資本の論理と成長神話

 アメリカのサブプライムローン問題を震源地とした世界金融パニックが現実のところとなりつつあります。資本の論理に基づけば、経済は成長し続けるしかないのです。しかし、本当に経済は成長し続けることなどできるのでしょうか?答えは「NO」だと私は思っています。限りある資源、人類の拠り所である地球環境、資本の論理はその両方を無視しています。そして、高度に経済成長を成し遂げた先進国で、貧富の差が拡大し続けるという矛盾。
 資本の論理による限りない成長&競争志向は、さながら、コンピューターゲームの攻略と更に難易度を増したバージョンの開発、そして攻略、開発・・・。気が付いたら、開発する側も攻略する側も疲弊し、残ったのは取り返しの付かない虚無感、空虚。
 高度に進化したはずのアメリカの金融商品は、結局、低所得者にまで返済不能な住宅ローンを販売し、それを証券化して売り飛ばすという、リスクの細分化などというにはおこがましい、低レベルなシステムでした。金融商品の開発・販売はバージョンアップを繰り返し、より高利回りな商品が流通する、しかし、その商品はきわめて脆弱で、右肩上がりの住宅バブルが終わった瞬間に、全てが破綻し、残ったのは積み上げられた不良債権の山、そしていかんともしがたい虚無感・空虚・・・。こんな、バブルによる捏造された経済成長と、その後の破綻を繰り返すのが、資本の論理の正体なのです。
 中国の高度経済成長も然りです。極端な成長の後に残るのは、破壊された環境と貧困、経済の破綻と国家の信用の失墜、まさに空虚ということになるのでしょう。国家がこのような空虚に襲われたとき、その空虚を満たすために取る手段は、戦争と相場は決まっています。ナショナリズムで、国民の空虚を満たすのです。
 そろそろ、人類はネクストステージに進むべきです。見せかけの成長ではない、空虚を満たすための短絡的な成長ではない、資本の論理ではない、新しい論理による充足、人類は今まさに、史上最もドラスティックなパラダイムの転換を迫られているのではないでしょうか。