ロマーリオ氏の言う「偽善」とは何を指しているのか?

2014年4月27日のスペインリーグ、ビリャレアルVSバルセロナ戦で、バルセロナのブラジル代表DFダニエウ・アウベス選手が、試合中に「投げ込まれた差別バナナ」をその場で食べてしまうという機転の利いた行動で、人種差別に屈しない強い心をアピールしたことが話題になっている。

参照元「アウベス投げ込まれた差別バナナ食べ勝つ」
http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20140429-1292677.html

世界の論調は基本的にダニエウ・アウベスを支持・賞賛する声であふれるなか、これらの支持・賞賛する声に対していちゃもんをつけたのが同じブラジル人で元ブラジル代表のロマーリオ氏である。

ロマーリオ氏は「アウベスがバナナを食べたのは、怒りをスポーツマンらしく表現しただけ。猿は猿にすぎず、人間は人間だ。彼は、自分のことを猿だとは言わないと思う」と話した。さらに同氏は「私はバナナを食べて自分が猿だというつもりはない。残念ながらブラジルでも偽善がはびこっているがね」と話した。

参照元ロマーリオ氏が拡散中の「バナナ」に異論」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140501-00000004-nksports-socc

筆者はここでロマーリオ氏に対し、「場の空気を読めない」と非難するつもりもなければ、「成功者にありがちな奢りの表明」と批判するつもりもない。もちろんロマーリオ氏を擁護するつもりもさらさらない(むしろ逆)。翻訳の問題などもあるが、筆者が気になるのはこの文脈で使われている「偽善」という言葉である。

「偽善」という言葉は「善」とは何かを知るものだけが使用できる言葉である。「善」とは何かを知らなければ「偽善」を知ることはできない。そして「善」とは何かという議論の歴史を知っていれば、「偽善」という言葉はおそれ多くて軽々しく使用することなどできないはずだ。ただ、ここで「偽善」という言葉を軽々しく使うロマーリオ氏の無知を端的に指摘したいわけでもない(が、結論としてはそういうことになるかもしれない)。

筆者は以前から、人種差別反対・障害者差別反対的を表明する者に対して使用されるときの「偽善」という言葉の使われ方が気になっているのである。

ロマーリオは「猿は猿で、人間は人間だ」と述べている。この指摘を文脈から取り出せば、この文自体は正しい。しかしながら改めて説明するまでもないが、アウベス選手のバナナを食べるという行為が世界中で支持・賞賛されたのは、アウベス選手が「私たちはみな同じ猿だ」という文意を発したからではなく、上記記事にあるように人種差別した者を軽くあしらい、人種差別の象徴であるバナナを飲み込んでしまったから、端的に言えば人種差別する者を笑いものにしたからである。アウベス選手がどのような意図でバナナを食べたかなどは差し当たりどうでもよい。さらにいえばバナナを投げたものがどのような意図をもって投げたかも差し当たりどうでもよい。これらの行いの連鎖(「バナバを投げる→バナナを食べる」)を、世界の人々は「人種差別的行い→人種差別に屈しない行い」として受けとっているという事実が重要なのだ。

ロマーリオ氏は、この記事を翻訳した人間が正しく訳しているならば、「私はバナナを食べて自分が猿だというつもりはない。残念ながらブラジルでも偽善がはびこっているがね」と述べている。より抽象化した言い方をするならば、「人間と猿の同一視は誤りだ。分類をなかったことにする・境界線を消し去ろうとするのは偽善である」ということになろうか。もしこの抽象化した言い方がロマーリオ氏のメッセージを適切に捉えているならば、やはりわからないのは、なぜこのような「分類をなかったことにする・境界線を消し去ろうとする」ことが「偽善」なのかである。それに、どう考えても前者(第一文)から後者(第二文)は導けないだろう。

人種差別に反対する人間のメッセージは基本的に「人種や肌の色などによって人々を分類し、差別するのは誤りだ(あるいは悪だ)」というものであろう。このメッセージに反対するならば、「人種や肌の色などによって人々を分類し、差別するのは正しい(あるいは善だ)」となる。どちらのメッセージを支持するにせよ「偽善」が入る余地はなさそうである。この場合の「偽善」とは何か?「偽善」という言葉を使用したいなら、まずは「善」とは何かを示した上で、どのような根拠をもってどのような意味で「偽」なのかを示して欲しい。

