ゼンメルワイスの物語

もしも産科医師が自らの誤った解釈や手技が原因で、本来守るべき母子の健康を損なってきた事を指摘されたとすれば、それを素直に受け入れる事が出来るのでしょうか。
それが、人の死と直結するような事であれば、認める事は簡単な事ではありません。どらねこであれば、真っ正面から受け止める事ができず、現実逃避や無理筋な反駁を行ってしまうかも知れません。多くの人にとって、取り返しのつかないような過ちを受け止めることは大変に困難な事であると思います。これは代替医療や根拠のない健康法に嵌ってしまった人が後戻りできない理由の一つであると思っております。ハンガリー出身の医師ゼンメルワイスはそんな罪の意識と闘い、過ちを償うためにその人生を捧げました。
この物語を書くにあたっては、南和嘉男著 医師ゼンメルワイスの悲劇 講談社刊(絶版)を大きく参考にさせていただいております。その他、トールワイド著 塩月正雄訳 外科の夜明け (講談社文庫) 、ウィキペディア英語版、『Ignaz Semmelweis』の項、過去の記憶の中にある教科書の文章やネット掲示板上の情報などをどらねこの解釈を交えながら構成を行いました。その為、かなりゼンメルワイスびいきになっている可能性もございますが、それはすべてどらねこの仕業ですので、その点はどうぞご了承下さいませ。
なお、このエントリは、過去どらねこ日誌にて数回にわけて掲載した内容を一つにまとめ、若干の修正を行い掲載をしたものです。

ゼンメルワイス、ウィーンへ
ゼンメルワイスは1818年にハンガリー、ブダ(現在のブダペスト)の商業地区Tabánに生まれました。裕福な家庭にそだった彼は、地元の学校を卒業した後、1837年に法律を学ぶべくウィーン大学にすすみましたが、翌年には専攻を医学に変更し、地元の大学で勉強を進め、1841年に再びウィーンに戻り、1844年にドクターの学位を受けました。卒業後も病理解剖学で高名であったロキタンスキーの元で指導を受け、病理学を修得、更にシュコダ教授からは統計学を学んだとされております。この頃に習得した知識が、後の偉大な発見に繋がったと考えられるでしょう。これらの知識は疫学的に病因を解明するために大きな力を発揮するからです。
その頃、ウィーン大学では第一産科助手の医師が一時不在になるため、その間の臨時助手としてゼンメルワイスに就任の要請が下りました。軽い気持ち(?)で引き受けた筈のこの産科助手の仕事が人生の大きな転機となりました。
 
■第一産科助手
1846年2月、第一産科就任した彼は悲惨な現実と向き合うことになりました。当時のヨーロッパでは産院、大学の産科では産褥熱が流行を繰り返し、時には死亡率が30%を上回るほどでした。さらに流行時にはそれ以上に達することもあった伝えられるほどの猛威を振るっておりました。彼の所属した第一産科も例外ではなく、就任後一ヶ月の間、208人の36人以上も亡くなってしまうという悲惨な状況にありました。
当時、産褥熱というものは原因不明の妊産婦にとっては宿命ともいえる病気であり、医師の力ではどうしようも無い医学の限界を越えるものという認識だったようです。勿論、医師達もただ指をくわえて見守っていたわけではありません。考え得る様々な治療法を試みたようですが、その努力も虚しくなんの効果も見いだせませんでした。ゼンメルワイス就任時には既に現場は諦めの境地にあり、医師、助産婦、看護婦らはこの残酷な光景にすっかり慣れてしまっていたようです。しかし、彼は違いました。彼はこの光景に見慣れることなく、医師としてこの惨状をなんとか食い止めるべく、1人産褥熱に立ち向かいました。

■産褥熱の原因を探る
産褥熱の謎に挑もうとするゼンメルワイスでしたが、その前に彼の上司が大きな壁となって立ちはだかりました。当時の産科医長ヨハン・クラインは産褥熱の問題に対して無関心であっただけでなく、1人奮闘する彼の行動を苦々しく感じておりました。
そのような中、ある一つの事実に彼は注目をしました。ウィーン大学には第一産科と助産婦養成を目的とした同規模の第二産科の両科が設けられておりましたが、産褥熱による死亡は第一産科が圧倒的に高いというデータが存在したのです。実はそれ以前にもこの事実は話題に上ることはあったようなのですが、件のクライン教授にとっては好ましい状況ではなく、彼の性格を考えた部下達はこの問題には触れないようにしていたようなのです。
ゼンメルワイスはそんな事などお構いなしに産褥熱の状況調査を開始しました。綿密な調査の結果、クライン教授が就任した1822年以降に産褥熱による死亡率が上昇していること、1933年創設の第二産科は1839年まで第一産科とほぼ同じ死亡率であったが、1840年以降両科の死亡率に大きな差が生じた事などを発見しました。この差を生み出した原因こそが、産褥熱の謎を解く大きな手がかりなのではないかと彼は考えました。

図はttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Yearly_mortality_rates_1841-1846_two_clinics.png より
■ミアスマ説
細菌が発見されていなかった当時、産褥熱の原因にはミアスマが関わっていると考えられておりました。

ウィキペディア日本語版よりttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%98%B4%E6%B0%97
 瘴気
瘴気(しょうき)は、古代から19世紀まで、ある種の病気(現在は感染症に分類されるもの)を引き起こすと考えられた「悪い空気」。気体または霧のようなエアロゾル状物質と考えられた。瘴気で起こると考えられた代表的な病気はマラリアで、この名は古いイタリア語で「悪い空気」という意味の mal aria から来ている。
ミアスマ、ミアズマ (μίασμα, miasma) ともいい、これはギリシア語で「不純物」「汚染」「穢れ」を意味する。漢字の「瘴」は、マラリアなど熱帯性の熱病とそれを生む風土を意味する。
<中略>
「悪い空気」、つまり瘴気は、「悪い水」、つまり沼地や湿地から発生し、人間がこれを吸うと体液のバランスを崩し病気になる。また、こうして病気になった人間も瘴気を発し、周囲の人間を感染させる。

このミアスマ説は感染の原因が特定されていなかった時代の学説であり、当時は産褥熱の原因もこの『ミアスマ』によるものとされておりました。この正体不明の瘴気は非物質的なものであり、医師達の間では、これが原因で発症する病気は医学での解決は不可能であり、運命的なものであるとの認識が広くもたれておりました。自分達の力ではどうしようもない・・・だから、見守るしか無いと考えていたのでしょう。
もう一つミアスマ説の外に『乳汁説』というものがありました。これは産婦の乳汁が体内から子宮に侵入しこれがミアスマによって腐敗するために発症するというものでした。産婦でなければ、発症しない事の説明として都合が良かったからでしょう。
ゼンメルワイスは根拠のないミアスマ説や乳汁説に疑問を持ち、産褥熱は解決不可能な運命的な病気などでは無い、と調査を進めることにしたのです。

■産褥熱の手がかり
産褥熱は原因不明の呪いなんかではない・・・ミアスマ説を棄却するため、ゼンメルワイスは注意深く観察を行いました。死亡率の異なる第一、第二産科ですが、同じ建物内の隣り合った部屋であり、調光や通風などミアスマを原因とするには環境面での違いが見いだせませんでした。さらに入念に調査を行っても顕著な違いは見いだせないことから、彼はミアスマ説の否定にさらに自信を深めました。
環境面以外での違いを探っていた彼は、産婦の分娩時の体位が大きく異なることを見いだしました。その他、第一産科では医師が担当して学生の実習指導が行われているのに対し、第二産科では助産婦が担当し助産婦の養成が行われているという違いがありました。
この2点、体位については同じ体位での分娩に、医師と助産婦の違いは、医師は助産婦に比べ粗雑であったとの評判を考慮して、優しい介助を徹底しました。その他細かいところまで気を配り、第二内科と同じ対応を行うようになっても、第一産科の死亡率は一向に改善されませんでした。(彼の一連の努力は何の結果をもたらしませんでしたが、この時に徹底的に調査した事で手に入れた詳細なデータ、病気の特徴などが後の解決に大きく役立つ事になりました)
全力を挙げて産褥熱に取り組むものの、死亡率は一向に改善しません、そんな状況に父の死が重なり、心身に不調を来した彼をみて友人の病理学者コレチュカ氏は休暇をとる事を進言しました。友人達の忠告を受け入れた彼は南国ベニスで休養をとり、すっかり元気を取り戻すことが出来ました。そうして心機一転、産褥熱との闘いの現場に舞い戻ってきた彼に哀しい出来事が待ち受けておりました。それは1847年3月の事でした。

