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菊池牧師の聖書の言葉(ドレーパー記念幼稚園園だより)

2018-07-09 2018年 7月

「主よ…わたしたちにも祈りを教えてください」 
          ルカによる福音書11章1節

 私の生まれ育ちは、既に、多くの皆さんがご存知ですが岩手県です。田舎町の貧しい家に生まれ、育ちました。私の祈りの原風景は、毎朝、仏壇や神棚に対して祈りをささげている母の姿です。毎日の生活に感謝していた姿を思いますし、芸術家の父親も夜になると写経をして、沢山の経を奉納していました。実際の所、とても、仏教的、日本的な環境に生まれ育ちました。とはいえ、恐らく我が家だけがそうだったというわけでもなく、太平洋戦争後でも、昭和30年代頃までの多くの日本家庭が、仏壇や神棚に手を合わせて、祈ることを行っていたのではないかと思います。

 それ以降、日本は高度経済成長時代と呼ばれる社会となり、経済的には右肩上がりの社会を迎え、進歩、発展を遂げて来ました。バブルの崩壊等苦しい時代もありましたが、それでも日本の生活水準の高さは世界有数と言えるでしょう。しかしまた、一方においては、戦争を起こし敗戦を経験したことの影響もあると思いますが、日本は、特に宗教という考え方に距離を置き始めました。医学や化学技術の進歩が、更にそれに拍車をかけていると思います。そして、現代にいたっては「神に祈る」思いから大分遠くなっているのではないかと思うのです。

 話は変わりますが、天に召されて20年となりましたが、キリスト教作家で三浦綾子さんという方がいます。三浦綾子さんの本に「心のある家」というタイトルの、エッセーがあります。祈りについて記してあります。ある日のこと、ご主人の光世さんの元同僚3人が三浦さん宅を訪ねて来たそうです。その時、光世さんが食前の祈りを捧げたそうです。祈りが終わって目を開けたら、三人が3人とも、涙を流しておられたとありました。光世さんの祈りに感動したからでした。綾子さんは、当初彼らがなぜ泣いていたのか分からなかったそうです。光世さんは「今日も貴重な命を与えられたことへの感謝」、「その命を養う食べ物を与えられることへの感謝」、「それらを造り給う神への感謝」、「客人に対する健康と平安」を祈ったに過ぎないのに、とありました。けれど、同時に、祈りに対して、例えば食事の祈りだけで、年に1,500回以上の祈りとなるので、あまりにも慣れてしまっていて、いつもの事となっていたのではないかとも記してありました。

 現代の私たちが祈りの大切さを忘れているのはちょっと寂しく、残念だなと思います。自分たちは祈りなどしなくとも、生きていけるとどこかで思っているからです。先日、一人の二十歳前の青年が「先生と話をしたい」と言ってやって来ました。たまにやって来ては、私にはわからないゲームの話を沢山して帰っていきます。生き生きと話をしてくれます。それから礼拝堂に一人で行って一人で祈っています。本当は苦しい胸の内を沢山持っている青年です。その姿はとても真剣で、見守る私の方が感動していました。 

 最近、改めて母や父の祈る姿を思い起こします。祈りは「幼子のような心」が求められているとも言われます。私たちはいつのまにか「幼子のような心」から大分遠いところで生きているのかもしれませんし、誰かに、あるいは何かに「感謝する」思いからも遠くなっているのかもしれません。感謝が無くなると、不満や不安、そして、怒りが心を占領します。そしてさらに祈りから遠ざかるのかもしれません。
だから、皆さん、一緒に祈って行きましょう。祈り方が分からないと思う方も教会へどうぞ。

2018-06-05

2018年 6月

「空の鳥をよくみなさい。…あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
                     マタイによる福音書6章26節

 今月の聖書箇所は恐らく聖書の中でも最も知られている箇所の一つです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。」とあります。

 ここでイエス様が何を言おうとしているのかは明らかで、「思い悩まないこと」です。

 私たちは何に「思い悩んで」いるでしょうか。一つは、私たちは消費社会文化の中で生活しています。テレビのコマーシャルは、何度も繰り返しながら、「この品物を購入すればあなたは幸せになれる」と訴えかけているようなものです。ですからその甘い言葉に乗って、様々な物を購入しては一瞬の幸せを感じるのですが、しかし更に新しい何かが欲しくなり、また購入するといった繰り返しをしているようなものです。わかっていてもやめられない状態です。