もしかしたら、思いっきり議論を飛躍させて、心身二元論的に「心の中では人種差別しているがとりあえず人種差別反対を表明すること」を「偽善」と呼んで批難しているのだろうか。だとすればこの場合、筆者が「偽善」の使用方法そのものを問題として取り上げることはない(ただし、議論の飛躍と心身二元論的な議論の仕方は問題あると思っている)。もしこの事態を「偽善」と呼ぶ者がいたとしたら、「人種差別は悪であり、表面上は人種差別に反対する(=つまり善を偽る)」という理解をしていることになる。つまり、この事態を「偽善」と呼ぶならば、その人は「人種差別は悪」であり、「人種差別に反対することは善である」という価値判断をしていることになる。筆者は「偽善」という言葉でこのような価値判断を示すこと自体には特に問題を感じない。ただ、筆者は「偽善」という言葉を軽々しく使用する人に不信感を持っていることは否めず、もっとねじ曲がった悪意のようなものを感じているのである。

本題からは逸れるが、一段落ほど追記しなければならない。それは以下のような可能性についてである。「人間と猿の同一視は誤りだ」は、この文章だけ読めば基本的に正しいのだが、ここで世界中の共感を得ているのは「人種や肌の色などによって人々を分類し、差別するのは誤りだ(あるいは悪だ)」というメッセージである。つまり「私たちはみな同じ猿だ」という表現は「私たちはみな同じ種kindsだ」というメッセージの言い換えと解さなければならない。文字通りの意味でとらえてしまったのでは、ここでどのようなメッセージが世界中で共有されているのかを理解していないことになる。「私はバナナを食べて自分が猿だというつもりはない」という表明は、この文脈においては「私たちはみな同じ種kindsだと主張するつもりはない」と解されたとしても、ロマーリオ氏は文句が言えないだろう。だが、「私はバナナを食べて自分が猿だというつもりはない」という表明を文字通りの意味で理解することはできる。つまり、ロマーリオ氏を擁護できる(しなければならない)可能性があるとするならば、彼自身が人種差別的な扱いをスペイン(奇しくもバルセロナに所属していた)滞在時に受けており、人前でバナナを食べることができないくらい深刻なダメージを受けているかもしれないということだ。そのような者にとって、バナナを食べることを他者、たとえば記者などから強制されたとしたら、苦痛以外の何ものでもないだろう。何か適当なことを言って公衆の面前でバナナを食べることを回避しようとすることは、それなりに合理的で擁護できる振る舞いであるように思える。

バンドワゴン効果bandwagon effect

有斐閣の「社会学小辞典」によれば、バンドワゴン効果bandwagon effectとは、ある意見が大多数の人に支持されているということだけで、その意見を受け入れる傾向があることをいいます。「勝ち馬にのる」「長いものには巻かれる」的な発想のもので、私は学部1年くらいのとき、投票行動の文脈でこれを習った記憶があります(ちなみにバンドワゴン効果ググると、現在ではマーケティング用語として紹介されることが多いようです)。匿名性のない選挙(小さな村の選挙などでしょうか?)では、論功行賞への期待や報復への恐れからこのような効果が働くということです。

 「ほんとかよ」

と思いました。確かに企業内での投票や人口が数十人の村長選挙くらいのレベルであればこのようなこともありうるかもしれませんが、実際問題として現代日本において匿名性のない選挙などというものはおおよそ想像し難く、論功行賞への期待や報復への恐れなどを考慮しなければならない選挙というものがよくわかりません。それに私はどちらかというと「判官贔屓」したくなる傾向があり、アンダードッグ効果の方が、まだ納得できました。ただ、「バンドワゴン効果」であれ「アンダードッグ効果」であれ、生じた現象にただラベルを貼り付けただけで、マスメディアの効果、とりわけ選挙報道の効果の説明としては何の説得力も感じません。これらの効果が生じる可能性条件などを整理するような議論だと、少しは生産性のあるものにはなりそうな気もしますが。

