Hatena::ブログ(Diary)

Rowing to another dawn.

2014-10-04

谷川雁 単行本未収録資料について その9 / 高松次郎 -賛-

正直なところぶっ倒れそうに眠いというか、この一週間ときたら前職場の末期なみに家に帰り着いた朝まで眠ってしまうような生活だったけれど、とりあえず一区切り着いたのでなんとかこの記事は書き上げてしまいたいという気力で動いている。

松本輝夫の『谷川雁』評でも書いたが、この本の出版されたことの意義は、著者の狙いとは少しずれるのだけれども、これまで谷川についての議論の前提とされてきた年譜とか書誌データというものが、実のところまったく不確かで曖昧で不十分な代物だということ明らかにしたことにあるだろうと思う。少し前の再評価の機運が高まった折にだいぶそのあたりが充実したように思えたものだけれども、まだまだ全く足りないのだ。では、それ以前はどうだったのかと言えば、まったくお寒い状況だったと言わざるを得ないわけだ。

松本健一の『谷川雁革命伝説』のようなものが跋扈する訳である。

谷川雁革命伝説―一度きりの夢 (松本健一伝説シリーズ)

谷川雁革命伝説―一度きりの夢 (松本健一伝説シリーズ)

議論の基礎となるべき確度の高い年表と書誌データ編纂は急務だと思うのだけれど、それこそ研究会のやるべき仕事のように思える。とりあえず、私のような地方民がほそぼそとやっていても、まだ年に一本以上は単行本未収録・年表未掲載の文章が拾えてしまう現状はなんとかしたいところ。八木俊樹にはとうてい及ばないが、その仕事の端っこぐらいには連なっているつもりでいる。

無論、セレクションや道の手帖の出版で議論の基礎となる重要なもので取りこぼされていたモノは幅広く収録されたとはいえ、年表に載ってはいても入手しがたい文章や、なお取りこぼされている文章から立ち上がってくる谷川雁の姿はあるように思われる。

谷川 雁 (KAWADE道の手帖)

谷川 雁 (KAWADE道の手帖)

高松次郎 -賛-

というわけでこの取り組みも9本目だが、実は10本目も見つけているので二桁目前という次第。一時はこんな落ち穂拾いに意味はあるのかと思ったこともあるけれど、上述のように、これらのなかから今までとは少し違う雁の姿が立ち上がってくる、少なくともそのヒントはあるように思われる。

さて、『藝術新潮』誌の1980年2月号の巻頭、アートニューズ特集として「<特集>『賛否』両極の『人』」なる表題で編まれたものの一遍。ラボ退社直前の仕事ということになるか。

巻頭言は以下の通り。

ピカソの名前や絵を知らない人は少ないだろう。しかし、ピカソの絵を好きか嫌いかと問われれば、意見は分かれるに違いない。それも、今世紀初頭にキュビスム運動を展開し、女の顔や果物を写実から立体に解体してみせた時、人々に与えた衝撃、反応とはまた違ってくるだろう。そこには、おのずから、その時代の好み、美意識といったものが出てくる。しかも、評価の分かれる作家は、単に過去の造形的様式を踏襲する作家よりも、ピカソのように時代とのかかわりあいの中で、みずからの存在を確認すべく、積極的な創作活動を行っている作家に多い。

そこで、社会の注目を浴びながら活躍している造形家十八氏を対象に、それぞれ深い関心を示しながら、賛、否の異論をもつ二人の評論家に、近作を中心にしながら意見をのべてもらった。それぞれの判断は、個人の感覚的な反応にみえながら、その人の生きる姿を映しだしており、相反する判断をあわせると、片側からあてられた光に照らされた姿・形いじょうのものが見え、芸術の今日的状況のみならず、時代がかかえている問題まで写しだしている。

このような主旨に従って、画家陶芸家広告作家から建築家にと様々な十八人の作家が取り上げられ、三十六人の評論家が登場しているが、評論家の出自もなかなかバラエティに富んでいる。

谷川が登場するのは高松次郎の項で賛の側にたっての論評。なお、否の側に立つのは美術評論家の東野芳明。B5サイズを見開きのB4で右B5の上半分が谷川、下が東野で左半分は1978年の高松の作品「平面上の空間」を載せる。

