不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ずんぐりトラボルタ


 ロンリーハート鑑賞。1940年代に起きた事件の映画化である。出演、ジョン・トラボルタジェームズ・ガンドルフィーニジャレッド・レトーサルマ・ハエック、スコット・カーン、ローラ・ダーン。監督・脚本のトッド・ロビンソンは、トラヴォルタ演ずる刑事の実の孫。
 新聞、雑誌などにある恋人探しの文通コーナー「ロンリーハート・クラブ」を利用し、戦争未亡人や中年の独身女性を狙った結婚詐欺師のレイモンド・フェルナンデスと、相棒であり恋人のマーサ・ベック。彼らは共謀して20人以上を殺害した。
 この事件は前にも『ハネムーン・キラーズ』というタイトルで映画化されていて、その作品は犯人の視点で描かれていた。本作は刑事側の視点。と言いながらも、犯人と刑事の視点はほぼ並行して描かれているから、そうでもないかもしれない。
 この二つの視点で描く手法が成功なのかといえば、そうではない。特に犯人側は中途半端で、背景描写が割愛されている。どうせ刑事の視点を中心にするのなら、犯人側はもっと削いで、不穏な存在にした方がよかった。
 つまり、刑事と犯人のバランスが巧く取れてしまっていたのだ。そのせいで、小さくまとまってしまいクライムムービーに必要な不安感が皆無だった。
 一番問題なのは、各所で言われている事だが、実際のマーサは100キロを超える巨大女だった事だ。映画ではラテン系フェロモンばりばりの美女になっている。これでは何の面白みもない。この事件の肝は「100キロの女が、コンプレックスを抱きながら、運命の男(と思い込んでいる)レイを信じ、愛し、彼の為に犯罪を犯す」という部分だ。醜い女の事件だからこそ興味深く、映画にした時、カタルシスが生まれる。
 正直、この事件では描くべき事はその一点のみで、刑事の父子関係も、恋愛もどうでもいい。そんな余計なものを付け加えるから、本題が掘り下げきれなくなってしまうのだ。
 と、苦言ばかり呈してきたが、つまらなくはなかったかな。小品、だ。
 この映画はトラボルタ目当てで見に行ったのに、全然魅力なかったのでガックシ。何だかずんぐりむっくりしてた。

拗ね者

 本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず』読了。本田靖春の著作は、手元に『疵―花形敬とその時代』だけあって、未読だ。
 闘病中の連載をまとめたもの。小気味よく、それでいて迫力のある文章。「由緒正しき貧乏人」という血筋(?)を確固たる視点(位置)として取材対象に対していく。それは、単に新聞記者としての気構え以上に、生き方だった。
 所々「ん?」と疑問符が浮かぶ箇所があったが、面白くてあっという間に読み終えた。後々、何度か(部分部分で)読み返す本になりそう。『疵』も読んでみよ。

我、拗ね者として生涯を閉ず(上) (講談社文庫)

我、拗ね者として生涯を閉ず(上) (講談社文庫)

我、拗ね者として生涯を閉ず(下) (講談社文庫)

我、拗ね者として生涯を閉ず(下) (講談社文庫)