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2006-11-07
■[社会] 老人は世間の進歩主義を糾すべし
11月2日のエントリーで、あまりにも「老人」とか「婆さん」という単語を連発してしまったために、おしかりをいただきました。まあ56歳で婆さんとはちょっと言い過ぎかもしれません。また、「老人」とは言わずに「高齢者」と言ったほうが無難だったかもしれません。
ただし、あまりこういう事を気にしすぎるとPC運動(「■[報道][欧米] 言論の不自由」参照)みたいな弊害もあると思いますし、老人という言葉を非難語として捉える必要もないのじゃないかと思います。
とは言っても老人の「老」の字が好ましいイメージを持つとは言えませんから、無理かもしれませんね。60歳前後の人たちを何と呼べば良いのでしょうか。
それはともかく、戦後の風潮なのかどうかわかりませんが、どうも「若さ=良いこと」「歳をとること=悪いこと」と考え過ぎる傾向が強いんじゃないでしょうか?
最近はゲームか何かで脳年齢を判定なんて言って、若いと判定が出るほど喜んだりしていますが、若いほど良いという基準はおかしくないでしょうか?
たとえば18歳の脳と50歳の脳のどちらが良いかと言えば微妙なところですが、18歳の脳などまだ未熟なものです。ただ可能性があるというだけの話で、経験と知識を蓄積した50歳の脳では比べ物にならないはずです。
10歳の脳と60歳の脳ではどちらが良いか?若けりゃ良いってもんでも無いでしょう。
そこにはもう一歳でも若いほうが良いという思いこみがあるのです。
そうやって、誰も彼もが若けりゃよい、年を取りたくないと考える世の中だから、老人もせめて精神的には若作りしようと言うことになっているのだと思います。私はこの「老人の精神的若作り」と「老人による若者礼賛」こそが最悪だと思います。
最近の老人は、「最近の若者は」とあまり言わなくなったとか。
何でもメソポタミア文明の楔形文字版にも「最近の若者はだらしない」と書いてあるそうです。
しかし、老人が「最近の若者は」を言わなく(言えなく)なれば、老人としての存在価値は皆無だろうと私なんかは思ってしまいます。
若者は理想や夢を実現するために、行き過ぎると既存のルールや社会規範を破壊しかねない傾向があります。あるいはそうしたものの価値を知らずに平気で秩序を踏みにじって社会を混乱させたりするのです。若さにはそのような傾向が強くあるということです。
また若者は、(主に経験の不足と経験への軽視から)理想とか理念、理論というか理屈や技術的知識に頼って行動しがちですが、そういうものは矛盾多き人間社会ではだいたいが未来予測にたいして無力である事が多いので、現実の壁にぶちあたって挫折します。そこで、理想通り動かない理屈に合わない社会が悪いのだ、既存の秩序が悪いのだと言ってさらに若者の反社会性は自己増殖するのです。
まあ、理屈や技術的知識は予測可能な範囲でのリスクに対しては有る程度効力を発揮する事もあるが、しかし人間の人生においては予測不可能な部分のほうが圧倒的に多く、理屈や技術的知識偏重はたいがい挫折するものです。未来はやはり予測不可能ですから。
技術的知識への過信・盲信は、「未来は予測可能である」という勘違いを増幅させます。
そうした若者の「頭でっかち」で「反社会的」な行動パターンを、圧倒的な経験の蓄積からたしなめるのが老人の役割だろうと思うのです。
言ってみれば経験を積むことによって様々な矛盾や葛藤を乗り越える平衡感覚を身に付けるのが人生の一つの側面だと思ういます。そしてそうした「知恵」を身につけたのが「老人」だと考えるなら、老人というのは非難語でも何でもないことになります。
一方、老人がそうした「経験の蓄積」の価値をみとめず、理想や理屈で暴走する若者に迎合すれば、社会はどんどん若返る、というより幼児化の道を突き進むだけです。そして、若者への迎合、新しいもの、未熟なものを無闇に持ち上げる発想は、悪しき進歩主義につながるのです。
若者には「可能性」があるのは確かで、「成長」もしますが、その成長は単に体が大きくなるだけで、精神的に成長するとは限らず、したがって、その変化は進歩とは限らないのです。
ところが往々にして人々は成長を進歩と捉えがちなのです。さらに拡大して言えば、変化を進歩と勘違いしがちである、だから改革などと言って変化させれば、中身はよくわからなくても良くなったかのような気がしてしまうのです。
変化には良い変化と悪い変化とがあり、改革にも改良と改悪があることを忘れてはいけません。
しかし人間は往々にして努力によって進歩に近づけるという進歩主義の幻影にとりつかれてしまっているために、進歩させるためにも変化させなければならないという発想にこりかたまって、むやみやたらと世の中を変化させてしまうのです。
人間は努力によって完璧に近づけるという妄想にとりつかれた進歩主義者たちが、人間の性質には善だけでなく悪も含まれるのだという事を忘れ、ひたすら人間性を解放する事を良しとし、偽善と欺瞞に満ちた人間観にもとづいて国家を設計しようとすることにつながる、それが自由・平等・人権・民主主義というイデオロギー偏重の社会です。
そこでは矛盾多き人間社会に平衡をもたらすための経験的知識の集積とも言える伝統の精神は「古くさい」の一言のもとに蔑ろにされがちなのです。
戦後の日本はまさにそうした偽善と欺瞞の固まりに支配されてきたと言って良いでしょう。知識人は理想や理念のかたまりできれいごとばかり言って社会を改造し、政治や経済は技術的知識のみ偏重でうかれている。
そんなもので人間社会が安定するはずがないし、危険や危機を乗り切るどころかその予測さえできなくさせるのです。その行き着く先はにはもう運命論しかないでしょう。
理想や理念に凝り固まった進歩主義者たちは「人間というのは努力によって必ず進歩するものである」「人間性とは(手放しに)素晴らしいものである」という人間中心主義という意味でのヒューマニズムに満ちています。
ひたすら技術的知識のみを偏重する人たちは、政治や経済は未来を予測してマニフェストで事前に対応可能だと信じているのです。
このような国家は、ごくごく目先の範囲で程度予測可能なリスクすらも予測できずに、幾度かあった予測不可能な危機に直面してのたうちまわってきたのです。
そうした危機を乗り越える術としての、人間における「経験」にあたるのが、その国の経験、つまり歴史を経て蓄積された伝統でありまた慣習の体系であり道徳というルールだろうと思います。
現代人は人間の行動を縛るルールといえば人工的に作られた憲法とか法律だけだと思いがちですが、その国に固有の伝統や慣習、道徳といったものも、人間の行動を縛るもの、というよりも行動の規範となるものでしょう。 それは経験的知識の体系と言って良いものです。
そうした社会規範を捨てて、頭の中で描いた「きれいごと」や「絵空事」、「理想」「理屈」とそこから導き出される「技術的知識」なんてものばかりに頼ろうなどいうのは、まさに未熟な若者の発想だろうと思います。
そんな試みがほとんど無力であるどころか有害ですらあるということに、早く気づくべきではないでしょうか?
と、今日はちょっと自分が老人になったつもりで書いてみましたが、骨のある老人がみあたらなくなった事はさみしい限りです。逆に若者の屁理屈に平伏している老人ばかりで、そりゃあ、若者が増長するのもしかたないでしょうね。
↓このエントリーはこの本に書いてあった内容を参考にしました。
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