『詩人と狂人たち』チェスタトン(創元推理文庫)★★★★★

おかしな二人連れ」(The Fantastic Friends,

 ――医者のガースがさびれた宿を立とうとしていたところ、おかしな二人連れの客が訪れた。詩人で画家のガブリエル・ゲイルとマネージャーのハレルだという。ゲイルは宿の看板を描き変える仕事が好きだった。ちょうど立ち寄った宿の地主兄弟を交えて宿屋の改装計画で盛り上がっていたが、気づくと宿の亭主がいない。探しに行くと亭主は宿の看板で首を吊っていた……。地主の妹はゲイルに惹かれながらも、彼は狂人なのではないかという疑いを深めてゆく……。

 ガブリエル・ゲイルの推理法は、ブラウン神父とまったく同じです。犯罪者の気持になる――というか、犯罪者自身になってみる――というのがブラウン神父の方法ですが、ゲイルの場合も「狂人が次には何をするか、あるいは何を夢想するか、それがたいてい分かるのです」というもの。

 ロジックという面ではブラウン神父もの以上に弱いのですが、逆説をまぶした伏線という尺度では充分にミステリとして評価できます。本編のテーマはずばり〈あべこべ〉。《昇る太陽》ならぬ《沈みゆく太陽》といった趣のさびれた宿屋。のっぽのゲイルと小柄なハレル。ちょいちょい逆立ちして風景を逆さまに眺めるゲイル。「聖ペテロが十字架に逆さまにかけられたことは憶えているでしょう。(中略)彼の自分を卑下した心は、死に際して幼年時代の美しい光景を目のあたりにできたことによって償われたのだと、そう思うんです。彼はまた、あるがままに風景を見たのです――星を花のように見、雲を丘のように眺め、すべての人間が神の慈悲によって地球からぶらさがっているさまを眼にしたのです」という一節が印象深い。

 《昇る太陽》をユダの後光として描こうとするゲイル。ユダとは絶望から首を吊った者であり、裏切りを働いた者である。この物語において真のユダとは誰か、が謎を解く鍵であります。そしてなぜ彼がユダのような行動を取ったのか、これがブラウン神父ものでは絶対にあり得ない理由なので、ひときわ印象深かったです。作品の中身よりもまずこの理由が記憶に残りました。

 ガブリエル・ゲイルは「並はずれて背が高く、すんなりした身体つき」で「金髪であったが」「奇想天外に見えるいくつもの細い束となってぼさぼさと立っていた」。「たるんだリュックサックと、明らかに画家の携帯道具とおぼしき物を背中にくくりつけて」おり、「顔は細長く、やや蒼白で、ぼんやりした眼をして」「その下の顎は前に突き出ていたが、その様子たるや、うつろな青い眼が気づかぬまに、顎が独立宣言を発したというところだった」。若く、「しまりのない鼠色のフェルト帽」をリュックに突っ込んでいる。「ぼんやりとして口をきかずにいるか、そうでないときには激烈に口角泡をとばすか、そのどちらかしかできない性質」である。
 



「黄色い鳥」(The Yellow Bird, )

 ――ゲイルたち五人は丘の上で絵を描いていた。ガース医師だけは絵ではなく写真を撮ろうとしたところ、クロウという若者に制止された。ガースが撮ろうとした家は彼の恋人の家であり、今は自称科学者が宿泊しているのだが、恋人がこの科学者にぞっこんなのだという。見ていると家の窓が開いて、金髪にひょろ長い足をした黄色い鳥みたいな男が現れた。彼こそはモスクワの刑務所を爆破して脱走した進歩的科学者であった。

 ゲイルが事件に気づくきっかけやそこから真相をたぐり寄せる展開などは、ブラウン神父譚に劣らず面白いのだけれど、肝心の真相というのが尻すぼみです。早い話が「もともと狂人であったのだ」という結論なわけですから、やむを得ないとも言えますが。本編もその例に漏れないとはいうものの、犯人がいわゆる〈狂人の論理〉に従って行動しているため、動機や犯行過程など比較的ミステリ色の強い納得できる作品に仕上がっています。

 ブラウン神父だって突然頭がおかしくなったとしか思えないような言動をとることがよくありますが、ゲイルの場合は狂人の気持がわかるという設定ですから、神父以上に不可解発言が目立ちます。本編はその設定がうまく活かされていると言えましょう。ガースとゲイルの何気ない会話に、真相へと至るヒントが隠されています。

