Hatena::ブログ(Diary)

社長の日記

2012-01-24 2011年3月15日(火)を振り返る

3月14日の夜9時頃に避難の決断をし、10時には出発しました。後にこの決断が子供たちの被曝を最小化させる意味で重大な決断であったと確認することとなります。

東京都産業労働局データ(採取地:東京都世田谷区深沢)

3月15日 0:00〜24:00(24時間合計)

ヨウ素(131+132)  1,016(Bq/㎥)

セシウム(134+137)  232(Bq/㎥)

ヨウ素+セシウム   1,248(Bq/㎥)

3月13日AM8:00から測定を開始し、3月15日のAM0:00以前はヨウ素・セシウムの検出は0であったとのことです。

3月15日の24時間平均は1時間当たり52Bq/㎥、成人の呼吸率は1時間当たり1㎥と考えると、24時間で1248Bqを呼吸したことになります。これをシーベルト換算すると0.22mSvとなり、24時間で、1年間の被曝限度1mSvの22%の被曝を呼吸だけでしたことになります。これはあくまでも概算値ですが、3月15日にどこで、何をしていたかによって被曝量は大きく異なります。

私は3月14日の午後10時に東京を出発しましたので、ちょうど放射性核種を含んだ風から逃げるように西に向かったことになります。神戸あたりで、東京でも放射線量が急上昇しているというニュースを目にしました。午後5時ごろ目的地の大分県中津市に到着、すぐに駅前の不動産屋さんで、ワンルームマンションの賃貸契約をして、家族5人の避難生活が始まりました。

東京都産業労働局放射性核種測定データ

2012-01-16 2011年3月14日(月)を振り返る

13:30

2011年3月14日(月)子供たちは自宅待機としました。放射線測定器を持っていればと悔やんでも仕方がありません。正確な情報が政府からもマスコミからも出てこない以上、安全側をみて避難の判断をするしかありません。午前11時ごろ3号機で激しい爆発が発生した模様が映像で映し出されました。福島第一原発全体が制御不能となっていることは明らかでした。福島原発から250kmの距離は、チェルノブイリの事例からいってもまったくもって安全とは言えない、むしろ危険なエリアに含まれていると考えていました。枝野官房長官の会見からは、何かを隠しているという生易しいレベルではなく、危機的なことが進行しているがそれすら把握できていないという恐怖感のようなものが伝わってきました。制御不能となった6基の原子炉と燃料プールが次々に暴走すれば、日本全体が死の灰に覆われることになります。これは、いよいよ子供たちを避難させなくてはいけない時がきたと判断し、午後9時過ぎに最小限の荷物を積み、車で家族5人、1000km先の九州を目指し出発しました。高速道路はまったく渋滞せず、しかしガソリンを入れるための長蛇の列が異様な風景を作り出していました。もう一度東京に戻れるのだろうか、悲しい気持ちに包まれながらも、とにかく西に向かうために、仮眠もとらずに運転を続けました。

2012-01-01 2011年3月13日(日)を振り返る

3月13日(日)、私は現在進行形の原発事故による最悪のシナリオを想定していました。

→仝業周辺の放射性物質濃度が上がり、作業員が近付けなくなる

→⇔箋僂不可能となり、1〜3号機の原子炉、1〜5号機使用済み燃料保管プールにおいて、次々にメルトダウンそして水蒸気爆発をおこす

→K未亘務て擦ら、南は関西まで、大量の放射性物質が拡散し、国民の2/3が深刻な被曝

→て遒愴鯑颪鮖遒澆觀化阿砲茲蝓大パニックが発生

→ナ流は止まり、パニック状態は長期間に及ぶ

リスクマネージメントは常に最悪のシナリオを想定しなければなりません。△涼奮で避難を始めたのでは、被曝リスクと避難パニックリスクを回避することはできません。原発事故は、いつor△両況になってもおかしくない危機的様相を呈していました。私は、インターネットやテレビでの情報収集をさらに徹底し、また、原発の状況を知りえる可能性のある人に連絡をしていました。知り合いの国会議員・区会議員などに連絡を取るも、彼らも全く状況を把握していませんでした。私は、テレビでの管首相、枝野官房長官、保安院・安全委員会のスポークスマンの会見時の表情から、危機の真相を予測するほかないと感じていました。枝野官房長官の会見時の表情は回を重ねるごとに自信のなさを表出していきました。政府トップにも原子力の専門家にも、誰にもわかっていないのだと確信したとき、言い知れぬ恐怖感におそわれました。【つづく】

2011-12-31 2011年3月12日(土)を振り返る

 テレビに目をやると、画面の片隅に大津波警報を示す赤い輪郭で太平洋側沿岸の全域を縁取られた日本地図、海岸付近からの避難を呼びかけるキャスターの姿、そして初めて聞く緊急地震速報の不気味な警報音がひっきりなしに繰り返されていた。地震や津波の被害を読み上げる中で、津波による犠牲者が数名、数十名と報じられていたが、車が走行している道路を軽々とのり越え、農地や住宅地を凄まじい勢いで飲み込んでいくヘリコプターからの映像を目にした瞬間、犠牲者数が万の単位に上るであろうと直観したことを今でも鮮明に思い出します。そして、女川、福島第一・二、東海、東通などの原子力発電所が次々と緊急停止し、その後、福島第一原発の半径3キロ以内の住民に非難を呼びかける枝野官房長官の会見、女川原発での火災等々、原発でも危機的な状況が報道の内容以上に進行しつつあることを感じ取っていました。ひっきりなしに大地を揺るがす東北太平洋側からの余震に、船酔いのような感覚に見舞われながらも、震度3や4の揺れに五感が麻痺されてきたころ、長野県で震度6強の地震を伝える報道に、恐怖感を覚えました。日本全土が揺さぶられている、微妙なバランスを保っていた地殻のクラッシュが始まったのではないかと。

 3月12日、まばらに動き出した鉄道で、何とか下北沢まで戻ってきた長女を車で迎えに行った。下北沢の街では、マクドナルドが通常のメニューは物流の停滞で提供することができていなかったが、パン屋さんなども営業していた。パン屋さんで娘たちが好きそうなパンを買って帰宅した。早朝、福島第一原発の非難範囲が3キロから10キロ圏内に拡大され、原子力発電所正門付近で通常の数倍の放射線量が観測されたとの報道があった。放射性物質が何重もの防護をすり抜け、我々が呼吸する空間に放出され始めたのです。原子炉圧力容器や格納容器の圧力が下がらず、ベントを行うとの報道、いよいよ放射性物質が漏れ出るのではなく、意図的に放出する段階まで危機は進行していました。妻と三人の娘に必要最小限の荷物をまとめておくようにと指示をしました。インターネットで福島第一原発から東京までの距離、風向き、スリーマイルやチェルノブイリでの事故内容と汚染状況等を片っ端から調べて、家族のリスクマネージメントの構築を開始しました。対象となるリスクは「被曝」、最重要ポイントは「避難のタイミング」と設定しました。避難決断の条件は、政府・東電・原子力保安院・原子力安全委員会やマスコミの報道の裏側までを読み取る洞察力、私自身の情報収集と自己責任に裏打ちされた直観、家族の安全を最優先とすること等、ぶれない、流されない決断をすべきと心に誓いました。

 3月12日午後3時ごろ、福島第一原発1号機が爆発する映像が流れました。「炉心溶融(メルトダウン)」という言葉が使われ始めました。枝野官房長官の会見は、何とかパニックを引き起こさないよう、注意深く言葉を選んで行われていました。しかしこれは事の真相を小さく見せようとすることでもあることを見逃してはならないのです。インターネットで風向きを1時間おきにチェックし、水素爆発ではなく放射性物質の大量拡散となる水蒸気爆発の可能性、大気中で観測されている放射性物質の種類、濃度など、調べるほどに状況が悪化していることに、決断の時期が近付いていることを感じていました。【つづく】

2011-12-30 2011年3月11日(金)を振り返る

 3年ぶりの書き込みです。

 3年間、日々の出来事に対して発言することを控えてきました。3月11日の東日本大震災および原発事故に関しても語ることを回避しました。3月11日以前は、語ることのむなしさを深く感じていたから、しかし、3月11日後は、むなしさではなく、まさに当事者として行動することを優先してきたからでした。今でもはっきり思い出すのは、テレビ・ラジオを通しての原発事故に関する情報のいびつさでした。

 3月11日、自宅で妻と三女と届いたばかりのデスクを組み立てていた時、三女が「地震だよ」と、コップの水が揺れているのを見て静かに言いました。その後、揺れは49歳の私が初めて体験するレベルのものとなりました。自宅ビルは10年前に世界最小の制震オイルダンパーを装着しており、その効果を身をもって確認することとなりました。ダンパーが揺れを吸収し、ゆっくりとしたものとなっていることがはっきりわかりました。4・5階の自宅では、テレビや壁に立てかけてあった写真フレームも倒れることはありませんでしたが、ゆっくりとした大きな揺れは、かなり長く続きました。すぐに、次女が中学校からの帰宅時間に重なっていること、長女が大学の合宿で、神奈川の某大学の体育館にいることを頭の中で整理し、長女と次女の携帯に電話をしましたが、全くつながらず、妻と三女を連れて、大崎にある次女の中学校に車で向かいました。途中大きな余震があり、10階建の細長いマンションが互いにぶつかり合うほど揺れていることが目視ではっきりわかりました。これは尋常ならざる事態であることを落ち着いて再認識することと、これから何をなすべきかを頭の中で整理しながら車を走らせていました。中学校に着くと、生徒たちが校庭の真ん中に座っていましたが、次女は、すでに学校を出ていました。無事でいることを祈りつつ、線路沿いに車を走らせ、乗換駅の品川駅に向かおうとしましたが、国道15号に出ると、すでに渋滞の気配が感じられ、このまま品川に向かうと動きが取れなくなると判断し、一旦帰宅することとしました。帰宅し、自宅玄関に次女への伝言を張り紙してから再度線路沿いに次女を探そうと考えていました。帰宅すると、すでに次女は3人の友人と帰宅しており、本当にホッとしたこと、そして次女が品川駅の2階で地震に遭遇し、すぐに友人とタクシーに乗り帰宅、私たちがいないことを知ると、たぶん自分を迎えに行ったのだろうと考え、電話が繋がらないために、近くの小学校に行き、電話を借りて中学校に電話を入れ、自分が無事なこと、そして親が迎えに来たら自宅にいることを伝えてほしいと伝言したこと等の話を聞きました。なかなかしっかりした対応だと感心したことを思い出します。その後、公衆電話のある場所を思い出し、小銭を持って、公衆電話へと走り、長女と、心配をしてメールをくれた地方の知人に連絡を取りました。長女には津波が来る可能性があるので建物の3階以上にいるように伝えました。とりあえず、家族全員の無事を確認してから、やっとテレビの報道に目をやりました。【つづく】

2009-01-05 謹賀新年

 「新年明けましておめでとうございます」とはいうものの、昨年後半からの世界的な経済後退は激震となって日本にも極めて厳しい影響を及ぼしています。

 『泰平の時にのんびりするのは常識ですが、「治ありて乱を忘れず」というのは、この常識を破ることであり、それは政治ばかりでなく、経済、その他日常生活のあらゆる面において必要な心がまえでないか』

 松下幸之助さんの言葉です。経営に対する考え方も時代の移り変わりに応じて変化するものではありますが、変わらない軸となる信念とも言うべきものはあるはずです。MBAに代表されるアメリカ型の経営学には、この変わらぬ軸・信念が希薄であると思われるのです。たくさんの経営指標を駆使して、優秀と言われる人材を多数抱え、行き着いたところがサブプライムローン問題、ビッグ3による公的資金投入のお願い、そして世界中を巻き添えにした恐慌ということでは大きな疑念を抱かざるを得ません。上場に株主本位、ROEROAに一株当たりの利益額にキャッシュフロー、どれも大切なのかもしれませんが、経営の信念と呼ぶほどのものではありません。