■友人の死
リフレッシュ休暇を終え大学に帰ってきた彼を待ち受けていたのは、彼に休暇を勧めた友人コレチュカの死でした。健康であった彼が何故、このような短期間で亡くなってしまったのか。ゼンメルワイスは友人の死因の詳細な経過と剖検記録などを詳しく調べたところ、その発病から死に至るまでの過程が産褥熱と極めて類似していた事を発見しました。それだけでなく、死体の解剖所見もほぼ同じものでありました。男性であるコレチュカが産褥熱に罹患するはずはありません。彼はその発病の原因を調査することにしました。その結果、発病の前、いつものように病理解剖を行っていたコレチュカに対し、未熟な助手が解剖に使用している汚れたメスで彼の腕を傷つけていた事がわかりました。当時、傷が原因で起こる発熱症状を『創傷熱』と呼んでおりました。しかし、ゼンメルワイスが調査したコレチュカの発症から死を迎えるまでの過程は、まさに産褥熱そのものでした。傷が原因で起こる急な発熱症状である創傷熱が実は同じものであるのではないか?これは両者を結びつけることの出来る大きな発見です。もしこれが事実であれば、同じ病気について、外科医は創傷熱と・・・産科医は産褥熱と、同じ病気を別の名で呼んでいただけだった事になります。

ゼンメルワイスの推測
友人を死に至らしめた原因は死体解剖に使用していたメスによる傷が原因であったとすれば、人間の死体には創傷熱の原因となる毒物が存在しているのではないのか。そして、この毒物が付着したメスによって体内に毒物が侵入し恐るべき『創傷熱』を発症せしめるのかもしれない。ゼンメルワイスはそのように推測をしました。彼はこの推測が正しいとすれば、創傷熱の原因となる傷と毒素は産褥熱ではどこからやってくるのでしょうか。
出産には当然の事ながら産道には多数の裂傷を発生しますし、胎盤剥離面は大きな創傷に他なりません。後はこの傷口に毒素が侵入すれば創傷熱を発生しても不思議はありませんゼンメルワイスはある仮説を思い至りました。もし、それが事実であるならば・・・彼はその恐ろしい仮説をさらに推し進めていきました。

その1:第一産科と第二産科の死亡率の違い

死体に産褥熱を引き起こす毒素が存在するのであれば、病理解剖を行う医師が出産に関わる第一産科と解剖を行わない助産婦が関わる第二産科で死亡率が異なることが説明できる。
(当時の医師は汚れた器具の洗浄は行わず、衣服で拭う程度であり、解剖後にも手を洗うことなく、そのまま出産に携わった)

その2:クライン教授就任後の産褥熱死亡の増加

クライン教授就任頃から死体解剖を開始している。

その3:原因究明のため、死体の解剖や産婦の診療や出産介助に努力するほど死亡者は増加

解剖するほど毒素に汚染された手で出産婦に接触する機会が増大した為。

仮説を検証すると驚くほど全ての辻褄が合うように思われました。しかし、その推測は同時に彼にとって耐え難い事実を突きつけることになりました。
知らなかった事とはいえ、何の罪もない女性を殺していたのは自分たちの汚れた手だったのです。そして、熱心に解剖に励んだ結果、より多くの女性を死に追いやってしまったのです。自分こそが恐るべき殺人者だったのだ・・・。彼は罪の意識に自殺まで考えたといいます。

ゼンメルワイスの悲劇p53-54より
後年、彼は著述のなかで
「私は良心に従って告白します。当時の私はどの医師よりも多くの解剖をおこなった者です。この私の汚れた手で若い身空で墓場に送られた婦人達の数はただ神のみが知りたまうところです」
と述べています。

この後、ゼンメルワイスは人生の全てを産褥熱予防に捧げます。

■予防法への道筋
医師の手によってなんらかの病毒(屍毒)が産婦に伝播し、産褥熱が発症すると仮説をたてたゼンメルワイスは、医師の手から屍毒を取り除くにはどうしたらよいのか、その手技の確立に苦心しました。石けんで洗う事で汚れは落とすことができましたが、解剖によって付着した臭いまで洗い落とすことは出来ませんでした。屍毒に原因があると仮説をたてたゼンメルワイスは臭いまでも落とす必要があると考えました。試行錯誤の結果、塩素水消毒とブラシ洗浄を組み合わせた方法を確立しました。これは物理的洗浄に化学的消毒を組み合わせた今日でも行われている消毒法です。
現代にも通用するような消毒手技を確立したゼンメルワイスですが、これで問題解決とはなりませんでした。当時の医師には手を洗う習慣など無く、器具も使い回しが当たり前。ゼンメルワイスの事を苦々しく考えている上司クライン教授は彼の主張を受け入れ力を貸すはずもなく、教授の意向を知る同僚が進んで協力する筈などありません。ましてや当時誰も解決できなかった産褥熱をこのような単純な方法で予防できるはずがないと一笑に付され、さらなる反感をまねいてしまいました。
そんな四面楚歌のような状態の第一産科で洗浄・消毒の徹底をどのように実現したのでしょうか。産褥熱予防に人生を捧げた彼の決意は強攻策に踏み切りました。





