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2008-07-24-Thu エレンの萌え論「萌え☆ぼん」 8.安倍なつみによる人類補完計画

8.安倍なつみによる人類補完計画



安倍なつみによる人類補完計画は、くり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。

8-1 アイドルを「愛する」こととは


モー娘ハロプロヲタクモーヲタ(対象がモー娘以外の場合は正確には「ハロヲタ」などと呼ぶのが正しいのだがここではモーヲタとしておく)とは、「旧約派」と「萌え派」の二つに分けられると先に述べたが、この傾向はそのまま「単推し」と「DD」と言い換えることもできる。単推しとは、モー娘または他のハロプロのグループのなかの特定のメンバーの熱狂的なファンであることを指す。所属するグループに対しての思い入れよりもそのメンバー個人に対する愛情のほうが上回る場合が多い彼らは、モーヲタでない者よりはハロプロ全体の知識は備えているが、知らなくても特に困ることがないと感じており、例えば他のグループのメンバーの人数や名前を知らないといったようなことも珍しくない。一方、DDとは、「誰でも大好き」の略語で、思い入れのあるハロプロメンバーが数名いるという状態をいう。しかもその対象が頻繁に変わる傾向もみられる。基本的に彼らはハロプロのファンであり、単推しよりはハロプロ全体のグループの知識や、常に何かしらの仕掛け(新しいグループの結成など)を打ち出してくるアップフロントの動向に明るいことが特徴である。

単推しとは、ファンとして誠意ある態度である。彼らの対象に対する態度とは、一途な恋とでも呼べるものである。かつて、アイドルファンの間では「○○命」という言葉が良く使われていた。好きになったアイドルのためなら命をかけて応援する、そのアイドルが私の命そのものである、という意味である。1980年代アイドルファンの主流となる層は、現在と違い極めて厳しい縦社会を構成していた。彼らは「親衛隊」という組織として活動していた。「親衛隊」のなかには、現在でいうDDのような者はひとりもいなかった。彼らはみな(松田聖子のファンであるとすれば)「聖子命」であったからである。「聖子命」と刺繍を施した特注の上着を着こんで、コンサートであらん限りの声援で応援する。個人サイトやブログなどでのファン活動を行う者に限っていえば、モーヲタとは横社会である。しかし、単推しには、かつてのアイドルファンにみられる「○○命」という態度が、受け継がれているようである。刺繍入りの上着を着て気合の入った応援を行う者は、現在のモー娘ハロプロのコンサートでもみられる。

単推しの態度について、ファンであるのならば、そのありようは毅然としたものであるべきだと考える傾向が強いようである。彼女と対峙するとき、恥ずかしくない自分であるべきだとする。自分こそが彼女の一番のファンであるべき。自分こそが彼女の恋人として相応しい。そのような自分でありたい、とする。それは、対象となるアイドルと自分という一対一の構図が生み出す発想である。

単推しであることは潔い態度であるとされる。しかしそれが諸刃の刃となることもある。あるアイドルスキャンダルが発覚し、それを彼女自身が認めてしまうということがある。そのような報道を受けて、単推しである者のなかには、きっぱりと彼女のファンを辞めてしまい、一転してそのアイドルのアンチとなることさえある。彼女に対する信頼が失墜し、これまでの、そのあまりにも深い愛情ゆえに、裏切られたと感じてしまう。

そのような、アイドルに対する感情が愛そのものであるような態度とは、客観的な判断を見失わせてしまう。恋愛スキャンダルとされる行為とは、仕事としてのアイドルを放棄するものであるとされる。しかし、それは、その彼女の人間的な部分でもある。単推しは、そこを認めることができない。単推しがそのアイドルに対し、この自分の彼女に対する思いとは愛であると定義する場合、それは極めて独善的なものなのである。それは、美しくもあり、また、儚いものでもある。

8-2 萌え派の共有指向


DDと呼ばれるモーヲタは、一般的には浮気性といえる「乗り換え」を行う。水野亜美のファンがそのまま綾波レイのファンになったように、ヲタクにみられる典型的な行動ではある。それは、水野亜美綾波レイとの間に、極めて高い共通点が見出せることに理由がある。その共通点とは、萌え要素と呼ばれるものである。萌え要素というものは、すでにパターン化されたものである。DDとは、そのような構造、似たような傾向(萌え要素)のアイドルにばかり興味が向かってしまうような自らの性癖に自覚的であることが多く、すなわち彼らのなかでは、アイドルが虚構であることが自明である。単推しが対象に対し愛憎を抱いてしまうような態度とは、対称的である。

アニメ作品のすべてのセル画を所有したとしても、それはアニメを所有したことにはならないだろう
それではおたく達は、その愛の対象をどのようにしてわがものにしているのだろうか
それは端的に「虚構化の手続きによって」である
ありものの虚構をさらに「自分だけの虚構」へとレヴェルアップすることだけを目指す
(『戦闘美少女の精神分析』より引用)