 「ゲイルという男は、こういうグループからすぐに離れたがる傾向があって、いつでも置き去りにされてしまう」「大きな図体をしているくせして、彼は迷子になる名人だった」「といっても、人づきあいが悪いわけではなく、事実はその逆で、仲間がとても好きで、おまけに自分の意見も大好きで、後者を前者に詳しく話してやるのがいつも楽しみであった」
 



「鱶の影」(The Shadow of the Shark)

 ――南洋帰りの元牧師ブーンと青年科学者ウィルクスとゲイルは宗教論を交わしていた。花というものも、ほかの動植物同様に美しくも醜くもない器官を持った生物にすぎないというウィルクス。ほかと同様というのであれば、ほかの動植物同様に素晴らしいはずだ――花だって鱶だって――というゲイル。獰猛な鱶を崇める南洋の自然崇拝こそが本当の宗教だと説くブーン。議論が割れて散開したあと、ふと気づくと窓に鱶の影が見えた。

 それなりに形而下の動機と計画的犯罪という点でもっともミステリらしい作品。冒頭からしてホームズで始まる。ホームズは空飛ぶ犯人も幽霊もいないと断言したが、今やドイツの航空機が人を殺し、ドイルは心霊を信じている。そしてこの事件は当初、空飛ぶ犯人か心霊の仕業と信じられたのだ――こういう出だしはわくわくする。

 ヒトデの扱いが単純だがうまい。赤い花であり、赤い星であり、大の字になった人型でもあるといったゲイルの独白のあたりは、詩人ゲイル――というより詩人チェスタトン――の独擅場。これが単なる妄想ではなく、まさに真相を照らす赤い星なのだ。上に「それなりに形而下の動機」と書いたが、それを冒頭の形而上的な議論に伏線として埋め込んで、幻想的な雰囲気を出しているところも見逃せない。チェスタトンは、広い意味での伏線を風景や雰囲気の中に溶け込ませるのがものすごく上手い。

 ゲイルは「いつも身のこなしはのろまなほう」であり、「常識の信奉者だった。実地の場合では、いつもそうとはかぎらなかったが、理論的には常識の力を信じていた」。
 



「ガブリエル・ゲイルの犯罪」(The Crime of Gabriel Gale)

 ――ガブリエル・ゲイルがとうとう本当におかしくなってしまった。おとなしい青年を木に縛りつけ熊手で襲いかかったのだ。ガースは相談に乗ってもらおうと名医バターウァース博士のもとを訪れた。

 これは傑作! 言ってみれば本書は狂人たちによる観念の犯罪集なのだけれど、なかでも本編は動機としての観念にリアリティがあります。「黄色い鳥」では“そういう考えをもともと持っている人なのだ”という説明だけで終わっていた狂気の背景が、本編ではきっちり書き込まれているので説得力と迫力が違います。

 「窓からおもてを眺めていた」という場面から始まる、狂人の視点というか神の視点についての解説がものすごく面白い。この雨粒レースの発想って、ここまで極端なものじゃなくてもけっこう日常的な気が。「ノストラダムスの予言」とか〈ミイラのたたり〉とかも発想としては同じようなものかもしれない。よい方に使えばカウンセリングとか教育とかでも応用できそう。そこからここまで展開させちゃうんだからすごいです。余談ですが「窓を眺めていたのです」という台詞を読んだ瞬間にホームズものの某作を連想しました。
 



「石の指」(The Finger of Stone)

 ――フランスのカリヨンという小さな町に、化石に関する新説を打ち立て、進化論を一新し神による創造説を圧倒したボイグという科学者がいた。ゲイルたちが町を訪れたころ、そのボイグが行方不明になっていた。教義がらみで敵対していた教会の神父や、ボイグが死ねばすべてが手に入る弟子たちが疑われた。ぶらぶら歩き回って探偵のまねごとをしていたゲイルが、ボイグの死体を見つけた、死体はポケットに入っているも同然だと告げる。

 これはたまげるとんでもミステリ。だけど、真の科学者とは何か、を問うこの作品でこんな似非科学っぽいとんでもネタを持ち出してくるのはわざとなんでしょうね。科学的ってのはこのトリックが実際に使えるかどうかではなく、その思考が論理的であるかどうか。

 とんでも系+科学的な話のはずなのに、どこか厳かで宗教的な雰囲気も漂っているのは、このとんでも科学のおかげというのも逆説的。間違った解釈かもしれないが、これって殉教だよなぁと。科学に殉じたわけだから正確には殉「学」か。