 トヨタは「カイゼン」と称して、ムリ・ムダ・ムラを乾いた雑巾を絞るがごとく最小化し、2008年3月期には1兆7000億円にも上る利益を達成しました。しかし、経済環境は一変し、2009年3月期は赤字に転落するそうです。そして、なりふりかまわず、先頭をきって非正規労働者を切り捨てはじめ、トヨタがやるならという事で、自動車産業はもとよりあらゆる産業が非正規社員を切り、今年は正社員にもレイオフの嵐は及ぶ事となるでしょう。いきなりホームレスとなった労働者たちの姿は連日テレビ画面を独占し、更に経済を押し沈める方向に作用しています。もし、トヨタが給料は下げるが雇用は守るという方針をとっていれば、他の大企業もこれほど簡単に雇用を犠牲にすることもなく、ひいては経済もこれほど急落する事はなかったでしょう。トヨタは非正規労働者のわずかな人件費を削減した引き換えに、致命傷とも言える販売台数の激減を自ら招き入れたのだと思うのです。

 トヨタの経営者は自らの世界戦略の好調ぶりに、乱あることを忘れていたのではないでしょうか。口を開けば、「100年に一度の大恐慌」、私の責任ではないと言うがのごとくに。「治ありて乱を忘れず」、平常時に、非常時もまたいずれ訪れ来る事を忘れるなということ、世界のトヨタが、こんなに簡単に労働者を切り捨てる以外の戦略を本当に持っていないのでしょうか。かなりさびしい気持で新年を迎えています。

2008-11-20 P/L と BS

 P/LとBS?一体何のことと思われる方もいらっしゃると思いますが、これは、P/L=損益計算書(profit and loss statement) 、BS=貸借対照表(balance sheet)を意味します。経営者にとって、最も重要な計算書です。サブプライムローン問題が表面化してから、世界中でたくさんの企業が経営難に見舞われています。突然破綻してしまう企業も相当数に上ります。これらの企業は、直近の決算で黒字であった企業が少なくありません。1年間の収入から支出を差し引いて利益の額を算出するのが、P/L=損益計算書(profit and loss statement)です。つまり、破綻直前の決算でP/L上は、しっかり利益を計上していた企業が破綻しているのです。これはなぜなのでしょうか?そこでもう一つの大切な計算書、BS=貸借対照表(balance sheet)の登場です。BSはP/Lほど単純ではありません。バランスシートは、左側(借り方)に資産、右側(貸し方)に負債・資本が項目別に記載されています。左側の資産には、預金・受取手形・所有株式・土地・建物などの会社の財産の状況が示されています。そして、右側の負債・資本には、負債項目として、借入金・振り出し手形・発行社債など、そして資本項目として資本金・利益剰余金など、つまり右側は会社の資金の調達源泉が示されています。つまり、右側の資本・負債で調達した資金を使って、左側の資産を形成しているのです。資産=負債+資本ということです。

 企業の経営はP/Lだけ見ていては片手落ちなのです。たとえば、1年間で製品を10個製造して、原価が800万円/個、売価が1000万円/個で、5個しか売れなかったとします。8000万円の製造原価は支払い済みですが、P/L上は、売上5000万円、製造原価4000万円で、利益1000万円という事になるのです。立派に利益を計上していますが、実際には入金が5000万円、支出は8000万円で、3000万円の持ち出しであるにもかかわらずです。そこでBSを覗いてみましょう。BSの左側の借り方に、製品(売れ残り)4000万円という資産が計上されています。そして、右側の貸し方には、製造のために銀行からの借入金4000万円が記載されています。ここで、売れ残った製品は相変わらず売れ残り、サブプライムローン問題が表面化し信用収縮が起こり、銀行が4000万円の借入金の返済期限に、借り換えに応じてくれなかったとしたら・・・。上記の「製品」を「土地や分譲用のマンション」と読み替えれば、不動産会社がどれほど苦境に陥っているかが容易に想像できます。

 また、BSの左側の所有株式が1億円(買ったときの価格)あり、その取得のため右側の借入金が1億円使われていた場合、株価が半減してしまったのですから、実際の資産の額としては5000万円(時価評価額)で、右側には評価損マイナス5000万円という事になってしまいます。直近の決算で過去最高益を計上していたような銀行が、突然経営危機に陥るのは、P/Lによるものではなく、まさにBS、バランスシートによるものなのです。

 更に、BSの右側の負債・資本で、返済の不要な資本金や利益剰余金の割合を自己資本比率と言います。前出の株で5000万円の評価損を出してしまった企業の自己資本つまり資本金+利益剰余金が5000万円であれば、株価暴落で自己資本が0円、自己資本比率が0%となります。自己資本が3000万円の会社であれば、2000万円の債務超過、破綻状態に陥ってしまうのです。このように、P/L上は利益が出ていても、バランスシート・BSを詳細に見極めていくと、その企業の経営状況がわかるのです。逆を言えば、経営者たる者、利益の額に浮かれ、真に企業の状況を判断する事を怠ってはならないのです。経済状況が悪化すればするほど、バランスシートは毀損され安くなるのであり、景気がよければよいほど、その後襲ってくるバランスシート危機を察知した、バランスシート経営が必要になると思うのです。私事ですが、比金工務店は2年前に過去最高売上・過去最高益を計上しましたが、その時期から、売上を抑制し、よりバランスシートに重きを置いた経営にシフトしました。これが功を奏し、売上・利益は半減しましたが、自己資本比率は40%近くにまで向上し、この大不況の中でも、破綻や倒産のリスクからは程遠い安定した経営状態を保つ事ができています。

2008-10-28 世界経済崩壊

 飽くなき成長のみを追い求める資本の論理が崩壊しかかっています。米国の高度な金融工学(返済不能な低所得者を借金まみれにして、その債権を新しい金融商品と称して世界中に売りまくるというインチキ工学)によって世界中は大混乱です。これまで大儲けをしていた投資会社や金融機関は、儲けた以上の損失を被り破綻してゆきました。また、それまで規制を緩和しろ、自由に儲けさせろ、国家の介入は資本主義の成長の邪魔、などと主張していた米国金融界は、今声をそろえて、国家よ私たちに救いの手を!と、泣き叫んでいるのです。

 さて、はるか彼方の日本はどうでしょう?米国のプレッシャーに負け、預金より投資をというスローガンの下、銀行の窓口で高齢者に退職金で投資信託を販売し、インターネットを使って、サラリーマンや主婦を株のデイトレーダーに変身させてきました。2008年10月27日、日経平均は終値で、バブル後の最安値を大幅に下回り、7000円を切るところまで暴落しています。物知り顔で株式投資をしていた多くの人たちは、多額の損失を被り、茫然自失・・・。竹中平蔵氏が進めた投資立国構想は多くの国民に癒せぬ傷を残しました。構造改革と行政改革を混同してはなりません。天下り、贈収賄、談合、税金や年金無駄遣い、これらを是正する行政改革は断固推し進めるべきです。しかし、資本の論理を野放図に解き放つような構造改革に対して軽はずみに同意してはならないのです。小泉・竹中構造改革による行政改革には賛成、しかし米国型市場原理主義の推進には断固反対するべきです。成長のみを善とする市場原理主義はもう限界に来ています。労働市場の自由化という構造改革は、非正規雇用者という差別階級を大量生産しました。金融の自由化という構造改革は、バブルを生み、その跡には、退職金を失った国民を大量生産しました。

 前回のバブル崩壊時には、米国から押し付けられた、企業資産の時価評価システム(値下がりした土地や株は、売却をしていないのに売却したものとして損失を計上する)により、たくさんの企業が債務超過に陥り、米国のハゲタカファンドの餌食になりました。現在バブル崩壊に見舞われている米国は、卑怯にもいち早く時価評価システムを放棄したのです。米国に追従する事が悪いと言っているのではないのです。資本の論理、市場原理主義のみに偏向した経済運営が間違えていると言っているのです。儲けのみを追求するから、食品偽装も耐震偽装もなくならない、環境破壊も一向におさまらない、食糧の自給率も下落する一方です。資本の論理の対極にもう一つの価値観(正義感と責任感に裏打ちされた社会感の論理)を構築し、この二つの価値観のバランス運営が必要なのではないでしょうか。拡大志向、見てくれの自由、見せ掛けの豊かさからそろそろ、本物の自由、本物の豊かさを追求する時代にきているのではないでしょうか。自由に海外旅行をして真に自由を感じている人はどのくらいいるのでしょうか。日々の暮らしの中で、豊かに、そして奥深く幸福を感じられる人間にならねば、もはや物質的幸福のみを追求していては地球は壊れてしまうはずです。

2008-07-04 インフレorデフレ

 原油価格の上昇が止まりません。

11〜20年前 1988〜1998年の10年間は、ほぼ10ドル台/バレル

10年前   1998年12月01日 10.76ドル/バレル

約3年前   2004年09月22日 26.93ドル/バレル

1年半前  2007年01月18日 50.48ドル/バレル

現在    2008年07月03日145.85ドル/バレル

 1年前の2007年6月には1バレル60ドル代だった価格が本日145ドル代をつけています。たった1年で2倍以上の価格上昇です。2007年1月18日につけた50.48ドルを底に、原油価格は上昇し続けています。2007年初頭からの高騰はそれまでの上昇とは全く違う趣を呈しています。この時期に何が起こったのでしょうか?

 巷で言われているように、アメリカのサブプライムローンシステムの崩壊により、株式市場等に流れていた資金の一部が原油市場に流れ込んだことが大きな原因となっているようです。ここでサブプライムローン問題の推移を検証してみます。2006年末にアメリカの住宅ローン全体の10%以上を占めるサブプライムローンにおいて利払いが3か月以上滞る延滞率が13%を超えたことが表面化しました。2007年3月には大手のニュー・センチュリー・ファイナンシャルが、経営破綻が懸念されるとしてNYSEでの取引が停止され、上場が廃止され、3月末までに連邦倒産法に基づく資産保全を申請した会社は4社、業務停止は20社以上となり、ニュー・センチュリーは4月に連邦倒産法の適用を申請しました。2007年6月には、米大手証券ベアスターンズ傘下のヘッジファンドが、サブプライムローンに関連した運用に失敗したことが明らかになり、問題は金融市場全体に拡大しました。ファンドの中には、資金繰りが悪化して資金の引出を停止したり、解散を決めたりするものが相次ぎ、ファンドは大手金融機関から多額の融資を受けていましたので、問題は銀行を巻き込んだ金融界全体へと拡大していきました。つまり、原油価格が急激な上昇を示し始めた時期とサブプライムローン問題顕在化の時期はぴったりと一致しているのです。

 1年ほど前のデータですが、世界の株式時価総額が約5000兆円、世界の年間原油生産額が約300兆円、株式に投資されていた資金の数%が原油市場に流れ込むだけで、原油価格は暴騰するのです。

 さて、日本はというと、バブル崩壊後のデフレスパイラルの中で、国、地方合わせて1000兆円の借金をし、そのお金を市場に放出してきました。多分、見えない借金まで入れると更に1000兆円、つまり2000兆円規模のマネーを供給してきたのです。世界の株式時価総額が約5000兆円ですから、2000兆円という規模がどれほどの影響力を持っているかは想像に硬くありません。つまり原油の高騰に一喜一憂している場合ではないかもしれません。世界規模の経済後退が始まり、デフレが進行し、これに対応すべく更に世界中で大規模な財政出動が行われ、金利を下げて過剰に流動性を上げようとすれば、更なるマネーの嵐が吹き荒れ、今度こそハイパーインフレ、そしてスタグフレーションというシナリオが・・・。

