2012-01-31
屍食品
「遅いよ、だいちゃん」と言って、伊藤悠奈(いとうゆうな)は歩き出した。ふてくされた表情をしているが、口の両端にからかいの笑みが刻まれている。本心から腹を立てているわけではないらしく、僕はほっとした。
だいちゃん、というのは僕の名前をもじって彼女が付けたあだ名だ。大学一年生のとき、共通科目の英語の講義でグループディスカッションを行い、僕と悠奈は同じグループになった。話し合いの前に、仲間内で簡単な自己紹介をした。出身地や所属しているサークルの話をしているうちに、映画の話題になった。悠奈は、ある外国の映画監督のファンだと嬉しそうに言った。偏屈かつ完全主義者で有名なその監督の映像世界に魅了される人は多く、僕もまた心奪われた者の一人だった。そのことを口にすると、悠奈は目を輝かせた。艶のある黒髪と、目尻を下げて笑ったときの優しい表情が印象的だった。
そして僕らはすっかり意気投合した。ちょうどその頃、監督の最新作が公開されて話題になっていた。後日、僕は悠奈と一緒に駅前の映画館に行った。それからなんとなくお互いに会う機会が増えて、僕らは恋人という間柄になったのだ。
「遅れてごめん」先を進む悠奈に追いついて、僕は詫びの言葉をかけた。「政治学の講義が長引いちゃって……」
「もしかしてそれ、銀縁メガネの先生の講義?」
そうなんだよ、と僕は嘆息した。
「先生、一度頭に血が上ると周りが見えなくなっちゃうんだもの。普段はクールな感じなのに」
右手首に巻かれた水色のミサンガを指で弄りながら、悠奈はくすりと笑い、
「じゃあ、また人口逓減政策の話でご乱心になったんだ」
「そうそう。終業時間を過ぎてもずっと熱弁を奮ってたんだ。『野党議員の誰々、バンザーイ!』とか唾を飛ばしてさ」
悠奈は細い顎に人差し指を当てながら、「そういえば、前期に受けた先生の講義でも似たようなことをしてたわ」と呆れ顔になって、「そのあと、先生はどうしたの?」
「どこからか聞きつけたのか、他の教員に取り押さえられて、ずるずると引きずられていったんだ」
「え、どこに?」
「教室の外の廊下の方。で、そのまま消えていった」
しかし噂によると、銀縁メガネの先生のイライラは、人口逓減政策への不満だけが原因ではなかったようだ。不規則な生活が続いたせいで食生活が偏り、先生はここ最近安いホルモンばかり食べていたらしい。栄養バランスが崩れたせいで死肉炎になってしまい、断続的に襲いかかる痛みに苛まれ、鬱憤が溜まっていたそうだ。
今頃は例の政策に一役買ってるかもね、と揶揄すると、悠奈は目尻を下げて笑い、それに同調するように僕も微笑んだ。しかし内心では、耳のすぐ側で鳴っている自身の心臓の鼓動音を、悠奈に聞かれないか、心配でしかたがなかった。
「来週、うちで一緒に夕飯を食べない? 待ち合わせはいつもの駅前の時計台で」
そんな内容のメールが悠奈から届いたのは、今から一週間ほど前のことだった。僕は何度も文面を読み返して、メールの意味を理解しようと必死になった。二人で買い物をするとか、映画を鑑賞するとか、その手のデートは何度かしたけれど、女の子の家に行くというのは僕にとって未知の経験だった。
それに、悠奈から誘いの言葉をかけられたのはこれが初めてのことだった。彼女はどちらかというと内向的な性格で、遊びのお誘いをするのは決まって僕のほうからだったのだ。だから最初にこのメールを読んだとき、僕はちょっと動揺した。緊張で顔が火照り、携帯電話を握る手に汗が滲んだ。汗ばむ手で了解の返事をすると、僕は自室のベッドに仰向けになり、気持ちを落ち着かせようと目を閉じた。目の裏の暗闇がアメーバのように形を変えて、だんだんと人間の顔になり、最終的にそれは悠奈の笑顔になった。身体中が穴だらけになって、羞恥のガスが勢い良く噴き出した。それ以来、どうにも寝付けない日が続いたのだった。
悠奈の行きつけのスーパーを目指して、僕らは駅前通りを歩いた。一人暮らしをしている悠奈は、大学の帰りにしばしばその近所のスーパーに寄って、夕食の材料を買い、自炊をするそうだ。
「そのほうが安上がりなんだもの」と悠奈は言う。彼女のそんな家庭的な一面を知って、僕は小躍りするような気持ちになる。
買い物袋をさげた主婦の姿くらいしか、周りに人影は見当たらない。午後の日差しを浴びた街路樹の葉がまばらに影を落とし、横を歩く悠奈の顔に微妙な陰影を与えていた。生々しく浮かび上がる彼女の横顔を何となく眺めていて、僕はおやと思った。彼女の周りに、どことなく暗然とした空気が漂っているような気がしたからだ。
僕の視線に気付いたのだろう、悠奈が上目づかいに僕を見て、
「どうしたの」
「え、なにが」
緊張を顔の裏側に隠しながら、平然と答えた。霧のように漂っていた沈鬱な気配はすっかり失せて、穏やかな顔が横にあった。
「今日のだいちゃん、なんか変だよ」
「僕みたいな一般人が奇妙に見えるのなら、授業中にバンザイと叫ぶ教師は狂人だよ」
「狂人は政治学の教鞭を執ったりしないわ」
悠奈が眉間にシワを寄せて僕を見つめる。すっかり話の接ぎ穂を失ってしまった。辺りを見回すと、電器店の前に設置されたテレビで、夕方のニュースが放映されていた。人口逓減政策に断固反対していた野党議員が行方不明になって、今日でちょうど一週間になるとニュースキャスターが報じた。禿頭の議員の顔写真が、画面に大映しされた。
「このつるっぱげの人、どこに行っちゃったんだろう」と悠奈が言った。
「朝のニュース番組によく出演してたのにね」
「最近、うちの大学でも生徒や先生が行方不明になってるよね」悠奈の顔にさっと不安の色が走った。
「そのうちすぐ見つかるって。特にこの議員さんなんて、目立つ頭をしているんだし……」
怯えの影を取り除こうと冗談めかして言ったが、悠奈は目を伏せて曖昧に頷くばかりだった。
「我が国の人口は飽和状態であり、このままでは大変危険なので、減らしちゃいましょう」
そもそもの火種は首相によるこの発言だった。センセーショナルな首相の発言は国会の大きな議題になった。さらに、多数派を占める与党がこの政策を強引に推し進めて、議会は大騒ぎになった。
後に「人口逓減政策」と銘打たれたこの政策は、各市町村の委員会による公平な審査のもと、くじ引きで逓減対象者を選定するというものだった。選ばれた人がどうなるのかは明らかにされていない。政府による人体実験の被験者にされるという風説が横行したことがあった。饅頭の具になってマカオや香港の業者に売られているという噂も聞く。
「生きる権利が平等に与えられているのだから、死ぬ権利も平等に付与されるべきではないか」大勢の記者とテレビカメラの前で、首相は誇らしげに語った。
そのとき、「どうせ国民の注目を浴びるためのパフォーマンスなんだろ」と辛辣な質問を浴びせたのは、ニキビの目立つ青年記者だった。首相はでっぷりとした腹を揺らして笑い、
「何を言うのかね、君は。これは国民の皆様のお気持ちを第一に考えて実行している政策であり、資源枯渇問題の解消やエネルギー危機脱却を目指してだね……」
「非国民がっ!」と怒鳴ったニキビづらの青年記者は、履いていた靴を脱いで首相に投げつけた。靴はあわや首相の顔面に当たるかと思われたが、途中で軌道が逸れてしまい、結局首相の肥えた腹にぶつかって落ちた。靴を投げつけられた首相は、しかし満面の笑みを浮かべて、
「君みたいな情熱を持った若者が日本にいて、私は嬉しいよ。どうだい、会見のあとに少しお話をしようじゃないか。私の秘書に別室へ案内させよう」
ニュースで報道していたのはそこまでだった。その日の会見以降、ニキビづらの青年記者は姿をくらませてしまったそうだ。実験の材料にされたのか、饅頭の材料にされたのかは分からない。だが、ニキビづらの青年記者も、禿頭の野党議員も、共に同じ末路を辿ったのだろうと僕は推測した。そしておそらく、禿頭の議員に賛辞を送っていたあの銀縁メガネの先生の未来も、共に同じ破滅の門で締めくくられているのだろうと思った。
スーパーのフロア内を、二人で並んで周った。何の気なしに食材を眺めながらしばらく歩いていると、香ばしい匂いが漂ってきた。精肉コーナーの一角で、ギンガムチェックのエプロンを着た女性店員が、鉄板で何かを焼いている。周囲にはまばらに人が集まっている。食欲をそそる匂いに誘われて歩み寄ると、客引きの声が大きくなった。
「ご試食いかがですかーっ? ぜひ召し上がってみてくださーいっ!」
呼び込みにつられて、差し出されたものを手に取った。それはこんがりと焼き色がついた人間の指だった。かじってみると、パキッという小気味良い音がした。口の中に濃厚な肉汁が溢れて、香辛料の匂いが鼻からすっと抜けた。
女性店員は温和な笑みを浮かべ、他の客に爪楊枝に刺さった指を渡しながら、セールストークを並べた。
「美味しい美味しいこのソーセー児は、正真正銘の国産よっ。潰したての粗挽き肉を、幼児の指に詰め込んだのっ。香辛料で風味を利かせて、一度食べたら病みつきだよっ。化学調味料など使わない、美味しい美味しいソーセー児、どうだい、お得なタイムセール中だよっ」
「一つ買っていかない?」と悠奈は言った。「ジャガイモや玉ねぎと一緒に煮込んで、ポトフにするのはどうかな」
「いいね、美味しそうだ」
じゃあ決まりね、と言って、悠奈はソーセー児の袋をカゴに入れた。ありがとうございますっ、と女性店員が礼をして、僕らは顔をほころばせながら会釈をした。
買い物を済ませると、僕らは悠奈の家へ向かった。ポトフの材料が入った重い袋を僕が、ピーマンの肉爪の材料が入った軽い袋を悠奈が持った。ピーマンの肉爪は得意料理なの、と悠奈は言った。細かく砕いた爪とひき肉を混ぜて、それをピーマンに詰めて焼くのだが、上手く焼くには少々コツがいるのだそうだ。
「お母さんに作り方を教えてもらったんだ。上手に焼かないとピーマンと肉がはがれちゃって、ぼろぼろになるんだよ。失敗するたびにお母さんにからかわれてたなあ」
「そういえば、そのミサンガもお母さんが作り方を教えてくれたんだっけ」
「そうなの。でも、この水色のミサンガは私じゃなくて、お母さんが編んでくれたものなんだよ。お母さん、私と違って手先が器用でね、色々教えてもらったわ。料理とか、裁縫とか……」