高松次郎は、線による画家ではなく、線そのものの作家である。」から始まる、900字程度の小文で特に題はついていない。

いうまでもなく高松次郎は、谷川雁の最高傑作という向きもある日本神話(私は現状の「日本神話」なる用語の流通形態が心底いやでいやでしようが無いが)の再話作品「国生み」をはじめ、谷川がものがたり文化の会に移ってからも「水仙月の四日」で絵本作画も勤めるなど、関係が深い作家として知られる。そも「平面上の空間」は、年代的にも明らかに「国生み」の挿絵作品の系譜に連なるものだ(いま、手元ですぐ絵本を確認できないが、ひょっとするとそのものかもしれない)。

高松の線の特徴を同じくハイレッドセンターの一人中西夏之のものと比較して捉え、その線を近代性によってもたらされた社会の傷跡、この日本の百年の無念を抽象にまで磨き上げたものととらえ、作品中の直線と円弧の緊張関係をこれからしばらく社会宇宙の間をさまようことになる決裂と捉える。

さらにその先があるのだが、その見解の妥当性は私にはわからない。ただ、次に国生みの絵本を見るときにはまったくその見え方が変わっているのは間違いない。そのときにまた考えてみたいと思う。

三十六人の批評を読み比べても、雁の文章だけがみごとに浮き上がっている。他の文章が精々日本国内の同時代的な作家/作品の立ち位置から賛否を述べているのにくらべ、この短文のなかで作品と近代性をぶつけて読み解こうとする力業には、さすが詩人の肩書きで登場しているだけのことはある。もっとも、このとき谷川の肩書きは編集部がつけたものだろうが果たして谷川はこの肩書きを是としたのだろうか。

第7回で取り上げた管木志雄評にもつながる仕事。谷川による作品評というのは様々なジャンルに渡ってそれなりにあるけれど、この系を一度一気読みしてみたくある。

『藝術新潮』は少々大きな公立・大学図書館レベルなら収蔵しているのではないかと思われる。

2014-09-25

谷川雁 単行本未収録資料について その7 / 狩猟アーリア人の原記号

締め切りをぶっちぎりまくってようやく松本さんの『谷川雁』の書評を書き上げた。

問題設定の枠組み自体は是としつつも内容についてはかなり批判的なものとなったが、否定して終わりというものではなく、著者の問題提起を受けてこれらからに向けてどのように議論を広げいていくか可能性をさぐるという姿勢を心がけたつもりだけれども、さてどのように読まれますやら。

さて、ようやくひと仕事終えたところで、また網に引っ掛かった単行本未収録資料を投稿しようとしたら、この記事のナンバリングがずれていることに気が付いた。どうやら、研究会メーリングリストには流したものの、こちらに投稿するのは忘れていたらしい。

とりあえず文献の存在を投稿しておこうという程度のメモだけれど、内容を追記していたらいつまでも終わらないので、ほぼそのまま投稿。

狩猟アーリア人の原記号

東京現代美術館で行われたと思しき管木志雄を扱った特別企画展の図録。その巻頭にA4三頁と少しの文章とその英訳が並置してある。

管木志雄はいうまでもなく李禹煥とおなじく、もの派の重要な美術家で、ものがたり文化の会でも谷川と組んで宮沢賢治作品の絵本化に取り組んでいる。

『極楽ですか』所収の「超近世 -原記号の祭りとしての」で触れられている「展観用に指名された小文で、独断の鍛冶屋である私はあなたを<狩猟アーリア人>と命名しました」という記述が指しているのはこの文章のことなのだろう。

極楽ですか

極楽ですか

仕事の合間に舞踏稽古に通い、自分の身体の奥にあるリズムを探りながら、谷川物語/神話理解を考え続けている。

神話について考えれば考えるほど、風土記ならばともかく、古事記日本書紀のごときものを"日本神話"と言挙げして雑誌の特集記事のレベルで消費して、何かのアイデンティティを得たように振る舞って見せる風潮には辟易する。

雁研の会合で奈良に伺ったとき、確か香具山に登ったと記憶しているのだが、あのとき、私はなるほど古事記日本書紀もこの風土から生まれたのだと得心すると同時に、その風土が、私が育ってきたものとは決してあいいれないものであって、つまり、私の神話は既に失われているのだ、と強烈に感じたことを覚えている。

