1998年の地元開催ワールドカップで優勝し、2000年の欧州選手権優勝、さらにはグレゴリー・クペ(クラブ・アトレティコ・マドリー=スペイン)との激しいポジション争いを制して準優勝に貢献した2006年ワールドカップなどを経験した、元フランス代表GKファビアン・バルテス氏(37)が、現代表期待の若手、スティーブ・マンダンダオリンピック・マルセイユ)とユーゴ・ヨリス(オリンピック・リヨン)を指導。「当初ファビアンは少しためらっていたが、最終的に引き受けてくれた」とはドメネク監督の弁。

dragan2007-01-19


 フットボール関係者の中でよく使われるフレーズに、「ゴールキーパーには30歳を越えてからピークが訪れる」というものがある。2006年のウクライナ年間最優秀ゴールキーパーにも選出された(通算で5度目の受賞)ショフコフスキーはまさにその典型といえるプレーヤーだ。

 もちろん、ゴールキーパー各人によって「ピーク」がどこに存在するかは異なるが、31歳にして国際舞台としてはもっとも大規模なワールドカップに出場を果たし、自らも「私のキャリアではピークはまだやって来ていないし、またこれから数多くのゲームを通して達成感が得られるであろう」と公言していることからも、彼が今後ますます脂の乗ったパフォーマンスを披露してくれる公算は非常に大きい。

 もっとも、若いころから国内では注目された存在であり、時折ヨーロッパ戦線にも顔を出す強豪クラブ、ディナモ・キエフでの活躍が認められ、U−21代表で12試合に出場するなど実力は折り紙つきであった。A代表でも12年間で63キャップを刻み、不動の守護神としてゴールマウスに君臨している。2006年のウクライナ選手権時に相手とのコンタクトプレーで鎖骨を骨折してW杯出場が危ぶまれたが、本大会ではそれを感じさせないプレーで幾度となくチームを救い、初出場で8強入りという快挙の原動力となった。

 特に圧巻だったのは決勝トーナメント1回戦のスイス戦。120分を戦い抜き、PK戦にもつれ込んだこの試合でウクライナに勝利を手繰り寄せたのは間違いなくショフコフスキーであった。なんと3本受けたキックで相手に1本も決めさせず、しかも2本は手と足でストップしたのである(トランキッロ・バルネッタが放った1本はゴールマウスを捉えることができなかった)!

 代表チームではDFアンドリー・ルソルがスイーパー的な役割を果たしているため、ショフコフスキー自身はそれほど広いディフェンディングエリアを守ることはないが、本来はアグレッシブなスタイルでのゴールキーピングが身上。時折大ポカもあるが、国内リーグ戦なども彼一人で勝ち点を稼ぎ出したゲームも少なくない。また「掴むか、弾くか」の判断力やシュートストップスキルも高いレベルで備えている。

dragan2007-01-02


 アフリカ系アメリカ人の父とハンガリー人の母の間に生まれたハワードは、子どものころには決して経済的に裕福とは言えない生活をしていた。しかし、ハイスクール時代にサッカーと出会った。

190センチと長身のゴールキーパーであるハワードは、ハイスクール卒業後すぐにプロに入り。ノースジャージー・インペリアルズで長期にわたってプレー。1998年にメジャーリーグ・サッカーと契約しニューヨーク・メトロスターズに加わり、ゴールキーパーとして2001年まで在籍した。ゴールキーパーは一般的に「経験値」が重要視されるが、ハワードは比較的キャリアが短いにも拘らずそのポテンシャルを証明するように、2001年メジャーリーグ・サッカーの最優秀キーパーに選出されている。

やがてハワードはアメリカで最高のゴールキーパーとして知られるようになり、代表チームにも選ばれ2002年にデビュー。世界的なメガクラブ、マンチェスター・ユナイテッドイングランド)の注目するところとなる。そしてついに2003年にはメジャーリーグ・サッカーからイギリスのプレミアリーグへ移り、アメリカのサッカー界を揺るがせた。

 移籍当初はあのファビアン・バルテス(元フランス代表)を押しのけゴールマウスを守ったが、2004年シーズンにパフォーマンスが低下したことをきっかけにロイ・キャロル北アイルランド代表)にポジションを奪われた。若さゆえに一度落としたパフォーマンスを取り戻すのに相当期間を要することとなり、それが「赤い悪魔」にとってピーター・シュマイケルの幻影を振り払えない要因ともなってしまった。
2006−2007シーズンからは心機一転、エバートンでプレーしている。代表でも2006年ドイツW杯こそケイシー・ケラーの壁を越えることは出来なかったが、今後アメリカのファーストキーパー候補であることには変わりない。また自身が「トゥーレット症候群」という神経性の疾患を克服しており、その関係でユニセフのボランティアにも積極的に参加している。

 