2008-05-22 サイクロンとアースクェイク

 久しぶりの書き込みです。5月に入って、大変な被害をもたらす自然災害が発生しました。

 今月6日にミャンマーを襲ったサイクロンによる被害状況は現在のところ、死亡者数7万7,740人、行方不明約5万6000人、被災者数250万人。

今月12日中国四川を襲った大地震による被害状況は現在のところ、死亡者数が4万人以上、行方不明3万2000人、被災者数1000万人。

さて、これまでの戦争やテロの被害状況と調べてみると

広島原爆 15万5200人

9.11同時テロの死者数3000人

イラク戦争での各国での死者数

イラク10万人以上

アメリカ1万5000人以上

 ミャンマーを襲ったサイクロンも中国の大地震も、原爆や同時多発テロ、イラク戦争に匹敵する人的被害をもたらしました。自然災害は人類がその意思を持って防ぐ事はできません。戦争やテロは人類の意思を持って発生を回避できるのです。ところがこの回避可能な戦争や紛争には人類は莫大なコストを費やし、同様の甚大な被害をもたらす自然災害には十分なコストを配分していません。瓦礫の下で我が子の死に行く姿を目の当たりにした親の心は察するに余りあります。中国もミャンマーも国民を守るためのリスクマネージメントが不十分であった事は明らかです。日本も同様です。皆さんのお子さんが通っている保育園や学校の耐震性は大丈夫ですか?皆さんの大切な家族を守る住まいの耐震性は十分ですか?子供を失ってから耐震補強をしたって何にもなりません。いつ起こるか、もしかしたら生きているうちには起きないかもしれない、だから、備えが不十分になりやすいのです。しかし、起こってしまったら、大切な家族も住まいも全てを失う事になるのです。国民を守るリスクマネージメントは国家の仕事です。家族を守るリスクマネージメントはお父さんの仕事です。社員を守るリスクマネージメントは社長の仕事です。もう一度、見直してみてはいかがでしょうか?リスクマネージメント!

2008-03-18 資本の論理と成長神話

 アメリカのサブプライムローン問題を震源地とした世界金融パニックが現実のところとなりつつあります。資本の論理に基づけば、経済は成長し続けるしかないのです。しかし、本当に経済は成長し続けることなどできるのでしょうか?答えは「NO」だと私は思っています。限りある資源、人類の拠り所である地球環境、資本の論理はその両方を無視しています。そして、高度に経済成長を成し遂げた先進国で、貧富の差が拡大し続けるという矛盾。

 資本の論理による限りない成長&競争志向は、さながら、コンピューターゲームの攻略と更に難易度を増したバージョンの開発、そして攻略、開発・・・。気が付いたら、開発する側も攻略する側も疲弊し、残ったのは取り返しの付かない虚無感、空虚。

 高度に進化したはずのアメリカの金融商品は、結局、低所得者にまで返済不能な住宅ローンを販売し、それを証券化して売り飛ばすという、リスクの細分化などというにはおこがましい、低レベルなシステムでした。金融商品の開発・販売はバージョンアップを繰り返し、より高利回りな商品が流通する、しかし、その商品はきわめて脆弱で、右肩上がりの住宅バブルが終わった瞬間に、全てが破綻し、残ったのは積み上げられた不良債権の山、そしていかんともしがたい虚無感・空虚・・・。こんな、バブルによる捏造された経済成長と、その後の破綻を繰り返すのが、資本の論理の正体なのです。

 中国の高度経済成長も然りです。極端な成長の後に残るのは、破壊された環境と貧困、経済の破綻と国家の信用の失墜、まさに空虚ということになるのでしょう。国家がこのような空虚に襲われたとき、その空虚を満たすために取る手段は、戦争と相場は決まっています。ナショナリズムで、国民の空虚を満たすのです。

 そろそろ、人類はネクストステージに進むべきです。見せかけの成長ではない、空虚を満たすための短絡的な成長ではない、資本の論理ではない、新しい論理による充足、人類は今まさに、史上最もドラスティックなパラダイムの転換を迫られているのではないでしょうか。

2008-03-11 日銀総裁人事

 日銀総裁の人事で、政府与党と野党がもめています。自民党が提示した総裁候補が財務省出身者であることにより、財政と金融の分離という原則論にそぐわないというのが野党の主たる反対の理由のようです。しかし、日銀総裁に誰が適任であるかは、現在の日本の経済状況、そして世界の経済環境に対する認識と、その内的・外的経済環境に対してどのような金融政策を取るべきか、その考え方によるのだと思います。日銀はとかく日銀の独立性とやらにこだわり、政府や世論が求める金融政策と違う方向に進みたがります。彼らは進むべき方向が正しいか正しくないかではなく、政府見解と日銀の見解が違う事に大きな価値を見出すという、極めて幼稚なレベルで金融政策を決定しているように感じられて仕方がないのです。デフレの認識も、デフレを認めるまでにかなりの年月を要し、反対にデフレ脱却の認識は、デフレの真っ只中にいるにもかかわらず早々に示してしまいました。だから、彼らの金融政策は常に失敗を繰り返すのです。ゼロ金利解除や公定歩合の引き上げ、つまり金融の引き締め政策をデフレの真っ只中で行うという失態を繰り返してきたのです。そろそろ、本物の金融政策を実行できる人材を総裁ににたてないと、不況・デフレ・スタグフレーション・日本経済崩壊という瀬戸際に来ているように思います。自民党は制御しやすい人材を選出し、民主党は自民党案に反対する。結局、国民の側から見ると、民主党の反対行動もいまいち、自民党もいまいちに見えてしまうのです。本物を選び、本物である事を伝えるという、本物の日銀総裁選出が行われていないからです。

2008-02-28 官僚システムが瀕死の状態です

 イージス艦事故に纏わる防衛省の対応が狂っています。石破大臣が官僚の行いの言い訳をしていますが限界点に達したようです。

 ガソリン税に纏わる国土交通省の対応も狂っています。冬柴大臣の答弁もまた限界点に達しました。建築基準法に纏わる対応に至っては、冬柴大臣は官僚の不手際を謝罪するのみです。

 年金問題・薬害問題に纏わる厚生労働省の対応はもはやお話にならないでしょう。最初は勇ましかった桝添大臣の対応も最近はやはり官僚の不手際を身代わりになって言い訳するという顛末となりました。

 この国の行政はすでに常に、官僚の手中にあるのです。この官僚にとってのみ優れたシステムは、政治家がどんなに政治主導を叫ぼうとも、マスコミ・国民がいくらその歪さを訴えようとも、官僚の手中にあることだけは何の変化もないようです。道路公団民営化も、難なく潜り抜け、道路行政は相変わらず道路官僚の手中にあることは証明されました。

 もはや、自民党だ民主党だなどという選択は何の意味もないのかもしれません。政治は大きく国民世論に影響を受けます。ところが、現実の国民生活の行方を左右する仕事を司っている官僚たちは、国民世論に不感症なのです。石破大臣・冬柴大臣・桝添大臣に責任をなすりつけ、大臣が引責辞任をすれば、また何事もなかったようにこれまでと同じことを更に巧妙に繰り返すのが官僚です。その官僚の一人一人でさえこの暗黒のシステムに組み込まれ、改革の意志などいつの間にか無化されてしまうのです。

 今、福田総理大臣がテレビの中でしゃべっていますが、そこに何も期待をしていないのは私だけではないでしょう・・・根本的にこのシステムを新しいものに置き換えない限り、つまり全く別のシステム・組織を前もって作っておいて、一気に移管しない限り、この国の後退は止められないと思います。

2008-02-22 イージス艦事故について

 千葉県の房総半島沖の海上でイージス艦と漁船が衝突した事故で、海上自衛隊が迷走しています。ミスを隠そうと躍起に見えるのは私だけでしょうか?記者会見をする関係者の歯切れの悪い、いかにも何か隠しているような・・・。映像は全てを映し出しています。マスコミはこぞって、嘘を炙り出すのに奔走、いつしか、行方不明の二人の捜索の模様より、海上自衛隊関係者と防衛大臣の失言・失態・矛盾を探り当てる推理番組と化すのです。最近は、関係者の記者会見はその場で嘘をついたか、つかなかったか、その一点に注目が集まっています。記者会見での嘘を見破ることが問題の原因究明とは全くリンクしていない、食品偽装のミートホープ社長のときも、船場吉兆のときも、赤福のときも、姉歯氏の証人喚問のときも、全部同じです。そして、食品偽装も、耐震偽装も発生の真なる原因は今もって報道されてはいません。今回も自衛隊の監視員が漁船の明かりを見たか見なかったか、明かりの色は緑か赤か、そして、それを伝達したかしなかったか、それがすべて解明されても、同じような事故は繰り返されると思います。なぜなら、ミスや嘘を生み出す組織や仕組み、労働環境・経営環境、そして当事者が偽装や嘘に走っていった経緯や心の動きには一切焦点が当てられていないからです。嘘を付くのは民間企業の社長だけではなく、官僚も政治家も同様です。追い詰められたとき、人は自己保身のために嘘をつきやすいのです。従って、大切な事は、追い詰められるような事故や偽装の発生リスクをいかに最小化するのかなのだと思うのです。

 昨日、耐震偽装の姉歯氏に懲役5年の実刑判決が確定しました。姉歯事件を契機に建築基準法が大改正になり、審査が遅れに遅れ、着工件数が激減しています。もちろんこの改正で国民が何の心配もなく高品質な建築が手に入れられるのであればそれはすばらしい事です。しかし、私はこの改正によって、申請書類は立派になって、建設現場での手抜き・偽装がさらに増えると思っています。なぜなら、申請で遅れた工期を無理に現場で取り戻そうとしたり、資材価格が高騰しているのに無理な金額で受注したり、現場で補強変更が必要な場合も、申請をやり直させて工事を何ヶ月も止めなくてはならなかったりと、更に手抜きや偽装が再生産されるようなシステムを再構築してしまったのです。鉄筋を増やす変更も工事を何ヶ月も止めなくてはならないのですから、増やさずに申請通りに造っちゃえという業者は当然出てきます。ますます、良質な建築を造る事が困難な環境が整備されてしまったのだと思います。

2008-02-19 ワンフレーズの落とし穴

 宣伝広告の世界から新規事業の企画書、果ては政治の世界まで、世の中ではあらゆるものをワンフレーズで表現しようと躍起なようです。センテンスではなく更に小さなフレーズという最小単位にまで削ぎ落とされたアピールは、分かり易く伝わりやすいのです。消費者のニーズはどこにあるのか、品質・安全・安心・デザイン・安さ等々の中から、最も消費者の心を捉える強度を持ったニーズだけが生き残り、それが売りとなり、そこに特化した商品が消費者に届けられます。安全で安心でほどほどに安い商品、そんなものは企画の段階で破棄されるのが落ちです。それよりもとにかく安い、びっくりするほど安い、最も安い、他社の類似商品よりも格段に安い、そんな企画が商品化され我々のもとに届けられているのです。とにかく安いのですから、消費者は飛びつく事になります。すると他社はもっと安い商品を打ち出してきます。そうです、「安い」というワンフレーズだけが磨きをかけられて光り輝いているのです。