ただ、この度の某選挙戦をぼけっと眺めていると、バンドワゴン効果というものも、たしかにありうるかもと思うようになりました。ようはこういうことです。

現在のところ選挙では【A】候補が有力のようだ。私としては【B】候補に当選して欲しいが、【C】候補が当選するよりは【A】候補が当選したほうがまだマシに思える。【B】候補の票は伸び悩んでいるようだ。だったら【A】候補に投票してしまおう。

飛び抜けて強い候補が不在で、横並び的な群雄割拠の状態のとき、上述したような投票行動は合理のように思います。ここでみなさんは【A】、【B】、【C】に誰を当てはめるでしょうか。政治的な信念や政策の考え方により、【B】、【C】には人によっていろんな候補が当てはまると思うのですが、【A】に入るのは相対的にニュートラルな政治的主張をしており、なおかつTVや新聞などの選挙報道で有力だと伝えられた【A】候補だけです。つまり、上述したような合理的と思える投票行動をする人を投票者のモデルと考えた場合、政治的信念や政策の考え方の差異によらず、【A】に投票する人が増えるように思えるのです。

実際のところ、このような投票行動もバンドワゴン効果と呼ぶようです。①「論功行賞への期待や報復への恐れなどを考慮する投票行動」も、②「上述したようなそれなりに合理的と思える投票行動」も、選挙戦において「現在有力」と報道された候補者に投票するという結果だけみれば、確かに選挙報道によるバンドワゴン効果なのでしょう。ただ、①と②は随分と異なる投票行動に思えるので、結果だけを捉えて同じ選挙報道による「ワンドワゴン効果」とラベルを貼るのは未だに納得がいきませんが。

三角形の内角の和は本当に180°なのか?

大学院生時代、生活のために塾講師をしていたころの話である。ある数学の先生から「小学生のころ、三角形の内角の和は180°ってすんなりと理解することができましたか?」と質問された。実際にこの講師が小学生を教えるときにこの難問に突き当たっていたのかもしれない。これに対する私の回答は即答であった。

「はい、できました」

そしてなぜすんなり理解できたのか、同僚の先生に説明した。この三角形の内角の和を計算する授業のとき、生徒(筆者)たちは色紙数枚(古新聞だったかもしれない)と定規とハサミを持参することが義務付けられていた。先生が私たちに出した指示は、「いろんな三角形を3つ作り、その三角形を切り取ること」であり、次に出した指示が「ノートに直線を引くこと」、最後の指示が「三角形の全ての角を切り取り、引いた直線に沿って1つめの角を貼り付け、次に、その貼り付けた角の隣にピッタリ合うように次の角を貼り付け、最後に残った3つめの角を貼り付ける」というものだった。「3つの角を貼り付けると、あら不思議、3つの角は直線上にならびました」というオチ。小学生というのは面白がって、ものすごい鋭角や鈍角の三角形を作ったりするものだが、どんな歪な形でも、それが三角形である限り、3つの角は直線上に並ぶ(当たり前だけど)。もちろん直線というのは180°という角度を示すわけだから、「三角形の内角の和は180°」なんだと感動こそしたものの、疑いはしない。
今にして思うと、この教え方はどの小学校の先生でもやっていたのではないかと思うんだけど、地方(ちなみに筆者は仙台市出身)や時代(筆者は1975年生)によって違うのかしら?
「良い指導方法とはどのようなものか?」などというのは教育に携わる限り追究すべき問いなんだけど、もちろん一義的に答えはでない。ただ、「良い指導方法とはどのようなものか?」というものを考えるときに想い出すのが、この小学校時代の想い出でもある。この指導方法の優れていたところは、子どものころの筆者に「三角形の内角の和は本当に180°なのか?」と疑いを抱かせなかったこと。この問いは小学生には難問だと思うし、ここで立ち止まってしまっては先に行けない。この問いを真剣に考えるにしても小学生には(少なくとも小学生時代の筆者には)たぶん無理。先生も、この命題を覚えさせたかったというより、その先にあるもの、たとえば問題集にある問題を解かせるとか、そういう「問題の解き方・考え方」を教えたかったのではないかな。

なぜ「社会実験ではないか?」という陰謀説を唱えたくなったのか?