モーヲタとはヲタクである。モー娘とは実在するアイドルグループであるが、それぞれのモーヲタの抱く『モーニング娘。』とは、それぞれ異なるものである。あるモーヲタが理想とするモー娘とは、「モーニング娘。はこうあるべき」というようなそれこそ理想論であったり、ある時点でのメンバー編成であったりする。モーヲタの間で「モーニング娘。はいつダメになったのか?」といった不毛なやりとりがしばし行われるのは、彼らがヲタクだからである。たえずその姿かたちを変容させていく、またそうでなければ存続できないモー娘とは、実体のない存在である。だから、すべてのCDやDVDを持っていたとしても「モーニング娘。を所有」したことにはならない。モーヲタ同士のやりとりのなかで、それぞれが主張する『モーニング娘。』こそが、それぞれが所有するモー娘となる。語ることこそが、モーヲタの絶対条件となる。

アイドルとは、多くのファンによって支えられるものである。ファンがいなければ、アイドルはその活動を続けていくことができない。商品として利益を上げなければ活動を継続していくことが実質的に不可能であり、また、ファンとして崇拝する者がいてこそアイドル偶像)として成立するからである。

自分だけの彼女として対象に対する萌えを深めていく単推しは、やがてその思いとは萌えというレベルを越えた「ほんものの愛」であると錯覚するようになる。そして、アイドルが虚構であることを忘れてしまう。一方、DDとは、自分たちがアイドルから感じる萌えが、萌え要素という個々のイメージから構成されていることに自覚的である。

エヴァを制作したガイナックス鶴巻和哉は、萌えを『特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為』と定義する
堀田純司萌え萌えジャパン講談社

この「補う」という行為とは、ヲタクであるモーヲタにとっても必然であるのだが、それが独占欲につながる単推しに比べて、DDとは、共有することでそれを補おうとする傾向が強い。DD(=萌え派)は、作られた虚構を楽しむこと、その虚構をどうやって面白くするか、どうやって彼女たちのイメージと戯れるのか、虚構であるアイドルのイメージをさらなる虚構へとレベルアップさせる方向へと、その情熱を向かわせる。そしてそれは、イメージの具現化でもある。イメージとは具現化されることでそのエネルギーが高まり、より強力なものとなる。そしてそれらの具現化された虚構は、ウェブ2.0がもたらしたユーザー主体のデータベース構築環境にて共有化されることになる。

お互いに語りあい、その結果としてウェブ上にアーカイブされることになるモー娘ハロプロメンバー萌えイメージのデータベースとは、「所有の手続き」であり、同時に「所有から共有へ」というムーブメントでもある。DDの行うそのようなネットでの活動とは、ウェブ2.0的なクリエイティブであるといえる。

8-3 自分さがし


孤独とは何だろうか。そのようなことを考えるとき、私はどうしても綾波レイのことを思い出してしまう。

新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物綾波レイは、クールで無口で頭脳明晰、そして過去の経歴がすべて抹消されているという、ミステリアスな少女である。日本のアニメ史のなかでも上位に入るほどの絶大な人気を誇るキャラクターとして、多くのヲタクに支持され、彼女の存在がエヴァのブームのひとつのきっかけでもあった。

ある星占いの本に、みずがめ座のひとたちの傾向が書いてあった。彼らは、必要以上に他人に干渉しない。それは単にクールだというのではなく、自分が何者か分からないので、自分を他人に知られる事を極度に恐れるからだと。綾波には、どうもみずがめ座の傾向が当てはまるのではないだろうかと感じる。

ヲタクにとっては、自分がどう感じるかが大事であるという。だから、萌えの対象となる女性には、絶対的な信頼が置けるのだという確信がなければならない。見栄を張ること、言葉を飾ることを知らない綾波レイは、本当のことしか言わない。そのような彼女とは、自分が抱える苦悩を共有できる。だから、信頼に足る、ということになるだろう。だから、どうして彼女のことが好きなのか、言葉ではうまく説明できない。自分の本質をすらすらと述べることは難しいだろう。ヲタクの内実が自己愛優先であるのなら、彼女とは、すなわち自己の写し鏡となる。要するに、自分と似たもの同士でなければ、萌えない。

萌えを追求すると、それは自分探しの旅となる。綾波レイを好きになることで、ヲタクは彼女の内面をみることになる。感情を知らないという、作られた少女。彼女のなかには、何もない。少女のかたちを模した、謎の存在。その内面とは、果てしない暗闇であった。