 しかし、ちょっと待ってください。「安い」以外の「安全・安心・品質・デザイン」などは、「安い」の一点を追及するあまりに、置き忘れられてはいないのでしょうか。私たち消費者のニーズはそんなに単純明快なのでしょうか。食品だって安いに越した事はないけど、なるべく農薬を使わないでほしかったり、遺伝子組み換えのされていないものがよかったり、添加物ができるだけ使用されていないものがよかったりと、本当はたくさんの要望が複雑に絡み合っているのです。ところがワンフレーズを執拗に突きつけられて、そのワンフレーズに従わないと取り残されてしまうような強迫観念を抱いてしまっているのではないでしょうか。建築だって安いに越した事はありませんが、それと引き換えに鉄筋が不足していたり、コンクリートが水と砂ばかりのシャブコンだったりと、「安い」以外の大切な性能が置き去りになってしまいました。消費者に対して、どうして安くできたのか、何を削って安くできたのか、あるいは下請けを値切りまくっただけで安くできたのか、そのプロセスを提示しなくてはならないのではないでしょうか。そして、消費者の側は、きれいなチラシの販売価格とシステムキッチンや玄関の大理石の写真だけをチェックして、数千万円の買い物をするなどという短絡に陥らないようたくさんのフレーズを用意していなくてはならないと思います。

 私は、お客様に対してたくさんのフレーズで建築を提案しています。従って、ワンフレーズではとても表現できないので、きっと分かりにくいかもしれません。それでも、ワンフレーズにしがみついて、他の大切なフレーズをないがしろにするような建築は造れないと思っています。

2008-02-14 経済指標の不思議

 政府が発表する経済指標によると、日本はいざなぎ景気を遥かに超える長期間に渡って好景気を続けていることになっています。バブル崩壊以降、政府が協調する指標は実質成長率ですが、高度成長期に政府が協調していたのは名目成長率です。GDP(国内総生産)には名目GDPと実質GDPがあります。

 たとえば、2005年を基準として、日本経済が

2005年 携帯電話1万円/台で10台売れたとすると、名目GDP:10万円、実質GDP:10万円

2006年 携帯電話1万円/台で12台売れたとすると、名目GDP:12万円、実質GDP:12万円、名目成長率:20%、実質成長率:20%

 しかし、

2006年 携帯電話1.2万円/台で10台売れたとすると、名目GDP:12万円、実質GDP:10万円、名目成長率:20%、実質成長率:0%(物価が上昇しただけで、販売台数は変化なし)

2006年 携帯電話0.8万円/台で10台売れたとすると、名目GDP:8万円、実質GDP:10万円、名目成長率:-20%、実質成長率:0%(物価が下落しただけで、販売台数は変化なし)

となります。つまり、実質成長率が同じ0%でも、名目成長率が-20%と+20%の違いが出ました。

1980〜1990年 名目GDP<実質GDPかつ名目成長率>実質成長率

1991〜1993年 名目GDP>実質GDPかつ名目成長率>実質成長率

1994〜1996年 名目GDP>実質GDPかつ名目成長率<実質成長率

1997〜1997年 名目GDP>実質GDPかつ名目成長率>実質成長率

1998〜1998年 名目GDP>実質GDPかつ名目成長率=実質成長率

1999〜1999年 名目GDP>実質GDPかつ名目成長率<実質成長率

2000〜2007年 名目GDP<実質GDPかつ名目成長率<実質成長率

 以上のことから、どうも少なくとも「名目成長率>実質成長率かつ名目・実質ともにプラス成長」がデフレ脱却のシグナルであり、好景気とはこの状態が3年以上持続した状態であるのではないかと思うのです。そういう意味では、バブル崩壊以降「名目成長率>実質成長率」となったのは、1997年の1年間のみ、その後1998〜1999年は名目・実質ともにマイナス成長、2001〜2003年は名目がマイナス成長、1998〜現在まで常に「名目成長率<実質成長率」という状況です。これで、デフレを脱却し、いざなぎ景気を超える好景気が続いていると言えるのでしょうか。そんなに好景気が続いているのに、国・地方の借金は増え続けているのですから、おかしな話です。政府は一方ではいざなぎ景気を超える好景気をアピールし、一方ではかつてない財政難をアピールする、理解不能の日本経済です。そして、一般国民は、好景気の実感どころか、社会保障・税金の負担増と給料の下落という狭間で、政府の好景気アピールを冷ややかな眼差しで見つめる以外になす術もないのです。

2008-02-13 中国、そして日本

 中国の毒入り餃子が社会問題となっています。毒入り餃子事件がどのような結末になるのかについてはわかりませんが、この問題を契機に中国という国について考える事、そして日本という国について考えること、つまり、問題をこの二つの論点で考える必要があると思うのです。

 中国という国のこと

 「別冊宝島1508号−選手も観客も命がけの北京五輪」という本を最近読みました。この本の情報を鵜呑みにするのは危険な事かもしれませんが、これまでの中国の経済発展の歪が想像を超えるレベルで蓄積されていることは読み取れるような気がします。1980年代に始まる小平の「改革開放」、「社会主義市場経済」という基本路線のもと、1989年の天安門事件で一時停止を余儀なくされたものの、中国はこの約30年間経済成長の道を直走ってきたのです。地域間格差や個々の貧富の差は限界点をすでに超えていると思われます。セイフティーネットなどの整備はほとんどなく、開発による立ち退きで生活の拠点を失った人々、ただ同然の賃金で過酷な労働を強いられる人々、人間としての最低限度を下回るような生活水準に陥った人々など、もはや国民というよりは難民と呼ぶにふさわしい人々があふれかえってしまっているのです。資本家による労働者からの搾取をなくすための社会・共産主義はどこへやら、搾取の嵐は限界点を超えています。北京オリンピックのためのインフラ・施設建設なども、奴隷のような条件で雇われた労働者が作っているのですから、安全性などを問うレベルではないのかもしれません。小平理論による「先に豊かになれる人が豊かになり、豊かになった人は他の人も豊かになれるように助ける」からは程遠い地点に現在の中国はいるのだと思います。蓄積された歪は歪の大きさの分だけ反発力を持っています。想像するに中国に蓄積されている歪の大きさは世界に激震を与えるほどの力を持ってしまっていると思われます。

 日本という国のこと

 バブル崩壊から、経済不況、デフレという流れの中で、日本はコストダウンという言葉の意味を履き違えました。製造現場をしらないMBAを取得した経営のプロが主導する経営理論のもと、経費削減・コストダウンは、安全や品質を無視した机上の空論に終始したと言わざるを得ません。偽装によって鉄筋を削減してコストダウン、リコールを隠してコストダウン、消費期限切れの食材を無駄なく使用してコストダウン、この手のコストダウンは皆さんがご存知のように枚挙に暇がありません。中でも、生産拠点を中国に移転しての人件費削減によるコストダウンほど、論理的に立派に見えるが、本物のコストダウンから遠いところのものはないと思います。月給数千円で中国人労働者を使いたい放題で、コストダウンをしたと言っているのですから底が浅いと言わざるを得ません。そして中国から合法的に受け入れた研修生を国内の生産現場でも数万円の月給で働かせているという現実も相当数あるようです。雇用主はそのようなことでもしなければ、要求される金額では生産できない、そしてみんなやっていることと開き直ります。そして、そのような偽物のコストダウンのつけは、耐震強度の足りないマンション、危険な車、安全性を失った食品、等々、結局消費者にめぐってくるのです。きれいに陳列された商品の中から、一番安い物を何も疑わずに買っていれば安心なんてあり得ないのです。その商品がなぜそんなに安い価格なのか、本当に安全なのか、消費者自身が購入する商品の生い立ちを想像し、あるときは調査しなければならないのだと思います。なぜなら、被害を受けても誰も助けてはくれないのですから。

2008-02-08 年金問題

 年金問題が世の中を騒がせて久しいわけですが、問題が非常に矮小化されているように感じます。本来、少子高齢化が加速度的に進むこれからの日本において、これまで通りの年金システムが維持できるのか、もし、正確に予測した上で維持継続困難であれば、年金システム自体にどのような決着をつけるのか、そして新しい社会保障制度をどのようなものにするのか、まさに政治家や学者の知恵・アイディアの見せ所であったはずです。ところが、いつのころからか、社会保険庁のずさんな年金記録の取り扱いに対する批判とその対応に関する話になってしまいました。今日も社会保険庁がカラオケセットを買っただ捨てただ、野球の道具を買っただどうだと、国会もニュース番組もそんな話ばかり・・・。年金システム自体がすでに行き詰まっていることを社会保険庁も政治家も学者もニュースキャスターも国民も気づいているはずです。年金記録問題が全て解決し、社会保険庁が無駄遣いした分を弁償しても、間違いなく年金問題は全く解決することはありません。そろそろ政府はきついだろうけど、年金制度はもう駄目ですと、正直に国民に白状しなくてはならないと思います。舛添大臣は、年金記録問題を解決するために大臣になったのならば、少しがっかりです。

 国会の議論を聞いていると、苦笑いを禁じ得ません。ガソリン税に関しては、必要な道路をつくるためだと言いながら、もっと必要なものに関しては、財源がないから応じられないと言う。社会保険庁の件だって、国民の大切な年金を預かっていた記録を無茶苦茶にしておいて、その収拾にいくらでもお金をかけてもいいなら、期限内に解決できますがと開き直る。そもそも、こんな政府と行政に、老後の生活まで面倒見てもらえると本気で信じている国民がいるのでしょうか。少なくとも私は、いくら年金を払っても私が70歳になったときに、安心して生活できるような年金が支給されるとは全くもって思っていません。もらえたらラッキー、もらえなければ詐欺にでもあったと思って諦めるしかないでしょう。人の金を預かって、預かっていた記録を捨てちゃうような奴らに、老後の生活を委ね続けるなんて馬鹿げていますよ。

 そろそろ、年金システム自体が少子高齢化による人口構成の変化によって根本的に成立しないということ、従ってこれまでの年金システムに決着をつけなくてはならないということ、そしてこれからの社会保障をどうするのかということ、この三つの難問に本気で向き合わなくてはならないタイムリミットが近づいていると思います。

2008-02-05 サイト M&A

 企業のM&Aが日常化して数年が経ちますが、最近はインターネット上のサイト(ホームページ)のM&Aが話題になり始めています。数万円から数億を超えるサイトまで出てきているようです。不思議なようですが、これは当然の事かもしれません。一等地に建つ商業ビルは購買者を大勢集める事ができるから破格の値が付くのです。消費者の購買行動がネット上に移動し、今や一等地に立つ商業ビルの集客を上回るほどのサイトも存在するのですから、そのサイトが土地やビルよりも高い値が付くのは当然の事かもしれないと思うのです。私の会社も、10年ほど前までは、地元の繋がりや口コミ、直接の来社による集客がほとんどでしたが、今では、インターネットのホームページを御覧になったお客様からのお問い合わせが全体の80〜90%を占めるに至っています。日常雑貨から家電製品まで、購買の際にインターネットからの情報収集を全くしない消費者はかなりの少数派になっているはずです。子供の習い事も、お父さんのゴルフ用具も、インターネットで調べてからという消費者が大多数になっているでしょう。大切な財産であるマイホームや収益アパート・マンションの建築に至っては、まずインターネットで各社のサイトを調べて、それから、実際に興味を持った企業にコンタクトを取るというルートがほとんどではないでしょうか。比金工務店のサイトも平均で約120セッション/日、600ページヴュー/日程度のアクセスがあります。これはすごい数で、これだけの見込み客と直接コンタクトを取ろうと思ったら、どれほどの人数の営業マンが必要になり、どれほどの経費がかかるかわからないぐらいです。最近は携帯サイトの比重もかなり高まっているようですので、消費者の情報収集手段はさらに進化していくと思われます。私は、これまでもそしてこれからも、サイトを通して、お客様にとって有意味な情報を発信していきたいと思っています。

2008-02-02 自問自答 子育てとは?

