広島@サーチ

2011-07-28

機密の島・金輪島とは?

12:02

▼道路脇に防空壕(軍需物資用)跡を見る

いつも「比治山陸軍墓地」から海の方を展望すると、赤いヤグラが立ち,真っ先に眼に飛び込んでくる「金輪島」、2000年までは、似島や宮島、まだ紹介していない江田島、倉橋島等多くの島に戦争遺跡を求めて行っていましたが、ここだけは、今は金輪島造船所となっており、かって仕事で行った経験、さらにこの島について書かれた文献に殆どお目にかかっていなかったため、人を案内する自信が無く行きそびれていましたが、2000年は偶然ですが、なんと3回も渡りました。最初は、1994年に江種祐司氏が書かれた資料一つだけでの「冒険旅行」、2回目は8月7日の海のクルージングフィールドワークでの参加者として、3回目は、ついに「案内人」として。

1992年、陸軍船舶司令部がおかれ、隷下の部隊として陸上勤務第209中隊(暁1989部 隊)が、戦争末期には野戦船舶本社の一部もこの島に置かれ、全島で、動員学徒が働いていました。空辰男さんは著書「加害基地宇品」の中で、ここでベニヤ板で造った舟(○レ)での特攻訓練に明け暮れていた時に、6キロ離れて炸裂した原爆を見たと書かれています。

宇品の市営桟橋から15分も船に揺られて行くと、造船所に着きます。クレーン群の中にも戦争中使用されていたものがあるといいますが、ちょっと見分けがつきません。眼に飛び込むのはナンバープレートの無い車(ここでは道路交通法は適用されていない)と、道路脇に数多く口を開けている防空壕(軍需物資が貯蔵されていた)の跡です。

そこから、当時の水道の跡やもっと大きい壕を探して幾つか見つけますが、写真で紹介しても何のことか判らない状態で存在を確認。

それより、海岸 沿いの頂に、何か大きな「碑」が立っているのに気が付いきました。そばに行って見ると八つの文字が削られています。ちょうど、付近の人に出会ったので聞いてみると「死者を慰めるようなものではなかった、戦意を高揚させるような文章だったはず」といいます。それで削られている理由がおぼろげながら判りました。たぶん「八紘一宇」とか「皇威輝八紘」、「皇運扶翼」とかいったたぐいの文章だったのでしょう。

それから弾薬庫がその近くにあったと江種さんの資料にあります。見渡してみると、畠の古いコンクリート雍壁を見て「あっ、これに違いない」と気づき、地元の人に尋ねたら、「弾薬庫の中を埋め立て畠にしたもの」との答えを貰い確認できました。(こういうのに気がつく、というのが年季というもの、と威張っていましたら、後に江種さんに尋ねて、これもそうだが、山の反対側にもっと迫力のある物が残っているとのことでした。そこまで見つけられなかったのが残念。)

この島に運ばれて無くなった500人もの原爆犠牲者を悼む「御魂安かれ」とある1998年8月3日建てられたばかりの金輪島新慰霊碑ももちろん訪ねました。

1998年建てられた「金輪島原爆慰霊碑」前で  

碑文「御霊安かれ

一九四五年八月六日、広島に原子爆弾が投下され、街は一瞬のうちに破壊し、熱線に焼かれて跡形もなくなった。市民は熱線と放射能で即死、又は全身に火傷を負って逃げまどった。そのうち約五〇〇人位が金輪島に運ばれ、暁部隊の方などに助けられ、看護を受けた。負傷者は血だらけで、手をにぎると皮がつるりとむけ、水をくださいと叫びながら、次々に恐怖と苦悶の中で息絶えたという。同年八月一五日、ついに終戦して戦火はやんだ。今日、広島は平和都市として復興し、我々は平和の恩恵を受けているが、この平和は50余年前不幸にして戦火の中に亡くなられた方々の犠牲のうえに築かれたものである。

 この碑を建てることにより、金輪島で息絶えられた方々の御霊を慰め、共々に平和を守る気持ちを新たにしたいと思う。

2010-09-01

広島上空に!?