 

dragan2007-01-01


 フットボーラーに限らず、プライベートで問題が起こった選手はそのパフォーマンスに多大な影響を及ぼすものだ。彼の場合、代表ではユースカテゴリーから招集され、フル代表のレギュラーも張っているのだが、クラブレベルでの活躍は代表のそれに比較できるものではないのだ。

 国内の名門ラピド・ブカレストで活躍し、オランダのアヤックスへ移籍したが怪我の影響でディナモ・ブカレストへレンタルに。アヤックスへ復帰した後2シーズンはレギュラーとであったが、2004−2005シーズンは生え抜きの若手マールテン・ステケレンブルフ(オランダ代表)やハンス・フォンク(南アフリカ代表)とのポジション争いに敗れた。

 時を前後して元恋人との親権問題やそれに絡む裁判での逆転敗訴、アルコール依存症など様々な悪影響が彼の周りを取り囲むことになる。

 光が差し込んだのは、パルマに移籍したセバスティアン・フレイ(フランス)に代わる正ゴールキーパー候補を探していたフィオレンティーナからオファーがあった時だ。もともと能力は高く、一部には「ルーマニア史上最高のゴールキーパー」との評価も。代表の前任者ボグダン・ステレアの幻影を振り払うのは容易ではないが、まだ29歳。持ち前の「プレゼンス=存在感」を武器に成長が期待される。

*2007年1月、母国のディナモ・ブカレストと3年半の契約を結んだ。  

dragan2006-12-14


 メキシコは中南米に位置するW杯の常連国だが、ゴールキーパーに関しても名選手を輩出する国として知られている。W杯史上初めて5大会に出場したアントニオ・カルバハル、地元開催の86年大会ベスト8の立役者パブロ・ラリオス、そして、アカプルコ出身で90年代に特異なキャラクターで世界を沸かせたホルヘ・カンポス。さらに2006年大会ではオズワルド・サンチェスが素晴らしいゴールキーピングを見せてくれた。

 このオチョアも21歳と若い選手だが、この年代にしては経験は豊富だ。U−20代表のキャプテンを務め、CONCACAFゴールドカップ2005からはフル代表にも招集される。そして同年12月にはついに国際親善試合のハンガリー戦で代表デビューを飾った。また出場機会こそなかったが2006年のW杯最終登録メンバー入りも果たし、国内の名門クラブ・アメリカでは生え抜きとしてプレーしており、2006クラブワールドカップにも出場している。
 
 プレーに関する最大の特徴は、一言でいうと「沈着冷静」。年齢を感じさせない落ち着いたプレーでピンチを防ぐ。
  

スペインは、90年代以降だけでもU−17やU−19で8回欧州を制覇していることからもわかるようにユース年代では「タレントの宝庫」として知られています。この実績の下地として、自国選手の育成には概して熱心であり、古くはアスレティック・ビルバオレアル・ソシエダのようにスペイン国内でも地方出身者のみの「純血主義」で選手を育成し、トップチームに引き上げるケースも多く見られました。

 また強豪として知られるレアル・マドリーからもカンテラ(下部組織)から多くのGKがリーガ・エスパニョーラに送り出されてきました。例を挙げると、
サンチャゴ・カニサレス(現バレンシア
・コペーニョ(現セビージャ)
イケル・カシージャスレアル・マドリートップチーム)
ディエゴ・ロペスレアル・マドリートップチーム)
・ペドロ・コントレラス(レアル・ベティス
カルロス・サンチェス(2部リーグ、カステジョン
など第一線で活躍している選手も少なくありません。
 
 スペインでも他のクラブチームと比較して異色なのは、現欧州王者であるFCバルセロナの育成システムです。バルセロナはホームスタジアムであるカンプ・ノウを建設する際、もともと別荘として利用されていた建物を買い取り、それをマシア(寮)として使用しています。マシア内にはパソコンルーム、キッチン、図書館なども完備されており、選手の面倒を見るための職員も数多く常駐しています。

 ここではフットボールの指導のみならず「人間教育」にも力を注いでいて、例えば学校の授業料を含むすべての経費をクラブ側が負担しています。これにはれっきとした理由があります。マシアに入寮できたとしても、関係者によればバルセロナのトップチームに到達するのは全体の2%にも及ばないとのこと。他のチームに売却されて活躍する選手もいますが、教育に重きを置いているのは、仮にサッカーで大成できなくても勉学や他の分野で活躍できることを期待しているからに他なりません。さらにマシアに入寮してくるのは主にスペイン国外の子供たち。アジア、アフリカ、南米など国籍は様々で、ホームシックにかかる子も少なからずいるため、常駐職員達は出来る限り「親代わり」となって親身に対応しているとのことです。そしてここからヴィクトール・バルデス(FCバルセロナトップチーム)、アルベルト・ジョルケラ(FCバルセロナトップチーム)、ホセ・マヌエル・レイナリバプールイングランド、スペイン代表)などが巣立っていきました。

