさせるだけのような気がします。
※ ※ ※
私もそう思いますし、そのタイミングを見計らう為には相手とある程度の期間接している事が必要なのかな、と思います。
じゃあ、具体的には?となるのですが、今のところは、自分から相手に接近するのではなく、カウンターとなる情報を当人や心配するその周囲の方などの目にする場所に掲載する事や、求めたときに手に入る状態にしておく事かな、と思っております。
前から同じ事ばかり謂ってて恐縮ですが、無理をしてもしょうがないから今のところはこの方針でしばらくやっていこうと思っております。

shinzorshinzor 2011/09/07 22:51 はじめまして、お邪魔します。zorori(はてなID shinzor)と申します。
poohさんのところで、この記事をしりやってきました。
実は、とらねこさんの書いていらっしゃることと非常に近い内容の本を少し昔に読みました。
「安心社会から信頼社会へ」山岸俊男 中公新書

いろいろ書いてありますが、前半部分を要約すると、以下のようなになります。

・信頼とは、社会的不確実性が有る場合に相手の人間性や行動傾向から相手が搾取的行動を取らないだろうという期待することであり、安心とは、社会的不確実性が無く(制裁などで搾取的行動が抑止されるなど)相手が搾取的行動を取る心配がないこと。

・不確実性を減らす一つの方法は狭いコミュニティの仲間づきあいに留まる事。それは、安心社会であるが、一般的人間性への信頼が大きいわけではない。外部社会やよそ者への不信感は大きい。日本は安心社会であったが崩壊し始めている。(1999年ごろのこと)

・社会的ジレンマの実験結果からは、日本人よりアメリカ人の方が協力的行動を取る比率が高く、見知らぬ人への一般的信頼が大きい。日本人が集団的協力行動を取るのは、社会的ジレンマのような不確実性がない社会内部でのことであって、他者への信頼が大きいわけではない。

・社会的不確実性が大きい場合には、特定の相手とのコミットメント関係をつくり「仲間づきあい」をし、「よそ者」を避ける傾向がある。このことは実験により確かめられる。

・「仲間つきあい」により、取引費用を小さく出来るが、仲間以外とつきあうことによって得られるかもしれない利益を失っている可能性がある。いわゆる「機会費用」が大きくなる。

・他者に対する一般的信頼の自己申告調査でも日本人はアメリカ人より、他者を信頼する程度は低い。社会的ジレンマ実験での実際の行動も同様。

・他者への信頼が大きいことはお人よしで騙されやすいわけではない。高信頼者の方が、よく知らない他者に関する情報に敏感で他者の行動を正しく予測出来る傾向がある。

・特定の関係にある(よく知った仲間内)相手の好き嫌いや人間関係については低信頼者の方が正確に把握しており、行動の予測も正確。

・低信頼者の安心社会もある社会環境の中では合理性があり、環境が低信頼者を作り、低信頼者がまた、閉鎖的な安心社会(集団主義社会)を強化することになる。しかし、「機会費用」が大きくなると安心社会は崩壊し始める。


10年以上前から、安心社会は崩壊し始めていたわけですが、震災後に一気に進んだような気がします。そこで、信頼社会に向かうのではなく、他者への信頼がますます低くなり、安心を与えてくれるますます狭い安心社会に退却しているのかもしれません。これは「安心」(安全でも信頼でもないが)を与えてくれますが、ますます「機会費用」が大きくなりそうです。

doramaodoramao 2011/09/08 20:04 はじめまして。コメント有り難うございます。
山岸俊男さんは、社会学出身の社会心理学の研究者でいらっしゃいますね。日本人の集団主義は幻想である、と謂うような研究成果も著書で語っていらっしゃいますね。
私のエントリで語っている内容が似ているのは、同じように集団主義は錯覚であると述べている、高野陽太郎氏の著書などを読み色々と影響をうけている事が関係していると思います。
高野さんは、心理学出身の社会心理学者です。二人の共通点は実験等による実証を主眼に置いている点では無いかと思います。
※ ※ ※
日本という大きめの安心社会が縮小へ・・・というのは、もしかしたら自分たちが抱いていた集団幻想が溶けてきた結果、昔ながらのお互いを縛り付けるような小さなコミュニティの集合体である日本が顕在化してきたのかも知れませんね。
山岸さんは欧米的信頼社会こそが例外では無いかと述べておりますが、低コストな信頼社会を構築する術を、探していくことこそ、本当(?)の社会学に求められるものではないか?とも仰っていたように記憶しております。
根拠の無い○○療法や、インチキ商売に引っかからないように・・・という取り組みは信頼社会の実現に向けた行動の一つであるとも考えられますね。ヒトにとっては当たり前でない考え方だからこそ、浸透は難しいのでしょうね。
ルールで雁字搦めで成り立つ安心社会なんて窮屈じゃないでしょうか?じゃあ、どうしたら良いのか一緒に考えませんか?甘いかも知れませんが、このようなモノが共通理解の一歩になるのかな、と思ったりしております。
考える切っ掛けとなるコメントを頂き、有り難うございました。