 ゲイルは「どちらかというとぼんやりした、のっぽで締まりのない男で、毛は黄色」。
 



「孔雀の家」(The House of the Peacock)

 ――ガブリエル・ゲイルはぼんやりと散歩していた。と、一軒の家の庭に孔雀がいた。なぜこんなところに孔雀がいるのかと不思議に思ったゲイルは、ついふらふらと窓から忍び込んでいた。部屋にあったのは割れた鏡、十字に交差させたナイフ、こぼれた塩、入口に立てかけられた梯子、さんざし。部屋にやってきた主人はゲイルを追い出しもせず、欠席者の代わりに十三人目の客となってくれと頼むのだった。そこでゲイルは悟った。孔雀をはじめとする奇妙なものはすべて縁起の悪いものばかりなのだ。

 泡坂妻夫氏「DL2号機事件」を思い出させるような倒錯した論理。いや、ちょっと違うか。徹頭徹尾迷信の中で繰り広げられる悪夢。それ以上の悪夢の存在と、悪夢から抜け出す現実への通路が最後に示される。そのせいで孔雀の家の出来事が、まさに夢を見ていたような非現実感を持って立ち現れてくる。幻想的で不気味な雰囲気は本書中でも一番。
 



「紫の宝石」(The Purple Jewel)

 ――劇作家で詩人のフィニアス・ソールトが失踪した。酒を飲み、友人とドライブに出かけると、天使のように飛びあがるか石のように落下したいと叫んだ。カンタベリ伽藍の塔が見える場所で車を停めると塀に飛び上がりそのままいなくなってしまった。はたして天使のように飛び上がろうと塔に登ったのか、天国に昇ったのか。やがて崖の上で彼を見たという報らせが届いた。石のように落下してしまったのか。

 ブラウン神父ものにでもありそうなトリックを使っていることもあって、ほかの作品と比べて普通のミステリっぽい。そこがちょっとものたりなかったり。〈紫の宝石〉の視点はさすが巧い。
 



「危険な収容所」(The Asylum of Adventure)

 ――ゲイルは友人の葬儀に出席したあと旅路を急いでいた。あの宿屋に戻るのだ。突然の落石。見上げると邪悪そうな顔。わけもわからぬまま、ゲイルはすべての発端へと思いをはせていたのだった。

 十四年前、奇人と評判のゲイルのもとに二人の男がやってきた。見たものについて思うとおりに話してほしいという。そこに拳銃を持った男が現れて……。

 ガブリエル・ゲイル最初の事件にして最後の事件です。チェスタトンは『奇商クラブ』でも本書でも、あるいは『知りすぎた男』でも『四人の申し分なき重罪人』でも、ちゃんと最後に物語を閉じている。ブラウン神父ものはともかくとして、死後に出版された『ポンド氏』も最後にちゃんと物語を閉じるつもりだったのかな、と思った。そう考えると『ポンド氏』第一話で出てきたっきりの語り手の存在も納得がいく。最終話で語り手の正体が明らかになるはずだったのではないだろうか――て、まあ正体はあの二人の子どもだとは思いますが。

 本書は単純な逆説(とも呼べないような逆説)をうまく利用しています。第一話にも関係の深いゲイルの過去を回想シーンとして織り込みながら、同時にその回想自体が現在の事件の伏線になっているという巧みな手際により、単純な逆説が効果的な逆説に化けてしまうというマジック。しかも、そんな事件を引き起こしてしまった軽率な約束を悔やむゲイルに対して、だけど軽率な約束は……。第一話と最終話と過去と現在がすべて一つになる見事な大団円。おまけに本書自体が大がかりなミスディレクションだったといってもいいような現在の事件の真相。

 読みごたえなら「ガブリエル・ゲイルの犯罪」、雰囲気なら「孔雀の家」、インパクトなら「石の指」、さり気ない伏線なら「黄色い鳥」「鱶の影」、でもやっぱり最終話に相応しいのは本編をおいてほかにありません。

 ゲイルは普段「だらしないツイードの服を着、締まりのない靴下をはいて、いかにも徒歩旅行中の風景画家らしいいでたち」だが、喪服を着ると「黒衣といい、黄色い髪といい、お馴じみのハムレットそっくり」である。「長くて筋の通った顎」をしている。
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詩人と狂人たち
G.K.チェスタトン著 / 中村 保男訳
東京創元社 (1977)
ISBN : 4488110088
価格 : ¥489
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