不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

この男、人殺しにつき(還暦過ぎ)


 ランボー 最後の戦場鑑賞。出演、マシュー・マースデン、ポール・シュルツ、ジュリー・ベンツ、ジェームズ・ブローリン、グレアム・マクタヴィッシュ、ケン・ハワード、ティム・カン、ジェイク・ラ・ボッツ。そして、監督・脚本・主演はもちろん我らがシルベスター・スタローン
 見終わって一瞬絶句、そして心の底からこう叫びたくなる。
「すっげーッ!!」
 まず本質であるアクションについて書くと、人がゴミのように吹っ飛んでいく。頭も手足も、何もかも。血へど、内臓、ぐっちゃぐちゃ。しかし、激しい銃撃戦はあるものの、不思議に落ち着いて見える。これだけでエンターテインメントとして出来上がりつつも、現代アメリカ(社会)の批評にもなっているから、凄い。
 俺がランボーを見たのは随分前で、記憶の彼方にうすらぼんやりある。その姿は、たった一人で軍隊を壊滅させていく勇ましい姿だった。
 ところが、改めてシリーズをチェックすると、ランボーはそれほど勇ましくない。むしろ、騙され、苦悶し、それでも自分には殺ししかできないから、人を殺す。「1」のラスト近くでむせび泣いている姿がランボーなのだ。
 敵を殺して、味方を助けて、でも自分の居場所はなくて……というわけで、彼はタイで一人で生活している。やっている事はボート屋と、見世物のための蛇ハンティング。
 心穏やかとは思えない生活をしているランボーの元に、アメリカからある支援団体がやってくる。内戦(虐殺)でひどい状態のミャンマー(英語ではBURMA)へ物資を届けたいからボートを出してくれ、と頼まれるのだ。
「放っておいてくれ、俺なんか」「やったって、面倒に巻き込まれるし」「何も変わらないぞ」「やだやだ」
 と断るランボーだったが、結局「人の為に何ができるか、考えて」と説得されて連れて行く事になる。途中、トラブルがありながらも仕事を終えたと思ったら、やっぱり支援団体は極悪非道なミャンマー軍につかまって、ああもう、まったく。
 彼らの救出の為に傭兵が雇われるが、「危なくなったら引き上げる」と消極的。そんな連中にランボーは言う。
「無駄に生きるか? 何かの為に死ぬか? オマエが決めろ」
 「人の為に何ができるか考えて」と言った支援団体の女性は、人を助けるのが仕事だ。じゃあ、自分の仕事は? 人助け? 違うな。そうだ、人殺しだよ。
 人の為に、人を殺すのだ。
 悟ったランボーのその後の行動は凄まじい。言葉を忘れて見入ってしまう。
 音もなくあらわれ弓矢でバッタバッタと兵隊を殺す。大雨と闇に紛れた救出劇。逃走、逃走、ジャングルをかけぬける。そして、大爆破、大銃撃、大殺戮。R指定ってなんですか、と言わんばかりに千切れ飛ぶ肉片と血へど。というか、未成年にこそ、銃撃というのは、爆撃というのは、虐殺というのは、これほど醜い行為なのだと教えないといけないんじゃないだろうか。醜いものから目をそらすのが、教育か?
 この映画を単なる暴力映画と断するのは、ただのアホだけだ。人殺しをし続けるランボーの表情には、いつも無力感・無常感が浮かんでいる。ランボーは、ここで悪党共を皆殺しにしたって何も変わりはしない事を知っているのだ。むしろ、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』で描かれているように、暴力は因果を巡り、跳ね返ってくる事が多い。
 暴力では世界は変わらない。変わらないんだけど、自分ができる事は人殺しだけ。だからランボーは、目の前の人間を助ける為に人を殺す、殺す、殺すのだ。その虚しさが、ランボーの顔に出ていた。
 全てを殺し終え、助けた連中を見下ろすランボーの渋い顔。「やれやれ、終わったか」とでもいいたげな一仕事を終えた顔。そして、家に帰る後姿。
 男は、長く、過酷で、孤独な“自分探し”を終えたのだった。
 各所で絶賛されている。それらは決してスタローンが“上がり”に入ろうとしているご祝儀ではない。憐みは当然違う。過去の遺産の食いつぶし? とんでもない。スタローンは自ら「勝ち取った」財産をぶん投げて、さらに先へ走り出したのだ。スタローンもランボーと(そしてロッキーと)同じように、自分の仕事はこれだ、これしかないんだと、やり続けている。批判され、笑われ、ゴールデンラズベリー賞を何度受賞しようが、これしかないんだよ。そう言って、駆け抜けていく。
 とりあえず大スクリーンで見て、ぶっ飛んでおきなさい。