Hatena::ブログ(Diary)

Rowing to another dawn.

2014-12-05

上野英信『眉屋私記』復刊

サークル村メーリングリストを見て、上野英信の『眉屋私記』がこの11月に復刊されていたことを知る。旧版は持っているのですぐに飛びつきはしないが、潮出版社版にも通じる(というより明確に主題を引き継いでいる)美しいデザインに「炭鉱移民と辻売りで紡ぐ民衆史」なる解題がついているというなら遠からず手に入れることにはなるだろう。

三月に読書会があるようなのでそのときまでには再読しておく。できれば読書会には参加したい。

『出ニッポン記』の方は一時期何度も読み込んだのでよく覚えいてるのだけれど、こちらは一度読んでそのままになってしまっている。

眉屋私記

眉屋私記

『出ニッポン記』は今は新刊では手に入らないのだろうか。まぁ、こちらは版を変えながらそれなりに数が出ているはずなので、図書館などにも入っていることは多いだろうけれども。

2014-11-03

病膏肓に入る / 谷川雁 1977『工作者宣言(署名入り)』潮出版社

私は基本的に初版だとか稀覯本の類いに興味が無く(たしかにその版だけが持つオーラがあるのは認めるので一概に否定するものでもない)、どれかのバージョンで読めればよいと思う人間なのだ。といいながらすでに別の版でももっているし収録文章の大半が別のアンソロジーに入ってもいる『工作者宣言』の潮出版社版をあえて買っている時点で、なんの説得力も無いな。

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なんで潮出版社版のそれも初刷でもない第2刷をわざわざ買ったかと言えば、石牟礼道子によるしおりが入っていてそれを読みたかったとか井上光晴の推薦の言葉のかかれた帯に惹かれたというのも嘘ではないが、正直に言えば、この見返しの一頁のためだけに買ったのだ。

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本人自筆。いよいよ私の病も膏肓に入ってきたらしい。谷川雁だけは別なんだ…というわけでもないのだけれど、やはり説得力が無いな。

ひらがなの「せ」に変体仮名的な特徴があるが、むしろこの場合はメッセージを送られている相手の「高橋康雄」が誰かという話なのだけれど、これは潮出版編集者で『潮』誌の編集長も務めた高橋康雄という人物ではないかと思われる。

直接の担当が高橋だったのかどうかまではわからないけれど「お世話になった」と書く相手に贈るのが第2刷というところが興味深い。初刷が昭和52年3月25日で2刷が4月15日、なんと一ヶ月もたたないうちに増刷されているのだ。70年代の終盤において、雁の"沈黙"がどれくらい存在感を放っていたのか、という話になるのだろうか。

同じ古書店がまとめて谷川書籍を出品していたので、おそらくどれも高橋本人の蔵書だったのではないかと思われる。

こういう形で書籍というのは散逸していくのだなぁと思うと、少なくとも自分が価値があると思っていてそれが思い込みでないと自信を持って言えるものは、キチンとどこに行くかその落ち着き先まで決めておかないといけないのかもしれないなぁ。

私の手持ちでは、とりあえず谷川雁関係、特に八木版「無の造形」ということになるか。しかしこれももういくつかの公的な図書館に収蔵されていると思われるし、集めた情報は基本的に研究会メーリングリストに投稿しているので、これからもその姿勢を続けていく、というのを継続していくことが大事と言うことか。

2014-11-02

五島が五島を撃った -本島等様- / 谷川雁 1992 『極楽ですか』

先の長崎市長、本島等が亡くなった。

松本さん(松本輝夫)が雁研のメーリングリストに投稿していたので気がついたのだけれど、谷川が『極楽ですか』で本島に向けて「五島五島を撃った」という手紙形式の一文を書いている。

極楽ですか

極楽ですか

発刊は92年だけれど、発表は九〇年四月の文章なので、銃撃事件の直後と言って良いだろう。

当時この文章がどれほどの射程を持ったかと言うことは甚だ心許ないが、下敷きになっている谷川雁五島体験というのはその内容からしても単行本未収録のままになっている『太陽』掲載の「五島玉之浦の聖夜」で、友人から聞いたという原爆浦上に落ちたから良かったと語る老婆たちのエピソードは、おそらく同時期に長崎を訪ねたと思われる森崎和江の「うらがみ -信仰に生きる女の話-」(雁と同じ号の『太陽』掲載)にまとまる話に違いなく、それはちょうど1990年刊行の『私の尊敬する人』に収録される「『浦上だからよかった』 -あるお婆さんの一言-」に昇華されるエピソードだ。