遠くの景色を眺めるように、悠奈は目を細めている。彼女の周りを漂う、影のように黒い空気が、より濃さを増したように感じた。実は、悠奈の母親は三ヶ月ほど前から行方不明なのだ。茶封筒を手に持った姿を市役所の前で見たという目撃情報を最後に、ぱったりと足取りが途絶えてしまった。人口逓減政策のせいだろうと、悠奈は直感で分かったようだ。
みんなのためだから仕方ないよ、と当時の悠奈は明るい声色で言ったが、それが無理矢理作られた明るさであることはすぐに分かった。普段どおりの笑顔を繕ってはいたが、油の切れかかった機械のような、ぎこちなさがあったからだ。
なんて声をかければいいのか分からず、そのときの僕はただ無言で悠奈の話に頷くだけだった。肝心なときに言葉が出ないのは、僕の悪い癖だった。そういえば、僕はこれまで悠奈に対して、感謝の言葉や恋人らしい台詞のひとつも、きちんと言ったことがなかった。
「このミサンガは、お母さんが失踪する前日に、私に送ってくれた宝物なの」
右手首に巻かれたミサンガを指でなぞって、悠奈は言う。
「お母さんは強い人だった。だから、最後まで私にさよならは言わなかった……でも、当たり前よね。さよならをしたわけじゃないんだもの」
僕は黙ったまま長く伸びる二つの影を見ていた。手に下げたスーパーの袋が、一段と重くなったような気がした。
駅前の大通りから少し外れると、人の往来はほとんどなく、閑散としていた。
「ここよ」とアパートを見上げて、悠奈は照れくさそうな表情を浮かべた。「ここの二階の奥が、私の部屋なの」
アパートは全体的にクラシックな色合いをしていた。落ち着いた佇まいのアパートは、なんとなく悠奈の雰囲気に合っているなと思った。外付けの階段の側にある郵便受けからチラシや封筒などを抜き取った悠奈は、郵便物をじっと見ていた。すると突然、「あっ」と目を見開いた。
「どうしたの?」と声をかけると、悠奈は早足で階段の方へ向かい、
「まだ掃除してないところがあるんだった。ちょっと部屋の前で待ってて、すぐ終わるから」
そう言って駆け足で階段を上っていった。おっちょこちょいなところもあるんだな、とその背中を目で追いながら、僕は外付けの階段を一段ずつ上がった。階段に足をかけるたびに、脈拍が早くなっていくような気がした。女の子の部屋を前にして、急に緊張の糸が張り詰めてきた。深い呼吸を何度か繰り返して、部屋の前で待った。
二階から見回すと、遠くの方で駅前の時計台が夕日を浴びて、オレンジ色に染まっていた。僕と悠奈がデートの待ち合わせ場所として使う、もうすっかり見慣れてしまった時計台だ。そういえば、二人で初めて映画を観に行ったときの待ち合わせ場所もあの時計台の下だったっけ。そんなことを思い返して、なんとなく懐かしい気持ちになる。
それにしても、掃除にしては静か過ぎるような気がした。掃除機の音や足音が、まるで聞こえてこないのだ。不審に思って、悠奈の家のチャイムを鳴らした。何の反応もない。四呼吸分ほど間を空けて、もう一度鳴らすが、返事はおろか物音ひとつしなかった。
何度かの躊躇のあと、ドアノブに手をかけて回した。電気が点いていないのか、室内は闇に包まれていた。
「悠奈?」と呼んでみるが、声は瞬く間に暗闇に吸い込まれてしまう。壁伝いに進み、廊下のドアを開けると、人影らしきものが見えた。「悠奈か?」と尋ねるが、応答はない。耳を澄ますと、押し殺したようなすすり泣きが聞こえる。
どうしたんだろう、と不安な気持ちで部屋の壁を探っていると、室内灯のスイッチらしき感触があった。ほっとして部屋の灯りを点けると、フローリングの床に食材の入った袋が置かれていて、壁際にあるベッドの上に悠奈がいた。両膝を立てた状態で座り、組んだ腕の中に顔を埋めている。
内心の動揺に気付かれないように、「どうしたんだ、悠奈」と声をかけた。ベッドの近くには、先ほど郵便受けから悠奈が取り出したチラシが散らばっていた。夕食の買い物をした、あのスーパーのチラシもある。その中に一つだけ、A4サイズの封筒が混じっていた。封筒の表面に書かれた文字を見て、僕は胸の中で風船が膨らむような息苦しさを覚えた。茶封筒の差出人は市役所、受取人は伊藤悠奈になっており、さらに明朝体で「最終通告」と太字で書かれていた。
「一ヶ月くらい前かな……家に帰ったら、郵便受けにこれと同じような茶封筒が入ってたの。中身を見なくても何となく分かったわ。ああ、ついに来ちゃったんだなって……」
ベッドのふちに腰掛けて、悠奈は訥々と話した。手を伸ばせば届く場所にいるのに、彼女の表情はすりガラス越しに見るように判然としなかった。逓減対象者となった人は本来、茶封筒を持参して、市役所で手続きを済ませなければならない。しかし、悠奈はそれを拒んだのだ。当然、何かしらの罰則が課されるに違いなかった。
「私もお母さんみたいに強くなりたかったんだけどなあ」と悠奈は言った。「ずっと内緒にしていようと思ったの。正体不明の政策に巻き込まれるなんてイヤだったし、だいちゃんと離れたくなかった。本当は今日、だいちゃんにさよならを言おうと思ってたの。でもダメね……さっきの封筒を見たら急に怖くなっちゃって、こんなの、ただのワガママだよね。ごめんね、だいちゃん……」
言い終わる前に、僕は悠奈を抱きしめた。肩を震わせた悠奈は、子どものように声を上げて泣いた。先ほどのすすり泣きとは違う、夕立のような激しい嗚咽をもらして、泣きじゃくった。悠奈の身体は小さく、驚くほど細かった。こんな華奢な身体のなかに、ずっと自分の気持ちを溜め込んでいたのだ。でも、もうこれからは一人で抱え込まなくていい。
「一緒にいるから」
鼻の奥がつんと熱くなった。涙腺への刺激をこらえながら、僕はさらにしっかりと悠奈を抱きしめた。ずっと一緒にいるから、と搾り出すようにして、繰り返し言った。過呼吸のようにむせびながら、悠奈はうん、うんと何度も頷いた。
ごめんね、と言って顔をあげた悠奈の目は赤く腫れていた。しかし嗚咽は止んで、普段どおりの微笑みが戻っている。
「いいんだ。僕のほうこそ、今まで気付けなくてごめん」
「ううん。私、こうやってだいちゃんの側にいられるだけで嬉しいの」
僕と悠奈は見つめ合った。しばらくすると、彼女はベッドに身体を投げ出して、天井を仰いだ。無防備な全身を目の前にして、僕はどきりとした。目のやり場に困っていると、
「お願い、きて」と悠奈が囁いた。
「いいの?」
「だって、ずっと一緒にいてくれるんでしょう?」
目尻を下げた、蠱惑的な笑みだった。その笑顔は僕の心を高ぶらせるのに十分だった。乾いた唇を舌で湿らせて、僕は悠奈に向き直った。彼女の服を脱がせ、丁寧に畳んで脇に避けた。そして仰向けに寝転ぶ悠奈の腹を、胸元から臍の下まで一気に切り離した。シーツを切り裂くような音がして、蛍光灯の淡い光に照らされた悠奈の内蔵が顕になった。
「大丈夫?」と顔を歪ませる悠奈に尋ねた。
目元に涙を浮かべながら、「うん、平気……だいちゃんなら、私、何をされてもいい」と悠奈は呟いた。
悠奈の身体は綺麗だった。白粉を刷毛でさっと塗ったような白い肌。そんな透き通るような皮膚の数センチ下に、美しい臓腑が絶妙なバランスで収められていた。それは奇跡的な調和だった。悠奈という端麗な縁取りの中で、内臓たちが完璧な彩色絵画を完成させていた。
音を鳴らして唾を飲み込み、僕はゆっくりと上体を突き出して、悠奈の内臓に顔を埋めた。むせ返るほどの血の匂いが鼻腔いっぱいに広がり、頭の芯が熱くなった。アルコールの綿毛がふわふわと頭の中を飛び回るような、目眩に似た感覚に、全身を支配された。
規則正しく跳ねる艶やかな心臓に、そっと舌を這わせた。微かな吐息が悠奈の口から漏れ出た。ぬらぬらと光る小腸を左手でまさぐると、固く目をつむっていた悠奈が僕の右手を強く握った。柔らかな悠奈の手を握り返して、僕は悠奈の心臓を口に含んだ。生命の脈動が口内に伝わり、僕の心はさらに高揚した。
心臓をそっと吐き出すと、僕は無我夢中になって悠奈を食べた。弾力のある肌に門歯を突き立て、血をすすり、肉片や内臓を咀嚼して、飲み込んだ。食われるたびに悠奈は眉間にシワを寄せ、苦悶とも悦楽とも取れる表情を浮かべていた。僕は万華鏡のように形をかえる悠奈の相貌を見て、血色の良い唇から漏れる声を聞き、身体の内側と外側を舌で味わい尽くした。五感を総動員して悠奈を愛し、ひとつになった。悠奈の細い脚に齧り付き、苦味のある骨を舐めていると、次第に視野が狭くなっていった。理性や記憶が吹き飛び、僕は我を忘れて吠えた。猿のように吠え狂いながら、悠奈の全てを食べ続けた。
鉄臭さが充満するこの部屋に、時間の概念はなかった。白昼夢から覚めたような心地になると、僕の腕の中で、悠奈は柔らかな微笑みを浮かべていた。
「ありがとう……私、嬉しい」
か細い息を吐く彼女の首を腕に抱きながら、僕は愛してるとささやいた。風が吹けば消えてしまいそうな声しか出せず、そのときになって初めて、僕は自分が泣いていることに気が付いた。
首だけになった悠奈は、「遅いよ、だいちゃん」と笑った。僕の好きな、目尻を下げた優しい笑顔だった。悠奈は音には出さず、私もだよ、と口だけで呟くと、微笑んだまますっと目を閉じた。本を読んでいる途中でついうたた寝をするような、静かな眠りだった。徐々に温度を失っていく悠奈の首を抱擁していると、涙がどんどん溢れてきた。それは滴となって頬を伝い、顎から流れ落ち、悠奈の黒髪に付着した血と融け合って消えた。
やがて巨大な足音の波が、深い海底のような夜の静寂を引き裂いた。足音は徐々にうねりを増して、階段を駆け上がり、部屋のドアにぶつかって飛沫をあげた。様々な蛮声に混じって、ドアを叩く音が響いた。金属同士が擦れる音が聞こえたかと思うと、勢い良くドアが開け放たれた。濃紺色の制服を着た警察官が、血気盛んに侵入してきた。しかしベッドの上の情景を目にして、彼らは見る見るうちに活気を失くしていったようだ。
悠奈を抱く手の力を緩めると、ふと右手に何かを握っていることに気付いた。血にまみれた手を広げると、そこには紫色のミサンガがあった。鼻をすすり、爪を突き立てるようにして右手を握りしめた。そして僕は、もう喋らない悠奈の首に向かって、ずっと一緒にいるから、と呟いた。
<了>
2011-11-29
夜の短編喫茶その3
『最終電車に揺られて』(テーマ:終電)
「おばけ電車の話、ですか?」
「そうなんだよ、わたしの三味線教室仲間のなかで専らの噂になっていてねえ、もう気味悪くて仕方ないよ」
「へえ、それはどんな噂なんですか?」