クララクララ 2011/09/11 10:30 はじめまして。
最近こちらのブログを見つけ、どらねこさんの、強い信念に裏づけされた骨のある意見(日本では貴重希少だと思いますが)、そしてなにより人間に対する真摯で真剣な態度(愛情)どんな相手に対してでも人間の尊厳を尊重される姿勢に惹かれています。
特に今回のテーマ、そして二人の方のコメントに関しては考えることが多く、コメントを入れさせてもらいました。

ドイツ(社会)に住んで22年になりますが、この間、人間と社会との関係、人間同士の関わり方(すみません、言葉が固く抽象的ですが、詳しく書くと長くなるので。)などについては、いろいろと悩み意識して考えさせられることが多いです。
常に、自分の常識との葛藤、そしてまた新たな価値観(常識)の構築、そしてまた葛藤と、新たな世界への絶え間ない挑戦を否応無しに迫られています。
「ルールでがんじ搦めで成り立つ安心社会なんて窮屈、、、、、 じゃあどうしたらいいのか一緒に考えてみませんか?」
と、どらねこさんはおっしゃってましたが、どらねこさん自身には答えの一つが見つかっていてもうすでにそれをブログで実行され始めてるんじゃないかなあと思いました。
つまり、科学的思考法を訓練し、なあなあや場の雰囲気ではなく、純粋な思考によって人間同士の理解を深め、その際には例えば<笑顔>というような感情にプラスに働きかける智恵(愛を前提にした技術)もおおいに役立てる。愛情の存在を大前提にした、でも情に流されない純粋思考力の発揮が、人間相互理解や少しでも多くの人が本当に幸せな生を送ることができる社会の鍵ではないかと、、、そういう信念で、このブログにできるだけ詳しく正確に意見を載せよう(思考力の鍛錬と私たちへ話しかけるという意志力)としてらっしゃる。(ちょっと強引にまとめてみました。私の理解力がずれていなければいいのですが。)

私も、長い間このテーマで苦しみ考えていくうちに、最近では同じようなことを思っていました。
国が違おうと同じであろうと家族であろうと、人間というものはしょせんは個々違う生き物であるというはっきりした意識をまず持ったほうがいい。同じ人間なんだからという幻想は持たないほうがいい。そういう認識から出発して、見知らぬ他者への愛情(普遍的な愛、慈愛)をしっかり基底に持ちつつ、純粋思考力を駆使して、相手を理解しよう私を理解してもらおうということに努力を注いでいくこと無しには、信頼社会は実現できないだろう。
暗黙の了解や慣習と言うルールで運営される小さな内向きの安心社会の中に留まろうとすれば、経済政治通信などのグローバル化の進む今の時代、破綻がやってくるのは時間の問題だし、それが維持されたとしても、それは限られた人達のためだけの共同体でしかなく、そんな共同体同士の衝突はあちこちで避けられずにテロをはじめ大なり小なり不幸な形で世界中にあふれてきている。身近に目を向けても、世代間の確執、地方と都市との関係などで多くの問題が袋小路状態。
人間はどこかの社会(共同体)に属して生きるものではあるけれど、一つの社会内のみで通用する固定された作法で生きようとするには、世界はお互いが何かしら関係せざるを得ないくらい複雑に絡み合い近づき合っている今、とても無理があるんじゃないのか。
だから今の私たちに必要なのが、感情がメインの役割を持つ慣習習慣で運営される昔からの共同体(安心社会)ではなく、いつどこの共同体と連携を組もうともすぐにやっていけるような、共通認識を育める土壌作り、どこででも通用するような確実な思考力を鍛えていくことが、ひいてはこれからの信頼社会につながる火急の課題だろうと切実に思う。
それは、それぞれ皆がそれぞれの生きている場で日常生活の中でできる(されるべき)ことだとも思う。

9月8日のNHKクローズアップ現代「世界を変えた9.11」の中で、東大教授の藤原帰一さんが、
「国際関係は分散拡散内向きという方向に向かうと私は憂慮しています。」
「民主主義は一つの価値ではなく、多様な価値の共存を認める制度です。民主主義は一つの価値であり、他の価値を否定するものだと考えた時、実は民主主義は壊れます。」
という発言をされてます。
残念ながら世界中で、安心社会を求めて内向きになりつつある傾向が出てきているようです。
アメリカの主導で世界を引っ張ってきた民主主義というものが、本当の意味での民主主義であったのか?と今の私たちに大きな疑問を投げかけています。
私たちが行っている民主主義が本当に多様な価値を認める制度になっていく(信頼社会になる)ためには、何よりまず、互いを理解しようという姿勢、知りたいと言う気持ちが必要だし、違うもの同士の理解のためには、感情に左右されることのない純粋思考力が大きく問われてくるでしょう。
そうやって違いの詳細を確認しあった後で、じゃあどうやって共存していけるのか?を一緒に探ること、明るい思考共同作業の元での新しいルール作りが将来常に必要になってくるでしょう。

