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2006-09-28
■[政治] 日本の未来は誰が決めるのか?
前のエントリーで私が「小泉支持の上澄み層=ニート・フリーター」というような内容のことを書いたことについて、ちょっと乱暴なくくりではないかという批判を頂きました。たしかに、あまりに大雑把すぎたかもしれませんし、不正確でもありました。
以前には先の郵政選挙で小泉自民党を圧勝に導いたのが、この層であったことを分析して書いたことがあったので(正確には分析をしたのは私ではなくてっくさんですが)、説明を省略してしまいましたし、そのエントリーを確認もせずに書いてしまいました。
その時の表現では、ニート・フリーターではなく「茶髪・20代・フリーター」でした。よく考えたらニートはあてはまらないかもしれません。
郵政選挙で小泉自民党を圧勝に導いたのが「茶髪・20代・フリーター」であったことについて書いたのは、このエントリーです。
今となってはちょっと恥ずかしいタイトルでした。竹中氏が総理にふさわしくないことは、竹中氏ご自身が一番わかっていたようです。閑話休題。
のサイトを拝見すると、過去の国政選挙における各政党への投票者数などを分析しており、それによると、実は民主党・公明党・社民党・共産党、すなわち、自民党以外の政党に投票した人の数というのは、ほとんど変わっていない。いずれもほぼ固定の支持層がいると考えられる。で、自民党だけが毎回得票数が大きく変動している。つまり、自民党こそが浮動票によってささえられているという事。
従って、今回の自民党の大勝は、まさにその浮動票の取り込みに自民党が成功したためである。しかも、これまでの選挙では20代の投票率というのが40%代と低い。今回投票率が伸びたのは、この20代が多く投票したことによる。そしてそれがそのまま小泉支持にまわったという事だ。実はそれ以外の世代では、今までとそんなに投票行動がかわったわけではない。
で、構造改革路線によって負け組にされたはずの「茶髪・20代・フリーター」がどうしてこの政策を積極的に推し進める小泉自民党を支持したかについての分析だが、これは簡単。彼らはもともと政治なんかに関心はない。政治のことなんかなにもわかっていない。マスコミを通じて流れてくるキャッチフレーズに乗せられて、そのレベルで投票したということだろう。いままで選挙なんか行かなかった「茶髪・20代・フリーター」は、みじめな自分たちと対照的に安定した地位にあると思われている郵便局の公務員なんかをどう思うか。「既得権」に守られた公務員を減らすと言ってくれている「小泉首相って、よくね?」みたいに考えて、自民党に投票したという事だろう。「茶髪・20代・フリーター」を過大評価してはいけない。戦後の教育によって、こうした○○が大量発生したというだけの話だ。
うーん、自分で書いた文章ですが、これまた「茶髪・20代・フリーター」を過激に罵倒しちゃっているけど、大丈夫かな?
まあ、とにかく、フリーターが、「同じ仕事量をこなしているんだから正社員並に給料をよこせ」という発想を抱いて、終身雇用賃金などに反感を抱いていて、その延長で公務員として守られている郵便局員に反感を抱き、郵政を民営化すべし!と考えたということもあり得ない話でもないかと思います。
要するに、ネット上でブログを書いたり読んだりしている人たちというのは「茶髪・20代・フリーター」であってもここでの私の罵倒の対象ではないということです。今まで選挙なんか行きもしなかった、政治に関心などなかったこれらの層を批判しているわけです。そういう層に政治のキャスティングボートを握らせてしまったと。
もうこれ以上自分の口から言うのが怖くなってきたので、別の人に言っていただきましょう(笑)。トラックバックを下さった「Dogma_and_prejudice」の上田さんです。
(前略)
「小泉首相のおかげで自分は政治に関心が持てるようになった、それが入り口だった」というふうな事を臆面もなく言う人は、まさにナイーブな人です(世間知らずという意味で)。こんな事を言っている時点で、既に、小泉さんの術中に嵌っているんですよ。
要は、「小泉さんに感情移入しながら、小泉劇場という活劇ドラマに熱中してました」とか、「小泉さんという政治家の言動に批判精神もないまま、喝采を贈っていました」と言っているのと同じ事じゃないですか。
Dr.マッコイさんは、「ワイドショー的なパフォーマンスで、政治に関心をむけるようになった層に、キャスティングボートを握らせてしまった」事を嘆いていますが、確かにそうですね。
今後の選挙でも、「彼らを取り込んだほうが勝つ」となれば、賢明な選挙民を相手にするのではなく、軽佻浮薄な層にいかに受けるかという事に主眼が置かれ、どんどん政治が低俗化していくことでしょう。
政策の中身を吟味するわけでもなく、「おしゃれな身のこなし」とか「決意を感じさせる眼差し」、「自信に満ちた語りかけ」というような心理学的な要因で、「小泉さん、頑張れ」と熱烈に応援するような人たちの判断が、今後の日本の針路を決するというのは、決して望ましい事ではないでしょう。
それにしても、こういう事を私も書いてしまいましたが、そういう人もこのブログを読んでくださっているようで、一部とは言え読者を批判しちゃって大丈夫かなとも思ったりするわけですが、しかし、日本という国が「国民主権」だと言うのなら、最高権力者は国民だということになります。
有権者にはそれなりに重い責任があるわけです。責任があるものは時に批判にさらされる必要もあるわけですが、現実は世論とか国民一般を批判するような人はいません。マスコミも商売上そんな事はできないでしょう。
しかし、世論というものが大衆の欲望やその場の気分、一時の流行にすぎないものであれば、それは危険なことであり、そうした世論を誰かが批判しなければならないと思います。
マスコミは基本的に「世論さまさま」という感じですが、それはマスコミが世論を作っているからですが、国民の側もマスコミや政府に簡単にコントロールされるようではダメだと思います。
マスコミは間違っている、マスコミに誘導された世論は間違っている、世論は時にマスコミに誘導されることもあれば、自ら判断を間違えることもある、それくらいに構える必要もあるんじゃないかと思います。
そうしてそういう影響を最も受けやすいのが、無垢な若者、つまり「茶髪・20代・フリーター」だったのではないか、ということで、私はこれらの層の人たちが政治を「面白おかしさ」とか「サプライズ」とかいう次元で捉えたり、いつまでもそういうレベルに留まり続けることはやめてくれと言いたいだけです。「いや、俺はそうじゃない!」とおっしゃるのならそれで結構です。
もうこの話は3回連続で書いてしまいましたから、いいかげんお腹いっぱいですし、さほど盛り上がるネタでもないでしょうし、明日はもし元気があれば、ひさびさに「サンフランシスコ講和条約11条」の話を書いてみたいと思います。
国際法の視点から「東京裁判」と「講和条約11条」を見るとどうなるのか・・・。
やっぱり東京裁判は国際法上は違法なものであり、講和条約11条は刑の執行停止を阻止するためのものであって講和成立後にいつまでも日本が東京裁判の正当性を認め続けるよう義務づけたものではない、というのが結論です。
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