引きずり込まれるように、彼女の魅力に堕ちていく。それは、何だったのだろうか。

エヴァ登場人物たちはすべて、コミュニケーションの不全に陥っている。お互いが理解しあえることが、まったくない。特に、主人公の碇シンジは、内向的な性格で、物事を常に悪い方向に考えがちであり、まわりの人間に対して常に疑心暗鬼である。使徒との戦闘において、使徒シンジの心理内面を攻撃するようなとき、シンジは自身の葛藤の末に、戦闘不能に陥ることがある。

シンジが葛藤する局面において、架空の綾波レイが出現することがある。彼女は、シンジが抱える自我を超えた存在として語りかける。これは何を意味するのか。

綾波レイとは暗闇であり、その暗闇を正面から観ることになる。暗闇では、ひとは、何も見ることができない。手も足も動かせない。だから、無我の境地に立たされる。そこで、ひとはその自我を捨てざるを得なくなる。綾波レイを欲望することとは、すなわち、自我を捨て去ったクリアな自分、理想を求めることである。自分は「かくあるべき自分」へと生まれ変わり、煩悩を捨て去った万能で絶対的な自分を手に入れる。

つまり、欠けた自我の埋め合わせこそが、萌えの境地であるといえる。それは、自問自答を繰り返すヲタクの正答であるといえるだろう。

8.4.安倍なつみによる人類補完計画


8.4.1.なっちイントロダクション


萌えとは「共有化」である。それは、例えば、Web2.0環境でのヲタクの繋がりである。孤独自分探しの末に、ヲタクは、自己承認を求めてさまよい続ける。そのような答えのない問いは、例えば無数のブログに記載された、興味のない者にとっては特に意味や価値のない文章などのことである。ヲタクがブログで書くこと、そしてそれはトラックバックそしてブックマークコメントなどで晒され、相対化され、やがてそのなかから「典型的ヲタクの事例」が取捨選択され、自分と他人との言葉が混ざり合う。そして、個々人の主張とは、限りなく公のもの、多くのヲタクがそう考え思うものとしてアーカイヴされていく。

これは、『曖昧孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたい』という、ヲタクならではの貧弱な連帯なのだろうか。そして、ヲタクとは、個の消失を希望している生き物なのだろうか。

おそらく、その通りなのかもしれない。しかし、ヲタクWeb2.0にて行う所業とは、クリエイティブでもある。

ヲタク個々人の主張はそれぞれのブログに残っていく。その一方で、これまで出版などなされることがなかった、いわば見捨てられてきた、ヲタクの思いや考え方が、見ようと思えばいつでも見られる状態になる。つまり、ウェブ上での資産となる。ヲタク同士が萌えという共通のコードでさまざまなやりとりを行い、そのやりとりもまたウェブアーカイヴされる。萌えとは、アーカイヴされ、すなわち共有される。そのような、境目のない状態から生み出された無数の創作物(CGM環境での二次創作)により、共有されるのが萌えである(マッド動画はてなダイアリーキーワードなど)。

そのような状態を、ここでは「共有化」と呼ぶ。

ここからは、そのような「共有化」されたヲタク世界のロールモデルとして、個人的な、強い思い入れそのものを呈示してみる。

「なっち」と呼ばれる女性歌手安倍なつみとは、モー娘の創設メンバーであり、その笑顔と頑張りで、グループの人気を支えてきた。彼女のたぐいまれないアイドルイズムが、モー娘というグループを牽引してきた。そのような時代があった。

彼女の歌唱とは、技術的に特別上手いわけではないが、その歌声にはカリスマがあり、それは可愛いと称される種類のものである。また、北海道の室蘭市出身の彼女のしゃべりには常に訛りがあり、朴訥で不器用キャラクターを彷彿させ、そこが可愛いと感じさせる。とにかく、彼女のことを可愛いと感じた者は多く、彼女の評価とは、アイドルとしての典型であった。だからこそ彼女は圧倒的な人気者となり、グループの人気をささえた。見た目が可愛い。そして、行動や発言も可愛い。そのような評価がまずあり、よって、グループの中心には常に彼女がいた。

8.4.2.孤独なっち


ここからは、なちヲタなっちヲタクである私の個人的な世界をスケッチしてみる。そこでまず、なっち孤独である、という推定を行う。

多くのファンが、彼女の笑顔に癒される。そして、いつも笑っているなっちは、楽天的な性格である。そうみられている。しかし、モー娘として彼女とグループ活動をともにしてきた矢口真里は「なっちはひとりで抱え込むタイプ」だという。

気になるようなことがあると、独りで考えこんでしまう傾向がある。中学生の頃にいじめに遭い、死を決意したこともあるという彼女は、何かと殻に閉じこもりがちになる。ライバルでもあり仲間でもあるメンバーに救われたことが何度もあったのだと、後に彼女は語っている。