物語の途中ですが・・・
■仮説と検証(どらねこの雑感)
病気の発生頻度、患者の特徴、分布など疫学的に検証を行うことで、原因物質や病気の機序が不明のままであっても病気の発生は予防することが可能になります。ゼンメルワイスの素晴らしいところは、原因物質の究明に固執せず、病気を予防する事、産褥熱の悪夢から妊婦を救い出すことに拘り続けたことだと思います。もちろん、原因物質を見つけ出すことも大切ですが、そこで苦しんでいる人がいるのであれば、まず予防対策にリソースを割く事が求められると思います。水俣病での被害拡大、はゼンメルワイスの教訓がなんら活かされていなかった事によるのではないでしょうか。原因物質を明らかにすることも大事ですが、予防対策の重要性についてもうちょっと振り返って欲しいな、なんて思っております。

■おまけ:リスターの予防法との比較
ゼンメルワイス贔屓のどらねこが書いた文章だということを頭に入れておいてください)
Joseph Listerはイギリスの外科医で、フェノールによる消毒法を開発したことで有名な人です。今日ではゼンメルワイスよりもその名を知られた彼ですが、細菌が化膿の原因であると証明されるという時代が味方をした事も大きいでしょう。はじめ、空中落下菌が原因と考えた彼は空中に消毒液を噴霧する方法を選択しました。実際には落下菌は創感染の原因とはならないことが後に明らかになりました。また、フェノールで器具を消毒する事で感染を予防したとされているのですが、実際にはフェノールの殺菌効果はあまり期待できなくて、殺菌効果よりも、フェノールの臭いを落とすために水などで洗浄した事による効果の方が大きかったと考えられております。なので、ゼンメルワイスの行った洗浄法こそが今日にも通ずる優れた感染予防の基本手技だったのです。
彼には何の責任もないのですが、リスターの消毒法により劇的に感染が抑えられたため、彼が行っていた傷口を消毒するという行為に注目が集まり、今日まで残る傷口は消毒するものだという誤った理解を招いてしまったとすれば残念な話です。それはともかく、リスターの成功は安全な外科手術が一般に広まり、多くの人命を救いました。それは彼の偉大な業績です。





■強硬策
産褥熱の原因を推定し、予防するための仮説を検証にうつします。

 
産室に入るすべての人は、手指を十分に洗浄した後、塩素水を使用してブラッシング消毒を行うこと。
全員確実に実行してください。
       1847/5/15   イグナーツ・ゼンメルワイス

※イメージです

彼は、このような内容の文章を第一産科の入り口に掲示をしました。
この張り紙は当然のように同僚の反発を買いました。ゼンメルワイスを目の敵にするクライン教授がこのような内容の掲示を許可する筈はありません。ゼンメルワイスの独断であることは誰の目にも明らかです。ところが、その事が耳に入ったはずのクライン教授ですが、掲示をそのまま放置しました。これは、同僚から更なる反感を買う事となり、自分が手を下すまでもなく自滅するだろうとの判断が働いた為とも考えられます。
こうして手洗い手技の掲示が認められたわけですが、実際に手指の洗浄を全員が実施しなければ産褥熱の予防はできません。協力的でない人々にも洗浄を行って貰うため、ゼンメルワイスは産科の入り口に陣取って、手洗いの実施を強く訴え続けていきました。このような横暴な態度に同僚医師からは更なる反発を招いたようです。それでも手洗いの実施は守られました。彼の異常なまでに思い詰めた態度と真剣な様子に同僚医師は、反発をしても無駄であると諦めに近い気持ちで従ったものと考えられます。
このように来る日も来る日も産科の入り口で監視を続けたゼンメルワイスですが、その効力はハッキリと数字になって顕れました。実験開始前には18.3%もの妊産婦が産褥熱により命を失っていた第一産科でしたが、開始後僅か1カ月で12.2%そして、次の月にはなんと2.2%と劇的な改善を果たすこととなったのです。これはクライン教授の元では過去最低水準の死亡率で、彼の仮説が正しかったことを十分に裏付けるものでした。しかし、クライン教授をはじめとする同僚はこの期に及んでも彼の主張を認めようとしませんでした。