私の尊敬する人

私の尊敬する人

してみると、谷川健一が弟の援助のために割り振った仕事ぐらいに思っていた「五島玉之浦の聖夜」は、30年近くたってなお雁にとって詳細に振り返るに足る仕事だったのだろうか。だとすれば、その仕事が年表から抜けてしまっているというのは、やはり大きな問題に思える。

2014-11-01

好きにするのが良いのだ、心から / Appleのティム・クックCEOがゲイであることを明らかに

成人同士の関係である、というのが前提として。

男が好きだろうが女が好きだろうが、爺が好きだろうが婆が好きだろうが、むしろそういうのになんの関心も持たなかろうがすべて、個人の趣味でしかないと思っている。好きにするのが良いのだ。

私自身は大枠ではヘテロセクシュアルということになる。自然を見渡せば、むしろ多様性こそが生物の原理なのであって、男女/女男の関係を選択するのは趣味の問題だが、多数を正義と読み替えて他を弾圧する身振りは如何なものか。

私自身はヘテロであるにしろ、たとえば同性婚を認めない理由が理解できない(異性愛だろうが同性愛だろうが、結婚しなければならないと言っているわけではない。だったら、アラフォーのお一人様の私は立つ瀬が無い)。

その一番の理由は、ぶっちゃけ多様性よりも何よりも、お一人様の時代のいまどきにパートナー関係を結んで生活コストを好きこのんで下げてくれるような物好きたちに行政的なサポートを積極的に行うのは当たり前のことなのではないのかと考えられてならないということだ。

そういうパートナーシップの一種として結婚があって、それが異性愛であろうが、同性愛であろうが、まったくかまわないと、そのように再構築して良いのではないかと思うのだが。そういうパートナーシップを結んで、さらに養子でも何でも次世代の育成を積極的に引き受けてくれるようなさらなる物好きが出現したら、当然のごとくそれは支援されるべきで、その優遇を差別だというのは当たるまい。

同性愛を認めると結婚が脅かされる云々という言説は論外だ。その程度に弱い関係なら最初から結ばねばよいのだ。というか、こういうと伝統的結婚ガー、と叫ぶ層は、現代の"結婚"がほんの6-70年前、さらに1世紀前の結婚とまるで意味も形態も変わってしまっていることに無自覚に過ぎる。

繰り返すが、むしろ積極的に結びたい人たちをこそ、行政はサポートすべきである。そのほうが国家運営のコストは明らかに下がるのだから真に国家の有り様を考える国家主義者こそ、このあたりを積極的に検討すべきではないのか。

もちろん、そういう関係を結びたくない、というありようも当然尊重されねばならない。そのうえで優遇されるかどうかは、政策の問題だろう。

ぶっちゃけ、私に好意を持ってくれた人物がいたとしたら、それが男性であれ女性であれというかどんな性別であれというか、性別なんざどうでも良くその好意には応えられないとしても、だれかを好きになるという大変な熱量をわざわざこの私に向けてくれたことには、ただただありがとうと思うだけだ。

誰か/何かを好きになるってのはそれだけですばらしいことなんじゃないのか。

ティム・クックに幸いあれかし。智恵の実をアイコンとする企業のトップとしてはむしろふさわしい。かつてAppleリンゴ虹色に塗られていて、虹色こそは多様性のシンボルであったはずだ。

はやく、こういうことがニュースにもならない世界になれば良いと思う。

聖☆高校生 11 (ヤングキングコミックス)

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2014-10-04

谷川雁 単行本未収録資料について その9 / 高松次郎 -賛-

正直なところぶっ倒れそうに眠いというか、この一週間ときたら前職場の末期なみに家に帰り着いた朝まで眠ってしまうような生活だったけれど、とりあえず一区切り着いたのでなんとかこの記事は書き上げてしまいたいという気力で動いている。

松本輝夫の『谷川雁』評でも書いたが、この本の出版されたことの意義は、著者の狙いとは少しずれるのだけれども、これまで谷川についての議論の前提とされてきた年譜とか書誌データというものが、実のところまったく不確かで曖昧で不十分な代物だということ明らかにしたことにあるだろうと思う。少し前の再評価の機運が高まった折にだいぶそのあたりが充実したように思えたものだけれども、まだまだ全く足りないのだ。では、それ以前はどうだったのかと言えば、まったくお寒い状況だったと言わざるを得ないわけだ。

松本健一の『谷川雁革命伝説』のようなものが跋扈する訳である。

谷川雁革命伝説―一度きりの夢 (松本健一伝説シリーズ)

谷川雁革命伝説―一度きりの夢 (松本健一伝説シリーズ)

議論の基礎となるべき確度の高い年表と書誌データ編纂は急務だと思うのだけれど、それこそ研究会のやるべき仕事のように思える。とりあえず、私のような地方民がほそぼそとやっていても、まだ年に一本以上は単行本未収録・年表未掲載の文章が拾えてしまう現状はなんとかしたいところ。八木俊樹にはとうてい及ばないが、その仕事の端っこぐらいには連なっているつもりでいる。