後藤真希加入以前のモー娘は、基本的になっちセンターであった。言い換えれば、あの頃のつんくは安倍をベーシックに楽曲を作っていたといえるだろう。田舎から上京した少女が都会で孤独を味わいながら恋愛に憧れる。そのような歌詞、物語であった。だから、つんくにとって彼女は理想の恋人であったのかもしれない。その頃のモー娘とは、安倍がセンターで圧倒的なカリスマを放ち、歌唱においては他のメンバーが彼女の歌唱力不足を補う。メンバーそれぞれのキャラクターには目を見張るものがあり、他にない存在感をアピールしていた。そして私は、そのような集団のなかでなっちセンターとして孤高の存在であったのは、彼女から漂う孤独感がそうさせていたのだと感じる。孤独感とは、シャ乱Q楽曲のテーマでもある。デビュー曲からLOVEマシーンまでの初期モー娘とは、良く言えばシズル感溢れる、悪く言えば湿っぽい。これは、初期の彼女たちがいわば「女性版シャ乱Q」であり、つんくヴォーカルや楽曲世界の「ねっとり感」を引きずっていたからだ。さらに言えば、安倍の歌唱や歌声が「いやらしくねちっこくてしかも重たい」ことが、つんくの理想でもあったからなのだろうと推測する。メモ青の歌詞のなかに「一人ぼっちが淋しいなんて知らなかったわ」とある。だから、なっちソロ第一弾アルバムタイトルが『一人ぼっち』だったのだろうか。

モー娘の歌詞の孤独なっちとは、孤独イコンとなる。なっち孤独を支えてあげたい。だけど同時に彼女の孤独に共鳴する自分がいる。そういった思いが、なちヲタの原点だったのかもしれない。少なくとも、私にとってなっちとはそういう存在となっている。

8.4.3.空のペットボトル


私が安倍なつみに魅了されている理由とは、その「わかりづらさ」なのかもしれないと仮定してみる。

彼女の楽曲の持つポテンシャルとは、自身の「誰か相手に伝えなきゃ」という想い、それがすべてだ。アイドルアーティストに変貌してゆくという過程をぼくらは何度も目撃してきた。彼女は恐らく、そういう流れを踏襲しない。なっちは今後も「安倍なつみという物語の主人公」として、その物語を読んでいてくれるひとたちがいる限りにおいて、主人公であり続ける。

彼女は自分のことを「なっち」という。幼少の頃からそう呼ばれてきた彼女は、それを、そう呼ばれる自分を「かわいいもの」すなわち高い評価であると信じて、自称する。つまり、これは、自己愛である。そこで、彼女に対するネガティブな評価(ぶりっ子)が生まれてくる。それを否定はしないが、やや正確さに欠けるものと思われる。

あやや」と呼ばれていた頃の松浦亜弥であれば、その「ぶりっ子」が計算であることは一目瞭然であるし、後に松浦本人も「アイドルであること」を懸命に心がけてきたのだと語っている。しかし、なっちのそれは、計算なのか天然なのかわからなくなることがある。少なくともなっちは、どうやら自分はアイドルというカテゴリーに属しているらしい自覚はあったのだが、彼女自身がアイドルであると自称したことは一度もない。それに、これまでの彼女の言動から分析するに、はっきりいって彼女が「計算」ができる程の狡猾な人物だとは考えられない。

与えられた課題(仕事)に取り組む姿勢は全力であるだろうが、その動機とは、他のハロプロメンバーよりも、よりプリミティヴであることが彼女の発言などから伺い知ることができる。

そして、彼女の言動(頑固、田舎者、等)はデビュー当時から一貫しており、他のハロプロメンバーが世間から決めつけられた「決まりきったキャラ設定」になかば居心地の悪さを感じ世間に変革を要求するように参画するなか、彼女だけはその「キャラ設定」が(計算なしで)ブレていない。十年という長い間タレントとして活動するなか、彼女が一度たりとも「なっちっぽくない」ということが皆無であったこと。これは、彼女の見かけ上の姿勢を「適当でいい加減」であると仮定してしまうと、やや矛盾が生じてくるだろう。彼女に対する「わかりづらさ」とは、ここにあるのだろうと考えられる。

つまり、彼女のなかに、もしかすると彼女自身でさえ認知し得ない広大なブラックボックスが存在し、そのいわば深層心理が彼女を彼女たらしめているのではないだろうか。一見わかりやすいキャラである彼女の本性が、いまだ不明であること。これが、安倍なつみの最大の魅力ではないだろうかと感じるのだ。これはあくまでも、私のなかでの他のハロプロメンバー(を含む有名人すべて)と比較しての感じ方でしかないのだが、私が彼女に綾波レイの影を見てしまうのは、およそこのような考え方感じ方がベーシックとなっている。

彼女が年下のハロプロメンバーから母親的存在として認識されている。それはつまり、母親が子に対して決して計算ずくめで対処することなどない(本能が最優先される)ことと、決して無関係ではないだろう。