20:47

7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。

7時15分ごろ、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第1目標を爆撃せよ)。

この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。

この観測機は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。

8時すぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった)。

8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600ft(9,632m)。まず原爆による風圧等の観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させた。青空に目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。この時の計測用ラジオゾンテを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」と云う流説があるが誤りである。一部のラジオゾンデは、その後呉の日本軍が鹵獲に成功している。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。

8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度等の入力をし、投下目標(AP)を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。

▼広島市の略史と被爆直前の状況

広島市は戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州に城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。

広島高等師範学校・広島女子高等師範学校・広島文理科大学・広島工業専門学校・広島高等学校を有する学都でもあった。

広島には軍都としての側面もあった。日清戦争時には前線に近い広島に大本営が置かれ、また臨時帝国議会も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200mに爆心地がある。また宇品港に置かれた陸軍船舶司令部は兵站上の重要な拠点であった。

被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、居住一般市民約29万人、軍関係約4万人、および市外から所用のため市内に入った者約2万人である。なお、居住一般市民約29万人は、老人、女性、子供が大多数と思われる。

現在の広島の地図から名前が消えた中島地区(中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町)は、数千人の一般庶民が暮らす街であり、また広島の第一の歓楽街・繁華街であった。街には下町の長閑な暮らしがあり、映画館など娯楽施設もあった。木造低層家屋が立ち並んでいたこの地区は爆心地から500メートル以内にあり壊滅、唯一、RC建築の燃料会館(旧大正屋呉服店)だけが耐え残った。

戦後、この地区は広島平和記念公園として生まれ変わることになる。燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園のレストハウスとなり現在も残っている。

▼被爆救護活動

広島市の行政機関は市の中央に集中し、そこは爆心地の近傍であったため、家屋は全壊全焼し、職員も多くが死傷し、被災直後は組織的な能力を失った。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も同様に機能を喪失した。

市内の爆心地からやや遠方にあった宇品港の陸軍船舶司令部隊が被害が軽かったため、この部隊が救護活動の中心となった。船舶司令部は直ちに消火艇を派遣して大火災を起こした河岸部の消火活動を始めた。特に河岸部の病院施設は鎮圧まで消火し、そこを救護活動の橋頭堡とした。

陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。また原爆の被災者は広島湾に浮かぶ似島の似島検疫所にも多く送られている。その数は1万人にのぼったという。この船舶練習部以外にも市内各所に計11ヶ所の救護所が開設された。船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は最大53ヶ所まで増加した。

市内の医療関係者は9割近くが罹災したため、救援に周辺の地域(県外含む)から多くの医療救護班が入った。8月・9月の救護所収容の累計は10万人を超え、外来治療者は20万人を超えた。

2010-08-27

広島都市圏を知れ!

12:34

広島都市圏は、広島を中心とする経済地域で、広島市と周辺の衛星都市の集合体を指す。10%都市圏の人口は約158万人、5%都市圏(絶対)の人口は約185万人で、中国・四国地方では最大の都市圏である。

広島県が指定する広島市を中心とした広域行政圏は、「広島大都市周辺地域広域行政圏」「広島圏」などと呼ばれる。広島市の南西に隣接する広域行政圏は「広島西広域市町村圏」「広島西圏」などと呼ばれる。これら2つの広域行政圏は、広島地域事務所によって統一的に管轄されている。

広島圏 127万1974人

広島市

安芸郡(府中町・海田町・熊野町・坂町)

広島西圏 14万5811人

廿日市市

大竹市

それぞれの市町村の通勤通学者の内、5%以上の連担した範囲を、広島都市圏を構成する市町村とみなす。人口規模はおよそ185万1000人

人口 233万9460人(2005年国勢調査)

面積 6302.80km²(2005年全国都道府県市区町村面積調)

1993年10月、広島県の旧安芸国と山口県岩柳地区にある主な市により、広島広域都市圏形成懇談会が設置され、広島広域都市圏と呼ばれる圏域が設定された。これは、小売商圏をベースにした経済圏で、日常的な都市圏とは異なる。

広島広域都市圏形成懇談会構成市町(11市2町)

