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2006-10-20
■[社会] いじめを産む「自由・平等・人権・民主主義」
今日はちょっと話題を変えて、と言いますか、もともと政治専門のブログのつもりではなかったので、本来は世の中のことを色々と考えてみることも含めたいと思っていましたので、ちょっと別の話を・・・。
さて、最近はいじめによる自殺に関するニュースが立て続けに報道されています。しかしその報道を聞いていてかなり疑問に感じることがあります。悪いのは一体誰なのでしょうか?
「自分も先生からいじめ」=真相解明求める声も−男子自殺で三輪中生徒・福岡
福岡県筑前町立三輪中学校2年の男子生徒(13)のいじめ自殺問題で、同校が全校生徒を対象にしたアンケートに対し、生徒らから「自分も先生からいじめを受けた」「学校が信じられない」などとする回答があったことが19日、分かった。
自殺した生徒の母親(36)によると、学校側は自宅を訪れた際、16日に無記名で行ったアンケートの全生徒分の回答用紙を持参した。
回答には「自分も別の先生からいじめを受けた」「体罰、暴力がある」「先生の好き嫌いによって差別された」「学校が信じられない」「誰を信じていいか分からない」など、学校への不信感が数多く書かれていた。
中には「学校はうそをつかないで、きちんと遺族に話してほしい」と、自殺の真相解明を望む声もあったという。
(時事通信)
この記事でまず思ったのは、生徒へのアンケートの結果をどうして無批判に信じてしまうのかということです。
色々と話を聞くと、いじめのきっかけを作った教師というのも確かにどうしようもないアホな教師のようですが、少なくとも自殺した生徒は教師にいじめられて自殺したわけではなく、同級生らからいじめられたことが直接の理由なわけです。
そう考えると、いじめた生徒たちが一番悪いに決まっています。そして、そのきっかけを作った教師が次に悪く、また子供の異変に気づかなかった親にも責任があるでしょう。そしてその次くらいに学校や教育委員会の管理責任などが問われる、順番としてはこういう感じだと思います。
このうち、一番叩きやすい教師ばかりを叩いて皆が正義の味方か救世主にでもなったつもり、そして自殺した親はやり場のない怒りをとりあえずは教師や学校に向けることで憂さ晴らししようとしていると言った感じではないかと思います。しかし親にも責任があるわけですから、それは責任のなすりつけ合いでしかないわけで、私としては親に到底共感できません。
そして一番の加害者である「いじめた生徒たち」についてはアンタッチャブルになってしまって、おまけに無邪気にも彼らにアンケートなんかしてその結果から早速教師への責任転嫁が行われています。
もちろん教師に責任があったのはその通りでしょうし、そりゃあ教師は大人ですからそれなりの責任を取らせれば良いのだと思いますが、教師叩きで終わっては無意味どころか逆効果でしょう。
肝心の加害者である子供達をどう扱うか、それが最も重要な事です。愚かな事にアンケートなんかするもんだから、加害者である子供達は自分たちの責任を完全に転嫁してしまっているのです。
本当に教育を考えるなら、いじめた子供達に徹底的に罪悪感を植え付けて反省させるとか言う意見のほうがまだ説得力があるように感じます。
「命が大切」と口先で言う割には、命を奪う側にまわった子供達については一切おとがめなしというのでは、説得力も何もあったもんじゃありません。
ところが、どうも大人達が寄ってたかって、いじめをした加害者である子供達を必死で守ろうとしているんじゃないかと私には思えます。
北海道滝川市と福岡県筑前町で児童、生徒がいじめを苦に自殺した問題で、文科省は19日、「都道府県・指定都市生徒指導担当課長緊急連絡会議」を開き、初等中等教育局長が「命を大切にする教育の充実に取り組んでいただきたい」と訴えた。また、いじめの兆候の早期把握などを求める通知を都道府県教育長らに出した。
(毎日新聞)
ここで「命の大切さ」という言葉が出いていて、ゲド戦記のCMで「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ」みたいなのがしつこく流れて私などその安易さに不快感を感じたものですが、先日発売された「わしズム」で私の不快感を小林よしのりが見事に説明してくれています。別に頼んだわけでもないのですが。機会がありましたら読んでみてください。引用などはここではしませんんので。
教育においてもマスコミにおいても映画においても、何においても、戦争の反省から来るものなのか知りませんが、ひたすらに「命の大切さ」をくりかえし皆が唱え、そして皆の頭に刷り込まれてきたのが戦後の60年間でした。生命尊重主義、生命至上主義というやつです。
私には、その風潮に異議ととなえた人物として真っ先に三島由紀夫が連想されます。自衛隊市ヶ谷駐屯地を占拠した時に彼は「生命尊重のみで魂は死んでも良いのか?」と問うた後に、割腹自殺を遂げています。まさに、「生命以上の価値」の存在を示したわけです。