なちヲタのなかで、なっちの母性に惹かれるという者は少なくない。彼女の出身地である北海道の大自然を思わせるおおらかさ、ファンに対する愛情。そのようなものを受け取ったと感じるとき、彼女が発信するメッセージとは、慈悲、無償の愛、深い愛なのだと、疑わない。

8.4.4.言葉たち


チセ」はアイヌ語で、家という意味です。

高橋しん最終兵器彼女』7巻より

ある組織により「兵器として変態する身体」に改造された少女ちせは、シュウジとの幸せな生活のみを願った。最終戦争後の地球の滅亡を悟ったちせは、宇宙船となって、シュウジを乗せて地球を去る。何者にも邪魔されない2人だけの永遠の時間。そんな、ご都合主義に異議を唱えるものもいるかもしれないが、かつて私が綾波レイに抱いていた願望は、ここに描かれたようなものだった。

永遠を望む人達にとって綾波レイは、いまだにイノセンスの象徴として輝き続けている。なっちはデビュー当時、綾波に似ていると良くいわれていた。天真爛漫ななっちクール綾波。髪型以外に二人の共通点を挙げるとすれば、それは母性なのだろうか。

なっちの母性とは、具体的にどのようなものなのかと考えるとき、彼女が「言葉たち」という表現を行うことに注目したい。彼女は、自分が大好きな言葉を「言葉たち」と称した。

これは、何を意味するのか。

まず、この「言葉たち」という言い回しには、奇妙な違和感がともなう。例えば、かごいっぱいに入った野菜を「野菜たち」とは普通呼ばない。では、かわいらしいお人形が並んでいたときに、それらを「君たち」を呼ぶときはどうだろう。おそらく、そこには、それら人形に対する愛情がこめられていると考えられる。人形を単なる物体ではなく、友人として、または子供として、つまり人格としてとらえている。

○○たち、という言い方は、単なる複数形ではない。車たち、テレビたち、そういった使われ方は、されない。ともだち、子供たち、というように、この用法は、人間にしか使用されない。

彼女は、言葉を、ものとしてではなく、自ら意志を持った人格、キャラクターとして認識し、まるでそれが自分の子供であるかのように接してしまったといえる。

何か事件が起こったときに、どのブログも似たような言葉、似たような言説が並ぶようなことがある。もしも、それを言葉の限界だと仮定する。言い換えれば、言葉とは限られた資産であるとする。そうであるのなら、「言葉たち」というキャラクター化とは、君たちには自由が与えられたから、どこで何をしてもいいんだよという、言葉の開放でもある。

言葉にこめられた愛情。中学生の頃いじめを受け、死を決意したという彼女は、ラジオから流れてきた歌の歌詞に救われたと告白する。そして、自分も誰かを助けるようなメッセージを歌で伝えるひとになりたいと願うようになる。

8.4.5.萌えと「人類補完計画


エヴァの結末で語られた「人類補完計画」。それは、世界を裏から操るという秘密組織ゼーレが企てた「人類を再生させる計画」のことである。簡単に説明すると、いったん人類はすべて液状化し同化し融合することで、無益な差別や対立をなくしてしまい、そのような、人類全体が抱えるすべての問題を解消した状態が「生命の源である海」のような液体「LCL」であり、そこから再出発する(その具体的な方法は作品内では語られてはいないが「新たなる種」として再出発するというようなニュアンスが含まれているものと思われる)。

物語のラストでは、主人公の碇シンジ綾波レイの身体が繋がった状態として描かれ、その一体化した状況を、レイはこのように説明している。

ここはLCLの海。生命の源の海の中。
ATフィールドを失った、自分の形を失った世界。
どこまでが自分で、どこからが他人だか判らない曖昧な世界。
どこまでも自分で、どこにも自分が居なくなっている脆弱な世界。


最近、これとそっくりな発言を聞いたことがある。

私は中学生の頃から、自分の忘れちゃいけないと思う感情、自分で思いついた言葉、大好きな言葉、フレーズや歌をノートに書きとめてますが、その言葉たちが、人のものとの自分のものとの区別がつかなくなってきてしまいました。自覚がなかったとしか申し上げられません。


なっちは、自分の好きな作詞家の歌詞を盗作した。その騒動の後で発表されたのが上記の謝罪コメントである。

これはつまり、彼女自身が「LCL」であるという証明であり、また、彼女と彼女のファンとが「LCL」で融合しているような、そのような世界こそが、彼女の願いなのだろうとも感じる。対象に憧れ、同一化する。メディアを介して極度に接近する感情が萌えであり、それは、人類補完計画のことでもあった。

それはどういうことか。例えば、私のなかに彼女を独占したいという感情が生まれるとする。しかし同時に、彼女とは、ウェブ上ではすでに萌えというコードで共有されている。そこで、何が起こるのか。