 バルセロナの育成システムにおけるもう一つの柱は(現段階では計画の進行中ではありますが)、サッカースクールの世界的な展開です。現在はエジプトとメキシコの2カ国だけにスクールが開校されていますが、将来的には世界中にスクールを開き、有望な人材は出来るだけ早期にマシアに送り込みたいようです。またアルゼンチン一部リーグアルセナルとも業務提携し、未来の原石発掘にも余念がありません。

 このバルセロナの例に見られるように、ここ数年でユース年代の育成システムも様変わりしています。「自国選手の育成→国際化」への変化です。実際レアル・マドリーのスカウティング担当者は「いい人材を獲得するためなら国境を越える」と、「国際的に・若い逸材を・出来るだけ早い時期に確保すること」はもはやスタンダードな考え方であることを明言しています。ほんの数シーズン前まではトップ登録25人中15人がカンテラ出身者であり、スカウティングもマドリードを中心としたスペイン国内に限られていたレアル・マドリーも、時代のニーズに適応する必要が出てきたのです。

 この他にカンテラの充実を図っているクラブとして昨シーズンのUEFAカップ王者セビージャ、ビジャレアル等が挙げられます。これらのクラブは欧州戦線でも好成績を残しており、なおかつカンテラ出身者を積極的に起用しています。近年の成功例といえるでしょう。
 

dragan2006-11-08

スペインが世界に誇る名門レアル・マドリー。そのゴールマウスを若くして預かっている。

 マドリーの生え抜きメンバーとしてユース年代から育成指導を受け、1999年のFIFAワールドユースにも帯同(現在アスレティック・ビルバオに所属するダニエル・アランスビアの控えではあったが、スペインは日本を決勝で4−0と粉砕している)。さらに弱冠19歳でレアルトップチームのレギュラーポジションを獲得。そう、ブーヨやボド・イルクナー(元ドイツ代表)ら錚々たるゴールキーパーの系譜に彼の名も刻まれたのである。

 そのシーズンに欧州チャンピオンズリーグ優勝を果たし、10代にして早くもクラブレベル最高峰の戦いに勝利。翌シーズンにはリーガ・エスパニョーラ優勝も経験した。

 ところが、2001/02シーズンに入って、彼のポテンシャルからは考えられないようなミスを連発するようになる。そしてビセンテ・デル・ボスケ監督の信頼を失うと、リーグ戦後半にはベンチに座る機会が多くなっていた。また欧州戦線においても、レアルはこのシーズンにチャンピオンズリーグ決勝まで進んだが、ファイナルのバイエル・レバークーゼン戦にもスタメンに彼の名は無かった。

 しかし、運命の歯車はどうかみ合うかわからない。スコットランドグラスゴーで行なわれたこの試合中に出場していたGKセサールが負傷退場のアクシデント。ウォーミングアップもほとんどしていなかったカシージャスに急遽出番が回ってきた。にもかかわらず彼はMAXレベルのゴールキーピングを観衆に披露。レバークーゼンの猛攻をほとんど一人で凌ぎ切り、見事マドリーを欧州制覇に導いた。

 このゲームをきっかけに、カシージャスは再びマドリーのゴールマウスに君臨するようになる。そして2000年の欧州選手権、2002年のワールドカップではついにスペイン代表のメンバーにも選出された。
 
 2002年は、まだ21歳ということもありセカンドゴールキーパーとしてワールドカップを迎えるはずであったが、ファーストチョイスであったはずのサンチャゴ・カニサレスバレンシア)が直前の怪我(香水のビンで足のかかとを負傷)に見舞われピッチに立つことに。そしてスペインをベスト8に押し上げる活躍を見せた。圧巻だったのは決勝トーナメント一回戦のアイルランド戦。PK戦にもつれこむ接戦となったが、カシージャスが3本をストップする離れ業をやってのけた。しかし4年後のドイツ大会ではベスト16でフランスに敗れ、決して満足のいく成績ではなかった。

 彼の持ち味は、ジーダ同様「レスポンスの速さ」にある。その他のスキル(コンセントレーション、コーチングなど)も一流の領域にあるのだがとりわけ反射神経の鋭さが際立つのだ。レアル自体、オフェンスは世界トップクラスであっても守備のバランスが非常に悪い。しかし、そんなレアルが常にリーガ・エスパニョーラで上位争いを演じているのはカシージャスによるところが大きいのは紛れも無い事実だ。

 ヴィクトール・バルデス(FCバルセロナ)、ホセ・マヌエル・レイナリバプールイングランド)などスペインのゴールキーパーには人材は多いが、まだまだカシージャスの時代が続きそうな気配である。