いーぐる後藤の新ジャズ日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-05-03 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

4月30日(土曜日)

連休の間というのに実に多くの参加者、当初は若干の違和感もあろうかと想像した林田直樹さんによる横断的クラシック講座も、4回目を迎える今回完全に定着したようだ。と言うのも、明らかにクラシックファンとわかる方々だけでなく、「いーぐる連続講演」の常連参加者の方がかなりおみえになっているからだ。

その理由は明白だと思う。それこそ「ジャンル横断的」とサブタイトルが付けられているとおり、ジャンルを越えて林田さんの講演は音楽ファン琴線に触れる内容だからである。テーマの面白さ、解説のわかりやすさもあるけれど、何と言っても選曲が素晴らしい。

今回もまた『声の響きのもたらす魔力』というタイトルどおり、マリア・カラスの「椿姫」に完全にノックアウト。毎回同じ感想なので気が引けるが、クラシック、恐るべし! 彼女の歌声に匹敵する表現の凄みは、ジャズヴォーカリストでもなかなか見つからないだろう。

しかし冷静になってみれば、それは「同じ評価軸」で考えるからで、ジャズにはジャズの「聴き所」がある。常日頃自著で語っていることを、いまさらながら思い返した次第。とは言え、「感動の絶対的レベル」で言えば、やはりクラシックが積み重ねた「歴史」が持っているパワーは凄まじいもので、ジャズファンは自らを「音楽ファンでもある」と自認するならば、クラシック音楽の力をないがしろにしてはいけないだろう。

今回の講演は、現在私が監修している小学館の隔週刊CD付きムックジャズ・ヴォーカル・コレクション』のための「お勉強」として、あえて「声」に的を絞ったテーマでお願いしたものだ。まあ、かなり自分勝手な要望だったのだが、林田さんは快く引き受けてくれたばかりでなく、またもや最高度のパフォーマンスを示してくれた。

それは二つ、あるいは三つの意味においてである。まず、講演そのものがテーマ、選曲、解説と3拍子そろって素晴らしい。そしてこれは個人的な感想だけど、現在私が関わっている「歌」というテーマについて、そしてジャズクラシックの表現法の違いについて、実に有益なヒントに満ちていた。加えて、感覚芸術におけるパフォーマンスと、それを受け取る聴衆との関係性という、極めて高度な問題にも光を当てている。これは素晴らしい(この件については打ち上げの席でいろいろ話題となったが、今回のブログでは触れない)。

思いつくままポイントに触れてみよう。まず最初のコーナー「前衛であること、自由であること」が発見に満ちていた。思い切り乱暴な形容だが、現代音楽的ヴォイス・パフォーマンスは、前衛ジャズでも良く試みられるが、「ほんものクラシック」を聴いて、自分の先入観の誤りが正されたのだ。

率直に言って、ジャズ畑の「前衛」がやる「現代音楽風」は、私の耳には「クサく」聴こえてしまい(ひどい言い方をすれば「ギミック」)、おおむねあまり評価できなかったのだが、クラシックの正統的なものを聴いて、目からウロコだった。表層的には「似て」いても、こちらはまさにまっとうな表現足り得ている。

個人的感想だが、「ジャズ耳」で聴くと、ジャズマンが他ジャンルの手法を採った音楽は、総じて中途半端な印象が強く、「それならほんものを聴いた方がいい」という結論になり勝ちなのだ。そしてその最たるものが、クラシック音楽に寄り添ったものというわけ。

どこが違うのか。それは「テクニック」だと思う。歌唱テクニッククラシックの訓練を積んだ歌手はまったく違う。音程は言うまでもなく、微細な声質のコントロールなど、圧倒的に正確なのだ。その辺り、ジャズ畑の方々は「個性的表現」に拘るあまりか(というか、そのこと自体は「ジャズ的」にはまったく間違ってはいないのだが・・・)いささか雑。そしてそのことが音楽の性格をあいまいなものにしているように思えるのだ。つまり一見放埓に見えるクラシックにおける前衛的表現は、それが厳密にコントロールされた歌唱技術によって成立していることを、ジャズ側の方々はいまひとつわかっていないのでは・・・ いや、わかっちゃいるけれど出来ないのかも・・・

しかしまったく正反対の発見もあった。ナタリー・デセイが歌う「オーヴァー・ザ・レインボウ」が、私の耳にはさほど面白いものに聴こえなかったのだ。これならジャズヴォーカリストの表現の方がはるかに深い。

その理由はハッキリしている。彼女はどちらかというとポピュラー・ミュージック寄りの(穏やか、かつわかりやすい)歌唱法を採っていたのだが、そうした手法では、明らかにジャズヴォーカリストの方が経験値が高いのだ。と言うのも、彼女がクラシック的歌唱法を採って歌うバッハカンタータなどはとても良かったから。

そのことがより明確になったのは、ディアナ・ダムラウが同じ「オーヴァー・ザ・レインボウ」を、よりクラシック的歌唱法で歌ったものが、私の耳には明らかに良く聴こえたからだ。つまり、どんな音楽ジャンルにも特有の技術があって、それを使えば良いのだが、他のジャンルの歌唱技術は一朝一夕に身に付くものではないという、わりと常識的な回答である。

とは言えこの「発見」は私にとっては大きかった。もっともたった一度の体験だけに、この問題は細部をより厳密に詰めて考えてみる必要は実感しており、あくまで途中経過の感動であることは言っておくべきだろう。

そしてカラスである。これは凄い。もちろんマリア・カラスのことは知っていはいたが、林田さんのご説明の通り「スキャンダル」絡みの印象の方が強く、あまりちゃんと聴いてはいなかった。しかし1955年スカラ座ライヴ、これはもうとんでもない代物だ。ライヴだけに音質は若干落ちるけれど、その歌声の迫力は凄まじいもので、林田さんがいみじくも「血の匂いがする」と言ったほど・・・そしてそのご意見にはまったく同感だ。

というかこれも林田さんの発言だが、「これ聴いちゃうと、ほかの『椿姫』は聴けなくなる」という感想も、実に良くわかる。ほんとうに凄いものを聴くと、それ以降の音楽体験が大きく規定されてしまうことは、私もジャズの世界で実感していることだ。そして個人的には「その後どうするか」がけっこう重要だと思っており、その辺り最近になってようやく答えが見えてきたようだ。

その他にも今回の林田さんの講演は新たな発見に満ちており、私にとって一気に栄養ドリンクを大量に飲んだ感覚。つまり音楽を聴く快楽が圧倒的過ぎて、そこからどうさまざまな問題の回答を見つけ出すか、さあこれから、という気分なのである。そしてその「問題」とは、前回書いたブログにおける「白、褐色、黒色音楽」における「白音楽」の原点を探る試みでもあるのですね。そう、カラスの声とイスラームの声、そしてジャズの声をどう関連付けて考えるか。

とりあえず言っておけば、3者はまったく異なるように見えながら、その最高度のレベルのパフォーマンスが聴き手に与えるインパクトの強度においては、まったくもって同等なのだ。

ともあれ、林田さんの講演はまだまだ続きます。今後の展開にご注目ください。