無論、セレクションや道の手帖の出版で議論の基礎となる重要なもので取りこぼされていたモノは幅広く収録されたとはいえ、年表に載ってはいても入手しがたい文章や、なお取りこぼされている文章から立ち上がってくる谷川雁の姿はあるように思われる。

谷川 雁 (KAWADE道の手帖)

谷川 雁 (KAWADE道の手帖)

高松次郎 -賛-

というわけでこの取り組みも9本目だが、実は10本目も見つけているので二桁目前という次第。一時はこんな落ち穂拾いに意味はあるのかと思ったこともあるけれど、上述のように、これらのなかから今までとは少し違う雁の姿が立ち上がってくる、少なくともそのヒントはあるように思われる。

さて、『藝術新潮』誌の1980年2月号の巻頭、アートニューズ特集として「<特集>『賛否』両極の『人』」なる表題で編まれたものの一遍。ラボ退社直前の仕事ということになるか。

巻頭言は以下の通り。

ピカソの名前や絵を知らない人は少ないだろう。しかし、ピカソの絵を好きか嫌いかと問われれば、意見は分かれるに違いない。それも、今世紀初頭にキュビスム運動を展開し、女の顔や果物を写実から立体に解体してみせた時、人々に与えた衝撃、反応とはまた違ってくるだろう。そこには、おのずから、その時代の好み、美意識といったものが出てくる。しかも、評価の分かれる作家は、単に過去の造形的様式を踏襲する作家よりも、ピカソのように時代とのかかわりあいの中で、みずからの存在を確認すべく、積極的な創作活動を行っている作家に多い。

そこで、社会の注目を浴びながら活躍している造形家十八氏を対象に、それぞれ深い関心を示しながら、賛、否の異論をもつ二人の評論家に、近作を中心にしながら意見をのべてもらった。それぞれの判断は、個人の感覚的な反応にみえながら、その人の生きる姿を映しだしており、相反する判断をあわせると、片側からあてられた光に照らされた姿・形いじょうのものが見え、芸術の今日的状況のみならず、時代がかかえている問題まで写しだしている。

このような主旨に従って、画家陶芸家広告作家から建築家にと様々な十八人の作家が取り上げられ、三十六人の評論家が登場しているが、評論家の出自もなかなかバラエティに富んでいる。

谷川が登場するのは高松次郎の項で賛の側にたっての論評。なお、否の側に立つのは美術評論家の東野芳明。B5サイズを見開きのB4で右B5の上半分が谷川、下が東野で左半分は1978年の高松の作品「平面上の空間」を載せる。

高松次郎は、線による画家ではなく、線そのものの作家である。」から始まる、900字程度の小文で特に題はついていない。

いうまでもなく高松次郎は、谷川雁の最高傑作という向きもある日本神話(私は現状の「日本神話」なる用語の流通形態が心底いやでいやでしようが無いが)の再話作品「国生み」をはじめ、谷川がものがたり文化の会に移ってからも「水仙月の四日」で絵本作画も勤めるなど、関係が深い作家として知られる。そも「平面上の空間」は、年代的にも明らかに「国生み」の挿絵作品の系譜に連なるものだ(いま、手元ですぐ絵本を確認できないが、ひょっとするとそのものかもしれない)。

高松の線の特徴を同じくハイレッドセンターの一人中西夏之のものと比較して捉え、その線を近代性によってもたらされた社会の傷跡、この日本の百年の無念を抽象にまで磨き上げたものととらえ、作品中の直線と円弧の緊張関係をこれからしばらく社会宇宙の間をさまようことになる決裂と捉える。

さらにその先があるのだが、その見解の妥当性は私にはわからない。ただ、次に国生みの絵本を見るときにはまったくその見え方が変わっているのは間違いない。そのときにまた考えてみたいと思う。

三十六人の批評を読み比べても、雁の文章だけがみごとに浮き上がっている。他の文章が精々日本国内の同時代的な作家/作品の立ち位置から賛否を述べているのにくらべ、この短文のなかで作品と近代性をぶつけて読み解こうとする力業には、さすが詩人の肩書きで登場しているだけのことはある。もっとも、このとき谷川の肩書きは編集部がつけたものだろうが果たして谷川はこの肩書きを是としたのだろうか。

第7回で取り上げた管木志雄評にもつながる仕事。谷川による作品評というのは様々なジャンルに渡ってそれなりにあるけれど、この系を一度一気読みしてみたくある。

『藝術新潮』は少々大きな公立・大学図書館レベルなら収蔵しているのではないかと思われる。