「なんでも、その電車は終電が去ったあとのホームでドアを開けて、誰かが乗車してくるのを待ってるんだって。電車に客が飛び込んできたら出発して、そのまま黄泉の国に連れて行ってしまうらしいのよ」
「それは怖いですね。でも、終電が過ぎてしまったのに、どうして乗ってしまうんですか」
「そこが人間の心の弱いところなんだろうねえ。もう終電は去ってしまっただろう、と半ば諦めながら駅まで来た客を狙って、電車が出発を告げるベルを鳴らすらしいの。そうすると大慌てで改札をくぐり抜けて、電車に駆け込んでしまうらしいのよ。そしてそのまま帰ってこれなくなって……ああ、恐ろしい」
「なるほど。でもおばあさん、心配することはありませんよ」
「どうしてだい?」
「だって、本当に人がさらわれてしまったのなら、まずそんな噂自体、立つはずがないじゃないですか」
「いや、それが、その電車に乗った人の全てが連れて行かれるわけじゃないらしいのよ」
「というと?」
「その電車に乗ってしまった客の車両には、必ず誰か一人だけ乗客がいるんだって。それは小学生ほどの女の子のときもあるし、禿頭の初老の男性のときもあって、見た目は普通の人間なの。でもその正体は幽霊で、あの世へ乗客を連れて行く案内人の役割を担ってるらしいのよ」
「ほう」
「そしてその幽霊は、乗客が駅を降りるときにこちらを振り向いた人を連れ去って行くらしいの」
「振り向いた人を?」
「そうなんだよ。だから運良く振り向かずに駅に降り立った人は、犠牲にならなくて済んだらしいのさ」
「どうして振り向いた人だけをさらっていくんだろう」
「そのへんは、わたしも分からないねえ。あんまりたくさん連れていっても、あの世が人で溢れかえって、手に負えないからじゃないかねえ」
丸めた包装紙をもう一度広げたような皺だらけの顔に、さらに深い皺を作りながら、老婆は快活に笑った。それに同調するように僕も口を開けて笑った。老婆の話にすっかり惹き込まれてしまった僕は、時間が経つのも忘れて、先ほど知り合ったばかりの老婆との会話を楽しんでいた。
やがて電車がブレーキをかけてゆっくりと停車した。ふと駅に目をやると、降りるべき駅の名が書かれたプレートが見えた。危なく見過ごしてしてしまうところだった。僕は老婆に礼を言って、慌ててホームに降り立とうとして――そういえば、この老婆は何処の駅へ向かうのだろう。もう夜もすっかり深まっている。老人一人で帰るのは、いささか危険ではないだろうか。
「そういえば、おばあさんは何処の駅で降りるんですか?」僕は振り返りながら尋ねた。
老婆は皺だらけの顔に笑みを貼りつけたまま、見たね、と云った。
<了>
『群れ』(テーマ:曲がり角)
いてぇ、おい押すなよ。あんたこそ、もう少し詰めなさいよ。おいおい争いはよせって。なによ、あんた顔が近いわ。ちょっとお前どいてくれ、ヒジがもげちまう――
この曲がり角では丑三つ時になると、人々の声と熱気が絶えなかった。とはいっても、聞こえるのは死んでしまった人の声であり、そもそも死人から熱気がするはずはないのだが。彼らが一丸となって声を張り上げている姿は、凄まじい気迫を感じさせた。
鳥川に架かる橋の側にある内交差点とブリハ町交差点付近はほぼ直角の曲がり角で、交通事故のメッカとなっていた。この曲がり角は見通しが悪いうえに、信号機が設置されていない。さらに、都心の工場へ向かう大型車が乱暴な速度で驀進(ばくしん)するため、うっかり飛び出してきた自転車がトラックに跳ねられて、という事故がかなりの頻度で発生しているのだ。
交通事故の多発地帯であるため、曲がり角には故人のための献花が結構な数量、それも毎日欠かさず供えられている。猫の額ほどの曲がり角には、淡い色合いの花が隙間なく並べられている。その光景は見ている者をいささか不気味な心地にさせるが、亡くなった者の死を悼む人々にとって献花は、生きる希望そのものだった。そのため、曲がり角に供えられる花の数は減ることがなかった。
しかし、そんな死者への献花に最も手を焼いているのは、事故に遭った死者本人だった。
献花には、その花の周辺に死者の魂を繋ぎ止めてしまう作用がある。もちろん、献花する人の思いが弱まったり、献花の回数自体が減少すればそのまま成仏できるのだが、この曲がり角に花を供える人々は、不運な事故で人を亡くしている方がほとんどだ。それゆえ死者を弔う気持ちも非常に強く、そして年月を経ても途切れることがない。
そのため、この曲がり角に献花された花の周りには、夜な夜な死者の魂がひしめき合うことになる。だが、この情景がまさに阿鼻叫喚といった有様なのである。
交通事故に遭った者ばかりが集まるので、腕や足が欠損して、新雪のように白い骨を破れた皮下組織からさらけ出している者など当たり前で、ダンプカーの巨大なタイヤに腹をすり潰され、レバーペーストのような形状の内蔵を腹からこぼして引きずる者や、文字通り首の皮一枚繋がったまま、ぶち切られた髄や神経をスパゲティのように垂らして血液を噴出させている者までいる。それらが狭い曲がり角で、押し合いへし合いしながら、お前が邪魔だ、いいやお前だ、などと罵倒しあっている光景を、地獄絵図と言わずしてなんと言おうか。そういうわけで、今日もこの曲がり角は多くの死者で賑わい、お互いの場所取りに死力を尽くしているのであった。
そのとき、血や臓物を垂れ流しながら、汚らしい言葉でお互いを罵り合う彼らの耳に、何かが聞こえてきた。遠くのほうでかすかに聞こえる程度だったそれは、巨大な壁となって死者の方へ押し寄せてきた。罵り合いを止めた彼らは呆けたように音のする方を見た。すし詰め状態の死者たちの頭に、なにか悪い予感めいたものが覆いかぶさった。壁は荒々しい呼吸と蹄の音を響かせながら、次第にその姿を現してきて、ついに死者たちの目の前まで近づいてきた。その壁から、右腕と肩を失い、胸にガラス片をいくつも突き刺した飼育員風の男が、申し訳なさそうに、しかし人懐っこい顔をして歩み寄ってきた。
「あの、すいません。この曲がり角で死んだらここで世話してもらえって天の声がしたんで来たんですけど、大丈夫ですかね? それにしても、こんなにいらっしゃるとは思わなかったなあ。いやあ、しかし、後悔先に立たずとはよく言ったものですね、運転中にうっかり居眠りをしてしまうなんて。僕だけならまだしも、こいつらまで巻き添えにしちゃうんだから、申し訳ないというか、まいっちゃいますよ、本当に」
頭に手をやりながら、はははと笑う彼の背後には、鼻を鳴らし、ビー玉のようなつぶらな目でこちらを睨む血まみれの豚の大群がいた。
<了>
『真夜中の手前で』(テーマ:雨)
ファミレスの外では今日も、雨が降り続いている。
あと10分ほどで日付が変わる、深夜のファミリーレストラン。客は大学生風の男女と、パソコンに向かって真剣に文章を打ち込むフリーターだけで、夜の空気と同じように、静かな時間が流れている。
店内の窓際の四人掛けの席に女が座っている。テーブルに置かれたものはアイスコーヒーだけで、ほとんど手が付けられていない。
女はぼんやりとガラス窓を伝う水滴の軌道を目で追っている。その姿は、水滴に映り込む通行人の顔を、一人一人観察しているようにも見える。しかし女の焦点はその誰にも合わせられていない。女の網膜はどんな情報も脳に伝達させていないようだ。そして時折オレンジ色のセーターの袖をめくり、腕時計の文字盤を睨んで、ため息をつく。思い出したようにアイスコーヒーを一口飲むと、また外の景色を曖昧に眺める。
女には高校生のような純朴な雰囲気はないが、社会人特有の諦観の気配もない。おそらく大学生ぐらいの年頃と思われる。艶のある髪を肩口まで伸ばしている。野暮ったい一重まぶたに軽く上を向いた鼻梁。柔らかそうな唇は薄く開かれて、たびたびその隙間からため息が漏れる。
女の隣の座席にはフードファー付きのダウンジャケットが置かれている。足元には水滴をまとったビニール傘が転がっている。ファミレスの店内は暖房によって快適な温度に保たれている。ずっと暖かい日が続いていたが、昨日になって急に冷え込みが厳しくなった。昨夜からやんわりと降り始めた雨は今日になって勢いを増し、林立する建物の隙間に休むこと無く降り注ぐ。
雨に霞む街並みと腕時計を交互に見る、その規則的な運動を何度か繰り返して、女はダウンジャケットを着込んだ。ビニール傘と伝票を手にして、大きめのため息をしてから、うつむきがちに立ち上がる。店内の壁にかかる時計の針は23時56分を指している。
女はレジで会計を済ませると、出口へと身体の向きを変える。そのとき、降りしきる雨の音に混じって激しい靴音が聞こえてくる。入り口の照明に照らされて、男のシルエットが浮かび上がる。自動ドアが開くのも待ち切れないという風にして駆け込んできた男は、肩で大きく息をしている。コートや髪が雨にぬれて、床に小さな水たまりがいくつも出来上がる。
呼吸を整えながら、男は手に持っているケーキの箱を、目を丸くしている女の方へ差し出す。男は、遅れてごめん、と詫びの言葉を述べながら微笑んだ。女はその箱を受け取ると、雨に濡れた箱と男の笑顔を交互に見やり、ふいに大粒の涙をこぼした。
「間に合ったよな?」額に浮かぶ汗と雨の滴を拭いながら、男が尋ねる。女は嗚咽をこらえるように口元を手で押させ、うん、うんと何度も頷く。そうか、よかった、と男がホッとため息をつくと、行こう、と言って外を示した。外気に冷たくなった男の手に引かれ、目を涙で真っ赤にさせながら、女はファミレスを出た。
ファミレスの外では今日も、優しい雨が降り続いている。
<了>
『兄と妹〜And need in mood』(テーマ:妹)
お前は、その、俺の妹じゃないんだ、というか、そもそも人間じゃないんだよね、と目玉をきょろきょろさせてクソ兄貴が言うもんだから、あたしは一口も飲んでいないホワイトモカをずぞぞぞっ! と半分ほど一気に飲み干して言った。死ね。
半分冗談、半分本気で言ったんだ。どうしても話したいことがあるんだ、って兄貴が玄関の三和土に額をこすらせながら土下座をした。朝っぱらから頭を下げてきたから、きっとこれはとんでもなくインポータントなことを伝えてくれるんだろうと思った。だからえっちゃんと一緒に映画を観る約束をドタキャンしてまで店に来たのに、ええい、もう、どうしてくれるのよ? 今からでもえっちゃんに侘びのメールを送って、仲良く『猿のしゃらく星』を観に行ったほうがいいんじゃないのかしら。