以下中日新聞の記事です。

過熱する中学受験<上> 表れたひずみ 親も公認塾優先 授業ボイコット

2007年7月10日 中日新聞

 首都圏の今年の私立中学受験者が五万八千人(推定)と過去最高となった。「合格」へは厳しい受験競争を戦わねばならない。一方で、その激しさは子どもたちの心に数々のひずみを生み、学校現場にも負の影響が出ている。過熱する中学受験の現実を紹介する。 (井上圭子)

 「みんないいの? このままで」。受験熱が高く、クラスの児童の七割以上が中学受験を控えていた東京都中央区の公立小学校六年の学級担任は昨年末、子どもたちのバラバラぶりを見かねてこう問いかけながら、思わず泣いてしまった。

 「バカらしい」という態度で授業を妨害する子、嫌なことがあると机をひっくり返す子、受験のストレス発散に学校の花壇の花を全部掘り返す子。小学校生活最後の思い出となる修学旅行さえ「模試の前だから」と欠席者が出た。

 受験を控える児童のほとんどは受験塾に通う。ほぼ毎日だ。保護者も「塾で疲れてるから宿題は出すな」「授業中は寝かせとけ」「インフルエンザが怖いから一月は学校を休む」などと平然と言ってくる。塾の保護者会には行くのに学校の保護者会には全く来ない。受験しない子も「どうせ私はバカだから」と自暴自棄に。学級崩壊状態だった。

 保護者も必死だ。「この受験に落ちたら人生終わり」と泣きじゃくる女児は「あんたが落ちたら塾に払ったお金どうすんの!」と母親に脅されていた。親からサッカー禁止令を出されたサッカー少年は、放課後「五分でいいから遊ばせて」とすがってきた。

 受験勉強に集中するため授業を聞かない、宿題しない、行事に参加しないのは保護者も公認だ。「小学校生活最後の年に『このクラスでよかった』という思い出をつくってやりたい」との担任の思いは最後まで通じなかった。

 一方、入試に落ちた子が入学してくる公立中学校も苦慮している。一昨年、生徒の八割が学区外からの入学という都心の中学校で一年生を担任した教員(47)は「受験失敗の後遺症ケアで疲れ果てた」と話す。

 「『偏差値の低い私立に行って恥をさらすよりは名の通った公立へ』という子の集まり。社会性は身に付いてない、協調性もないがプライドは高い」

 問題行動を起こす。ホームレスに石を投げたり、遠足で乗った電車内で他の乗客に傍若無人ぶりを注意され「うるせえババア」と暴言を吐いたり。「指導しても無表情、無反応」

 「砂漠に水をかけるような無力感。向かってきた方がまだやり方はある。五感を磨くべき小学生時代に受験勉強一辺倒で、ママがいないと動けない。受験が終わった時点で燃え尽きている」とこの教員は話す。

 第一志望校に入学できても挫折が待っていることもある。小学生時代は明るいスポーツ少女だった東京都杉並区の女生徒(15)は、一年生の一学期に不登校になった。「皆ブランド物で固めていて、新しい服を着ていくと『どこの?』とチェックが入る。付属小学校出身者との溝も深い。疲れちゃった」

 地元の公立中学に入り直したが、立ち直るのに二年かかった。「合格」することに気を取られ、入学後の子どもの学校生活まで思いがいかなかった。母親は「受験期は、塾への投資を取り返さねば…と悩乱状態で冷静に物事を考えられなかった」と悔やむ。

 塾の「合格体験記」には華やかな体験が並ぶが、その背後にはこうした受験の影が広がる。

 この記事を読むと、受験の低年齢化と過熱状態にはますます拍車がかかり、負の影響もかなり出始めているようです。私にも3人の子供がいますが、然したる子育ての哲学を持っていたわけでもなく、子育て論を組み立てる努力をしたわけでもなく、ただただ、自営業の特権として子供と共に居る時間をできるだけ長く取り、成長の折々で、何かを伝えられたらいいなぁ・・・そんなことを考えながら、過ごしてきました。

 子供を持つまで、受験のことなんて、浦島太郎のように30年以上前の認識、それも微かな記憶がある程度でしたので、友人の子が○○大学の付属小学校に入学したなんて話を聞いたときには、すでに長女は小学校に入学してしまっているという有様でした。長女の同級生が次々に塾に通い始め、中学受験の準備を始めているという話を聞いて、初めて自分の中で子育て論を組み立てては壊しという思考作業を繰り返し、一つの方向性を打ち立てました。それは、世の中の大きな流れとなった低年齢化された受験競争からは距離をおき、学問と併走しながらも、スポーツや音楽や芸術にも高いレベルで係わっていくというものでした。

 以下の文章は、長女が小学校4年生(平成14年)で、地域のバレーボールチームに通い始めた頃に、書き留めておいた私なりの子育てマニフェストです。中学受験をなぜさせないのか、だったら、それとは違う方向とはどんな道なのか、そんなことを自分なりに整理し、子育ての道しるべとして、そして将来子供たちに読んでもらうために書いた文章です。

 古代ギリシャのタレスは「万物は水である」と言った。アナクシメネスは「万物は空気である」と言い、アナクシマンドロスは「万物は無制限なものである」と言った。西洋の思想史を紐解いてみると、そこには、「世界=知」に対する欲望を読み取らずにはいられない。これは、「世界」又は「存在」のすべてを人間は知り尽くせるのであるとする哲学の根源と言える。しかし、世界をすべて認識することなど、やはり神にしかできない業である。小さなころから塾に通い、小学校から受験をし、大学では東大に合格したとしても、知り得た知識は、世界そのものからすれば、爪のあかほどにも満たないのである。今の日本の現状を見れば更に明らかとなる。東大を出て、官僚になって、不正を働く輩は言うに及ばず、政治家も官僚も大企業の経営者もエコノミストも皆、一流大学を出て、海外留学まで経験し、マルクスもケインズも読んで勉強してきたはずなのに、デフレひとつも解消できないでいる。難しい試験に合格しつづけてきたはずの銀行の役員も、増えつづける不良債権の前にただ立ち尽くすだけである。

 ここで思い浮かぶのがニーチェである。ニーチェは、「世界=知」よりも更に大きな構図として、それを包含する「生」を浮かび上がらせた。人間が得られる知や認識を超越する「生」の躍動感・存在感。

 そして、「absolute:絶対的・完全なるもの」に対して、「tentative:その時々の状況に応じた輝ける生のありかた」の強調。我々が対峙している環境も時々刻々と生成変化し、その状況に対して、自分の「生」を精一杯輝かせられるような生き方。これは、埃をかぶった受験一辺倒の教育では決して実現できない新しい生き方である。

 終身雇用・年功序列・学歴偏重のすべてが崩壊し始めた今の日本で、相変わらず受験勉強のみに我が子の道を特定してしまって大丈夫なのか、新しいパラダイムの中で子供達は本当に生き延びていけるのか、そんな思いに捕らわれるのは私だけだろうか。

 時々刻々と変化しつづける世界に対して、果敢にチャレンジし、目の前に立ちはだかる問題に、ソリューション(問題解決)を策定し実行する、いや、むしろ自分から、いまだ明らかにならない問題を掘りあて、それに対する解決を試みる。これからの子供達、いや我々大人にも、本当に必要なのは、何をどれだけ知っているかとか、覚えているかではなく、問題解決能力(ソリューション)ではなかろうか。勉強がインプットだとすると、アウトプットは、試験問題を解くことではなく、実社会での問題解決における実践なのである。

 子供が、毎日のバレーボールの練習を通して、仲間との連帯やフリクションの中に身を置き、自分自身の課題に向き合うとともに、チーム全体の課題にも取り組む、更に、対戦チームを想定して課題を解決する。試合になれば、シミュレーションとは違う状況が次々に襲ってくるが、その状況ごとに精一杯のパフォーマンスを見せてくれる、そんな姿を見て、これを自ら楽しいと感じ、自ら上達したいと念じ、やらされるのではなく、まさに自ら探求していくことができたら、それは、生きる力の強靭な礎となるに違いない。

 私は、この5年前に書いた子育てマニフェストを時折読み返しては、たくましく成長しつつある子供たちを見て、ホット胸をなで下ろしています。子育てに正解や成功マニュアルなんてありません。家庭の数だけ子育て論があると思います。しかし、その子育て論の主役が子供でなくてはならないということだけは間違いないと思います。

品川区立大崎中学校バレー部

立会アタッカーズ 地域小学生バレーボールクラブ

2008-01-31 今度は薬物混入餃子

 中国で生産された加工冷凍食品の餃子を食べて、激しい食中毒に見舞われるという事件が発生しました。この冷凍餃子から、殺虫に使う有機リン系のメタミドホスという薬物が検出されたとのことです。5才の女の子は一時意識不明の重態に陥ったとのことで、食品の衛生管理による食中毒ではないことは確かだと思います。

・メタミドホスとは?

主に殺虫のために使用される有機リン系の農薬で、日本では農薬として登録されていない。厚労省によると、中国では使用されていたが、今月に入って製造と使用が禁止された。

中毒症状としては、神経が異常に興奮状態となり、吐き気や発汗、瞳孔の縮小などが現れる。ひどい時には呼吸障害から昏睡(こんすい)となり、死亡に至る。

・チェック体制は?

野菜そのものの農薬使用に関する規制と検査は行われ始めたようだが、加工食品に関しては全く行われていないようである。

・中国の天洋食品という会社の製品だけが危ないのか?

ある専門家のインタヴューで、日本のメーカーからのコストダウン要請が厳しくてやっていけないという中国食品会社の話が紹介されていた。ミートホープと同じである。つまり、中国の会社のみならず、日本の会社ですら、偽装や安全を置き去りにした食品を製造しているのです。これは、製造していた会社だけをいくら処分しても解決はしません。

 JTの記者会見を聞いていると、とにかく回収する、農薬のチェックはしていなかったとのこと。あなたたちが製品の仕様を決め、食材を決め、調理法を決め、価格を決めて中国の会社に製造を委託したのではないのですか?おいしくて評判がよく、販売が好調なときは、私たちJTはすばらしい、だけど食べた子供が意識不明になったときは、製造した下請けが悪い、そんなの通用しないし、通用させてはいけないと思います。ミートホープの事件もミートホープだけが倒産して抹殺されてお仕舞いです。格安バスツアー事故も同じ、バス会社だけが制裁を受けて終わりで、企画・販売した旅行会社はそのまま。そして、結局痛い目にあうのは消費者です。しかし、とにかく安いものをほしがってしまったのが私たち消費者であることも事実です。

 これから次々に回収商品がJTのみならず、他社からも出てくると思います。安全で安心なものを消費者に届けようとしたら、これだけ軒並み一流企業の多数がこぞって中国の下請けに作らせるわけはありません。そして、安心・安全にコストをかけた商品が売れていれば、中国で作る必要なんてないし、安心・安全を売りにするのであれば、メイド・イン・ジャパンにするはずです。安いものしか売れないんです。消費者が安いものしか買わないのです。コストダウンなんて立派なことを言っていますが、結局は食品の安全なんて全くわからないような素人担当者が、値切っているだけなんです。食品もバスもマンションも、販売する会社はきれいなパンフレットを作って、テレビコマーシャルをして、実際に作っているのは丸ごと下請け、それも製品知識のないような素人担当者が値切って発注しているという構図は、業界を問わず蔓延しているのです。

 市場による競争原理がより豊かな暮らしを作るとするならば、市場競争の種目には、価格だけでなく安全や安心や耐久性などの項目も競わなければならないのです。そして企業に安全や安心を競わせることができるのは私たち消費者だけなのだと思います。そうしなければ、加工食品の材料となる無数の食材の検査を全数検査しなくてはならなくなります。そうしたら、餃子は1個1000円なんてことになりかねません。材料や作る人の人件費より、検査にかかる費用が何倍にもなることは間違いありません。