 トルストイという小説家が「人にはたくさんの土地がいるか」という童話を記しました。ある農家が自分の土地が欲しくて、頑張って貯蓄してわずかな土地を購入しました。そこで作物を作り、売って少しの収入を得て幸せでした。けれど、いつのころからか、もっと広い土地が欲しいと思い、更に頑張って働き、もっと広い土地を購入しました。とても幸せでした。家族も大満足です。でもその農家は、もっと広い土地があればもっと幸せになれるとばかりに、二度も、三度も土地を購入するうちに、とても良い話を聞きました。少し遠くだけれど、とても安くて広い土地があるというのです。喜んで詳しい話を聞くと、「日の出から日没の時間内に歩いた分の土地はあなたの土地」と説明されるのです。主人は大喜びで準備して日の出から歩き出しました。相当歩いて横に曲がり、お昼を取り、更に歩き、もうギリギリかなというところまで歩いて曲がって、出発点を目指しました。けれど、欲張りすぎたのか日没まで本当に時間がありません。主人は一生懸命に走って戻りました。そして、あと少しというところまできて力尽き、倒れて死んでしまったというのです。ゴールで待っていた人々は、主人の遺体を埋葬するために、体に合わせて地面を掘り、つまり二メートルほどの幅と深さで十分でした。という言葉で終わるのです。皆さんも、子どもの頃に読んだことがあると思います。
改めて人の欲とは限りないものだと思います。

 とはいえ、イエス様は現代の消費文化社会に対してだけ「思い悩むな」と告げているわけではないでしょう。何よりも私たちは「人間関係」で悩みます。家族のこと、夫のこと、妻のこと、子どものこと、仕事のこと、いつも、ずっと悩んでいるかのようです。

 なぜ悩むのでしょうか。「今の、この状態が良くない」と思っているからです。「今の、この状態が満足ではない」からです。私たちはだから頑張れるという一面もあります。良い状態にしようと頑張るのです。では、いつのどの状態が満足なのでしょうか。恐らく人間関係にしても「満足」と想像していた状態になったとしても、その時には「この状態は満足ではない」と思うのではないでしょうか。

 だから大切なことは、今、この時を「満足して生きる」ところに幸いがあるように思います。幸せは自分のすぐそばにあります。そして思っているよりずっと簡単に自分のものになるのです。その秘訣は「思い悩まない」ということなのだと思うのです。

2018-05-09

2018年 5月

「私は良い羊飼いである」    ヨハネによる福音書10章11節


 「私は良い羊飼いである」とイエス様が話されました。2000年前のイエス様の時代では、羊飼いはポピュラーな職業だったと思います。ですから聞いていた人々にとってとても分かり易かったと思います。しかし、私たちが生きる日本社会では、羊飼いを想像するのは難しいと思います。ですから補足が必要ですが、私も具体的に良く知っているわけでもありません。想像するしかないのですが、まず羊は、人々にとって大切な財産でした。羊のミルクを飲んだり、ラム肉を食べたりするだけでなく、羊の毛はウールのセーターや毛布、敷物、ガウン等になったでしょう。皮は袋、ベルト、靴、衣服となり日常製品に欠かせない大切な個所です。皮から出るオイルは薬や化粧品ともなったようです。骨はナイフにもなり、良質の出汁として使用されました。更に、山羊などと比較すると、大人しく飼いやすかったと思われます。群れて行動しますし、人の声をよく聴き分ける耳もありました。羊の餌となる牧草地帯の多くは、水が不足しています。時々オアシスのような水場があり、そこで人も羊も水を飲んで休憩したようです。ですから、水飲み場はいつも混乱していたかもしれません。羊の群れがいくつも混じってしまうことも普通にあったようです。でも、羊飼いは少しも気にせずに、充分に水を飲ませたら、声をかけると、その声を聴き分けて、自分達の羊飼いの所に従っていくのだとありました。それほど、羊は耳が良かったのでしょう。

 けれど、同時に羊には特別な武器がありません。襲われたら逃げるしかないのです。ですから、羊が生きていくためにも羊飼いが必要でした。襲うのは野生の動物だけでもなく、財産ですから人が盗みにやってきます。そのような外敵から自分の体を張って守る羊飼いが「良い羊飼い」と言われたのではないでしょうか。逆に野生の熊とかに襲われて、自分だけ逃げてしまうような羊飼いがいたとしたら、良い羊飼いとは言えないでしょう。