私にとっては、近代の神話としての天理教神話や大本教神話の方が余程慕わしく、魅力だという事実がある。それは間違いなく、つい先頃、先祖達を捉えたその時代を生きる神話に違いない。私の曾祖父の一人が神主であったという黒住教の神話解釈もその一種である。

中世から近世を経て近代まで、神話はその時代ごとに豊かな変奏を経てきているというのに、現代神話の有り様の貧しさはどうしたことか。

そんな私がたとえば谷川雁の『国生み』に取り組むことにどんな意味があるか。現代における物語のありようを考えながら、『雲よ』8号の原稿招集の日を待ちたい。

2014-09-03

夜に起き出すもの / PENTAX Q7 + 01 STANDARD PRIME

f:id:duskTdawn:20140903000338j:image

  • PENTAX Q7 + 01 STANDARD PRIME

撮影後、デジタルエフェクト(ソリッドモノカラー)で加工。

最近行きつけになりつつあるカメラ屋さんの委託(中古)コーナーにPENTAX Q7のダブルレンズキットがかなり手頃な値段で放出されていたので確保。

ちょうどものがたり文化の会のテーマ活動合宿に旅立つところで、短期決戦の強行軍にフィルム用の一眼レフデジタル一眼はきついなー、でも手頃なコンパクトデジタルカメラがないなぁと思っていたところだったのでついつい。

使ってみて、これは自分が本格的に写真を始めるときに本当に勉強させて貰ったPENTAX Optio RZ10の正統かつ進化した後継機に思えます。

RZ10で隔靴掻痒の感があったところは基本的に解消されていますし、標準レンズが準備されているのも良い。どうやらSTANDARD PRIMEもRICOHブランドで出し直しているみたいですがここはPENTAXに敬意を表して、PENTAX版で買い増しました。

もっともデザインだけなら初期型が好きですし、Q7に乗せてしまうとわずかに広角よりになってしまうので、初期型のボディも欲しくなってしまって困ります。それならいっそRICOH版のSTANDARD PRIMEも買おうか…なんて。いや、そういえば新版も出ていたか

デジタルカメラを使いこなすコツは、使わない機能は使わないとばっさり切ることだろうと思っています。

背面の液晶ディスプレイはシェードでふさいでしまって、光学ファインダーを買いましてつけているのは単焦点の標準レンズ。それ以外に使っているのはAF合焦音だけで、そうなると街を撮っていくリズムフィルム用のAF一眼レフと変わりません。

そういう意味で、このナノ一眼には一眼レフごっこにとどまらない、レンズ交換ができる意味がしっかりあるのだなぁと思えます。

こんな仕様だとときどき変な機能がオンになって、予想外の写真になっているのも◎。後はディスプレイオフが記憶されるようになると、バッテリーの持ちからいってもありがたい、ってくらい。

私はピクセル等倍表示してスペックがどうのこうの悦に入って、その実プリントの一枚もつくらないくせに写真をやっているつもりになっている"カメラマニア"は心底嫌いです。

今の時代、人を警戒させないこのシリーズは、羊の皮を被った狼になりうるカメラだと思っています。

[追記]

S-1のクラシカルなデザインは嫌いじゃないんですがどうしても人の目を引いてしまうことになりそうで、そういう意味ではせっかくのアドバンテージを失ってしまいそう…と思わなくはないです。

ここはやっぱり初期型のQのボディを買い増そうかしらん。

2014-08-26

こどものとも / Fuji X-S1

対象年齢が変わると、いろんな物に抱く印象がずいぶん変わってきます。目線が低くなるというか、上から見下ろす構図で認識していたものを同じ高さで見るようになるというか。

f:id:duskTdawn:20140821114852j:image

X-S1はいろんなところで隔靴掻痒の感のあるカメラですが、本当にときどきハッとする写真が撮れます。

なんどか手放そうかと思ったこともあるんですが、結局いろんなところで地味に活躍してくれているんですよね。

2014-08-24

だいぶん

仕事が変わってまだ四か月。浮いたり沈んだりしながらやっているけれど、とりあえず私は元気です。というわけでぼちぼち本気出す。という現状報告。

はてなダイアリーインターフェイスが一番落ち着くなーというわけで、別にちまちま計画していたのも今更ながらはてなダイアリーに移そうかと。はてなブログは高性能だけれど、なんというか隔靴掻痒というか。