最後に、ちょっと気になったのは、
どらねこさんが考えてらっしゃる科学的思考法というものが、やっぱりそれはどらねこさんが考えられてる範囲での限られた科学的思考法になっていないかな?ということです。
どらねこさんの騙されてる(そうな)人に対する愛情と働きかけはとてもよく伝わってくるので、代為療法やマクロビオなどなどへの批判は本当の誠意からきているんだなというのはよく理解できました。
でも、世の中にはそんな(人から見たらとんでもな)ものがいろいろあって、それぞれがそれぞれの主張をしており、そしてそれぞれのやり方で存在し、いろんなグループや人たちが千差万別にいるので、ひと括りにして、これはまやかしだなどとは言い切れないんじゃないのかなあ?
そこには、たまたまどらねこさんが知り合った人や向き合い方への疑問、強引なやり方に対する嫌悪感が含まれてないのかなあ?
あるもの(考え)まるまるそのものが間違いで怪しくて危ないのではなく、それを各自がどう受け取ってどう実践しているか?という、ケースバイケース、個人の問題なんじゃないのかなあ?
その人を不幸にしてるのは、とんでもがまがい物であるからと言うよりも、その人自身が問題を抱えてる場合の方が多いんじゃないかな?
人間や自然とは摩訶不思議で、無限に自在変化進化する可能性を秘めた存在なので、現段階の一般常識内の科学的思考(これも、現段階で自明になっている範囲で私たちは考えてるだけであり、将来自明になる事柄だってまだまだあるんだと思っておかないとね。)だけをもって全てが説明できるとはあんまり思わないほうがいいんじゃないかな?
世の中には驚くくらい多様な世界観があって、そのどれが正か誤かなんて、私には決められないです。

でも、なんと言ってもどらねこさんのブログの魅力は、どらねこさんはじめいろんな人が、いろんな意見を思考力を駆使しながら自由に述べることが保障されている(勧められている)ことですね。皆にとって、純粋思考の鍛錬の場になっている!と思います。
こうして温かい思考のやり取りができる人たちが集う場というのはとても貴重で、皆さんの博識には全然及びませんが、そんなブログと出会えたこと、とてもうれしいです。

ちょっとまとまりのないコメントになっていたら、どうぞお許しください!

doramaodoramao 2011/09/11 12:20 はじめまして。記事を読んでくださいまして有り難うございます。
実際のところ、私自身まだ考えがしっかり纏まっておりませんので、コメントしていただいた内容にしっかりとお答えすることは出来ません。アメリカ的価値観の民主主義が本当に民主主義なのか、など色々と興味深いのですが、ゆっくりと考えていきたいと思っております。共同体の衝突という観点から日本を見ると、日本人は集団主義であるというような、国内にも漂う幻想から覚めないと事態は色々と悪化していくのではないかなぁ、といったような漠然とした不安感も持っていたりします。私は国内生活しかありませんが、ドイツでの生活という経験を踏まえてこの様子を見ると、色々と感じ取れる部分が多いのかも知れませんね。
※ ※ ※
コメントについて少しだけ思うところを述べさせてもらいますが、前半についてはだいたい同意です。後半部分についてはおそらく誤解があると思います。
誤解をされそうな発言になってしまいますが、私は個々人にとっての事実というのは確かにあって、それが譲れないもので有る場合が多いこともそれなりに理解しております。なので、ブログでは対抗言論的な記事を載せておりますが、個々人にそれを突きつけるような行動は慎んでいるつもりではあります。
それについては、『小さな子どもが抱きしめる大切なぬいぐるみにあたるものを大人だって持っている』という表現を用いたりします。例えば、猫毛アレルギーに苦しんで、八つ当たりをする人がいたとしても、その人に、じゃあ猫を手放せば?なんていうのは以ての外であるようなものですね。強引に取り上げるような行為は善意であっても許容されないと思っております。
但し、個人の問題で済ます為には、子どもを巻き込まない、他者にむやみに勧めないという事が大切になってきます。他者も薦められるままに受け入れないという事も必要になるでしょう。なので、その判断材料となる言論を掲示している、そんな意味合いです。その中には勿論、私の価値判断が含まれていますけれども。
科学的○○があって自分達がある・・・ではなくて、自分があって、自分が住む世界が愛おしくて、その世界をより良くしたいし、楽しく暮らしたい・・・その為に科学というツールを利用している、そんな感じなんですね。この説明で分かっていただけるかどうかは不明ですが、自分語りをすればこんな感じです。
※ ※ ※
とまあ、色々と考えることはありましたが、これだけコメントを読んで色々考えることは稀ですので、色々と楽しかったです。答えのない問題を考え続けるのもまた辛いけれども楽しいことではありますね。