しかし、そうした三島の行動がまったく理解されず、「常軌を逸した行為」とか「狂気の沙汰」としか思われないほどに、戦後の日本では「命の大切さ」が最上の価値とされてきたのです。「人の命は地球より重い」と言った首相もいました。しかし、その結果はもたらされたのは、「生き方」に関する思考停止でした。
「命の大切さ」を言うだけではなく、「どのように生きるべきか」そして「どのように死ぬべきか」という二つの視点が完全に欠落しているのです。
生命というのは手段です。その手段の用い方を間違えば、それはもう尊くないのであって、たとえば、麻原ような人間の命など、これっぽっちも尊くないわけです。
「命そのものが最高に尊い」と言ってしまった瞬間に、「生き方によってはその命は尊くない」ことが忘れられ、ひたすら死なずに生きているのが最高だ、自分が生きるためには何をしたって良い、どんなにふしだらに自堕落に生きようが、命そのものが尊いのならそれで十分ということになってしまいます。
もっと生き方の質を問い、死の意味を考えることこそ大切だと私は思います。これについては、また別の機会にもっと書きたいと思います。
ところで上のニュースに戻りますと、滝川市の教育委員会も、いじめをなかなか認めなかったのは、上の話と同じく、いじめた側の子供を守ろうとしているのだと思います。この滝川市というのは私の出身地のごく近くの町なのですが、まあ北海道ですから戦後民主主義とサヨクヒューマニズムの聖地みたいになっていて、いかにもやりそうな土壌があると思います。
そこで、子供が自殺に追い込まれた親にしても、自分の子供を自殺に追い込んだ他の生徒たちを非難したいところが、教育委員会がいじめを認めないとなると、そういう非難もできないという事で、ごちゃごちゃしているというなら理解できます。
そうではなくて、最初の記事での話のように、いじめた当事者である生徒たちを糾弾できないから、糾弾しやすい教師や教育委員会と言った大人たちに怒りの矛先を向けることで憂さ晴らししているようなところがあるとしたら問題です。
もちろんいじめた子供達に何らかの罰や罪の意識を植え付けるような処理も必要なのかもしれませんが、まずはいじめの生じる原因を考えてみないといけないように思います。場合によってはいじめた子供の責任が問いにくい可能性もあるからです。
もしかしたら、現状ではどのような生徒であってもいじめる側にまわる可能性があり、いじめられる側にまわる可能性もあって、それを決めるのは偶然もしくは状況による可能性もあるという事です。
学校でのいじめというのが一体いつからあったのかわかりませんし、聞くところによるとかつての軍隊でもあったようですが、しかし今の小中学校でみられるいじめとかつてのそれとは、ずいぶんと異なるものなのではないでしょうか。
軍隊では階級がしっかりしていて、上官による下士官のいじめという構図ですが、今回の場合は対等で平等であるはずの同級生の間でのいじめですから。
しかも、昔の学校の教室というのは、それこそいろんな生徒や児童がごちゃまぜでしたし、ほとんど知恵遅れに近いようなのから優秀なのまで色々いましたが、最近は、わりと均質化していると思います。
実は、世の中がどんどんと平等になってくると、人々の平等化への不満がなくなるかと言うと実は逆で、まだ残る「微差」に対して過剰な不公平感や異質感を抱くということがあります。
ほとんど平等なのに、ほんのちょっとの差にたいして、著しく不公平感を募らせるというわけです。
それは学級においても同様のことが起こり、生徒間には大差なくなっているものの、その中に少しだけ人と違う生徒がいた場合に、その微差が著しく大きなものと皆が捉えるようになり、異物として排除されてしまうということが考えられないでしょうか。
そして、その排除を正当化するのが民主主義のイデオロギーです。底の浅い民主主義というのは単なる多数決のことでしかなく、この「底の浅い民主主義」が多数者による少数者の排除の論理として子供達の間にも定着し、いじめの正当化もしくはいじめの促進につながっているのだと思います。
今の学校では子供達にかなりの「自由」や「権利」が保障されて、教師の権限が制約されてしまっている事も、子供のいじめをエスカレートしやすくしています。教師から見ていじめに見えても、それを注意すると「ただふざけているだけだ」と言い逃れするでしょう。それを教師がさらにきびしく糾弾すれば、子供への人権侵害などと言われかねないのです。
そう考えると、学級における自由・平等・人権・民主主義の暴走が、深刻ないじめを産んでいると言って差し支えないように思います。
さらに言えば、それらを過剰に大切にしすぎた戦後日本の教育の、そのほとんどすべてが間違だったたと、すっぱり言っても差し支えないでしょう。
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