 なにかと話題になっている「退職手当条例改正」(改悪?)に伴う教員の早期退職問題について、(議論をしっかりおえていないが)大筋での理解をもとに、表題の件について話をする。

このニュースについて念のためひとつだけリンクを貼っておく。
http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/230125085.html

 「退職手当条例改正」により、退職金のもらえる金額が年度末までに勤めた場合と早期退職をした場合、合計では早期退職をしたほうが多い金額(70万〜100万くらい?)をもらえるらしいというニュースを聞いた時点で、「そりゃ早期に退職するだろ」ということと、「特に学校勤めの人はかわいそうだな」ということが、ほぼ同時に思いついた。そしてこの制度設計ミスの問題は、特に学校勤めをしていた早期退職者に対する風当たりが強くなり、即時に教員の道徳的・倫理的問題にすり替えられるだろうなとも思った。だれでもここまでは簡単に思いつくだろう。つまり、こんなに簡単にいろんなことが見通せる制度設計なのに「条例改正」に踏み込むということは、そういったことを予想したうえで、あえて「条例改正」に踏み込んだと言いたくなる。
 他方で、退職金(つまり公的資金)を管理運用する人間にとっては、たくさんの金額を逆に支払わなくてすむようなやり方を考えるだろう。実際この「条例改正」の趣旨は、「退職金を多く支払いたくない」ということである。年度末を待たない「条例改正」は、「クラス担任をしている教員が早期退職を申し出にくいだろう」ということも想像に難くない。いってみればこうした教員に期待される道徳的倫理的態度によって生じる心理作用を利用し、早期退職を踏みとどまらせ、「条約改正」の狙い通り、支払うべき退職金を少しでも安くあげる狙いがあったのではないか。
 つまりは、「教員の道徳的倫理的態度はお金で買えるのか?」ということを、誰かがためしたかったのではないかと言いたくなった。これが筆者のいう陰謀説である。ちなみに筆者はここで「陰謀」という言葉を、「誰かを貶めたり苦しめたりすることになったとしても、意図的にしかしこっそりと謀をすること」くらいの意味で使っている。
 ことわっておくが、基本的に筆者は陰謀説というものが好きではない。扱うのも聞かされるのも苦手である。もうひとつ言えば、これによって犯人探しをしたいわけでもない。筆者が問いたいのは、「(陰謀説が苦手な)筆者がなぜ陰謀説を唱えたくなったか?」である。
 口説いようだが、この問題は制度設計ミス以外のなにものでもないと思っている。このような「条約改正」によって、「早期退職するか年度末まで勤めるか」という選択に苦しむ学校勤めの人びと(だけでもないだろうけど)が出てくるのは、誰の目にでも明らかである。百歩譲って設計時点ではこのようなことに気づかなかったとしても、運用してみれば教員の早期退職が「問題」になったことは明らかだ。
 さて、ここで常識的に考えたい。人びとが「明らかなミス」をしたとき、なにをするのだろうか。期待されることは、「謝罪」や「修正・修復・訂正」が後続することではないか。逆に「明らかなミス」をしているにもかかわらず、「謝罪」や「修正・修復・訂正」が続かなければ、人びとは「ミスをした張本人がミスであることに気づいていないのかな」と思うか、「わざとやった」と思うかのどちらかであろう。
 前者であるが、この可能性はなさそうである。リンク先に「文科省は、これらの結果を全国の教育委員会に通知するとともに、退職者が出た場合は、児童生徒への教育活動などに支障が生じないよう、代わりの教職員の確保や保護者らへの説明など適切な対応をするよう求めました」とある。つまり、その妥当性はどうであれ、何かしらの対応を講じているということは、そこには対応しなければならないトラブルがあるということを文科省はわかっているのだ。ここで、この対応の妥当性についてちょっとだけ考えてみよう。この文科省の対応は、上記で言うところの「修正・修復・訂正」に該当しそうであるが、妥当な「修正・修復・訂正」ではない。ここでは、「早期退職者が年度末まで何らかの形で学校にいることができる策を講じる」か、「年度末まで学校に勤めても、退職金が早期退職者と同額程度の補填」がされなければ、妥当な「修正・修復・訂正」にはならない。退職金が条例によって操作されているいじょう、文科省には後者の対応はできそうにない。文科省にできそうなのは前者であるが、ご丁寧に「『代わりの』教職員の確保」と書いてある。そしてあえて書くが、長年勤めた教員をこのような問題によって苦しめてしまったことに対する「謝罪」など、だれからも全くない。
 したがって、後者の「わざとやった」という直観が残されてしまうのである。

