不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ないものがあるようなそんな気持ち

 言葉にすれば何やら違う気がしてなかなか書けずにいたが、しかし言葉にしたいという気持ちもあってようやく感想を書く事ができた。まとまりは悪いが、気持ちの記憶として。
 『光のほうへ』を見た。監督・脚本、トマス・ヴィンターベア。出演、ヤコブ・セーダーグレン、ペーター・プラウボー、パトリシア・シューマン、モーテン・ローセ。

 少年時代に身を寄せ合い、力を与えあい、底辺の中でなんとか生きて行こうとしていた兄弟は、たった一つの悲劇――駄目な母親に代わって幼い三男を自分たちで育てて行くんだと決意したはずなのにできなかった――によってお互いから、そして世界からも断絶した。
 共通のトラウマを抱えた兄弟の絆の物語かと思っていたが二人の関係にはあまりスポットが当てられず、どちらかといえば一人一人の物語が軸となっている。過去が二人の少年の呪縛になったのは言うまでもなく、精神的にも、実生活でもどん詰まりで浮かびあがろうともがき続けるけれど、頭を押さえつけられるかのように現実に苦しめられる。まさに原題『SUBMARINO』(=潜水艦、転じて水の中に無理矢理頭を沈められる拷問の意味)そのもので、常に酸素が足りない気分にさせられる。
 抜けてしまった色彩の映像は、静かではあるがどこか諦めにも似たトーンを帯びていて、二人の物語を前触れもなく斬り、繋ぎ、ふとした瞬間の一致やすれ違いが見ている者の胸をざわめかす。
 兄ニック(ヤコブ・セーダーグレン)は刑務所から出たばかりで、生活保護を受けながら「シェルター」と呼ばれる施設にいる。酒を飲み、ジムに行き、たまに性欲を消化させる、怠惰な日々の繰り返し。だが、同じように閉塞感にまみれた友人知人に歪ながらも手を差し伸べる事で、自分自身をも何とか支え、呪縛から解き放たれる事を望みつつも、その呪縛から解放されていいのかと苦悩しているようにも見え、その葛藤はあの右手の傷に凝縮されていた。
 一方、弟(ペーター・プラウボー)は欠損を埋めるかのように我が子に三男と同じ名前をつける事で自分自身の救済を図っているものの、逆にそれが大きな欠損にならないかと新たな不安となり、違う呪縛に絡め取られ、自らは名乗る事も許されず呪縛から解放――というよりは新たな断絶――を求め、選んだ道は、あまりにも哀しい。それが新たな呪縛になりえたが、かろうじてあの子には兄という救いがあるからきっと大丈夫だろうけれど。
 二人の私的な呪縛である同時に(詳しくはないけれど)デンマークなど北欧社会に潜む憂鬱や倦怠が潜んで空気が絡んできて、窒息しそうな悲劇と言える物語の果てに辿りついた結末は、何故か不思議と穏やかな気分にさせられる。
 劇中唯一白く輝いている三男との時間と共に、ややベタではあるが秀逸な邦題を思い出して胸震えた。