クララクララ 2011/09/13 01:56 どらねこさん、早速の、とても丁寧な返信をどうもありがとうございました。
大丈夫です。私はしっかりとどらねこさんのご意見、基本姿勢を正しく理解してますよ。返信でのご説明で確信しました。私も基本的に同じ姿勢で生きています。だからこのブログにとても好感を持ったのですね。
確かに、どらねこさんのブログがどらねこさんの経験や価値観から書かれていることは当然なので、私の見方とは違うこともあって当たり前なんですよね。私は一部のニセ科学には本能的に身の危険を感じて近寄ろうとも思いませんが、時に「へえっ?!!」て思いちょっとついて行けないなあと思う理論展開があっても、全体的に見て基本理念が自分に合えば完全否定はしないスタンスでいます。いつか疑問が解明できる時が来るかもしれないと、保留にして暖かい目でまあ見守っていくのです。もちろん、その狂信的な信奉者が他人にまで強制するような態度を(無意識にしろ)取ることは是としませんが。
あと私には、「火は人間に幸ももたらすが不幸ももたらす。どちらになるかは、それを使う人間次第だ。」という思いもあります。博学でない私は、ニセ科学らしきものへ直接アプローチするよりは、人間各自が本当の意味で賢くなるようなアプローチ(個人攻撃とか洗脳とかじゃないです。人間同士の共同作業協同援助です)をできないかなあ?という気持ちもあります。要は、それぞれ一人一人が自分できちんと考えることのできる人間になることだと思います。極論を言えば、騙される方も悪い、です。確かに、危ない思想や科学に騙され押し切られそうな人や子供を見て全く放っておくわけにも行きませんが。
私は、一人一人の意見(価値観)の違いは実は気にしていません。互いにその意見を出し合い、さらに一緒に各自の意見を進化させていくことができればいいと思っているからです。だってそのためにいろんな人間がこの世に生きてるんだもの!民主主義って、そういうことでもあるんじゃないかな?
私が大切にしているのは、各自が自分なりの意見やポリシーをしっかり持つこと、そしてそれを誰に押し付けるでもなく、思考の力を通してきちんと他人とそれを会話でき、かつ相手の自由(存在)も尊重できることです。世の中には、自分の正当性ばかりを「声高に」主張し、他人の意見に耳を貸さない(価値を置かない)人は一杯いますから。或いは、自分の意見を誠実に説明しようとする人に対して、「屁理屈ばかりこねててうるさーい!!」と変人扱いして、黙ってることの方が偉いように振舞う実は思考のできない人もたくさんいますから。そういう人たちに対してはなかなか難しいものがあると思います。
但し思考が、人間に対する暖かい愛情を通して出てきたものでなければ、せっかく正しいことを言っていても単なる高慢にしか受け取られませんね。でも、目に見えるように丁寧に紡ぎ出されるどらねこさんの思考は、背後に暖かい心をとても感じるので大好きです。ああ、でもどらねこさんの狂信的信奉者には決してなりませんから、ご心配なく!
日本語で、こんなにハードな思考をもうずっとしてなかったので、記事を読んで頭の中に浮かび駆け巡るいろんな思いがなかなかまとまらず、きちんと文章化できていなかったかもしれませんね。舌足らずなコメントだったかもしれませんが、丁寧に読んで返信をくださり、うれしいです。
言葉に対して繊細な感覚を持とうと努力し、思考コミュニケーションをしていくことは、苦しい作業ではあるけれど楽しいですよね。
この共同作業に、またいつかお邪魔させてくださいね!

doramaodoramao 2011/09/13 19:33 コメント有り難うございます。
私のつたない説明で理解頂けるか不安でしたが、安心致しました。
コメントの中の
>「火は人間に幸ももたらすが不幸ももたらす。どちらになるかは、それを使う人間次第だ。」
という件や
>人間各自が本当の意味で賢くなるようなアプローチ(個人攻撃とか洗脳とかじゃないです。人間同士の共同作業協同援助です)をできないかなあ?
などは、実際にはどうしたら良いだろう、という答えは見つからないままですが、私も考えている内容です。
>「屁理屈ばかりこねててうるさーい!!」と変人扱いして、黙ってることの方が偉いように振舞う実は思考のできない人もたくさんいますから。
このようなケースはトレーニングを積む機会が無かった事により生まれている部分と、そのままでやり過ごす事のできるような状況がつくっているようにも思うのですね。
これから大変な時代に突入するのはほぼ確実でしょうから、無駄なコストのかかる安心社会では乗り越えられないと思うんですよね。

匿名匿名 2011/09/13 21:25 匿名ですみません。1/3ぐらいまでは、良い話だからツイッターで広めようかと思って読んでいましたがそのあとが長かったですね。常連さんで毎回見ていますという人がいましたが、私は疲れ果ててしまいました。どうにかもう少し短くまとめてもらえないでしょうか。
この記事ではなく今後の記事で。興味あるエントリーがいくつかあるのですが全部この長さだと思うと読む前に辟易してしまいます。

ブログは無料で書き手の人が自由に書いているだけのものですからこちらの要望なんてナンセンスなのは百も承知ですが
読んでもらいたいなら読む側に立つのも売り手の努力と
同じなのではないかと思います。

doramaodoramao 2011/09/14 20:35 一つの意見として読ませて頂きました。
仄めかし程度で終わる素っ気ない記事もある程度過去に書いたつもりで居ます。この記事は今まで考えてきた事をまとめた区切り的なものなので、長文になっています。
確かに読んで頂きたいのですが、無理に短くまとめた結果誤解を招くような事はなるべく避けたいとも考えております。誤解を招かない書き方が出来れば良いのですが、それだけの実力を備えておらず、ままなりません。