広島圏

広島市

広島西圏

大竹市

廿日市市

岩柳地区

岩国市

柳井市

芸北圏

安芸高田市

安芸太田町

北広島町

広島中央圏

東広島市

竹原市

呉圏

呉市

江田島市

尾三圏

三原市

広島広域都市圏の地域内の町は、上記2町以外、基本的に広島広域都市圏形成懇談会に参加していない。以下に参加していない自治体を列挙する。

広島圏:安芸郡全4町(府中町・海田町・熊野町・坂町)

広島中央圏:豊田郡全1町(大崎上島町)

尾三圏:尾道市および世羅郡全1町(世羅町)

岩柳地区:玖珂郡全1町(和木町)、熊毛郡全3町(上関町・田布施町・平生町)、大島郡全1町(周防大島町)

▼民間の定義

金本良嗣・徳岡一幸によって提案された都市圏。細かい定義等は都市雇用圏に則する。 広島市を中心市とする都市雇用圏(10%通勤圏)の人口は約158万人(2000年国勢調査基準)。

都市雇用圏の変遷

表を縮小するため、上述の広域行政圏の「広島圏」の構成自治体(広島市および安芸郡の計1市4町)を、ここでは便宜的に「広島圏」と表示し、広島市の10%通勤圏を「広島都市圏」とする。

和木町は山口県玖珂郡の自治体。それ以外は広島県の自治体。

都市雇用圏を形成せず、かつ、10%通勤圏に入っていない自治体は、各統計年の欄で灰色かつ「-」で示す。

広島市

1985年3月20日、広島市に佐伯郡五日市町が編入され、広島市佐伯区となった。

2005年4月25日、広島市に湯来町が編入され、広島市佐伯区の一部となった。

廿日市市

1988年4月1日、佐伯郡廿日市町が市制施行して廿日市市となった。

2003年3月1日、佐伯郡佐伯町・吉和村を編入した。

2005年11月3日、佐伯郡大野町・宮島町を編入。

その他

2004年3月1日、高田郡吉田町、八千代町、美土里町、高宮町、甲田町、向原町が新設合併して安芸高田市となった。

2004年10月1日、山県郡の加計町・戸河内町・筒賀村が新設合併して安芸太田町となった。

2004年11月1日、佐伯郡の江田島町・沖美町・能美町・大柿町の4町が新設合併して江田島市となった。

2005年2月1日、山県郡大朝町・芸北町・千代田町・豊平町の4町が新設合併して北広島町となった。

2005年2月7日、東広島市が、賀茂郡河内町・豊栄町・福富町・黒瀬町、および豊田郡安芸津町を編入合併した。

▼主な交通機関

JR西日本が「100万都市広島にふさわしい都市型鉄道」を目指して構築した都市型鉄道ネットワーク。範囲は通勤比率よりも利用者実数に依存しているため、10%都市圏外の呉市や岩国市までサービスされている一方、都市圏北部は10%都市圏内でもサービス範囲に入っていない。

ICOCAのサービスも先にsuicaを導入した仙台に遅れて、2007年9月より開始した。これは山陽本線や呉線、可部線、芸備線(広島〜狩留家)なおの広島シティネットワーク内以外にもJR岡山支社管内の岡山地区(岡山都市圏)・福山、尾三地区(備後都市圏)でも同時期に導入された。

▼広島市への原子爆弾投下

広島市への原子爆弾投下では、第二次世界大戦末期の1945年昭和20年8月6日午前8時15分に、アメリカ軍が日本の広島市に対して投下した原子爆弾(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。これは実戦で使われた世界最初の核兵器である。この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約14万人が死亡したとされる。広島県、広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」とカナ表記される場合は、広島市への原爆投下の関連での言及が多い。

▼投下の経緯

亡命物理学者のレオ・シラードの原爆開発提言等により、ルーズベルト大統領の指示でマンハッタン計画が開始される。ニールス・ボーア等による原爆投下阻止の試みは挫折する。そして、原爆の投下目標は1945年6月にとして広島と決定された。

8月4日、B-29エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還した。

8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した。同時刻、テニアン島ではブリーフィングでポール・ティベッツ陸軍大佐がエノラ・ゲイ(名前の由来になったのは彼の母親の名前)の搭乗員に出撃命令を伝えた、「今夜の我々の作戦は歴史的なものだ」。

8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎である。0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。続いて1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。

その離陸2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、更に2分後の1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29も飛び立った。即ちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内4機が広島上空へ向かっていたことになる。テニアン島から目標の広島市までは約7時間の飛行で到達できる。

2010-08-25

産業を語るぞ!