つまり、

Q「(陰謀説が苦手な)筆者がなぜ陰謀説を唱えたくなったか?」という問いに対しては、

A「明らかな制度設計ミスに対するあるべき『謝罪』や『修正・修復・訂正』がなく、したがって『教員の道徳的倫理的態度はお金で買えるのか?』という社会実験を、誰かが『わざとやった』と直観したから」

という回答になる。

EMCA研究者が「がっかり」したときに書いた日記

某所よりある連絡を受けて、たいへん「がっかり」している。世の中には査読者のコメントを受けて、投稿を取り下げる方がいるらしいが、私は査読を受けて投稿を取り下げたことはない。基本的にリジェクトされるときは、査読者との戦いに敗れたときである。したがって、一発リジェクトされたり、投稿を取り下げるわけではなく、けっこうな労力をつぎ込んだうえで成果が上がらないということを経験することになるので、「がっかり」感もひとしおである。ちなみに今回のリジェクトの理由は「査読コメントを受けて適切に修正されており、EMの論文としてはいいのかもしれないが社会学の論文として『面白くない』」とのことであった。この日記はこの「がっかり」感を癒すための日記である。

さて、ふとしたことから「インターナショナルナーシングレビュー」の2008年10月号に掲載されている西阪先生の文章を読んだ。内容的には『女性医療の会話分析』の7章の一部を、看護師さんを読者に想定して書き直したものといってよさそうである。コンパクトになっているぶん論点はさらに明確で、「自分もこれくらい説得的に書ければ掲載されたかもしれないなあ」などと思っていた。この日記の趣旨からは外れるが、西阪先生の論文を読むとき、「怖い」と思うことがある。以前はただただ感動して憧れるばかりであったが、最近は「怖い」のである。ベッカーの『アートワールド』を翻訳していたとき、ブルーマーの『シンボリック相互作用論』の訳者で『アートワールド』の共訳者でもある後藤先生が「ベッカーに直接会いにいきたいんだけど、会うのが怖いんだよね」という主旨のことをおっしゃっていた。いわく、「頭がよすぎて怖い」ということだ。いわゆる「畏怖の念」というものなんだろうけど、この「畏怖の念」というものを最近は西阪先生(と先生のテクスト)に感じている。

それはそうと、私が癒しを感じたのは、西阪先生の文章に対する櫻井利江先生の以下のコメント(さらにいえばこの二人の相互行為)である。長いがそのまま引用する。

従来の看護研究で「会話」のテキストを扱おうとする場合、多くは、その「意味」であったり「解釈」に焦点があてられる。しかし、「会話分析」によって導かれる秩序、そこからの概念化の豊かさはどうだろう(たとえばここでは「防御性」が提示されている)。会話の中で発せられる「ん」や「でも」「別に」などに、これだけの豊かな問題提示を読み込み、その“構造的条件”を我々は見抜けるだろうか。これこそが看護実践を記述するに必要な研究的視点であろうと私は考える。
看護実践における日常的なコミュニケーションの中では、非言語的なものも多く含めて多くのものを受け取り、それに対して返しているはずである。問題は、そのコミュニケーションが「当たり前」になりすぎていると、かえって意識されにくいことにある。まして「記述する」に足る分析からは遠のいていく。ただ「こう思われる」ということを述べればよいという話ではない。その相互行為を成り立たせているものと、その秩序を明示していることを再確認してほしい。我々がインタラクションをうまく記述できないのは、発せられる「言葉」に依拠しすぎているからではないか。うまく言葉として引き出せないと(!)データにならないと思い込みすぎてはいないだろうか。
患者が語り始めるその秩序には、看護師が、わざと視線をはずす、という行為があるかもしれない。患者が、右に若干傾いた姿勢で顔をしかめた瞬間、看護師が即座にアセスメントし、確認するために触診を始めているかもしれない。これらが記述され、看護実践を表現するに足る概念が精錬されてくれば、看護学が目に見える形で伝達され、知の継承に大きく寄与するものと私は信じて疑わない。
(「インターナショナルナーシングレビュー」2008年10月号 pp.48-9)