 薬害・年金・食品偽装・農薬混入食品、何か起こるたびに厚生労働省の舛添大臣がテレビに出てきて省の対応について説明していますが、行政は本当にあらゆることから国民を守れると考えているのでしょうか。そして国民も本当に行政が薬も年金も農薬も偽装も全てチャックしてくれて国民は何も考えずに、より安い物を買っていれば安心なんて時代が来ると思っているのでしょうか?私は不可能だと思います。国民から預かった年金のことすら正確に記録し管理できず、挙句の果てに運用損に無駄使い、これで私たちの老後は安心だと思う国民がいるはずがありません。老後の安心も衣食住の安全も、行政頼みで獲得することなどできません。以前にも書きましたが、これからの行政の仕事は国民に対する情報の提供なのです。中国の野菜・食肉の管理・検査のレベルはどのぐらいなのか、農薬の使用状況はどうなっているのか、タミフル服用のメリット・デメリットは、バスツアーの安全運行状況はどの程度なのか、国民を守るために有益な情報、資本の論理だけではなく、安全や安心を守るために必要な情報の提供がこれからの行政の仕事なのではないでしょうか。国民が自分の責任で、大切な子供に食べさせる物を選択し、大切な家族の暮らしを守る住まいを手に入れるために、国民自身が判断をするために必要なのは、行政の判断ではなく、判断をするための公正で事実に基いたデータなのだと思います。危険な農薬を使っている可能性があるけど安いから食べるというのはもはや国民の判断だと思うのです。今はリスクがあることすら知らないで、食べているのです。中途半端な規制やチェックで安全な振りをされるのは御免です。リスクはリスクとして知らせてくれる行政の方がずっと頼りになります。天気予報と同じです。雨か晴れか曇りかはっきり判断してほしいなんて思いません。晴れって言われて、予想が外れてずぶぬれになるぐらいなら、雨の確率は30%です、傘を持って行くか持たずに行くかは自分で決めたほうがいい、行政は不確実なことはなぜ不確実なのかという情報を提供してほしいのです。

2008-01-30 耐震強度偽装の後は大臣認定偽装

 2005年11月の姉歯氏による耐震強度偽装事件は、その後別の構造設計者でも同じような偽装が発覚し、また、偽装ではないにしても耐震強度が不足している建物が多数見つかるなど大きな社会問題となりました。土木・建設業界の現場での手抜き工事は昔から時折報道されるなどしていましたが、設計段階での一級建築士の偽装の発覚は姉歯氏が最初であったと思われます。設計も施工もあてにならないというレッテルを貼られた建設業界ですが、今度は建設資材での偽装が次々に明らかとなっています。これは、建設資材の耐火性能等の大臣認定にまつわる偽装で、大臣認定を受けるために申請した建設資材の仕様と実際に試験を受ける仕様を試験に合格しやすいようにごまかしてしまったというたぐいのものです。この大臣認定の不正取得が明らかとなった企業には、ニチアス東洋ゴム工業トヨタ自動車・コニシなど東証一部上場企業がずらりと名を連ねています。もうこれは建築資材性能試験の替え玉受験であり、「偽」はここまで侵食していたのかといった思いです。これも多分今に始まった事ではないのでは、と思えてしまうのは私だけでしょうか。

 製紙会社も食品会社も建設関連会社も、製造も販売も、大企業も中小企業も、偽装に関しては、この業界だけは大丈夫だとか、大企業だけは大丈夫だとか、そういう安心・安全の括りは存在しないのだと思います。以前のブログにも書きましたが、厳しいようですが消費者自身が、極めて鋭い選球眼を持つ以外に、安心・安全を手にすることはできないのだと思います。誰から、どんな品質のものを、いくらで買うのか、常に企業・人・物を見分け、見抜く力をつけなくてはならないのだと思うのです。もし、消費者が購入する全てのサービス・商品についてそのミクロのレベルまで行政に頼るのであれば、一人の消費者に何人の行政官が必要になるか見当もつきません。

耐震強度偽装事件の復習

耐震強度偽装問題に関する考察

建築づくり 失敗しますか? 成功しますか?

2008-01-29 地球温暖化とマルクス

 「資本論」、言わずと知れたマルクスの著作です。社会・共産主義国家、ソ連・東欧諸国の崩壊によって、マルクスの地位は極めて貶められたというか、最近では参照される事もほとんどなくなってしまったように思います。私は現在45歳、1960年代の左翼思想に基く学生運動が盛んだった頃はまだ幼少期で、思想的影響を受けるどころか、その頃の事は記憶にすらありません。そして、ベルリンの壁の崩壊に代表されるソ連・東欧諸国の挫折は目の当たりにしましたが、それがマルクスの理論の矛盾として捉えてはいませんでした。マルクスの理論と現存していた社会・共産主義国家は私の中ではイコールではありませんでした。

 まず、マルクスは封建的奴隷的経済システムから資本主義的経済システムに移行し、その後、ブルジョアジーの搾取に対してプロレタリアートが蜂起して、「社会化された生産方式の経済システム」に移行するという弁証法を展開しました。つまり、商品経済が貨幣を生み、生産手段のブルジョアジーによる独占が、剰余価値を生み、剰余価値が資本と搾取の蓄積を生むという資本の自己増殖と貧困の同時増殖が行き詰まったときに、「社会化された生産方式の経済システム」というフェイズに到達するとしたのです。しかし、現存していた社会・共産主義国家はどれも、封建的経済システムからいきなり社会・共産主義に移行したものであって、マルクスの言う経済システムの弁証法とは全く違うという認識を持っていました。従って、マルクスはいまだに私の中では知の大巨人ですし、資本論は今もって偉大な著作であると思っています。

 マルクスは資本と貧困の蓄積というアポリアによって、「社会化された生産方式の経済システム」に移行するといい、資本の論理だけでは世界は行き詰まるとしたのです。今、世界は、まるごとの資本主義化によって、地球温暖化という共通のアポリアを抱えることとなりました。二酸化炭素の排出量の規制とは、資本の論理とは全く違う論理を構築しなくては成立しえません。今、世界はマルクスの言ったとおり、資本の自己増殖にストップをかけ、全く新しい価値観に裏づけされた「世界化された生産・消費システム」を構築しなくてはならない局面にきているのではないでしょうか。資本の自己増殖が貧困の同時増殖を生むというマルクスの論理は、資本の自己増殖が貧困の同時増殖のみならず、地球環境の破滅を加速するという論理に発展したと考えられると思うのです。そして世界は、共通の認識に立脚した自制的な生産・消費システムを構築する以外に、人間が生存可能な地球環境を守れないということだと思います。つまりマルクスの弁証法は挫折どころか、着実に進行しているのであって、資本の論理を超克する以外に人類のサバイバルはありえないというマルクスの弁証法の最終局面に私たちは立ち合っているのだと思うのです。

2008-01-28 杉並区立和田中学校の試み

 2003年4月から杉並区立和田中学校校長に就任した藤原和博氏が、公教育の分野で次々と新しい試みを行なっています。藤原氏はリクルート出身で、民間で特筆すべき様々な実績を持つ人物です。そんな人がなぜ、教育、それも公立中学校の校長という仕事を引き受けたのか、不思議なようですが、私はなんとなく分かるような気がするのです。私も会社を経営し、日々ビジネスの場で思考をしてきたのですが、子供が成長していく過程で、教育とはどうあるべきかということを否が応でも考えるようになる、そして、ビジネスを追い求める中で、次の世代のことを考え始める年齢に達し、次世代を託すことになる子供たちのことが気になってしょうがなくなるのです。そして民間で生き続けてきた私にとって、私立学校は民間企業経営をする自分と同じで、常に他との差別化を追及する、個の探求なのだと思うのです。ところが公立学校の改革は、一つの学校で成果が出せれば、日本中の公立学校に波及するという普遍性を持つと考えられるのです。藤原氏は和田中学校を「私立のような公立」、「私立でも公立でもない志立」という表現で、目指す改革の姿を表現しています。様々なチャレンジをされているのですが、今回の「夜スペシャル」(成績上位生徒に対して民間予備校との提携による特別授業の提供)が最も反発を受けているようです。反対派は、成績上位者だけの特別待遇ではないか(和田中では成績下位者、中位者には土曜寺子屋などの補修授業を行なっている)、均一性が基本の公教育からの逸脱である、等々の理由でこの試みに反対しています。しかし、常に私立よりも劣る教育しか提供できないのであれば、公立中学校なんてなくしてしまって、公立にかかっていた予算を私立に全て渡して、全ての子供がどの私立でも無料で教育を受けられるように教育バウチャー制度を作って、教育は私立に任せるべきだと思うのです。そうでなければ、経済的に恵まれない子供たちは常に裕福な家庭の子より劣った教育しか受けられないということになります。これこそ教育の平等性を著しくゆがめることになるのではないでしょうか。

 私も2年前から、公立中学校の部活動の再活性化による文武両道の実践を学校と地域が協力して行なうという提案をし、実際に活動しています。教育委員会・学校・地域が一体となって、部活動を活性化させるという試みです。公立中学校の部活動は、教員の業務の多忙化や、少子化による部員の減少などによって壊滅的な状況になっています。それを様々な試みによって、活気あふれる部活動をもう一度何とか学校に取り戻したいと思いお手伝いをしています。協力させてもらった部活動は、全国大会にも出場するという成果を出し、今では他の部活動も活発化し、学校の放課後は驚くほど活気あふれるものとなりました。校長先生をはじめ、先生方が多忙な業務にもかかわらず、部活動をサポートしてくださり、我々地域の人間も協力をして、とても素晴らしい雰囲気になっています。学業のほうにも相乗効果が出始めているようで、目指す文武両道に近づいているようです。今後は、この試みが、他の学校にも広がるようにお手伝いをできればと思っています。公立中学校ですので、和田中と同じように、批判や反対はありますが、この学校の3年前の姿と今の姿を比べれば、建前論や原則論では、決して教育の進化は実現できないことが分かってもらえると思います。和田中の試みも他の公立中学校にどんどん広がってくれればいいのですが。

杉並区立和田中学校

品川区立大崎中学校バレーボール部

2008-01-26 貸し切りバスの悲劇

 昨年、大阪府吹田市で、スキー客ら27人が死傷したバス事故で、道路交通法違反(過労運転の下命)と労働基準法違反(長時間労働)の罪に問われていた「あずみ野観光バス」(現ダイヤモンドバス)の社長下総建司被告(40)と妻の判決が25日、大阪地裁であった。千賀卓郎裁判官は「安全より利益を優先した責任は重いが、旅行会社から無理な配車を要求された面もある」と述べ、被告に懲役1年執行猶予3年(求刑懲役1年)を言い渡しました。

 この事故で乗務員1名が亡くなっているが、この乗務員は社長の三男(当時16歳)である。更にこの事故を起こした運転手が社長の長男(22)で、業務上過失致死傷罪の有罪が確定となっている。

 判決によると、下総被告らは事故前日の2007年2月17日、運転手の長男が過労で正常な運転ができない恐れがあると知りながら、長野発大阪行きの大型バス運転を指示したという。その日までの約1カ月間、長男や乗務員3人に1日の法定労働時間(8時間)を2〜11時間超える時間外労働をさせていたという。

 法律どおり2名以上の運転手を乗務させ、規定労働時間を守った安全な運行ができるような金額が旅行会社から支払われていたのでしょうか。そして、その旅行会社は、安全運行が可能な金額を適正に算出したうえで、ツアーの販売価格を設定していたのでしょうか。他社の金額を見てそれより安くするためにバス会社を値切るだけ、そんな素人のような企画そして取引が横行しているのではないでしょうか。

 下総被告は「過当競争にさらされ、旅行会社からの依頼もむげに断れなかった」と語ったといいます。

社長  懲役1年執行猶予3年

妻   懲役10カ月執行猶予3年

長男  業務上過失致死傷罪などで有罪確定

三男  死亡

以上が貸し切りバス事業を営む零細企業一家の顛末である。

 

 国土交通省は今回の事故を受けて昨年4月、貸し切りバス事業者を調査したが、運転手に連続4時間を超えて運転させないなど省令で定める「過労防止義務」に316社中93社(約29%)が違反していたことを確認、2002年調査時には802社中36社(約4%)の違反だったことに比べると、危険な状態での運転が今も増え続けているということになる。「過労防止義務」に関する法律なんて何の役にも立っていないのです。

 そして今日も、旅行会社のホームページや新聞広告やチラシは、美しい雪景に色彩られ、「格安・激安バスツアー!」の文字が躍っています。

 そろそろ、消費者の側が、安いだけの商品に飛びつくのをやめ、旅行会社に、バスの運転・整備の安全性を要求する時なのではないでしょうか。そして、それに対して適正な対価を支払い、より安全な旅行を楽しむという消費者としての成熟が求められているのではないでしょうか。チラシもきれい、料理も盛りだくさん、価格は激安、だけど命の保証はありません、そんなものばかりがあふれてしまっているのは、旅行会社やバス会社だけの責任なのでしょうか。結局痛い目にあうのは消費者なのです。バスも飛行機も列車も、旅行も食品も建築も、全く同じ状況に陥ってしまっています。

 それでも私たち消費者は

 激安ツアーの安全性を行政に求めますか?