 以上の事柄から見えてくることは、1、羊は弱い 2、だから羊飼いが必要 3、でも、とても価値があるという三点です。そして、イエス様が「私は良い羊飼いである」と言われた時の羊とは私たちのことです。

 私たちは弱い存在ですが、羊が一匹ではとても生きていけないように、私たちも本当の所は一人では生きていけません。羊は目が悪いと言われていますが、私たちも将来を見通すしっかりとした目を持ち得ているでしょうか。人の言葉に傷ついたり、傷つけたり、裏切ったり、裏切られたり、人の態度や言葉に翻弄されながら生きているのではないでしょうか。だから、そのように揺れ動く私たちのために、羊飼いが必要です。しかも、良い羊飼いが必要です。私たちの生涯を支え、守って下さる良い羊飼いです。私の父親は5年ほど前に召されましたし、母親は認知症です。親はいつまでも元気ではありません。いつか、こちら側が支える時がやってくることを忘れてはなりません。だからこそどんな時でも支え、導いて下さる良い羊飼いである方に「親替え」をする必要があるのです。更に、良い羊飼いとしてのイエス様は、私たちがどんなにか価値がある存在かということを知っておられます。私たちはそれぞれに与えられたタラント(才能、能力という意味)があります。頭脳明晰な方もおられますし、体力には自信がある方もいるでしょう。手先が器用な方、包容力がある方、計算は任せておけという方もおられるでしょう。何もないと思われている方、おめでとう。私と一緒で、あなたには「それでも神様に用いられている」と言える素敵な言葉が準備されています。

 いずれにしても良い羊飼いは、私たちの価値を良くご存知です。私たちが自分で知らない価値までご存知です。だから、この方と共に生きていきましょう。この方の支えと御守りの中で、私たちは安心して過ごしていけるのです。

2018-04-12

2018年 4月

「子供たちをわたしのところに来させなさい。」…そして、
子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 
           マルコによる福音書10章14〜16節

 既にご存知の方も多いかと思いますが、私の出身は岩手県です。牧師になるための神学校を卒業して、初めて赴任した教会も岩手県の花巻教会という私のほとんど地元の教会でした。花巻教会に凡そ8年おりましたが、その頃、巷で盛り上がっていたことの一つに、岩手県出身の力士で、久しぶりに幕内に入った力士がいて、栃乃花という名前でした。明治大学相撲部出身でイケメン力士でもあり、当時はかなり人気がありました。好成績を収めて岩手に帰京したときには、地元ニュースでは一番先に放送されて、小さな子供たちを連れた親御さんが大勢集まっていました。是非、栃乃花に抱っこしてもらいたい。そんな思いだったろうと思います。

 イエス様の周りに集まってきた人々も、それぞれ子供たちを連れてきていました。人々の願いはイエス様に子供たちの頭に手を置いて祝福して頂きたい、また抱きあげて祈って頂きたい、という願いだったと思います。
ところが、イエス様の周りにいた弟子たちはその人々を叱りました。イエス様は忙しいからとか、そんな面倒ことをイエス様にお願いするものじゃない、そんな思いで接したのではないでしょうか。けれどイエス様はその様子を見て、「憤り」弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させない。」
 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福してくださいました。

 さて、ここで大切なのは、子供を連れてきたのは「人々」であったということです。人々とは、母親でもなく、父親でもなく、勿論そういう場合もあると思いますが、地域の「人々」が子供たちを連れてきたというのです。その姿は、子育ては「地域の責任」という思いが昔からあったことを連想することが出来ます。

 現代社会、特に首都圏に住む私たちの中に、子育ては地域の責任という考え方がどこまで育っているでしょうか。むしろ核家族化が進み、情報は遮断され、プライベートが大切にされます。昔は地域に「子供会」があって、そこに集う子供たちは、年齢を超えて自然に遊んだり、集ったり、虫取りに行ったり、魚釣りにいったり、自転車を教わったりしながら、いわゆる社会性を学んだのだと思います。社会性とは、つまりは人間関係を学んだということです。子供の頃にこそ、健全な「人間関係」の中で生きることがとても大切だと私は思います。特に就学前の子供たちにとってはとても大切だと思っています。