そう思って席を立ったらお願いだから話を聞いてくれって、アホ兄貴が言う。鼻水をすすりながら声を張り上げて懇願するもんだから、周りに客の視線がレーザー光線のように、ズビビビッとこっちのテーブルに飛んでくる。あたしの顔をかすめて飛び交う光線を俊敏な動作で避けながらしぶしぶ席につくと、兄貴のやつ、スマートフォンを持ちだしていきなり口早に説明し始めた。
で、その内容がまた噴飯物なんだけどさ。兄貴のスマートフォンには「妹と過ごす新しいエデンを、あなたに」という有料アプリが入ってる。ずっこけちゃいそうな名前だけど、会員数はうなぎ登りに増えているらしくって、通称『IAEA』と呼ばれてる、ってバカ兄貴が大真面目に言ってたけど、本当? まあこれに会員登録すると、まずどんな妹が欲しいか入力する欄があるんだって。項目はいっぱいあって、年齢や座高、血液型なんかは序の口で、たとえば右の掌の生命線の長さとか、手首にカッターの刃でつけた傷跡の本数と深さとか、左足の爪を全て陥入爪に罹患させてほしいとか言いたい放題で、もう、世の男一人一人にぶーっ! と唾を吹きつけてやりたいわよ。さげぽよでホワイトキックって感じね、ほんと。
己の欲望に従って妹を注文したら、あとは決定ボタンをクリックして届くのを待つだけ。二、三日したらコンコン、ちわー、宅配便でーす、ってな具合で自宅に届いたそれは手ごろな枕みたいな大きさのダンボールで、「ナマモノ」という注意書きがあるのに商品名はパソコン部品になってる。ワイセツな品物にはそういう表記をして、ご近所や身内の監視網を突破させるらしいんだけど、なに。あたしって、北海道のカニ問屋から直接取り寄せたズワイガニと夜の夫婦生活のお供になる玩具の亜種なのかしら。
届いた品物を開封すると、子宮から取り出されたばかりの赤ん坊くらいのサイズのパン生地みたいなのが入ってるんだって。クリーム色したその固形物を箱から出して、それで、これがまた傑作なんだけど、この塊をどうするかっていうとね。お湯の張った風呂に放り込むんだって。ザブーンっと湯を巻き上げながら。なにそれ、ギャグ? と思ってると、おばけパン生地は浴槽の中でうねうねと蠢いて形を変える。うねうねうねうねうねうねうねうねってクラゲのダンスみたいに揺れながら、きっかり三分、カップラーメンみたいに、へいお待ち、と風呂から妹が登場するってわけ。ほんとにもう、アホすぎて気が変になりそうだわ、まったく。
そんな説明を一気にまくし立てて、アホ兄貴はガムシロップを七個投入したアイスコーヒーをすすって真っ赤になった鼻をかんだ。先週からずっと風邪をひいてて今もまだ完治してないみたい、ってそんなことは砂漠の隅にでも置いておいて、あたしは兄貴に質問を浴びせる。
「で、あたしがその、IAEAだっけ? そいつによって作られた妹だっていうわけだ。インスタントラーメンみたいにお湯で戻して身体から湯気を発しながら出来上がったのが、あたし?」
そういうと、いかにも申し訳なさそうな顔をしながら、頷いたんだ、このへっぽこ兄貴は。あらら、あっさり首肯されちゃった。
「へえ。でも、あたしのこの脳みその収納棚にはちゃんとあるんだなあ。中学の運動会でお互い鬼の形相でタコさんウインナーを奪い合った記憶、逆上がりができないあたしを近所の緑化公園でフレフレガンバレー! と応援する兄貴の記憶、あたしの誕生日にモアイ像のペンダントを買ってきて大笑いされた兄貴の表情の記憶。ラベル付きできちんと保存されてるけど、これはなんなのさ?」
「ぜんぶプログラムされたものなんだ。俺がIAEAでぽちぽちと打ちこんで、あらかじめお前の頭にインプットさせておいたんだ」鼻水をすすり上げながら兄貴が言う。
「ふうん、じゃあなに、あたしもそのうち消えるわけ? この手足も髪も洋服も、全部パン生地に戻っちゃうんだ」
洋服は別だけど、と言って兄貴がずぞぞぞっ! とアイスコーヒーを飲み干す。そして、ちらと時計を見たかと思えば、あと三分、と独り言みたいに呟いた。
なにが三分なんだろう、神妙な顔して、このバカ兄貴は。今日ってエイプリルフールだったっけ? 鼻水を拭いすぎて鼻の頭が真っ赤になってるのがほんと滑稽な感じになってる。なかなか面白い物語だったけど、嘘をつくならもうちょっと上手くやりなさいよ、もう。
でも、どうして急にこんな妄想を語り始めたんだろう。もしかして……いやいや、そんなはずないじゃない。だってあたしのこの脳内フォルダにはちゃんと兄貴との思い出が収められているもの。そう思って自分の頭をさすろうとしたら、水気の抜けたこんにゃくみたいな感触が頭部に当たってビクッとした。なんだろう、と思って手をみたら、なにこれ、あたしの手、こんなクリーム色だったかしら?
どうして、ねえどうしてよ、なんでもっと早く言ってくれなかったのアホ兄貴。あれよあれよという間に、あたしの身体はドロドロに溶けていく。それを真正面で見ている兄貴の目は、いやだ、なんでそんな悲しそうな目をしてるの。やめてよ、そんな目をしないで。えっちゃんとの映画とかどうでもいいわ。バカとかアホとか死ねとかも言わない。誕生日に変なプレゼントを貰っても笑わないから、そんな目をしないでよ。手を伸ばそうとしたけど、あたしの手は急速にパン生地になっていって、視界もぼやけてくる。
IAEAで作られたことや、身体がパン生地になることは怖くない。怖いのは消えていくことじゃないの。あたしはただ、兄貴に裏切られるのが怖くて、そして途方もなく泣きそうだ。ねえ、どうしてこんな悲しいことをするの。あたしの頭に捏造の記憶を入れて、兄貴はあたしにどうしてほしかったの。風邪をひいてる兄貴におじやを食べさせたときの、ありがとう、っていう笑顔は嘘だったの。ねえお願いだから、普段どおりの優しい顔を見せてよ。お願いよ、おにいちゃ
<了>
夜の短編喫茶その2
『赤い絲』(テーマ:糸)
学校帰りに何気なく普段とは違う道を歩いていたら、見慣れないコンビニを見かけた。こんなところにコンビニがあるなんて知らなかった。渡河麗(とかれ)はユニークな店名と、欧風でファンシーな外観にひかれて、そのコンビニに入ってみることにした。
入店すると、コンビニの外装と同じ色合いの制服を着た店員があいさつをして、渡河麗は増々気分が高まった。しかし、陳列されている商品は普通のコンビニで並べられているものばかりだった。高揚していた気分が急速に温度を下げていくのが分かった。ひと通り店内を見まわり、気落ちして出口に向かおうとしたとき、ふと自動ドアの近くの棚に「赤い糸あります!」と書かれたポップが飾られているのに気づいた。興味をひかれて目をやると、長方形のプラスチックケースに入った赤い糸が棚に整然と置かれていた。渡河麗は店員のほうを振り返りながら、すいません、と声をかけた。
「はい、なんでしょう」
「あの、この『赤い糸』って、漫画や映画にあるような、あの『赤い糸』ですか?」
「ええ、そうですよ」駅までの道のりを教えるように、店員は平然と答えた。
「運命のパートナーとかが分かる、あの?」
「はい、その赤い糸です」
渡河麗の脳裏に、憧れの卓也先輩の顔が浮かんだ。同じテニス部活の一学年上の先輩で、インターハイの個人トーナメントでベスト4に入るほどの腕の持ち主であり、部内での信頼も厚い。渡河麗が尊敬し、そして密かに思いを寄せる相手だった。
店員の顔を半信半疑で眺めながらも、何も買わずに店を出るのは気が引けたし、この赤い糸とやらの正体が気になったので、まあ物は試しだ、という顔をしながら、渡河麗は赤い糸を購入して帰路についた。
二階にある自分の部屋に入ると、さっそく例の赤い糸をケースから取り出した。箱の中には薄い説明書が入っていた。糸の先端を左手の薬指に巻きつけておけば、人生の伴侶となる異性が誰なのか、赤い糸が導いてくれる、とだけ書いてあった。
訝しく思いながらも、糸を指に何周か巻き付け、外れないようにしっかりと止めた。すると、もう一方の糸の端が突然ふわりと浮き上がり、ツバメのように部屋のドアへと伸びて、床とドアのわずかな隙間をくぐってしまった。
慌てて部屋を出ると、糸は階段を一直線に下り、どうやら玄関へと向かっているようだった。どうやらこれは本当に赤い糸らしい、と渡河麗は指から伸びる糸をまじまじと見ながら確信した。ならば、この糸を辿った先には、一生のパートナーがいるはずだ。居ても立ってもいられず、靴を履くことさえもどかしそうに、渡河麗は家を飛び出した。
糸を辿りながら、渡河麗は赤い糸についていくつか発見をした。一つは、どうやら糸は本人以外の人間には見えていないこと。糸は人通りの多い商店街や、三車線の道路などを一直線に横切っているが、驚く人はおろか、視線を向ける人すらいない。そしてもう一つは——これは最初、渡河麗には信じられないことだったのだが——、糸が様々な物理法則を無視していること。どうやら糸は自分の現在地と相手の位置を最短で繋いでいるらしく、壁や塀、通行人や犬などをすり抜けて伸びている。渡河麗は不思議に思いながら、糸の先を辿っていった。
10分ほど走って、渡河麗は国立公園の入り口にたどり着いた。家を出てからずっと全速力で走ってきて、すっかり息があがっていた。糸は園内を突っ切るように、真っ直ぐ伸びていた。
渡河麗はふと、冷静にこの糸の先にある風景について考えてみた。ここまで走ってきたものの、運命のパートナーが町内にいるとは限らないじゃないか。隣接する県まで伸びているかもしれないし、太平洋を横断しているかもしれない。それに、当然ながら、赤い糸が卓也先輩を指していない可能性だって、十分にある。
額や背中に汗を流しながら、渡河麗はひどく絶望的な気分に陥ってた。砂が詰まったように重くなった足をひきずるようにして、糸を辿っていった。公衆トイレの脇を通り、噴水広場を抜けて、ぼうっと歩いていた渡河麗は間近に迫った樹に気づかずに額をぶつけた。
打ち付けた箇所を抑えながら、渡河麗はあれ、と思った。ぼんやりしていたとはいえ、自分は糸を追って歩いていたはずだが……首を傾げながら眼前の樹を見て、渡河麗は目を見開いた。樹の幹に何周も赤い糸が巻き付けられていた。そしてそこから伸びる糸は、自身の左手の薬指に続いていた。
渡河麗は真っ暗な洞穴に頭から落ちて行くような気持ちになった。糸の先にいるのが自分の望む卓也先輩でなくても、せめて真っ当な人間であることを心のなかで願っていた。それなのに、生涯を共にする伴侶が、まさか公園の木だなんて。信じられない気分に、目の前が暗くなって、渡河麗はよろよろと地面に膝をついた。