もし私が書いたものにこのようなコメントが寄せられたら、私はたぶん(文字通り)泣いて喜ぶ。もっとも、私は自分の書いたものによって医療従事者たちを説得する自信がまだなく、「がっかり」してばかりもいられないのである。

テクノソサエティの現在〈3〉女性医療の会話分析 (ソキウス研究叢書)

テクノソサエティの現在〈3〉女性医療の会話分析 (ソキウス研究叢書)

シンボリック相互作用論―パースペクティヴと方法 (Keisoコミュニケーション)

シンボリック相互作用論―パースペクティヴと方法 (Keisoコミュニケーション)

Art Worlds

Art Worlds

ラウンドテーブルディスカッションのお知らせ[2012.5.20.]

第38回 日本保健医療社会学会大会におけるラウンドテーブルディスカッション
「複数の医療従事者による協働実践を記述する エスノメソドロジー・会話分析の立場から」

日 時  平成24年5月20日(日)14:30〜16:30
場 所  神戸市看護大学 会場5(W31.32教室)

話題提供者:川島理恵・池谷のぞみ・前田泰樹
指定討論者:樫田美雄・西村ユミ
企画者・司会者:海老田

*参加費・会場へのアクセスなどその他詳細は、第38回 日本保健医療社会学会大会HPをご覧ください。
http://jhms38.umin.ne.jp/index.html
*事前の連絡は不要です。
*本RTDについてのお問い合わせは海老田(ebitaあっとn-seiryo.ac.jp)までお願いします。

「人びとの行為や活動」と「人びとが読み取る意味」を因果関係で説明することの難しさ

 Twitter上である調査結果が流れてきた。それは「ITツールで毎日コミュニケーションする家族の方がその家族とのコミュニケーションの満足度は高い」というものだ。詳しくは下記リンク先を参照していただきたい。

http://news.mynavi.jp/news/2012/02/29/108/index.html

 この調査報告を読むと、「ITツールで毎日コミュニケーションするかどうか」が独立変数として扱われ、「家族とのコミュニケーションに満足しているかどうか」が従属変数とされているようだ。話をわかりやすくするために、独立変数を原因、従属変数を結果と置きかえてみよう。この調査結果では、「ITツールで毎日コミュニケーションする」ことが原因で「家族とのコミュニケーションに満足する」ことが結果、あるいは逆に「ITツールで毎日コミュニケーションしていない」と結果として「家族とのコミュニケーションの満足度は下がる」ということだ。
 これに対し、ある反論が寄せられていた。「因果関係が逆である」というのがその趣旨である。つまり、「家族とのコミュニケーションに満足」しているから「ITツールで毎日コミュニケーションする」、あるいは、「家族とのコミュニケーションの満足度」が低いから「ITツールで毎日コミュニケーションしていない」というものだ。
 これはある意味正しい反論であるように思われる。仲が悪ければ最初から「ITツールで毎日コミュニケーションする」ことなんてしないだろう。しかし、因果関係を逆転させたからといって問題は解決するだろうか。いやいや、「うちの場合、ITツールで毎日コミュニケーションするようになったら、家族間が仲良くなったんですよ」と、再反論だって可能ではないだろうか。
 因果関係を満足させるためには3つの条件が必要である。(詳しくは高根1979;南2010)

1.時間的順序…原因(独立変数)が結果(従属変数)に必ず先行する。
2.共変…原因(独立変数)が変化すれば必ず結果(従属変数)も変化する。
3.変数の統制…原因(独立変数)以外の結果(従属変数)に影響する可能性のある変数が統制されている。