 そんなことを思いますと、勿論、家庭だけで子育ては出来ず、けれど、幼稚園だけでも子育ては出来ません。大切なのは、「関係」です。皆さんのご家庭と、幼稚園と、父親と、母親と、ご家族と、園の先生方と、そして、友達とが、みんなが一緒になって、いわばゴッチャになって、そこで素敵な「人間関係」を作り上げることがとても大切なのだと思います。行政がどんな目的で、あるいはどんな言葉でもって、「子育てとは何か」とか、「自主性を重んじよう」という言葉を用いるとしても、もっと大切なものがあるのです。

 人は一人一人が生きていて、命があって、だから、何かの型にはめることなど出来ません。イエス様が無条件で、無尽蔵に子供たちを愛されたように、子供たちの心の中に、生きる喜びがほとばしるようにと願いながら、2018年度も、皆さんと一緒に歩めたら良いなと思っています。

2018-03-06

2018年 3月

「あなたの未来には希望がある。」  エレミヤ書31章17節                               
 先月、幼稚園でも行いましたが、時々、キリスト教関係だけでもなく、色々な集まりからお話を、とお願いされることがあります。本当に感謝なことです。そのような時によく話をさせて頂くのは、人生には四つの生き方があって、「マイナスからマイナス」、「プラスからマイナス」、「マイナスからプラス」、「プラスからプラス」の四つですと話します。

マイナスからマイナスの生き方は、今もダメだけれど、明日もダメだろう。今日もダメだけど、将来もダメだろう。という生き方です。とてもネガティブで、否定的な生き方です。実は私は、キリスト教を知る前にはこのような生き方をしていました。難しい言葉で言うと「刹那的」な生き方といいます。生まれてきて良いと思えたことは一つもなく、現在も良くなく、将来にも希望がない。生きていても楽しくなく、なぜ生きているのかさえよくわからない。そんな経験をしない方が良いと思いますけれど、時として思春期から青年期にかけて、このような生き方をする人がいます。将来に希望がないと思うと、周囲も自分もどう生きて行けば良いのかわからず苦労の連続です。二つ目は「プラスからマイナス」の生き方です。今は大丈夫だけど明日には希望が無いという生き方です。今はなんとかなっているけれど、将来はわからないと考えてしまうと希望を失っていきます。「お金持ちの頭の中には、中、長期的な自分の人生の展望と計画がある」という文章を先日読みましたが、なるほど!と思いました。私にはそんな展望も計画もありませんから、お金持ちではないのかと、勝手に(笑)納得していました。けれど、将来に展望がありませんと、今は良くても、希望なしの人生は虚しいものになるのでないでしょうか。それよりも、三つ目の「マイナスからプラス」の生き方は良いように思われます。今はダメだけれど、明日はより良くなると思って生きる生き方です。頑張り屋さんや、自分に自信がある人などは、このような傾向があると思います。では、何が良くないのかというと、今はダメと思う所です。今とは、「今」「この時」「現在」のことです。実際のところ、私たちは過去でもなく、将来でもなく「今」に生きていますから「今」がダメだと、このダメがずっと続くことになるかもしれません。だから、大切なことは四つ目の「プラスからプラス」の生き方なのです。「今」も良いけど、明日も良い、明日も良いけど、将来も良い、大切なことは「今」をプラスとして受け入れることです。私たちが悩むのは、実は「今」のことです。過去のあのこと、このことが悩みの種になっているとしても、その悩みは過去にあったのではなく、今も継続して悩んでいるから悩みなのです。だから「今」をどう生きるのかがいつも問われているのだと思います。

 エレミヤという旧約聖書の預言者は、紀元前630年〜580年頃、イスラエルで活躍した人です。この頃のイスラエルは、敵国のバビロンという国との戦いに敗れ、国は崩壊し、既に国の機能を失っていた時代に生きた預言者です。イスラエルの最も苦しい時代であったといえるでしょう。将来が全く見通せず、自分の命さえもどうなるかわからない状態でした。けれどエレミヤは、主なる神の御言葉をイスラエルの民に伝えるのが役割ですから、必死になって御言葉を話しました。その一つが「あなたの未来には希望がある」という御言葉です。雰囲気としては「マイナスからプラス」のようにも受け取れますが、今をプラスにしなければ、本当の力が与えられません。あなたと、あなたの子孫の将来は「今」にかかっている、だから今を大切に生きていきなさい。と必死にエレミヤは人々を力付け励まし続けました。私たちも、私たちと私たちの子どもの将来は「今」にかかっているのだと思います。「今」を、心を込めて大切に生きていきましょう。