独占したい。しかし、実際にそれが不可能である、という前提で成立する萌えの世界。萌えとは、圧倒的な絶望からはじまる、叫びである。そこで私は、自らの罪の深さを自覚する。

そしてまた、安倍なつみ自身も、自覚のない原罪を背負う。盗作もそうであっただろう。そしてまた、彼女の最大の魅力であるとされる笑顔とは、つんくをも惑わせる、非常に罪作りなものであったという。しかし、彼女自身が言うように、実態は、何も考えていない、赤ん坊のそれである。赤ん坊の笑顔をみるときには、誰もがエゴを消失する。後につんくは、そのような無垢な彼女を「空のペットボトル」であると評する。なんでも吸収する、伸びしろの高い素材。それは、彼女が無色透明であるという論説でもある。

互いに自らの罪を受け入れ、萌えの名のもとにウェブにて記述される、彼女に対する萌えという感情とは、無数の記述により「立体化」される。そこで浮かび上がってくる彼女の像とは、無数の贖罪により裏打ちされた、限りなく透明なものとなるだろう。独占欲と絶望の果てに、ヲタクは無となる。「考える」という、小賢しい私利私欲から、萌えは遠ざかる。

それぞれのエゴや境目のない、そのような世界に生かされていることを自覚するとき、個人のエゴが回収され、ヲタクも透明で無垢な存在となる。そのようなシステムとして、萌えは機能しているということになる。

8.4.6.ステレオシステム


架空の対象を所有(すなわち独占)するというのは、コレクションの収集そのものではなく、妄想すなわち二次創作によってのみ達成可能となる。

なっちを独占しようと、ブログに彼女に対する思いを書く。しかし、実際に起こる現象とは、この人物は彼女を萌えの対象としているという評価であり、なちヲタというトライブに属する者であるという判断である。

そのトライブとは、なっちを筆頭とする集団であり、個々の独占したいという記述とは、「なっち萌えキャラ」というスコアリングを上げるボランティアでしかなくなる。そしてそれらは、萌えの立証としてアーカイヴされる。

ここで、萌えという世界においては、独占と共有、相反する概念の共存が成立することが証明される。

そしてその結果、なちヲタとはなっちの名の下に平等となる。自分か他人かの境界が曖昧になっている、なっちに対する熱狂。個人レベルにおいては単なる酔狂でしかない。しかし、そのようなネットなどでの記述が集まるとき、それは、正確に組み立てられたステレオシステムの音像のような、極めて本物に近い、擬似的な立体となる。そこには確実に「安倍なつみそのもの」が再生されている。

広く公開される「それ」を、なっち自身が見るという可能性は否定できない。実際、彼女自身がブログを見ているといったような発言もしている。結果それらは彼女にフィールドバックされている。それは、パフォーマーとオーディエンスとの間に成立する等価交換、なのかもしれない。

8.4.7.なっちは私、私はなっち


ヘッドホンで彼女の歌声を聴くとき、身体が溶け彼女と同一化する快感を感じることがある。エヴァテレビエンディングフィルム綾波レイが海のなかでさかさまになって浮遊している、ちょうどあのような気分になる。自分が溶けていく。なちヲタとしての私は「なっちの内側」で生かされていると感じる瞬間である。

この私の、なっちに対する萌えとは、なっちという共同体のなかで共有される。そして、なっちの願いのまま、LCLのなかでなっちと私たちは一体となる。私は、なっちのすべてを受け止め、受け入れ、自らに取り込む。そして、なっちの発言とは自分たちの代弁でもあるし、また同時に、私の言葉が、なっちの言葉であったりもする。そのような、自分と他人とが共有され、その境界があいまいになっていく世界。

私は、なっち孤独や、仕草、発せられる言葉たちの可愛らしさに自分を見出す。それが萌えであり自己愛であるとする。孤独ゆえに自己愛が生まれる。しかし、孤独ゆえにぼくらは連帯したい。孤独だから癒されたい。そのようなとき、なっちとはその母性によってすべてのヲタを包み込む。孤独ゆえに自己愛の強いなっちはまた、その、自分のなかにある愛を、ベランダの野菜でさえも「子供たち」のように親しみを込めて呼ぶような、慈悲の心をもって、ファンのみんなに与えたい、共有したいと願い、歌い、踊る。

8.4.8.聖書


なっちの初めてのエッセイ『ALBUM1998-2003』。オーディションに参加した経緯から、モー娘として活動することで得たさまざまな教訓、そしてこれからの自分の生き方などが綴られている。私にとってこの書物は「聖書」である。それは、ここには彼女の真実が書かれている、そう信じているからである。