■悲しい事故
手洗いの実施後、誰が見てもわかるような結果が出たにも拘わらず、原因は不明であるが別の理由によるものだと因果関係を認めない同僚達、そんな状況の中、1つの悲しい事件が発生してしまいました。10月のこと、十二人部屋に入院していた妊産婦のうち実に11名が重度の産褥熱を患って、発病した全員が死亡するという最悪の結果となってしまったのです。これは彼の主張を揺るがすことになりかねない一大事でした。皆が注目する中、ゼンメルワイスは冷静且つ注意深く観察を行いました。
死亡を免れた一名は一番手前のベッドをあてがわれた子宮ガンを患う女性であり、妊産婦ではありませんでした。しかも患部からは常に膿が排出され、彼女のベッドシーツは汚染された状態にありました。彼の着想はこうでした。医師は診察の際、一番手前の彼女から開始する、当時は一人の処置が終わった後も手洗いなどはせずに次の患者の診察に移るのが普通で在ったため、彼女のベッドシーツや着衣、または彼女の体から医師の手に病毒が付着し、その後の診察を受ける妊産婦達に伝播したものではないか、というものです。この推測が正しければ、被害はこの病室内だけで在ったことと、入り口の手洗いが無効であった理由が同時に説明できることになります。
今までは死体からのみ伝染すると考えていた病毒でしたが、実は生きた人間からももたらされる事が可能性として大きく浮上してきました。そして、死体解剖に関わらない第二産科でも産褥熱が発生している事を併せて考えると、この病毒は人間の手を介して、あらゆる処に伝播している事を示唆しております。この考えを基に新しい予防法が着想されました。それは、一人の診察が終わる度に手の洗浄消毒を行い、器具は塩素消毒しシーツやガーゼなどの治療用具もその都度交換や洗浄を行うようにするものです。現在、当たり前のように行われている1処置1手洗いが初めて誕生した瞬間です。
入り口で手洗いをするだけでも反撥を招いたのに、更に細かな指示まで徹底するのは並大抵の事ではありません。彼の執念が実施せしめたといえるでしょう。同僚からは横暴ともとれる態度は彼の病院内での立場はますます悪化させましたが、それとは対照的に病院内での産褥熱の発生率は激減し、彼の仮説が正しいことは誰の目にも明らかなものとなりつつありました。実際、1846年には出産3352件のうち、産褥熱により459名もの婦人が命を落としていたものが、1847年には3375件で176名、1848年に至っては、3556件で45名と、遂に第二産科よりも低い水準まで到達したのです。この結果を目の当たりにしても、クライン教授をはじめ同僚の誰一人からもこの功績に対する祝福の声は上がりませんでした。

■研究成果の発表
現代でも皮膚病名にその名を残す19世紀の皮膚科の大家であるヘブラ教授*1ゼンメルワイスの研究成果を大いに評価し、多くの人命を救助する為には論文としてまとめ、この結果はしかるべき処に発表するべきだと奨めました。しかし、ゼンメルワイスはこの事に対しては慎重ですぐさま発表へと踏み切りませんでした。この詳細は不明ですが、ヘブラ教授は彼のデータを基に論文を書き上げ、ウィーン医学界に発表をしました。

『産院における産褥熱流行に関する大変重要な研究』

1847年12月に発表されたヘブラ教授の手による第一回目の論文は、ゼンメルワイスの行ったこと、その結果を統計的に証明するものでした。そして、論文の最後は次のように結ばれておりました。