「大丈夫?」と、頭上から男の声が聞こえた。放心状態の渡河麗は、虚ろな目で声のほうを振り向いた。
「お、なんだ渡河麗じゃないか。どうしたんだ、こんなところで」
目の前にいたのは、卓也先輩だった。あまりの衝撃に、渡河麗は赤い糸のことなど忘却して、頬を赤くしながら答えた。
「え、あの、いや何となく……せ、先輩は、どうしてここに?」しどろもどろになりながら訊くと、
「俺、よくこの公園でランニングしてるんだ」
「ランニング?」
「そう、部活が休みの日は欠かさずね。部員には恥ずかしいから言ってないんだけどな」
皆の知らないところでこんな努力を積み重ねてたんだ、と渡河麗は感嘆した。
「で、さっき走ってたら道端で倒れてる人がいたからさ。具合悪いのかな、と思って駆け寄ったらお前だったんだもの。いやあ、びっくりしたよ」
快活そうに先輩は微笑むと、それじゃあ、と言って先輩は立ち去ろうとした。それを遮るように、
「ま、待ってください!」渡河麗は拳を固く握り締めながら、先輩を呼び止めた。
「ん?」
「あの……わたしも、一緒にしていいですか?」
言ってから、渡河麗はハッとした。考えて言ったわけではなかった。自分が先輩に誘いの言葉をかけるときが来るなんて、夢にも思っていなかった。
「するって……ランニング?」
「はい!」
先輩は少し目を丸くして、すぐに屈託の無い笑顔になって、
「いいぜ、やろう! 走ってるときの話し相手がほしくてさ……でも、渡河麗の足の速さじゃあ、置いてっちまうかもな」
「そ、そんなことないですよ!」
絶対に追いついて見せますから、と宣言をした。
「じゃあ、さっそく今から走ろう。とりあえず公園をぐるっと1周な」
そう言って先輩は走りだした。慌てて後を追おうとして、ふと赤い糸のことを思い出した。左手の薬指に糸はなかった。先ほどの糸が巻き付いた樹を見たが、ただ風に葉を揺らしているだけだった。
おーい、早くしないと置いてくぞ、という先輩の声に返事をして、渡河麗は走り始めた。頬を切る風が心地良く、先程までの重い足が嘘のようにぐんぐんスピードが上がった。目の前を走る先輩の大きな背中を見ながら、渡河麗は自分がいま笑っていることに気づいた。なんだか、これから楽しいことが起こりそうな予感に、渡河麗はどうしても笑顔をこぼさずにはいられなかった。
<了>
『やすらぎの鍵』(テーマ:鍵)
仕事帰りにいつのものようにコンビニに寄って、缶ビールとつまみを買った。商品の入ったビニール袋をだらりとぶら下げながら、坂上は深いため息をついた。
頭のてっぺんまで禿げ上がった上司の叱咤する声が、鉛のような頭の中で反響した。響く声に同調するように、同僚や部下が己を蔑む声まで思い出された。確かに、入社してからの彼の営業成績は泥濁りの河川で釣りをするようにさっぱりで、それが上司の機嫌を大きく損ねていた。新入社員にも業績を追い抜かれて、心なしか、最近は部下が自分を見る目付きにも、憐れみや嘲笑の色が浮かぶようになっていた。坂上はまた一つ大きなため息をすると、背中を丸めながら家路を辿った。
シャッターの降りた店が目立つ商店街を抜け、車の通りも疎らな横断歩道をわたり、公園にたどり着いた。人のいない公園では常夜灯が煌々と光を放っていて、坂上は公園の外周に沿って歩いた。
すると、おや、とアスファルトの上でなにかが光った気がした。常夜灯の灯りに照らされた物体を拾い上げてみると、それは鍵だった。艶のある灰色をしている、普通の鍵。誰かの落としものだろうか、と訝しんでいると、鍵の頭部になにか変わった色彩で文字が彫られているのに気づいた。
人気のない道を歩きながら、鍵を街灯の光に透かすようにして見てみると、それは「やすらぎの鍵」と書かれていた。やすらぎの鍵だなんて、妙な名前だなあ。坂上はそう思いながら、しかしこれは、なるほど鍵の本質を表しているようにも思えた。外部からの侵入を防いだり、貴重な物品を誰かに盗られるのを妨げてくれる、心強い看守。そんな小さなボディガードは、確かに胸に詰まった不安の砂を取り去り、やすらぎを与えてくれる、頼もしい存在だ。
温かな気持ちに浸りながら、坂上は手先でその鍵を弄ったり、眼前に近づけたりしながら歩いていた。だから、手綱を失った馬のように猛スピードで真横から突っ込んでくる乗用車の気配も察知することができなかった。坂上の身体は乗用車のバンパーにめり込み、右脚と右腕が一瞬でぬれせんべいのように押しつぶされた。穏やかな夜の闇を、乗用車のブレーキ音がビリビリに切り裂いた。ガードレールに叩きつけられた缶ビールがひしゃげて、ビニール袋の中で泡を吹くシュウシュウという音だけが、静寂の只中にいる町の中で響いていた。
商店街から数十メートル離れた場所にある葬儀場で、坂上は荼毘に付された。突っ込んできた車の運転手は、乗車前に飲酒をしていて、運転中かなりの酩酊状態だったことが分かり、怪我の回復を待った後に逮捕された。
澄み切った青空の下、坂上の亡骸は家族や職場の面々に見届けられながら火葬された。事故の衝撃は凄まじく、彼の胸部には灰色に光る鍵がめり込んでいた。どうしても外すことができず、監察医も首を捻った。
「しかしまあ、とんだ災難だったねえ」と禿げた頭部を撫で上げて、男が言った。でっぷりとした腹をゆすり、葬儀場の隅でタバコを吹かしている。
「本当ですねえ」と彼の部下が鶏のように首を動かし、頷いた。
「まあ、正直なところ、彼にはさほど期待しておらんかったしな。ちょうど我社も人員削減に取り組もうと思っておったし……おや?」禿げた男はちらと足元に目をやった。窮屈そうに屈んで、なにかを拾い上げた。
「なんですか、それは?」上司の顔と鈍く光る鈍色の物体を交互に見ながら、部下が尋ねた。上司の手には灰色の鍵が握られていて、そこには焦げたバターのような変わった色合いの文字で、やすらぎの鍵と書かれていた。
<了>
『観察』(テーマ:穴)
何となく部屋から空を見たら、穴が空いていた。昼間だというのに、夜のように黒い穴が浮かんでいた。慌ててテレビを点けると、世界中の科学者が穴について調査をしているが、害があるのかないのか、それすら全く分からないと告げていた。テレビを消して、俺は空に浮かぶ穴を眺めた。すると、突然凄まじい風が窓を揺らした。民家の屋根がガタガタと揺れて、耳をつんざくような音が響き、俺は目をつむって床に伏せた。そして静寂の時間が流れた。ゆっくり目を開けて外を見ると、空にぽっかりと口を開けていた穴はもうなかった。
「こら、なにをやってる!」
父親の叱責の声が部屋に響いた。
「ごめんなさい、つい……」
息子は謝りながらも、あまり悪びれた態度は見せない。
「そのケースの穴は、夜間以外は覗いたらダメだって言ってるだろう」
「だって気になるんだもの、人間の文明もこんなに発達してきたんだしさ。ちょっと直接、この目で観察したくなっちゃって」
呆れた、という気持ちを隠そうともせず、父親は大きくため息をついて、
「せっかくここまで育ててきたのに、ここでお前の存在がバレたら元も子もないだろう。観察はケースの外からだけにしなさい」
はあい、と返事をして、息子はスケッチブックにケース内の光景を絵にしていく。クレヨンで色付けされる絵と息子の顔を見て、自分も昔はこんなだったなあ、と父親は懐かしく思う。スケッチブックの表紙には「夏休みの人間観察」と書かれていてた。そのページに目を輝かせて、熱心に色を塗る息子の姿。その背中に生える小さな羽と自分の羽を頭の中で重ね合わせてみて、父親は自然と笑みをこぼした。
<了>
『暗黒世界』(テーマ:化け物)
日本節足動物研究協会会長の樋波(ひなみ)博士は、ある日新種のダニを発見した。大勢の記者とカメラを前にして、たくわえた口ひげを誇らしげに弄りながら、
「これは世紀の大発見です。こちらの顕微鏡にその生物はおります。さっそく、皆さんにお見せしましょう」
大型スクリーンに脚の生えた黒ゴマのようなものを映しだして、樋波博士は口から唾を飛ばしながら解説した。
体長0.3ミリ程度の、砂粒より小さいその生物は、通常のダニと違って真っ暗な色彩を帯びていた。後体部には細かな毛が無数に生えている。そして一番の特徴として、どんなものでも捕食して栄養にしてしまうのだ。この発言には、怪訝な表情だった記者陣も反応した。
顎体(がくたい)部から突き出る鋭い口吻は、近づいたものは何でも吸収してしまう。血液……尿……樹液……ダイオキシン……にんにく……石炭……マリファナ……エサの種類は問わなかった。あらゆるものを取り込んでしまう、まさに究極の生命体である。解説する樋波博士は目を血走らせ、熱弁を奮った。
そもそも我が日本節足動物研究協会が設立された発端とその概要は、と恍惚の表情で樋波博士が語ろうとしたそのとき、小枝が折れるような音がした。どうやら顕微鏡が発信源らしく、博士が顔を近づけてみると、ダニを乗せていたプレパラートが割れていた。はて、どうしたことだろう、と首を捻っていると、至近距離で博士を撮影していたカメラマンが悲鳴をあげた。砂山が崩れるように、一眼レフカメラが火花を散らしながら、頂部から削れていった。なんだなんだと思っていると、今度は会見場の床が円を描きながら消滅していった。その時になってようやく、これは顕微鏡から逃げ出したダニが食い荒らしているのだと気づき、会見場は騒然となった。
崩壊を止めようと、各政府機関は血眼になってダニの捕獲にかかった。しかしダニの移動距離は相当なもので、駆けつけてみたらすでに大穴が空けられた塀や折れた電柱が無残な姿を呈していた、という状態だった。
何回か捕獲に成功したことはあった。機械によって吸引したり、火炎放射器で焼いたりもしたが、逆にダニによって機械ごと吸引されたり、かえって成長を促すだけだったりした。
さらにダニは捕食をするたびに身体を巨大化させていった。太陽の光を跳ねかえす黒々としたその姿は、凝縮した憎悪や悪意に脚が生えているようにみえた。裏山に投棄された粗大ごみ……内蔵をぶちまけて米粒のような蛆が湧いている猫……湿気と腐敗でページがくっついたグラビア雑誌……挫傷したタンカーから漏れ出た重油……世の中に溢れるあらゆる邪悪を食べて、ダニは自らを悪意の象徴として成長させ続けた。
「おおい、やめろ、やめるんだ、おおい」近寄らないほうがいいという自衛隊員からの警告を無視して、樋波博士は蒼白な顔でダニの前に現れた。