 激安食品の安全性を行政に求めますか?

 激安建築の手抜きや偽装防止を行政に求めますか? 

 自分だけは大丈夫と激安商品を買い続けますか?

 自分や家族を守るためには、自分自身の購買判断(何を買うのか、誰から買うのか、いくらで買うのか)のレベルを上げるしかないのではないでしょうか。

 そろそろ、何を求め、それに対していくら支払うのかという、消費者としての権利と義務に関して、明確に宣言しなくてはならないのだと思います。

2008-01-25 間主観性

 間主観性−近代哲学の始祖と言われるデカルトは「我思う、ゆえに我あり Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム」、つまりあらゆる物を疑っていっても、最終的に疑い得ないものとして、思惟主体としての「我」=主観性にたどり着くとして、近代的自我という在り方を確立した。しかし、この世の中には、無数の「我」=主観性が存在し、主観性相互の関係性とそこに生じる現象があってこその主観性であるという、「間主観性」という考え方が現象学の分野から提唱された。

 個人の自由と権利を主張することは大切なことです。しかし、その個人も、親兄弟や友人や上司・同僚などの別の個人との関係が良好でなければ、決して幸福とは言えないでしょう。この個人と個人の間にある関係性こそが間主観性と呼ばれるものです。そして、間主観性の発見は、自分という主観だけでなく、そこから離れて、別の主観の立場に立つことの重要性を教えてくれます。私が私の立場からのみの主張をし、彼が彼の立場からのみの主張をする。永遠に交わることのない関係・・・。このような関係があらゆる場面で生じているのではないでしょうか。政治と国民、作り手と売り手、売り手と買い手、教師と生徒・保護者、親と子・・・。間主観性、自分を相手の立場に置き換えて考えてみる、相手を自分の立場に置き換えて考えてみる、つまり主観の相互乗り入れによってそこに発生する関係性を創造する、修正することが本当に大切なのではないかとあらためて考えています。

 自分が子供の頃には大して勉強もしなかったのに自分の子供には塾だ偏差値だと血眼になっている親、教師の苦労なんか知ろうともせずに無理難題を押し付ける親。親の心配なんか知ろうともせずに非行に走る子、何をやってもクレームばかりならとりあえずクレームを言われないように余計なことをしなくなる教師。下請けの経営なんか考えもせずにとにかくコストダウンを押し付ける発注者、そこまで言うなら偽装でもしなければ倒産しちゃうよと偽に走る下請け。国民のための政治と行政サービスを要求するわりには税金を払うのを渋る国民、国民皆様のためなんて口では言いながらやっぱり選挙のための票につながる仕事に精を出す政治家と天下り先のために働く官僚。真実を伝えるのが報道の責任と叫ぶわりにはやっぱり何より大切なのは視聴率とやらせ番組をつくっちゃうマスコミ、公正・公平に真実を伝えろと要求するわりには単純明快・面白番組に釘付けの視聴者。結局安い物しか売れないんだからと偽装表示をしちゃう食品メーカー、値段より安心・安全の方が大切なんて言いながら結局1円でも安い方を買っちゃう消費者。エコ・エコと叫びながらも同じ値段なら白い紙を買っちゃう消費者、だったらエコ表示を偽装して白い紙を売っちゃう製紙会社。派遣や社員の生活なんて後回しで経営数字を追っかける経営者、会社の経営状態なんて気にも留めない従業員・・・。

 相手には100%を要求して、自分はそこそこ、こんな低次元な間主観性がはびこってしまっているのが今の日本なのではないでしょうか。奇麗事を並べて、押し付けても、相手はこたえてはくれません。相手の身になって考えてみることによって、要求していた奇麗事はリアリティーへと収斂されていくのだと思います。100%を求めて、偽によって結果的に0%になるなら、リアリティーに裏づけされた70%を求めてきっちり70%を得、そして自分も70%を相手に返すことのほうがどれだけ賢い選択であり、良好な関係を築けるかわかりません。政治・行政に対しても、教師に対しても、マスコミに対しても、食品メーカーに対しても、製紙会社に対しても、マンション業者に対しても・・・。

 今日は特に自戒を込めて書いてみました。私自身も消費者でもあり供給者でもある、親でもあり子でもある、そして日本の国民でもあり、その日本は世界の他の国々の中にあってこその日本であるという事を恥ずかしながら今更再確認しました。

2008-01-24 プライマリーバランス

 プライマリーバランス(財政の基礎的収支)の黒字化を2010年代初頭に達成するという目標が小泉内閣の構造改革プログラムの中で設定されました。プライマリーバランスの黒字化とは「歳入≧歳出」という状態にする事です。ここで言う歳入には当然のことながら新たな借金による収入は含まれない。ところが、妙な事に、歳出の方も過去の借金の返済及び利払いを含まないのである。報道などで、よくこれを家計に置き換えて説明しているが、住宅ローンの返済は考えない、とにかく2010年代初頭までに給料の範囲内で生活できるように給料を上げるか、節約する、つまりプライマリーバランスを黒字化するという説明である。そもそもおかしな話である。とりあえず借金の返済は考えないでなどということがまかり通る事自体、通常の企業経営や家計にはありえない話である。しかし、そんな事がありえるのが国家経営なのであるという事をまず頭に入れて考えなくては、妙なレトリックに引っかかってしまいます。

 最近、政府の2010年代初頭までのプライマリーバランス黒字化が難しくなっているのではないか、政府は約束を守れないのではないか、そんな論調の報道がちょくちょく見られるようになりました。そうです、また、善悪二元論です。約束を守れないから「悪」、「責任を取れよ」という議論です。この手の報道・議論はもう聞き飽きました。それよりも、そもそも、プライマリーバランスの黒字化を2010年代初頭までにできた場合はどのような「功」があり、できなかったらどんなにひどい目にあうのかという「罪」が、全く見えてきません。ここで、家計に置き換えた議論に騙されてはいけません。そもそも、ローンの返済を考えないプライマリーバランスなんて家計ではありえないのですから。さらに、黒字化するために弊害「罪」は発生しないのか、黒字化はできたけど国民生活はぼろぼろなんてことにはならないのか。つまり、善悪なんて話はどうでもよいのです。それよりも、ハイレベルな功罪論争にしなければ、大変な事になると思います。私は、プライマリーバランスの黒字化期限は10年延長するべきであると思います。なぜなら、日本は今もってデフレの中にいるからです。国・地方合わせて1000兆円の借金をして財政出動をしても、インフレどころかデフレは進行していますし、円の価値・信用が下がるどころか円高になっています。一部インフレ報道がなされていますが、これは原油・原材料などの海外産のものであり、国内の製品価格が上がっているわけではありません。国が借金を増やす事は「悪」として捉えられがちですが、善でもなければ悪でもありません。物価の番人と自称する日銀も、インフレ対策しかできず、デフレには全く無力であったと言わざるを得ません。しつこいようですがデフレは終わっていません。デフレが終わっていないという事は、取りも直さず需要が供給を下回り続けているという事です。デフレ対策とは、需要が供給を上回るようにするためにあらゆる対策を講じる事なのです。需要が供給をわずかでも上回っている状況を保つ事が国家の経済運営であると思います。需要が上回っていれば失業率も下がり、更に雇用市場が売り手市場となり、給料もわずかながらでも上がり続けます。そして、この状態を作るために規制緩和だ民営化だと構造改革で乗り切ろうとする事は「善」で、インフレ誘導をする事は「悪」という相場になっていますが、これも不毛で根拠のない価値観です。国民が最低限の安心とわずかなゆとりを持って生活をできるように経済を運営できなければ、総理大臣も財務省もへったくれもありません。まずはバブル崩壊から続くデフレ環境を一日でも早く終わらせる必要があります。デフレの中では、お金を物に替えるよりお金のままで持っているほうがよいのですから、いつまでたっても需要は増えません。そろそろ、本当に「功」のある経済対策を打つべきときだと思います。

デフレ克服のための考察(世界恐慌時のアメリカの経済政策の失敗と成功に学ぶ)

2008-01-23 善悪二元論

 最近、あらゆる事象が善か悪かの二元論で語られ、悪の判定が下った場合は、すべてが否定されるという、少々気色の悪い状況に陥っているのではないでしょうか。そもそも善悪の判断はきわめて主観的であり、それが大勢で行われる場合は、かなり情緒的なものとなる傾向があります。私は、反感を恐れずに言うと、善悪二元論のみでは物事や人物の評価は全く持って不十分であると思っています。たとえば、田中角栄元首相に対する評価ですが、ロッキード事件に代表されるように、その政治手法は決して善とは言えないものであったと思います。しかし、日中国交正常化や第一次オイルショックなどの政治課題への対応、日本列島改造論に基くインフラ整備等々、その功績と類稀なリーダーシップは今もって高い評価を受けています。私たちは政治家に清廉潔白・生真面目・国民のお手本としての善なる姿だけを求めていてよいのでしょうか。我々一般国民だってそんなに清く正しく生きているのでしょうか。ロッキード社から賄賂を受け取った事は悪でしょう。しかし、田中角栄という政治家から、日本のために働く機会を奪った事は、日本の損失でもあったのではないでしょうか。法治国家ですから違法行為は罰せられなくてはなりません。しかし、法的制裁を受けたあとに、再び日本のために働くチャンスを与えるぐらいの先見性と懐の深さを国民の側が持ってもよいころではないでしょうか。

 最近はマスコミが偽装を見破り、それを見た国民が「ざまーみろ」と、日頃の憂さを晴らすという、国民性としては極めて低次元で、そして危険な状態に陥っているようで本当に心配です。私は善悪とともに、功罪という評価軸をプラスすべきと考えています。たとえばタミフル問題です。厚生労働省がタミフル服用と異常行動の因果関係をなかなか認めないということ、そのうちにも異常行動による事故が発生しているということにより、厚労省をたたく論調ばかりがマスコミをにぎわせていました。結局善悪という評価軸しか持たないと、だれか悪人を見つけなくてはならなくなるのです。それより、タミフルの功罪をしっかり見極めること、タミフルの功により、幼小児の脳症のリスクが減少し、老人の死亡率が下がった等、そして罪として、因果関係は明らかではないが異常行動の可能性が存在する等。タミフルの場合、こと命に係わるのです。善悪なんてどうでもよいのです。服用による功と罪の情報が必要なのです。あらゆる報道に対して、善悪ではなく、功罪という視点から見直してみると新しい姿が見えてくると思います。

 