論文を読んだ方は自分の管轄する産院に於いて、この方法を実施していただき、その結果を報告して欲しい。

ウィーン大学で絶大な効果を発揮したこの方法が実施されれば大きな反響が巻き起こることは間違い無いはずです。彼らは論文を読んだ人が実践し、その驚異的な成果が報告される事を心待ちにしたことでしょう。しかし、年が明けてもなんの反応も見られませんでした。ようやく3月にキールミカエリス教授がこの方法を実施したところ、その有効性が確認できたという報告が一件だけ寄せられたに過ぎませんでした。医学界はこの重大な発表を黙殺したのです。
これを受け、ヘブラ教授は第二回目の論文を投稿することにしたのですが、今度は何の応答すら在りませんでした。そればかりか、周囲の反撥を招いていた事が明らかになってきました。ゼンメルワイスの説は当時の主流であったミアスマ説に真っ向から反論するもので、特に権威者とされる者からすれば面白くないものであった事は想像に難くありません。彼の説を認めることは自分が今までに積み重ねてきたことを否定することに他ならなかったからでしょう。このような例は現代でも見られるものと思います。例えば、傷口に消毒薬を無暗に塗りたくる治療や痩せた糖尿病患者に低エネルギー食を強いる事などが思い浮かびます。自分たちの作り出してきた常識に縛られてしまうのです。
では、権威者以外の医師達は彼等の発表をどのように受け止めたのでしょうか。利害関係を持たない者では正当な評価が出来そうです。ここで思い出されるのは前回紹介したゼンメルワイスの苦悩です。彼の学説を支持する事は産褥熱は自分たちの汚い手が持ち込んだ医源性の病気であると同時に認めなくてはなりません。すなわち、産科医である自分たちは多くの罪のない妊産婦を殺してきた事実に向き合う事になるのです。このようにゼンメルワイスの新発見は当時のウィーン医学界には認められなかったと考えられます。

■帰郷
一方、ウィーン大学では1849年、彼を支持するスコーダ教授が大学当局にゼンメルワイス説を追試検討する委員会の設立を求め、実施計画が進みつつありました。ところが、当時のウィーンは政情不安で政府は大学側の反体制派と敵対的な状況に合ったとされています。そんな状況の中、政府は一方的にこの委員会の活動停止命令をだし、彼の主張の正しさが証明される機会が失われてしまいました。
その後、敵対するクライン教授は任期が切れたゼンメルワイスの再任を認めませんでしたが、彼を支持するグループの後押しもあり、大学の私講師としてとどまる事ができました。その間、ゼンメルワイスは予防法の普及に励みますが、彼の説に強く反論する権威者達の妨害により、その主張が認められることは在りませんでした。
その後もクライン教授は執拗に妨害を続け、ゼンメルワイスは遂に病院を追われることになりました。失意の彼はウィーンに別れを告げ、郷里ペシュト(ブダペスト)へ戻ることになりました。1850年10月の事でした。


■ペシュト(ブダペスト)にて
故郷へ戻ったゼンメルワイスでしたが、祖国ハンガリー独立戦争の傷跡は大きく、学問的にも経済的にも医療の現場は苦境に立たされておりました。病院の産科も同様で、市内にあるSt.Rochus病院では産褥熱が猛威を振るっておりました。そんな状況を耳にしたゼンメルワイスは件の病院へ産科医長として無料で勤務したいとの旨を政府当局に申し入れを行いました。政府は渡りに船とばかり、彼の申し出を喜んで受け入れました。こうして、ゼンメルワイスの指揮の下で産褥熱予防法が実施される環境が整いました。
彼はこの病院でも、厳密な手技を医療スタッフに徹底して求めたため、当初は大きな反発を招いたとされております。しかし、それは目に見える結果となってすぐに顕れました。陰惨な産科病棟に妊婦と子供の笑顔が戻ってきた事で、人々はその治療法の効果を次第に認め、そして彼の予防法は病院内で受け入れられて行きました。彼の執念はそれだけに留まらず、なお残る産褥熱の発生を抑えるべく、事務局に清潔なリネン用具の発注を要望し、シーツの交換を実現。また、出産に関わる器具については徹底して洗浄、消毒を行うなど、必要と考えられる事全てを実施しました。その甲斐もあって、彼の管理下で行われた出産933例のウチ、産褥熱で死亡した患者は僅か8名という、当時では考えられないような大きな成果を実現しました
彼のこの実績は国内で大きく評価され、1855年にはペシュト大学産科教授に就任しました。そうして、大学病院でも同様に予防法を実践し、ここでも産褥熱死亡を大きく低減させています。ここでゼンメルワイスの行ったことは産科での予防は勿論、教授としての彼は医療教育に力を注ぎ、産褥熱予防法を若い時代を担う人材にしっかりと学んで貰うことでした。地道な取り組みですが、旧来の方法論にしがみついた医療従事者を宗旨がえさせるのよりも効果的な方法であるのは明らかです。このまま若い世代に普及啓発を続けるだけでも彼の予防法は普及されていった事でしょう。しかし、彼にはゆっくりと自然の成り行きに任せてはいられない事情がありました。こうしている間にも、従来通りの医療行為で産褥熱が発生し、母を失った幼い子供が次々と生み出されているのです。ひとりでも多くの母子を救いたい、そう願う彼は研究成果を発表することにしました。