「私はお前を見つけた、最初の発見者だぞ。生物というのは、誰かにその姿を認知されて初めて意味を持つんじゃ。お前に意味を付与した、つまり生みの親である私にそっぽを向いて、こんなことは許されるはずがない! おおい、もうやめるんじゃ、おおい……」
コンクリート瓦を食べていたダニが、八本の脚を器用に動かして樋波博士の方を向いた。おお、分かってくれたか、と顔をほころばせて歩み寄る博士に口吻を差し出したダニは、ずちゅんと音を立てて樋波博士の血液を吸収し、皮膚や臓器や骨や筋肉を瞬時に取り込んでしまった。だから言ったのに、と苦笑する自衛隊員も、片っ端からダニの栄養源になった。
世界中から強力な毒物や銃器や爆弾が投入されたが、まるで歯が立たなかった。衝撃で周囲の土地は荒れ果てたが、その地面もダニが消化してしまった。地球上を覆う海もダニによってあっという間に飲み干され、魚は家を完全に失った。家庭内の水槽で飼われている魚だけが難を逃れたが、結局家屋ごと食べられて絶命してしまった。
ダニが成長のスピードを緩めることはなかった。あらゆる大地を食べて、閉ざされた氷を飲み、空を吸収した。もはやダニの成長は地球では収まりきらなかった。マントルを頬張り、地球の内核を飲み込んだダニは、いつの間にか宇宙空間に放り出されていた。ダニは手近にあった星々を口吻で吸収し、休むこと無く養分として吸収していった。宇宙の終焉を見守るものは、もはや誰もいなかった。
……なんだろう、ダニの様子がおかしい。気のせいだろうか、なにやらこちらのほうを向いている。いや、しかし、そんなはずはなかった。我々はこの物語を語る「視点」なのだ。話に直接関わることはできず、言葉を用いて読み手に伝えることだけを課された単なる「視点」である。だから、あちらは我々の気配すら感じることはできず、ましてこちらが捕食されることなどありえない。ありえないのだが……なんだろう、ゆっくりとこちらに近づいている。口吻をせわしなく動かして……まさか、気づいてるのか。我々「視点」の存在に。そんなはずはない。そんなはずは……やめろ、おおい、こちらに来るな。やめろ、おおい、やめてく
<了>
夜の短編喫茶その1
『ベストショット』(テーマ:卒業写真)
部屋の片付けをしていると、収納棚から懐かしいものがでてきた。それは中学校の卒業アルバムだった。
作業の手を止めてページをめくっていると、一枚の写真が滑り落ちた。拾い上げてみると、そこには古めかしい体育館を背景に、頬を紅色に染めた私と、不貞腐れたようにこちらを睨む彼が写っていた。
なんだ、彼もこれを持っていたのか。どこかに失くしてしまったと言っていたのに。そう思うと自然と笑みがこぼれた。
中学校の卒業式の日は、やけに肌寒かったのを覚えている。重たげなちぎれ雲が空を覆い、湿気を含んだ空気が皮膜のように身体にまとわりついていた。
「せっかくの卒業式なんだから、晴れてくれればいいのになあ」と彼——久保文彦はため息まじりに呟き、目を細めた。こっちの気分まで暗くなっちゃうよ、まったく。独り言のように話すその声を聞きながら、彼が落ち着きなく横目でこちらの様子を窺っているのが私には分かった。
久保君から告白を受けたのは、卒業式の前日のことだった。体育館で行われた卒業式の予行練習のあと、ケヤキの木がそびえ立つ、人気のない体育館裏に呼び出されたのだ。
告白の内容はあまり覚えていない。彼は両手を固く握りこませながら、訥々と、しかし真っ直ぐこちらの目を見ながら、自分の気持ちを打ち明けてくれた。だが、生まれてから一度も、そういった交際の申し出を受けたことのない私は、平静さを失って、彼の言葉に首を動かすだけの、出来損ないの機械になっていた。私は頭のなかの脳みそが、熱を帯びたモーターになってしまったような気がした。そしてモーターのうなる音が頭蓋のなかで反響して、告白の台詞を曖昧模糊にしてしまったのだ。
風がケヤキの枝を揺らして、内密な情報を話し合うときのような音を立てた。すると、久保君はふう、と一つ息を吐いて、返事は明日でいいから、と笑顔で云った。変に繕った、不器用な笑顔だった。拍動する心臓の音が耳元で、やけに近く聞こえた。じゃあ、と手を振ると、彼は制服の前をかけ合わせ、足早に去っていった。去っていく黒い学生服の背中に、彼の笑顔がいつまでも残像となって張り付いていた。
——それで、昨日のことなんだけど。
いくらかトーンを落としたその声に、私は回想の世界から呼び戻された。声の方を向くと、真剣な面持ちの彼の顔があった。細く吊り上がった一重瞼から覗く瞳が、じっとこちらを見つめている。
返事はもう決まっていた。昨晩ベッドに潜り込み、天井を眺めながら返事の内容を考えていた。じっと天井を見ていると、次第に天井が透き通り、向こう側に広がる星の瞬きが見えてくるような気がした。とにかく誠実に彼に返事をしよう。そう決意して、昨晩は浅い眠りについたのだった。
私は大きく息を吸い込み、気を抜くと飛び出してしまいそうな心臓を押し戻した。そして彼の双眸を見返し、「その、昨日はありがとう」と言葉を紡ぎ始めた。「それでね、実は私も、その……」としどろもどろになりながら、ようやく一本の糸が出来上がろうとした、そのとき——
「ふみちゃーん!」と体育館のほうから、こちらに向かって呼ぶ声がした。私は肩をびくりと震わせた。
彼は慌てながら、「か、母さん!」と声を上げた。「お母さん?」と私が訊くと、「ああ、そうだ」と嘆息しながら云った。ブラックフォーマルのスーツに身を通し、カメラを手にしたその女性は手を振りながらこちらに近づいてきた。どこに行ったのかと思ったら、こんなところにいたのね。そう云って微笑む彼女は、あら、と細い切れ長の目を動かして、
「もしかして、お邪魔だったかしら?」
私と久保君を交互に見据えながら云った。
「そ、そんなことないけど」
久保君は視線を足元に落としながら答えた。ふーん、と興味なさげに云う彼女は、しかし私と目を合わせて、軽いウインクをした。そうだ、と芝居がかった口調で、
「せっかくだし写真撮ってあげる。ほら、二人並んで」と私たちにカメラを向けた。
余計なことしやがって、と久保君はひとりごちながら私の隣に並んだ。恥ずかしさで頬が火照っているのが自分でも分かった。身体の中に風船が押し込まれたように、息苦しさが胸一杯に広がった。二人ともお似合いだよ、という母親の声に、「うるせえ、はやく撮れ!」彼が怒鳴った。はいはい、と取り付く島もないような返事をした母親が、カメラのシャッターを二回切った。
この写真は、その時に撮られたものだ。私は写真をアルバムに戻しながら思い返す。卒業式の翌日、久保君のお母さんがわざわざ我が家まで現像した写真を持ってきてくれたのだ。ありがとうございます、と感謝の意を述べると、
「いいわねえ、恋って」と目を細めながら、いたずらっぽく笑ったのが印象的だった。
それにしても、と私は部屋の隅に置かれた仏壇に目をやって微笑んだ。卒業式の前日に告白なんて、あなたもずいぶんロマンティストなのね。
仏壇に飾られた写真のなかの彼が、うるせえ、と顔をほころばせたような気がした。
<了>
『LIVE』(テーマ:チケット)
どうしてもそのバンドのライブに行きたかった。いや、行かなければならなかった。
12月25日の東京ドーム公演。その日のチケットを、私は何が何でも手にしなければならなかった。しかし、熱烈なファンを多く抱えるそのバンドのチケットを手に入れるのは容易ではなかった。チケットをより入手しやすくするため、私はそのバンドのファンクラブに入会した。
しかし、ファンクラブの会員だからといって、全員が希望する日にちのライブに行けるわけではなかった。まして、クリスマスという特別な日に行ける人は、ファンの中でも一握りの者だけだった。チケットの争奪戦は熾烈を極めた。
私はいち早く12月25日のチケットを購入しようとしたが、厳しい抽選の末に外れてしまった。インターネットや電話、あらゆる手段を使ってみたが、運悪く全て売り切れとなってしまった。ディスプレイに浮かぶ「売り切れ」の文字を見ながら、私は苦い絶望を味わい、ため息をついた。
私がこのバンドのファンになったきっかけは、彼らの曲が有線で流れているのをたまたま耳にしたことだった。それは長年愛しあってきたカップルが、クリスマスに別れるという内容の、スローテンポな曲だった。夢を追って上京する男と、それを引きとめようとする女。しかし女の説得も虚しく、男は女に背を向き、東京行きの電車に乗り込んでしまう。詩のストーリーはありきたりだが、私はその歌を聞いた瞬間、全身に鳥肌がたったのをよく覚えている。特にボーカルの声が、私の心を強く打った。その声を聴いた瞬間、私の心臓がどくんと大きく脈打った。その時から、私は決意を固めていたのだ。このバンドのライブに行こう。ボーカルの声を、顔を、この身体に焼き付けよう。この歌と同じクリスマスの日に——
そして、12月25日がやってきた。その日は朝から雪がちらつき、開演時間になるとさらに降雪は激しくなった。東京ドームのライトが舞い落ちる雪を淡く照らすその光景を、私は胸を高鳴らせながら眺めていた。
あれから結局チケットを手にすることは叶わなかった。会場や駅前にダフ屋がいないか見回してみたが、最近は取締が厳しいのか、その姿は全く見えなかった。
東京ドームが震えたかのような歓声があがった。続いて反響して聞こえてくる、楽器の音色とビート。会場全体から沸き立つ熱狂的な声が、会場の外からでも聞こえてきた。そして——あの声だ。
聞き間違えようもない、ボーカルの声。鼓膜を直に震わせるその声に、私は込み上げてくる涙を必死で抑えた。泣くのは、この目で彼の姿を見てからだ。
自らを奮い立たせて、私は入場ゲートの方へ向かった。チケットの確認をしている係員を無視して、私はずんずんと進んでいった。もしもしお客様、と肩を掴まれた。20代前半くらいだろうか、二重まぶたがくりくりと動く、チャーミングな顔立ちをしたその女性は、チケットを見せるよう促した。あらすいません、忘れていたわ、とバッグ内をさぐって、私はチケットの代わりにナイフを取り出した。目の前に突如突きつけられたその刃に驚き、女性はずるずると床に崩れ落ちた。
ドーム内へ続く扉を開けると、ムッとするような熱気が流れこんできた。ライブはまだ始まったばかりだが、人々は腕を振り上げ、歌詞を口ずさみ、ステージに釘付けになっていた。