2008-01-22 かなりの株安

 私は経済のプロではないのでプロフェッショナルな物言いはできませんが、感じたことを書いてみます。

 22日の東京株式市場、大引けは前日比752円安の12,573円で、この2日間で1,288円下げました。昨年の10月11日には17,458円だったので僅か3ヶ月で約5,000円の下げ。経済関連記事は、サブプライム問題、米景気減速、それらが新興国経済に波及するとの懸念、米金融の信用不安、円高・ドル安の進行、アジア株の急落等々、様々な要因が今回の株安につながっているのだと言う。しかし心配なのは、バブル崩壊後の構造改革の中で、預金から投資へという動きが一気に進み、様々な金融商品が販売され、個人までもが預金を取り崩しそれら金融商品に資産をシフトしているということである。国家挙げて、預金にはペイオフ(預金は1000万円しか保証されない)制度をかけ、投資減税を行い、国民の預金を投資へとシフトさせてきたのである。そしてこの株安である。あっという間に3分の2に目減りしてしまって本当に大丈夫なのだろうか?年金だって、システムが崩壊しているうえに、運用損が重なり、それこそ、国民が払ってきた年金を食い潰し、国民が受け取る額は、払った額をはるかに下回るということが現実となるのではないか?原油、原材料などの値段は上がっているが、商品の値段は上がらず、相変わらずの過当競争により、デフレ状態なのである。国民全体が疲弊していく・・・これだという答えはないであろうが、小泉、竹中構造改革とその後の国家運営は、明らかに行き詰ったのではないでしょうか。私は、バブル崩壊後のデフレは収束していないと思っています。失われた10年で国・地方合わせて1000兆円の借金(財政出動)をして、経済を下支えしてきました。私はまだ足りないと思っています。無駄遣いではないのです。何に使うかは、これまでのような箱物である必要はありませんが、あと1000兆円の借金(財政出動)がなくては、本当のデフレ脱却はないと考えています。アメリカが世界恐慌の際、GDPの約4倍の財政出動でやっとデフレを脱却した事例から類推し、現在の日本のGDPの4倍が2000兆円、従ってあと1000兆円というのが私の考えです。国の財政規律を正しているうちに、国民が疲弊して国家が成立しなくなっては本末転倒です。グローバル経済に飲み込まれ、足元をすくわれ、気が付いたら、国民に勧めていた投資が大失敗、そろそろ本物の経済運営が必要なのではないでしょうか。

2008-01-20 情報リテラシー

 「情報リテラシー」とは、簡単には、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことと言えるでしょう。「様々な情報の中から自分の目的に合った情報を取り出し、その情報を鵜呑みにするのではなく批評的視座を持って読み解き、そこから新たな問題提起をするとともに、新規なる視点の下、更に発展する可能性を持った情報を発信できる能力」そんな風に私は「情報リテラシー」という言葉を定義しています。

 昨年一年間を表現する漢字として、「偽」という文字が選ばれていました。食品偽装、耐震偽装、企業会計偽装、政治家・官僚の金の問題、年金問題・・・たくさんの「偽」に関する情報をマスコミはこぞって報道し、私たちはそれらの情報を見聞きしてきました。情報を発信する側の「情報リテラシー」はどうだったでしょうか。情報を受け取る側の私たちの「情報リテラシー」はどうだったでしょうか。

 例えばミートホープによる牛肉偽装事件。社長は指示した覚えはないと言い、マスコミは元社員や関係者への取材から、社長の嘘を暴き、最後に役員である息子に真実を話すように諭され、社長は偽装の指示をしたと白状しました。そして、ミートホープはつぶれ、社員は解雇されました。ジャンジャン!やっぱり嘘をついちゃあいけないね、それで終わりです。この事件から、マスコミが報道すべき内容も、私たちが受け取る本質もそんなもんなんでしょうか。だとしたら、この国の「情報リテラシー」は最低ランクと言わざるを得ません。

 ミートホープに商品を発注していた企業は、本当に牛肉100%で安全・安心な製品を製造するコストを適正に算出して発注していたのか。もし、どんなに企業努力をしても無理な価格で発注されていたとしたら、発注サイドには責任はないのでしょうか。そして、とにかく1円でも安いものを買おうとする私たち消費者の姿勢は、この事件と一切関係のない単なる被害者でよいのでしょうか。


ここからは、私がつくったフィクションです。

「10円で牛100%のコロッケを製造してくれ」

「それは無理ですよ」

「無理ならおたくとの取引はやめるよ」

「待ってください。分かりました何とかします」

こんな会話があったとしたら、悪いのは受注サイドだけでしょうか。発注サイドだってプロです。消費者に安全・安心な食品を届ける責任があるはずです。

そして、このような無理な発注をする発注サイドの担当者はどうでしょうか。

「部長、10円では無理だと言っています」

「それを何とかするのがお前の腕だろ」

「10円の単価で、牛100%はいくらなんでも無理だと思いますが」

「他社は出来ているのに、何でうちは出来ないんだ。もう一回社長にプレッシャーをかけて来い」

さらにこの部長はどうでしょうか。

「専務、やはり単価10円は難しいと思いますが」

「他社はやってるぞ。それに、消費者は牛100%という表示があれば飛び付くんだ。さらに他社より1円でも安くしないとだめだ。君の部署は最近新製品の成績がよくないぞ。もう一度やり直せ」

 このフィクションはデフレ環境、低価格競争環境の中で、まんざら現実離れした空想話ではないと思います。報道する側は偽装の真相をもっともっと追究すべきですし、受け取る側の私たちも批評的視座を持ってこれらの情報を咀嚼するべきでしょう。そして、問題の真相が明らかにされない限り、同じような偽装は後を絶たないと思われます。実際、不二家、船場吉兆、白い恋人、赤福、などなど、似たような偽装が次々に明らかとなり、食の安全への信頼は地に落ちました。

 物事を善か悪かの二元論だけでとらえていると、本質を見抜けないと私は思います。悪と判定された事象にも、原因があり動機があるはずです。善悪二元論は、農作物にとりつく害虫を悪とみなし、農薬を撒き散らして悪を退治しているにすぎません。悪という判定で終了し、悪を退治して終わりにするのではなく、そこから更に掘り下げることこそ、私たちの「情報リテラシー」を進化させてくれるのではないでしょうか。そして、より高度な「情報リテラシー」を獲得しない限り、信に豊かな未来は訪れないと思います。

2008-01-18 阪神淡路大震災

 1995年(平成7年)1月17日(火)午前5時46分、淡路島を震源地とする大地震が発生しました。

人的被害

死者:6,434名(ワーキングタイムの発生なら推定2万名以上)

行方不明者:3名

負傷者:43,792名(ほとんどが家屋の倒壊と火災が原因)

避難人数:30万名以上

住家被害

全壊:104,906棟

半壊:144,274棟

全半壊合計:約25万棟(約46万世帯)

一部損壊:390,506棟

火災被害

住家全焼:6,148棟

全焼損(非住家・住家共):合計7,483棟

罹災世帯:9,017世帯

その他被害

道路:10,069箇所

橋梁:320箇所

河川:430箇所

崖崩れ:378箇所

被害総額:10兆円規模

 朝起きると、ニュース番組もワイドショーも全てが地震の報道一色でした。老朽化した家屋が見るも無残に倒壊している映像、密集地が燃えさかる映像、高速道路が横倒しになり車が宙吊りになっている映像、次々に目に入る映像の全てがドキュメント映画を見ているように様々なシーンが頭の中を通過していきました。リアルとアンリアルの区別をつけられない、そんな感覚の中で、最も見たくないと無意識に思い込んでいた映像が飛び込んできました。その映像が飛び込んできた瞬間、全てがリアルとして私の頭と心に突き刺さりました。その映像は、まだ新しいビルが傾き、今にも倒れそうになっている映像でした。そんなはずはない。日本の建築基準法は世界でもかなり高いレベルにあるはずだ・・・。しかし、その後、まだ新しい住宅が2階のみを残して1階がつぶれてしまっている映像、10階建てほどの駅前のビルの真ん中あたりの階がつぶれてしまっている映像、銀行の支店のビルが道路に倒れてしまっている映像、時間の経過とともに次々に目に入る映像は、日本の建築基準法や建築技術を信じていた私の価値観の全てを転覆させる衝撃をもたらしました。

 なぜだ、いまだかつて抱いたことのないほどの強い、怒りにも似た衝動に突き動かされ、信頼する構造家と勉強・調査を始めました。建築基準法は震度5程度(法文では数十年に一度程度発生する地震による力という表現がされている)で損傷しない程度、震度7(法文では数百年に一度程度発生する地震による力という表現がされている)で倒壊しない程度の耐震性を求めている。しかし実態は、それほど古くないビルや住宅の多数が倒壊している。なぜだ。

 その後、地震の詳細情報が明らかになってきました。地震の規模を示す数値にはマグニチュード、震度などがよく知られていますが、そのほかに加速度があります。手の上に水の入ったコップを載せて横に動かすと、ゆっくり動かせば水はこぼれません。しかし加速をかけてすばやく動かすとコップごと手から落ちてしまいます。つまり建物に大きな影響を与えるのは震度よりも加速度なのです。建築基準法が「数百年に一度程度発生する地震による力」と規定している震度7程度の地震力は、加速度で表現すると500ガル程度と考えられます。ところが阪神淡路大震災で記録した加速度は818ガルでした。建築基準法の想定以上の地震だったんだということがわかってきました。その後1999年に発生した台湾の地震では980ガルを記録しました。今後起こりえる全ての地震に対して絶対に安全な建築は現実的に不可能である、なぜならどんな規模の地震が襲ってくるかはわからないし、コストは際限なく跳ね上がってしまうから。どうすればいいのか・・・。

 建築基準法を守っているだけではまったくもって不十分である事は、阪神淡路や台湾の地震が証明してくれた。私は一つの方針を立てました。コストの許される範囲で、建築基準法が規定する地震力よりも上乗せして設計をしようと。時代はバブル崩壊、デフレ、不況の真っ只中、地震の恐怖はあっという間に忘れ去られ、コストダウン、とにかく安く、もっと安く、そんな状況でした。それでも、クライアントにしつこいぐらい説明し、理解していただき、少しでも安全率をとって設計してきました。しかし、時代の趨勢は圧倒的にコストダウン、挙句の果ての耐震強度偽装です。玄関は大理石張り、テレビインターホンに豪華システムキッチン、床暖房に浴室乾燥機、面積も大サービス・・・。確認申請も検査済証も、耐震性だってバッチリ。それで他よりも超お買い得。見えるところは、内装も設備も書類も見事に揃えました。しかし、見えないところは手抜き・偽装のオンパレード。

 姉歯事件を受けた昨年の建築基準法の改正で消費者は安心できるようになるのでしょうか。その応えはNO!です。なぜなら、厳しくなったのは、またも目に見える書類だけだからです。そして、建築を造る現場ではこの改正によってもっと手抜きや偽装が多発する状況が強化されてしまったのです。確認審査で時間がかかった分、工事期間が更に短縮され、設計する時間も短縮され、その上コストダウン。コストダウンとは、品質・性能を落とさずに無駄・無理をなくし、効率的作業で、かかるコストを低減することです。設計や工事ではなく、申請の作業や書類作成の作業は数倍になり、建設費は据え置き、又はもっと安く・・・。行政も国民も知らないところで、これからも手抜き・偽装が大量生産される条件はこれまで以上に整ってしまったのかもしれません。

 大切な子供や家族を守るのは書類やチラシの宣伝文句ではではありません。大地震でわが子を失ったとき、もっとお金をかけても耐震性の高いマイホームを作って子供の命を守るべきだった、もっとしっかりと選択するべきだったと後悔しない親はいないと思います。何にお金をかけるか、何を買うか、誰から買うか、選択する側の見識がますます問われる時代が訪れています。