■産褥熱予防法の出版
多くの方にこの予防法を実践して貰いたい、そう願うゼンメルワイスは、1861年『産褥熱の原因、概念及びその予防法』*2を出版しました。これは彼が蓄積してきた産褥熱の発生機序とその予防法について詳しく解説したものと、彼の学説に対する反論への論理的な再反論、そして今後への提言という構成となっておりました。
著作はヨーロッパ各国の研究者や大学産科、産院へと頒布されました。しかし、ヘブラ教授が彼の研究成果を投稿したときと同じように、ほとんど無視をされ、数少ない応答も否定的なものでその根拠すら書かれていない感情的なものばかりでした。
あまりの現状に失望したゼンメルワイスですが、彼の決意は些かの揺るぎもありませんでした。今度は強硬な反対派である権威ある学者数名に対し公開状を書き上げ、ハンガリーアカデミー発行の医学誌上に掲載されました。ところが、名指しされた権威者のうち、僅か一名だけがやんわりと拒絶する旨を応答したのみという有様でした。そればかりか、このような文章を著名な学者に突きつけるとはなんたる傲慢な人物であろうか、そういった非難の声が反対派の学者から巻き起こったほどでした。しかし裏を返せば彼らはゼンメルワイスに理路整然と反論することが出来ないことを間接的に証明するものでした。

■大家ウイルヒョウ
このような状況の中、1861年にドイツで行われた医学者会議では産褥熱に対する議論がおこなわれました。論者の多くがゼンメルワイス批判を繰り返す中、ハイデルベルグ大学のランゲ教授だけは、彼の予防法を追試し、その効果を支持すると表明したのでした。ところが、一石を投じるかと思われた彼の発言を簡単に覆す出来事が起こりました。
現代にもその名が残る大病理学者ウイルヒョー(Virchow)は彼の「産褥熱は腐敗有機物がもたらす」という説は自分が主張するミアスマ原因説と相容れないものである、自説と矛盾する彼の病理学説は取るに足らないものである、と一刀両断したのです。当時は権威者の権力は現代とは桁違いであったとされ、ゼンメルワイスの主張はこの一言で粉砕されてしまいました。

■闘いの終わり
医学会の権威により握りつぶされたゼンメルワイスの産褥熱予防法でしたが、彼は諦めることなくその普及に人生を捧げました。ハンガリー国内では政府に働きかけ、全医療機関で予防法が実施を促す行政措置が通達されるに至りました。
医学者側からの改革を期待して裏切られたゼンメルワイスは残された最後の手段を実施しました。それは彼自身が街頭に立ち、直接民衆にその予防法を語りかけるというものでした。彼の悲痛な啓蒙運動は民衆の心に届かなかったとされています。民衆は救いの手が目の前に差し出された事に気づくことなく、彼の努力は実を結ぶことがありませんでした。
予防法普及にありとあらゆる手を尽くしたゼンメルワイス、その無理がたたったのか、急速に体調を悪化させ、1865年7月13日大学教授会の席上、突然譫妄状態に陥り、そのまま精神科の治療を受けることになりました。その後、友人知人等の手によってウィーンへ連れて行かれたゼンメルワイスは恩師ヘブラの配慮もあり、高名な医師のいる精神病院へ入院することになりました。その僅か2週間後、入院時暴れた彼を取り押さえるために振るわれた職員からの暴行が原因でその命を失ったとされております。
こうして、予防法が広く実践されることを見ることなく彼の産褥熱予防に捧げた生涯は終わりを告げました。1865年8月13日の出来事でした。



ゼンメルワイスの悲劇を二度と繰り返してはいけない」

彼の偉大な業績に言及された多くの方と同じ感想を私も表明し、この物語を終了させていただきます。ダラダラと長いどらねこの拙文におつきあい下さった皆様に感謝いたします。







■物語に出てきた人物
当時の医師達の受け止め方について、自分の印象や感想を書いておきます。
産褥熱の原因は汚れた医師の手がもたらしたものである、その非常な現実を突きつけられた当時の医療者の多くは彼の主張を直視することが出来ませんでした。ある人は無視を決め込み、ある人は猛烈に反駁し、ある人はその罪の重さに耐えかね自らの命を絶ちました。
 
ロキタンスキー教授
病理学者でゼンメルワイスの師匠でもある彼は、ゼンメルワイスの良き理解者であった。産褥熱に対する誤った見解を記した自著を直ちに訂正している事から、科学を理解した科学者であったことが伺えます。彼が産科医では無かった事も受け入れやすかった理由でしょうが、当時他の医師がとった態度を考えるとたいへん立派な態度であったと思います。

