2011-10-19 リハビリ 考
二兎を追う者 一兎をも得ず。私は高校生時代から自己流でヴァイオリンを、そして中年からチェロを始めた。一つの楽器でも難しいのに、更に別なものに手を出しても無益に終わるのは目に見えている。
それも、5、6年前から事情あって二つともやめてしまい、2年前からエイパ(アマチュアの室内楽愛好家の集り)例会で、まずチェロのリハビリをさせて貰い、やっと少し指が動くようになった。
5、6年もブランクが続くとどうなるかというと、まず土地で言うところの更地---- つまり全くの新人レベルに戻るということである。自分でもマサカと思うほどの低レベルであったが、指が寒さで凍えたように動かないのは勿論だが、トリルも全く出来ない(いまもそうだが)。ヴィブラートも所謂「縮緬」状態で、これはおかしなことに自分で止めることも出来ないという不自由さだ。
チェロに懲りず、そろそろヴァイオリンのリハビリにも手を出しているところだが、これが輪をかけた大問題。
ヴァイオリンはご承知のように左肩に楽器を載せるという無理(無茶)な姿勢をまず克服するところから始めなくてはならないのだから、チェロの名手カザルスのようにパイプをくわえながらチェロを弾くという芸など出来る筈もない。
ヴァイオリンは何故こんな苦労までして弾かなくてはならないのだろうか。
それは、かって天才パガニーニが、肩に載せたヴァイオリンで目もくらむような名演奏を披露したお陰で、以来、誰もその不自由な姿勢にクレームをつけられなくなったからにほかならない。
古来、人類は手足に馴染むような道具を開発する歴史を重ねて、進歩と生活の向上を実現してきた。機関車、飛行機、自動車、パソコン、紙と毛筆そして萬年筆、腕時計、服飾、住宅、等。生きた動物である犬や馬ですら人に奉仕するように飼育された。
しかるに、ヴァイオリンはどうか。あらゆる道具のなかで、ひとりヴァイオリンのみが、人間のほうからヴァイオリンに奉仕するように強制される道具となっているのではないか。理不尽極まりないことではあるが、これもパガニーニのせいなのである。
世のヴァイオリニストの皆様。試しにヴァイオリンを(左肩ではなく)右肩に載せて、それでどれだけ弾けるか試してごろうじろ。
たとえ低い演奏能力の方であろうと、そこまでに到達しえた自分の強運と忍耐努力の結果に、思わず感動せざるをえないだろう。
あの天才ハイフェッツですら、最初は不自由な姿勢から出発したのである。(その後の進境の早さに思い至ると、精神衛生に悪いからそこは省略しよう)。
こんな逸話がある。あるプロオーケストラのヴァイオリニストが徴兵で赴いた戦地で負傷して楽器が弾けなくなったのだが、彼は一念発起して、楽器を右肩で支え、左手のボーイングで見事に復帰を果たしたという。何という強い克己心と努力であろうか。
しかも、ヴァイオリンの技法では、右手(左脳に繋がる)で行うボーイングに大きな意味があるとされているのだ。
ヴァイオリンが人間に馴染みにくいのは、それがイタリア人の産物だからだ、という説がある。別にイタリア人の悪口というものではなく、それだけイタリアには芸術的な犯し難い雰囲気があるということである。試みに、イタリアのスポーツカー、ファッション、萬年筆等の雰囲気を見てみよ。音楽の世界では、ノーベル賞に匹敵するローマ賞を得てから、音楽界に雄飛した楽聖は少なくない。
昔から地頭と赤ちゃんと芸術には誰も勝てないのである。
使い難い道具でも、そのほうから人間に歩み寄ろうとする例がないではない。
例えばパソコンは、まだまだ使い難く、多くの窓際族から恨まれているが、アップルのジョブスは、これを茶の間の親しみ易い道具にしようと生涯をかけて尽力した人物だった。
私はワープロ専用機以後は20年ほど白黒画面の「マック クラシック」一本槍で、インターネット時代以後、やっとノートパソコンの「アイブック」に買い替えた。「マック クラシック」は捨てないで、いまでも室内インテリアとして大切に安置してある。(ワープロ、メール、簡単な検索だけで用が足りるのでアイフォン等の新進機種には無縁。弦楽器という最もアナログな道具で手一杯だ)。
ほか、使い難いものとしての代表例に語学がある。
しかし、シュリーマン同様に、語学の神様(十数種の異言語をクリア)とも言われるロンブ・カトーは、外国語は「教える側」ではなく「学ぶ側」の目線に立って学習しなけれは、と説く。日本での語学学習の現状はどうか。また、ヴァイオリン学習の実情はどうなっいいるのか。
カトーの優れている点の一つは、テキストや教師がイメージとして抱きがちな「平均的学習者」というものに対して疑念を呈していることである。つまり、千差万別の学習者の現状を把握せずに、一律的な教育をほどこすことへの疑念である。