2010-08-12

とどかないことば

| 21:05 | とどかないことば - とらねこ日誌 を含むブックマーク とどかないことば - とらねこ日誌 のブックマークコメント

現時点で利用しているけど、悩んでいたり、疑問までは行かないけど違和感を持っている方へはどうやって対処したらよいのかなぁ、みたいな事も考えているのですけど、考えがまとまりません。おそらく自分の手に余る問題だからでしょう。それでも色々ゴチャゴチャと考えたりしています。その一部を垂れ流します。

■ネコ揉み療法で書いたことについて

ネコ揉み療法の記事の後半部分で私は以下のように書きました。

対抗言論だけでは解決できない問題なのは誰もが分かっていると思います。ネコ揉み療法が効くという考え方自体が根拠のないものだと、認めるだけで、利用者がそれまで費やしてきたお金の意味は無くなるし、病気の回復への望みもきえてなくなってしまう。ある意味世界の崩壊なのですよね。

自分が善意で行った行為が他者を不幸な目に遇わせていたという現実を突きつけられる・・・善意の人は耐えられるのでしょうか。こういった面へのフォローが無ければ、利用者には正論であっても届かないのだと思います。ビリーバーは説得できないという表現は微妙だと思いますけど、そういった精神状態になった方は心が壊れてしまわないように身を守るように働く自然な反応や行動の発露なのかも知れません。

崩壊した世界に取り残された個人を救う態勢は整っているのであればもしかしたら・・・という気はしないでもありません。少なくとも他者から突きつけられるものではなく、自分で気づいて自分が求めた情報の中に答えがあった場合のような気がします。

お前に何がわかる!といわれそうですが、この意見の背景を書いてみます。

代替療法の利用者とおぼしき方が、批判的内容の記事に書き込みをするのを見ることがあります。その意見に対し、管理者や読者から丁寧な反論が為されるワケです。しかし、何を突っ込まれても意見を翻しません。そして納得しないまま次々に反論のコメントや自分の主張を繰り返し書き込んでいきます。それを見ているヒトなどからは、ビリーバーは説得できない、とか、あいつは何考えてるの?みたいな意見(ブックマークとかも)がついたりします。そう思う気持ちもわかりますし、実のところ私もそんなふうに思ったりはします。でも、そういう批判や非難なりを受ける方の全員が全員ビリーバーなのでしょうか。

■否定してもらいたいのかも

自分の選択した(と考えている)代替療法を多くの方が否定している、それは紛れもない事実です。でも、それを認めてしまうと今までの自分が行ってきた事が否定されてしまう。でも心のどこかで違和感がくすぶっている・・・。ではどうしたらいいの?ここでも何もしない事が苦痛になる・・・確かめたい。否定的な返事が返ってくる、でも認められない。だって認めた瞬間に全てが崩壊してしまうから。

少し昔のお話しですが、ヨーロッパでは産科医院での出産は大変に危険なものでした。それは産褥熱という当時は原因不明の熱病の仕業でした。

当時は細菌が発見されていない時代ですから、仕方のない面もあったのですが、なぜだか助産婦がとりあげる出産よりも産科医による出産により多く起こる事が知られておりました。それは、当時の医者は手を洗う習慣を持たず、他の患者の患部を触れたり病理解剖を行った手そのままに病原菌に汚染された状態で出産出産に立ち会っていた事が原因だったのです。つまり、医師は自らの行為が妊産婦を死へ導いていたのです。この事が明らかになった後、とある医師は自ら命を絶ちました。自分の行っていたことの恐ろしさと罪の意識に耐えられなかったのです。

この医師の場合は知らなかった事がもたらした結果でしたが、何度も否定的な意見を突きつけられても認めなかった方の場合はどうなるのでしょうか。

色々考えてしまいますが、その場で認めなさい、みたいなやり方はどうなのかなぁ、と私は思ってしまうのですね。その場で認めるのはまず無いとおもうので。

■自分を振り返ってみる

それほど深刻な話ではないのですが、私は自然食品大好き、化学調味料ダメ、有機野菜最高!な美味しんぼ信者だったのですね。で、現在はそんな事なくて、逆にそれらの主張を批判する立場なのですが別に誰かに説得されたわけではありません。

じゃあどうして正反対の立場になったの?と、謂えば食品学や栄養学を勉強しているウチにこれらの主張では説明できない事例が数多く出てきたからです。自分が調べているウチに出てきた矛盾ですから、反発は少なかったです。でも、それを見ても化学調味料は美味しくないからダメ、とか舌がしびれるからダメみたいに反発していたけれど、一度矛盾が見つかると丸々正しいとは思えなくなっておりました。更に色々調べると不誠実な説明が目につくようになってきました。

当時を振り返って思うのは、もし誰かにお前の主張は間違っている、コレ読んで勉強しろみたいな事をいわれていたら果たして相手の主張を受け入れたでしょうか?感情的に反論し、反論を積み重ね認めるに認められない状況になってしまったかも知れません。