12:00

戦時中の日本陸軍海軍の主要拠点が置かれた広島県は、呉の海軍工廠を始め多くの軍需施設が置かれ、戦後もそれらに携わった技術者・職人らによって技術が継承されモノ作りが盛んである。自動車・造船、そしてのちに加わった鉄鋼の御三家を中心に、瀬戸内海工業地帯の中核として発展、1994年までは工業出荷額で、関西以西、中四国・九州の西日本17県でトップを維持したが、バブル景気の崩壊でこうした重厚長産業はもろに影響を受け、三社の自動車メーカーの工場などを誘致した福岡県に製造品出荷額等で抜かれた。しかし近年の景気の回復、及び中国特需でこれらの業種は空前の好景気を記録、2004年の製造業出荷額は、6.3%増の7兆4153億円、製造品出荷額等は5.7%増の計21兆7468億円と、10年ぶりに福岡県を抜き関西以西でトップに返り咲いた。また重厚長産業に偏重した反省から、半導体製造のエルピーダメモリや日東電工などIT・

デジタル関連機器メーカーを積極的に誘致し対応を図り、全体的にはバランスのよい産業構造になっては来ている。しかしながら景気がいいのは大企業と関連会社が多く、バブル期の融資でつまずいた金融業、また規制緩和の影響を受ける輸送業、外国からの安価な原料に苦しむ製造業など、その他中小企業景気回復は遅れている。明治以降、広島市に大本営が置かれてから今日までの、広島市を中心としたエリアのドラスティックな歴史が、同じく明治以降の日本の歴史とシンクロされるため、近年経済誌でよく特集を組まれている。県東部の備後地方は常石造船に代表される造船業、昭和30年代に立地した世界最大規模の製鉄所JFE西日本製鉄所福山地区を代表とする鉄鋼業、シャープ福山工場を代表とするIC・半導体産業、古くからの地場産業である繊維産業が集積している。

▼地域は?

県下には14市5郡9町があり、それらは県庁によって1つの大都市周辺地域および7つの広域市町村圏の計8つの広域行政圏に区分されている。ただし、この広域行政圏は実際の都市圏の枠組みとは異なる。県内には広島市を中心とする広島都市圏、福山市を中心とする備後都市圏が存在し、それぞれ広域行政圏や県境を越えて広がっている。

以下、広域行政圏ごとに市町村を記載し、人口を付記する。

▼そして教育

すでに退職した世代から団塊の世代にかけて、日教組系教職員の組織力が強かった。部落解放同盟広島県連と連携するなど、競争原理よりも平等に重きが置かれていた(例・総合選抜制の入試など)。しかしその是正を掲げて、文部科学省から教育長が順次派遣され、上意下達式の変革がなされた。2005年度入試から全県で学区の壁がなくなり、受験競争が激化している。小学校では「100ます計算」に象徴されるように、基礎基本の定着が一層図られるようになった。小学5年生と中学2年生において共通学力テストが実施され、その結果は、各学校ホームページで公開されている。なお、もともと被爆県として平和教育がさかんであった関係で、式典における国旗掲揚、国歌斉唱の取り扱いについて、現場に意見の差が残る。処分の適否が司法の場に預けられているところである。

▼その他備考

山がちな広島県の地形を反映して、テレビ、ラジオとも多数の中継局を擁している。そのためか広島県内の民間テレビ放送局4社はいずれも放送開始時及び放送終了時にチャンネル紹介は全くしていない。また、広島エフエム放送の中継局数は13局と日本にある都道府県域民間エフエム放送局53社中最多である。

民放AMラジオ局RCC中国放送のみであるが、福山市周辺では近隣のMBS毎日放送ABC朝日放送、ラジオ大阪RSK山陽放送や、その中でも瀬戸内海沿岸ではRNC西日本放送も、また広島市や大竹市周辺ではKRY山口放送や、その中でも瀬戸内海沿岸ではJRT四国放送RNB南海放送、OBS大分放送RKB毎日放送KBC九州朝日放送も、島根鳥取越境周辺ではBSS山陰放送が、それぞれ聴取可能である。夜間になると東京・名古屋などの放送局も聴取できる。ただし、CBCラジオ文化放送についてはそれぞれ朝鮮中央放送KBS韓民族放送との混信がありほぼ聴取は不可能である。