私がこのエッセイのなかで最も印象に残ったのは、彼女が初めて自身の肥満について語った74頁の「ストレス」だ。一九九九年、破格の新人扱いされた新メンバー後藤真希の加入、そしてLOVEマシーンのヒット、というように、B級アイドルグループだったモー娘が「怪物」へと変貌する、多忙を極めた時期。 マスコミからのバッシング芸能活動に伴い襲ってくるストレスが彼女を押しつぶす。彼女は、モー娘とは、自分自身との戦いの歴史であったと、ふりかえっている。

また、彼女は、自身の性格を「思い込みが激しい」と記している。

使徒及びエヴァが展開する絶対領域であり物理的障壁でもある「ATフィールド」は、絶大な防御力を誇り全ての兵器はその威力を大幅に減殺される。エヴァ使徒に対抗し得る唯一の兵器と目されるのは、このATフィールドを中和する能力によるところが大きいのだが、使徒でもあった渚カヲルはATフィールドを、誰もが持っている心の壁なのだと説明した。元から頑固な性格のなっちが、マスコミゴシップ報道により疑心暗鬼になっていた頃、より強固なATフィールドを張りめぐらし、閉じこもってしまった。そして肉体と精神のバランスを崩した。

モー娘は、彼女を中心に売り出すことを前提に作られた。それは、あのオーディションに彼女が現れた時点で決まってしまったのだろう。なっちの放つ強烈なアイドル性につんくが魅了されきっていることは、『LOVE論』を読めば明らかだ。だが、なっちの抱える「不完全さ」をも見抜いていた彼は、なっちの成長を促すプログラムとして、グループとしての活動を強いたのだろう。

8.4.9.共犯関係


彼女は私のことを待っていた。そんな彼女の気持ちも知らないで、私は今までなにをやっていたのだろう。世界がそのかたちを変えてしまっても彼女は私のことを想っていた。どうしてあなたは私のあなたにならないの。私は彼女の愛を受け入れられていなかった。彼女の瞳がぼくを責めたてる。そう、私が、私だけが彼女の味方なのだ。彼女は泣いているようにも見えた。ずいぶんつらい思いをさせてしまった。もう振り返ることはしない。彼女がいる限り、見えないなにかに立ち向かえる。旗を掲げよう。楽園なんてないのかもしれないけれど、私は彼女と共に生きてゆく。彼女とだったら何処へでも行けるだろう。確かに彼女の想いを受け取ったから。

そして私は、次第にソロ歌手としての安倍なつみを受け入れていく。それは、私のなかの「なっち」と本物の「安倍なつみ」との融合を意味していた。

モー娘というのは、少女的エロチシズムを体現できる場でもある。少女であることがモー娘の必須条件であるということになる。モー娘が虚構であるということ、モー娘がいつまでも続いてゆくのだという幻想は、彼女たちの未成熟性によって支えられている。例外的に、特権的に、超越的に、「モー娘なら何をやってもOK」という。モー娘でいる間は、モー娘として振る舞うことが許されている。しかしそれは同時に、歌手としては下に見られるということでもある(ここでの「歌手」とはいわゆる「Jポップ歌手」を指す)。

かつてその集団の中心にいた安倍なつみの、無垢さ。いつまでも子供っぽい、セクシーという言葉とは程遠い彼女だからこそなし得た偉業こそ、モー娘ではなかったか。モー娘を支えているのは、ある種の虚構(セーラームーンエヴァと同質のもの)であり、程よく自立した安倍なつみは、卒業するしかなかった。ここで言う自立とは、モー娘という「無時間性」からの開放を意味する。

彼女に対して、成長しないでくれ、という身勝手な思い込みが、確かにあった。ソロになることで、彼女は大人になってしまったという、失望にも似た感情が、当時の私のなかにあったことを否定しない。

彼女のことが好きな自分なら、自分のことを好きでいられる。彼女も自分のことが好きなんだから、彼女のことが好きな私はつまり「なっち」である。「なっち」子供なら自分も子供のままでいられる。そういう共犯関係が、永久に続けばいいなと、そう信じてきた。

彼女のことを好きになってしまうことに対して、どこか後ろめたい気持ち、罪悪感がつきまとっていた。それは多分、私の想像する理想的、架空の「なっち」が、実体として存在する「安倍なつみ」を越えることは決してないだろう、そう感じていたから、実際に存在する安倍なつみを認められなかったから、そんな自分が許せなかった。

これでやっと、本当に彼女のことが好きになってしまう。これまで、誰かを好きになることが恐かった。逃げ回っていた。だけどもう、どうして彼女のことが好きなんだろうかなんてことは考えない。

8.4.10.孤独と連帯


「自分と他人とが共有され、その境界があいまいになっていく世界」を牽引する、安倍なつみ。彼女は、極めて脆弱だ。だから、笑顔でいる。そのような話を聞いたことがある。

安倍なつみとは、人間の弱さそのもの。私たちヲタクも弱い存在である。だから、連帯するのかもしれない。

そして、なっちは強くなっていく。元来、彼女には孤独ゆえの気高さが漂う。なっちも私たちも、弱いから強くなる。この十年で、私たちはどれくらい強くなってきたのだろうか。「LCL」のなかにいると、わからなくなってくることではある。