自分が受け入れる事のできる態勢が整った状態にある時偶然に、自分の意思で読み始めた本に丁寧な指摘が載っていたから・・・だからこそ出来たのだと思います。

■必要なとき必要な情報に出あえるように

殻から出る準備が整っても最後の一押しがなければ自然に殻は壊れない。

準備が整ったときに以下のような丁寧な説明と出会い、そこに書かれた内容を咀嚼することができれば、その時は自らの殻を破る事が出来るのかも知れません。

【Skeptic's Wiki ホメオパシー

http://sp-file.qee.jp/cgi-bin/wiki/wiki.cgi?page=%A5%DB%A5%E1%A5%AA%A5%D1%A5%B7%A1%BC

【Skepticism is beautiful ホメオパシーFAQ

http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20070510/p1

なるべく多くのヒトの目にとまるといいなぁ



【ここから先はどらねこの個人的に思っていることで同意を求めません】

■突きつける事は暴力なのでは?

前回のネコ揉み療法の記事を読んでくださった「むいみさん」はツイッター上でこのような意見を聞かせてくれました。


@doramao たとえばホメオパシーに関する文章のうち最初に見たものが「1.自分の価値観と同じ否定的文章」「2.自分の価値観と対立する否定的文章」「3.自分の価値観と同じ肯定的文章」「4.自分の価値観と対立する肯定的文章」ってだけでも心象がだいぶ変わってきそうですね。

続いて

@doramao 1と3は共感を生み、2と4は反発を生みます。しかし、2はホメを信じなかったとしても批判批判者になりやすいのに対して4はニセ科学批判者になりやすそうです。人によって針の振れ方が異なるのは最初に見た文章もそうですけど、もともとの価値観も大きく影響しますよね。

このご意見で、価値判断をなるべく廃した問題点の指摘が大切だよなぁ、と強く思いました。

むいみさんは更に次のようにツイートされました。

どらねこさんの今日の記事を読んでこんなことを考えていました。卵の殻を外からコンコンって叩かれているのに気付いているのだけど、まだ出たくない。とにかくわかっているのは外から殻を破られたら自分が溶けて流れ出してしまうこと。自分を保てなくなってしまうこと。

だから、外から殻を破られたくない、自分で破りたい。だけど破るのは今じゃないの。もうちょっと待って、いきなり壊してしまわないで。って、かなりポエムってますが、なんかそんなイメージが浮かんできたのね。たぶん谷山さんの曲のイメージで。

このむいみさんの言葉はどらねこの中にあるあまり言語化の出来ていないニセ科学批判批判的な何かを刺激します。この言葉嫌いな方も多いと思うのだけど、この気持ち少し分かるときもあったりするんですよね。丁寧な論者ではそのような事は全くないのだけど、ちょっと見ていて辛くなることがある。ソレ単独を切り取った場合には全く問題ない言説だったとしても・・・

むいみさんのツイートにどらねこはこんな返信をしました。


どうしても目を逸らしちゃう・・・そんな事って誰にでもあると思うんだ。そんな時今すぐに直面しなさいって他者が断罪するのってどう思うよ?ある種の暴力でしょ。

よーするにね、あるヒトが暴力的行為を知らずに行っていたとしても、それを指摘するだけじゃなくて、自分も気づかないうちに暴力的対応で解決しようというのはやめようよ、と言う話。でも、そうしなさいとは謂わないし、自分はそう思うよというだけの話。

自分の中にある弱さと向き合うには準備が必要なんだ、どらねこはそう思う。

うさぎ林檎うさぎ林檎 2010/08/12 23:59 こんばんは。
大月龍寛とナンシー関の対談本の「地獄で仏」だったと思うんですが、大月龍寛が人間が生きていくためには誰でも「いつも心にナンシー関を」持つべきだって書いてました。
あなたの座右の銘は何ですかと聞かれたらそれらしいことを謂いますけど、私の場合心の中では「いつも心にナンシー関を」かな?と思います。

KataseKatase 2010/08/13 07:52 私も何度か信じちゃっている人とネット上でやりとりしてみて、まるきり通じていないなと思う事がよくあります。
こうも考えられる、ああも考えられるのではと提示してみたりするのですが、相手にとってはこちらの価値観の押しつけにしか思えていないのかとも思います。
こちらは決してやっつけてやろうと攻撃しているのではなくて、心配しているのと、読み手である第三者に向けたパフォーマンスとしてやっている部分があります。
そういった私のやりとりを見て、いつも「ビリーバーは説得できないから無駄だ」というご意見を頂きますが、百も承知でしている部分もあります。



でも、ひょっとしてdoramaoさんの言うように「信念がゆらぎつつ」あって、不安になって突っかかってくる人もいるのかも知れません。そういう時があるのなら、やはり攻撃的なやりとりをするよりも、柔らかい口調で諭すように話しかけるのはある程度有効かもしれないなとも思いました。
すぐに考え直せとは求めないけれど、後で思い返して参考になってくれたら無駄にはならないかなと。