地上デジタルテレビジョン放送は2006年10月に広島市域沿岸部で放送開始。

民放FM局は県域局の広島エフエム放送の他、福山市周辺をカバーする中国地方で初めてのコミュニティ放送局として開局した、エフエムふくやまの他、広島市、尾道市、廿日市市にコミュニティFM局がある。また、地域によっては大阪・兵庫・岡山・山口・香川・愛媛・大分各地区のFM放送が受信できる。

広島県はTXN系を放送対象地域とする放送局を持たない。もっとも、備後の一部地域では岡山・香川ネットの民放テレビ局であるテレビせとうちがケーブルテレビまたは直接受信で、東広島市はケーブルテレビを通じて視聴可能である。またテレビ東京の番組の多くは、広島の民放4局がそれぞれ放送している。特に、テレビ朝日系列の広島ホームテレビは、テレビ東京の番組が多い。だが、2011年の地上デジタル放送完全移行を目途にテレビ東京系の新局を開局する構想がある。

参照項目:平成新局#平成新局の今後

地上デジタル放送のリモコンキーIDはリモコンキーIDの記事を参照。TBS系列のRCCが3であることとTXN系ならびに独立UHF局がない以外は関東広域圏と一緒。

▼交通

広島空港

広島西飛行場

西日本旅客鉄道

山陽新幹線(福山〜広島)

山陽本線(大門〜大竹)

呉線(全線)

可部線(全線)

芸備線(東城〜広島)

福塩線(全線)

木次線(油木〜備後落合)

三江線(伊賀和志、香淀〜三次)

広島シティネットワーク(山陽本線白市〜岩国・呉線海田市〜広・可部線全線・芸備線広島〜狩留家)

広島電鉄

本線

宇品線

江波線

白島線

皆実線

横川線

宮島線

井原鉄道

井原線(御領〜神辺)

広島高速交通

広島新交通1号線(アストラムライン)

スカイレールサービス

広島短距離交通瀬野線(スカイレールみどり坂線)

2010-08-24

県名の由来

18:35

県名は県庁所在地である広島市に由来する。その広島の由来は、1589からの毛利輝元による広島築城の際に、1591年命名されたものである。大江広元以来、毛利氏は「元」の通字以外、「広」も諱に使用する字のひとつとしていた。毛利元就の時代には、完全に臣従したものには、「元」を一字書出として与えたが、そうでない国人衆(平賀広相、阿曽沼広秀など)には、明白に傘下に組み入れられたと示す「元」の字を避け、「広」の字を与えたとされる。この慣習は毛利輝元にも引き継がれ(吉川広家、山内広通、益田広兼など)、毛利氏の与える「広」は重要な意味合いを持った。従って「広島」は、この「広」とこの地の豪族であり、普請奉行であった福島元長の「島」を合わせたとする説が有力である。また他に、デルタのため「広い島」からきたという説もある。

東広島市にある約2万7千年前の西ガガラ遺跡や、旧石器時代から人々が居住していたと考えられている。倉橋島(呉市倉橋町)の鹿島沖からナウマンゾウの化石などが引き上げられている。

甲立古墳や石槌山古墳郡などの古墳もあり、 白鳳時代には備後国に寺院が建立された。

6世紀頃は古墳時代後期にあたるが、大和政権は、地域の有力者を国造に任命し、国造制を開始した。並行して部民制も導入した。さらに、各地域へ屯倉の設置を拡大し、地域民衆の直接支配も介入し始めた。

