正しい答えが必ずある、という幻想

 経済学をこの2年間少しかじってみて、やっと気づかされたことがあります。

 それは、世の中の事象は複雑すぎて答えなんてない、ということです。

        • -

 たとえば、以前にこのブログでも記事にしたTPPの話にしても、賛成派も反対派もロジックの通った説明やデータを持っていて、どちらが正しいかをそこからだけで判断することは極めて困難です。またこれまでの貿易政策の歴史・経緯を考えてみても、どちらの意見にも有益な実例を挙げることができてしまいます。

(ご参考:当ブログのTPP関係エントリー)
TPPについて考えてみる (1)各種試算について - MIND THE GAP
TPPについて考えてみる (2)基礎的な経済学で考える(理論編) - MIND THE GAP
TPPについて考えてみる (2)基礎的な経済学で考える(考察編) - MIND THE GAP
TPPについて考える (3・終)外交・国際関係について - MIND THE GAP

 そういった中で物事を決めるには、どのようにするのがいいのでしょうか。王制や独裁制、全体主義(ナチスとか)であれば、その権力者が決めてしまえばそれで済む話です(人々が納得していなくても何もできないという意味で)が、民主主義ではそうはいきません。

 民主主義は、多数決の原理を原則としていますが、その本質は少数意見の尊重にあります。少数意見を持っている人々の意見を聞き、説得し、妥協し、責任を分かち合うことが必要です。多数決だけで物事を決めてしまうのであれば、それは軍事力による独裁と同じで、人々の参政権を制限することに究極的にはなることでしょう(少数意見を述べることができなくなる)。

 このときに問題となるのは、どの意見が多数になる「べき」なのかわからないことです。なぜなら、どちらが「正しい」のか判然としない場合が、特に大きな政策課題の場合には多いからです。

 ですから、そのような場合には、議論を重ねてより多くの人がどの意見を「選ぶ」のかを見定める必要があります。選ぶということは、責任を持つということです。そうしてより多くの人々が責任を共有して、正しいかわからないけれども、行うにふさわしいとより多くの人が主観的に判断した政策を遂行していく、というのが民主主義国家のありかたです。

 この議論をする段階では、人々の意見が食い違っているのが当然のことです。それぞれが正しいと信じる意見を戦わせて、できる限りの納得を得ることが求められます。そしてそのためには、お互いの意見・立ち位置を示して、自分が主張する意見に責任を持つことが必要です。また、先ほども言ったように、どの意見が本当に正しいのかは誰にもわかりませんので、意見は最終的には主観的な価値を持ち、相手を納得させることが最終目標となります。

        • -

 でも、国会や報道の議論を見ていて思うことは、客観的に見て正しい答えを見つけ出すことができる、正解と呼べる政策が必ずあるという前提で議論している人たちが多いんじゃないか、ということです。四則演算の計算問題のごとく、必ず正答がある問題に取り組んでいるというイメージでしょうか。

 言い方を変えれば、利害関係を離れて中立的(客観的)な視点から物事を見れば、必ず正解が見えてくる、ともいえるかもしれません。それで、中立的な第三者機関とか、専門家による助言とか、政治に影響されない判断ができる人事院(あるいは内閣法制局)、というようなものがさも常に正義であるかのような幻想・思い込みが広がっているように思います。

 でもそれは、正解がない世の中においては、人々が責任を取ることを回避して棚に上げるだけの効果しか持ち合わせないわけです。なぜなら、そのような手段をとっても正解にたどり着けるわけではなく、さらに悪いことには、利害関係から離れているということは実際に関係する人たちの議論、および最終的な選択というプロセスを踏まえないわけですから。

 実際の世の中では、中立的な視点なんて神しか持ち合わせないでしょうし、それを承知の上で世の中を動かしていくためには、みんなで泥をかぶるしかないのです。政策決定においては中立的な視点というのは無責任な視点と同じ意味であり、もしそこが間違った場合に誰も責任をとる体制になっていないことは、今回の原発の問題でも明らかになったところです。

 ですから、重要な政策決定をつかさどる機関・手続きには、選挙というプロセスで選ばれた、責任を取れる国会議員がいることが、国民にとって必要なのです。これは専門性がどうとか、頭がいいとか、優秀な人が必要という観点を超えた、国民の権利、政策に関する責任の所在についての問題です。つまり、国民の手が届かないところで物事が決まってしまうことになってしまい、もし間違っていたことが後から判明しても、それを修正することが難しくなってしまうということです。

 にもかかわらず、今回民間人の防衛大臣が誕生したこともそうですし(そもそもどの閣僚であっても、民間人が就任することは議会制民主主義にそぐわない、国民の権利の制限だと思いますが)、政治家は頭が悪くて政策のことをわかっていないとか、専門家で作る委員会に権限を与えるべきとか、必要以上に政治家の役割を貶めるような言論がまかり通っていることに、違和感を覚えます。それは回りまわって国民一人一人の政策決定に参加するための権利を制限してしまう行為であるはずなのですが。

        • -

 話がまとまらずに恐縮ですが、結局何が言いたかったかというと、正しい答えが常にあるわけではない世の中では、政策決定においての責任の所在(=国民の参加・納得)が重要であって、優秀な人に任せればいいという問題ではないということです。なぜなら、優秀な人であっても本当の答えに必ずたどり着けるわけではないからです。

 そんなわけで自分は、優秀だと思う人(それは肩書きだったり話の内容だったりしますが)であっても、むしろそうであるほど、自分の理解力の限界を考慮して、あまり頭から信用してかからないように最近心がけています。