自分の正義をぶつけるのはいいけれど、そういった配慮というのは常にどこかに持っていないと、相手を突き放して戻れなくしてしまう恐れがあるのではとも思います。

場合によっては偽善者に映るかも知れませんが、相手の事を心配して言っているんだよという気持ちだけでも伝えたら、相手にとってはありがた迷惑かも知れませんが反発は軽減されるかもしれません。

私がアピタルのコメント欄で「心配しているんです」という書き込みをした後に私への優しさに便乗して反論するとして書き込まれた信者さんがおられましたが、ひょっとすると批判者をやり込めようとしているのではなく、対話を求めてきたのかなと思い返しています。

私の対応は、あれで良かったのかな?と今思い返してまた色々と考えてしまっています。

と 2010/08/13 08:14 ちょこっとだけ失礼します。

http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/mc/03mamoru.html
↑これマルチ商法が問題になって以来よくお世話になっていますが、ネット上でのコミュニケーションで行うのが難しいのはもちろん、たとえご家族のような親密な関係であっても、やっぱりかなり厳しいものがあります。精神的・経済的に疲弊してしまったら、たとえ本人が心変わりしたとしても、手助けするのが難しくなります。

なので「あなたのしている○○は受け入れられないし応援できないけど、あなたのことは好きです。もし、それをやめるのであれば、私を頼ってください」ということを伝えて、少し距離を置くようなことを勧めることを考えたほうがよいのではないかと思います。同時に周囲には(身内の恥を隠そうとせずに)注意喚起をして、被害が広がらないようにしたほうが結果として傷は浅くすむと思います。

poohpooh 2010/08/13 09:04 ぼくは自分の言説の暴力性を意識しています。

開き直っているわけでも、割り切っているわけでもないです(そうできたらどんなにいいか)。誰に向けて、何を伝えたいのか、と云うことです。だから許される、とは思っていませんが。

KataseKatase 2010/08/13 09:05 「私を頼って下さい」というのは、私も難しいと思います。
素人が生兵法で複雑な心理状態の人のカウンセリングをするのは危ないと思うからです。
例えば、私にできることは、その人が誤って信じているものに対するカウンター情報を提供して、自分で後から考える材料の1つにしてくれたら少しは意味があるのかなと思っています。


なので、決して「相談に乗りますよ」みたいな事は絶対に言いません。あくまでもその時の対話での関係に留めています。
ただ、その時の言い方などの接し方によっては、反発を強めるだけの逆効果になってしまうかも知れません。なので、敵対した姿勢のみで対話するのを避けた方が良いのではないかと思っています。でも、ヘタに相手に同調の姿勢を見せて、これは絶対に違うという所をあいまいにはしたくありません。そこは毅然として否定しています。

私自身、まだまだ未熟で色々と思い悩む所が多いです。

doramaodoramao 2010/08/13 13:29 >うさぎ林檎さん
これからはうさぎ林檎さんの文章を読むときにはナンシー関を思い浮かべながら読むことに致します。

doramaodoramao 2010/08/13 13:34 >Kataseさん
私は記事で書いたこと以上に今現在は書ける事はあまりありません。考えていることは多いのですが、矛盾に満ちたものであったり、昨日と今日と違っていたり・・・
でも、他の人もそうだったりするのでしょうね。
だから、正解などは無いのだけれど、私の話したこと、今まで書いた記事などが誰かに届く事があればいいなぁ、そしてなるべく届くよう・・・今後もそう考えながら書いていこうと思います。
Kataseさんのコメント内容自体については、もう少し頭が纏まったらお返事?したいと思います。ツイッターでの遣り取りになるかも知れませんが・・・
色々と考えを書いてくださりありがとう御座いました。

doramaodoramao 2010/08/13 13:41 >とさん
URLの紹介ありがとうございました。
身内の問題を隠さない、というのは大事であるなぁ、と私も思います。
私が今回書いたものは、世間との接点を自分から持とうとされて居る方に対応を想定しておりますので、少し違う面はあると思います。
ご意見参考にさせていただきます。

doramaodoramao 2010/08/13 13:44 >poohさん
意識されているか否かは重要な点であると思います。
私は意識せずに暴力ともなりうる発言を行っていたりして、後で気がつき自己嫌悪に陥ること屡々ですから。
先ずは目的を意識しての発言ができるよう、ここから意識したいと思います。poohさんの問題提起は参考にさせていただいてます。

キモータキモータ 2010/08/13 15:38 >自分はそう思うよというだけの話。

善を武器とする人に別の善をもって挑み、勝者の善を巡る互いに引っ込みがつかない争いに他の人を呼び込んで拡大させる愚からの脱却ですね。

doramaodoramao 2010/08/13 21:14 放っておくとそちらの方向に走りそうになる、自分への自戒でもありますので大きな事は謂えないのですけどね。