ミカエリス教授
大学病院の産科医長であったG・Aミカエリス教授はヘブラの名によるゼンメルワイスの報告を追試した数少ない医師の一人です。追試の結果、ゼンメルワイスの予防法が有効であることを報告しました。それは同時に自分が妊産婦を死に追いやった張本人であった事を認めることでもあります。ミカエリス教授は従妹を産褥熱で失っていました。その出産には自分が関わっていたのです。彼は罪の意識に耐えられなくなり、1848年8月9日鉄道自殺により命を絶ちました。 命を救うために医師となったものにとって、この事実を認めることは耐え難いものであることを察する事ができます。

クライン教授
ゼンメルワイスの上司であった彼は、産褥熱予防法の有用性、その意味することをハッキリと自覚し、それでも尚認めようとしなかったと考えられます。産褥熱予防法を無視した多くの医師は、現実を直視することが出来なかった、と考えられますが、クライン教授の場合は自分の保身の為にゼンメルワイスの妨害をし続けたのです。ゼンメルワイスが去ったあとのウィーン大学では産褥熱が再び蔓延したのですが、当局から大学病院の死亡率が高いことを指摘された時に、こっそりとゼンメルワイスの予防法を採り入れ、窮を逃れたとされております。

病理学の大家ウイルヒョウ
当時絶大(?)な権力を有した、医師であり、学者であり政治家にもなった人物。彼の唱えた、細胞病理学説は、病気は生命であり異常な刺激が細胞に加わる事で病気が発症するというもので、病気を発症させる外的因子が存在することは認められないとした。腐敗した有機物質が産褥熱をもたらすというゼンメルワイスの説は彼の学説に真っ向から対立するものだったのです。自分の理論は完璧であると自負するウイルヒョウは、客観的証拠を有するゼンメルワイスの予防法を自分と合わないというだけで棄却してしまったのです。

ゼンメルワイス物語、補足
この話には産褥熱という単語が数多く使用されておりますが、なじみのない方も多いことと思いますので、なるべく平易な言葉で解説をしてみます。その際、言葉の定義などで微妙なズレが発生してしまう事も予想されますが、分かり易さを重視した結果ですのでご了承いただきたいと思います。

産褥熱
産褥期(出産直後から6〜8週頃)に高熱が続き、全身に炎症がおこり、ショックから死に至ることもある恐ろしい病気として古くから認識されていました。

定義:分娩時にできた傷から細菌感染がおこり発熱にいたる病気で、その発熱は分娩後24時間以降、分娩後10日以内に2日以上にわたって38℃以上の発熱状態がみられるものをいいます。

特徴:発熱、腹痛、悪臭を伴う膿性の子宮分泌物が見られることなどです。
放っておくと敗血症などを引き起こし、短期間で死に至る危険性が高い恐ろしい病気です。現在でも発生することはある産褥熱ですが、抗生物質の投与で治療できるようになりました。そのため、この病気の存在自体が過去のものと思われている事もあるようです。

原因菌:化膿レンサ球菌が代表的な原因菌とされておりましたが、現在では抗菌薬(抗生物質含む)の発達などにより変化し、嫌気性菌が観察される事が多くなっているようです。

■根拠の乏しい代替療法提唱者とゼンメルワイス
ゼンメルワイスの闘いは、それが正しいモノであったにも拘わらず、当時の常識や権威からは顧みられる事のないものでした。彼はその正しさを訴え続け、迫害されてきました。その状況を自身になぞらえて、私は正しいことをいっているにも関わらず、主流の医師や現代医療は私の説に耳を傾けようともしない・・・重大な事実が黙殺されている、そんな代替療法の提唱者、実践者の言を見かけたことがあります。
彼等の主張はゼンメルワイスの行為を貶めるような全く妥当性の無いものであると、どらねこは思っております。
ゼンメルワイスは疫学手法を駆使し、病気の発生要因を推測し、適切な予防策を考案しました。更に、その予防策自体の効果を、誰が見てもわかる形で提示し、証明を行ったのです。なんだかんだで、実証データを出せない根拠のない代替療法などと根本的に違うのはこの点です。

*1:Ferdinand Ritter von Hebra

*2:*『Die Ätiologie, der Begriff und die Prophylaxis des Kindbettfiebers』医師ゼンメルワイスの悲劇 南 和嘉男著では、1860年10月に発行された、とある。