たとえば心理学などで行われる実験は、この3つの条件が満たされるようにセッティングされる。
 さて、上記の調査の場合、多様な方向から批判は可能であろうが、とりわけ因果関係を満足させる1の条件に絞って話を進めよう。私たちは「ITツールで毎日コミュニケーションする」ような家族を、「仲がよい家族だな〜」と感じるのではないだろうか。逆に何年も「家族と連絡をとっていない」といわれると、「…そうですか(複雑な事情がおありなんですね)」という態度を示すことになろう。そしてこのような家族を「仲がよい家族だな〜」とは思わない。あるいは、「仲がよい家族」というものを具体的に想像すると、離れていても「毎日連絡をとる」ような家族であったり、逆に「仲が悪い家族」というと、「何年も連絡をとっていない」ような関係を想像してしまう。(上記の調査の場合、「家族とのコミュニケーションの満足度」という抽象度の高い言い方を(おそらくあえて)しているため、「仲がよい/わるい」という印象に還元してしまうのは問題があるかもしれないが、「家族とのコミュニケーションの満足度」と「仲がよい/わるい」というのはそれなりに結びつきが強そうなので、まあよいとしよう。)
 そうなると、いよいよこの調査における「因果関係の時間的順序」という問題が解決不可能に思われてくる。念のため強調しておくが、原因は結果に対して時間的に必ず先行していなければならない。そうでなければ因果関係が成立しているとはいえない。他方で、上記調査からもわかるように、「ITツールで毎日コミュニケーションする」というある種の行為や活動と、「家族とのコミュニケーションの満足度」のようなある種の意味付与は、相互に反映するものであって、「どちらが原因として先行するのか」を厳密に決定するのは難しい(というかおそらく不可能)。したがって、社会調査というもので「人びとの行為や活動」と「人びとが読み取る意味」を因果関係で説明することは、そうとう難しかろうと思うのだ。
 さて、それではどうしたものか。そもそも、「毎日連絡をとる」ことと「家族関係のよしあし」の関係を考えること自体、意味がないのであろうか。この関係についてもう少しだけ考えてみよう。まず、「毎日連絡をとらない」からといって「家族関係が悪い」とは限らない。私ごとで恐縮だが、私は父母と離れて300キロ弱離れて生活しており、1、2カ月は平気で連絡をとらないこともあるが、だからといって「家族関係が悪い」とは思っていない。むしろ良好ではないかと思っている(父母がどう思っているかはしらない)。他方で気になるのは、このような関係の記述、たとえば「『毎日連絡をとらない』が『家族関係は良好だ』」と記述するときの「が」という、逆説を示す接続助詞である。ここには順接や原因・理由を示す接続助詞を代入しづらい感覚がある。つまり、「毎日連絡をとる」ことと「家族関係がよい」、あるいは「毎日連絡をとらない」ことと「家族関係が悪いこと」には、因果関係というよりもむしろ、ある種の常識的な結びつきがあるのだ。「常識的な結びつきがある」ことは、ある一つの事実では覆らない。たとえば先ほどの私の例のように、「毎日連絡をとらない」が「家族関係は良好」である例(あるいは逆の例)はいくらでも挙げられよう。しかし、だからといって「『毎日連絡をとらない』ので『仲は良い』」という記述への抵抗感は残る。したがって「毎日連絡をとる」ことと「家族関係がよい」ことには常識的な結びつきがあるという主張に対して、「毎日連絡はとらないけど家族の仲はいいですよ」という主張をぶつけることは、一見反論をしているようでその効果はほとんどないのである。あるいは、こうした一見反論をしているようにみえる主張が「一見して反論をしている」ようにみえるとすれば、この常識的な結びつきというものが、一見して因果関係としての結びつきと区別がつかないときか、常識的な結びつきそのものが弱まっているときであろう。

創造の方法学 (講談社現代新書)

創造の方法学 (講談社現代新書)

エスノメソドロジーを学ぶ人のために

エスノメソドロジーを学ぶ人のために