田部勝也田部勝也 2010/08/14 05:00 >むいみさんのツイート「卵の殻を外からコンコンって叩かれているのに気付いているのだけど、まだ出たくない」

私は(少なくともネット上では)卵の殻を外からコンコンと叩く事はしないです。しないと言うよりも、殻の硬さも中身も分からずにそんな器用な事はできません。不器用な小心者なので。
でも、むいみさんの言いたい事は良く分かるつもりです。
とは言え、こっちだって必死なんです。見ず知らずの誰かを慮ってる余裕なんかありません。追い詰められているのは私だって同じなんです。
もしかしたら、あなたの殻を叩き割った私の暴力を、いつか準備が整った別の誰かが見て自らの殻を破る事になるかも知れません。その淡い希望だけを拠り所に、私は暴力をふるい続けます。

>どらねこさん「(前略)自分も気づかないうちに暴力的対応で解決しようというのはやめようよ、と言う話」

むしろ、私はいつもこう考えてます。
およそ、価値観や道徳観・倫理観についての主張はすべて「傲慢」で「暴力的」なもの。ある人の理想(=わがまま・独善)と別の人の理想(=わがまま・独善)とが衝突したときに、どのように・どのような建設的な結論を出すのか・出せるのかが問われているんだろうなぁ……とか。

そんなわけで、殻を叩き割ってまわる自分の独善を守る殻をこしらえてみました(↓)。
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-79c2.html

うさぎ林檎うさぎ林檎 2010/08/14 08:13 >これからはうさぎ林檎さんの文章を読むときにはナンシー関を思い浮かべながら読むことに致します。
あーそれは……ビジュアル的には辛いかも知れません、が謂いだしたのは私ですからお言葉に甘んじましょう。
しかし、ナンシー関の本質を過たず見抜く目、愚かな私達を許容する公平さ、どちらも私には欠けているものです。でもまぁ人生はまだ続きそうですので、望みを捨てずに精進することに致します。

ぷっこちゅぷっこちゅ 2010/08/14 14:10 本論とそれますが、自分のなかにニセ科学を批判するこころとニセ科学批判を批判するこころを併せ持つこと、両方がちゃんと見えているdoramaoさんはすばらしいですね。
大好きになりました。と言われても困っちゃうでしょうけど(笑)

doramaodoramao 2010/08/15 20:07 >田部勝也さん
記事よみました。
私も同じように考えている部分は多いです。
このシリーズはともかく、所謂ニセ科学的言説に対しては非難を交えた批判エントリも幾つか私も書いております。
予防や対策がまず基本にあって、そのための手段は尊重されると思います。
批判なりで認知的不協和に陥った状態にあるとき、心に届く可能性があるテキストなどがネット上の目につくところに有ると良いな、増えると良いな、という気持ちなのですね。
但し、あまりにも中傷にも見えるような遣り取りを繰り返した後では、そんな文章を読んでも全く認められなくなってしまうことも有りそうです。
私は感情的な人間なので、特に注意しなければ・・・そういう事です。

doramaodoramao 2010/08/15 20:12 >うさぎ林檎さん
本質って何でしょうね。私はよく分からないので私は大前提の確からしさを検証してからじゃないと信用しないようにしております。でも、それだけじゃなんだか誰も楽しくないですよね。彼女の素晴らしさはそんな処にあるのかしら。
生意気な事を謂いますが、数年前の余所で見かけたコメントより最近のそれはとてもキレまくって居ると思いますよ。勿論良い意味です。

doramaodoramao 2010/08/15 20:13 >ぷっこちゅさん
あまり褒めないでくださいませ。他の方は敢えて表明しないだけで既に考えて行動されているだけですから・・・
うれしいにゃん!と返事しておきます。

キモータキモータ 2010/08/16 20:20 ビリーバーが否定して欲しいのは、親や先祖から遺伝子の異常や有害物質の蓄積のような子々孫々にわたって不幸をもたらす穢れを受け継いでいるのではないかという不安では。
 
トレンドリーダーが指差した先を正義の名の下に攻撃する事で一時的に不安を忘れる事ができる人はいるかもしれません。
依存症にしない対策がとられているなら、治療法が確立するまでの間ぐらいは指差されたほうも、じっとガマンして時間稼ぎに協力するかもしれません。

doramaodoramao 2010/08/17 08:03 未だスティグマなどの影響力の元にあるとか・・・?
それとも、マスメディアにより増幅された不安感かも。
我慢しすぎて疲弊状態かも知れません。

キモータキモータ 2010/08/18 20:59 もう少し時間はかかるでしょうが、将来治療が可能になる明るい希望が今の時代にはあります。
過去には難しかった希望です。

doramaodoramao 2010/08/19 12:57 尚更、基礎的研究を大切にしなくてはいけませんね。

キモータキモータ 2010/08/19 19:45 謎の奇病の原因が公害であるとわかり人の技術の限界に直面した無力感と、
大気も水も土も信頼できなくなった時代に神秘主義が流行するならともかく。
(そんな時代に流行したのは、体の中の悪いものを減らそうとする瀉血だったりするのですが)
 
今、起きているのは、人為的な弱者ビジネスのブームに見えて仕方ないのです。

doramaodoramao 2010/08/19 20:12 お昼の時間帯に放映されている健康情報番組やCMはそれが端的に顕れておりますよね。一つの指標かも知れません。