エイパでは、会員の演奏レベルを自己申告させて、楽しい合奏の実現に寄与していることは素敵だが、もう少し細かい検討が必要なのかもしれない。
合奏は一つの芸術活動にほかならないが、カトーは、この芸術こそは、単なる学習意欲や努力とは別種のものである、と考えているようだ。カトーは、自分の思いをどんな言語的手段を使えば、より美しく、より個性的になるかということに関心がある人なら、必ず目的は果たせる、と言っているようだが、これはエイパの合奏にそのまま当て嵌まるものではないだろうか。
合奏には楽器が必要、そして楽器演奏にはリハビリを含めて、身体の訓練が欠かせない
手元に犬(テリア)を写した写真がある。うちに14年居たテリアには、亡妻と私は精神的に支えて貰ったという意味で特別な愛着があるのだが、写真のテリアは見たところ、人間とボール遊びをしているようだ。このテリアは生まれた時、まさか将来人間にボール遊びの相手をさせられるなどとは夢にも思わなかったに違いない。
ところが、いままさに飛んでくるボールを両手で弾き返そうとしている彼は、両足で立ち上がり、しかも感心なことに、左足を少し前に踏み出して、ちゃんと身体のバランスを取ろうとしているのである。
この写真は何度見ても楽しく、またその健気な姿が微笑ましくなる。そして教訓的でもある。
合奏もパートナー同士のキャッチボールと考えれは、このテリアに負けてはいられないだろう。
身体の訓練やリハビリということでは、最近テレビでみた室伏選手(ハンマー投げ)の自己訓練の様子はまことに印象深いものがあった。
例えば、腰や下肢の強化に欠かせない屈伸運動にしても、わざわざ重量物を抱えて行なうのは良いとしても、その重量物にハンマーをぶら下げ、ご丁寧にそれらを不安的に揺らせながら屈伸を行うのである。相当の運動神経がなければフラついてしまうだろう。
これに関係があるのかどうか---- 飛行機の操縦は、ただ安定させることのみを考えるだけでは駄目で、安定のなかに不安定さ(操縦性能)をどう織り込むかを考えることのなかに、成功の要因がある--- ということだ。
ヴァイオリンを肩で支えるという不安定な姿勢をどう考えるか、という問題でもある。パガニーニは教えてくれない。
そのほか、普通では考えつかないようなユニークな訓練を自分に課していて、訓練とはただ継続するだけでは駄目で、独自の訓練方法を考え出すだけの頭脳が必要である、と痛感させられて次第であった。これが「才能」というものの実態なのだろう。
弦楽器の訓練/リハビリは独自にどう行うべきか。私には知恵は浮かばないが、少なくとも教師から言われたことだけをやっていたのでは望みはないらしい---- ということぐらいは察しがつく。
リハビリにはもう一つの問題点がある。それは音楽室の音響(残響)だ。部屋によっては(特にプロには必要なことかもしれないが)残響を抑えてあるものがあるが、アマチュアには酷な場合がある。ある部屋は、私のチェロのA 弦と特に相性が悪く、音程が勝手に狂ってくる。しかし、これで苦情を言っても「それはお前が下手だからだ」と言われて一蹴されてしまうのがオチだから黙っていることにしている。
最近手に入れたCDは、チェリスト植木昭雄の「小品集」。一聴してこれまでになく、あまりに音が豊か、かつ美しいのに驚いた。コンサート小ホールでの録音ということで、その点では種も仕掛けもないわけだが、美しいという点では、聞いていて4本ある弦の区別がつきにくいのも驚きの一つである。あまりにりに綺麗で、恰も 1 本の弦だけで弾いているように聞こえると、今度はやや人工的な音のように響いてくるから、ここは録音の難しいところだろう。
リハビリの域を遥かに超えた問題であるが。
私はその昔、音楽室での録音に挑戦してみたことがある。
その部屋は残響を厳し抑制してあり、部屋の中央に吊るされたマイクに向かって演奏すると、それが放送局用の高速/幅広テープに録音され、再生されると実に美しく、市販CDにも引けを取らないような美音となるのだ(筈だ)。ただ一つ見込み違いだったのは、私の演奏の音程ミスミや音の汚いところまでも忠実に録音/再生されてしまうことで、その後、そういう試みは二度としないようにしているのは当然の成り行きだろう。
余計なことだが、世の音楽人は、録音というものにどう向き合っているのだろうか。それを音の改善/リハビリにどう役立てたいと考えているのか。
<権兵衛の一言>
カトーの教えを再生してみると、
----- 自分の思いをどんな言語的手段を使えば、より美しく、より個性的になるかということに関心がある人なら、必ず目的は果たせる、
とのことだが。
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