私はずんずん進んでいった。アリーナ席に降り立ったとき、入り口での騒ぎを聞きつけたのか、痩身の男性スタッフに厳しい声色で呼び止められた。
「あなたですね、入り口でチケットを見せずに入ったのは。そういうことをされては困ります、さあこちらへ……」と連行しようとする男性スタッフの胸に、私は飛び込んだ。ずん、という確かな手応えが、ナイフの柄から手に伝わった。首を締められた鶏のような声を出して、男性スタッフは腹を抑えながらくずおれた。
アリーナ席の最前列に着くと、私はスタッフの静止する声も無視してステージへ飛び乗った。係員やスタッフが慌てて取り押さえようとするのをかわして、私はボーカルの元へと駆け寄っていった。
「ねえ、久しぶり」強烈な照明の光に照らされて見える彼は、汗に濡れて増々男らしい顔つきになっており、驚愕の表情で固まっていた。
「ど、どうしてここに……」先ほどまでの熱狂が嘘のように、満員の会場は静まり返っていた。
「ねえ、覚えてる?」私は口角を軽く上げ、微笑みながら尋ねた。
「なに、を……?」
「あなたが私を置いて、東京に行ったこと。ひどいなあ。私、すごい寂しかったんだからね」
そう言って私は彼に抱きついた。会場のあちこちからざわめきが生まれ、あたりに伝染していった。そして私は隠し持っていたナイフを取り出して、彼の耳元で囁いた。
「メリークリスマス」
彼の首から鮮血がほとばしった。
<了>
『ある鐘の独白』(テーマ:鐘)
私はもう疲れました。この男に暴力をふるわれるのは、もう限界です。雪がちらつく寒空に私を放り出して、男は何十回、何百回と私の腹を打つのです。打ちつける力は強く、体重を乗せているので重いです。あまりの痛みに私は身体を歪め、大声で叫びます。しかし、周りにいる人々はまるで見て見ぬふりで、憐れむような目を向ける人もいれば、恍惚の表情を浮かべる人までいます。男の暴力のせいで私の身体はぼろきれのようになり、くすんだ色になってしまいました。ですが、そんな暮らしも今日で終わりです。私はこの日を、男に復讐を果たすこの日をずっと待っていました。なにも知らない男は、馴れた手つきで私に狙いを定めています。口角を微かに上げた、いやらしい笑み。しかし、その油断こそが男の弱さでした。力を込めて振り落としてきた男に向かって、私は思いきり身体をぶつけていきました。私を繋いでいた金属製の留め具が弾けて、バランスを失った男の上に覆い被さりました。小枝の折れるような音がして、悲鳴が夜の闇を揺らしました。男は仰向けのまま舌を出して、白目を剥いています。雪の上に広がる血が白雪と混ざり合い、場違いなほどに綺麗でした。浅い呼吸を繰り返して、男の顔を見ながら、私は喉を振り絞って叫んでいました。その声は新年の空気に響き合い、音もなく地面に落ちる雪のように、ゆっくりと人々の耳に染み込んでいきました。
<了>
『処刑』(テーマ:嘘)
日本には、地域によって独自の刑罰を課している土地があってな。そのひとつに、「針千本飲ますの刑」という刑があったんじゃ。
その刑罰は、人を騙して金品を奪ったり、誰かに嘘をついて自分だけ利益をあげたり、まあ、今で言う詐欺じゃな。当時の日本では、詐欺は人を殺めるのと同じくらい重い罪と考えられていたから、それをやらかした悪人は、かなりきついお灸を据えられたのじゃ。
ほんで、「針千本飲ますの刑」の内容じゃが、これがまた、えらく地味でのう。火あぶりの刑やギロチンのように、大衆の目を引くようなパフォーマンスがあればまだいいものを、空疎な部屋で事務的に行われるから、なんとも味気ない。といっても、刑はそれ相応に苦しいものなんじゃが、まあ罰なんだから当たり前じゃろうな。
「針千本飲ますの刑」を科されたものは、まず四方を壁に囲まれた部屋に通される。部屋の真ん中にぽつんと椅子が置かれていて、受刑者はそこに腰掛けるように、執行人に言われるんじゃ。席に着くと、両手両脚を紐のようなもので椅子に括りつけられて、手際良く執行人の一人が受刑者の背後に周り込む。何をするかと思えば、いきなり両手で顎をがっしりと抑えて、無理矢理に天を向かせるんじゃ。そしてそのまま別の執行人が歩み寄り、手にした針をこちらに見せつける。わざわざ目の前で針を揺らしてみせて、恐れ慄くこちらの反応を楽しむんじゃ。わしは今でもたまに、あやつらの腐った卵の白身のような目が夢に出て、布団から飛び上がることがある。あやつらは人間の姿をしているが、とんでもない。モノノケかバケモノが人間の皮膚を被っているんじゃ。
すまんすまん、話が逸れてしまった。あやつらが手にした針は極普通の針で、ほら、君たちが家庭科の授業で使う、まち針があるじゃろ、あれと同じくらいのものじゃ。針先を下に向けて垂直に持ったまま、天井を見上げる受刑者の口元に近づけると、背後にいた執行人が強引に受刑者の口をこじあげるんじゃ。このとき無理に足掻いたり、抵抗したりしないほうがいい。執行人の腕力は相当なものだし、容赦がないから、ブチブチと口角を引き千切られ、刑務所から出るときにはすっかり口裂け男になってしまうぞ。
そうして開かれた口内に、執行人はスッと針を落とし入れる。執行人も手馴れたもので、歯茎や舌に触れないよう、咽頭に直接落としてくれるから、きちんと飲み込めばあまり痛みはないぞ。まあ、たまに意地の悪い奴もおって、わざと喉の筋肉にひっかかるように落とされたりもする。そうしたら、食事のときに支給される白米を丸めて飲み込むといい。コツはいるが、上手くいけば米のでんぷんがくっついてくれて、ストンと胃の腑に針が落ちるじゃろうて。
大変なのは刑の執行後で、歩くたびに指先でつねられるような胃の痛みに悩まされる。だから終始腰の曲がった、老人のような歩き方になる。無論、食欲は沸かないが、ここで十分に胃液を出して針を消化する必要がある。大便のときに悲鳴をあげることになるからのう。
もちろん、刑は一度きりでは終わらん。飲まされる針は一日三本で、たまに月に一日だけ休みが設けられる。そしてこれが一年間続くと、きっかり針千本飲んだことになるという寸法じゃ。まあ大抵のものは服役中に気が狂って刑務所内で首を吊ってしまったり、空の一点を一日中見つめるだけの傀儡に成り果ててしまうのがのう、わしはなんとか刑を全うして、こうして君たちの前で授業をすることができるというわけじゃ。
え、なになに。先生は全然、針を千本飲んだようには見えないじゃと。まあ確かに、傍目には分からんだろう。じゃがわしも昔はわんぱくでのう、よく執行人と殴る蹴るのすったもんだを起こしたりもしたんじゃ。その証拠に、ほれ。最近の医学の進歩は目を見張るものがあるのう。この人工皮膚がなければ、耳まで裂けたこの口が災いして、おちおち外も歩けん……おや、どうしたんじゃ、みんな真っ青な顔をして。おおい、大丈夫か、しっかりせい。おおい。
<了>
『メッセージ』(テーマ:手紙)
秋空の下をアマゾネスとダヴィが並んで街を散歩していると、どこからか不穏な気配を感じた。
「ダヴィ、なにか聞こえないか」
「アマゾネス、俺もそう思うよ」
木の根のような触手の先端から黄土色の液体をぶちゅぶちゅと噴出させながらあたりをうかがっていると、どこからか空気を裂く音が聞こえた。ふと頭上を見上げると、なにか眩い光を放った物体がこちらに向かって落下していた。二人は悲鳴をあげて尻餅をついた。
すさまじい轟音を立てながら、その物体は二人から数十センチ先の地面にめり込んだ。周囲に砂埃が舞って、二人はぎぃええッぎぃええええッと咳をしながら立ち上がった。
「ったく、なんなんだよ、もう……」
次第に砂塵が晴れてくると、二人は落下地点へこわごわと歩み寄った。硬い地面に幾筋も亀裂が走り、その亀裂の集約点に鉄製の物体があった。何度か躊躇しながらも、アマゾネスは思い切ってその物体を触ってみた。表面は滑らかで、光沢があった。
力を込めて地面から引き抜くと、鉄製の物体は長さが二十センチほどの偏楕円形をしており、中身が空洞であるかのように軽かった。卵型のその物体の胴回りには切れ込みがあり、カプセルをぐるりと一周していた。なんだろう、と二人は不思議に思い、八つある鼻で匂いを嗅いだり、紫色の舌でカプセルを舐めてみたりした。そして舌が横向きの力を加えた時、カラカラと音を立ててカプセルの先端が回った。
そのまま回していると、カプセルの先端部が外れた。中から一枚の紙が出てきた。二人は興味深げに触手を打ち鳴らしながら、その紙に書かれた文章を読んだ。
そもそも始めに、私の宇宙公用語は上手いじゃないことをあなたへ知るべきです。
手紙をこの持ったあなたはなんの星の者生きるか。私は分からない。しかし例えば、手紙をこの持ったあなたへ私の感情を把握したいほしい。こんにちは。
私の生きる地球はズダボロ。とてつもないズダボロでなっています。病気が完全にビュンビュンと飛んだ。病気が原因は分かるじゃない。だからズダボロなる。だいたい、私の集団が少ない時間でくそになるかもね。しかし仕方がない。あのズダボロは運命に私は分かります。
私の地球の虫の息の前の、私の宇宙の行きました。しかし私の宇宙の乗り物の活力のはズダボロでくそ。だから、手紙を死んで書きましたこれ。例えば手紙をこの持ったあなたが時は、地球はくそまみれだろう。だから死んでだろう。
私は微妙に、あなたに分かりますほしい。先祖、宇宙で地球あった。分かります? 私の感情へそれ一つです。こんにちは。
アマゾネスとダヴィは、最初は神妙な面持ちで文面を読んでいたが、だんだんフジツボのような突起物の付いた肩をわなわなと震わせ、最後にはぴぃぎえええッぴぃぎえええええッと腹を抑えて笑い転げた。要領の得ない地球人のちぐはぐな文章がおかしくて、ついに耐えられなかったのだ。どこまでも広がる秋の空の下、二人のぴぃぎえええッという笑い声だけが、遠浅の海の波の音のように長い尾を引いていた。
これは一体なんなのだろう、と少年は首を捻った。
アマゾネスとダヴィという宇宙人が、空から降ってきたカプセルの中にある手紙を読む。さらにその手紙には宇宙飛行士——それも、多分少年の住む星と同じ地球の——が書いたメッセージが載っていた。
少年はこの文章が書かれた紙を、学校の図書室で見つけた。宇宙の歴史に関する書物を探して本をめくっていたら、ページの間に挟まっていたのだ。
