金槌

 従兄弟が来て、工房の閉まらなくなった高窓を修理していってくれた。その後に雨が降り出して、間一髪で助かる。

 ふと見ると宣紙の束の脇に彼の金槌が忘れられていた。

 柄のカーブが美しいのでよくよく見ると、丸の樹を取り付けてあった。
 良く見つけてきたものだ。
 自分の道具を遊ぶ職人も少なくなってきた。電動工具では遊ぶ余地もないか?


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

一調

一調 「女郎花」 梅若玄祥(謡)、亀井広忠(大鼓)を聞く。
いやはや、面白かった。
 
しかし、奥多摩から千駄ケ谷能楽堂までの行き帰りはちょっとキツイ。
とはいえ、この距離と時間が世間とのフィルターなので致し方ない。
とんと都会へ出なくなっているのだが、二日続けての遠出だった。
珍しい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

砂澤ビッキ展

砂澤ビッキの作品は、昔、美術雑誌では見ていたが、実際には目にした事が無かったので、葉山の神奈川県立近代美術館まででかける。
1980年の「神の舌」、`83「樹頭」、`86「風に聞く」が良い。
雑部密教の一木造りの仏像に通じるものを感じる。

桑の実

画室近くの三差路に、大きな桑の樹が立っている。
昨日までその事を知らなかったが、通りかかると、道に沢山の桑の実が落ちて潰れていた。
上の枝では、鳥たちがキーキー鳴きながら飛び交って騒がしい。
 
服を汚す事が在ろうと、鳥が五月蝿かろうと、この一本の桑の樹がある事は幸せだ。
持ち主も、そう思っているのだろう。
 

 
 
 
 
 
 
 
 

川井の家

 伊藤比呂美の「切腹考」を読む。腹切りのこと、熊本の地震の事、鴎外の文章の事、夫の死などについてが繰り返し、時間と場所を行き来しながら書かれている。
 そこには物語も結論も無い。テキストだ。
 読み手はいろいろの事を考えながら、それぞれにこれを読み解くだろう。その豊暁さに感心する。
 
 
 
 
 
川井の家
 
 
 
 
 
 
 
 
 

シクラメン3題

 この2日ばかりの暖かさで、家の前の桜が一度に咲き出し、8分ほどまでに開いた。
 今年の春は遅かった。
 
 この一冬のあいだ、部屋の中で楽しませてもらったシクラメンの花も、そろそろ衰えてきた。
 晩酌をしながら、デッサンをする。
 見たままに畫くようにしようと思っているのだが、さて、見たままとは何だろう?
 どこまでいっても概念で、見たままということは有り得ないようにも思える。
 感じたままという事なのだろうか?
 となると、表現になるのだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 描いているうちに、考え過ぎなのだと気がつく。
 哲学なんぞという物をやっていなくて良かった。