『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3篇』カント/中山元訳(光文社古典新訳文庫)★★★★☆

 難解な哲学用語を使わずに、普通の言葉で語るカント。たしかにわかりやすい。そのわかりやすさゆえ哲学というより人生訓みたいでもあった。

「啓蒙とは何か」(Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?,1784)★★★★★
 ――啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。

 くらべるのもカントに失礼だけど、こういうのを読むと改めて『チーズはどこへ消えた?』の嘘くささがわかる。「私的な自由」を封じて、“変化することを恐れるな”という指示を他人から命令されることをありがたがるという馬鹿な本です。当時のわたしの感想には、『チーズ〜』には「判断」という視点が欠けている、と書かれているけれど、まあそういうことですね。ビジネス書を自己啓発本と勘違いした人がいかに多かったことか。
 

世界市民という視点から見た普遍史の理念」(Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbürgerlicher Absicht,1784)★★★★☆
 ――歴史とは、意志の現象としての人間の行動についての物語である。個々の主体については規則がないように見える場合にも、人類全体として眺めてみると、自由が規則的に発展していることを確認できるのである。

 「啓蒙とは何か」で明らかにされた命題が、ここでは「人間の営みの〈目的〉」だと記されています。これって、“類としての人間”ではなく“個としての人間”として考えた場合、実存主義みたい、と思ったのだけれど、違うのだろうか。

 「非社交的な社交性」が、好ましくないと同時に、自由の発展をうながしてきた、というあたりから、語られていることが現実の政治・社会と密接に関わってきます。

 「自由」というと、好き勝手、というイメージになってしまうけれど、ここでいう自由とはもちろん「啓蒙とは何か」で書かれたような自由のことです。自由を禁じる独裁君主のもとではもちろん、平和のうちで怠惰に暮らしてしまうのも、自由のない状態なわけですね……。

 そして支配者、国家の連合、永遠平和、へと話は続きます。後半に書かれてあることを現実レベルで見れば、どうしたって「抑止力としての核」みたいな話になってきて、さらには国際連盟なんかも思い浮かぶし、まさにアクチュアル。その果てに、永遠平和はあるのかな……。

 「すべての戦争は(中略)新しい国家を樹立する試みにほかならないのである。そしてそれは人間の意図するものではなく、自然が意図するものなのである。」という文章を誤読したような聖戦があふれている。
 

「人類の歴史の憶測的な起源」(Mutmasslicher Anfang der Menschengeschichte,1786)★★★★☆
 ――人間の行動を記述する歴史に憶測をさしはさむことは許されないことだろう。しかし人間の歴史の起源を記述するには、それが自然による起源であるかぎりにおいて、憶測を試みることは許されるのである。

 聖書にはヨブの話みたいに、人間レベルから見ると滅茶苦茶な話があるわけです。で、それを、宗教の側では、神の御業は人間には理解できないものなのだ、と、逃げに近い説明していました(少なくともわたしが読んだり見たりしたかぎりでは)。ところが人間の進歩という視点で読み解いてみると(カント自身は、これを聖書の解説と言っているわけではありませんが)、みごとに納得されてしまうのだからおそろしい。あれほど支離滅裂な物語(と言ってしまいますが)が、理路整然とした物語に変じてしまいました。カント自身この論文のことを「漫遊」と書いておりますが、哲学というよりも空想の翼をはためかせた文芸評論みたいで面白い。
 

「万物の終焉」(Das Ende aller Dinge,1974)★★★☆☆
 ――永遠というのは、中断なく持続されるすべての時間の終焉でなければならない。時間的な存在者も、人間が経験することのできる対象も、すべての物が終演するのである。

 比較的わかりやすい「啓蒙とは何か」から始まって、だんだんと難しくなってきました。冒頭でつまずいた。「しかしこの中断のない持続というものは、人間の存在を〈量〉とみなすなら、時間とはまったく比較できない量、が意味されているのでなければならない。」という部分が、訳註を読んでもよくわからない。時間というのも人間に認識できる時間という「現象」にすぎないが、ここでいうのは人間に認識できない時間という「物自体」の量である、ということだろうか。なんか怖いな。本当にすべての終焉なんだ。

 終焉というと、当然のように最後の審判の話になるわけですが、これまで幾たびと理性の自由を説いてきたカントが、ここで終焉についての教義を、「人間の理性による思索の能力をまったく超えてしまっている。だからこのような理性についての理念を使用するのは、実践的な[道徳的な]判断だけに限定するようにしなければならない。われわれには、来るべき世界における自分の運命を予測できる能力としては、良心の判断しかない」と書いています。そりゃあ理性を超えているものを理性で捉えることはできるわけもないのだから、そうなんだろうけれど……。

 「理性にとって可能なただ一つの方法は、時間において無限に進む変化は、最終目的の実現に向けて絶えず進歩している状態だと考えること」であり、「人間の道徳的な心情は(中略)そのままで維持され、あくまでも同じであろうとすると考えるしかない」――哲学者が何百年にもわたって考えてきたことなんだから、これはもうそうに決まっているのだけれど、でもそんなことないって叫びたくなるような暗黒の深淵だな……。底知れない不安。

 「喜んでなせと命令するのは、そもそも矛盾したことなのだ」というのは、前後で語られる政治哲学とも切り離せない、大事な記述です。
 

「永遠平和のために」(Zum ewigen Frieden,1795)★★★☆☆
 ――戦争原因の排除、国家を物件にすることの禁止、常備軍の廃止、軍事国債の禁止、内政干渉の禁止、卑劣な敵対行為の禁止……。

 これまでの四篇の集大成のような論文。訳者解説でもけっこうページを割かれている、共和制に関する考えが興味深い。代表民主制っていうのは、社会を構成する人間の数があまりに多いから考え出された便宜的なものだと思っていたのだけれど、直接民主制は「語のほんらいの意味で必然的に専制的な政体である」し、「代議的でないすべての統治形式は、ほんらいまともでない形式である。というのは立法者が同じ人格において、同時にその意志の執行者となりうるからである」という視点には、目から鱗が落ちました。

 哲学的な意味での実践(道徳)という言葉の意味は、わたしにはよくわからない。だけど、一般的な意味での道徳に期待するのだとしたら、悲しいかな永遠平和なんて絶対に不可能だと思う……。
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永遠平和のために 啓蒙とは何か
カント著 / 中山元訳 光文社 (2006.9)
ISBN : 4334751083
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