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2006-10-10
■[政治] 政治家の立場から語るのがブロガーの役割なのか?
私は人様のブログのスタンスに口出しするのはあまり好きではないですし、人気ブログランキング上位のブログを批判するのは、こちらのランキング目当てとか言われるから、あまり取り上げたくもないのですが・・。
しかしブログに限らず、評論家でも学者でもそうなのですが、私が一番疑問に思うのは、彼ら自らがまるで政治家や外交官にでもなったつもりで、政治を「リアリズム」という観点から語り、まあようするに政治家や外交官らは妥協しなきゃやっていけないんだという彼らの行動を弁護・擁護することです。
まあ特定の政治家の支持者であるというならそれは一行にかまいませんし、むしろ弁護したり擁護したりするのがその人の役割でしょうが、ただ、その場合でもそのことを一言はっきりと断ってから弁護・擁護するのがマナーかと思います。
では、それ以外の一般の学者や評論家が、まるで自分が特定の政治家や外交官になったつもりで彼らの行動を(たんなる解説を超えて)弁護・擁護するような態度に私が少なからぬ疑問をなぜ抱くかと言いますと・・・。
まず、政治家や外交官が色々な面で妥協せざるを得ないなんてことは私も十分わかっています。でも学者や評論家やブロガーもそうですが、こういう人たちは政治家や外交官ではありません。物事、役割分担というのがあるはずです。
たとえば、今北朝鮮が核実験をしたわけですが、リアリズムという観点から考えれば、日本が核武装するなんてことは、国際社会の反発と国内の左翼的現状を見ればまあ不可能でしょう。だから日本は外交交渉の場で核武装というカードは絶対に使えないのは私にだってわかります。
しかし、もし日本国内で評論家や学者や、それこそ世論でもマスコミでも何でも良いですが、ようするに現場の外交官や政治家以外の中から「日本も核武装せよ」との声が高まれば、現場の彼らだって交渉の際に「国内での核武装論の高まりを我々はこれ以上抑えられないから、北朝鮮を早急に何とかしてくれ」と言って、それをカードとして外交ができる可能性も生じるわけです。
政府よりももっと右側からの声が高まれば、政府だってそちらに配慮しなければならなくなる、それが一枚の外交カードにもなりうるし、政府の談話を変えるきっかけにだってできるかもしれないのです。
なぜこんな話を言い出したかと言うと、「依存症の独り言さん」のこちらのエントリーを拝見したからです。
「安倍首相は転向したのか?」より
もちろん私も、安倍首相の一連の答弁を耳にして良い気分にはなれない。が、それが
戦術的後退であるのならば仕方がないという立場である。
政治は理念がなくてはダメだが、理念だけでは動かない。政治はリアリズムであり、妥協を恐れていては政治家など務まらない。好き勝手なことが言える学者や評論家とは違うのだ。
政治家は学者や評論家とは違うと言っておられますが、そんな事わかっています。と同時にブロガーだって政治家とは違うはずです。ただ政治をブロガーの視点から解説するだけというのならそれで結構なのですが、そこで敢えて政治の立場から解説するというのはどういう結果をもたらすでしょうか?
たとえば村山談話は閣議決定されたものだからそう簡単に変えられないと依存症さんは書かれていますが、それはまあその通りなのかもしれませんが、じゃあ永久に変えなくて良いのでしょうか?このままずっと後回しで良いのでしょうか?これらの談話は変えるべきと以前の安倍氏や安倍氏を支持していた保守派は思っていたのではないのですか?そして政権の変わり目こそ変える絶好のチャンスだと思うわけです。
それが、首相になったら何の事情か知らないものの(リアリズム?)、それができなかったわけですが、じゃあとりあえず政府として継承した、それはまあ仕方ないのだとしても、それならば安倍首相は今後どうすべきだと思っておられるのでしょうか?
ここで安倍首相の行動(村山談話・河野談話の継承)をリアリズムという見地から弁護するのが本当に保守派ブロガーの役割なのでしょうか?それは単に自民党支持者を減らさないための目的しか果たせないと思います。
村山談話に限らず河野談話まで継承してしまって、ここで依存症の独り言さんは、まるで自分が安倍首相本人またはその側近にでもなったかのような立場から「リアリズム」を説いておられるわけですが、それがどういう結果につながるか、少しは考えられたことがあるのでしょうか?
ブロガーが首相の立場に立ってリアリズムなどと言って妥協の弁護をするよりも、もっと「役割分担」をしっかりと考えるべきではないでしょうか?
我々が、政府の現状を「これではいかん」と声をあげることが、まあ世論としてどれだけ影響があるのかわかりませんが、しかし、政府がやむなく妥協したことをリアリズムという立場から弁護されても、安倍首相には本当にそんな空気が「望むところ」なのでしょうか?
もし安倍首相本人が、リアリズムか何か知りませんが、苦渋の決断で、他にやむを得ない何かがあってどうしても村山談話や河野談話で妥協せざるを得なかった、そこで心の葛藤があった上であのような答弁になったのだとしたらどうでしょう。
その後に保守派と思われていた人々の間からあっさりと、「いや、あれで良かった、リアリズムだ、しかたない、それも戦略だ」などとしたり顔で言われては、安倍首相も「何だ、彼らにしても村山談話や河野談話なんて、その程度のものだったのか」という事になって拍子抜けしている事でしょう。
世の中には「村山談話」や「河野談話」に疑問を抱いている声が少なからずあるとなってはじめて安倍首相もこれを見直そうと言えるわけでしょう。現時点では朝日新聞とかサヨクの声のほうがでかいから、それに配慮せざるを得ない、だから仮に、現時点では一端継承するのは仕方ない事だったとしても、今後これを変えてゆくためには、まずは継承したことに対する批判の声が高まることが必要なのです。
安倍首相が村山談話や河野談話を継承せざるを得なかったのは、我々ブロガーに限らず、評論家や学者連中が十分に声をあげてこなかったから、そうならざるを得なかったのです。
政治はリアリズムだっていうのは、そんな事言われなくてもわかっています。しかしそれを弁護したって、どんどん流されていくだけです。その流れに歯止めをかけてこなかったのが戦後の自民党路線です。
マスコミばかり批判していますが、ちょっとマスコミが批判すればすぐ「リアリズム」で妥協したから現在のリベラル左翼的、創価学会と蜜月的自民党があるわけです。
結局、リアリズムという立場から安倍首相を弁護しているつもりかもしれませんが、それでは安倍首相が本当にやりたい事を逆にやりにくくしているだけだと私は思います。
だから私はやっぱり何度も書いていますが、ここでは安倍首相の妥協を批判すべきだと思います。村山談話や河野談話への批判が高まらなければ、それが安倍氏であっても首相の側から変えようとは言えないことが証明されたのです。
このような現状を早急に認識し、村山談話と河野談話の再検証を現内閣でうながすためにも、我々はこれら談話の継承に批判の声をあげるべきだと思います。そういう意味で安倍首相を弁護するのも間違いなら、安倍首相に失望するのもまだ早いということだと私は思います。
本人はうまく流れに棹さしているつもりなのかもしれませんが、このまま現状を容認していては、どんどんと下流へと流されています。流れにさからって上流を目指さなければいずれ滝壺に落下してしまうでしょう。
ここでリアリズムという立場から船頭の棹さばきを賞賛していても仕方ありません。このままでは少しずつ流されて、いずれ船が滝壺に落下してしまうであろうと叫ぶことが重要なのではないでしょうか。
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