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かるぺでぃえむ。 RSSフィード

2011-05-05

2011年05月05日のツイート 01:24

[][]むかーしむかしのジェスチャ。釈尊の教化失敗(?)談。 23:15

仏伝というのは、その部派の教理を正当化するものでもあるそうだから、とっても重要なものだ。仏伝は、釈尊の生涯を綴る物語、と思っておけばいいと思う。

さて、ヴィナヤという、僧伽規則を集めた文献に、仏伝が入っている。その仏伝の説話の一つに、邪命外道ウパカの話がある。邪命外道というのは、詳しい実体は分かっていないが、厳しい生活を送ることを自分に課す、釈尊当時にいた修行者集団の一派らしい。

 

さて、釈尊が正等覚を得てすぐ後に、ウパカと出会う。釈尊はウパカに、「おれ、さとったんだぜ(ドヤ顔)」と言うと、ウパカが次の様に言って立ち去ってしまう。これは教化の失敗ではないか、という解釈(中村元先生の解釈)もある(訳は意訳ぎみ)。今日取り上げるのは、そこでウパカが示すジェスチャーだ。

Evaṃ vutte upako ājīvako hupeyya p' āvuso ti vatvā

sīsaṃ okampetvā…

この様に〔釈尊に〕語られると、アージーヴィカであるウパカは、「友よ、そうでもあり得る(hupeyya)?」と語ってから、頭を振り…

問題は、「sīsaṃ okampetvā(頭を振り)」だ。これの意味がよく分からない。ava-kampがもとだから、上下に頭を振るんだと思う。中村元先生はこれを、軽く賛成を表すジェスチャとされている。何かこれについて最新の見解があるかもしれないが、今はその意味の話がしたいんじゃない。ここで面白いのは、2000年前くらいの文献に残されたジェスチャの意味を、ぼく達が理解できない、という構造だ。

 

ジェスチャは、そのジェスチャの意味が互いに理解され得る共同体内部でのみ有効だ。言語ゲームを思い出す。今日でも同じような構造はあって、例えば日本での或るジェスチャの意味と、海外でのそのジェスチャの意味とが違うのも、状況としては似たようなものだろうと思う。ジェスチャは環境依存なのだ。環境を共有しない人にとっては、ジェスチャは意味を為さない(或いは、誤解される)。

 

何かを記録に残すときは、何らかの共同体に制限される表現は使うべきではないとも思うけど、ジェスチャが残されているおかげで、当時のコミュニケーションの有様をうかがい知ることもできる。場合もある。むずかしいなぁ。