どこか絵空事のような内容だ。しかし、手紙の中の人物はおそらく、何か病気が蔓延して星が滅んだ、と言っていた。
「まあ、どうせ誰かが暇つぶしに書いた小説か何かだろう」
少年は紙を元のページに挟み、本を棚に戻した。時計を見ると、もうすぐ昼休みが終わる時間だった。結局目的の本は見つからなかったなあと肩を落として、少年は出口へと向かった。
ふと、少年は何気なく図書室の窓の外に目をむけた。そこには眩い光を放った物体が真っ直ぐに学校のグラウンドに向けて落下していた。
<了>
夜の短編喫茶~はじめに~
現在、Google+で「夜の短編喫茶」いう企画が開催されています。
夜の短編喫茶とは、提示されたテーマに沿って皆で自由に短編を書き、披露しあう催しです。
ここでは、私が夜の短編喫茶に投稿した拙作に多少修正を加えたものをまとめて載せています。
一つの記事につき四、五話ほどの短編が掲載されています。時間のあるときに読んでいただければ幸いです。
「ベストショット」「LIVE」「ある鐘の独白」「処刑」「メッセージ」
「赤い絲」「やすらぎの鍵」「観察」「暗黒世界」
「最終電車に揺られて」「群れ」「真夜中の手前で」「兄と妹〜And need in mood」
2011-11-13
スイートドロップ
まだ目を開けちゃダメなのかなぁと思いながら、私は誰もいない教室で美術館に展示された造形物のように椅子に座っていた。左手に握ったスイートピーの花束の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。身体の内側から沸々と湧いて、口から飛び出してしまいそうな焦燥感と不安を、その香りが何とか塞き止めてくれていた。
卒業式が終わって教室に戻り、級友と別れの言葉を交わしていると、塚本君に呼び止められた。この土地を離れて遠くの町に行ってしまう君に見せたいものがあるんだ、少しここで待っていてくれないか。その言葉が合図だったのだろうか、クラスメイトは急かされるように、しかしどこか楽しげな気配を制服のポケットに忍ばせながら、教室を出ていった。突然の出来事に当惑する私に、塚本君は柔和な笑みを浮かべて、「とりあえずそこの椅子に腰かけていてくれ。あ、それと、僕が合図をするまで目は開けちゃだめだよ」と指示した。制服や皮膚を通過して直接心に語りかけるような彼の声には、不思議と人を従属させる効果があった。気体の分子運動のように揺れ動く感情をどうにか抑えながら、私は彼の言葉どおり椅子に座り、軽く両目をつむった。廊下を駆ける彼の靴音が、いつまでも耳朶を打って離れなかった。
数十分ほど経った頃、扉を開ける音が静まった教室の壁に反響した。やあお待たせ、と私に声をかける彼は、おそらく走ってきたのだろう、動物じみた呼吸を断続的に続けていた。「それじゃあ屋上に行こう。僕が手を引くから、目は閉じたままでお願いね」と塚本君は云った。私は曖昧に頷いて立ち上がった。人気のない廊下を塚本君に先導されながら、私は「一体なにがあるの?」と尋ねた。ちょっとしたサプライズだよ、と彼は云った。君の門出を祝う、とっておきのサプライズさ。その言葉に顔や頸部がカッと熱くなるのが分かった。花束を握る手にじんわりと汗が滲む。まぶたの裏にある映写幕に、塚本君の屈託の無い笑顔が投影されたような気がした。
屋上へ続く階段を昇り、建付けの悪いドアが金属的な悲鳴をあげた――同時に吹き込んでくる、新緑の匂いを懐に抱え込んだ風。
塚本君に支えられながら落下防止用のフェンスを跨ぐと、彼は屋上の端すれすれまで私を誘導した。耳元で囁きを繰り返す春風の暖かな息遣い。その吐息を散らすように、ぱん、と小気味の良い肉で肉を打つ音がした。彼が自身の両手を打ち鳴らしたらしい。そして、さあ、と格式ある儀式の進行役のような明瞭な声で、目を開けてみてごらん、と云った。
ゆっくりと双眸を開くと、空を焼く西日が目を射抜いた。しばらく両目をしばたたかせると、次第に目が本来の機能を取り戻し始めた。遠くの送電塔から伸びている電線が空に亀裂を作り、風がいたずらにそれを弄んでいる。緑が映える丘陵地を背景に、ひしめき合うようにして並ぶ建て売り住宅やマンション群。その中から自己主張して屹立する銭湯の煙突。慣れ親しんだ――そしてもうじき別れを告げなければならない、生まれ育った町の風景。そして視線を足元のグラウンドに向けて――私は眼下に広がる光景に息を飲んだ。
私と塚本君を除く三十六名のクラスメイトが、微笑みながらこちらに大きく手を降っていた。その彼らと同じ数だけ用意された、淡い桃色のスイートピーの花束。それが均等に並べられて巨大なハート型を作り、さらにその周囲を級友が囲って、二重のハートマークを描いていた。
「おめでとう!」と男子生徒の声が聞こえた。それを皮切りに、級友の声が夏の日の夕立のように降り注いだ。「遠くへ行っても、俺らのこと忘れるなよ!」「向こうへ行っても元気でね!」何度拭っても生まれてくる涙のせいで声の主の顔は分からなかった。彼らの言葉の一つ一つが涙腺のポンプを押し上げ、私はどうしても嗚咽を止めることができなかった。「こらこら、せっかくの門出なんだから泣かないの!」「そういうあんただって泣いてるじゃないの」「ち、違うわ、これは汗よ、汗!」ハート型の輪から笑いが起きた。私も顔面を涙でぐしゃぐしゃに汚しながら、声を出して笑った。
ひとしきり笑うと、塚本君は微笑を浮かべながら「はい、これで全員分だね」と云って、私に花束を手渡した。受け取ると同時に、私は塚本君の胸に飛び込んだ。頭で考えていたわけではなく、まさに衝動的な行動だった。時間が呼吸を止めたかのようなわずかな沈黙のあと、彼は何も言わずに私の両肩を抱きしめた。制服を通して彼の掌から熱が肌に伝わり、火傷痕になる気さえした。その熱は血液に乗って全身を駆け巡り、閉じかけた私の涙腺を再び緩ませた。柔らかな無言の時が砂のように流れた。しばらくすると、彼は肩から手を離し、私を真正面から見据えながら、ありがとうと云った。その両目は深海から汲み取った水で満たされているように、澄んだ色をしていた。私は微笑みながら、うん、と首肯して、グラウンドに向き直った。
それじゃあみんな、と塚本君が溌剌とした声で屋上から身を乗り出しながら云った。「これから我がクラスの大事な一員である、彼女の門出を見届けようじゃないか!」と云うと、水鳥たちが一斉に羽ばたいたような拍手が起こった。
「ありがとう!」と私は喉を振り絞って、眼下で微笑むクラスメイトに感謝の言葉を叫んだ。そしてスイートピーの花束を両手にしっかりと持ち、私は屋上の淵で立ち上がった。風が舞い上がり、肩口で揃えられた髪がなびいた。涙はもう流していなかった。決心を固めた人の目に涙は浮かばないのだと、私は初めて知った。
「それでは、彼女の門出を祝福して……」と塚本君が威風堂々と言い放った。クラスメイトは一様に屋上に目をやり、直立不動の姿勢で胸を張って立っていた。
大きく息を吸い込んだ塚本君の「敬礼!」という号令と共に、クラスメイトは右手の肘を曲げ、右人差し指を頭部に付けて厳かに敬礼をした。そして私は両脚に力を込めて、屋上から飛び降りた。自分の身体が悠々と空を舞う綿毛になったような、今まで味わったことのない浮遊感と多幸感に包まれ、私はもう一度ありがとうと呟いた。その囁きは春風に乗って級友の隙間を駆け抜け、やがて銭湯の煙突が覗く町の中を吹き渡っていった。
夜の帳が下りた学校のグラウンドを、閑散と置かれた常夜灯が照らしていた。
頼りないその灯りの輪の中心に彼女はいた。周囲の暗闇から浮かび上がるような彼女の白い両手には、真紅に色づいたスイートピーの花が春の夜風に揺れていた。可憐に花弁を広げる花々が縁取るハートマークは幸福の赤で満たされ、そのなかで眠る彼女は慈悲深いほどの笑みをたたえていた。級友から門出を見送られた彼女は、自らの意思で、真っ赤に染まる海原へと船を漕ぎ進めていったのだ。クラスメイトの声に後押しされて、しかし決して振り向くことなく続くその船旅のなか、彼女は濃い潮の匂いに混じって懐かしい匂いがするのに気づいていた。それは鼻腔をくすぐるように甘く、そして郷愁を誘う、スイートピーの香りだった。
<了>
2011-09-27
灰色に咲く花
昔々、生物が死に絶えて荒廃した世界に、唯一の生き残りである男がいた。
男は瓦礫の上をあてもなく歩いて、助けを求めた。
おーい、誰かいないのか。いたら返事をしてくれ。
喉を絞りきるような声は、倒壊したビルの残骸に吸い込まれて消えてしまった。
汚水を含んだ脱脂綿のような雲が重たげに空を流れ、遠近感を奪う。
やがて男は痛みを伴うほどの空腹と喉の渇きを覚えた。
しかし生物の絶滅したこの場所には、雑草の一つ、雨水の一滴も無かった。
男の視界は磨りガラスのようにおぼろげになり、とうとう歩けなくなってその場にうずくまった。
もうだめだ……俺は、死ぬんだ。
横たわる男の身体を、絶望の影が覆いかぶさった。
しかし意識を失う間際、定まらない男の視線があるものを捉えた。
それは、足だった。
散り散りになった男の意識が、グラスが割れる映像を逆再生させるように急速に収斂していった。
多少骨ばってはいるが、筋肉は大ぶりで噛み応えがあり、砂礫や石の上を歩いて負った切り傷からは真紅の血が滲んでいる。
男は本能に突き動かされるままに、足に歯を立てて咀嚼し始めた。
唇を脂肪と血液でぬらぬらと濡らしながら、男は無我夢中で足を食べた。
一息入れる間もなく、男は腰、腹部、胸部、上肢、頭頚部を噛み、味わい、飲みこみ続けた。
それは生への執念だった。男の目はもう虚ろではなく、鮮明な光が宿っていた。
決壊したダムの水は、もう誰の手にも止められなかった。
男は生きるために、真っ暗な死の淵を駆け落ちていった。
雲の切れ目から真っ直ぐに伸びた太陽光が大地を刺した。
コンクリートの瓦礫のひび割れから、小さな花が顔をのぞかせていた。
それは太陽の光を浴びて、黄金色の粒子を放ちながら葉を広げていた。
その葉っぱの表面を、生まれたての赤ん坊の柔肌に触れるように優しく撫でる男の姿があった。
男は身体の全てを食べ尽くし、完璧な死を背負うと同時に永遠の生を得た。
その喜びを共感できる人間はもうこの世にはいなかった。
しかし、男はそれでも構わなかった。世界は温かく、美しいものに溢れているから。
なあ、そうだろ? 瓦礫の街で男は初めて微笑を浮かべた。
名前のない花が揺れた。