彼女ほどの覚悟もない。そんなぼくが彼女を守れるのか。そんなことを考えたこともあった。

ヲタクとは、対象に自己を見出すものであり、なちヲタとは、なっちの映し鏡でもある。個々のなちヲタとは、なっちの代理人でもある。そのような責務を感じなければならないと、私は強く自戒する。

安倍なつみは、よく笑う。そして、彼女が笑うとき、そのまわりの者は幸せや安らぎを感じるという。なちヲタである私もそうだし、仕事で彼女に関わった者の多くがそう言う。決して端正な顔立ちではないし、その笑顔も、顔面をくしゃくしゃにして笑うというようなものだ。そこには、狡猾な計算などがまったくない。彼女に対する評価に、実年齢よりも幼いというものがある。それは、彼女が起こすさまざまな事件などをふりかえってみても明らかである。だから、楽しいと感じたときに笑う、彼女の笑顔をみるとき、自分自身のエゴがなくなっていく、心が浄化されていくように感じる。

彼女の好きな水色。彼女は室蘭という港町で生まれ育った。彼女に対する母親のイメージとは、海そのものなのかもしれない。私にとっての安倍なつみとは、帰るべき場所。それは彼女の魂のありかとでも呼べる場所(ふるさと)だ。ぼくらは海に還ってゆく。

私は、彼女に守られている。そのような世界に生きる。

彼女が傷つくようなとき、私もまた傷つき、そして、励ましあい、互いに生き返る。なっちも私たちも、何度でも生き返ることができる。

孤独からすべてが始まった。ヲタクとは、良くも悪くも自己本位である。そして、世間から揶揄されることが多いことも手伝って、自己とは何かという問いを求め続ける存在でもある。どうせ世間は自分をわかってくれない、などと、ヲタクは自身を孤独であると規定し、萌えという共通のコードにて連帯する。本当の孤独に陥ってしまう前に、とりあえず連帯することで死を回避する。そのような結びつき。そして、すべてを無に戻し、そこから、新たな世界が構築されていく。

世界は、この先どうなるかわからない。けれども、この自分の生きる世界に期待したいという願いから、彼女にすべてを託した。彼女が笑顔でいる限り、私たちの人生は、まだまだ終わらない。

8.4.11.萌えと共産主義


Web2.0の世界では、引用されることは自明である。無数の動画サイトにて広まるコンテンツコピーが、萌えを加速させる。

萌えを語る言葉もまた、コピーペーストされ、無限に広がっていく。

萌えを広めるヲタクの熱意とは、マッド動画まとめサイトはてなダイアリーキーワードの拡充などの、二次創作萌えを生み出すものへと向けられる。そこでは、相当なスキルが要求される。しかも、その多くが匿名であり、その二次創作とは無名の共有資産となる。CGM環境により積み上げられるそれらの資産萌えというキーワードによってなされるやりとり、そして例えばそれらは、インターネットサーバーに蓄積され続けている膨大な記録、その蓄積こそが萌えをかたち作るものである。

萌えとは、資産の共有による理想社会の実現を目指す。そこでは、現状の著作権の限界が露呈する。Web2.0がもたらしたCGM環境とは、トップダウンを否定する。それは、かつて共産主義がめざした理想の世界であるといえるかもしれない。

だから私は、なっちの罪についてその一切を問わない。つまり、「LCL」で融合したこの世界に著作権は存在しないのだ。これこそが、「安倍なつみによる人類補完計画」の正体なのである。

自分というエゴが完全に消失してしまう、ネットワークにより再構成される世界。それは、人類の覚醒のチャンスとなるかもしれない。ヲタクは、新たなる種へと進化していく。現時点では、それはいまだ進化の途中ではある。しかし、それを見逃すことは、人類全体にとっての損失ではないだろうか。

安倍なつみによる人類補完計画」とは、生きる指針であり、人類がネットワークにより何かを変えていく革命なのである。


続き「ロックせよ!」 → id:eal:20080725

参考文献

萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造

萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造

最終兵器彼女 (7) (ビッグコミックス)

最終兵器彼女 (7) (ビッグコミックス)

ALBUM―1998‐2003

ALBUM―1998‐2003

安倍なつみフォト&エッセイ 陽光(ひかり)

安倍なつみフォト&エッセイ 陽光(ひかり)

参考ウェブページ

エヴァ雑記「纏め」1 http://www.style.fm/as/05_column/animesama63.shtml
エヴァ雑記「纏め」2 http://www.style.fm/as/05_column/animesama64.shtml

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