741年: 聖武天皇が諸国に国分寺国分尼寺造営の詔を出し、備後国分寺を福山市神辺町に、安芸国分寺を東広島市西条町に創建。

1164年: 平清盛など平家一門が法華経28巻など33巻1具を厳島神社に奉納。

1174年: 後白河上皇が平清盛らを伴い厳島神社に参拝。

1555年: 毛利元就が陶晴賢を厳島で破る。

1587年: 豊臣秀吉が厳島神社に参拝。

1589年: 毛利輝元が広島城の築城開始。

1600年: 関ヶ原の戦いで毛利輝元が敗れ長門国に移封となり、福島正則が広島城に入城し、備後・安芸二国を治める。

1619年: 福島正則が広島城の石垣を無許可で修築したため改易処分。代わって備後福山には水野勝成、安芸広島には浅野長晟が入城。

1698年: 福山藩5代藩主水野勝岑死去により、水野家無嗣除封。

1699年: 松平忠雅福山に転封。

1710年: 松平忠雅に代わり阿部正邦が福山に転封。

1716年: 広島藩が定免制を採用。

1800年: 頼山陽が広島藩を脱藩

1843年: 福山藩藩主の阿部正弘老中首座に就任、日米和親条約を結ぶ。

1864年: 第1回長州征伐のため、広島に幕兵が集結。

1865年: 第2回長州征伐の先鋒を広島藩が命じられる。

江戸時代の藩については備後国の福山藩、安芸国の広島藩、広島新田藩 備後の家老浅野家の広島藩の支城三原城が置かれた。

1867年: 薩長芸3藩の討幕同盟が成立。

1871年

7月14日、廃藩置県詔勅出る。により広島県と福山県、中津県が設置される。

8月4日、前藩主浅野長訓上京取りやめる。旧広島藩内一帯に民衆の騒動(芸備16群一揆)が展開する。

1875年: 2月、藤井勉三が県令に任命された。

1876年

4月18日:岡山県より旧備後国沼隈、深津、安那、品治、芦田、神石の6郡を広島県に移管、現在の広島県域が確定した。

5月:福山支庁を設けた。備後6郡を所属させた。

1878年:4月、広島水主町に新庁舎完成。

1880年:4月、県令藤井勉三病気で依願免官、千田貞昭が任命された。

1884年: 宇品港の起工式が行われる。

1889年4月1日: 広島市市制施行

1894年: 日清戦争により大本営が設けられ、明治天皇が広島へ移る。

1898年:尾道市市制施行

1902年10月1日: 呉市市制施行

1916年7月1日: 福山市市制施行

1936年11月15日: 三原市市制施行

1938年: サンフレッチェ広島のルーツとなる東洋工業蹴球部結成。

1945年8月6日: 午前8時15分、広島市へアメリカにより原子爆弾投下。

1945年8月8日: テニアン島より来襲したB-29・91機が福山市を空襲。福山城天守など、市街地の大半が焼失

1949年: 国立広島大学設置。

1950年: プロ野球球団・広島カープ結成。

1953年: 因島市市制施行。

1954年: 松永市、府中市、三次市、大竹市、庄原市市制施行。

1955年: 広島平和記念資料館開館。第1回原水爆禁止世界大会開催。

1958年: 竹原市市制施行。

1966年: 福山市と松永市が合併

1968年: 広島カープが東洋工業の支援を受け、広島東洋カープとなる。

1971年: 昭和天皇が初めて原爆死没者慰霊碑に参拝。佐藤栄作が歴代首相として初めて平和祈念式典に参列。

1974年: 東広島市市制施行。

1975年: 山陽新幹線岡山 - 博多間が開業。広島東洋カープがセ・リーグ初優勝。

1980年: 広島市が全国で10番目の政令指定都市となる。

1988年: 廿日市市市制施行。

1989年: 海と島の博覧会開催。

1992年: Jリーグ発足に伴い、マツダサッカークラブを母体としサンフレッチェ広島結成。

1994年: 広島アジア大会開催。サンフレッチェ広島ステージ優勝。

1996年: ひろしま国体開催。 12月5日、厳島神社と原爆ドームが世界文化遺産に登録される。

1998年4月1日: 福山市、中核市に昇格

1999年6月29日: 6.29豪雨災害が起こる。

2000年11月1日: 呉市、特例市に昇格

2001年3月24日: 芸予地震が起こる。

2004年: 安芸高田市、江田島市市制施行。

2006年: 尾道市と因島市が合併。その他にも、豊平町、千代田町、大朝町、芸北町(いずれも旧町名)が合併して北広島町となる等、同年に多くの平成の大合併が行われた。